「コネなし文章力なし取材体験なし」家田荘子さんの場合


 家田荘子さんは、日本大学芸術学部在学中から女優として活動していたので すが、あまり売れずにノンフィクション作家となり、『極道の妻たち』が大ベ ストセラーになりました。『私を抱いてそしてキスして』で大宅壮一ノンフィ クション賞を受賞しています。一貫して「セックス」を得意分野にしてきた書 き手です。
 ベストセラーを連打する彼女が、『私がノンフィクションを書く理由』(角 川文庫、1993年刊。親本は『ドキドキ心の取材日記』実業之日本社、1988年 刊)で初めて文筆生活の内実を書きました。

 1980年代の初め、週刊誌の編集部にネタを1本もってゆくと、毎週2万円を もらえた、というところから彼女のライター生活は始まります。

《「家田さんは、どんなジャンルの記事なら書けると思う? 例えば政治とか、 経済とか、経済とか……」
 ジャーナリストに聞かれて一言、
「せ・っ・く・すです」
 これが、私が初めて業界の人とした仕事の会話だった。二十三歳の時だった から、もう六年も前〔一九八一年ころ〕の話になる。〔中略〕

 銀座で喋ったことを、そっくりそのまま編集長の前で喋らされた挙句、「そ れを全部書いてみなさい」
 原稿にすることになった。何も原稿らしきものを書いたことのない私は、原 稿用紙に書くと言うことも知らずに、横書きでレポート用紙に、書いて行った。 〔中略〕

《当時の唯一の定期収入源というものはこの"ニュース足報"しかなかった。二 八〇字詰め、週刊文春と書かれた粗雑な、けれども書き易い原稿用紙に二、三 枚、ネタを書いて持って行くと、二万円(二本載っても二万円は二万円だった ので、ずるい私は、以後、一本にした)。一ケ月で八万円、ボツにならなけれ ば必ず入ってくることになる。しかし、八万円ではくらして行かれない。私は、 仕事中にできあがったツテを頼りに色々な出版社で仕事もやらせてもらえるよ うになった。

 週刊サンケイで時折四ページもの体験レポートの仕事を貰って苦境を救われ、 その他は講談社のいろいろな雑誌で取材記者をして生活をたてさせてもらって いた。それでも足りない分は、父親に猫なで声の電話をかけていた私にとって、 週刊文春の定期収入の有難さには、絶大なものがあった。
"ニュース足報"のために、毎週毎週今まで掴んでいたネタを小出しにしていっ たところ、ついに予期せぬ事態が発生してしまった。
 ――ネタ切れ。

〔中略〕最初は、コーヒー一杯ですんでいた幾人かの私のネタ提供者達は、時 には食事もしたくなった。彼らを維持(キープ)するためには、関係ない時で も電話をしてみたり、さし入れをしたり、ブラインドデートの仲人をしてあげ たり……。要するに何でも屋代行を私がしなくてはならなくなってしまった。
 そのうち二万円の原稿料の内、私の取り分は一万円だけになり、さらにホス テスさん達から話を聞く時などは、その店へ行って一番安いウーロン茶などを 飲んだりしなくてはならなかったから、楽に赤字になったりした。》

 書き写していて、この方は掛け値なしで文章が下手だということに嫌でも気 づかされますね。セックスやヤクザをネタにしたのは大正解だったと思います。 でも、型破りの彼女は、まさにそれゆえに、独自の取材方法とテーマを貪欲に こなしていくことになったのでしょう。

《二十五歳になろうとしていて、そろそろ私は生活の安定が欲しくなっていた。 足報だけでは、取材費が嵩(かさ)み、定期収入と喜んでもいられなくなった。 だから取材班の中に入れて欲しかった。それがすごくおそれ多いことであると も知らずに。週刊サンケイの当時編集長が、半年ほど前、収入のことを考えて 契約社員にと言ってくれたのに、
「いいえ、フリーがいいです」
 遊ぶ時間欲しさから断ってしまった。後から考え直して、〔契約社員でもい いと〕お願いに行った時には、もう遅かった。》

《とるものもとりあえず、一分でも早く! と週刊文春の編集部まで走って 行った。〔中略〕編集長を捜す。
「編集長、私、極道の奥さんの取材やりたいんです」
「極道の奥さん? 家田くんが?」
「はい」
「それは、いい考えだと思うよ。ウチでもちょうど誰かにやってもらおうかと 思ってたところだから」
「(誰かに? とんでもない)じゃ、私にやらせてください」
「でも、コネとか、あてはあるの?」
 まったくなかった。
〔中略〕
「あります!」
 私は全身に力を込めて、そう答えた。
「じゃ、すぐ始めて」
 意外にも編集長はすぐにOKをしてくれた。〔中略〕
 早速、二十万円を前借し、ツーステップで外へ飛び出した。》

 こうして、この連載後に『極道の妻たち』が出版され、大ベストセラーに なってゆきます。

《私は、『極・妻』の売れ行きなど考えてもいなかった。ところが予想に反し て再版が重なり、映画、テレビ化と決まっていくうち、いろいろな人が近づい てきてくれるようになった。〔中略〕
 どの人もどの人も第一声が「儲かったでしょ」。
 私は、まだ取材のために作ってしまった借金返しに印税を右から左へ流すだ けで精一杯だった。それで聞く度、泣いていた。〔中略〕

「よかったね」「本、面白かったよ」の一言でも言ってもらえたらたとえ儲 かったでしょうと言われても救われるのに。そういう人達に限って絶対言って くれなかった。》

 彼女はその後、出家して「紫永」という名の尼僧になりました。



(「ガッキィファイター」2005年3月10日号に掲載)



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