教科書裁判のスター・家永三郎様からの罵詈雑言


《まだ連載中で完結までにどのような論旨が展開されるのかわからないのに、意見を言うのは早すぎるかもしれないが、今後の連載が予定されているからこそ、今のうちに警告を発しておかなければ間にあわなくなるおそれが大きいので、あえて一筆する。
 それは、三月号から始まった「<検証>大学の現在」である。
〔中略〕東京教育大学閉鎖の日まで筑波大学反対を叫び続けてきた私は、このような連載が、事もあろうに、右旋回がなだれをうって進んでいるマスコミのなかで、毅然として孤塁を守って奮闘している『世界』誌上で掲げられるのを黙視できず、書痙の指をおしてこの一文をしたためた次第である。家永三郎(東京都 79歳 東京教育大学名誉教授)=「世界」九三年五月号》

→私がかつて「世界」九三年三月号から、編集部の依頼に応じて「<検証>大学の現在」という連載を開始し、のちにこれは『<検証>大学の冒険』およびその増補版『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』に収録されるのですが、連載初回時に家永三郎翁から「世界」編集部に投書がありました。編集部から事前に、「ビッグネームなので掲載せざるをえない」という旨の電話が私にあったことを思い出します。若い人は知らないでしょうが、風呂敷包みをもって最高裁の階段を駆け上る姿を、かつて何十回も重々しく報道され続けてきた家永三郎という爺様は、長い間「教科書裁判」のスターであらせられました。その熱烈な支援者は当時「教科書検定は違憲だ」と仰っていたのに、2001年に"右"からの歴史教科書が検定をパスするや、「なぜ検定を通したのだ」と、どう考えても歴史的に矛盾する運動をしておられます。それはともかく、家永翁が自ら筆をとる、などという事態は九三年にあっても家永崇拝者にとっては大事件≠ナあったようです。 ありがたいことですふにゃふにゃ。




急激な"旋回"をなさったのは家永さんではないのですか。

 私はかつて『「松代大本営」の真実』(講談社現代新書、九四年)という本を書いたことがある。その長い取材過程でも聞き書きの不確実性を日々実感した。三年ほど前、韓国の国営放送局ディレクター氏が私をインタヴューしたおり、「松代大本営の建設現場で韓国人は戦争が終わってからも日本人に銃殺された、と証言してほしい」と執拗に迫られたことがある。私は証言できる立場にはないし、しかも何より「戦争が終わってからも銃殺された」のは事実ではない、そんなことがもし万一あったら国際的な大スキャンダル(あるいは大スクープ)だ、と私は説明した。しかし韓国人ディレクター氏は、「韓国人がここで虐げられたことは事実なのだから、その象徴としてぜひ戦後の銃殺のことに触れてほしい」と繰り返し、ついに、どこから見つけだしてきたのか地元の研究者に「そのこと」を番組のなかで“証言”させていた。
 聞き書きに基づく著作群は、とりわけ半世紀前の大戦をめぐって爆発的に世に出された。その集大成ともいうべきは、家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店、六八年)と『戦争責任』(岩波書店、八五年)である。

《ここには一つだけきわめて具体的な記録を例証として引用しておこう。それは強制連行の実施に当たった吉田清治が自ら筆をとって著作した『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』に見える告白である。》(家永『戦争責任』)

 残念ながら、吉田清治氏の著作はご本人が創作であることを、のちに認めざるをえない代物だった。ここで敢えて指摘しておいたほうがいいと思うのだが、家永氏の手になる著作は、そのほとんどすべてが引用によって成り立っているのである。独自調査はカケラほどにも見当たらない。
『検定不合格日本史』(三一書房、七四年)は、家永氏が高校日本史の教科書を一人で執筆するという、よくいえば野心の発露だが、氏の実力からしてとうてい無謀な試みであり、実際、明らかに失敗作だった。

《井原西鶴がその第一人者で、鋭い観察力をもって現実を見つめ、町人の享楽生活や、利を求めるに敏な才覚、苦しいやりくりの生活などを軽妙な筆で巧みに写している。「好色一代女」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などがその代表作である。》

 本当に氏は西鶴を読んでいるのか? あのエロ小説を。まさか「西鶴の才覚」などと、冗談をいいたかっただけではあるまい。ともかくこのように家永本には無味乾燥な記述が延々と続き、これでもかこれでもかと高校生にひたすらの記述暗記を強いるひどく退屈な教科書である。そうして、ひとたび氏の専門たる現代史領域に入るや、文体はまったく異質なものになる。広島・長崎に原爆を落とし市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っているらしく、朝鮮戦争では家永氏が大好きな北朝鮮とソ連と中国だけが立派で、嫌いな韓国を侵略者にしてしまう。
 誤謬に満ちたイデオロギーの産物以外のものではない。氏自身が高校生に向かって説教した以下の一文を、なによりまず家永氏とその支援者たちに捧げたい。

《もし重大な問題について、学者の間に二つ以上の意見の違いがあることがわかったら、それぞれの立場の意見を冷静公平に検討し、他の意見を顧みないで一つの立場の意見だけにとらわれないようにするのが、正しい態度である。》(家永「日本史の研究方法」=『検定不合格日本史』)

 わかりましたか、家永さん。
 あなたは時流におもねるただの野心家であり、歴史学官僚のホープたる自分の主張に後輩の文部官僚が敬意を表せず突っ返してきたことが許せなかっただけだ。教科書裁判の支援者たちが、氏を反権力者と思い込んだのは、ただの勘違いであろう。彼はただ権力者になりたかっただけなのである。
 教科書裁判の支援者たちには秘密にしてきた家永論文の一つに、「教育勅語成立の思想史的考察」がある。これは戦前戦中ではなく、戦後になって堂々と学術同人誌に書いたものである(引用に際し現代語表記に改めた)。

《明治天皇は多くの人材を有し給えるが故に、(中略、教育勅語は)立憲政治の道徳を積極的に高揚している。(中略、勅語の内容は)すこぶる普遍性豊かにして、近代的国家道徳を多分に盛った教訓となっていたのである。(中略)勅語の不党不偏の精神の由って来る処は昭々として明らかと云わなければならぬ。(中略)天皇が如何に進取の御精神に富ませ給うたかは御製によって明白にうかがうことができる。》(『史学雑誌』第五十六巻第十二号、四六年十一月)

 よく知られているように日本国憲法が公布されたのは同年十一月三日であり、その公布に向けた議論の最盛期に家永三郎は何と明治憲法を称え、教育勅語を絶賛していたのである。天皇への臣民の忠誠こそが《国体ノ精華》であり《教育ノ淵源》なのだとする教育勅語が、失効したのは敗戦直後ではなく、一九四八年六月十九日に衆参両院で失効確認決議がなされるまで時間がかかっている。より正確にいえば、四六年十月からようやく公教育における教育勅語の奉読が禁止され始めており、まさにそのような時期に家永は勅語を死守し再評価する必要性を叫んだのである。その精神は、五〇年の天野貞祐・文部大臣による教育勅語擁護発言や八二年の中曽根康弘・総理による勅語賛美と何ら変わるところはない。
 タコツボに入りきった史学者の主流に迎合した家永氏の論文は、確かに反体制(笑)であったかもしれない。国体護持を先頭に立って戦後も(戦前じゃないよ)賛美していた家永さんには、森首相の「国体」発言の感想をぜひお聞きしたいものである。
 
(『偽善系』第二章「さらば二十世紀の迷著たち」より)







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