近松が12〜15歳のころ、どういう理由かは不明ですが、父が浪人となり、一家をあげて京都に移り住みます。近松が京都時代、どのような生活をしていたか、資料はほとんどありませんが、確かなことが二つだけあります。
一つは、19歳の時、俳人・山岡元隣(詳しくはこちらへ)という人の俳諧文集に、父らとともに杉森信盛の名で
「しら雲や花なき山の恥かくし」
の句を載せ、家族一緒に俳諧を楽しんでいたこと。
もう一つは20歳前に公家の一人、一条禅閤恵観(いちじょう ぜんこう えかん=1605-1672)に奉公していたことです。
恵観は、 本名が昭良。後陽成天皇の第9皇子で、後水尾天皇の弟。摂政・関白をつとめたほどの高い身分の公家で、教養も深く、歌人・茶人としても著名でした。
昭和になって発見された「杉森家系図」の、近松の本名の横に「仕一条禅閤恵観」と添え書きされているのを見ても、まず一条家に仕えたことは間違いないでしょう。
また、恵観は西賀茂川辺に建てた別荘の杉戸に、操り人形の絵を描かせるほどの人形浄瑠璃好きでした。
しかし恵観は、近松が20歳の寛文12年(1672)に死去しており、その後、近松は正親町(おおぎまち)家、阿野家など複数の公家に仕えて、雑用の下働きをしていたと推定されます。
●浄瑠璃作りを手伝う
江戸時代の随筆・神沢杜口の「翁草(おきなぐさ)」に、浄瑠璃好きの公家・正親町公通(おおぎまち きんみち)が当時、京都で活躍中の浄瑠璃語り・宇治嘉太夫(のちの加賀掾)に、新浄瑠璃を戯れに作ってやった際、仕えていた近松が
「その使いをして嘉太夫方へ常に往反して、その身も筆才あるのに任せて、この作のことを手伝い、次第にこれに遊びて〜」
という話を載せています。
正親町公通は、近松と同じ年という若さで、狂歌など文芸面で造詣が深かく、趣味も多い人であったというから、浄瑠璃にも手を染めたのであろう。また、江戸時代の「茶話雑談」という本は「阿野家に仕え、雑掌たり」と書いています。
これらの話は真偽のほどが分かりませんが、公家社会に浄瑠璃が入り込んでいたことは確かで、こうした公家奉公を通じて、近松は古典や仏教を学び、浄瑠璃に触れていったと考えていいでしょう。
京の都では、慶長(1600年代)の初め、出雲の阿国のカブキ踊りが現われて以来、四条河原を中心に芸能の興行が行われていました。
近松が20歳代当時の延宝年間(1670年代)には、四条河原に7つ以上の櫓(芝居小屋)が立ち並び、カブキや人形浄瑠璃、見世物が盛んに上演されていました。
上の絵は、そのころに描かれた四条河原の操り人形芝居の図巻(東京都・サントリー美術館蔵)の一部です。人形芝居の木戸口に集まってきた人々、舞台を見やる観客の姿が克明に描かれていますが、武士もおれば町人もいて、みな着飾っています。華やかな雰囲気です。
当時、芝居の世界は遊里と並んで「二大悪所」といわれて、蔑まれる風潮がありましたが、独特の活気と異様な雰囲気が漂っていたことは間違いありません。
強い刺激を求めて闊歩する若者も多かったのです。公家奉公の近松も、そうした若者の1人だったと見ていいでしょう。次第に、芸能の世界に深入りしていきます。
浄瑠璃語り・宇治嘉太夫(1635-1711)が、この四条河原に宇治座の櫓を上げますのが延宝3年(1675)、41歳の時。ほどなく近松は、嘉太夫のもとへ作者見習いとして飛び込みます。25歳前後でしょう。
ここで、近松の駈け出し時代に強い影響を与えた嘉太夫に、少し触れておきましょう。和歌山市宇治の紙商人の子に生まれ、初めは能を習い、能役者をめざしましたが、門閥・家柄が厳しい能楽では実力を出せないとあきらめて、浄瑠璃の道に入りました。
地方の興行で実力を養ったうえ、待望の京都に上って「宇治嘉太夫」と名乗り、もう一人の実力者・山本角太夫と張り合う形で、京の浄瑠璃界をリードしたのです。
彼の語り口は、細かい節くばりで美しく「よはよは、たよたよ」つまり繊細優雅でした。延宝5年に浄瑠璃太夫の最高の名誉である「掾(じょう)」号を許され「宇治加賀掾好澄」となり、名声を誇ったのです。
彼は「浄るりに師匠なし。只謡を親と心得べし」と教え、謡曲の節付け記号を借りて浄瑠璃の曲の正調を定めたり、浄瑠璃独特の記号も作りました。
また、あらゆる音曲の特色を自分の語り物に生かして、低俗だった古浄瑠璃に優雅さを与えた革新者の一人でもありました。こうした浄瑠璃界の実力者を、近松が頼ったのもうなずけます。
●身分の低い芸能の世界
近松は、嘉太夫の助けを得て、20歳後半には早くも浄瑠璃作品を書いたようですが、武家の出身である近松が非常に身分の低い芸能の世界に飛び込むには、よほどの覚悟がなければできないことでした。
当時の芸能者は、「河原者」と呼ばれて人々から軽蔑され、普通の扱いさえ受けていなかったのです。武家の出から「河原者」になるのは、すべての誇り、面目を捨て去ることでした。
確かに、武家の2男以下は生きづらい世の中で、養子になるか、寄食の身に耐えるか、町民に身を落して商売するかの道ぐらいしかなかったことは確かです。
武家の出身者で俳優になった例も少数ながらありましたが、近松はよくぞ決断したものです。
近松研究家の信多純一さんは
「彼のうちに燃え上がる劇への情熱以外の何物でもなかったと思う。そうして浄瑠璃や歌舞伎の作者というものに、彼なりの矜持(きょうじ)と抱負があったに違いありません」(「近松の世界」)
と書いています。
浄瑠璃作者への転身は、若気の情熱と変身願望以外に考えられません。
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