犯罪は決してゆるさない―
あなたのことは決してわすれない―
ここに灯る愛があるから―

夫婦とやんちゃざかりの3歳の長男と生まれて8日目の次男
2005年2月26日は、そんな家族4人のいつもと変わらない一日のはずでした
26日の夕刻、一本の電話がはいるまでは・・・
ちょうど子供たちを寝かしつけたところでした
「カメにエサやらなきゃ」
とそんなことを考えていたときでした
Li・Li・Li・Li・・・・
主人が病院に運ばれたらしい、ひき逃げにあったらしい、最初はそんなはなしでした
子守をいかせるからすぐ病院に来てほしい
と会社の人からでした
気が動転し、それでも「少しの怪我ですみますように」祈りながら―
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2005年2月26日午後8時40分ごろ、主人( 当時47歳・二児の父)の会社の人から、「安里(那覇市)で轢き逃げ事故があり、被害者の身元が分からないが、ご主人に似ているらしい。ご主人は今在宅ですか?」と1回目の電話連絡がありました。あいにく留守だったので「携帯に連絡して無事を確認してください」と言われました。
突然のことに気が動転して、急いで携帯に2回ほど電話したのですが、電話にはでません。
それからしばらくして午後9時20分ごろ別の社員から2度目の電話がありました。
「今、病院だけど、もう心肺停止の状態だから。今から迎えにいくから、一緒に病院に来てくれ」と言われました。
もう、何が何だか分からなくなり、ウロウロ部屋を歩き回って「とにかく実家に電話をしておこう」と思いました。でもあまりの突然の出来事に混乱して涙が止まりません。
それから15分ほどで迎えが来ましたが、その15分が本当に長く感じ、すぐにでも飛んでいきたい衝動にかられました。
でも、3歳の長男と生まれてまだ8日目の次男はもう寝ていたので、一人で出かけることも出来ず、とにかく主人でない事を祈りながら迎えが来るのを待っていました。
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2005年2月26日―証言による事件の様子―
(文中‘A’=犯人:那覇駐屯地陸上自衛隊員幹部:事件当時26歳
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当日、主人(被害者)はパチンコに出かけていた。
かなり勝って、午後7時半ごろ、換金所に向かう。
同日、同店で遊戯していたA(犯人)は負けが込み、所持金2000円しか残らない状態であった。(事件当時、Aは450〜500万円ほどの消費者金融からの借金があった)
そこで、同時刻、主人が換金所に向かうのを見つけ、後をつけ始める。
当日は小雨交じりの日で、夕刻は雨が上がり、両名とも折りたたんだ傘を所持していた。
換金所で数万円を換金した主人を見て、Aは「強盗をしよう」とたくらむ。
Aは、国際どおり(那覇市繁華街)を数メートル後ろから10分ほど後をつける。
途中、ブロック片を拾い、隠し持ち、さらに後をつける。
主人が路地に入ったところで、Aは、主人の後ろから力任せに頭頂部をブロック片で殴る。
脳震盪は起こしたものの、主人は倒れることなく、ふらふらになりながら、大声を出す。
「何をする。警察に通報してやるぞ」といいながら、傘でAを追い払うようなしぐさをする。
その現場をちょうど通りかかった目撃者が、「Aが仁王立ちにになり、ふらふらしている被害者の正面にに傘を片手にもって立っていた」と証言。
目撃者が少し目をそらし、次に現場に目をやるとすでに主人が倒れており、Aは路地の反対側に向かって歩き始めていたところであったという。
その間、何があったのか。
Aは持っていた傘を両手でしっかりと持ち、主人の顔面めがけて突き刺す。
傘の先端は、主人の右鼻から入り、脳まで達する傷を負わせる。脳幹内骨粉砕骨折。
Aは、倒れ掛かってきた主人の腹を足で蹴り上げる。その時主人が大量の吐血をし、Aの衣服や靴に付着する。
司法解剖の医師によると、刺された瞬時に大量の出血があったであろうとのこと。脳内の血が一気に気道に入り、それを吸い込んで、肺と胃は大量の血が溜まっていた。死因は窒息死。
その後、うつぶせに倒れた主人のズボン後ろのポケットに入った財布を取ろうと、力任せにポケットごと剥ぎ取り、逃走。
その後、付近を通りかかった人が119番で「血を流して倒れている人がいる」と通報し、病院に運ばれる。その時はすでに、心肺停止の状態であったらしい。
当初、原因不明、轢き逃げ説が浮上。警察の捜査が入る。身元不明で主人の所持していた手帳から親類や会社に電話が入る。親類、会社のものが病院に呼ばれ、身元確認。それから、家族に電話がはいる。
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| 2005年 | 2月 | 26日 | 事件発生 |
| 2005年 | 5月 | 2日 | 犯人逮捕 |
| 2005年 | 5月 | 17日 | 検察庁担当検事と初接見 |
| 2005年 | 7月 | 28日 | 検察庁にて意見聴取 |
| 2005年 | 8月 | 25日 | 第1回刑事公判(那覇地方裁判所)13:30〜16:00 冒頭陳述 他 |
| 2005年 | 9月 | 6日 | 第2回刑事公判(同)13:20〜16:00 |
| 2005年 | 10月 | 4日 | 第3回刑事公判(同)13:20〜16:30 |
| 2005年 | 10月 | 27日 | 第4回刑事公判(同)10:00〜12:00 |
| 2005年 | 11月 | 24日 | 第5回刑事公判(同)13:15〜16:50 目撃者証言 |
| 2005年 | 12月 | 19日 | 第6回刑事公判(同)13:20〜16:30 簡易精神鑑定医師証言 |
| 2006年 | 1月 | 24日 | 第7回刑事公判(同)10:00〜12:00 |
| 2006年 | 2月 | 26日 | 一年忌 |
| 2006年 | 3月 | 2日 | 第8回刑事公判(同)10:00〜12:00 意見陳述・求刑(無期懲役) 他 |
| 2006年 | 3月 | 29日 | 第9回最終刑事公判(同)9:40〜10:00 判決 |
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(文中‘この男’=犯人:那覇駐屯地陸上自衛隊員幹部:事件当時26歳)
2006年3月2日 第8回刑事裁判公判 陳述者:被害者妻
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いつも私たち家族のそばにてくれた主人が、あの日を境に帰ってこなくなりました。私たち家族の側から姿を消しました。家族の淋しさ、悲しみ、辛さ、怒り、そして、主人の悔しさ、悲しみはとてもこの場だけで、言い尽くせるものではないと思っていますが、今日は家族を代表してその気持ちを訴えたいと思います。
1、家族
2005年の2月26日に主人が事件に巻き込まれるまで、私たち家族は、主人と私、当時3歳だった長男、そして事件のわずか8日前に産まれたばかりの次男の、とても幸せな家族でした。
主人がいなくなって、この一年いろいろな行事をこなしてきました。4月、長男の幼稚園の入園式、5月、私たち夫婦の結婚十周年、子供の日、6月、次男の百日祝い、父の日、7月、毎年祝ってくれた私の誕生日、8月、主人の誕生日、幼稚園の海水浴、9月は幼稚園の授業参観やバザー、10月、秋の運動会、11月、長男の誕生日、そして、一番辛かったのが12月、クリスマスと大晦日、1月のお正月でした。主人のいない家にいるのさえ辛く、寂しくとても嫌でした。いろいろな行事の度に、主人が一緒じゃないことを思い知らされてきました。そして、先日次男は1歳になりました。「大きくなったな」なんて、一緒に喜ぶこともなく、今では写真の中の主人に話し掛けることしかできません。
私たち家族にとって、主人は尊敬でき、信頼でき、大切で、大好きな、かけがえのない人だったんです。家族といるときの主人は、とても率直で、優しくて愛情深い人で、とても涙もろい人でした。泣き虫の長男のことを「泣き虫じゃなくて感受性が豊かなんだよ。きっと自分に似たんだなぁ」なんて、よく、ふざけて言ったりしていました。
たくさんの思い出の中で、よく思い出すのは、長男が初めて「お父さん」と言葉を発した時の嬉しそうに笑った主人の顔です。
長男が産まれたとき、抱っこもこわごわという感じで、初めての育児は何をするにもおっかなびっくりだったと思います。そのせいか、あまり嬉しそうにしているのを見たことがありませんでした。
でも長男が初めて「お父さん」と言った時、私が「今、お父さんって言ったよね?」というと「そうか?」といいながらにやっと照れくさそうに、でもとても嬉そうに笑いました。その笑顔は今でもはっきり思い出すことが出来ます。
子供が大きくなるにしたがって、夫婦二人だったころに比べると、家族の中にもだんだんと笑い声が増えていきました。
長男はお父さんのことが本当に大好きです。事件の3ヶ月前に3歳になったばかりで、家族で七五三の写真を撮りに行きました。
主人は記念日をとても大切にする人で、それぞれの誕生日、結婚記念日などには必ずその当日に時間をつくり、家族で写真を撮りに行ったり、食事に行ったりと計画をしてくれる家族思いの人でした。
いつも仕事は午後からだったので、主人は長男とふたりで、出社前2〜3時間一緒に遊ぶのが日課でした。二人はよくバスの乗って遊びに出かけました。首里の散策に出かけたり、一緒に買い物に行ったり、とても子供を可愛がっていました。主人は長男を抱っこして、ほっぺにぐりぐりと頬擦りするのが好きで、子供が「ひげがいた〜い」と嫌がるまでやっていて、いつも二人でじゃれあっていました。主人は、本当に子煩悩なお父さんでした。
長男はまだお父さんが死んだ事を理解できません。今でも毎日お父さんの話をします。
「このおもちゃはお父さんが買ってくれたんだよ」
「あそこのレストラン、前にお父さんも一緒に行ったよね」
「サーカス見たことあるよ、お父さんも一緒に行ったの」
「お父さんと一緒にまたモノレールに乗りたいな〜」
「お父さんのけがが早く良くなりますように…」と毎日お祈りをします。
そんな、長男の言葉に私はなんと答えていいのか分からず、子供の前では悲しみをこらえるのが精一杯です。
夜になるとお父さんの事を思い出して、「お父さん早く帰ってこないかなー。お父さんに会いたいよ〜。お父さんがいないと寂しい。お父さんとお母さんと二人いるほうがいい。」と言って淋しがって泣きます。そして昼間でも、それまで無邪気にきゃっきゃっと遊んでいたのに突然私の瞳をじっと見つめて、「お母さんは何処にも行かないでね。ぼくひとりぼっちはいやだ〜。」と涙をポロポロ流しながらしゃくりあげるほど泣くことがあります。話を聞いて上げると「お母さんもいつかお父さんのように自分の前からいなくなるのじゃないか」と思うようで、とても不安がります。
長男は事件の前までは、とても元気で活発な子でした。でもお父さんが帰ってこなくなってからは、精神的に不安定になった時期もあり、そんな時は一緒にいるほうも見ていてつらく、苦しくなりました。まだまだ幼くてお父さんに甘えたい盛りなのに、大好きなお父さんを突然意味も分からずに奪われた長男があまりにもかわいそうです。長男は自分なりに、お父さんが帰ってこないことを受け止めようと、淋しさを乗り越えようと毎日一生懸命頑張って生きています。
「お父さんの事をあれこれ聞くとお母さんが悲しむ」と、子供ながら私の事を一生懸命気遣ってくれることがあります。6月に、幼稚園で父の日の絵を書いて持って帰りました。ひげがつぶつぶといっぱいついたお父さんの顔でした。その絵を見て私が「これだあれ?」と聞くと、かなり長く黙ったまま私の顔を見ていました。そして、答えづらそうに「お母さん」と答えました。その時の目はほんとに痛々しく、私は辛くて辛くて言葉になりませんでした。長男と二人で「お父さんに会いたいね」と一緒になって泣くことが何度もありました。
主人は、「夏はキャンプに行こう」「小学校にあがる前までには一度はディズニーランドに連れて行こう」と、この先あれこれたくさんの計画をしていました。お酒をあまり飲めない主人でしたが「子供が大きくなったら一緒に居酒屋くらいは行けるようになっておかないとな」と男同士酒を酌み交わす日を夢みていました。
主人も長男もこれからたくさんの思い出が作れるはずでした。お父さんが大好きだった長男に、どうかお父さんを返してあげて下さい、お父さんに会わせてあげたい、そう思わずにはいられません。悔しくやりきれない気持ちでいっぱいです。
次男は事件のあった8日前に産まれたばかりでした。私達夫婦は長男も7年目でやっとできた待望の子供でしたが、長男の誕生後、二人目もなかなか授かりませんでした。でも主人はいつも「兄弟をつくってあげたい」と言っていました。それから二人で相談して、婦人科に通い、やっと授かった二人目でした。
それまでは毎月毎月、婦人科の検診の日は期待と不安でいっぱいで、6ヶ月通って妊娠が分かった時、主人は「そうか、とうとうおにいちゃんになれるんだなぁ」と言ってとても喜んでくれました。
2005年2月18に次男は誕生しました。それから一週間後、2月24日に母子共に健康に退院して、家に帰ると新しい家族が増えてにぎやかな日常が始まりました。家族みんな、とてもとても幸せでした。
でも、それから2日後、事件の日でした。
事件の日の午前中、主人は「今日は出生届けを出しにいってくるから」と二人で市役所に行きました。一度帰ってきて、その日の午後に、「出かける」といって玄関を出て行く姿が、元気な主人を見た最後の姿となってしました。ずっと後で気が付いたことですが、次男の出生届の日と事件の日が同じ日だと気がつきました。これから先、戸籍が必要になる度にこのことを思い起こすのかと思うと、気が狂うんじゃないかと思うほど悲しくなりました。次男の出生届けは、主人が家族のためにしてくれた最後の仕事になってしまったのです。
ここ(top)にあるのは、無事に出産が済んだ次男の誕生の日に、主人がちっちゃな次男を抱っこして、病院で初めて写真を写したものです。
事件の8日前の写真です。
そこには、産まれたばかりの次男を少し緊張してだっこしながら、嬉しそうに微笑んでいる主人の姿があります。でも、この子にとってはお父さんと一緒に写した最初で最後の写真になってしまいました。
次男は主人に数えるほどしか抱っこもしてもらっていません。主人ももっと抱っこしたかっただろう、もっと遊んでやりたかっただろうと思います。この子は産まれて8日間しかお父さんと一緒に過ごせませんでした。思い出をひとつも作ることができないままお父さんとお別れしなければならなかった次男に、この先どんな話をしてあげたらいいのですか?どんなに、どんなに悔しいか、私たち家族の気持ちが分かりますか?
それから、主人はとても親孝行な人でした。主人のお義父さんとお義母さんは、「正則は結婚が遅かったから子供が出来るのも遅かった、でも、二人の子供に恵まれ、本当によかった」と心から喜んでくれていました。若いときは本当に貧乏をしながら必死で子供達を育ててきたと聞いています。それで、主人は両親とは別々に住んでいましたが、親孝行のため両親への経済的な援助にもとても気を使い、毎月の生活費から大きな買い物の支払い、病気で入院した時などの費用など、出来るだけのことはやってあげていました。両親もやっと安心して暮らしていけると思っていた事だと思います。
これまで二人とも年齢のわりにはとても元気で、週に一度はお土産をいつもいっぱい持って、うちに孫の顔を見に来てくれました。でも、主人が亡くなってからは、お義父さんもお義母さんも心労から体を悪くしてしまいました。病は気からというように、特にお義父さんは事件後、入退院を繰り返すようになりました。いつも私に会う度に、主人の思いで話をし「悔しい、悔しい、悔しくてやりきれん、本当に犯人をたたき切ってやろうかと思うが、悔しいがの、この年じゃそれも出来ん」と言いました。
そして、この裁判の結果を聞くことも出来ずに、二週間前、お義父さんはこの世を去りました。年老いてからこんな悲しい出来事に打ちのめされなければならなかったお義父さん、そしてこの短い間に、立て続けに息子と夫を亡くしてしまったお義母さんの心痛を思うと、とても言葉には出来ません。
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2、仕事
家族にとってはとてもやさしい人でしたが、仕事をしている主人を知るほとんどの人は、仕事への厳しさや強さをとても感じていたのではないかと思います。これまでの主人の人生の中で「仕事」は大きなものでした。
私が主人と出会ったのは、主人の経営する学習塾に入社したのがきっかけでした。付き合いはじめたころ、自分の事をいろいろ話してくれました。自分は子供の頃とても生活が貧しく、親が大変苦労して育ててくれたこと。大学生活も3畳一間の貧乏な生活だったこと。仕事を通していろいろなことを学んできたこと。そして働く社員にとっても通う生徒にとっても沖縄で一番の会社を作りたい、と言っていました。
私が主人から教えられたことはたくさんありましたが、「きちんと人生と、社会と、人間と向き合うこと」そして「希望をもって楽しく人生を送ること」を一番教えられました。私がこれまで出会った人の中で、一番誠実な人でした。
塾の仕事は夜遅くまでですが、いつも健康管理に気を使い、仕事が終わると飲みに行く事もなく、夜10時までには帰ってくる人でした。そして、二人でその日一日あったことをいろいろ話しました。主人は会社での出来事、社員ひとりひとりについてもいろいろ話してくれました。自分の会社の社員を自分の家族のように考える人でした。そして主人の信念だった「世のため人のために自分に出来る事を考え、実行する」ということを日ごろから謙虚に、誠実に実行して生きていたと思います。
私達は年が十二歳はなれていたので、お互いを理解するために、話す時間を大切にしてきたほうだと思っています。それで、毎年正月に、お互いの抱負を語るという習慣がありました。2005年正月、主人が話したことは「47歳になって子供が出来るんだから、70歳までは現役で働かないといけないなぁ。親も長生きしてるから自分も90歳までは大丈夫だろう。」と笑って言っていました。私は「47歳なんてやっと折り返しだから、これから折り返しの40年、何をやるのか考えないとね」と答えました。主人自身、仕事の面では今までの中で一番充実した時期だったのではないかと思います。3月には3つ目となる自社ビルの建設を始めようと忙しく準備していました。これからどんなことをしたかったのか、何を考えていたのか、今になっては聞く事も出来ません。
今でも、子供達が寝たあと、ひとりでいると、いつも二人でいろいろなことを話した時間を思い出します。とても淋しく、心が引き裂かれそうになります。ただ、側にいてほしい、ただうなずくだけでいいから私の話を聞いてほしい、戻ってきてほしい、と心からそう思います。
今、私は主人の経営していた塾を引き継ぎ、社員と共に主人の志を残していこうと頑張っています。事件の後は、社員も生徒もたくさんの人が傷つきました。
みんなそれを乗り越えようと頑張っています。特に、創業時から一緒に仕事をしてきた社員の中には、精神的にとても大きなダメージを受けた人たちもいます。
創業者だった主人は、文字通り会社の大黒柱でした。その存在感は、会社にとってなくてはならない存在でした。その大黒柱を失った時の社員の動揺がどれほどであったか、計り知る事も出来ません。
主人がいなくなった今、役員、社員、試行錯誤で経営を支えています。でも、会社にとってのダメージはあまりにも大きすぎて、その喪失感が癒されるのにはまだまだ時間が必要です。
私自身、主人の代わりにはとてもなれないと思っています。でも協力してくれる社員と一緒になんとか会社を守り立てて行こうと、慣れない責任の重い仕事に、毎日必死になって取り組んでいます。一日一日があっという間に過ぎていき、主人がいた頃とは180度、生活が変わりました。
本当は、もっと子供たちと一緒に過ごしたい、もっと遊んであげたい、以前のように公園にも連れて行ってあげたいし、一日中一緒に過ごしたいのです。
毎日日課のように長男と行っていた近所の公園の前を通る度に、主人がいた頃のことを思い出し、とても辛く、胸が苦しくなります。
事件の前までは何の悩みも無く、人生の中で最も楽しく幸せな時間を過ごしていたのに。ささやかでも家族一緒で、明るく楽しい毎日だったのに。子供達の成長を楽しみにして、もっと楽しい、いろんな未来が私達家族には待っていたはずなのに。何故私達家族がこんな目に合わなければならないのですか? 何故主人がこんな目に合わなければならないのですか?この思いをどこにぶつければいいのですか?
今でも、主人が「ただいま」といって帰ってくるんじゃないか、とふと思うことがあります。それは幻想だ、そんな馬鹿なことあるはずがないと頭では分かっていても、それでも「突然帰ってくるんじゃないか」と思っているのです。
事件から一年がたちました。でも今でもまだ、主人の死を受け入れることは出来ません。私には、主人がいなくなったなんて未だに信じられません。主人を返してください。私たちを元の幸せな生活に戻してください。
あの日を境に本当に心から楽しい、幸せだと感じることはなくなってしまいました。心にぽっかりと穴が開いてしまった、といいますが、心が粉々に壊れてしまった、というほうが正しいような気がします。どんなに時間が経っても、どんなに傷が癒えたとしても、ここに座っている犯人の、この男に対する憎しみの気持ちは決してなくなることはありません。
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3、事件
事件を知ったのは、2月26日午後8時40分ごろ、会社の人からの電話ででした。まだ、そのときは生きていると思っていたし、当初轢き逃げにあったらしいと聞いたので、まさか事件だとは思いもしませんでした。病院に付くと、もう主人の両親や兄弟、たくさんの会社の人たちが駆けつけていました。そこで突然病院のロビー「もう霊安室に運ばれました」と聞かされました。
あまりにも突然の出来事で頭の中が真っ白になり、全く意味が理解できず、事実を受け止めることが出来ませんでした。病院でのやり取りやその後のことはあまりよく覚えていません。
今でも、辛く思うことは、司法解剖にまわすということで、その日主人に会わせてもらえなかったことです。ただ言葉だけで「亡くなりました」と言われて、なぜ会わしてくれないんだ、見るだけでもいいから、とお願いもしましたが、それもだめでした。
司法解剖が終わるときに、琉大の法医学の校舎に呼ばれて、警察の方から司法解剖についての検案書の説明を受けました。書面を見せられた時、死亡理由の欄が「他殺」となっているのが、目に飛び込んできました。その「他殺」という文字から目が離せなくて心が凍り付いていくのが分かりました。警察の方の説明はほとんど耳に入りませんでした。
説明が終わって、やっと主人の棺を見ることができました。棺を霊柩車に乗せて、私とお義母さんが一緒に乗り込みました。
棺の中の主人は寝ているようにそこに横たわっていました。めったに家を空ける人ではありませんでした。どんなに家に帰りたかっただろう。どんなに家族に会いたかっただろう。主人に「おかえり、やっと家に帰れるね。」「一緒に子供たちのところに帰ろう」と話し掛けました。そして「どうしてこんなことになってしまったの?何があったの?」「痛かったでしょう」「子供たちには何て言えばいいの?」霊柩車の中ではずっと泣きながら主人に話し掛けていました。でも、主人の体は冷たく、目を閉じて何も答えてはくれませんでした。そして「私の命と引き換えに、もう一度だけでいいから、主人と話をさせてください。生き返らせてください。」そう祈っていました。
霊柩車の中では子供たちのこと、これから先のことは、何も考えられず、ただ、主人にもう何もしてあげられない、助けてあげることも出来なかった、せめてこのまま一緒にいたい、時間が止まればいいと思っていました。でも、現実は無情で、だんだんと家が近づいて来ました。そして、ようやく「子供たちの前でだけは絶対に取り乱してはいけない」と必死に自分に言い聞かせました。
その後葬儀から四十九日までの間、家族や親戚、子供たちの前で気丈に振舞っていると、「もしかしたらひょっこり主人が帰ってくるのではないか」と思うことが度々ありました。これは悪い夢なんだから、いつかきっと覚めるにちがいないと思っていました。
でもその間も、警察の方と事情聴取を重ね、調書を作成していました。私にとってこの作業は本当につらいものでした。主人との楽しかった思い出や子供たちとの生活を振り返るたびに「本当に、主人はもう帰ってこないのだろうか」とその都度思い知らされたからです。
最後の調書は5月2日の午前10時から自宅で聴取されました。それまで、なんども警察の方に聞いても教えてもらえなかった「殺害方法」について詳しく説明を受けました。血だらけの遺留品の写真を見ながら受けた説明は、今思い出しても吐き気がします。主人が亡くなってから2ヵ月半が経っていました。この最後の調書を執った5月2日の日、夜10時20分ごろ、県警の方が自宅にみえて「犯人を逮捕しました」と報告を受けました。
逮捕の報道の後、いろいろなところで「ほっとしたでしょう」とか「これで解決したね」というような事をいわれましたが、私にはほっとしたという気持ちは全くなく、逆に「やっとこれから真実が分かる。やっとスタート地点に立てた」という重苦しい気持ちでいました。
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4、事件の後
5月2日の逮捕から3週間ほど経って、誕生祝いをしてやることも出来なかった次男のために、身内だけでささやかに100日祝いをしてあげました。でも当日は、楽しいはずのお祝いなのに、準備がすすむにしたがって、気持ちはどんどん重くなっていきました。だって、そこにはいつも記念日を一緒に祝っていた主人のいつもの笑顔はないのです。「大きくなったね」なんて言葉をかけてもらうとよけい、「子供が大きくなった事を一緒に喜ぶことも、もうできないのだ」と、現実を思い知らされました。喜ばしいお祝いで、こんなにつらく悲しい気持ちになるとは思いもしませんでした。そしてこんな事件がなければ、5月7日は結婚10周年の記念日でした。主人とは以前から十周年の記念に家族旅行をしようと計画していました。これからたくさんの思い出を家族4人で作っていくはずでした。
一番やりきれない思いをしているのは主人だと思います。大切な子供二人を残して、二人の成長する姿を見ることもなく、突然不条理に命を絶たれ、この世を去らなければならなかった主人は、どんなにつらく、どんなにどんなに悔しいだろう。悔やんでも悔やみきれないだろう、どんなに無念だっただろう。主人がどんなに心残りだっただろうと考えると胸がはりさけそうです。
子供は誕生日を迎えて、今4歳と1歳です。まだお父さんの死を分からなくても、これから先、子供たちが成長して、お父さんの死をだんだんと分かってくる時期があると思います。そして「お父さんは殺されたのだ」という事実を知るときがくるかもしれません。それは「病気で死んだんだよ」「事故で死んだんだよ」というのとは全く違います。たった数万円のお金のために殺されたのです。その事実を知った時、子供達がどんなにつらく、どんなに苦しく、傷つくのだろうと考えると、私だけ事件を「もう過去のこと」と片付けるわけにはいきません。
これから先、長い長い子供達の成長の中で、この事件について子供達ときちんと向き合わなければならないときがきっと来ます。そういう子供の未来まで、この事件を引きずって私たち家族は生きていかなければならないのです。
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5、最後に
最後に、この公判を通して感じたことを話したいと思います。
子供たちはまだ、死というものを理解できません。先日、自宅の庭で弱ったインコを拾いました。遊びに来ていた当時6歳の姪と長男は小さな生き物に興味深深で、世話を焼いていました。でも2時間ほどして、さっきまで寝ていたインコが動かなくなってしまったのです。当時3歳の長男は「死んじゃったの?それじゃお庭に逃がしてあげよう」と言って、死んじゃったということ言葉は分かりますが意味は分かっていません。でも、6歳の姪はある程度理解できていたようでした。長男もだんだんそうやっていろんな事を知るようになるのかと思います。
ところが、この公判の第1回目冒頭陳述で、主人の殺害について検事から確認を求められたこの男は、のらりくらりと言葉を濁しながら「事実だと思われる」というような発言をしました。理由はそちらの弁護士によると「事件直後は死んだことを確認できてなかったので、そう言われればそうなのでしょう、という意味です。」と言っていました。その答えを聞いたとき、私は怒りで体が震えました。
主人は頭を殴られ、ふらふらな状態なのに、さらに傘で顔面を突き刺され、死ぬほどの傷を負い、たくさんの血を吐き、苦痛と恐怖を感じながら、息を引き取るまでの数分間を苦しんだのです。
この男はそれを全然分かろうともしていない。自分の手で主人の頭を殴ったんでしょう。傘で突き刺したんでしょう?殴った感触を覚えているはずです。突き刺したときの感触も覚えているはずです。でも、この男はそれを自分でさっさと「忘れようと」している。言葉のひとつひとつをとっても、とても反省しているなんて微塵も感じられません。6歳の子も、まだ暖かいインコでも「もう死んでしまった」ということを理解できます。それは脈が無いとか心臓が止まったとかそんな医学的な説明ではなくて、生きている間に学んだ、人間としてのもっと感覚的なものです。
主人の血を浴びても、主人が血まみれで倒れて苦しんでいるのを見ても、自分が刺した事で死んだという事を聞いても、それでも尚、「認識できなかったのでその時は分からなかった」と平然と言い続けるなんて、私たち遺族を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。主人の尊厳を平気で踏みにじるようなその態度は、私は決して許せません。
そして「心神耗弱」についてですが、当時、幹部自衛官として働いていて、日常的に抗うつ剤をのんでいたとしても、9年も投薬を受けていたのなら、自分に合う薬や適量、副作用について熟知していて、自覚を持って使っていたんだと思います。しかも仕事をしながら、日常的に服薬していたんでしょう?
それが、突然事件当日にか限って、判断能力が著しく減退するというような状態にまで、なることがあるのでしょうか?
第一、インターネットで購入した薬を服薬していたなんて、無責任な行動以外のなにものでもないと思います。鬱の服薬が事件の要因であるといいたいのでしょうか?責任を転嫁するのもいい加減にしてほしい。
公判で見た換金所前のビデオに写ったこの男の足取りを見ても、事件の目撃者の話を聞いても「意識が混乱しもうろうとしていた」とはとても思えません。そして主人を刺したあと、タクシーの運転手に冷静に行き先を告げ、家に着いてからは「血のつたままの服を着ているのは気持ち悪い」と服まで着替えて、きちんと借金の返済に行き、ついでにかカフェで食事をして、何事もなく家路につき、次の日の早朝、確か遠征出発のためいつもより早い午前3時か4時の集合時間に間に合わせて、ちゃんと出勤し、いつもと変わらず遠征に出かけたのです。
それで、心神耗弱ですか?全く納得がいきません。自分が人殺しだという事実と向き合おうともせず、現実逃避を続けて、この男からは「心からの謝罪」どころか、反省の様子さえ微塵も感じられません。
これまでの公判でいろいろな事を聞かされてきました。家族が述べていたように「自殺でもするんじゃないか」というような、いつも切羽詰った経済状況や、その原因となる現実逃避とも思えるスロット依存の生活、そして防衛大学校から受けていた自衛隊員としての訓練などの教育環境、前歴にも見られるような他人に危害を加えるという凶暴性。親の話では、高校生のころから壁に穴があくほど殴ったり、冷蔵庫がぼこぼこになるほど殴ったり、奇声を上げてみたり。凶暴性は明らかです。
親にも言いたいことがあります。3年半で、5〜600万円も借金を立て替えてあげたのですか?何故ですか?とても、理解できません。そして、私たちに謝罪を試みたなんてことを言っていますが、心からの謝罪を感じた事は一度たりともありません。公判の最中、目の前に私達家族はいました。本当に謝罪したいのなら、取るべき行動は他にもいくらでもあるはずです。子供に借金のことを厳しく問いただす事もせず、逆に肩代わりをして、結果的にこうなってしまったのは、あなたたち親にも責任があります。私には、形だけの弁護士からの謝罪の申し込みで、どうにか少しでも刑を軽くしてもらおうと思っているようにしか、感じられません。
この男の態度は、地の果てのような沖縄で起きた小さな事件なのだから、刑期が終われば、誰にも気がつかれず新しい生活ができると、その程度の考えですか?。主人から大切な命を奪い、私たち家族から大切なお父さんを奪たったのです。
もっと、その事実を受け止めてほしい、そして、謝罪するということがどういうことなのか、もっと考えてほしいと思います。
事件直後に、主人が血を流し苦しんでいるのを見ても、自責の念にかられるでもなく、さらに強行に財布を奪い、その後冷静に着替えをして出直し、そして借金の返済に行ったりカフェに行ったり、私には人間の姿をした悪魔にしか見えません。そうでなければ、ただの人が傘で人を殺すことができるでしょうか?
そして、事件の後もそれまで通りパチスロに行っているのです。とても信じられません。借金にしろ、パチスロにしろ、状況はどれも自分の責任で繰り返してきたことでしょう? あまりにも自己中心的で、無責任です。ただそれだけのせいで何の関係もない主人が死んでしまったのなら、どんな償いをもっても、主人の無念が晴れることは決してありません。
今回の事件で、この男が凶器を準備していなかったからとか、計画性が無かったからとか、強盗殺人ではなく致死なんだとか。それが何なんですか? 主人にしてみれば、突然なんの面識もない男に後ろから頭を殴られて、抵抗しようとしたら傘で顔面を刺されて、最後はズボンのポケットごと力任せに財布を奪われて、殺されたんです。この男が何をどの程度計画して実行したのか、そんな事主人には何の関係もありません。ただ、突然意味も分からずポケットにいれた財布のために殺された、それだけが事実です。主人には、何の落ち度もありません。
たとえ、主人が強盗に会うにしても、この男でなかったら、死なずにすんだんじゃないかと思います。何故刃物やピストルで襲われたわけでもないのに、死んでしまったのか、何故この男は財布だけでなく主人の命まで奪ったのか、強盗に傘を突きつけられても、普通は的の広い体が傷つくはずではないのか。普通の人がいくら咄嗟のことでも、果たして顔を突くなんてことが出来る人がどれくらいいるのでしょうか。そこにはこの男が防衛大学校や自衛隊の訓練で得た「慣れ」があったとしか思えません。この男の存在自体が凶暴な凶器です。
たとえ、主人が強盗に会い、傘でおどされたとしても、傘なのだから怪我ぐらいですんだはずなのに、この男でなければ、主人は死ぬことはなかったはずなのに、と思わずにはいられません。
この男が傘を突き出した瞬間、パチスロですってイライラしていたか、うさばらしでもしてやろうという気持ちが少しでもなかったのか、この男に殺意があったか、なかったか誰が分かるのですか? 「俺は人を殺すことをなんとも思わない」と日常生活の場で口にするような男です。たくさんの血を流しながら苦しんでいる主人を、助けようともせずお金を奪ったのです。
この男からは全公判を通して反省や謝罪は微塵も感じられず、逆に、遺族の気持ちを逆なでするかのように質問にもはぐらかし、いつも横柄な態度でした。私はこの男に今この場所で、主人と同じような苦痛を味あわせたいと本気で思います。何度殺してやりたいと思ったか知れません。
主人が最後に息を引き取るまでの数分間の痛み、苦しみ、怒り、恐怖、悲しみ、悔しさを考えると、この男には言葉には出来ないほどの怒りと憎しみを感じます。絶対に許すことは出来ません。死刑にしてほしい、もちろんそうです。でもそんな一言では言いつくせません。死んでさらに地獄に落ちても、決して納得は出来ないし、それでも許すことはできません。
裁判長には、どうか私達遺族が納得のいく厳しい裁きをしてほしいと、心からお願いします。
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