ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

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# These days

2009年11月19日(木)

未熟を見つめる目

今夜も観察、太宰治短編小説集「トカトントン」。文節に丸がない、点が続く、喋りだと自然そうなるのか。

太宰に限ってもいいし、太宰に限らなくても、山ほどあろう鮮やかで味わい深い短編集を材にして、とにかくもっとこの形式でドラマを生産してくれないものか、とNHK拝み倒したい気分。

そのNHKは、本格的に生誕百年を盛り上げていこうとしているらしく、朝、角田光代が太宰治を語っていたのを見た。その中で、太宰を「途中感」と表現していた。なるほどと頷いたが思考は別天地へ飛ぶ。戦前、戦中、戦後の大人社会からすれば、その未熟さは幼稚さとして評価されなかったのかもしれない。他方、戦後から大人が消えた現代の子供社会においては、その未熟さは、抜けきらない幼さと共振し、共感と根強い支持を集める。とはいえ、現代を生きるファンたちによる墓参りの映像が、芸術的な意味ならともかく、宗教的な意味でまるで価値を見出していない私には衝撃的だった。

年末には、再々放送があるので、また「女生徒」を見よう。今度はしっかり見よう。それにしても、おっさんが書いた文学とは思えない作品である。

2009年11月18日(水)

ダザイサイクル

「ローマの休日」のラストシーンだけを見た。そうした変則的な見方をしたものだから、注意が散漫になって、普段、目が及ばないところへも意識が飛ぶ。あのラストの場面、モノクロの世界だから背景の印象が薄いけれど、カラーにすると相当きらびやかな謁見の間だ。だが、モノクロだから、周囲が豪華絢爛に額縁が金ぴかに輝くのにも目を奪われず、ヘプバーンとグレゴリー・ペックに視線が集中し、散漫にもならない。

今宵も分析を試みた、太宰治短編小説集「きりぎりす」。やはり、実写のほうが数段いい。なんだか舞台のような配置と雰囲気で、余分なものを削り、一切排除された形になっているのは、偶然に映り込む可能性などない表現したいものしか表現不可能なアニメと逆パターンだが結果的に似ている。ドラマパートになると、さらに止め絵と文字が踊り、こちらも無駄を排除し、表現のほかにそうそう目移りしない。総じて「シャフトみたいだ」。この降って湧いた単純な感想は、ちょっと可笑しい、とあとで独り合点がいきつつ笑っていた。何となれば、そのシャフト作品のどちらにも、バックには太宰治が鎮座しているからである。

太宰自身にスポットを当てれば、独白という形で、「でした・ました」と読者に語りかけてくる。これは効果抜群だ。少なくとも私には目から鱗であった。真似したくもなるが、相当、転調させねばならない。また、語りかける相手がきちんといることの確かさ。その意識。

2009年11月17日(火)

不・一致

『罪と罰』と秋葉事件の視線の先にあるものの不一致。ラスコーリニコフは、強盗を犯したけれど、その先が、たとえたどり着けない夢物語だとしても野望があり、拓けていた。一方、秋葉事件のほうは、死刑を利用する自殺としか捉えてないので、その先には袋小路しか描けない。その点が、番組を通じての違和感。しかし、夢が「ワイドショー独占」なのだから、全能感という部分では一致。

まあ、遅くはなったが、こうして何かしらを語り、参加することができるので、原作を読んでいて良かったと噛み締める瞬間である。新訳ブームを起こした亀山郁夫が13歳で読み、感情没入するほどのめり込んでいた過去。そうか13歳か。自分をものさしにして振り返ると、虚構より現実社会のニッポンのほうが波乱万丈な兆しはあった。しかし、かろうじて何かが起きていたわけでもない。兆しなどという曖昧な不安感や疑心暗鬼をベースとする抽象概念の与えるものが、個々のうちに純粋培養された結果、余計、性質が悪いものに育つのかもしれない。

なるほどと、興味深かったのは、今の子供たちが未来を描いたとしたらそこに緑があふれているだろうという爆笑問題の指摘。

打ちひしがれるほどの希望

女優田畑智子が出演するという情報を得ていた、太宰治短編小説集「雪の夜の話」。蓋を開ければアニメーションであり、不意打ちを食らった形になった。表現方法が変化しても変わらず残っているものがあったので、なおさら、何故に品の良さを感じたのか悟った。今更、真似できない柔らかな言葉遣いに打ちひしがれるほどの希望。その差は天才との隔たり。自分の中に太宰の影響がないと思い知る。だが、影響はないが、そもそものところに親近感を覚えた。では、擦れさせ、感化させ、私淑させたのは誰か!?

企画モノばかりせっせと摂取していたので、純文学に飢えているのが皮膚表面にまで露呈しつつある。何より、再び「女生徒」が見たいという感情が熱烈に頭をもたげつつあるのだ。でも、純文学を読んだら読んだで、ヘビィだから、しばらく空けてしまうのだろう……。そうそう、べっ甲メガネっ娘の名前は「山下リオ」というらしい。最初、名前を見たとき、「山下トリオ」だと呼んでしまって、音楽系な珍しい名前だとまじまじと思っていた。

では、今夜は獅子座流星群のパフォーマンスを目の中に閉じ込めましょう、と、朝から雨が降りしきる天気に、諦め半分期待したけれど、夜になって吹き荒れる風に雲が割れ、「おっ、これはいけるかもしれない」と期待に胸を高鳴らせ、就寝際に窓を開けてみると典型的な曇り空で、うなだれた。まあ、今年はアメリカが絶景ポイントらしいので、日本はそもそもからして地理的に外れていたので、もしかしたらと望みをかけただけで、さほど残念ではない。

2009年11月16日(月)

べっ甲メガネ

太宰治短編小説集「女生徒」。「生まれて、すみません。」からの「生誕百年」を飾る好対照の凄みに驚嘆したけれど、特別、ドラマを見る気にはなれなくて、原作があるなら原作を読みたい衝動に駆られている昨今なので、なるたけ日本のドラマから逃げ回っているが近年の情勢。よって、そのまま、別番組を見ようと、何の気なしにザッピングしていたら、「なんて、美少女なんだ」と、そこに存在するべっ甲メガネっ娘の衝撃にハートを打ち抜かれた。

延々と続くモノローグの垢抜けない滑舌の甘さが、愛くるしい気持ちを大胆に刺激する。かつ『女生徒』自身が保持した、裏表の感情が、見事に画面に現れていて、驚喜。背後に流れるポジティブな太宰の存在が輝かしく、とても素直に人間が語られているのも良し。しかも、作品の普遍性を利用して、映像表現を加工するだけで見事に現代劇に落としこめた感性。何となれば、太宰治を映像にすると、どうしても時代が昭和初期になるので、それすら払拭した演出に感服した。

いやあ、久しぶりに品のあるドラマを見た、と胸に暖かな充足感が漂う。日本のドラマに限れば、近年、類を見ない傑作であったとも思うけれど、既に述べたように近年まともに見てませんので、あしからず。

2009年11月15日(日)

横になったら、しくしく

この3日、ストレスなのか、さもなくば体内時計が狂ったものか、はたまた牛乳か、布団に潜り込むような頃合を見計らって、お腹がしくしくと痛む。でも、トイレに向かっても何も起きないのは、この2日で骨身にしみて学習したことで、はてさて、どうしたものか。ちなみに、今日のところは、早朝まで自分以外がどたばたしたので、それどころではなかったけれど……。


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