浜松市水窪にある
高根城は、水窪川と河内川が合流し、水窪中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろす地にあります。天下獲りを夢見た武田信玄、最初で最後の上洛ルートです。
元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦の直前、高根城を経由した後、
犬居城(春野町)で信玄が兵を二分し、
二俣城(天竜)攻撃隊と、天野景貫の案内で袋井・見付に進撃する隊に分かれたとき、対する家康は、浜松を出陣。三箇野川(袋井市)の戦いで武田軍に敗れ、浜松に向かって敗走。
一方、武田信玄は二俣城を落城させ、さらに西へ進撃を続けました。信玄は
浜松城の家康を野戦におびき出すため、あえて浜松城を無視して行軍を続け、家康を挑発。
当時31歳だった家康は、武門の意地を貫くために三方ヶ原に出陣し、信玄の行く手を阻んだのです。世に言う三方ヶ原の合戦。武田軍約2万5千に対し、徳川軍8千は織田3千の援軍を加えても約1万1千。兵力差はもちろんのこと、戦国最強とも言われた武田軍相手では、勝ち目はなく大敗を喫し、浜松城へ逃げ帰ったのです。
命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康は馬上で脱糞していたといいます。この敗戦を自らの戒めとして絵師を呼び寄せ肖像画を描かせました。この肖像画はかなり有名ですね。
からくも、家康は浜松城下近くの
犀ヶ崖にて、武田軍を追い払うことに成功しました。一方、武田勢は余勢を駆って遠江・三河の諸城を攻撃するものの大将の信玄が発病したために上洛は中止され、帰還中に信玄は病死してしまいました。