以下の4人の文章は、いずれも「噂」1972年3月号の巻頭特集「はじめての 原稿料」に掲載されたものです。
月刊「噂」は、多筆の人・梶山季之が私財を投じて刊行した文壇ゴシップ誌 でした。
ひと世代前の「古き良き時代」と言えるのかもしれません。
今でも、良きことはたくさんあるのですけれどもね。
とにかく、33年前の証言を"ライブ"でお聞きください。
◆東海林さだお氏の場合「1頁分で1週間は楽に食えた」
かれこれ十年ほど前、ぼくはいわゆる「持ちこみ」ということをやっていた。
描きためた原稿を持って、あちこちの出版社を訪問して歩くのである。
いってみれば、行商人と同じで家の中で製造した漫画を、今度は販売して歩 くわけである。〔中略〕
そんなことをしているうちに、「これ、あずかっておきましょう」といった ような雲行きになり、「こないだのあれ、載せましたよ」というようなことに なってきたのである。
それから一週間ほど経つと、「こないだのあれ」は、本当に雑誌に載り、更 に一週間ほど経つと「これ、こないだのあれの分」と言って一枚の紙きれが手 渡されたのである。
「こないだのあれ」は、二千二百五十也の小切手に変貌していたのであった。
それまで、小切手などというものと、全く縁のなかったぼくは、それをただ マジマジと見つめるだけだった。〔中略〕
銀行へ行って、小切手の裏に、住所と氏名を書き、椅子に座って待っている と、しばらくしてぼくの名前が呼ばれ、ぼくは、うやうやしく前へ進み出て、 二千二百五十円也をチャリンと受けとり、一礼して引き下がる。
どういうわけか、区役所で、生活保護のお金をもらっているような心境で あった。
当時は、二千円もあると、約一週間は楽に食うことができたのである。〔中略〕
だから、雑誌に一頁掲載されると、これで一週間は楽に食える、とホッとし たものだった。
そうして、またせっせと、漫画の製造と販売に精を出す毎日を繰り返すこと ができたのであった。
◆福地泡介氏の場合「1枚10円の快感」
《早稲田にはいって、「漫研」に参加したら、そこに園山俊二、しとうきねお、東海林さだおらがいた。
ぼくが漫画家になったのは、結局ここでこの連中に出会ったからであるが、 それにしてもどうしてこう揃ってプロになってしまったかである。
就職事情の悪かったせいもある。「優」をいくつ以上とらなければちょっと したところへ就職できないばかりか試験さえも受けられない。
一年生を終わったところで「優」の数がわずか二つか三つだった。東海林に きくと一つだという。ここですでに一流会社への就職はあきらめた。
二年生を終わったときにそれでも、もう一つぐらい「優」がふえていた。東 海林にきくと一つもふえていないという。二流会社もあきらめた。〔中略〕
「早稲田祭」に「漫研」も「大漫画展」をもって参加した。
展覧会場で早稲田祭記念にマンガハガキはいかが、とばかりにチョコチョコ とヘナクソな絵をかいて即売をした。これがとぶように売れた。一枚10円だか ら大きな顔はできないけれど、並んで待たせてつぎからつぎへとかくそばから 売れてゆくのである。
売れっ子漫画家の味をあじわって悪くはなかった。
みんなで机を並べて、せっせと描きとばし売りとばしたので、なん万円かに なった。
このカネはぜんぶ飲んでしまったようである。「優」の数のことなど忘れて 楽しかった。
園山俊二もしとうきねおも東海林さだおもぼくも、あのときの快感がそのま まくせになってしまったのか、今でも原稿料を飲んでしまっている。》
◆近藤日出造氏の場合「超薄給の貴重な一年」
漫画家は、小説家などと同じように"自由業"なんだそうだ。自由業というや つ、おれは漫画家、おれは小説家、と本人が腹をきめたとき、成り立つものら しい。資格試験があるわけじゃない。月収いくら以上、という条件が必要なわ けでもない。収入皆無、しかしおれはプロの漫画家、プロ作家、と本人が思い 込めば、プロ漫画家、プロ作家なのである。自由業者なのである。世間にそう 宣言してもしなくても、そうなのである。上手でも下手くそでも、そうなので ある。
全然稼ぎのないプロフェッショナル……つらいことだ。しかし、自由業の自 由は、このつらさの覚悟から生まれる。飢え死の覚悟のないやつが自由、自由 としきりにほざくあの腹立たしさ。〔中略〕
ところで、純度いかに高くとも、腹は減る。〔中略〕
委細面談の結果私がそこ〔新聞の三行広告で見つけた漫画映画製作所〕へ住 み込む気になった大きな理由は、階下にひしめく芸者の群れのせいだった。 〔中略〕
月給五円、いま〔一九七二年〕の金にしてもせいぜい七、八千円という超薄 給ながら、あれは、金銭にはかえられない貴重な一年だった。》
◆鈴木義司氏の場合「封筒が分厚くそっくりかえっていた」
《昭和28年。当時25歳。福岡の夕刊フクニチ新聞から連載マンガの話があった ときは跳び上がって喜んだ。ほんとにピョンピョン跳んだのである。
その頃、平凡・明星・講談倶楽部・そのほかの倶楽部雑誌に描いていたが、 なんとなくお先まっくら。
マンガの原稿料でどうやらメシが食えて安酒も飲めたが、質屋から年賀状を もらっていたから金はなかったのだろう。〔中略〕
さて連載マンガを描くことがきまり、西銀座の東京支局で支局編集部と会っ た。
「原稿料は一カ月四万五千円ですタイ」
わたしは飛び上がりそうなのを腕にぐっと力を入れてヒザをおさえた。原稿 料のことなどぜんぜん考えていなかった。当時、通信社をとおした地方新聞の 連載は一カ月一万五千円ぐらいだったし、一社の場合は七千円なんていう噂も きいていたからである。
それが四万五千円。
しかし支局を出てから待てよと思った。四万五千円、これは聞きちがいかも 知れない。たしかにヨンマンゴセンエンと聞こえたのだろうか。ヨンマンじゃ なくてヨマンとも聞こえたような気がする。さいごに……タイと博多弁がは いったことはたしかである。
すると博多弁でヨマンというのは一万円のことかも知れないゾ。それにちが いない。博多弁でヨマンは標準語の一万であるときめた。
九州出身の友人の画家にこわごわと、博多じゃ一万円のことをヨマンエンと 言うのかと聞くと「そげんなことなかバイ」という返事。
そげんなことなかバイというのは、そんなことはないよという意味にちがい ない。
だけど「そんなことだろうよ」という意味かも知れないと疑りはじめた。 〔中略〕
一カ月後に原稿料をもらったら、数えなくてもすぐわかった。四万五千円で ある。
当時まだ一万円が無かったから千円札で四万五千円である。封筒が分厚く そっくりかえっていた。》
(「ガッキィファイター」2005年2月15日号に掲載)