浅羽通明『ナショナリズム』(ちくま新書、900円)
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本書は、マンガ家小林よしのり氏の言説から説き起こされています。思えば、 小林氏や「朝まで生テレビ」が10−30代にとって「僕たちの論壇」(浅羽氏) としてパワーをもっていたのは、今から10年以上も前のことでした。
《フリーランスの人気マンガ家である小林がそれまで理想とした人間像は、プ ロフェッショナルとしての職能への誇りこそをアイデンティティの基盤とする、 自立した個人といったものだった。ゆえに、社会運動は、そうした個人たちの 自由な参加で盛り上げられ、目的を達すれば参加者は、各自の日常の持ち場へ 戻ってゆくものであると考えられた。
しかし、それは甘かったのである。〔中略〕
プロフェッショナルである誇りのみで、正義を掲げる組織や教祖の勧誘など でぐらつかない個を自立させ得る人など、実のところ小林よしのりのような才 能ある自由業者などごく少数しかいない》(P17)
たまたま私は「自立」という概念を何よりもまず、行動の是非についての判 断に求める家庭に育った(キリスト教など一神教では、神との対話によって自 分の行動の是非を問う、そのような非他者依存を自立と呼んでいる)ので、浅 羽氏が使用する自立とは必ずしも重なりません。
が、かつて小林氏が理想とした、《プロフェッショナルとしての職能への誇 りこそをアイデンティティの基盤とする、自立した個人》は、確かに浅羽氏が 言うとおり、一種エリート主義的色彩を否定できない、と私も思います。
《誰もがそこからアイデンティティを汲みとるべき集団、その一員であると実 感することで、生き甲斐と安心を享受できる集団とは、具体的になんだろうか。
社会、公、世の中、人々などと呼ばれるこの集団とは、とどのつまりは「国」 なのではなかったか》(P18−19)
なるほど。そう来ましたか。この国で、超少数派であるカトリックの家で育 った私など、その信仰から"自立"する15歳まで帰属意識の大半はカトリックの 教会に向けられていました。もしイタリアやスペインで生まれ育ったら、教会 と国家は重なったと思いますが、日本ではまったく異質です。
しかし、とりあえず《ナショナリズムを、このネイション=「国」=日本に 価値を認め、そこに基底をおいて展開される社会思想》(P21)と捉えると、 日本のカトリック信者も例外ではない、ということになります。
優れた思想的言説は、かなり極端な体験や環境をも包含するところに真価が あります。本書もその例外ではありません。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』についての国家論的分析では、近代的個人とし ての「持ち場」が強調されています。社会思想として論じられているので、や や難渋な感もないではありませんが、要するに、それぞれの持ち場で使命を果 たす、ただし、それが自己完結的ではないところに近代的個人が成立する、と 言っているのだと思います。
《〔『坂の上の雲』では〕辺境の漁民が、諜報員が、科学者が、当然ながら参 謀、軍司令部、将兵が、また外交官、政治家らが、その持てる各々の能力を、 その持ち場に応じて発揮し尽くして、国難に当たろうとフル回転をしている》 (P196)
これは、確かに「プロジェクトX」にもそのまま通底するものです。
戦後の右翼も左翼も、現状に並外れた不満をもち憂国を信条とする点で似た ようなものだったと私は思いますし、おそらく浅羽氏もそのように考えている のでしょう。浅羽氏は、それらを表層的に批判するのではなく(そんなことを したら同じ穴のむじなになります)、それらの歴史的必然性を抉り出そうとし て本書が成りました。
実際、例えば5年前より現在のほうが、明らかに大リーグへの関心は日本人 のなかで際立っています。ただし大リーグへの関心は、野茂やイチローや二人 の松井その他に対する「誇らしさ」がその実態でしょう。
そうしたことを時評的に論じるのではなく、原理的に論じようとするとき、 日本の思想史を紐解くのは最低限の義務だという点で、本書『ナショナリズム ――名著でたどる日本思想入門』は、最良の書き手を得た、と思います。
(「ガッキィファイター」2004年6月10日号に掲載) |
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