その29. 掲載日2007.1.10
CDで、加藤恕彦(ひろひこ)の、モーツァルト「フルート協奏曲 ト長調」を聴いている。
1937年生まれの加藤は、小学生の頃、林リリ子にフルートの手ほどきを受け、毎日音楽コンクール(日本音楽コンクールの前身)に入賞、桐朋のオーケストラで訓練を受けたのち渡仏、国立音楽院を首席で卒業した。
1961年にモンテ・カルロ国立歌劇場オーケストラに入団、63年に常任指揮者ルイ・フレモーの指揮で演奏したときの記録が、このプライヴェートCDだ。
5月11日のこの演奏の三ヶ月のち、加藤は妻のマーガレット・キング(音楽院で同期のオーボエ奏者)とアルプスに登山、消息を絶ってしまう。26歳だった。
峰岸壮一とふたり、リリ子の最初の生徒であったという思い入れ抜きに、加藤は戦後はじめて誕生した天才的フルート奏者であったと、林は思う。
早すぎる、そして予期できない死のために、加藤は、よく準備されたレコーディングの機会をもてなかった。
死後、友人たちの手によってLP,あるいはCD化されたのは、放送番組用の、でなければ記録用にとられた演奏である。
15年か20年もまえだったろうか、NHK放送番組をソースとする加藤のLPの発売にあたって解説をたのまれたことがあった。
林のもとへ送られたきたカセットテープは、ヒンデミットの「フルートソナタ 変ロ長調」で、フルートは加藤、ピアノは竹前聡子とメモがついていた。竹前は旧知の、指揮もする同僚である。
さっそく聴きはじめた。ところが、だ。曲が進むにつれて、なんだかヘンな、視覚でいうなら、例のデ・ジャ・ヴェ、既視感というやつにおそわれはじめた。つまり、ピアノの弾きかたに聴きおぼえがあるのだ。
部分部分における音色のえらびかた、背景にまわふべきメロディーのかすませかた、独奏者を挑発して勢いをつけるための、譜にはそうは書いていないが付け足されたスタッカートやアクセント。そして、かならず見つかる「弾きにくい」箇所を、音楽性を乱さずに回避する運転術。弾くひとによって異なるはずの、こういった表現が、この録音は、あまりにも「林」風なのである。
おかしいなあ、と思って、さいしょからもういちど聴きなおしてみた。
まちがいない。これはオレだ。そこで、レコード会社に電話をして、これこれこうだと思うから、調べてくださいとたのんだ。
何日か経って返事あり、そのとおりでした。なんで分かったかと尋ねたら、新聞のラジオ番組表を調べたのだそうだ。TVもない頃の新聞のラジオ欄は、クラシック番組の駆け出しの新人の曲目も、詳しく書いてくれていて、そこにピアノ林光と書いてあったのだそうだ。
もしもあのとき、レコード会社が林に解説の依頼をしなかったら、加藤のヒンデミットのピアノを弾いたのは竹前だという記録が永久に(すくなくとも地球滅亡までは)残ることになったにちがいない。