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使える悪魔の辞典
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あ:アイデア
現代において「アイデア」や「企画」とは、決して突飛な思いつきのことではない。市場価値をもつ「企画」が、たった一つの「アイデア」から成り立っていることは皆無だと言っていい。そもそも「アイデア」が「企画」になるためには、説得力つまり論理が不可欠となる。
斬新なアイデアに基づく企画や商品が高い市場価値をもつためには、小さな工夫(アイデア)が数十もそのなかに鏤(ちりば)められているのが実際である。
あ:アカデミズムとジャーナリズム
しばしば前者は後者の俗物性と尻軽さを笑い、後者は前者を象牙の塔と呼んでその閉鎖性とオタッキーさを嘲笑してきた。しかし、これらは短所であるとともに長所でもある。例えば尻の軽さは反応の迅速さであり、オタッキーさは専門的熟知と近似する。
もともとアカデミズムとは、ギリシアの哲人プラトンがアテネ郊外に創設した私塾アカデメイアに由来する。そこでは世俗的禁欲によって学問の純粋性が追及された。
他方、ジャーナリズムとは、時事的報道のことであり、もともとは「日々の」を意味するギリシア語(diurnal)を語源とする。英語ではdailyとなった。
それぞれインプット(前者では研究、後者では取材)とアウトプット(前者では論文、後者では記事)の形式は分かれてはいるものの、これらに本質的な差異はない。研究は過去や類例を踏まえて現在に問い、取材も過去や類例を踏まえて現在に問う。その素材が人であれ、文献であれ、実験データであれ統計であれ、研究と取材のあいだに方法論的な相違などない。
現代においてアカデミズムとジャーナリズムとは、ではいったい何が異なるのか。本質的には「スピード」である。
比喩的に言えば、アカデミシャンはmonthlyないしyearly(annual)という尺度で活動し、ジャーナリスト(とりわけ新聞記者)はdailyあるいは momentlyという尺度で動く。
組織の一員としては、今後ますますその傾向を強めざるをえないであろう。
では、(組織に属しながらも)どうすれば自律できるのか。
ジャーナリストはアカデミズムの、アカデミシャンはジャーナリズムの方法を積極的に採り入れることが肝要だ。
アカデミズムは論証の方法が圧倒的に優れているものの、現実問題との格闘から逃避しがちであり、生産性が低い。ジャーナリズムは時事性に優れているけれども、「そこにないもの」を捉える力が欠損しがちであり、仮説を立て論証する経験知が総体として弱い。
これらを互いに補えあえば、確実にいい仕事ができる。
それは、何もこの二つの世界の住人に限ったことではない。
い:石原慎太郎
一右翼。「爆弾が仕掛けられて当然」発言など、言葉に責任をもつ作家や都知事として理解しようとしてはいけない。典型的な一右翼としての発言と正しく捉えれば、これまで繰り出されてきた問題発言の数々も氷解する。
う:浮気
プライオリティ(優先順)が第2位以下の恋。
か:可能性
おとなは子どもに向かって、「きみたちには無限の可能性がある」という言い方をよくしてしまう。しかしその意味するところの実際は、「きみたちはまだ何もしていない」である。これは別言すれば、「きみたちには決められた予定はまだない」とも同義だ。もちろん、未定だらけであることは、決して悪いことではない。
最近は、お受験しかり、愛国心なき公務員志向しかり、二世議員しかり、すでに決められた予定を走らされる人々が再び(封建時代以前がそうであった)増えている。徹底した「予定社会」になると、子どもたちは夢をもてなくなる。
夢をもつ、ということは、予定調和的な社会にしない、ということと実は同義なのである。
き:記念切手
3月9日は記念切手記念日なのだそうである。1894(明治27)年3月9日に日本初の記念切手が発行されたことを"記念"したのだとか。歴史をひもとけば、この日は明治天皇の銀婚式にあたり、それを祝した2銭と5銭の記念切手が確かに発行されている。この日本初は、世界では4番目であった。
そもそも「料金前納証票」としての郵便切手が登場したのは、1840年、英国でのことだ。この「前納」システムは大成功をおさめ、世界各国もこれに倣っていくことになる。
高校の教科書には、こう書かれている。
《1871(明治4)年に前島密(まえじまひそか)の建議により、飛脚にかわる官営の郵便制度が発足し、まもなく全国均一料金制をとった》(『詳説日本史』山川出版社、2004年版)
ここで1871年というのは、同年4月20日(新暦では3月1日)、東京‐大阪間における郵便集配のスタートを指す。切手は、48文(もん)、100文、200文、 500文の4種が発行された。現在のようなギザギサ(目打ち)や裏糊もなく、ご飯粒をつぶして貼るほかなかったと思われる。
20世紀初頭までは、各国で発行される記念切手はドメスティック(国内行事の記念)だったが、郵便も国境を越えることが常態化するようになる1930年代になると、ナチスを筆頭に宣伝媒体として記念切手を活用するようになってゆく。したがって最近、竹島をめぐる切手騒動があったが、あれはむしろ記念切手的王道であるとも言える。
元来、郵便料金前納証票である切手が、第三世界や旧東欧社会主義諸国では外貨獲得の手段となったり、旧ソ連や中国では(世界の蒐集家に向けて)イデオロギー的PRのために、多くの種類を発行したりするようになる。もともとの使用価値とはズレてゆくわけである。このズレが、「使用を前提としない」記念切手となる。発行する側からすれば、ぼろ儲けができる。
日本では、最初は年間数種類であった記念切手の発行が、1970年代末には50 種を超え、2003年には120種類と乱発されるようになった。年間50種ということは週1のペースである。120種ということは、3日に1種が発行されたことになる。切手愛好家は、30種を超えた時点で多くはギブアップし、むしろ記念切手の売上げに翳(かげ)りが見えてきたのは早くも1970年代からだった。
日本では、なぜ記念切手が乱発されるようになったのか。
それは、逓信省(総務省さらには郵政省の前身)の次官通牒(通達)第1069 号(1947年6月)ゆえである。
この通達によって、各省庁が記念切手を提案した場合にはそれを受け入れる用意ができたことを伝え、省庁ごとに記念切手の「発行枠」を実質的に設けて、それを既得権の一つに加えることになった。
だから今でも文部科学省やら外務省やらが、よく訳のわからぬ何とか記念だかを祝うヘンテコリンな切手が「既得権としての省庁枠」に応じて乱発されてきたのである。
郵政改革郵政改革と大上段にふりかぶる前に、莫迦げた省庁ごとの記念切手発行枠を廃止せよ!
こ:こんだら
「こんだら」というのは、野球などでグラウンドを整備するためのコンクリートの塊みたいなローラーのことだと、小さいころ思っていた。
「巨人の星」の主題歌の出だしで、「重いコンダラ、試練の道を、行くが男の、ど根性」というのがあったためだ。大リーグ養成ギプスまでつけながら、あんな重いこんだらを毎日引っ張って試練の道を行く星飛雄馬、おまえはなんてすごいやつなんだ!
いったん"思い込んだら"なかなか気づかない。<
し:仕事
仕事の本質は「依頼」と「締め切り」にある。同じことだが、仕事と趣味を分かつのも依頼と締め切りの有無である。
依頼があり、それを引き受けることによって仕事が始まるということは、「時代の最先端」が実は注文(依頼)に内在している、という事実を示唆する。できることがわかっている依頼に最先端は宿らないが、「できるかどうかわからないができることが望ましい」という依頼は最先端たりうる。
スピーカは大きいほど音がいい、とされた時代に「携帯可能なステレオ(ウォークマン)を」という依頼は、まさに技術的に最先端の要請だった。
また、コピー取りから大プロジェクトに至るまで、締め切りがあればこそ、仕事は(失敗も含めて)完結し、給料も発生しうるのである。
教育や公務に無意味や自己目的や無駄が多いのは、締め切りに対する感覚が希薄なためだ。
逆に言えば、学校教育や公務を納税者サイドに改善するためには、締め切りの厳格な設定が確実に奏功する、ということになる。
せ:説得力
説得力は、どれだけ多種の異論や反論を想定しながら主張できるか、にかかっている。自分の意見が当然受け入れられるだろう、と思っている者は説得力から最も遠い。なぜなら説得力とは、主張する側の問題ではなく、納得する側の問題だからである。拝聴または読書する側には、幾多の異論や反論があるのが当然であり、それを2種と想定するか、7種と想定するかで、説得力のパワー・レベルも異なってくる。その意味で、説得力に富む人は、外見上は傲慢で嫌な奴に見えることもあるが、真の意味で謙虚でないと為せるものではない。
せ:専門家
特定分野の新刊や研究論文に概ね10分程度で目を通し、その「新しさ」と「意義」について、著者も納得のゆくかたちで評価を下せる人のこと。
せ:戦略
戦略なき交渉は、時間の無駄遣いか、ただの博打(ばくち)である。戦略とは、もともと種々「戦術」の上位概念であり、目的を遂げるための作戦計画のことだ。その前提には、自らの位置と実力計測(ポジショニング=自己客観視)が正確にできていなければならず、この前提を見誤ってしまえば、いかに戦術を多々もちあわせていたとしても敗北は必定だろう。
狭義で戦略とは、最悪の事態を想定し、それを避けること。
広義で戦略とは、夢を実現する手順のことである。
例えば原稿料をこれだけ稼ぎたい、と思うライター予備軍がここにいるとす
る。その能力があるとしても、戦略(幾つもの局面に関する見取り図)がなけ
れば、夢の実現は不可能に終わる。戦略とは、究極的には、一手先を読む者よ
り三手先を読む者が優れ、三手先を読む者はさらに五手先を読む者に劣る、と
いうことの連鎖にほかならない。
これからエベレスト登頂に挑戦しようとする場合、バリ島の海岸を散歩する
ような格好で出かけるのか、最悪の事態をも想定しつつ、七手先、八手先まで
読み込んで準備をしつつ、ある飛躍を(明確に意図して)実現しようとする者
の、いったいどちらが成功確率は高いか、と考えてみればよい。
何かに「なる」には、努力なのか能力なのかと、たやすく問う人がいる。一
般に、問う者によって答えが異なることを知らないのだとしたら、それは社会
性のある大人ではない。だが強いて言えば、「合理的な努力を続ける能力は要
る」とだけはテーゼとして抽出できる。
ここで「合理的な努力」とは、いわば要領のことだ。そして、何かで「あり
続ける」ために必要な技能の筆頭は、おそらく速さである。
ち:知識
前世紀まで、知識とは薀蓄(うんちく)のことだった。薀蓄とは、相互の関連性を問わないリベラルアーツ(一般教養)と同義である。一般教養とは、すでに書物や口頭で流通している過去の情報断片にほかならない。今や知識とは、成果を生むために集約された説得力全般を指す。現代社会は確実に、そのような新しいパラダイムに移行した。
なお、知識を有機的に結びつけ成果を生む場が組織体である。
旧態依然の使えないシステムを変えるのは、「自分だけ正義」の運動ではな
く、新しいパラダイムにおける知識(マネジメントを含む説得力)が軸となる。
そのような新型知識を目的達成のため包括的に駆使できる人材を「仕事ができる」と呼ぶようになってきた。
で:デキる社員
デキる社員の比率は、どう考えても2割以下である。にもかかわらず、自分のことをデキると思っている社員比率は8割を超えてしまう。
ど:努力
努力は、言わば現状否定の現われである。現状の自分に心底満足できない人
だけが努力をする。ただし努力には、無駄な努力と、着実有効な努力とがある。
な:内政干渉
台湾の元総統が日本に入国するに際して、また中国政府が日本大使を呼びつけ、やいのかいのと言ってきた。
このような外交は「内政干渉」だと、よく指摘される。
しかし、よく考えていただきたい。
およそ外交とは、国益(自国の利益)を実現させるため、主として相手側に
そう仕向ける戦略のことである。
したがって、戦略的外交というのは同義反復であり、政府による戦略的でな
い対外言動は売国的とならざるをえない。
また、あらゆる外交の要諦は、ある取り決めをするに際して、その直前にど
こまで条件をつけさせるか、にある。
私はここでかなり重要なことを言っているのだが、あまりにも簡潔に書きす
ぎたので、大したことではないと思わないようにしていただきたい。
さてそうすると、中国側の言動は確かに不愉快だが、しかし他国がなす外交
的発言は、ものの道理として内政干渉とならざるをえない、ということがおわ
かりいただけるのではないか。
内政干渉とならない、他国に関する外交的言辞というのは存在しない、と考
えてよいのである。<
ひ:秘書
かつて秘書は、補助労働であった。雑務をこなす人だった。
指示するものと指示されるものの関係である。
今後は、そうではない。
最も秘書的能力に優れた人が、上に立つ時代だ。
現代社会において秘書的能力とは、調整と創意工夫のことだからである。
雑務のできない「優秀な人材」などいない。
ひ:人質
約束を守る保証として預けておく財物を「質」という。『竹取物語』にも《もし金たまはぬものならば、かの衣の質返したべ》とある。財物に限らず、しばしば妻なども質入されることがあり、これも当初は約束履行の保証であったが、転じて、自分の要求を飲まなければ容赦はしない、という形で相手方を恫喝するときにも「人質」と呼ぶようになった。
相手方に要求が発せられない限り、拉致または誘拐である。
よ:世論
新聞社だけが「ある」と思っているステレオタイプな集計のこと。
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