斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店、1,700円)
&『読者は踊る』(マガジンハウス、1,500円)
&『趣味は読書。』(平凡社、1,429円)
&『文章読本さん江』(筑摩書房、1,700円)
|
私が登場する、というほど大げさなものではないのですが、『文壇アイドル論』P188にチラリと引用されています。98年5月に私が「敢闘言」で立花隆さんを少し揶揄したものなどを例証として、斎藤美奈子さん、いわく――。
《「知の巨人」の威信も、しかしここ数年で急速に低下してしまいました。それまで批判らしい批判がほとんどなかった、その反動ででもあるかのように、立花批判は続出しはじめたのは一九九八年の春ころからです。「このおっさん、ちょっとおかしくないか?」という疑問を真っ先に公にしはじめたのは、一九六〇年前後に生まれた若手言論人たちでした。》
これを月刊「世界」(おお懐かしい!)に斎藤さんが書いていたのは2001年ですから、当時44歳の姐さまに42歳の私が《若手》などとためらいもなく呼称されるのはドキッというよりビクッとしてしまうわけです。
それはともかく、斎藤ファンには怒られるに違いありませんが、どこかの誰かと芸風がかぶっているところがあるようでありまして、誤解を恐れずにいえば、ネタは尽きないと思っているところ、批評対象にべったりせず常に突き放しているところ(究極的にはどうでもいいと思っている感じ)、羞恥心からか「自分つっこみ」を先にしてしまうところ、相手がお手上げさえしてくれれば満足で、しばしば笑いをとるためなら本筋から逸れることを厭わないところ、ですか。
決定的に違うのは、斎藤さんは引きこもりです。いや、失礼、そうではありません(か)。でも、部屋のなかで完結するお仕事が圧倒的ですね。本と雑誌さえあればよいってか。
しかし、じゃあただのお勉強の人かというと、それは絶対そうではない。先ほども示唆しておいたように、「よしもとばなな」論をやろうが、「アエラ」論をやろうが、ベストセラー評をやろうが、おもしろく、かつ、その本質をぐさりと抉れれば、批評対象がどうなろうと知ったこっちゃない、という感じ。 この人は、レッテル貼りの名手なのです、何よりもまず。
私が立花さんについてコラムを比較的シビアに書いたのは、「エコノミスト」98年5月26日号で、『敢闘言』として単行本化するに際して付した2行追記には《立花さんは、私の最も尊敬する書き手であり、割烹着をきせたら最も似合う男の人だと思います》と書きました。
このへんが私のダメなところで、割烹着が似合うかどうかなんて全然本質と関係ないのに、思いついたことを書かずにはおれない。まあ、全面否定とかヨイショは嫌だ、と思っているのではありましょう。
『立花隆のすべて』(文藝春秋)は、私の記憶が確かなら、月刊「文藝春秋」でいつも私を担当してくださっている(ここ敬語)M島さんが、全面的に関わった企画だったのではないかと思います。だから、《近頃の立花さん、どうしちゃったんだろう》で始まる私のコラムはいまから読み返すと、やや腰が引けている感じがします。私の言い分としては、当時は誰も揶揄する人さえいなかったので、まず一発目という思いではあったのですが。
そうしたら斎藤美奈子さんは、少し遅れてですが、この同じ『立花隆のすべて』を《希代のヨイショ本というべきこのムック》というふうにサラリと形容し、私が尊敬してやまない児玉隆也との対比では、こう書くわけです。
《大量の人員と経費を投入して真正面から対象に攻め入る立花式の「調査報道」は金持ちライターの、現場をこつこつ歩いて対象の匂いを伝えようとする児玉式の「ルポルタージュ」は貧乏ライターのやり方だった、ともいえます》
身も蓋もない感じってやつですか。
理系と文系の境界を取り払う、とかいわれる氏に対しては、こう断じます。《理科系といっても、それは生物学と宇宙論と先端技術の方向に偏っています。〔中略〕立花隆はなぜそんなにも環境ホルモンにハマったのか。〔中略〕立花隆のウィークポイント、それは社会学や歴史学など「人文科学系」の新しい研究成果と、あえていうなら「おんな子ども問題」です》
ふむふむ、と頷いていると、いきなりこちらにまでパンチが飛んでくるので油断はなりません。
《資料を俯瞰して驚いたことが三つあります。
第一に、立花隆に対しては批判らしい批判がほとんど見あたらないこと、第二に、たまに批判があってもそれらは概してガラの悪いいいがかりにとどまっており、批判者の小粒さをアピールしこそすれ、被批判者の名声をいささかも傷つけないこと。》
お、お、俺はガラの悪い小粒ですいませんでしたッ。
というふうに反省させてくれるわけです。ついでながら、《第三に、立花隆の周辺を固めているのは、賞賛者も批判者も男性に大きく偏っていることです》と、斎藤さんの「どつき」は続きます。
その後、例えば『立花隆「嘘八百」の研究』(別冊宝島Real)という出版企画で、斎藤さんも私も共著依頼を丁寧にお断りするわけですが(もちろん別々に)、たぶんその理由は同じだったろうと思います。全面否定に与する気にはなれない。批判するなら一人でやる。それに加えて斎藤さんの場合、「もうやったからいい」というのがあったに違いありません。
斎藤さんの手にかかれば、芥川賞や直木賞は《新人作家の中から自分たちの仲間に入れてやってもよさそうな人材を一方的にピックアップする一種の就職試験》であり、辺見庸氏の《『もの食う人びと』の読み心地は、存外、林望『イギリスはおいしい』あたりとよく似ている。〔中略〕二冊はともに贅沢さとは無縁の市井の食について語っている(だけ)の本である》し、竹内久美子の本に至っては、《毛色のかわった書き手をメディアはいつも求めている。読者なり編集者なりの期待に応えようと頑張りすぎた結果がこれだったのではないか、と思うと本当に胸が痛む》(以上『読者は踊る』)。
そんな斎藤さんが、また外に出ず部屋に籠もって書いたのが『文章読本さん江』と『趣味は読書。』です。ネーミングも達者ですね。
時期的には逆ですが、先に『趣味は読書。』から。これは、連載時にベストセラーを毎月1点とりあげ、「どついた」ものです。書き出しのワザに磨きがかかっています。
私の本も『買ってはいけない』論争がらみで登場するのですが、まあそんなかとはどうでもいい。「あとがき」からいきますか。
《平凡社のPR誌でベストセラー批評をやるということ自体が、アイロニーというかパロディというか、笑っちゃうしかない事態だったのだ。私がいうことでもないけれど、この時期、平凡社はかなりの苦境に立たされていて、看板雑誌の『太陽』は休刊するわ、自社ビルを売却して引っ越しはするわ、諸々の整理統合は進むわ、生き残りを賭けたサバイバル・レースをじつはやっていたのである。
はたで見ていると私も気が気ではなかったが、さらに同情すべきはPR誌連載時からの担当編集者、西田裕一さんである。毎月、取り上げた本の発行部数を聞くため、版元に電話をする。そのたび、彼は悄然とした声で訴えるのだった。
「部数を聞いたんですけどね、何十何万部とまでしか教えてくれないんですよ。それ以下は誤差の範囲ですからとか、ぬかして。数千部の本ばかりつくっている私たちは、じゃあ何なんでしょうね。誤差の範囲で仕事をしているんですかね」
とはいえ、こんなことを長くやっていると、だんだん感覚が麻痺してくる。誤差の範囲で仕事をしている西田と斎藤、ときには恐ろしい会話も交わすようになった。
「この本、思ったほど売れてないんですよ。一五万部だったかな》
大野晋『日本語練習長』(岩波新書)をクイズ本だといい、40年前に出た『日本語の起源』(同じく大野晋で岩波新書)の老読者たちが、この本に飛びついた理由は何か、それは《ぼけ防止、でしょう、たぶん》と難じる。
社会不適応が売りの中島義道には、おそらく彼が一番いわれたくない言葉を投げかける。《二〇万部も売れる本が書ける人は、本人がどう思っていようと、社会的不適応者ではないよ。むしろ適応しすぎなくらいだ》
私がこの人の書くものが好きなのは(この人は好きではないような気がする)、芸風がしっかりとあり、一つの連載や本のなかで、独特の「形」を守っているからだ。
っていうふうに例えば俺が書いた場合、ただの褒め言葉になるでしょ。そこを彼女は、自分で「どついて」おきながら、相手が転んだら指差して笑って去っていくわけである。よくわかんねえな。
私が、斎藤さんの本で最も賞賛したいのは『文章読本さん江』です。
谷崎潤一郎『文章読本』を《なかなか遊び心のある(またはオッチョコチョイな)本ではある》、井上ひさし『自家製 文章読本』も、《本多〔勝一〕読本に勝るとも劣らぬくどさである。思わず「阿呆はあなたではないか」と突っ込みたくなる》というような「どつき」は、毎度お馴染みでしょうから、くどくどこれ以上は紹介しません。
《文章は努力しだいで上達するのか、それとも「才能」に左右されるのか。文章読本中、これは最大のタブーである。けれども、ほかの分野に置き換えれば答えはすぐ出る。練習すればだれでも野球は上手になるが、だれもがイチローにはなれない。〔中略、しかし〕文痴の人が書くことを職業にしたら悲劇だけれど、そうでもないのに無理して文章修行する必要なんかどこにもない。必要が生じたら、たかだか書くしか能のない家来に任せりゃいいのである。〔中略〕
もうひとつの極端なタイプは、〔中略〕書くこと以外には能のない連中である。〔中略〕
となると、文章読本てのは、だれの役に立っているのか……》
とういような根源的な疑問にぶちあたり、ここから逃げず、むしろ果敢にこの難問に立ち向かい、明治の作文教育、戦前の綴り方教育への「お勉強」をぐいぐい進めてゆきます。ここらあたりは、たぶん"玄人"受けするところなのかもしれません。
ところで、ジャーナリスト系の文章読本は、なぜか朝日新聞記者かそのOBが書きたがるわけでありますが、《どうりで、ジャーナリスト系の文章読本には色気が不足していたはずである。彼らの念頭には人前に出ても恥ずかしくない服(文)のことしかない。文章はおしなべてドブネズミ色した吊るしのスーツみたいなもんになる。新聞記者の文章作法は「正しいドブネズミ・ルックス部すすめ」であり、〔中略〕ドブネズミ・ルックに慣れた人がたまに気張って軽い文章を書こうとすると、カジュアル・フライデーに妙な格好であらわれるお父さんみたいな感じになる。》
この人、やっぱり根性がねじまがっていると思います。
(「ガッキィファイター」2003年5月4日号に掲載) |
|