(2008.12.10UP)

 

12月8日発行の東京中日スポーツ新聞「緊急連載 ホンダショック」第3回に原稿を書かせていただいた。
当HP読者で読んでない方もいるとおもうので、許可を得て掲載することにした。
なお、文末近くに「撤退会見のあった12月5日、本社1階のHONDAウエルカムプラザ青山は午後3時にクローズドされた」云々……に続く想像は筆者のうがち過ぎで、ホンダ広報部から「5日の3時からウエルカムプラザをクローズしたのは、前々から決まっていた夕方の安全運転イベントの対応のためで、F1とは、関係ありません」とのご指摘をいただいた。
李下に冠を正さず…とはこのようなことを云うのかと苦笑したが、ともあれ当方の勘違いであった。

写真は2006年ハンガリーGP決勝後のものである。


 サドンデス……今回のホンダF1撤退のニュースはファンにとって、まさに寝耳に水だった。それはホンダ本体にとっても例外ではなかったようで、記者会見で福井威夫社長が語ったように、少なくとも9月時点では撤退は考えてなかった。
 それだけに11月に入ってからの収支環境の加速度的減速が想像を絶したということで、ホンダの株価は9月に較べて半減したとも聞く。可及的速やかにビジネスの見直しを図らなければならなかっただろうことは、経済にうとい筆者にもなんとなく理解はできる。
 時ここにいたっては何を言っても死児の齢を数えることに等しいけれど、もう1年F1活動を続けることなど、必ずしもできなくはなかったはず。それでも撤退の形で終止符を打ったところに、福井社長の大英断の意味がある。想像するに、社内にF1活動継続の意見も少なくはなかっただろう。それをF1推進派の福井社長が自ら先頭に立ってあえて大ナタをふるったのだとすれば、社内外にこの収支環境の悪化がいかに深刻かをアピールする、人心引き締め効果を計算に入れてのことだったのではないか。福井社長は常々、モータースポーツはホンダのモーターのようなものといい、F1はその頂点と位置づけていた。それをバッサリ斬って捨てたことは、ホンダがまさに新しい時代に踏み出したことを印象づけるエポックメイキングな出来事だった。
 それはそうと、F1の現場で取材するひとりとしてホンダの撤退はやはり虚しい。来年の開幕戦でホンダがいないパドック。あふれるほどのホンダ・ファンが居るのに肝心のチームが不在の鈴鹿の日本GPなど、想像したくもないシーンだ。
 いったいなぜこんな不甲斐ないことになったのか。勝負事に「もし、たら、れば……」は禁句だが、ホンダの第3期活動はどこか歪んだ形でスタートし、それを直すのに時間がかかり過ぎた。それが成績不振の大きな原因であり、仮にチャンピオンは獲れなかったにしても何勝かしていればもっとスマートな退場の仕方もできたのではないか。ホンダは当初「チーム運営には関らない」としながら、2006年に100%自チームとして独立。これがもっと早い時点で行われていたら、あるいは逆に第2期のように最初からインディペンデント・チームにエンジンと技術を提供するコラボレーションの形を作っていれば、こんな結末はなかったように思う。
 11月24日の「ファン感謝デー」(もてぎ)で、12月1日付けで2輪部門に異動することになったHRF1中本修平デピュティマネージングディレクター(当時)にインタビューした際、中本氏は「栃木とイギリスの6000マイルの距離は遠い」としみじみ漏らしていた。ホンダがHRF1を完全にコントロールすることがいかに困難かを象徴するコメントとして受け取ったが、その時点ではまさか撤退するとは思ってもみなかった。
 撤退会見のあった12月5日、ホンダ青山本社1階のウエルカムプラザは午後3時にクローズドされた。撤退を知った熱狂的ホンダ・ファンに抗議行動されるのを嫌ったからかどうかはしらないが、今回の一件でホンダ・ファンのみならず多くのファンのF1熱がスッと冷めたことは疑うべくもない。ホンダF1撤退は、自動車の世紀が新しい時代を迎えたことを告げる象徴的な出来事だった。 


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