ご質問をいただくまで、どなたかに伝えようと思ったこともないテーマでした。プロゴルファーに「どうして君にはハンディが無いのか」と問うようなものかとも一瞬思われましたが、ゴルフボールを叩くことよりも、「読む」「書く」「聞く」「話す」は実に多くの人にとってポピュラーな生活行為なので、これは少し真剣に自問自答したほうがいいのかもしれない、と考え直しました。
お話しすべきことは三つあります。
まず 第一は、得意・不得意 ということがあります。そんなのあたりまえだろうと、笑わないでくださいね。これは、まじめな話です。確かにある意味では、プロゴルファーに「なぜスイングが速いのか」と訊いた場合と同じ種類の回答になるかもしれません。
不肖私に関していえば、以下のようなことがありました。
十代まで私は自己評価が(実際の実力や位置より)非常に高い子どもでした。小学生のころから「人様の上に立つ」ことに人一倍意欲的で、小学四年生(四年から生徒会長に立候補する被選挙権がありましたが、実際には五年生と六年生が役員を独占していました)で生徒会長選に立ち、このとき落選したのはご愛嬌としても、今度こそ同学年から三役が出る時期(五年生の二学期)に再度立候補したとき、私自身はどう考えても生徒会長に当選するはずでしたが、開票の結果なんと次点ですらなく三位で、会長と副会長に次ぐ「書記長」になってしまいました。結果、その年度だけ会長と副会長より"偉い"書記長が誕生したことはいうまでもありませんが、しかし選挙で会長になれなかったことは、私には不可思議というか、とにかく傷ついたわけです。
その後の中学と高校でも、私はいつも部活や生徒会長などをめざすのですが、なぜだか推薦さえされないという屈辱を味わいます。かわいそうに。
今の学校なら「長」になるのを避けるというか、いじめの対象にさえなっているようですが、そんなことはどうでもいい。とにかく、トップをめざしていたのに、学校のトップどころか、 クラス長にさえ推薦されない。なぜ?
部活では、中学のときには吹奏楽部、高校では弓道部に所属しておりました。私は同学年から部長が選出されるにあたり、当然自分が推薦され部長になるものと"覚悟"しており、その責任の重さをひしひしと感じておったわけでありますが、数名が推薦されたのち投票という段取りであったにもかかわらず、最初の関門で私の名前がない!
吹奏楽部で私はトランペットを吹いており、最初の一年間は本気で将来「トランペッターになる」と決めていました。今は亡きニニ・ロッソの公演にも行きました。ところが二年生になり、新入生が入ってきて、さらに一年が経ったころ、後輩のほうが上手いことに私は気がつきました。どうなってるの。
その後、私は弓をやり、ゴルフもやり、プロ指導者についてテニスを習い、スキーも本格的にやり、ダイビングも、乗馬も、とにかくいろいろな種目に手を出しました。飛行機だって操縦したくらいだ。しかし、それなりに少しばかり上達してくると、 ああ俺にはこの道の才能はない 、ということに嫌でも気づかされます。趣味にはなっても、プロにはなれない。
それに、たとえ何かで(800メートル背泳ぎでも、キュウリの千切りでも、足の裏の臭さでもいいから)学年トップになれたとしても、市内でトップになるのは至難の業です。市内でトップでも、都道府県のトップに立つのは途方もないこと。まして、日本一なんて。
何か、自分に特技はないか。
私は高校三年生まで、図書館に行ったこともなければ、書店で本を買ったことすらありませんでした。本好きの姉に、いつも莫迦にされていたので、大学に行ったら一気に挽回してやろう、とは思っており(いま気づきましたが私は地道な努力は苦手で、いつも「一気に」と思ってしまうタチなのですね)、大学入学直前の春休みから 「一日一冊」 を自分に課しました。
意思が強いタイプでは全然なかったのですが、高校三年生までの姉による侮蔑が相当きつかったので(彼女は「本を読まない男は生きている価値がない」というようなことを、"かわいい弟"に向かってよく言っていた)、これに挫折したら自分がダメになるような恐怖感も多少あったのかもしれない。とにかく学生時代、 39度の熱があるときにも、登山に行ったときにも、大酒を飲んでぶっ倒れたときにも 、「一日一冊」は厳守しました。
だめそうなときには、ブックレットのような薄いものにし、時間のあるときには七〇〇ページ×二段組にも挑みました。
友人と競争して、講談社現代新書と中公新書と岩波新書の全読破もやった。私は、ようやく大学生になって「長」のつく仕事を幾つも任されるようになっていたので、非常に忙しい学生時代を過ごすことになるのですが(⇒そのあたりは 「最初で最後の自己紹介」 に書きました)、とにかく途切れなかった「一日一冊」の秘訣はといえば、 いったん読み始めたら途中で止めない 、ということに尽きます。
これは私にとって修行でした。ですから、とにかく目標数値をやりとげることを最優先にしたのです。面白いとか面白くない、というのは関係なく、とにかく「一日一冊」。そのためには、いくら眠くても最後まで読む。
やや極端ですが、しかし、あらゆることで「自分はだめだ」と思い知らされてきた十代と訣別するためには、大学生のあいだずっと「一日一冊」だけでもやりとおす他はなかった。卒業年度で大病をしてしまい、もう人生最悪の事態に立ち至ってしまうのですが(⇒詳しくは 『死の準備』 に書きました)、奇跡的に治癒し始めてからは、リハビリも兼ねて、また「一日一冊」を始めました。これは、本当に、きつかった。
石の上にも三年といいますが、とりあえず、これを十年間続けました。そのころになって、初めて、何か自分に力がついてきたような気持ちになりました。
物書きになりますと、もっとたくさん読んでいる人の存在を知ります。こりゃすげえや、と諦めかけましたが、せっかく死の縁から何度も立ち直ったのだから、一つくらいトップ≠狙いたい。目をこらして上方を眺めると、どうやら「一カ月で一〇〇冊」がトップ集団であることがわかってきました。
で、私も三五歳から、それを自分に課しました。マラソンをやったことのある方はよくご存知のように、わずかなスピード差が、あっという間に大きな差になって広がってゆくものです。ですから、 まがりなりにもトップに追いつくためには「一週間に三〇冊以上」をやりきれば大丈夫だろうと思い (何が大丈夫なのかはよく考えませんでした)、そのペースを落とさずに現在に至っています。追いつける可能性だけは手放したくなかったので。
ふう。
だいぶ長くなってしまいました。とにかく、ここまでが「一週間で三〇冊以上」に至った経緯です。あまり参考にはならないでしょうか。
先を急ぎます。
先日(八月一八日)、日テレの「24時間テレビ」で、 研ナオコがマラソンを完走 しました。彼女は、外見上は確かにマラソン体型だとはいえ、私よりもさらに五歳も上です。局から依頼を受けた春には「300メートルも走れなかった」と、当時のVTRの中でコーチが証言していました。
まあ、さすがに「300メートル」というのは幾らなんでも大袈裟だったでしょう。何の練習もせず、いきなりやっても、無理をすれば3キロくらいは走れたに違いありません。しかし、だとしても、マラソン完走といえば、その14倍以上の距離です。
この成功の要因には、ギャラリー(観客、視聴者)の存在が実は大きいのだろうとは思います。これに代わるものとしては、ご自分でサイトを立ち上げてみるとか、あるいは友達と競い合うとか、同好の士を募るとか、そのような工夫が必要だという教訓が引き出されますよね。しかし、これはいわば動機づけの一種にほかなりませんから、ともかく、従来可能だったものの一〇倍程度の量をこなす、というのは決して不可能ではない、という点がここでは重要です。
私の場合には非常に時間がかかってしまいましたが、一年くらいでがんがん冊数を伸ばしてしまう人はたくさんいると思います。そもそも、そのような必要性のない方は、そんなことに努力する必要もまたないわけです。ただ、人生には、ある種の極端さはあったほうがいい、と私は考えているだけです。
また少し長くなりました。
次に移ります。
多くの本を読むための 第二点目は、速読法 をマスターすることです。
これについては、たくさんの本が出ていますが、よくわかりにくいので、簡単に私流の方法を説明します。
例えばここに 司馬遼太郎 という五つの漢字があります。
司 馬 遼 太 郎 というふうに分けて読みましたか? 一つかみ、で読んだのではないですか?
お は よ う ご ざ い ま す
はどうですか?
字を覚えたての園児なら、一字一字に目を止めながら読んでいきますよね。でも、小学四年生くらいなら、おはようございます≠一まとめ(一つかみ)に読むことができるでしょう。高校二年生でも「司馬遼太郎」という名に接したことがないのなら、一気には読めないでしょうね。一字一字を追って読むだろうと思います。
速読法とは、そういうことなのです。もう少し説明を追加しましょう。
数行前に、「字を覚えたての園児なら、一字一字に目を止めながら読んでいきますよね。」という一文を私は書きましたが、あなたはたぶん、
「字」「を」「覚え」「たて」「の」「園児」「なら」……
とは読んでいませんよね。
「字を覚えたての園児なら」、「一字一字に」「目を止めながら」「読んでいきますよね」。というような、区切りでいえば三つか四つくらいのまとまりとして読んだのではないでしょうか。
「字」「を」「覚え」「たて」「の」「園児」「なら」……から進歩して、「字を覚えたての園児なら」、「一字一字に目を止めながら」「読んでいきますよね」……と読めるようになるまでには、年輪とか訓練があるわけです。
だから、このあたりをもっと訓練して、
「字を覚えたての園児なら、一字一字に目を止めながら読んでいきますよね。」
を一吐きで読めるようにしてゆきます。
次の一文を読むとき、今度は息を吸いながら(もちろん黙読だよ)。
「でも、小学四年生くらいなら、おはようございます≠一まとめ(一つかみ)に読むことができるでしょう。」
はい、次は息を吐きます。
「司馬遼太郎という名前に接したことのない高校二年生なら、一気には読めないでしょうね。」
わかりましたか?
そのような訓練を、個人差はありますが、何週間とか何カ月とか何年かをかけて、少しずつ意識的にやっていけばいいのです。
なるほど、と思われましたか。
それとも、ぎょへっと思われましたか。
なるほど、と思われた方だけに、速読法をお薦めします。
次のステップは、二行を、さらに三行を、そして四行を、一気に(自然な一呼吸で)読めるようにしていくことです。息を吐きながら最後まで行きます。はいっ。
「字を覚えたての園児なら、一字一字に目を止めながら読んでいきますよね。でも、小学四年生くらいなら、「おはようございます」を一まとめに読むことができるでしょう。司馬遼太郎という名前に接したことのない高校二年生なら、一気には読めないでしょうね。一字一字を追って読むだろうと思います。」
はい〜ここで息を吸ってよし 。
訓練ということの意味が少し、わかっていただけたでしょうか。初めて読んだときよりずっと速く、一気に≠アの四行を読めたのではないですか。
次は、呼吸のリズムではなく、それより速いリズムに合わせる練習です。机でも膝でもいいですから、タンタンタンとリズムをとって叩きながら、そのリズムに合わせて、同じ文章を読みます。
「字を」「覚えたての」「園児なら」「一字一字に」「目を止めながら」「読んでいきますよね」。
はい、いいですよぉ。その次に、リズムのテンポは同じままで、文章量を多くしていきます。
「字を覚えたての園児なら」「一字一字に目を止めながら」「読んでいきますよね」。
まあ、こういう訓練です。
これは結構苦しい訓練ですから、ときどき思い出したときにやればいいと思います。ときどきやっても、いやあな感じを受ける人は、いままでの速度で充分な方ですから(満足しているという意味です)、そんなことを訓練する必要はないと思ってください。
ご質問をなさった井本さんに、このような方法をお教えしているのは、速読法があるのかとお聞きになったからです、あくまでも。
で、現在の私がどの程度のスピードかといえば、本文一ページあたり最速六秒くらいで読むことができます。
ただ、これだと非常に疲れますから、いちばん理解力がアップするよう普通(?)に読めば、一ページあたり二〇秒くらいでしょうか。そうすると、二一〇ページの本は七〇分で読める、ということになります。もう少し急げば、 東京―大阪間の新幹線で二、三冊 の本が読めます。
気持ち悪いですか?
漢字文化圏では「速読」は重視されていませんが、横文字圏では義務教育段階から当然のこととしてカリキュラムに含まれているのが普通です。二六文字しかないアルファベットでは、速読力(文字や単語の組み合わせをできるだけたくさん一気に把握する力)は必須です。漢字かな混じり文(日本語)に、速読は必要ないという人もいます。実際、日本の学校教育では、ほとんど完全に無視されてきました。しかし、日本語ほど速読に向いている言語はほかにない、あるいは、鬼に金棒だ、ともいえますよね。
と、ここまで書いてきて四〇〇字×二〇枚ほどの分量になりますが、ちょうど二時間かかりました。速いでしょ。プロを舐めてはいけません(冗談です)。
さて、挙げておくべき 第三は、アウトプットこそインプットの前提だ 、という点です。その逆は、あたりまえすぎて、何の教訓も含んでいませんので、注意してください。
太郎と次郎が、同じ本を読んだとします。読み終えるまでに太郎は一時間、次郎は二週間かかったとしましょう。ただしここでは、エンタテインメント本を除外しておきます。学術書とかハウツー本を念頭においてください。速読法を前提にすれば小説も学術書も同じことなのですが、速読法の訓練は受けていないと前提すると、このスピードの差はとりあえず、「飛ばし読み」力と「アウトプット」力にかかわってきます。
飛ばし読みは、どなたにも経験があるでしょう。これは説明しません。
アウトプットというのは、とりあえず、友達や恋人や家族に、(嫌われないよう簡潔に)受け売りをする、ということなどにより研鑽されます。このあたりのことは福田和也さんの『ひと月百冊読み〜』にも書かれていましたよね。念頭に著者を想定できれば、それがベストです。
一時間の飛ばし読みで要諦を把握した太郎君は、その本を書いた著書から「本当によく私の本を読み込んでくださったのですね」と賞賛されることはありえ、二週間かかって読んだ次郎君は内容を忘れてしまい、どうでもいいことなら幾つも覚えているのだけれど、「本質的な理解は何もできていない」ということも大いにありえます。
たまたま私は仕事柄、毎週何人もの方々にお会いします。対談や、のちに活字になるようなインタヴューをする、という密度でならせいぜい一週間にお一人、といった割合だと思います。サイエンス関係や同業者なら、相手が二〇冊も三〇冊も本を書いておられることが多く、ここでは仮に、一カ月後にお会いする方の本を二五冊ほど読んでおきたいと思ったとします。そうすると―。
- 読まずに、ハッタリをかます。
- 毎日一冊ずつ読んでゆく。が、お会いするころには最初に読んだ本の中身など忘れてしまうかもしれない。
- 少しずつゆっくり読んでいったのでは他の仕事ができなくなるし理解力も落ちるから、お会いする前日、一気に全部読む。
とまあ、このような選択肢を考えると、3.が最も合理的ではないかと私は思うわけです。しかも、1.など"お話の外"ですし、2.で的確な対話や質問ができないより、3.をして著者から「本当によく読だうえで刺激的な質問ばかりしてくれた」と喜ばれるほうが、 より効率的かつ友好的 だと私は思うのです。
違いますか?
追記
肝心なことを幾つか補っておきます。
まず、よほどの職業的理由や野心がないかぎり、「毎月100冊読む」必要なんかない、と思います。が、人生には限りがあるのだから、 現在より読書ペースを上げたい 、というご希望に対しては、多少の参考になるのでは、と願って以上のことを書きました。
また、 速読してもいい本と、やはりじっくり味わいたい本の、二種類がある と私自身は思っています。この点はそれ以上いうと差し障りがあるので、これにてご理解ください。
最後に、井本さんのご質問のなかで、《読んだ本より読んでいない本の方が多くなってしまいました》とありますが、 書棚に未読本の背表紙がちらちら視界に入ることの効用の偉大さ を強調しておきたいと思います。
これは速読法の潜在的訓練(タイトルを一瞬で把握する訓練)にも実はなっているのみならず、読んでいないからこそ、その内容をごく短時間でもいいから推理してみる―。それは、おそらくその本を何日もかけて「読む」より、ずっと脳と理解力を鍛えてくれるはずです。
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