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| 【2008年8月】 1日(金) 「教師力BRISH-IPサマーセミナー」1日目。札幌市教育文化会館。今日は授業づくりがメインの1日だったが、最初に基調提案として、教師力のモデルを石川晋とともに提案。更に「PISA方読解力」「授業づくりのシンポジウム」と出番の多い一日。100人以上が集まって盛会。その後、ビアガーデンに繰り出し、ドイツビールを。更に焼き鳥屋で小宴。南山さんや裕章さんを交えて語り合う。 2日(土) 「教師力BRISH-IPサマーセミナー」2日目。今日は学級づくりがメインの一日。午前中は大野さんといっしょに学級づくりのメイン提案、夕方から「学級づくりのシンポジウム」と出番は二つ。合間に中文連の演劇を観賞したり、山下くんと藤原くんの仕事に対する構えに関する講座を拝聴したり。終了後は森くん、山下くんといっしょに「ことのは」関係の企画会議。帰宅後は、「結婚詐欺師」を観賞。 3日(日) 夕方起きる。イベントの企画、方々に依頼メール、ハニー・ドリッパーズを聴きながら雑誌原稿の執筆。「フォーンブース」の観賞。充実というにはほど遠いが、悪くない一日。 4日(月) 朝まで起きて仕事をする。リフレッシュ休暇をもらい、今日も休みにしてしまう。朝は白石区民センターに行き、10月4日の累積国研の会場を確保。朝9時に寝る。15時に起き、夕方札幌駅へ。友人と二人でへべれけになるまで飲む。居酒屋のホール係に教え子の女の子がいる。かつて、「神に通ずる少女」だったが、もう神に通じなくなっていた。大人に近づくとはそういうことなのかもしれない。 5日(火) 6時半起床。あれほど飲んだのに、二日酔いが全くない。畏るべし、ウコンの力。朝から出勤。部活をみっちり指導。夕方から新聞取材が1本。更に中学1年生時の同級生、担任と4人で小宴。循環器内科の医師、PCソフト開発のベンチャー、退職して12年たつ担任、そして僕だ。ふだん聞くことのない領域の話が聞けて、とてもおもしろかった。帰宅は1時過ぎ。 6日(水) 夏期休暇。朝から原稿を書こうと思っていたのだが、暑すぎて仕事にならない。高校野球を見たり、テレビドラマを見たり。そのうち、夕方から寝てしまう。真夜中0時過ぎに起きて、「THE PLEDGE」。その後、朝まで原稿執筆。 7日(木) リフレッシュ休暇。終日、原稿執筆やイベント企画。夕方、DVDを返却、新たに4本借りてくる。夜は東野圭吾。 8日(金) リフレッシュ休暇。犬をトリーミングに連れて行き、その後は原稿執筆と同人誌の特集企画。更に明け方まで「ZODIAC」。 9日(土) 一日だらだら。夕方から、犬を連れて町内会の盆踊りへ。ビール、焼き鳥、おでん、枝豆。帰宅後、ジョニ黒を飲みながら「海猿」。更に「アドレナリン」「探偵物語」「イヴの贈り物」。 10日(日) 「手紙」「g@me.」「深紅」と見て、夕方から岩見沢の実家へ。21時頃、実家の隣の場外馬券売り場にワンボックスが突っ込み、一人死亡、二人が怪我。事件直後、現場を見に行くと血の海。車が建物に入っていったドアは車の幅よりもひとまわり大きい程度。ちょっとずれていれば、壁に止められ、こんな惨事にはならなかったはずだ。払い戻しに並んでいた列に突っ込んだというから、なんとも痛ましい事故である。62歳の運転手は、道路の段差に驚き、ブレーキとアクセルを踏み間違えたという。その結果、ちょっとずれれば惨事に至らないような偶然の一致で、車が建物の中まで突っ込んでしまったと言う。そこには最後の払い戻しに並ぶ20人ほどの列があったという。どれもこれも、普通ならあり得ないことばかりだ。 11日(月) 朝から夕方まで新学習指導要領と格闘。夕方から「カオス」。寝不足が続いていたので、早めに寝る。 12日(火) 朝から夕方まで新学習指導要領と格闘。夕方から「突入せよ!『あさま山荘』事件」「魍魎の匣」。 13日(水) 朝から夕方まで「いじめ」論。一日中、いじめについて考える。夜は「is A.」「宣戦布告」。 14日(木) 今日も一日中「いじめ」。「いじめ」の本ばかり繙いていると、頭が溶解してくる。夜は、盆踊りがあるかと思って公園を見に行くも、どうやら明日・明後日らしい。人気がまったく無く、がっかり。犬を連れてお祭りに行き、ビールと焼き鳥を食べながら、踊る人たちを見るのは、僕の楽しみの一つである。子どものときに唯一参加した地域の行事が盆踊りだったからだろうか、僕は盆踊りがたまらなく好きだ。夏休みに入って浴びるほどDVDを見たために、もう映像には飽きた。かと言って、物語欲求がなくなったわけでもない。複雑な精神状態だ。東野圭吾を読み始めるもダメ。村上春樹を読み始めるもダメ。三島由紀夫は3頁で挫折。結局、夜もいじめ本を読んで過ごす。 15日(金) 今日も一日中「いじめ」。塚田真希の銀メダル。涙をこらえながらの「これが結果です」には泣けた。4年前からなんとなく気になる選手だった。連覇をさせてあげたかった。東野圭吾が嫌いになった。やっと週末を迎えた。嬉しい。 16日(土) 一日中読書。夕方から、犬を連れて町内会の盆踊りへ。ビールと焼き鳥といか焼き。子供盆踊りがたまらなく好きだ。 17日(日) 本をぱらぱらとめくり、午後からはDVD。「チーム・バチスタの栄光」「点と線」。「点と線」は、日本がノスタルジーを欲望しているのがよくわかるドラマだった。 18日(月) 一日中「いじめ」。夕方から友人と約束があり、すすきのへ。18時から1時半まで。帰宅後、朝まで「大誘拐」。最高の映画だった。 19日(火) 夏期休暇。読書。麻まで「グッド・シェパード」「バンテージ・ポイント」「午後の遺言状」の3本。 20日(水) 夏期休暇。昨日に引き続き、映画を見ていて、昼に寝る。 21日(木) 0時に起きて、メールのやりとり。今後の「教師力BRISH-UPセミナー」に目鼻を立てた。朝になるのを待って出勤。 【2008年7月】 1日(火) 2年生の1〜3組でマイクロ・ディベート。論題は「上篠路中学校は制服登校を廃止し、私服登校とすべきである」。まずまずの議論が展開されたが、指導によって伸びていくのはこれからである。午後は2・4組で「オツベルと象」に使われている比喩の洗い出し。放課後は3組の漢字テストの追試、部活を少しだけ指導したあと、学年の若手2人、昨年までいた用務員さんと小宴。なじみの焼き肉屋が半額の日。うまかった。 2日(水) 4組で「オツベルと象」の比喩の確認。1組で時と場を確認する設定の授業。午後は野外学習の事後学習発表会の原稿作成。早めに帰宅して床屋へ。髪を短く切る。さっぱり。 3日(木) 2・3組で「オツベルと象」の比喩の確認。1組で起承転結・比喩の紹介。総合は学校祭に向けての学年集会。若手教師に任せた学年集会だったが、まずまずの出来。放課後は4組の漢字テストの追試、部活。 4日(金) 1組で「オツベルと象」の比喩の洗い出し。3組で比喩の確認が終了。午後は全校集会。九州に住む筋ジストロフィーのシンガーソングライターの講演。放課後は1組で漢字テストの追試。更に部活。通知表の作成が終わり、いよいよ、今学期も期末懇談を残すのみとなった感じ。 5日(土) 部活。午後からは久し振りの原稿執筆。やっと腰がまずまずの状態になり、椅子に長時間座っていられるようになった。夜はビールをたらふく飲みながら、昨日届いた「earth」のブレミアム・エディションを鑑賞。撮影するスタッフの志の高さ、カメラマンのシャッターチャンスにかける思いが伝わってきた。いいものを買ったと思う。 6日(日) 昼頃起き出して、原稿執筆。これまで腰痛のために書けないでいた2本の原稿を執筆。それもかなり長い原稿。更には、論文のゲラを校正。終了したのが22時近く。それでも今日中に終えられて良かった。夏休み前に書かなければならない原稿をすべて終えた。いよいよ、夏休み中の研究会の仕事、提案文書の作成に入らなければならない。 7日(月) 2組で「オツベルと象」で使われている比喩の確認、3・4組で「オツベルと象」の主題指導。金曜日の朝を主題作文の締切に設定。2クラスでやっと「オツベルと象」を終えた。文学的文章の読み取り5段階の指導もひと通り終えたことになる。午後は野外学習の事後学習発表会の準備。放課後は学年会、各種事務仕事、そして部活指導。長い長い一日だった。帰宅すると、妻から元同僚の訃報を聞く。今日が通夜だったとのことで、20時過ぎに帰宅した僕は参加できなかった。彼は現職の校長として亡くなった。いい人だった。ご冥福をお祈りしたい。 8日(火) 私用で一日年休。夜は方々とメールのやりとり。疲れた一日だった。ただただ、夏休みが待ち遠しい。 9日(水) 4組で昨日休んだ分と今日の分、2時間連続で国語。漢文の基礎知識。1組で「オツベルと象」の比喩の確認。5時間目は野外学習の事後学習。放課後は校務部会。更に部活。 10日(木) 3組で漢文の基礎知識。1組で「オツベルと象」を用いて主題の読み取り方。午後は期末懇談。更に部活。 11日(金) 1・3組で漢文の基礎知識。2組で「オツベルと象」と用いての主題の読み取り方。3・4組の「オツベルと象」主題作文が提出される。午後は期末懇談会。 12日(土) 中体連地区大会1日目。男子は団体三位、女子は二位。まずまずの成績。事前に想定していたよりも勝ち進んだ。個人戦も多くが勝ち進み、明日の二日目へ。バドミントンは窓を閉め切って遮光カーテンを引いて行う競技。雨天の蒸し暑さに体力を消耗する。夜は「家政婦は見た・ファイナル」。このシリーズが終わるのは惜しい。 13日(日) 中体連地区大会二日目。男女ともに部長が全市大会に進む。取り敢えず、年度当初に向けて立てた目標はクリア。帰宅後は早めに寝る。明日からの5日間は、体力的に相当きついだろうと思う。 14日(月) 2・4組で漢文の基礎知識。学活は野外学習発表会の準備。空き時間は夏休み動向表など、夏休み前の事務仕事。給食を食べて、午後は期末懇談。17時過ぎに退勤。ビール旨し。中体連疲れをとるために、早めに寝る。 15日(火) 2年1〜3組でマイクロ・ディベート。午後は期末懇談。15時50分に年休を取って退勤。帰宅途中にTSTAYAに夜と、「ガリレオ」が一週間レンタルに移行している、それも全5巻が揃っている、今晩は暇、3つの条件が揃っていたので借りてくる。第1話〜第8話まで見る。本で読んだものばかりだったが、それなりに楽しめた。 16日(水) 1組・4組で漢文の基礎知識。学活は合唱コンクールの自由曲・指揮者・伴奏者・パートリーダー、体育大会のリレーの順番を決める。自由曲は「遠い日の歌」。またか…との思いもあるが、生徒がやるというのだから仕方ない。午後は期末懇談。今日で終了。28人学級の期末懇談が5日日程。しかも1年生で具体的な進路指導がからまない。40人学級の学年には申し訳ないのだが、なんとも楽な懇談。こんなことはもう、一生涯経験しないだろう。前任校で41人の懇談を3日でやったことを懐かしく想い出す。帰宅後、「ガリレオ」の9話と10話。柴咲コウの演技の下手さには辟易。福山雅治はまずまず。渡辺いっけいがいい味を出している。でも、東野圭吾の文体のたくみさは映像化されていない。まあ、どちらも娯楽作品には過ぎないけれど……。 17日(木) 1・2・3組で漢文の基礎知識。返り点の機能も理解し、いよいよ訓読文を書き下す練習。学活は野外学習発表会の準備。放課後は他の担任の通知表所見の点検。帰宅後、夜中の2時まで東野圭吾の長編を読む。一気に読ませる筆力は衰えていないなあ、と思う。 18日(金) 1・3組で書き下し練習プリント。空き時間は通知表点検。学活は発表会のリハーサル。放課後も通知表点検。18時から学年PTA懇親会。ミニバレーボール、野外学習ビデオ。帰宅後、録画しておいた2時間ドラマを2本見る。 19日(土) 12時に起きる。2週間振りの休日。よく寝た。17時から「研究集団ことのは」の例会。「動物の睡眠と暮らし」の全時間授業を提案。例会終了後、24時近くまで話し込む。今後の展望が開けてきた。 20日(日) 中体連バドミントン全市大会。午後からは「ライラの冒険」「88ミニッツ」と2本。 21日(月) 昼に起き出して、テレビを見ながら、いつの間にかソファで寝てしまう。起きると20時。ビデオを返しに行き、ゆっくりと風呂にはいる。数ヶ月振りの純粋な休日。休日とはこういうものだった、と想い出した。 22日(火) 2・4組で漢文テスト。野外学習の発表会、夏休みの過ごし方についての学年集会。放課後は大掃除、そして体育大会の係代表者会。17時過ぎに退勤してマッサージに。ずいぶんと楽になった。 23日(水) 2組で漢文テスト。3組は時間調整のために図書室で読書。学活は1学期の反省と夏休みの計画。放課後は職員会議と学びの支援委員会。更に部活。その後、夏休みの課題の印刷、合唱コンクール用の楽譜の印刷。学校を出たのは21時近く。とほほ……。 24日(木) 1・3・4組で時間調整の図書室読書。生徒達に本を読ませながら、合唱コンクールで歌う自由曲を学級全員分のCD-Rに焼き付ける。これで夏休みに、毎日、2回ずつ、合計60回聴いて来るように指示することができる。空き時間はホームセンターにCDケースを買いに行く。ついでに本屋に寄って夏休み用の本を、目につくままに購入。午後は野外学習発表会。大きな成果を得ると同時に、細かな課題も見えた、有意義な発表会。放課後は二十年事業実行委員会。更に部活指導。新チーム結成後、初の本格的な練習。通知表の出席日数を入れて帰宅。大きなスイカを買う。 25日(金) 中体連報告会・終業式・学活・清掃・最終打ち合わせ。昼食は野外学習実行委員会の打ち上げと称して、焼き肉バイキングへ。夜は職員室の1学期打ち上げと称してビアホールへ。帰宅は23時55分。今日のうちに帰ってきた。私も成長した。 26日(土) 9時頃起きるも、テレビを見ながらまた寝る。14時頃起きるも、テレビを見ながらまた、いつの間にか寝てしまう。疲れていたのだろう。20時頃起き出し、やっと1日・2日の「教師力BRUSH-UPセミナー」の準備を始める。今回は出番が多い、というより出番が長いので、ちゃんと準備しなければならない。とほほ……。 27日(日) 9時起床。4時過ぎに寝た割りには早起きだ。まずはベスト電器にパワーポイントのソフトを買いに行く。その後、書斎でひたすら「BRISH-UP」の講座資料づくり。脇目も振らず、集中して取り組む。2時過ぎに完成。2本の講座計画がほぼできてしまった。 28日(月) 13時起床。今日は中体連大会の代休で休暇。「BRUSH-UP」の講座準備。今日は配付物を作成。配付したいものをすべて配付すると、かなり分厚くなってしまうので、どんどんカットしていく。今日は車を車検に出す。来月の4日・5日と飲み会が決まる。 29日(火) 今日は朝のうちに目が覚めた。今日も中体連大会の代休。「BRUSH-UP」の配付資料づくりが本格化してきた。枚数を絞り込みながら、少しでも参加者に役立つものをと思っているのだが、なかなか難しい。夕方から、アマゾンから届いた「モリのアサガオ」を読み始める。 30日(水) 今日も中体連大会の代休。朝まで「モリのアサガオ」を読み続ける。昼間寝たあと、「BRUSH-UP」の配付資料づくりが完成。 31日(木) 朝から出勤。少々事務仕事。更に1学期の野外学習の事前学習資料を整理。写真におさめる。資料の印刷。夕方から床屋。帰宅後は、パワーポイントを完成させる。「蒼い瞳とニュアージュ」と「孤独の歌声」を視聴。内山理名の演技力に感心する。3時就寝。 |
活きている時間/2008.08.17(日) ■〈多忙〉と〈多忙感〉とは異なる─あなたは仕事にとって最も大切なこの原理を自覚しているだろうか。言うまでもなく、〈多忙〉とは「忙しいこと」であり、〈多忙感〉とは「忙しいと感じること」である。〈多忙〉であるから〈多忙感〉をもつのだと、多くの人が単純に考えてしまうのだが、実は〈多忙〉と〈多忙感〉との間にあるのはそんな単純な因果関係ではない。周りが感嘆するような〈多忙〉な生活を送りながら〈多忙感〉を抱かない人がいる一方で、周りからは暇そうな仕事ぶりに見えるのに〈多忙感〉に苛(さいな)まれている人もいる。この違いはいったい何なのだろうか。 ■例えば、「総合的な学習の時間」の導入によって教師の仕事が多忙を極めるようになったとの声を聞くことがある。しかし、「総合」の計画立案に目を輝かせ、周りが不思議に感じるくらいに生き生きと「総合」の授業に取り組んでいる、そんな教師があなたの周りにも一人くらいはいないだろうか。その教師は「総合」の導入によって、あなたに比べてはるかに大きな〈多忙〉に見舞われているはずだ。にもかかわらず、その教師はおそらく、「総合」に対してあなたが感じているような〈多忙感〉を抱いてはいない。 ■例えば、2002年の教育課程の改訂によって、放課後の時間に余裕がなくなったとの声をよく聞く。生徒達とのコミュニケーションの時間が不足し、よりよい教育活動を行ううえで支障を来している、というわけだ。確かに六時間授業が増えたことが、行事指導や部活動指導、会議の時間を圧迫している。これは事実だろう。 ■しかし、あなたの周りにこの少ない時間で効率的に行事の準備を行い、みなが驚くほどに大きな成果を挙げている教師はいないだろうか。その教師が指導すると、生徒達のステージ上の演技が躍動して見える。その教師が指導すると、生徒達が自らのブレスにまで気を遣いながら美しいハーモニーを奏でる。そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。 ■あなたの周りに、この少ない時間のほとんどを部活動に費やし、生き生きと部活指導に取り組んでいる教師はいないだろうか。会議が終わるとすぐに、一杯のお茶を飲む間さえ惜しんで部活の指導へと向かっていく、そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。 ■あなたの周りにいるこんな教師達も、実はあなたが感じているようには〈多忙感〉を抱いていない。行事指導に熱心な教師は、行事指導のスキルをもっているから簡単に成果を挙げられるのだと思ったら大間違いである。行事の指導というものは、不得手とするあなたがやっても、得意とするその教師がやっても、やらなければならない仕事量にそれほどの違いがあるわけではない。しかし、行事指導を得意とする教師は、行事で成果を挙げることにやり甲斐を感じているから、その〈多忙〉が苦にならないのである。部活動に熱心な教師も、その競技が好きだからという理由で、趣味で指導しているなどと思っては大間違いである。毎日毎日生徒達に指導を重ね、生徒達が少しずつ力をつけていくことにやり甲斐を見出しているからこそその指導にも熱が入るのである。彼らが物理的には〈多忙〉であるにもかかわらず〈多忙感〉を抱かない所以がここにある。いや、彼らだって実は〈多忙感〉を抱かないわけではない。ただ、彼らの〈多忙感〉はあなたとは異なり、心地よい〈多忙感〉なのであり、ポジティヴな〈多忙感〉なのである。 ■ここまでを読んだあなたは、私が、〈多忙感〉などというものは気の持ちようで何とでもなりますよ、やり甲斐をもって仕事をしましょうよ、そう主張しているように思われるかもしれない。しかし、私の意図はそうではない。私がここで強調したいのは、あなたの抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、実は「〈多忙〉であること」が原因なのではない、ということである。では、あなたの感じている〈多忙感〉の原因は果たして何なのか。現在、私達教師をこれほどまでに圧迫している要因は、いったい何なのだろうか。 ■それは結論から言えば、〈徒労感〉に他ならない。 ■考えてみて欲しい。私達は本当に〈多忙〉が嫌いなのだろうか。かつて、残業手当も出ないのに、生徒のためにと夜遅くまで学年の先生方といっしょに仕事をした、そんな経験があなたにもあるはずだ。かつて、学年の先生方と酒を酌み交わしながら、今度は生徒達に何をやらせてみようか、こんなことをしたら生徒達が一段と成長するのではないか、イメージがイメージを呼び、アイディアがアイディアを呼ぶ、そんな宴会をあなたも経験したことがあるはずである。そんなとき、あなたもいまとは違い、充実した時間を過ごしていたのではなかったか。そして何より大切なのは、あの頃だって、あなたは忙しかったはずなのだ。そう、あの頃だって、決して暇ではなかったはずなのだ。なのにあの頃は、現在のようなネガティヴな〈多忙感〉を抱くことなどなかったのである。いま考えれば、あの頃はそんな〈多忙感〉さえ、どこか心地よいものだった。いったいこの違いは何なのだ。 ■そう。あの頃の仕事は、どんなに忙しくても、〈徒労感〉がなかったのである。頑張れば頑張った分だけ、生徒の目が輝いた。頑張れば頑張った分だけ、同僚が認めてくれた。生徒にとって、同僚にとって、自分は必要な人間である、そう実感することができた。自分は生徒達とつながっている、同僚達とつながっている、その実感があったからこそ、〈多忙〉ごときはものともせずに頑張ることができたのである。 ■なのにいま、私達には生徒とつながっているという実感がない。自分なりに頑張っても、生徒はこちらに振り向いてくれない。懸命に教材研究を重ねて臨んだ授業なのに手応えがない。生徒のためと思って施した指導に対して、保護者からクレームが来る。次第に生徒指導における優先順位が、「生徒達の成長を促すこと」から「保護者からクレームが来ないこと」に移っていく。こんな指導をしたって、生徒に伝わるはずもない。そんな思いが〈徒労感〉を生んでいく。 ■生徒だけではない。いま、私達には同僚とつながっているという実感さえない。校務分掌の役割分担が明確化され、行政から求められたアリバイづくりの無意味な調査、無意味な文書の作成に追われている。みんな自分の仕事をこなすことで精一杯。そういえば、職員室に笑い声が響かなくなって何年たつだろうか。各々が黙々とPCに向かっているだけの職員室。音をたてることさえはばかられる。職場の宴会は年に三度、歓迎会と忘年会と送別会だけである。それも一次会が終わると、潮が引くようにみな帰って行く。自分の仕事は自分でやるしかない。成果などまったく見えない。そこに仕事があるから片付ける。仕事がルーティン化していく。そしてそれが〈徒労感〉を生んでいく。 ■いまあなたが抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、このような負のスパイラルに取り込まれていることに起因しているのである。もしもあなたが現在の〈多忙感〉を打開したいのなら、まずはこの構図をしっかりと見据えることだ。行事指導に熱心な教師は、いまなお、生徒の目の輝きを実感しているのである。部活指導に熱心な教師は、いまなお、自分が生徒に力をつけていることを実感しているのである。「総合」に熱心な教師も、自らの「総合」の指導が、生徒達にとって良い方向に機能しているという実感を抱いているからこそ頑張れるのである。喩えて言うなら、あなたの時間が死んでいるのに対し、これらの教師達の時間は活きているのだ。死んでしまっているあなたの時間を再び活き返らせること、それ以外に、あなたの〈多忙感〉を打開する手立てはない。 ■死んでしまっているあなたの時間を活き返らせるためには、二つのことに取り組む必要がある。 ■一つは、あなたが自分の得意分野で成果を出すということである。あなたが得意としているのは、授業だろうか生徒指導だろうか部活指導だろうか、それとも行事や生徒会活動といった特別活動だろうか。何でもいい。勤務校において自分が成果を挙げていると、自分自身が実感できるような分野をもつことである。これだけ〈徒労感〉を感じさせる学校教育の現状である。自分の取り組む仕事のすべてに成果を挙げ、すべてに満足感を得ることなど夢想してはいけない。たった一つでいい。自分の得意分野にもう一度、精一杯に取り組んでみることだ。その時間が次第に、あなたにとって〈活きている時間〉となっていく。そしてその〈活きている時間〉を大切な時間だと思い始めたとき、その他のルーティンワークにかける時間が惜しくなっていくはずだ。その気持ちがあなたを、「なんとかこのルーティンワークを効率的に進める手立てはないか」という思考に誘っていく。こうなればしめたものである。ここまで来れば、ルーティンワークにかける時間が、仕事の効率性について考える機会となっていく。どれだけ単純作業を効率的に行えるのか、その効率の度合いが成果として意識されるようになる。次第次第に、ルーティンがルーティンでなくなっていくのだ。それは取りも直さず、ルーティワークの時間が〈活きている時間〉になっていることを意味するのである。 ■いま一つは、職員室に共同性を回復することである。もちろんこれは一筋縄ではいかない。あなたがかつて経験したように、生徒のためにみんなで残業しようと投げかけたり、宴会でよりよい教育について語り合おうなどと誘ったとしても、同僚から鬱陶しがられるだけである。しかし、同僚に対して、「あなたが必要なのだ」「あなたがいなければ仕事が成り立たないのだ」というメッセージを発信し続けることはできるはずだ。あなたが管理職なら、あなたは自分の学校の先生方に「あなたの功績は大きい」と言ってあげるといい。あなたが学年主任なら、あなたは自分の学年の若手に「きみの仕事がこの学年の安定に大きく貢献している」と言ってあげるといい。あなたが新卒数年の若手教師なら、先輩教師に「先生のここを真似したらうまくいきました」と伝えてあげるといい。こうした何気ないやりとりが、実は職員室を少しずつ、しかし確実に活性化させていくのである。あなたが職員室の雰囲気に閉塞感を抱いているのなら、まずはあなたがこうしたメッセージを発信し始めてはいかがだろうか。管理職や先輩から自分の存在を認められる、後輩から自分が頼りにされる、それを意気に感じない人間などいないのである。互いに互いの存在感を認め合うこうした人間関係こそが、実は〈活きている時間〉を大きく補強していくのである。 東野圭吾と盛田隆二/2008.08.16(土)
■三十歳を超えて、僕が新たに読むようになった作家は二人だけ、東野圭吾と盛田隆二である。どちらも、21世紀を代表する筆力のある作家だと思っていた。ほんの数時間前までは。 ■それが変わった。東野圭吾の『パラレルワールド・ラブストーリー』を読んでしまったからである。この作品の感想を僕は次のように書いた。 □これ、失敗作ですね。パラレルワールドの構成とか、視点の設定の仕方とか、そういうことが失敗なのではなくて、恋愛小説なのに、ヒロインの津野麻由子という女性が活きて描かれていない。もっともっと、たっぷり魅力的に描かれていないと、主人公の死角を効果的に使おうとするダイナミックな構成も、何もかもが活きない。いままで、ストーリーのミステリー性ばかりを読んで褒めてきたけれど、東野圭吾って人物を描けていないのかもしれない。少なくとも僕にはこのヒロインは響いてこなかった。これに比べると、盛田隆二の描く女性なんかはこれでもかというくらいに活きている。これまで東野圭吾をおそらく30冊くらいは読んだと思うけれど、どこか馬鹿にしていたのか、ちゃんと形象化されているかという観点をもって読んでいなかった自分に気がついた。 ■これを書いてから、少しの間、オリンピック中継を見ていたのだが、何かが僕の中で引っかかっていた。塚田の銀メダルを悔やみ、石井の金メダルに最近の若者もたいしたものだと感心したあと、僕は部屋に戻ってもう一度、『パラレル…』を手に取った。好んで読んできた作家に対して印象論で悪口を書いたことが不遜に思えて、ちゃんと確かめてみようと思ったのだ。450頁の文庫本を再び、最初から一枚一枚めくり始めた。 □彼女も俺を見て、一瞬はっとしたように見えた。俺たちは目を合わせた。あの電車のドアを挟んで見つめ合って以来のことだ。/しかし彼女はすぐに微笑み、「よろしく」といった。高すぎることも低すぎることもない、耳に馴染みやすい声だった。こちらこそ、と俺は応じた。(p26) □「なあ麻由子。智彦のこと、覚えてるかい?」/「三輪さん?」彼女の右の眉が、かすかに上がった。しかしそれ以外には、表情の変化らしきものはなかった。少なくとも崇志にはわからなかった。「覚えてるわよ。当たり前じゃない」そして軽く笑う。「何なの?急に」/「あいつが今どうしてるか、知ってるかい?」/「さあ」彼女は、ぱちぱちと瞬きした。「何も聞いてないけど」(p85) ■なんだ、これは……。「一瞬はっとしたように見えた」「すぐに微笑み」「高すぎることも低すぎることもない、耳に馴染みやすい声」「それ以外には、表情の変化らしきものはなかった」「軽く笑う」……どれもこれも〈説明〉じゃないか。なんなんだ、これは。「右の眉が、かすかに上がった」「ぱちぱちと瞬きした」がかろうじて〈描写〉になっているが、どちらも小学校低学年でも書けそうな稚拙なものに過ぎない。なんということだ。俺はこんなものを読んでいたのか…。思えば、僕が東野を読むのはいつもウィークデイ。頭がいわゆる「仕事モード」になっているときだった。休日や夏休み・冬休みにゆっくりと腰を落ち着けて読むなんてことはなかった。だから気がつかなかったのだ。ストーリーの面白さ、というかミステリーとしての仕掛けの面白さだけに引き摺られて、およそ国語教師らしからぬ読み方をしていたらしい。いやはや、自分のアホさかげんに、間抜けさかげんにうんざりしてしまう。東野圭吾が直木賞に落選し続けたのも納得できるというものだ。いや、『容疑者xの献身』がいかにアイディアに優れていると言っても、この文体でよく直木賞をとれたなというのが正直なところである。 ■これが盛田隆二なら、いくら稚拙でも次のような比喩くらいは使う。 □裕里子の表情がゆるんだ。紅茶にミルクをたらしたような笑みを浮かべている。〈『夜の果てまで』盛田隆二・角川文庫・2004年2月・p22〉 ■また、説明的な叙述も、最低でも次のような表現になる。 □その瞬間、彼女の目のふちにこわばった笑みが浮かんだ。たったいま気づいたのだろう、と俊介は思った。だが、精一杯の微笑で守られた表情の奥にあるものがなんなのかわからない。彼女は軽く頭を下げると、調理場に戻っていった。(同書p19) ■対象人物の「こわばった笑み」が、主人公の「精一杯の微笑で守られた表情」という叙述から形象化されるように、つまり、目に浮かぶように計算されている。例えば、こんな描写もある。 □だが、ホテルを出た途端、裕里子は不機嫌になった。俊介がいくら話しかけても何も答えない。駅に着くと彼女は札幌までの切符を二枚買った。そして俊介に一枚さしだすち改札を抜け、階段を足早に下りていった。ふくらはぎが消え、黒いフレアスカートに包まれた腰が消え、肩から上だけになり、最後に髪が消えた。(p167) ■階段を下りていく後ろ姿が目に浮かぶように描かれている。それだけでなく、「足が」ではなく「ふくらはぎが」と書いていること、「黒いフレアスカートに包まれた腰が」などといった表現から、主人公が裕里子を徹底したエロティシズムの対象として見ていることが無意識的に読者に伝えられる。盛田には間違いなく、こうしたディテールへのこだわりがある。そして読者も、それを愉しむ。東野との比較のために一冊だけ手にとってちょっとぱらぱらとめくっただけでも、この程度の描写はすぐに見つかるのだ。 ■それに比べて、次の場面を読んでみて欲しい。 □彼女は身体を捻り、逃げようとした。だが俺は彼女の左肩に手を回し、そのまま引き寄せた。/麻由子の顔がすぐ目の前にあった。石鹸の匂いがする。彼女の悲しげな表情は変わっていなかった。/それから俺は動けなかった。まるで金縛りにあったようだった。ただ彼女の顔を見つめていただけだ。彼女も俺の目をじっと見返してくる。/ふっと彼女が力を抜いた。それまで石像のようだった彼女の身体が、ふわりと軽くなり、柔らかくなった。/俺は彼女にキスをした。そして抱きしめた。〈『パラレル…』p355〉 ■おいおい。これ450頁の小説の355頁だぞ。354頁にわたって主人公を悩ませてきた女に対して、初めて思いを遂げるシーンだぞ。それを、「石鹸の匂い」「悲しげな表情」「金縛りにあったようだ」「じっと見返してくる」「ふっと力を抜いた」「石像のようだ」「ふわりと軽くなり、柔らかくなった」……どれもこれも紋切り型の比喩に擬態語に説明の嵐、これじゃエロ小説以下じゃないか。ケータイ小説に毛の生えた表現。そんな感じだ。そりゃ三島由紀夫や吉行淳之介のようにとは言わないけれど、もう少し書き方があるだろう……。 □しかし間もなく麻由子はするりとベッドから抜け出した。薄闇の中に、細い裸体の輪郭がかすかに見える。彼女は脱ぎ捨てられた衣服を持ってバスルームに消えた。俺はナイトスタンドのスイッチを入れ、光の強さを最小に絞った。〈p356〉 ■「薄闇の中に、細い裸体の輪郭がかすかに見える」だって…。「裸体」だよ、「裸体」。裸体を「裸体」と表現してどうすんだよぉ!しかも「裸体の輪郭」ときたもんだ。東野としては間違いなく、エロティックな形象化をねらった叙述だ。読者の目に浮かばせようとした叙述だ。なのになのになのに、エロティシズムのかけらもない。 □それにしても、花菜子さんはなぜこんなに挑発的なドレスを着ているのか。そのドレスを着ることによって強調されるのは、もちろんふたりの子を持つ母親の性ではない。/それは四十歳を超えなければ得られない、でも、大抵の場合は四十歳になる前に失われてしまう、脚の付け根から匂い立つような女の性だ。彼女は鬱血したような女の匂いを身体中から発散している。その匂いにぼくは息がつまりそうだったが、彼女自身もまたその息苦しさから逃れたいと願っているように見えた。〈『ラスト・ワルツ』盛田隆二・角川文庫・2005年3月・p164〉 ■別に濡れ場じゃなくたって、エロティシズムの形象化ってのはこの程度のことをやってのけるのが小説家ってもんじゃないのか。だいたい、東野圭吾は……。いや、もういい。やめよう。結局、東野圭吾の作品は「人形劇」なのだ。ラストだけは大どんでん返しで生徒たちをわかす、構成だけはしっかりした台本を使ったレベルの低い学校祭の演劇みたいなものなのだ。困った。実に困った。まだ読まずに「積ん読」している東野圭吾が10冊近くあるのだ(笑)。 ■あ〜あ、久し振りに大衆小説についてまじめに考えてしまった。ちなみに僕は花菜子が嫌いです。裕里子はちょっと好きです。麻由子は人形としてもいただけません。 研究的HOW TO/2008.08.15(金) ■「カサブランカ」にハンフリー・ボガードの有名な台詞がある。 女:ゆうべどこにいたの? 男:そんな昔のことは覚えてないね。 女:今夜会ってくれる? 男:そんな先のことはわからない。 ■だれもが幾度も聞いたことのある台詞だと思う。洒落た台詞の代表として、よく取り上げられる台詞だからだ。 ■昨夜、この台詞を例にして台詞の効果を論述する本を、偶然に連続して読んだ。 □凡人にはほとんど応用不可能なセリフだが、言い逃れをするときのジョークとしは使えるかもしれない。/「昨日の夜はどこに泊まったの?」「そんな昔のことは覚えていない」「今日は帰って来るの?」「そんなに先のことはわからない」……。家庭で使えばはり倒されるかもしれないが。/これは同じ言葉を使って言う対句の応用形だ。「そんなに……ない」というひとつの文型が対句になっている。〈『コメント力』斎藤孝・ちくま文庫・2007年6月・p112〉 ■この台詞を斎藤孝は「しゃれたコメントを言うとき」というタイトルで、肯定的に、しかもHOW TOの文脈で引いている。一方、もう一つの例がこれである。 □まずこの会話が成り立つためには、女が、/「ゆうべどこにいたの?」/と尋ねてくれなければ始まらない。/もちろん長い人生のことだから、なにかの拍子にそんな台詞を発する女にめぐりあうかもしれない。/そこで、あなたが映画の名台詞を思い出して、/「そんな昔のこと、覚えてないな」/と呟く。/ここまでは多少の可能性があるけれど、次に続けてその女が、/「今夜会ってくれる?」/と尋ねてくれるかどうか。そこが問題だ。/この可能性は極度に少ない。まあ、ほとんどありえないと言っていい。〈『殺し文句の研究』阿刀田高・新潮文庫・2005年1月・p123〉 ■斎藤がHOW TOの文脈で引いたのに対し、阿刀田高はこの台詞を、あくまでも相手との関係性を無視してはコミュニケーションが成立しないことを強調する文脈で引いている。さて、どちらの方が「コメント力が高い」と言えるか。言うまでもなく、後者であろう。 ■さて、私がここで言いたいのは、〈HOW TO〉というものの限界である。おそらく斎藤は、対句表現を用いることが「コメント力」を高めるという〈HOW TO〉が言いたくて、この例を引いた。例文は有名であればあるほど良い。洒落ていれば洒落ているほど良い。なぜなら、〈HOW TO〉つまり〈方法意識〉というものはあくまで自己完結的なものであるから、読者が自らの表現場面を想定して「使いたい」と思ってくれさえすればそれで事足りるからである。つまり、〈目的〉があって〈方法〉がある。〈目的〉に応じた〈方法〉を提示する。その連続性を提示することだけが「HOW TO本」の使命であるわけだ。しかし、〈HOW TO〉というものはいくら収集しても、あくまでも〈データベース〉の役割しか果たさない。それ以上でも以下でもない。〈目的〉と〈方法〉は、現実世界では〈相手〉や〈条件〉に包み込まれないと成立しない、具体的なものとしてしか現実には立ち現れてこない。「HOW TO本」の著者は、〈目的〉と〈方法〉との関係をあまりに抽象化して先鋭化してしまうために、この現実的な〈相手意識〉や〈条件意識〉に対する眼が曇ってしまうのである。 ■しかし、阿刀田の立ち位置は斎藤とは異なる。阿刀田はコミュニケーションの具体性を述べたくてこの例を引いたのではない。あくまでも、自分がこの台詞を言うとして…と最初から具体的な場面に思考を巡らせたのである。そこでは、〈目的意識〉〈方法意識〉先にありきではなく、思考において、〈目的意識〉〈相手意識〉〈条件意識〉〈方法意識〉の四つがあくまでもフラットに位置づけられていたはずである。だからこそ、この会話が現実的には閉ざされていることに気づき、映画の制作者が〈目的〉〈相手〉〈条件〉〈方法〉をすべて操っていることに思いを馳せることになる。阿刀田の思考は自己完結的でなく、具体的場面を指向するが故に無限に開かれている。この台詞を〈データベース〉化しない。阿刀田の態度は本のタイトル『殺し文句の研究』が示すとおり、あくまでも〈研究〉的なのである。 ■ここで、大きな問題が生じる。抽象を旨とする〈HOW TO〉と具象を旨とする〈研究〉と、どちらが分かち伝えやすいか、という問題である。つまり、平たく言えば、読者にとって、どちらの本が価値があり、「コメント力」「殺し文句力」を読者につけられるか、という問題である。ここで、一気に私のテリトリーに話を持ってきてしまうが、「国語力」を生徒たちに身につけさせようとするとき、〈HOW TO〉を基本とする授業と、〈研究〉を基本とする授業とでは、どちらがより生徒たちの「国語力」を高められるか、という問題である。私はこの度目にした『コメント力』と『殺し文句の研究』との間にある相違の構図を、実は「言語技術教育」と「文学教育」との間にある相違の構図との相似形で捉えている。なんとかして、抽象的な〈HOW TO〉でもなく、具象的な〈研究〉でもない、なのに他人に対していわば〈心構え〉として抽象・具象の往復運動を体感させるような〈研究的HOW TO〉がないものか。 ■かつて読んだ山本七平『人望の研究』(祥伝社文庫・1991年2月)に、「尚書」にある九徳が紹介されていた。私はこれに心底感心したことがある。九徳とは次の九つである。 (1)寛(かん)にして栗(りつ)…寛大だが、しまりがある (2)柔(じょう)にして立(りつ)…柔和だが、事が処理できる (3)愿(げん)にして恭(きょう)…まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない (4)乱(らん)にして敬(けい)…事を治める能力があるが、慎み深い (5)擾(じょう)にして毅(き)…おとなしいが、内が強い (6)直(ちょく)にして温(おん)…正直・率直だが、温和 (7)簡(かん)にして廉(れん)…おおまかだが、しっかりしている (8)剛(ごう)にして塞(そく)…剛健だが、内も充実 (9)彊(きょう)にして義(ぎ)…強勇だが、義しい ■この九徳のそれぞれは、すべてが相反し矛盾している。少なくともベクトルの異なるものがセットになっている。「寛大であること」と「しまりがあること」は一見、ベクトルが逆のように見える。しかし、一見矛盾するこれらの境地も、「中庸」(中正・不易)を心得れば、到達できるものであるという。不徳な私にはもちろん到達し得ないのだが、この九徳を将来身につけるには、常にこの九徳をそらんじ、「言(こと)は行ないを顧み、行いは言を顧みる」の精神で常に努力を継続するならばその境地は自ずからやってくる、というのである。堀も説教くさくなったというなかれ。私が言いたいのは、いわゆる〈HOW TO〉をこうしたレベルの「指針」として提示してはいかがなものか、という提案にこそ力点があるのである。考えてみれば、コミュニケーションなどというものは相反し矛盾する〈相手〉〈目的〉〈条件〉〈方法〉の宝庫ではないか。 ■私はいま、真剣にこんなことを考えている。あとはこれを、いかに「神がかってみえないように」提案するか、である。それにはおそらく、少なくとも数年を要するだろう。 現場共同体/2008.08.14(木) ■この国には「現場共同体」とでもいうべきものがある。現場の現状に不満を抱き、自分の領域の将来を憂うとともに、管轄する行政の政策を批判し、予算の少なさを訴え、官僚を非難し、政治家を非難する、そんな共同体である。先日、医者になった旧友と話をしていて、彼がさんざん行政政策とそれによって敷かれたシステムを批判しているのを聞いていて、その構図が自分の置かれている立場とあまりにも似ていることから、ふと感じた印象である。医者と教師が、まったく同じ構図に不満を抱いている。地位や金が問題なのではない。現場人とは「行政政策に不満を抱く者」という定義さえ成り立ちそうだ。 ■夏休みに入って、死刑執行の経験をもつ元刑務官の書いた本と、阪神・淡路大震災の災害派遣を指揮した経験をもつ元自衛官の書いた本とを読んだ。そこに書いてある論理も、ともに「現場状況への不満」「予算不足への不満」「自分の領域から見た憂国論」「行政・政治批判」に彩られていた。そしてそこで思考がストップしている。そして、おそらくは教師も医者も刑務官も自衛官も、現場で奮闘していることに誇りを持てば持つほど、この蟻地獄に陥っているのである。私はこんなに頑張っている、悪いのは私ではない、システムをつくった側なのだ、と。そしてこうした人々は、互いに互いの論述を読むとき、どこか競争しているふしがある。「いやいや、私のところはもっとひどい」と。まるで自分と同じ職業を生業としている者を代表しているかのような憤りをもって、である。 ■ただし、私がここて言うのは、いわゆる「労働組合」のような労働者としての現場人のことではない。管理職であろうと職人であろうと、現場に携わる者が抱く、理想と現実の間で引き裂かれた、もっとラディカルな心象を指しているつもりだ。どの領域であってもどの職種であっても、「現場人」をひと括りにすることが「労働組合」のテーゼである。しかし、教師なら誰でもおわかりのように、「荒れた学校」で毎日を格闘の日々として送っている教師と、「進学校」を含む一般の学校で勤務する教師とではまったくその在り方が異なっている。後者は組織人として、歯車として、つまりは「労働者」として一個人を捨象して生きることができるが、前者は一個人として、「この私」が何をするか、「この私」がどのように立ち回るかが仕事の根幹を為す。許可を得ての武器使用という法律のために殉職せざるを得なかったSAT隊員と、一般の警察官とはおそらく異なる。非戦闘地域なる詭弁とともにイラクに派遣された自衛官と、一般の自衛官とは異なる。終末医療に携わる医者と一般の医者とも異なる。死刑執行のボタンを押さねばならない刑務官と一般の刑務官との相違には、おそらく甚大な差がある。この「一般の」と掲揚された現場人を組織し、その権利と精神的安寧を担保するために機能しようとするのが「組合的発想」である。しかし、私がここで言いたいのは、むしろ、「一般の」の形容がとれた、極限的状況に置かれた現場人の在り方のほうである。 ■家族とともに悩み、安楽死の措置をとった医師が殺人罪に問われる。被害生徒を守るために間に入った教師が体罰で訴えられる。死刑執行のボタンを押した刑務官が精神を病む。震災で温かい食事を用意しようとした自衛官が不公平感が生まれ得るという理由で、冷たいおにぎりしか用意できない。こうしたなんとも言えない事例が、この国には確かにある。このような状況に置かれた現場人は、最後に自己に還らざるを得ない。労働組合的なものは、行政の敷いた粗悪なシステムと同様の構図に過ぎないものになる。不条理の代表となる。そういう者たちにとって、自らの中に立ち現れてくるものは、かつての流行であった「実存」でしかない。そこにはかつて、「戦後派」と呼ばれた文学者たちがひたすら自己の存在意義を求めて奮闘した、その表現との相似形が見られる。こうした表現者たちが、左翼運動とともに「労働組合的なもの」に回収されていったことが、60年の時を隔て、現在を不幸に陥れている。「戦後派的なもの」が「労働組合的なもの」の内部において風化してしまったことが、現在の不幸を招いている。 ■こんなことを考えた。 教育実習生から暑中見舞い/2008.08.13(水) ■5年前の教育実習生から暑中見舞いの葉書が届いた。たった3週間の教育実習だったが、彼女にとっては大きな経験となったようだ。 □暑中お見舞い申し上げます。堀先生、御無沙汰しておりますが、お元気でいらっしゃいますか。K中での教育実習では大変お世話になりました。早いものであれからもえ五年近くが経つのですね。のんびりと大学生だった私に、あの経験は本当に強烈なインパクトを与えてくれました。郵便局員という全く違う職業に就いてしまいましたが、堀先生の下、クラスの皆と学んだあのかけがえのない日々は、今もなお私を励まし、支え続けています。時節柄、夏負けなどなさいませんようお体を大切になさって下さい。 ■教育実習が終わって1年程度は手紙のやりとりがあったものの、それ以来、ほとんど連絡をとっていなかった。それなのに急な便り。きっと、あの教育実習を想い出すような何事かがあったのだろう。悪いことではなければいいのだが……。 ■一般に、教師は実習生の担当を嫌がるものである。面倒だし、教員になる気のない者が免許取得だけを求めて来ることも多いし、こんな学生に教職に就いてもらいたくないと思う学生が来ることもしばしば。実習生を嫌がる教師たちの気持ちもわからないでもない。 ■僕は正直に言えば、「教育実習生のために」と思って実習生を担当したことがない。まず実習前に実習生が面談に来たときに尋ねる。「あなたはどの程度の真剣さで教育自習に来るのですか」と。「評定にはかかわらないから、正直に言ってごらん」と。すると、どんな実習生も「真剣に取り組みたいです」「将来は教職に就きたいです。」と応える。僕は、その言葉を吐いている瞬間の実習生の眼を見る。本当にしても嘘にしても、どの程度のまじめさがあるかを判断できるからだ。そして宿題を出す。「教育実習に望むこと、教育実習で経験したいと思っているイメージを文章化してきなさい」と。字数制限はしない。「どのくらい書いてくればいいのか」と尋かれれば、「負担にならない程度に書いてきて」と言う。実際に、書いてこないという実習生はまずいない。しかし、書いてくる分量、内容で、その実習生の真剣さの度合いを測ることができる。それで「やる気あり」と見れば徹底して指導して最高の評価を与え、「やる気なし」と見ればルーティンだけこなしてほどほどの評価を与える。僕が担当した実習生の評価は、実は実習以前の面談と実習初日までに宿題をどの程度やってきたかで決まってしまう。 ■5年前の実習生は、「自分は教職に就くかどうかわからない」と応えた。ただ、「教職に就くにしても就かないにしても、せっかくの教育実習の経験を無駄にするつもりはない」とも言った。「真剣に取り組むからちゃんと指導して欲しい」とも言った。宿題もちゃんとやってきた。そこには、教育実習が何の職業に就くにしても、自分を支える大切な経験になるだろう旨が書かれていた。僕はこの娘をちゃんと指導することにした。僕にとって「ちゃんと指導する」とは、「実習生のために」指導するのではなく、「自分のために」指導するという意識をもつことを意味する。それはこういうことだ。 ■たった3週間で、最高の評価をつける、つまり10段階の10をつけるまでに指導する。それが「人を育てること」を生業とする僕のプライドなのだ。そのためには、この実習生をちゃんと指導すると同時に、実習生の研究授業を参観する同僚・管理職・大学教員らが「なるほど最高の評価にふさわしい」と感じられるような授業を作らなければならない。つまり、実力のない教育実習生でもまずまずの授業、つまりは一般の研究授業と同等かそれ以上の授業を展開させられるように工夫するのである。 ■僕はこのとき、初日から、担当している4学級のうち、最初の1学級で見本を示し、それと同じように他の3学級で授業することを彼女に求めた。そして、その1学級1学級の授業をA4判ノートに細かく記録をとり、次の授業で修正すべき点を事細かく指示していった。直接指導するのではなく、すべてノートの記録によって、発問の意味、机間巡視の仕方、指名の仕方、説明の仕方の是非、意見の取り上げ方、意見の捌き方、こういったこひとを逐一細かく指示していった。彼女は休憩時間にそれを読み、何を修正すればいいのかを自分で考えるように指示した。授業を10時間もやった頃には、彼女はそれなりに授業という営みの意味を、そして展開の仕方の原則を会得していたようだった。2週間が過ぎた頃には、実習生としては及第点をはるかに超えるような、そんな授業を展開するようになっていた。 ■2週目の後半からは、研究授業の指導案を徹底して指導した。これも直接指導ではない。訊きたいことがあればメールで、しかもこちらが応えやすいように要点をしぼって質問事項を列挙するように求めた。彼女はそれに対応した。毎日、赤い目をしていたが、僕の指導に歯を食いしばってついてきた。彼女の不安を聞き、苦手としていることを聞きながら、それを払拭するような授業技術、つまり授業が下手でもうまく見える、教師の一言の指導で生徒たちが動き交流する、そんな授業技術を僕は次々に開発した。 ■この実習生を担当することで、僕が開発した教育技術は多い。いまなお僕自身が授業で使っている交流の技術、話し合いのさせ方の技術は、この実習生でもできる授業技術として、このとき開発したものが2割近くを占める。若手教師の授業を指導するために授業参観をして記録を取り、指導事項を含めたA4判シートをその場で完成させていく、いまも使っているこのシートを開発したのも、この実習生をもったときだった。結局、僕はこの実習生を担当することによって、いまなお使っている、しかもちゃんと機能するような教育技術をずいぶんと開発することができたのである。 ■教育実習生を担当すると、新たな授業技術・教育技術を開発することができる。これは僕の中で、疑う余地のないテーゼになっている。この3年間においても、このときに開発した授業指導シートで新卒教師を指導した。彼女の教育実習は、彼女の「いま」を支えているだけでなく、僕の「いま」をも支えているのだ。そんな経験をさせてくれた彼女に、僕の方こそ感謝している。そんなことを彼女は知らない。 |
【books】![]() 恋愛というテクスト 竹田青嗣コレクション2 竹田青嗣/海鳥社 ★★★★★ 再読。ふと本棚にあるのが目にとまり、読み始めたら止まらなくなった。予定していた仕事がまったく進まなくなった。村上春樹を中心題材に純愛小説時代の幕開けを論じた評論は圧巻。 ![]() やがて消えゆく我が身なら 池田清彦/角川ソフィア文庫 2008.05.25 ★★★ いつも思うことだが、この人のエッセイはおもしろい。肩肘はらずに読めるのに、一遍一遍、読み終わると考えさせられる。こういうエッセイは読んでいて心地よいし、また読みたいと思わせる。 ![]() 援交少女とロリコン男 圓田浩二/洋泉社新書 2006.01.21 ★ 久し振りにこんなひどい本を読んだ。洋泉社もこれを出版するのは、いくらなんでもひどいだろう。 ![]() だいたいで、いいじゃない。 大塚英志/吉本隆明 文藝春秋 2000.07.30 ★★★★ 世代による感性の違いについて、前世代のこだわりを突き抜けてしまえる感性の誕生に驚くことが繰り返されるとすれば、自分の中の根拠を探しつつもどうしようもなさをも感じてしまう。本の内容自体はこれまでの繰り返しではあるが、大塚英志と吉本隆明がこんなふうに江藤淳を語るのを読むと、いろいろと考えさせられてしまった。 ![]() パラレルワールド・ ラブストーリー 東野圭吾/講談社文庫 1998.03.15 ★★ これ、失敗作ですね。パラレルワールドの構成とか、視点の設定の仕方とか、そういうことが失敗なのではなくて、恋愛小説なのに、ヒロインの津野麻由子という女性が活きて描かれていない。もっともっと、たっぷり魅力的に描かれていないと、主人公の死角を効果的に使おうとするダイナミックな構成も、何もかもが活きない。いままで、ストーリーのミステリー性ばかりを読んで褒めてきたけれど、東野圭吾って人物を描けていないのかもしれない。少なくとも僕にはこのヒロインは響いてこなかった。これに比べると、盛田隆二の描く女性なんかはこれでもかというくらいに活きている。これまで東野圭吾をおそらく30冊くらいは読んだと思うけれど、どこか馬鹿にしていたのか、ちゃんと形象化されているかという観点をもって読んでいなかった自分に気がついた。 【music】 ![]() JAPANESKA THE BOOM ★★★★
名曲「からたち野道」を収録したザ・ブームのサードアルバム。1990年。「からたち野道」以外にも「中央線」「川の流れは」「100万つぶの涙」など,ブームの代表曲が目白押し。いいアルバムである。 ![]() DEAR FRIENDS 岩崎宏美 ★★★★
「止まった時計」を聴くたびに、飛鳥涼ってけっこうな才能の持ち主だなと思う。このアルバムは岩崎宏美の第二ステージが始まりのような気がする。それ以前の変なこだわりがなくなって、明らかに一皮むけている。いい意味で、岩崎宏美ってこんな歌い手だったかなと、長年のファンさえ感じてしまう。 ![]() ONCE UPON A TIME IN AMERICA ORIGINAL SOUNDTRACK ENNIO MORRICONE ★★★★★
映画も傑作だが、音楽も大傑作である。たぶん、これまでに最も回数を聴いたアルバムはこれだと思う。映画も20回以上見ているし、車の中でよく聴くBGMもこれだし、何と言っても独身時代、毎晩眠りに就くときのBGMだった。1曲目が静かにフェイドインしてくるだけで、もう別世界に連れて行かれる。 ![]() PURPLE RAIN PRINCE AND THE REVOLUTION ★★★★
1984年。全世界で2000万枚近くを売り上げたと言われている。当時のプリンスは〈実験的〉だと語られることが多かったが、それはこのアルバムの次のアルバム「アラウンド・ワールド・イン・ア・デイ」からであって、このアルバム自体は非常にポップで、映画とのコラボでもあった。僕は映画の中でアポロニアに向かって、「悲しませるつもりも傷つけるつもりもなかった。ただ君の笑顔が見たかっただけだ。紫の雨の中で微笑む君を」と歌うプリンスに、ただただしびれていた。「君といっしょに連れてって」とか「君のためなら死ねる」とか、単純で馬鹿げた歌詞の連続に浸っていた。そんな時期があるものである。よく、「まるでバージンみたい」と歌った女の子と類比的に語られたプリンスだけれど、サウンドがエロティックなだけで、意外と「純」な世界観を歌っていたのだ。 ![]() AMMONIA AVENUE THE ALAN PARSONS PROJECT ★★★★★
これも高校時代から聴き続けているアルバム。1984年。アルバムタイトル曲は圧巻のバラード。 【movie】 ![]() 午後の遺言状 監督:新藤兼人 出演:杉村春子/乙羽信子 朝霧鏡子/観世栄夫 ★★★★★ 泣けた。どうしようもなく泣けた。子どもの頃から親しんできた杉村春子と乙羽信子がこんな素晴らしい遺作を遺しているということも、その感動に輪をかけている。見るのはたぶん4回目だが、何度見ても感動がうすれない。人生とはこういうものかもしれない、と思わせてくれる。 ![]() VANTAGE POINT 監督:ピート・トラヴィス 出演:デニス・クエイド フォレスト・ウィッテカー マシュー・フォックス ★★★★ 確かに複数視点の構成は新しいし、見事ではあるのだが、後半のありきたりな展開には幻滅。アメリカ人ってのは、どうしてもああいうふうにスッキリさせたいのですね。日本映画みたいに、つまりは「羅生門」みたいなわけにはいかないわけですな。 ![]() THE GOOD SHEPHERD 監督:ロバート・デニーロ 出演:マット・デイモン アンジェリーナ・ジョリー ★★★★ 昔からこういう暗くて淡々とした映画が好きなんです。特にギャングとスパイが。ただ、この手の大作によくある男の裏切りがこの作品にはなくて、数年後にも心に残る…という映画にはならない感じ。時間は167分。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」よりはずいぶんと落ちる。「グッド・フェロウズ」よりは少しいいかな。音楽は美しかった。ジョー・ペシを久し振りに見た。 ![]() 大誘拐 RAINBOW KIDS 監督:岡本喜八 出演:緒方拳/北林谷栄 ★★★★★ 愉しめた。こんなおもしろい映画はない、というくらいに愉しめた。北林谷栄のおばあちゃんの味だと思う。 ![]() 点と線 監督:石橋冠 出演:ビートたけし/高橋克典 ★★★★★ テレビ朝日開局50周年記念ドラマ。去年の11月の二夜連続放送で、ともに視聴率20%超えをしたそうだ。ドラマには、内容もさることながら、ドラマを包み込む時代の雰囲気づくりに対して、率直な感動があった。金と時間、そして労力がかかっていることがよくわかる、ディテールにまでものすごいこだわりを示したドラマだった。松本清張の「点と線」を読んだのはたぶん高校生のときだったと思うが、当時は「なんで飛行機が思いつかないのか」と馬鹿馬鹿しく思えたものだ。今回、こうして映像で見てみると、それほどの違和感はなかった。柳葉敏郎・夏川結衣の犯人夫婦、宇津井健・池内淳子の50年後のつや子と三原、ともに味があった。さすが開局50周年記念だけあって、名優きら星。ちょい役にかたせ梨乃や坂口良子がいたり、事件解決のキーとなる証言をする被害者の母親役に市原悦子がいたり。見て良かった。4時間がちっとも長くなかった。 |