ほのぼの の エッセイ 
少年時代の思い出


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 追憶 その1 葉山(兎追いしあの山)

 ☆★☆葉山 兎追いしあの山☆★☆

洛北曼珠院の近くに、葉山と言う小高い丘のような、小山が横たわっている。
私が子供の頃、この山でも、松茸がとれた。土地の人達が集まって、葉山の稜線近くで、松茸すき焼きなど、楽しんでいた情景が、懐かしく思い出される。冬になると、うっすらと、この山にも雪が積もる。昼頃になると、雪は消えてしまうのだが、この葉山にも、野兎がいた。

私が、小学校一年生の頃、この葉山で、修学院小学校の全校生を動員して、兎狩りをしたことがある。上級生や若い先生達は、葉山の稜線近くに、長い網を張り巡らした。我々小学生は、葉山の麓の道に一列横隊に並び、めいめい竹や棒の小枝を持って、「始め!」の合図と共に、一斉に「ワー」とかけ声をあげながら、尾根筋に向かって、まっすぐに攻め上るのだ。みんなが一列になってないと、飛び出してきた兎が、隙間から逃げ降りてしまうので、それでは意味がない。だから、先駆けは絶対禁止である。

皆は半時間ほどで、尾根筋に出た。逃げ上がった兎が網に引っかかっているその姿を見るのを、楽しみにしていたのだ。だが、兎は一匹も捕れてなかった。それでも、楽しかった。我々一年生は、わいわいがやがやと、はしゃぎながら、学校に帰った。
上級生達は、続いて、次の山の尾根で、今一度、兎の捕獲を試みると言うことであった。

次の日、学校に行くと、その収穫、兎3匹のなめし革が、理科の実験室に、展示されていた。兎の皮は、戦地の兵隊さんの防寒帽になるのだ、と言うことであった。
一年生には、その後、お椀一杯の、兎汁が給食された。私達にとって、給食と言うものの最初であった。
丁度60年前の、或る冬の日のことであった。
                                           (1999.01.29)

 ☆★☆セルロイド☆★☆
 
 小学校が国民学校へと名前が変った頃、私は3年生だった。 教科書は、3年上の兄貴の「お古」で間に合わせた。家は貧乏だったが、 あのころは、周りのみんなも貧乏だったから、全然苦にはならなかった。
むしろ、自分だけマッサラの物を持っているという事に、引け目を感じるくらいだった。
 
 唱歌と言う音楽の時間があったが、当時は、文字通り、音楽の時間は、ひたすらに、歌を唱えることであった。だから、我が家では、唱歌の教科書を買うという事は、無駄なことで、歌の文句ぐらいは、自分で覚えろ、歌う時には男らしく、ひたすら、大声で歌え、と言うのが、母からの、教えであった。実際、それで、だいたい唱歌は「甲」が取れた。
 そんな中で、どうしたことか、多分父が会社の景品か何かで貰ってきたのだと思うが、私の「下敷き」だけは、ぴかぴかのセルロイド製であった。黒色のセルロイドだった。
 
 私はそれを大事に大事に使った。セルロイドは割れやすい。いつしか、ひびが入ったセルロイドの下敷き、それでも私はそれを、大事に大事に使った。
 或る冬の夜、家族5人、火鉢一つの部屋に全員が集まり、そこで、子供たちは勉強、親たちは夜なべをしていた。
 
 私がうつらうつらした途端、部屋の中で、突如火柱が上がった。私の、セルロイドの下敷きが、火鉢の炭火で、燃え上がったのだった。
「ウワツ!」と皆が、叫んだ瞬間、もう火は消えて、部屋の中には、いやなにおいだけが残っていた。私のセルロイドの下敷きは、潔いというのか、見事というのか、灰一つ残してくれなかった。
 そして私の下敷きは再び、ボール紙製となった。 「火の用心、火の用心」

                     (1996.08.06)


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☆★★ 追憶 その2 蛙の合唱 ☆★☆

 子供の頃、家の周りには、田園が連なっていた。六月頃、水田に水が敷き詰められる。と、夜ともなると、蛙の合唱が面白い。面白いと言うより、喧しいのだが、実にいろいろな、鳴き方があるものだと感心する。この合唱は、梅雨近くにもなると、一段と激しい。
田圃の向こう側には蛍雪荘という名の下宿があった。この下宿は、当時では珍しく、平屋一戸建ちの、今風に言うならば、1Kタイプで、それが、数軒並んでいたのである。その下宿の、お兄さんが、ある一夜、田圃の蛙たちに向かって、「満場の蛙(かわず)諸君、!」と演説を始めたことがある。、その大声で、一瞬、蛙の鳴き声が静まる。お兄さんは、続ける。「我が輩は、目下、難解な哲学の学問をなしつつある。かわず諸君、我が輩の学問のために、一時、諸君のその合唱を止めてくれないか。いや、止めるべきである。諸君、・・・」との大演説である。田圃のこちら側の住人達は、当時子供だった、私も含めて、その面白い演説に聴き入った。演説が始まると、一瞬、合唱は小さくなるが、次第にまた、大きくなる。するとまた、お兄さんは、より大きな声で、演説を続ける。即興にしては、なかなか筋が通っているし、リズムがあり、聴かせる。
 と、突然、演説が止まった。お兄さんの隣の下宿人が、「お前、もういい加減その演説を、止めてくれないかな。我が輩の勉強が進まんではないか。」と二人でやり合っているのが聞こえてきた。二人は、呵々大笑して、演説は終わり、そして、また、蛙の合唱が、再開したのだった。もう五十年も前の、故郷、京都修学院での、思い出である。


その田圃の前の、小さな畑を我が家は借りていて、今で言う家庭菜園を、やっていた。いや、一坪菜園ではなく、結構広く、五十坪はあった。畑には、ネギ、水菜、大根、里芋、トマト、キュウリ、そして、四季折々に、ダリヤや、菊、コスモスなどが咲くように、植えられていた。日曜日には、兄と私は父を手伝って、畑の手入れをしたものだった。兄、私、妹と、それぞれは、半坪ぐらいずつの場所をもらって、そこには、自分の好きな種を播いたり、苗を植えたりしたものだった。
 畑のすぐ西側には、叡山電車が走っている。電車は今でもあるし走っている。今でもそうであるが、終点は八瀬駅、そこからケーブルに乗れば、凡そ10分で、比叡山に登れる。私が、我が家の畑に、側の小川から柄杓で「拡散注水」していたとき、ヒットラー総統配下のドイツの高官連を乗せた電車が通った。高官は私を見つめ、私は柄杓を振り上げて挨拶した。アッという間の出来事だったが、私の記憶は鮮明である。当時、ドイツの高官連が、来日し、京都を訪れ、比叡山に登ったことがあった。その日の出来事である。

 私の、子供の頃の、故郷、修学院の、田圃の、思い出である。





 追憶 その3 離婚

 その頃、大陸からも、復員してくる人、帰国してくる人が多かった。ほとんど日本中、焼け野原の中、誠に珍しく、昔のままの、たたずまいで、京都の町は残っていた。清楚で、平和な趣の、京都御所の雰囲気もそのままであった。東山三十六峯の連なり、その麓の、寺院、お社、そして祇園甲部の町並み、弥栄会館の映画館は堂々としていた。

 修学院の我々の町内にも、モダンな家族が転居してきた。そこの奥さんは大柄で美しく、いつも活発で、近所の人達に大きな声で挨拶をするご婦人であった。一方、そこのご主人は、やや小柄で物静かな紳士であった。子供たちは三人いた。いずれも元気いっぱいの、やや、やんちゃなところのある連中だった。

 終戦後のある日、そこの奥さんが、新京極に出た折り、全く偶然に、大陸から引き揚げてきた昔の恋人に出会ったと言う。奥さんが言われる所では、昔のこととて、若い頃の二人の恋愛は、親に許されず、男性は大陸に去り、奥さんの方は、親が決めた別の男性と結婚式を挙げさせられたのだ、と言うことであった。みすぼらしく大陸から引き揚げてきた、昔の恋人ではあったが、快活な奥さんに出会って、その男性は元気百倍した。新しい生活を立て直す意欲が出てきたのだった。そして、必然的に、二人の間には、昔の情熱が沸き上がったのである。情熱は常に理性を凌駕する。まさしく、「焼きぼっくりに火がついた」のであった。

 奥さんは昔の恋人の下に走った。三人の子供達は・・・母親に従った。そして五人家族の広い家の中には、紳士風のご主人一人が残されたのである。この事件は、もちろん、町内の話題になったことは当然だが、その奥さんの悪びれた様子のない態度に、町内の連中は「時代が変わる」とはこういう事か、と半ば憧憬にも似た気持ちで、見つめていたのだった。

 奥さんと子供三人が家を出た夜、そこのご主人は黙然と、しかし軒先に火が届くのでないかと、皆が心配するほど、大きな焔を挙げながら、書籍や家財を燃やし続けた。叡山電車のガラス窓にも、その炎が映っていた。そして、火が消えたとき、紳士は再び黙然と京都を去っていったのだった。
 60年も昔の出来事である。


 追憶 その4 ところてん: 父との思い出

 終戦後、例によって、食糧不足いや食料皆無状態だったとき、父の生まれ故郷の伊豆地方に、買い出しに、父と二人で出かけたことがありました。京都から、ぎゅうぎゅう積めの夜行の鈍行に乗って、翌朝早く熱海の駅に着いたとき、駅頭で、京都市内では考えられないことですが、「イカの丸煮」の屋台が出ていました。

 父と早速、その屋台に飛び込んで、一匹 5 円のそのイカの丸煮を食べたときの、その美味かったこと、今でも父との(内緒の)思い出です。

 もう一つもやはり、食べ物ですが、伊豆の下田を目指して、父と二人で東海岸を歩いていたとき、戦争中に作ったものでしょうか、長いトンネルに出くわしました。そのトンネル内はまだ未完成で、石ころがごろごろしていましたが、二人は空元気で軍歌など歌いながら、先に小さく明るく見える、出口を目指しました。

 ところが出口を出たところは、絶壁でその先の道はありません。引っ返すのも馬鹿馬鹿しいからと、二人はすぐ横手の崖をよじ登り、やっと、見知らぬ村にたどり着きました。二人はもう、喉はカラカラになっていたものですから、近くの農家に飛び込んで、一杯の井戸水を所望しました。

 その時、そこの農家の若いおばさんは、井戸水もさることながら、加えて、「まあ一膳どうぞ」と、美味しい「ところてん」を食べさせて下さったのです。勿論無料サービスでした。正に地獄で佛に会ったということを如実に体験したものでした。あんな美味しい「ところてん」は、決して忘れることはないでしょう。その村は、伊豆の白浜村でした。

    今一度 旅人となりて 今一度
           旅にあいたし 白浜のまち

 その父はもう、15年前、平成元年1月26日に、89歳で亡くなりました。      合掌

 

 



 追憶 その5. 竹藪

§ 竹薮
 私が育った洛北修学院地区には、当時、竹薮が多かった。竹薮の側を通るとき、私はいつも小石を拾ってその中に投げた。勢よく投げ込めば、先ずは必ず、小石はどれかの竹にあったって、弾けるように大きい、スカッとした音を立てた。ごく希にどの竹の幹にも当たらずに終わるときは、「今日はついてない日だ」と自分で自分の占いとしていた。石は一度しか投げないことにしていたから、投げるときの気持ちは案外真面目なものだった。

 京都一中への通学路の側の竹薮には「ウズラ」の家族がいるのを見つけたことがある。先日、京都に出張したとき、久しぶりにその道を歩いた。高野川と比叡山の姿は変わっていなかったが、竹薮はなく今は高級住宅地になってしまっていた。

 春、筍がうぶ毛で覆われた、チョコレート色の、竹の皮をだんだんと脱ぎ捨てて、子供の竹にしては、びっくりする様な太い若竹として伸びて行くときの、その透き通るような緑色の肌にはいつも白い粉がふいている。これが竹ワックスなんだけれど、それを見ると、その表面に自分の名前でも書付けたいような気持ちがして来るものだ。松江にきて息子の信之と、西川津の当時の通称「アカツチヤマ」近くの竹薮を散歩したとき、私はやはりその太い若竹の幹に、「信之」と書付けたことがあった。若竹のようにまっすぐに、スクスクと育ってほしいと思っていたからかもしれない。私が心臓の手術のために神戸へ発つ前だったろう。当時、信之がまだ小学校1年生時分だったから、彼は覚えていないだろう。その時の竹薮も今はもう新興住宅地になってしまっている。


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 母との往復書簡

もう60年も前の話である。 私は当時、中学1年修了時、満13年と8ヶ月で、陸軍幼年学校に入隊した。 まさに少年兵である。 陸幼では、出来るだけ頻繁にふるさとの両親に手紙を書くように指導された。 私は、陸幼に在籍した4ヶ月と15日の間に、両親宛だけで14枚も出している。 両親はそのハガキを全て大事に保管してくれていた。 従って、今も私の手元に残っている。 母からは5通の封書が来た。 それを私は大事に保管している。 そのうちの一部を、ありのままに、此処でご披露したい、と思う。 


家へのハガキ
昭和20年4月25日

父上・母上お元気でありますか? お手紙がないので心配しております。
もう、初夏の気候となりました。 報国神社の境内では「せみ」が、じんじんとやかましく鳴いております。 
昨日は「かんしん寺」から「楠ぴあん」へと行軍をなし、大楠公の忠誠の偉大なるに感心すると共に、又、七生報国の精神を磨きました。 
今、数学では方程式を習って居りますが、何も判らず大困難をしておりますーーー自習の時など泣きたくなることもあります・・・しかし頑張ります。
この三十日には帰るかもしれませんから、お楽しみに。 ではお体を大切に。 さよなら

大阪陸軍幼年学校 第四十九期生 第六訓育班 第三寝室   落合英夫

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母からの手紙
宛先 大阪府南河内郡長野町
大阪陸軍幼年学校第四十九期生
   第六訓育班第三寝室
      落合英夫 殿           
五月四日
落合加代子

この間は無事に帰ったことと思います。 あの時お前が京都駅のかいだんをのぼっていくのを見落としたので、まっすぐに行ってしまったのではないかと、私は心配して貨物置き場の裏へまわったりして、プラットホームを見渡しましたが、とうとうすがたを見る事が出来ませんでした。 けれどもきっと無事に帰校したことと信じて居ります。
今度はほんとに立派な姿を見て、私もお父さんも真実から嬉しく、そして軍人の母となった誇りをつくづく感じました。
お前と同じような年頃の学生さんは、学徒として勉強も休んで働いているのですのに、あなた方は何不自由なく勉強さして戴くなんて、只只もう陛下の御稜威のしからしむおかげです。 何卒この御国の御恩を忘れず、お前の本分は 学生としての修学にあるのですから、しっかりやり通して下さいますことを、母はひたすらに御願いいたします。 尚また修学院学校、一中の名を上げなくてはなりませんよ。 帰校の途中、お目にかかった青野先生も、ほんとうに嬉しそうでしたね。
明日は男の方の御節句でもありまして鷺森神社の御祭りです。 床の間に軍刀を飾ってお前の武運を祈りお国の必勝を祈りました。 よく警報が出ますが、何事にもよく気を付けて、身体は決して害ねてはいけませんよ。 この間帰ったときにお前が植えた畠の玉ねぎ、とても大きくなったので、見てもらうつもりでしたのに、わずかの時間でしたから、案内することが出来ませんでしたね。
また、お父さんも私も、お前が数学に困っているよしの話をきいて、ほんとうに心配です。はじめはなんといっても、二年生の方達のようには行きませんのですから、お母さんがいつも申すとおり「聞くは一時の恥聞かざるは末代の恥」という言葉があります通り、何卒どしどし先輩の方々にたづねなさいよ。
私も蔭ながら六勝神社にお祈りし、また兄さんのみたまにも御願いしています。 決して決してわからないからといって、嫌気が差してはいけませんよ。 あくまでも奮闘して兄様の様に頑張ってみてください。 幸いお父さんが来る十三日(日曜日)には大阪方面には御用がありますので、都合をつけてお前の学校へ参ります。 それゆえ自由に外出があっても学校にいて下さい。
そして静かなところでお前にわからないところの数学を教えてやりたいと言ってますから、、たづねておきたい事をしらべておきなさい。
お母さんは当分面会には行かれません。お前の元気な姿を瞼に描いては私も一生けんめい増産しますよ。
ではこれにて、御機げんよく。   母より
五月四日
英夫さんへ


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母との往復書簡 その2です。 ハガキ、手紙とも原文のまま、記載しております。但し、勿論、原文は何れも縦書きです。

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家へのハガキ (注 この日はハガキ二枚に続けている。 ちなみにこの時期、ハガキは五銭である)
昭和二十年六月二日

謹啓
御父上・御母上 御壮健なことと思ひます。 私も入校以来二ヶ月、病というものにかかる事もなく、至極元気に毎日を愉快に暮らしております故、御安心下さい。
敵機頻襲の今日、京都の防空態勢も、一家の防空態勢も完璧になった事と思ひます。
本校に於いても今後の空襲に対して、全校あげて防空作業をなし、又、冬夜袴を疎開させたりして居ります。 又、本校で増産中の農作物は見事に成長して居ります。 秋の大収穫が予想されます。 家の麦ももうすぐ麦刈りだそうですが、みなでどれほど収穫出来ますか。
この間の休養日(二十七日)は、御面会を謝絶致し、誠に相すみません事でありますが、お蔭で戦友と二上山に登山し、浩然の気を養いました。 京都こそ見えませんでしたが、遙か彼方の大阪湾がうっすらと見えました。
今、私達の間では、帰省の事で何やかやと言っておりますが、校長閣下の御旨は、一年生だけ帰省出来るそうであります、が戦局の良悪で、どうなるか判りませんから、あてにはしないで下さい。
昨日、B公(注 B29爆撃機のこと)二・三百機来襲しましたが、京都は大丈夫でありますか。 私達はB公が六機、あざやかに撃墜されるのを見ました。 
本日は体格検査及種痘・五寸釘(チフス豫防注射)がありましたが、私は体重は前検査より一.二瓩ふへ、また胸囲は二.九糎、身長も順調にふへて居ります。
いよいよ梅雨期に入りました。 父上・母上様どうかくれぐれもお体大切に。
                              敬具

大阪陸軍幼年学校 第四十九期 第六訓育班 第三寝室 
落合英夫

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母からの手紙  (わら半紙二枚に 追伸を含めてぎっしりと書いてある。 封筒は手製である。 ちなみにこの時の切手代は十銭である。)
昭和二十年六月十二日

大阪府南河内郡長野町
大阪陸軍幼年学校
第四十九期第六訓育班
落合英夫殿

もう急に夏が訪れた様です。 昨十日はお父さんが面会に参りましたが、ますます元気な様子を聞き、母もほんとうに嬉しく思っています。 私も一度参りたいのですが、何せ交通が許してくれないので、あの日も参れませんでした。 数学の方もよく分かる様になった由、何より嬉しいことです。 何事も研究心が大切ですから、いつも申す様に先輩にはどんどん聞くことです。 そして良い成績を上げて下さい。
農業作業も中々熱心なそうですが、今はどこも自給自足ですから、母も負けずにやっていますよ。 麦も二・三日したら麦刈りします。 
扨どの位ありますやら。 麦こがしにしておきましょうね。 今度外にお芋を植えますが去年の事思ひ出します。 お前がずい分深くたがやしてくれましたがね。 今年はあの様にこの母がやって見ませう。 
それから写真ほんとうになつかしく拝見させていただきました。 あの時に宿屋に一緒の方としては、蔭山様だけ分かりましたが、外の方は一緒には撮れていません様ですね。 皆さまの意気洋々としたお顔、未来の特攻隊勇士です。 誠に心強さを覚えました。
注射の後、気を付けてください。 余り無理せぬように・・・。
扨最近は頻々として敵機がきます。 十分気を付けて下さいね。 あんな物にむざむざやられはしませんから、母の方のことは安心して下さい。 もう実際、本土も戦場になりましたが、お互いに日本人の誇りを見せてやりませう。 篠原の叔母さんの子供も、しばらく当家にくる様です。 平野の叔母さんからは手紙が来たそうですが、あの叔母さんも余り淋しい山奥にいったので近頃は郷里がこひしく成ったそうです。 清水の孝祐君、今は中学一年生ですから、是非本年は陸幼を受験する様に、お前から進めてあげた手紙を出しておやりなさい。
隣のけんちゃん近頃は修学院校へ通勤しています。 では又、次の便りに致しませう。 くれぐれもからだを気を付けて鍛錬して下さい。
六月十二日
母より
英夫様

今日は昨夜よりしとしと雨降りです。 入梅らしくなりました。 お天気でしたら母達は、今日は農家へ麦かりに行く筈でした。  では さよなら

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家へのハガキ その3
毎日の陸幼生活で、特に話題のない時は、「元気です」とだけでも、書いて家宛てにハガキを出すようにと、上官より指導された。 実際そういうことがあった。 以下に7月末から、終戦の日までの3枚のハガキを、原文のまま紹介します。

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昭和二十年七月三十日

前略
壮健也

戦友皆無事帰校致し候
皆々様の御健康をお祈り致し候

七月三十日
           敬具

(注 陸軍幼年学校では毎日、就寝前に日記を付ける事になっていた。 しかもその日記は、必ず先ず墨を擦り、墨書するのである。 当然私なんかの日記は、従って、金釘調の連続であった。 が、墨書するということに対して、この時期、抵抗感はなくなっていた。この七月三十日付のハガキは、「壮健也」をハガキ全面に大きく墨書したものである。)

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昭和二十年八月四日

拝啓(家庭通信の内容事項をお知らせ下さい)
夏らしき気候と相なりました。 皆々様御健康のことと思ひます。 
私もあれより元気で愉快にはしてますが、実を言うと未だあの腹こわしが直らず、今もなほ継続しており、又この間は私の不注意より左足のひざに釘の突傷を受け、しばし入室(二日)及び練兵休となっている有様で、真に不孝な事ばかりして申分け有りません。 しかし今はもう足も直り、腹も時々刻々と善進しています。
學校の南瓜もいよいよ収穫期に入り、今迄の収穫より見、七トン位は取れる予定であります。 この間三年生の方が、一つで十瓩(三貫)もある南瓜を収穫されたのには、皆驚きました。 家の南瓜もこれに負けぬ様なのを収穫していること思ひます。
本日身体検査あり、私は無念にも又、一.四瓩減り入校時より減少という情なき事となりましたーーー。この秋にこそ体位向上、よくよく錬磨して必ず立派な成績を治める覚悟であります。
では皆々様の御健康を祈ります。

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昭和二十年八月十四日

拝啓
しばし御無沙汰致しました。 もう秋の虫の音を耳にするやうに相成りました。 私もあれから、腹も直り元気に毎日を暮らしています。
實は毎日の空襲の為、私の楽しみの遊泳、山地訓練もとりやめとなり、十三日には重い荷を背負ひ、この山川清美の地へ疎開してきました。 私達の作った飯をそこらに腰を下して食うこともなかなか愉快でおいしくあります。 又この修学院によく似た地でしばらく暮します。 日本も又、ソ聯と戦を開き、正に来るべきものが来、我々の意気は斗牛をつかんとするものがあります。 
では皆々様の健康を祈ります。

(注 このハガキは八月十四日夜、疎開していた錦川国民学校で書いたものである。が、翌日、八月十五日は早朝より強行軍にて、長野町千代田台の本校に帰り、正午、終戦の詔勅を拝聴することとなった。 ので遂に投函することなく、復員時、自宅へ持ち帰ったものである。)

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(注 以上、その1,その2,その3 全ての母からの手紙を通じて、文面には変体仮名が多く用いられている。 それらは、ここでは明朝体に変換している。 又、文面では、多くの場合、句点が省略されているが、此処では、読みやすくするために、私が、適当に句点を配置している。 が、文面そのものは、原文のままである。 六十年後の今となって、母の手紙を読み返すとき、当時を偲び、感慨無量と言う言葉では言い尽くせないほど、感慨無量である。)




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ほのぼのさんのエッセイ集です。音楽、写真付きです。お気軽にお立ちより下さい。


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