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明日の教室2
学級をつくる

「明日の教室」研究会・編
ぎょうせい



明日の教室3
授業をつくる

「明日の教室」研究会・編
ぎょうせい


2009年12月
1日(火) とうとう師走。今年も残り1ヶ月。1・3時間目と空き時間。3年生の学年末テストを50点分つくる。学年末テストの直前は冬休みである。3学年国語をいっしょに組んでいる先生と細かな打ち合わせをする時間がない。となれば、さっさとテストをつくってしまい、その問題に対応できるような授業をしてもらうのが効率的である。というわけで、学年末テストをつくってしまうことにしたわけである。2時間目は3年7組で「平泉」「立石寺」の解説。4時間目は1年3組で「竹取物語」後半部の音読テスト。5時間目は3年2組で「言葉の力」を題材とした入試問題特講の2回目。放課後は教育相談週間なので、待機生徒につきながらいっしょに遊ぶ。なかなかいい時間。帰りにクリーニングを取りに行く。帰宅後は土曜日のセミナー準備、雑誌原稿執筆など。
2日(水) 発熱で寝る。
3日(木) 昨日より熱は低い。
4日(金) 3年7組と2組で「言葉の力」を用いて入試問題特講。1年3組で自習監督。放課後は教育相談待ちの生徒達とおしゃべり。帰宅後、明日の講座の確認。体調はある程度戻っている。
5日(土) 第22回教師力BRUSH-UPセミナーin伊達。朝7時30分に家を出て伊達市へ。出番は短いのが4本。終了後懇親会。帰宅後は疲れて寝る。
6日(日) 昼過ぎに起き、一日、ぼーっと過ごす。企画を1本立てたのとプログを更新したこと以外は一切何もせず。テレビも見ず、酒も飲まず、ゆっくり過ごす。ストレッチをして体の凝りをほぐす。24時就寝。
7日(月) 3年8組で「言葉の力」を題材とした入試問題特講。1年3組で「竹取物語」冒頭の筆記テスト、1年2組で「竹取物語」後半部の音読テスト。空き時間はこまごまとした事務仕事。担任が期末懇談をやっている裏で、勤務校の過去2年分の推薦関係文書(自己推薦書・自己アピール文・推薦書等)に目を通す。大規模校なのでかなりの数。推薦関係文書の一般的傾向を抽出しようと努力してみる。帰宅後は19日(土)のセミナーの準備。方々にメール。
8日(火) 3年7組で「言葉の力」を題材とした入試問題特講。1年2組で「竹取物語」冒頭の筆記テストと解説。空き時間は事務仕事。午後は担任が期末懇談をしている裏で、3年生の推薦入試の自己アピール文の指導。帰宅後はセミナー準備。19日(土)の分が完了。26日(土)の国語科授業改革セミナーの講座準備に着手。
9日(水) 3年2組、3年7組で「言葉の力」を題材とした入試問題特講。1年3組で「竹取物語」筆記テストの追試&視写。空き時間は通知表の判子押し。午後からキャリア教育でお世話になった事業所に挨拶まわり。授業の教材づくり。帰宅後は26日(土)のセミナー準備。この他に28~29日のBRUSH合宿の講座準備もある。しかも22日が忘年会。今回は幹事学年なので、二次会まで出なくてはならない。直前の日程を考えると、少しでも進めておかなければならない。
10日(木) 1時間目は空き時間で外出して各種支払い。3年2組・8組で「言葉の力」を題材とした入試問題特講。1年2組で「竹取物語」筆記テストの追試&視写。放課後は、「言葉の力」で取り組んだ問題群をプリント化しながら、3年生の推薦生徒の指導。推薦依頼書・自己アピール文などを書かせる。帰宅後はセミナー準備。
11日(金) 授業は2時間。1年3組で「竹取物語」全文の読解。3年8組で「言葉の力」を題材とした入試問題特講。美術の自習監督が一つ。放課後は担任の通知表所見を添削したり、生徒の推薦関係の書類を直したり。更には、来週の会議の提案文書を作成したり。17時過ぎに退勤。退勤後はゆっくり過ごす。まずは「なんだかんだ」に行って日本酒を少々。帰宅後は犬と遊びながらゴロゴロ。明日・明後日は久し振りのお休み。
12日(土) 朝8時に起きて、何をするでもなくだらだら過ごす。10時に家の業者さんが来て点検をしていく。午後からHDに録画していたたまっていたドラマを次々に見ていく。夕方から昼寝。夜中に起き出して、またまたドラマ。真夜中、眠くなるまでドラマ。なぜだか昔から、2時間もののミステリードラマが大好きである。映画が安っぽいと腹が立つが、2時間ドラマは安っぽさがいい。最近は、同い年の女優森口瑤子がお気に入りである。40歳を越えて品が出てきた。
13日(日) 昼前に起きて、まずは風呂に入ったあと「ちえりあ」へ。2月・3月の研究会の会場を確保しに行く。帰りに本屋にちょっとだけ寄って2、3冊購入。帰宅後はこまかな事務仕事を少々。夕方から買い物に行き、夕食……と思ったのだが、胃の調子が悪くほとんど何も食べず。今日買ってきた本を少しだけ読み、早めに寝る。
14日(月) どうも胃の調子が悪く、朝から吐く。吐くとある程度スッキリしたので、学校へ。自習監督が一つ。その後、3年7組・2組で「言葉の力」のまとめ。空き時間は通知表点検。放課後は学年会。これが2時間半も続く。帰宅後は読書。セミナーの準備もしなければならないのだが、調子が悪いので本を読む程度にしておく。
15日(火) 朝起きると、一面の雪景色。いつもより10分ほど早めに出るが、渋滞はなく、いつもより10分早く学校に着く。授業は4時間。3年7・8組で「言葉の力」のまとめ。3年2組で「故郷」の冒頭。1年3組で「ものづくりの知恵」の第1時。空き時間と放課後は3年生の学年末テストをつくる。問題用紙・解答用紙・模範解答のすべてが完成。あとは試験範囲を終わらせて、ノート・ワーク点検をするだけである。帰宅後はセミナー準備。
16日(水) 授業は4時間。3年2組で「故郷」の第2時、8組で第1時。1年3組で「ものづくりの知恵」第2時、2組で「竹取物語」のまとめ。空き時間は昨日作成した学年末テストの点検。放課後は校務部会。その後、職員会議の提案プリントの印刷など。帰宅後は26日(土)の国語セミナーの準備。このセミナーの提案準備に苦しんでいる。久し振りに産みの苦しみ。
17日(木) 授業は3時間。1年2組で「ものづくりの知恵」の第1時。3年7組で「故郷の第1時、8組で第2時。空き時間は職員会議のプリントを直して印刷。そのほか生徒指導案件がひとつ。あとは冬休みの動向表を書いたり、扶養手当関係の書類を書いたりと、つまらない事務仕事。帰宅後、編集者と電話打ち合わせ。企画の詰め。その後、ニシン漬けで一杯。久し振りに酒を飲む。冬熱燗は本当にうまい。
18日(金) 授業は2時間。1年3組で「ものづくりの知恵」の第3時。1年2組で「ものづくりの知恵」の第2時。空き時間は教科会、冬休み課題の作成、こまごまとした事務仕事など。放課後は職員会議。更に学年で忘年会の準備会議。帰宅後は明日のセミナーの準備。


【2009年11月】
1日(日) 今日が開校記念日の学校は可愛そうだな……と同情しながら、単なる日曜日を楽しむ。原稿を書き、テレビを見、昼寝をし、犬と戯れる。
2日(月) 授業は2時間。3年2・8組で「ウミガメと少年」の主題読み。6校時はキャリア・バンクの講師を招いて、職業体験学習のマナー研修。なかなか中学生の扱いに慣れている講師で感心する。空き時間は3時間あったのだが、2時間は自習監督があたる。それでも、この3時間で期末テストを作成し完成させる。放課後は生徒会役員と打ち合わせ、更に3年2組の合唱を聴いてアドバイス。混声四部の「河口」に果敢にチャレンジしている学級である。完成度を高めるためにどこをどう直すべきかを少しだけコメントして退勤。帰宅後、メールを確認して、飲み会へ。
3日(火) 疲労がたまっているので、今日は一日、ひたすら休む。PCに向かうのも、メールを確認するだけ。疲労回復にはほど遠い。やはり先週の10時間の運転がきいたかな。まあ、2、3日で回復するだろう。幸い、テストもできているし、生徒会も忙しい時期ではない。せいぜい合唱コンクールの審査員くらい。土日も休みである。なんとかなるだろう。
4日(水) 授業は4時間。1年2・3組は主述関係の練習問題。3年7組は「ウミガメと少年」の視点比較。3年8組はノート・ワークの整理。6校時から放課後にかけて1年2・3組の合唱指導。ちょっと指導するとグーンとうまくなる。素直で意欲のある子供達である。上篠路は明日が合唱コンクールのはずだ。あの子たちの今年の歌はどうなのだろう。決して歌の得意な生徒達ではなかったが、昨年よりも少しは成長しただろうか。
5日(木) 授業は4つ。1年2・3組で「河童と蛙」の小テスト。3年8組でノート点検&ワークのまとめ。3年2組で「ウミガメと少年」の主題。空き時間は教科会で期末テスト打ち合わせ。6校時から放課後にかけて合唱指導。退勤後、日本シリーズ。久し振りに巨人のすごさを感じた。日本シリーズが俄然おもしろくなった。このまま巨人が第5戦で決めてしまうというのだけはやめてほしい。ぼくは巨人ファンでも日ハムファンでもなく、シリーズ自体はどちらが勝ってもかまわない。ただ、プロ野球ファンとして、久し振りの両リーグ覇者対決は、第7戦までもつれてほしい。
6日(金) 合唱コンクール。1・2時間目は1年生。これは審査員。まあ、妥当な順位がついたという感じ。3年2組でワークのまとめ。1年3組でワークの答え合わせと古文の小テスト。空き時間は他学年の合唱コンクールを聞く。どの学年も思っていた以上には頑張っていた。まずまずの合唱コンクールである。放課後は学年会。生徒会役員のTV認証式の撮影。帰宅後はメールを確認して飲み会へ。
7日(土) 午前様だったので、昼過ぎまで寝ている。タイヤ交換をし、犬の病院へ行き、日本シリーズを見る。結局、PCに向かい始めたのは21時半。そこから14日のセミナー準備。
8日(日) セミナー準備。指圧。ビートたけしの「点と線」。見るのは二度目だが、東京駅や札幌駅をはじめ、昭和30年代の再現にまたもや感動させられる。内山理名のシーンが大幅にカットされていて残念だった。
9日(月) 朝から評定事務。2時間目は校内研の教科内授業交流。3年生の「ウミガメと少年」のまとめの授業を参観。3年2組でノート点検。8組で「おくのほそ道」の「平泉」「立石寺」の音読。放課後は全校協議会、学年協議会のあと、国語科の授業検討会。これが18時過ぎまで。帰宅後は来週の学年PTAのビデオ編集。さらに土曜日のセミナー準備。よく働いた一日。
10日(火) 2時間目は1年2組でワークの解答&小テスト。4時間目は3年7組で「ウミガメと少年」のまとめ。空き時間はこまごまとした事務仕事。放課後は校務部会、生徒会誌の原稿、3年生の生徒たちとの談笑。帰宅後、浦河の毛ガニで一杯。
11日(水) 3年生は学力C。試験監督が3つ。1年2組でテスト前のプリント学習。空き時間はテスト勉強をさせるためのプリントを印刷したり採点をしたり。採点を終わらせて退勤。白石のロイヤルホストで山下くんに会い、頼んでいた去年の生徒のノートを受け取る。少しだけ談笑して帰宅。帰宅後はセミナーの準備。評価・評定の出し方について整理するのは初めて。我ながら、無意識にやっていたことに法則性があって、変な言い方だが、発見があって勉強になる。この企画は何より自分のためになっている。
12日(木) 3年2・7組で「平泉」「立石寺」の音読練習。1年3組でプリントに取り組ませながらノート・ワーク点検。放課後は様々な印刷、期末テスト打ち合わせ、生徒指導関係の打ち合わせなど。帰宅後は来週月曜日の学年PTAのビデオ編集、土曜日のセミナーの準備。
13日(金) なんと、午前中がすべて空き時間。期末テストを完成させ、評定資料を打ち込み、キャリア教育関係の打ち合わせをし、たまっていた仕事のすべてが終わる。午後からは3年2・8組で「平泉」の音読テスト。放課後は全協、教育課程検討委員会、3年の期末テストの打ち合わせ。19時過ぎに退勤。帰宅後、「なんだかんだ」へ。べろべろ。
14日(土) 国語科授業づくりセミナーと銘打った9回目。今回のテーマは評価。これは講座をやっている側のぼくらに大きな気づきがあった。いまさらながらなのだが、〈評価〉を語るということが、授業のすべてを語ることになり、それだけでも足りなくて、結局は教育観の全体像を語らねばならなくなるという、当たり前と言えば当たり前の、それでいて日常的にはついつい忘れがちになってしまう、この構造を実感させられたからである。終了後、ロイホで次年度の企画など考えながら談笑。
15日(日) 昼間で寝て、テレビを見ながらだらだら過ごし、録画していたドラマをを見ているうちに、締め切りを想い出して夜は原稿執筆。なんとか今日のうちに仕上げて送信。一日中、音楽は沢田研二の「TOKIO」というアルバム。このアルバムに収録されているバラードはどれも素晴らしい。ぼくが中学1年のときのアルバムである。あの頃から、ずっと聴き続けている。
16日(月) 1年2組で「聞き取りテスト」とノート・ワーク点検。3年2組で「立石寺」の音読テスト。3年7組で「平泉」の音読テスト。これが授業参観。授業参観で音読テストとは申し訳ないのだが、評定締め切りも近く、授業時数も少ないので、どうしようもなかった。放課後は学年PTA。ぼくの仕事は行事のビデオを流すのみ。空き時間は3年の期末テストの打ち合わせをしたり、1年の期末テストの解答用紙をつくったり、キャリア教育でお世話になる事業所で電話打ち合わせをしたり。割と忙しい一日だった。帰宅後は、昨日に引き続き沢田研二のアルバムを聴きながら、土曜日のセミナー準備。新しい資料をつくる暇がなく、どうも古い資料で提案するしかないかもしれない。まあ、古いもののほうがわかりやすいというところもあるのだが。だれも見たことのない資料だろうし。取り敢えず、できるだけ頑張ろうと思う。
17日(火) 1年2組で試験前自習。生徒達の質問に応えたり、提出遅れのノート・ワーク点検をしたり、合間を見て同僚のつくった3年生のテスト問題を検討したり。2時間目は教科会で1年・3年のテスト打ち合わせ。3時間目は1年3組で「聞き取りテスト」と試験前自習。4時間目は3年8組で「立石寺」の音読テスト。給食を食べ、年休。ちょっと寒気がしたので、家で寝る。
18日(水) 1~3時間目が空き時間。1年テストの解答用紙を直したり、模範解答、採点基準をつくったり、テストを印刷したり、総合のキャリア教育関係の文書をつくったり。4時間目は3年2組で、5時間目は3年8組で試験前自習。放課後は学年会。18時過ぎに終了し、その後、同僚と学年経営について話す。退勤後は土曜日のセミナーの準備、21時から「相棒」。脚本がいまいち。その後、セミナーの準備。
19日(木) 期末テスト1日目。試験監督が3つ。空き時間が一つ。その後、キャリア教育の職場訪問でお世話になる事業所に赴き、最終打ち合わせを4件。学校に戻ると勤務を解かれていたので、発送作業用の封筒を買い、明後日の講座用の雑誌を何冊か購入して帰宅。帰宅後はひたすら講座準備。
20日(金) 期末テスト2日目。この日は1年2組の担任がお休みで学級にはいる。1時間目が試験監督。2時間目が国語。3・4時間目は空き時間。14時に3年生3クラスの採点終了。職員会議のプリントを整理して、1年生2学級の採点を開始。16時40分に終了。同僚と談笑したあと退勤。帰宅後は夜中まで講座準備。3時就寝。
21日(土) 中学校・学級経営セミナーの11回目。与善さんのマジック、大野さんのアクティビティ、ぼくのメディアリテラシー、晋ちゃんのワークシートの4本。ネタ発表会的な趣でどの講座もおもしろいので、どれも好評。終了後は「なんだかんだ」で小宴。帰宅後はマジックを練習したり犬と遊んだり。明日はBOWの誕生会をやる予定。BOWは7歳になった。来週・再来週の2週連続のBRUSHを乗り切れば一息つける。今年は担任がないので、校務も評定を出せばほぼ終わり。あとは年末の学級経営セミナー、BRUSH合宿のみ。今年も終わりが見えてきたな、という感じ。
22日(日) 前日24時に寝て、目が覚めるまで寝ようと思って目覚ましをかけずに寝たら、目が覚めたのはなんと15時過ぎ。15時間寝た。買い物に行って食材を買い、きのとやでケーキを買って、BOWの誕生会。7歳になった。酒を飲んでダウン。よく寝た一日。
23日(月) 9時に起きて犬のトリミングへ。バブルウオッシュも頼んで、犬が良い匂い。土曜日のセミナーの準備。24時前には床に就く。
24日(火) 朝少し早めに出て期末テストの点数を転記。1時間目に3年生の一斉返却。その後、「平泉」「立石寺」の解説の授業を2クラス。8組は「言葉の力」に突入。空き時間は評定作業。1・3年とも、取り敢えず評定が出た。放課後は職員会議。次年度の学校祭の持ち方について白熱した議論。こういう議論ができる職場は健全である。帰宅後は土曜日のセミナー準備。目鼻がついた。
25日(水) 7組の担任がインフルエンザでダウン。今日は一日、7組に入る。大変ノリのいいクラスで楽しい一日だった。1時間目は英語の自習監督。2時間目は1年2組でテスト返却。3時間目は空き時間で評定作業。4時間目は3年7組で視写をさせながらワーク点検。5時間目は1年3組でテスト返却。6時間目は明日の総合の職場訪問のグループ別打ち合わせ。放課後は全校協議会。更に教育課程検討委員会。同僚と評定基準の打ち合わせをして帰宅。帰宅後は土曜日のセミナーの準備。
26日(木) 2組の朝学活。3年8組で「言葉の力」。指示語問題演習。空き時間は評定作業。1年2組で「竹取物語」の暗唱。2組で給食を食べる。総合の職場訪問の出発集会。総合の見回り。成績小票への転記。成績小票の提出。生徒会役員の指導。同僚と談笑。17時退勤。帰宅後、土曜日のBRUSH-UPセミナーの準備。PPTをつくり、DVDを焼く。2学期が一つ、また一つと終わっていく。
27日(金) 1年2組で「竹取物語」冒頭の暗唱テスト。前に暗唱テストをおこなっている「矛盾」をまず暗唱、それが言えた時点で受験資格が与えられる、というもの。これくらい厳しくしても、合格率は9割を超える。一般的に、いまの教師は理想を高くもたず、従ってこういう厳しさを前面に出さなくなっている。それが生徒達の学力を下げている。教師が理想を高くもち、ハードルを上げていれば、生徒達はそれなりに着いてくるものである。それがわかっていない。1年3組では「竹取物語」暗唱の1時間。3年8組は時間調整のために図書室で読書。6校時に1年2組で総合のまとめ作業。空き時間はこまかな事務仕事。退勤後、クロネコメール便で研究会案内を発送。更に、勤務校の国語科の飲み会。帰宅は23時過ぎ。
28日(土) 朝から教師力BRUSH-UPセミナーの21回目。ぼくの出番は午前中、行事ビデオの編集のコツ。90分間。これまで様々な形で提案してきたものを再構成して提示。まあ、こんなもんだろう。午後から会を抜けて教え子と会う。会場に戻って宴会。更にすすきのに出て二次会。久し振りに横藤さんと飲みながら、学校現場の状況について意見を交わす。
29日(日) 金・土とけっこうな量の酒を飲み、今日は一日ダメ。いくつかの企画を固め、テレビを見、方々とメール連絡。来週はそれほど忙しくない一週間の予定なので、一日くらい休んでもなんとかなるだろう。
30日(月) 支払いのために30分ほど遅れて学校へ。1時間目は空き時間。1年生の成績小票を記入。2時間目も空き時間。生徒会関係の事務仕事。3時間目は3年7組で「立石寺」の音読テスト。4時間目は3年2組で「言葉の力」を題材に入試問題特講。5時間目は1年3組で「矛盾」「竹取物語」の暗唱テスト。放課後は生徒会役員の指導。1年生の書記局員も決まり、第40代生徒会が完全に動き出した。退勤後はセミナーの案内を発送しに行く。帰宅後、次年度の企画を考えてMLにあげたあと、犬と遊ぶ。雑誌原稿の請求が1本。とほほ……。
イベント情報
以下の研究会の申し込みは次の7点をお書きの上,Eメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

第12回中学校・学級経営セミナーin札幌/2009年12月19日(土)
職員室の人間関係!教師の力量形成!
札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・山下幸・石川晋・田中幹也
残席数が少なくなっております。
ご参加をご希望の方はお申し込みをお急ぎください。


第9回国語科授業改革セミナーin札幌/2009年12月26日(土)
本当に国語の授業がうまくなりたい人へ
指導事項に基づいた学習活動のつくり方~国語科授業塾・授業づくり編~

札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・大谷和明・南山潤司・齋藤佳太・太田充紀

第5回「研究集団ことのは」合宿in長沼温泉/2010年1月9日(土)~11日(月)
〈HOW〉から〈WHY〉への転換
学級経営・生徒指導・授業づくり~教育活動を支える教師の思想

原則的に非公開ですが、参加してみたいという方がいらっしゃればメールをください。二泊三日の滞在が可能な先生(小中問いません)ならばご参加いただけます。費用は実費のみ、17,000円程度(会場費・宿泊・食事・宴会など全て込みの金額)です。12月中旬くらいまでにご連絡ください。

第10回国語科授業改革セミナーin札幌/2010年1月23日(土)
国語科授業づくり・AtoZ/読むこと・編
~教材研究から授業中の軌道修正まで~

札幌市生涯学習センター「ちえりあ」/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・山下幸

第13回中学校・学級経営セミナーin札幌/2010年2月6日(土)
時代の変容にどう対応するか~いま、もっとも語りたいこと~
札幌市生涯学習センター「ちえりあ」/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・山下幸・石川晋・田中幹也

第25回累積科学国語教育研究会in札幌/2010年2月13日(土)
学力向上・活用力向上への道 第一弾
新学習指導要領キーワード「習得・活用・探究」「言語活動例」
~「話すこと・聞くこと」領域の学年別系統案~

札幌市生涯学習センター「ちえりあ」/参加費3000円
大谷和明・横藤雅人・南山潤司・森寛・堀裕嗣

第11回国語科授業改革セミナーin札幌/2010年2月20日(土)
国語科授業づくり・AtoZ/話すこと・聞くこと編
~教材研究から授業中の軌道修正まで~

札幌市生涯学習センター「ちえりあ」/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・山下幸

第5回教室実践力研究会in札幌/2010年2月27日(土)
ふたり会/堀 裕嗣・石川 晋
〈教師〉は本来、楽しくやり甲斐のある仕事だったはず
授業づくりも学級づくりも楽しくなる〈教育観〉〈仕事観〉そして〈スキル〉

札幌市生涯学習センター「ちえりあ」/参加費3000円
堀裕嗣・石川晋

BLOG「裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com」~今日のひとこと


変わること/2009.12.15(火)

ぼくらの研究会のもち方に変化が見られ始めている。

今週末の「中学校・学級経営セミナー」は第一講座がポスターセッション形式。第二・第三講座の進路関係こそ全体演習講座だが、第四講座はワールドカフェ形式。

プログラムとして見ていくと、次のようになる。

講座1 ワークショップ「職員室の人間関係学」司会:石川晋/堀裕嗣・森寛・山下幸・田中幹也
ポスターセッションで堀・森・山下・田中が提案。参加者と差し向かい、少人数のQA。これを4サイクル。更に全体でのシェアリングが30分。

講座2 年度末の大仕事!進級認定・卒業認定・推薦書に伴う指導力・事務能力/堀裕嗣・山下幸
推薦書・自己アピール文の添削演習、及び添削観点のレクチャー。進級認定・卒業認定時期の不登校生徒への対応法を事例提案。

講座3 進路指導大詰め!小論文指導・面接指導の極意/森  寛・田中幹也
入試作文の指導法観点のレクチャー、面接指導演習。

講座4 ワークショップ「中学校教師の力量形成」(含・Q&A)/司会:石川 晋/堀裕嗣・森寛・山下幸・田中幹也
ワールドカフェで堀・森・山下・田中のそれぞれがファシリテーターとなって、少人数グループでワーキング。これをおそらく4セット。更に、20分程度の共有化・可視化。

要するに、「伝える研究会」から「生み出す研究会」を志向し始めるということだ。メンバーは不安だらけだが、だれも反対しない。こういうときには、何かが生まれるものだ。そして、数年後に「あの研究会がエポックだったね」と振り返られることになる。まあ、それなりに成果が挙がればの話だが。

もう一つ。

来週末の「国語科授業改革セミナー」。こちらは2本の30分模擬授業を90年代に「授業づくりネットワーク」が流行させた「ストップモーション授業検討」で具体的に検討しようというもの。これも成功すれば、授業検討の新たな動きになっていくだろう。

簡単に言えば、ぼくらは「授業づくりネットワーク」の手法をいつまでもそのまま援用するつもりはない。すべての手法には必ず不満が生まれ、必ずもっと伸ばしたい長所が見えてくる。長所を大胆に発揮できるように改良し、短所を最小限に抑えるための抑制をかけることは、ぼくらの得意とするところである。そうした挑戦を来年から始めるための、一つの転機となる研究会である。

大きな流れで言えば、いよいよコンテンツを整理する時期が終わり、失敗を怖れることなく新たなものを生み出す時期に入りつつある、ということである。この二つの研究会で何かがつかめたら、ぼくらは活気づくだろう。

ぼくらが活気づくと、自分でいうのもなんなのだが、手がつけられなくなる(笑)。

最後に別の視点で。

かつてこのブログに「おまかせします」という文章を書いたことがある。何も考えずに適当にその日思ったことを書いた駄文なのだが、割と評判のよい駄文で、いまでも毎日幾人かにアクセスされているようである。

今回の「中学校・学級経営セミナー」は晋ちゃんに、来週の国語科授業改革セミナーは山下くんに、会の司りを丸投げした。まさに「おまかせします」である。無理難題に近い責任をおっかぶせられると、人は「挑戦的なこと」を考え出すものである。しかし、この「挑戦的なこと」を考え出すことも、ある程度の力量がないと考え出せないものである。

更に言えば、それを成功させるにはその何倍もの力量を必要とするはずだ。今回の二つの研究会は、ぼくらの力量がどの程度のものなのかを測る一つの基準になる。

ただし、ここでぼくの言う「成功」は、「ストップモーション授業検討」や「ポスターセッション」や「ワールドカフェ」といった手法がうまくいくかどうかを意味しない。正否の基準は、この二つの研究会が「何かを生み出すか否か」だけである。

ぼくらはこの基準感覚だけで、もう20年以上も実践研究の場に立ち続けている。

その昔、野口先生が「できることより変わること」を合い言葉に、国語科授業づくりの一時代を築いたが、ぼくらはこの原理に大いに賛同している。

この年末、自分たちが「変わること」に、少なくともそのきっかけを得られることに、ちょっとだけ期待している。



校内研修会の10箇条/2009.11.29(土)

昨年度、前任校で研修を担当した。私の企画した校内研修会(年3回/その他は教育課程編制会議等にあたられた)は、以下である。

【6月】学校祭・合唱コンクールの指導法
【11月】道徳の公開授業/授業技術の検討
【2月】理科の公開授業/基礎基本の検討

私が実際に企画・運営したこの3回の校内研修会に沿って稿を進めることとする。

1 特別活動の研修会を(第1回)

通常、第一回校内研修会では、その年度の研究テーマ、研究仮説、研究推進計画などが提示されるのが普通であろう。私はこれらの年度計画を四月の年度当初の職員会議で提案してしまう。校内研修会は研修をこそすべきであり、研究計画のごときは通常の行事の計画と変わらないものである。職員会議において数分で提案し、承認を受ければ済むものに過ぎない。こうした提案と承認にせっかくの校内研修会の一回分を使ってしまうのは馬鹿げている。同様に、年度反省に校内研修会一回分を使うのも馬鹿げている。

この年、第1回校内研修会では、学校祭・合唱コンクールの指導法と題して、職員室内で学校祭指導・合唱コン指導を得意としている教師の講演会をおこなった。

(1)全員が興味関心のもてる題材を選択する

授業研究は確かに必要度が高いものだが、中学校の場合、教科性の問題があって、なかなか問題意識を共有できないことが多い。その点、学級経営や特別活動ならば、全教職員が深くかかわるものであり、学級担任ならば好むと好まざるとにかかわらず、実際に企画・運営しなければならないものである。しかも、学校祭や合唱コンクールの指導は、意外と苦手にしている教師が多い。 年度当初の、まだ本格的に行事が始まる以前に、学校祭や合唱コンクール等について、指導の在り方を検討しておくことは有益である。

(2)自校の人材を活用する

何かテーマを決めて講演をという場合、多くの学校は外部の人材に依頼して学ぼうとする。しかし、外部講師は学校の実態・生徒の実態を知らない。その学校の校風も知らない。保護者がどのくらい行事を楽しみにしているのか、クレームはどの程度されるのか、こうしたことも知らない。講演内容は当然、一般論にならざるを得ない。

そこで、内部人材の活用である。どこの学校にも、毎年、学校祭でみんなが楽しむことのできるステージ発表をする、或いは合唱コンクール指導を得意としていて、毎年入賞している、といった教員が一人や二人はいるのではないだろうか。そうした教員に前年度の指導の在り方について、具体的に実践発表してもらうのである。前年度のビデオを見ながら、或いは指導に苦労した具体的な生徒とのやりとりを紹介してもらいながら、学校独自のかなり具体的な話を聞くことができる。更には、参加者の誰もが具体的な場面を想像しながら聞くことができる。合唱コンクールならば、前年度の学年別優勝学級担任三人の実践発表という手もある。

(3)専門家にはデメリットがある

一般に、学校祭ステージ発表指導なら学校の演劇部顧問を、合唱コンクール指導なら音楽教師を、と考えがちである。しかし、講師はこのような専門家ではない方がいい。理由は単純である。聞いている側が、あの「人は演劇的センスのある人だから…」「あの人のような音楽の素養ないからなあ…」と、講師を〈遠い人〉と感じてしまうからだ。人間はあまりに遠い目標に対して努力しようとは思えないものである。〈自分よりちょっと上〉という講師がよい。また、専門家や上級者は、初心者が何をわからないのかということがわからない、ということが多い。この意味でも、専門家ではない、普通の学級担任で〈割とそれを得意としている人〉というのが、最もふさわしい講師である。校内の専門家には、最後の話のまとめをしゃべらせて、プライドを維持させてあげればいいのである。

(4)具体的な題材をテーマに据える

校内研修会のテーマを授業外に設定しようと考えたとき、多くの教師は「学級経営」をテーマに据えようとするだろう。しかし、「学級経営」という漠然としたテーマを設定しても、議論はなかなか具体化しない。テーマが広すぎるからである。それよりも、「合唱コンクールの指導・三週間のプログラム」といった具体的な題材をテーマに据えることである。こうすれば、合唱コンクールの指導ばかりでなく、学級リーダーをどう育てるか、予想外の案件が起こったときにどのように対処するか、問題傾向生徒が学級の輪をこわしにかかったときにどう対処するか、などなど、実質的には学級経営の議論が起こる。しかも、全職員が具体的な場面を想定して議論に参加することができ、研修の機能度が高まる。

2 授業システムの比較を(第2回)

第二回校内研修会では、「授業システムの比較」として、道徳の公開授業をおこなった。研修担当者(つまり私)がつくった道徳指導案にもとづいて、二人の授業者が同時進行で授業を公開するという趣向である。

(5)同一指導案の二つの授業を比較する

通常、校内研修会で公開授業をおこなうという場合、一つの学級、一人の教師の公開授業というパターンが多い。この場合、その教師がどの程度の力量なのか、その教師がどのようなキチャラクターなのか、また、生徒の実態によってどのように反応が異なるのか、更には日常的にどのような授業システムがとられているのかといったことが、見えにくくなってしまう。そこで、同一指導案について、二人の教師が隣り合った二つの学級で授業を公開するという手法をとった。参観者は廊下から、二つの授業を比較しながら参観することになる。

この手法をとると、一方は導入に十分かけていたのだが、もう一方は導入を一分で流してすぐに発問に入った、というような違いが出てくる。しかも、冒頭の十分で進度に大きな差がついていたのに、三十分後には進度がぴたりと合ってしまう、などということも起こり得る。導入に十分かけた教師は最後まで一斉授業で進めたが、導入を簡単に終わらせた教師は途中で小集団学習を入れた、などということも起こる。こうなると、学習活動の是非と時間の使い方・生み出し方という観点が、明確に見て取れるようになるわけだ。必然的に、研究協議も盛り上がることになる。

(6)道徳・学活・総合の授業公開をおこなう

前節でも述べたことだが、中学校は教科性に基づいた〈縦割り意識〉の強い職場である。他教科の授業公開は、多くの教職員にとって当事者意識の薄いものになりかねない。よほど意識の高い職員室である場合であればその限りではないが、多くの場合、できるだけ当事者意識を強くもつことのできる道徳・学活・総合といった授業のほうが、多くの職員が当事者意識をもって参観することができる。ただし、同一指導案による二つの授業を比較する場合には、できるだけ「発問・指示型」で展開されるような授業案とし、教師の関わり方が見えにくい、いわゆる「活動型授業」は避けた方がよい。研究協議での話題が授業技術や授業システム、指導案の是非ではなく、生徒の質にばかり向いてしまうからである。

(7)授業者を孤独にしない

二つの授業を比較する場合に限らず、校内研修会で公開授業をもつ場合には、授業づくりを授業者任せにしないことが大切である。忙しい中で授業を引き受けた教師が孤独感を抱くような公開授業なら、やらないほうがましである。

この年の道徳の授業は一学年二学級でおこなわれたのだが、一学年教師八人を二つのグループに分けて四人ずつのプロジェクトチームをつくり、このプロジェクトにおいて三回にわたる授業細案検討、そしてプレ授業をおこなった。教科の違いによって道徳の授業のつくり方の細かなニュアンスが異なり、こうした検討がかなり有益に機能する。若手教師とベテラン教師とが同じ土俵で授業論、授業観を交流することができ、学年のチームワークも高めることができる。そして何より、多くの場合、授業者に「やってよかった」と思ってもらうことができる。

3 年に一度は教科の公開授業を(第3回)

年に一度程度は、教科の公開授業をおこなったほうがいい。ただし、これは教科内交流の話ではなく、一つの授業を全教職員で見るという形態の公開授業を指す。同一教科の教師のみが授業を見合う教科内交流ならば、何も校内研修会の時間として設定する必要はない。

この年は、「作業指示の出し方/グループ討議のさせ方」と題して理科の公開授業を全員で参観した。

(8)教科横断的なテーマを設定する

この年、授業教科は理科であったが、理科の授業研究としてではなく、「作業指示の出し方/グループ討議させ方」というテーマを設けて、理科実験の授業を公開してもらった。の授業を理科の授業としてのみ公開したのでは、やはり他教科の教師の当事者意識が低くなってしまう。しかし、「作業指示/グループ討議」という観点で公開されると、それは全教科共通の「授業システム研究」「指導言研究」となる。こうしたテーマを設定するだけで、教職員の参加意識が格段に高まる。

(9)なぜその教科なのかを納得させる

皆さんの学校では、校内研の授業者はどのように決まるだろうか。教科の輪番だろうか。それとも、教科よりも人、つまりたまたまその教科に若い人間がいたからその教師に授業をあてる、という感じだろうか。授業者の決め方はそれぞれでいいとは思うが、もう少し、今年はこれ…というふさわしい教科があるのではないだろうか。それも、全職員が人情として納得するような決め方が……。

私の前任校ではこの年、実は、理科を専門とする学校長が退職する年だった。退職まで一ヶ月あまりというこの時期、学校長が校内研修会に気持ちよく参加でき、しかも気持ちよくまとめの話をすることができる、私はそういう研修会にしようと思った。そのために、四月から理科の教師に授業公開をお願いし、二月の授業公開に向けての心構えを抱かせた。研修担当者にはこうした心遣いをもつこと、そして年度当初から見通しをもって研修計画をたてること、この二点が重要である。

退職を控えた学校長は、実に楽しそうに指導案の事前検討に参加し、プレ授業を参観し、そして意見を述べた。校内研修会が退職への一つの花道ともなったわけである。

(10)研究協議では全員に発言させる

私がよく使うのは、公開授業のあと休憩時間を20分間とり、付箋に授業の分析を書かせるという手法である。

付箋は縦76ミリ、横127ミリのものを使っている。この大きさの付箋に必ず記名させたうえで、肯定的な意見を一点、批判的な意見を一点書くことを強制する。これを全員分コピーして研究協議冒頭で配付するわけである。研究協議はこれをレジュメに一人一分で授業分析を発表するところから始まる。授業者のコメントの前に、全員からの肯定的意見と批判的意見とが提起されるわけだ。全員が意見を述べたうえで、それに応える形で授業者がコメントを発する。その後、司会者が論点を整理して、協議にはいっていく、という流れである。

ここでは、批判的意見を書くことが強制されているという点が重要である。多くの教師にとって他人の授業を批判することはいやなものである。それを強制されるとなると、しかも全員がそれなりに批判を書くということになると、二重に責任が生じる。授業者を批判する責任と他の参観者と視点が異なった場合に生じる説明責任とである。こうした二重の責任を感じることが、公開授業を当事者意識をもって参観することへとつながるわけだ。

4 〈当事者意識〉と〈安心感〉との同時達成を

教職に就いて最も大きく違和感を抱いたのは、公開研究会において公開授業だけを参観して、研究協議に参加することなく帰って行く教員が少なくないということだった。公開授業の参観者は三十人いたのに、研究協議には八人しか残らない……そんな公開研究会を幾度となく経験してきた。公開授業を見ることよりも、むしろ研究協議において他の教師のものの見方を学ぶことの方がずっと勉強になる、そうした印象を抱いていた私に、この多くの教師にみられる傾向はなんとも不思議に映っていたものである。

研究協議では、その日の公開授業が意味づけられ、意義づけられる。そのために、様々な意見が交わされ、ときには論争が起きる。司会者や研究担当者が議論を整理し、成果と課題が提示される。もちろんそうした整理は、必ずしも私にとって納得できるものでない場合も多いが、それでも一般論としてかくかくということが言え、私の実践はしかじかという理由で特殊なのだ……といった自実践を相対化する視点が得られる。こうした経験の積み重ねは、間違いなく私を成長させてくれた。

公開授業だけを参観し、研究協議には参加しない。この態度が、私には教員生活二十年に近づいているいまなお、不思議でならない。そんななかでも、私なりに彼らの心象を解釈してみると次のようになる。

まず第一に、①変化をかたくなに拒否するという態度である。新たなことを学んだり対立の中に身を置くことを極端に怖れ、避ける。自らの殻を破ること、破られることを極端に怖れ、避ける。その結果、②批判されることを拒否する態度を示す。また、自らが批判されないために、③他人を批判することを忌避する。一般的に、教員にはこの三つの共通項がある。こうした共通項が、ある種独特の教員文化をつくっている。

彼らは自分に変化を強いられることを怖れている。だから、意見を求められ、時には対立を余儀なくされるような場である研究協議には参加しない。しかし、授業のネタ収集にはなるから、公開授業だけは参観したい。無意識的にこうした思考過程を経て、公開授業参加・研究協議不参加という参加様態がとられるのである。

だが、「変化からの逃避」は、実は「成長からの逃避」を意味している。変化のないところに成長などあり得ないからである。

では、そうした教師たちが「成長」を拒否しているかといえば、決してそうではない。彼らもできれば成長したいと考えている。もしも、ある種の安心感とともに「成長の場」が設定されるならば、できれば参加したいと考えている。二十年近く、身近に「教員」という人種を見てきて、私にはその確信がある。

校内研修会を〈安心感〉を伴った成長の場にすること、これが、いま私の考える校内研修改革論である。おそらく、校内研修会の成否は、学校の職員にどれだけ〈安心感〉をもってもらえたかで、その機能度が決まる。内容は学校教育にかかわることでさえあれば領域は問わない。授業にこだわることはない。道徳でもいいし特別活動でもいい。「発問・指示」「学級組織のつくり方」といった大きな子話題から、「掲示物のつくり方」「行事ビデオの編集」などというミニマムなものまで、様々なテーマが取り上げられてかまわない。問題は教職員一人一人の機能度を高めることにこそある。

長く、研修を厭わない教師たちから、「なぜ、多くの教師は研修に積極的でないのか。法律にも規定されている教師の義務ではないか。」という声をよく聞いてきた。そうした教師は多くの場合、一般教師から忌避され、結果的にその主張を機能不全に陥らせてきた。しかし、それはあたりまえなのである。研修に対して消極的な教師たちをこのような言葉で責めてみても逆効果なのだ。

だれも好きこのんで批判される場に臨もうという者などいるはずがない。また、ルーティン化した研修に意欲的になれ、というのも馬鹿げている。〈当事者意識〉をもたせるとともに〈安心感〉をもたせる。この二つの同時達成こそが、実は校内研修会を活性化させるのである。その原理は、授業のつくり方と同じであると心得たい。



一人で抱えるな、みんなでやろう。/2009.11.26(木)

1 沈静化した学校批判

教師批判、学校批判が沈静化し始めている─そう感じているのは私だけだろうか。

マスコミに、一時のような、学校のやることなすこと批判するという姿勢が見られなくなってきている。保護者にも、重箱の隅をつつくような、小さなことに対するクレームが見られなくなってきている。教師も、学校現場も、批判されないための心得について考え始め、しかもそれが少しずつ形になり始めている。そして何より、ある大規模な保護者アンケートでは、自分の子を通わせている学校への満足度が「非常に満足」「ある程度満足」をあわせて80パーセントを超えた、という報告も現れ始めている。

思えば、学校バッシング、教師バッシングが喧しかったこの十年、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分たちはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。 一九九八年、学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩するようになった。その後十年、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、一段と闊歩の度合いを強めてきた。2000年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、2000年代半ばには、かの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになっていった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっていた。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していた。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。

結果、「教員免許更新制」が敷かれ、教師は十年に一度、30時間の講習を受けることが義務づけられた。教師はダメだ、教師が生徒・保護者の期待に応えていない、そうした世論がこの制度の実現を後押しした。しかし、現在、民主党政権がこの制度の廃止を提案しても、特にそれに反対しようとする大規模な世論は生まれない。

2003年4月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰したことを意味していた。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見られた。このことは、80年代以来の教職サービス業化の流れと70年代以前の「熱血教師」待望論という、相矛盾した期待がはびこっていることを思わせた。いやはや、教師への要求水準はどこまで上がるのか、当時の教師たちは戦々恐々としていたものである。

しかし、ここに来て雲行きが変わってきた。安倍首相による市場原理主義的な教育改革が頓挫し、教育再生会議が雲散霧消し、各新聞社の過激な教育特集も沈静化しと、教育が旬ではない世の中が二年ほど続いている。クレーム処理のノウハウを蓄積するとともに、クレームを受けないためのノウハウも蓄積されてきた。学校は二十年ぶりの安定期に入り始めたとの声も聞くほどである。

しかし、この見解は甘い。私見によれば、この沈静化は一時的なものに過ぎない。これから数年のうちに、保護者・マスコミによる教師批判の大合唱が起こる。

2 教員の質の低下

いわゆる「団塊の世代」の大量退職が始まった。私の勤める札幌市では、この十年で半分の教師が入れ替わるという。

苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約10万8000人だった志願者が、1998年には6万4000人、2007年は4万7000人にまで減少した。18歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。18歳同一年齢人口比に照らしても、1988年に5.7%が教員志望であったのに対し、2007年は3.6%にまで落ち込んでいると言う(「教育再生の迷走」筑摩書房・2008年11月)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。

こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。

昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、80年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。

こうした中学校教師の実感から想定されるのは、今後数年のうちに、主に小学校において、質の低下した若手教師たちに我が子を預けざるを得ない保護者たちによって、最低限の教育が行われていないのではないかという不満が顕在化するのではないか、という危惧である。このとき、これまで幾多の問題が起こってきたにもかかわらず、いまだに「担任任せ」を維持している小学校がもつのだろうか。私の心配はそこにある。

3 新たな世代の登場

最近、新たに現場に入ってくる若手教師を見ていて、危惧することがある。それは、若手教師が生活指導上の問題で生徒とトラブルを起こす事例が増えてきていることである。生徒の立場を考えずに指導してトラブルになったり、生徒の言い分を一切聞かずに指導してトラブルになったりと、ひと昔前であれば、生徒指導部長や生活指導係が生徒たちの壁となるうえで起こっていたトラブル事例が、若手教師に見られるようになったのである。

若手教師のトラブルといえば、ひと昔前なら、授業がわかりづらいとうちの子が言っていると保護者からクレームを受ける、授業のフレームが甘くて授業中に生徒同士のトラブルが起こる、一部の子どもたちを優遇するという差別がおこなわれているという訴えがある、悪いことをした子をちゃんと叱っていないというクレームを受ける、女子生徒に甘いという評判が立つ、などなど、いかにも若手教師っぽいトラブルだった。そうしたトラブルから、生徒との距離感覚を学んでいくというのが、若手教師の成長モデルだったといっていい。

しかし、最近のトラブルは、どうもそうではない。言葉は悪いが、若いくせにあまりにも「教師然」としていることから起こるトラブルなのである。これはどうしたことか。

思うに、彼らは「教師─生徒関係」を前提とした役割演技をしようとしているからではないか。スカート丈の指導、名札の指導、チャイム着席の指導、授業中の私語の指導……こうした指導をするのはいい。毅然とした態度で指導するのもいい。しかし、「なんで名札つけなきゃならないの?」「ちょっと手を洗いに出ただけじゃない」と言い返されたときの二の矢がない。

そうしたことに生徒が疑問をもつことくらい、ちょっと前、自分が生徒だったときのことを考えればわかりそうなものだが、そうした認識がない。次の手立てがないから、もっと語気を荒げて激しく注意するか、この段階で早くも先輩教師を頼るか、この二つしかない。そして前者を選択したときに、トラブルになるわけだ。

単なる印象でしかないことを承知のうえで言えば、彼らは「スカート丈」や「名札」や「チャイム着席」が大切だとは、特に思ってはいない。ただ、教師とはそういうことを注意するものだ、教師とはそういうものだ、という漠としたイメージに自分を同化させているだけである。だから、一言、単純な言い返しが来ただけで、既に手立てがない。お手上げになってしまう。私にはそう見える。

どうも、前節で述べた学力的な質の低下とは異なった、昨今の若者の世代的傾向が出ているように思える。教師にとって、「役割演技」は確かに重要なスキルである。しかし残念ながら、教師は「役割演技」のみでできるほど単純な商売ではない。公私混同は避けねばならぬが、「公」だけの個人などあるはずもない。そのあたりの機微が最近の若者には欠けている。

4 教師力ピラミッドの効用

こうした状況の中で、二年前、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。

「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。



第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日 常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。

第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。

また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編制という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。  更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。

以上が、「教師力ピラミッド」に関する大まかな説明であるが、これには既に二つの大きな誤解が生じている。

第一に、私自身がこれらの能力のすべてを身に付けていると、私が主張しているのだとする誤解である。しかし、私の意図はそうではない。本稿の冒頭にも書いたことだが、「教師力ピラミッド」は学校バッシング、教師バッシングに対する反発が私につくらせたものである。私は「なぜ、こんなにも自分たちは責められねばならないのか」「世論は我々にどういう教師であることを求めているのか」と、悩ましさを抱いていた。そこである日、「讀賣教育メール」の五年分をフォルダから引っ張り出し、教師の不祥事として報道されている記事を一件一件読んでいった。すると、教師には「これも求められていればあれも求められている」「わかるはずのないこんなことさえ事前にわかれといわれている」といった実態が理解されてきたのである。教師がこうした事態に陥るのは、間違いなく、世論が架空の「理想の教師」像を抽象的なイメージとして設定し、それを基準にして教師の具体的な行いを断罪するからである。しかも、そこで基準とされている「理想の教師」像は完璧な教師であり、完璧な人間であった。そこで、私は「みなさんの求めている教師像はこんなにもすごいスーパー教師なのですよ。こんな教師がいるわけないじゃないですか。」という意味で、「教師力ピラミッド」をつくったのである。「教師力ピラミッド」はむしろ、私の反骨精神のあらわれなのたと言ってよい。

第二に、「教師力ピラミッド」に示されているすべての能力を身に付けることが、教師の理想像であり、教師修業の目標であると、私が主張しているのだとする誤解である。これも私の意図に反している。私が主張しているのは、こんなにも多彩な諸能力をすべて一個人でもつことは不可能なのだから、これらを組織として機能させようということである。例えば、一つの学校(大規模な中学校ならば学年団でもいい)に、先見性・創造性をもつ人が一人もいないとか、教務力・研究力に長けた人が一人もいないとか、怖い先生を演じられる父性型教師が一人もいないとか、そういう状態にならないように、人事も学校運営も配慮すべきではないか、ということである。

ところが実際の学校には、父性型教師が生徒指導を牛耳って母性型・友人型教師を軽視したり、研究型・教務型教師が父性型教師を「時代遅れだ」と揶揄したりといった実態がある。それが学校や学年の「チーム力」に計り知れない悪影響を与えているケースが多々見られる。そのことをすべての教師が意識すべきではないか、という提案なのである。

私のメッセージはたったひとつだ。「一人で抱えるな、みんなでやろう」である。

新たな世代に成長モデルを提示しながら、一段一段、階段を昇らせる。叱りつけるのでもなく、突き放すのでもない、チームの一員として機能させることによって成長を促していく。学校現場の現実に鑑みると、いま考えられる手立てはこれしかない。特に、いまだに「担任任せ」のはびこる小学校には、こうした発想の転換が急務である。



HOWからWHYへ/2009.11.01(日)

2ヶ月くらい前のことだったと思う。あるセミナーで登壇した折。全員に音読させるのは時間の無駄だとある先生に言われたのだが、自分は音読が大切だと思っている。全員音読に時間をかけるのを堀先生は無駄だと思うか。こんな質問を受けた。

つい先日、ある小学校で若い先生方に国語の授業に関する質問に応えていた折。一次感想を子どもたちが書けない。「おもしろかった」とか「つまんなかった」とさえ書けない。「別に…」とか「書くことがない」などと言われてしまう。どのように書かせたらいいのだろうか。こんな質問を受けた。

どちらの質問に対しても、同じ応え方をした。

「目的によります。」

最近、「HOWからWHYへ」なんていうちょっと洒落た、そして耳障りのいい言い方で言っているのだが、要は「方法から目的へ」という意味である。最近、よくなされる質問の答えは、少なくとも授業に関する質問の答えは、ほとんどがこれにつきると言っていい。

要は、多くの質問が骨格だけ見れば、「どうすればいいか」「この方法を堀先生はどう思うか」で構成されている。つまり、「方法は何か」「方法Aは適切か」という質問である。

しかし、「方法」だけを取り上げてそれが良いか悪いか、適切か不適かと問われても、応える側としては応えようがない。何のためにその方法を採っているのかがわからないからだ。その結果、「○○という場合なら適切ですが、△△という場合なら適切ではありません。また、××という場合も考えられますが、この場合なら□□をいっしょにやるといいでしょう。しかし、これらはあくまで原則的なことであって、そのときそのときの条件によって変わります。Aという条件ならば……、Bという条件ならば……」と説明が長くなる。

そもそも、「方法」というものは「目的」が最初にあって、その「目的」を達成するために様々な「方法」の中からある「方法」が選ばれる、という質のものである。ある「方法」が常に適切であったり、ある「方法」が常に不適切であったりするわけではない。

従って、「この方法は適切か」という問いは、実は問いとして成立していないのである。

ほとんどの生徒に定着している事柄を全員に音読させる必要はない。しかし、定着度が低く、重要度の高い事柄ならば全員に音読させなければならないだろう。どんなに時間がかかろうが、次の時間も、その次の時間も音読させて定着させるべきである。しかし、何時間もそればかりに費やすわけにもいかない。従って、2時間目からは授業の冒頭の2~3分を使って、10時間くらい一斉音読させるという手立てをとる。10時間も授業冒頭でやり続ければ、ほとんどの生徒たちに定着するはずである。ところが、それをやり始めて5時間目に小テストを行う予定がある。そのときには冒頭の2~3分がとれない。そのときは仕方がないと考える。小テストの次の時間には、1時間あいたので、いつもなら2~3分のところを5~8分ほどかけて、じっくり復習をする。ところが……

と考えていけばきりがない。場合分けで応えるとはこういうことなのだ。こんな答え方をしていたのでは、時間がいくらあっても足りなくなってしまう。

第一次感想はどう書かせるかという問いも同じである。それは第一次感想を何のために書かせるのか。第一次感想をその後の授業でどう使うのか。そうした目的によるに決まっているのだ。例えば、その後の授業に一切使わず、ただ書かせるだけなら、やめてしまったほうがいい。学習課題をつくるため、或いはレディネスを把握するための第一次感想なら疑問点・問題点を書かせればいい。主題論争をしたいのなら主題を書かせなければならないし、表現技法の勉強なら「うまいなあと思った表現」について書かせなければならない。第一次感想が独立してあるのではない。それは常に、その後の展開(つまりは目的)とセットであるのである。

何を目的にどういう学習活動を組めばいいだろうか。

いまやろうとしていることは、目的と合っているか。

すべての教師がこういう発想をもち、こういう考え方をするというだけで、日本の学校教育は劇的に変わるのになあ……と、いつも思う。



振り子/2009.10.28(水)

偏差値教育が批判されていた時代がありました。管理教育が批判されていた時代もありました。学力よりも情操をという時代もありました。関心意欲を高めればすべてが解決するような幻想が抱かれていた時代でした。そんななかで新学力観もゆとり教育も生まれてきました。

1998年のことです。学校完全週五日制、総合的な学習の時間の創設、選択履修枠の拡大、こんな大文字の言葉が氾濫して新しい教育の形が志向されました。

しかし、と同時に学級崩壊、学校崩壊、学力低下、指導力不足教員、不適格教員というネガティヴキャンペーンも目立ち始めました。酒鬼薔薇聖斗事件、黒磯女教師刺殺事件、佐賀バスジャック事件、長崎幼児殺害事件、佐世保小6女児刺殺事件といった事件も起こり、子どもたちの規範意識の希薄化や情報社会のデメリットが大きく叫ばれもしました。

そんななかで、社会は、2000年には既に、学力向上路線を選択していました。振り子は再び、大きく振れたのでした。日本国中みんなで唱えていた関心意欲、創造性重視の教育が、こんどはみんなで学力向上です。猫も杓子も。

ゆとりで失敗したからやはり学力向上だ、というのは、あまりにも短絡です。

関心意欲、ゆとり、創造性、それらをあまりにも追い求め過ぎたがために失ったものが目立ってしまった。それが、いわゆる「学力」だった。こんどは学力をあまりにも追い求めることによって、何が失われるのでしょうか。まだそれが顕在化していないだけで、それが顕在化され、更には世論向けに命名され、マスコミを賑わす日はそう遠くないはずです。

いま、教師も、子どもも、親も、だれもが学力が高くなったほうがいいと考えています。現場では是が非でも全国学力・学習状況調査の点数を上げろと教委に命じられている、そんな市町村がたくさんあります。そして、去年より何点上がったとか、全国平均よりも何点高かったとかいうことを単純に喜んでいる。しかし、全国学テの点数が上げる努力をしたことによって、何かが失われているのかもしれない。その可能性は顧みられもしません。

何かに夢中になることによって、そうした問題意識は見過ごされてしまうのです。いいえ、そういう問題について意識的な人も一部にはいるのですが、そもそも「失われている何か」について、その失われているものが何なのかについては調べようがないものですから、なかなか意味のある声として挙げることができません。これが失われているのだと思いついたとしても、その因果関係を証明することがこれまた難しい。世論が夢中になっているものについては調査が行われることがあっても、世論が鼻にもかけない「失われたかもしれない何か」ごときについては、調査がおこなわれるはずもない。予算もつくわけがない。そうやって、また、振り子が振れるのです。

例えば、力量のある教師がすばらしい学級経営としたとします。その教師は自らの力量に悦に入ることはあっても、また、自分は力量があるのに隣の担任の学級経営は何だと批判することはあっても、隣の教師が自分の学級と比較されることによって、必要以上に子どもや保護者から非難されている可能性があることになど、まったく考えが及ばない。それだけ力量のある教師なら、それを踏まえて両方の学級ともにうまくいかせる方法を考えつくはずなのです。

いつだって、劣勢に置かれている立場の人、流行に乗っていない事柄については、データがない。学力向上路線によって失われている何かがあったとして、それがどのように学力向上と反比例しているかというデータは絶対に測られない。力量のある教師の隣で相対的に必要以上に力量がないと揶揄されている教師がいたとして、その因果関係をはかるデータなどあり得ない。因果関係ばかりが大手を振って歩く世の中では、弱い者は泣き寝入りするしかない、それがこの都市型社会、情報化社会のからくりなのです。

「情報」とはよく言ったもので、「情報」は単なる「報」ではない。だれかの「情」がはいった「報」なのです。つまり、「情報社会」とは、世論に見向きもされない「報」は世論に見向きもされないがゆえに存在しないものとされ、世論の「情」を引く「報」のみが存在するものとみなされる、そういう社会です。臭いものには蓋、蓋をしているうちにみんなが忘れ去り、そのうちにないものにされてしまう。それが「情報化社会」なのです。

しかし、臭いものはやがて、本当に悪臭を放つようになり、ちょっとやそっとの蓋では隠しおおせなくなっていきます。いつの日かだれもが知るところとなります。そんなとき、世論の「情」は、「なんだこの悪臭は…」という議論一色に染まります。そして正反対の「情」が大手を振って闊歩し始め、正反対の「情報化社会」が生まれるのです。こうして教育の振り子は振れ続けます。

構造改革、郵政民営化も4年後には正反対に振れました。政治でさえこんなに大きく振れるのですから、文教政策のごときの振り子が振れるくらい、当然なのかもしれません。



事実の確認/2009.10.20(火)

生徒指導上の事案が起こる。

例えば、ある女子生徒Aが「BちゃんとCちゃんにいじめられている」などと訴えてきたような場合である。

もちろん教師はAに事情を聴く。なるほどAから話を聴いていると、B・Cのやり方には行き過ぎがみられるようだ。そこで教師は、B・Cを呼び出して指導する。Aが二人の言葉に傷ついていること、他人を傷つけるような言動はいけないということ、これからはそういう言動を慎まなければならないこと、こうした内容について指導する。B・CはAにだって責任があると訴えるが、教師は切り返す。「どういう理由があるにせよ、いじめはいけない。」と。「現に、Aは深く傷ついているのだ。」と。

結果、教師はB・Cの信頼を失う。いや、それだけではない。B・CはAに対する恨みをも抱く。そしてAもそれに気づく。「先生はやばい指導の仕方をしたな。」と。それが教師に対するAの信頼をも失わせる。Aは「先生を頼ると、状況が悪くなる。」ということを、経験を通じて学んだのである。それが、今後の生徒指導に大きな悪影響を与える。

教師だけがそのことに気づかない。中には、「うまく解決できたな。」などと、お気楽なことを考えている者さえいる。その裏には、「悪いことは悪いとしっかりと指導しなければならない。それが規範意識を育てるということだ。」という、短絡的な思想がある。いや、〈思想もどき〉というべきか。

多くの生徒指導がこのようになってしまうのには、実は理由がある。それも単純な理由だ。それは教師が指導にあたって、〈起こった事実〉を確認しないからである。

生徒指導上の事案には、必ず〈起こった事実〉がある。B・CがAを攻撃し始めたのはいつからか。どんな言葉をAに浴びせたのか。いつ、どこで、どんな状況で、何回程度浴びせたのか。それを見ていた第三者はいるのか。B・Cがそのような態度に出るようになったきっかけは何なのか。それ以前のA・B・Cの関係はどうだったのか。AとB・Cの関係がこじれる至る過程において、AはB・Cにどのような態度をとったのか。このようなことを確認しなくてはならない。

どんなに面倒でも、教師はこれらの経緯を逐一確認しなければならない。これを怠ると、教師は生徒達の信頼を失ってしまう。教師がうまく対応できなかったという噂が学級中、学年中にあっという間に広がっていく。教師と生徒との関係が少しずつ少しずつ、しかしそれ以上ない確かさをもってくずれていく。そういう学級・学年のなんと多いことか。

では、どのように〈起こった事実〉を確認するのか。

まず【図1】をご覧いただきたい。



生徒Aと生徒Bがトラブルを起こしたとする。それを訴えてきたのが生徒Aである場合、教師は無意識のうちに生徒Aの側に立ちがちである。〈起こった事実〉をAの立場からのみ聴いて、それを前提に生徒指導をしがちである。つまり、無意識のうちにAの味方をしながら、生徒指導にあたりがちなのである。まずはこれを避けねばならない。避ける方法は簡単である。生徒Bからも同じように〈起こった事実〉を確認すれば良いのだ。すると、Aとはまったく正反対の〈起こった事実〉が出てくる。ここで、教師はAの言い分とBの言い分とをフィフティ・フィフティの信用度と捉えなければならない。

すると、この事情を知る者、つまり、A・Bのトラブルに直接的・間接的にかかわよったすべての人間に事情聴取しなくてはならなくになる(図2)。

CやDはA・Bとはまた違った角度で〈起こった事実〉を認識しているかもしれない。中には、終始ひねくれた目で見る者(E)、最初は何が起こったのかを理解していなかったのに事情聴取の中で理解してくる者(F)、A・Bどちらにも気を遣う日和見的態度の者(G)、最初から最後まで事を理解できておらず話のコロコロ変わる者(H)など、様々な角度の事情が明らかになる。

しかし、このくらいの人数に対して事情聴取を重ねれば、教師の側にもおぼろげながら〈起こった事実〉の全貌が見えてくる。これをそれぞれの生徒に突きつけていく。生徒も忘れていた細かな事実を思い出す。

様々な人間が様々に「事実」を解釈していることを知った生徒達は、自らのものの見方を「メタ認知」せざるを得なくなる。つまり、こんな単純なトラブル(=起こった事実)でさえ、自分の見方は絶対ではないのだということを、同級生・仲間内の証言から実感していくことになる。教師から教えられるのではなく、自ら発見するようになる。規範意識は、こうした営みの繰り返しの中で身についていくのである。



コミュニケーション能力/2009.10.18(日)

学級集団を構成する子ども達が、時代とともに変容してきている。現代の子ども達は、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力としての「コミュニケーション能力」の高低を互いに評価し合いながら、自らの「スクール・カースト」の調整に腐心していると見て良い(『いじめの構造』森口朗・新潮新書/『友だち地獄』土井隆義・ちくま新書)。「スクール・カースト」は別名「学級内ステイタス」とも呼ばれ、学級への影響力・いじめ被害者リスクを決定し、子ども達を無意識の格闘に追い込んでいる、重要な概念である。

21世紀に入って、教育界から政財界に至るまで、これからの人間に必要なのは「コミュニケーション能力」であると声高に主張している。しかし、この「コミュニケーション能力」の具体が何であるのかという説得力ある論述はなかなか見られない。森口朗は、これを子ども達が〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力と捉えていると分析した。〈自己主張力〉とは自分の意見を強く主張する力、〈共感力〉とは他人を思いやる力、〈同調力〉とは周りのノリに合わせる力である。更に詳しく言うなら、次のようになる。

自己主張力:自分の意見をしっかりと主張することができ、他人のネガティヴな言動、ネガティヴな態度に対してしっかりと戒めることのできる力。80年代以降の世論によって大切だと喧伝されてきた能力。

共感力:他人に対して思いやりをもち、他人の立場や状況に応じて考えることのできる力。従来から学校教育で大切と考えられ、リーダー性にとって絶対的に必要とされ重要視されてきた能力。

同調力:バラエティ番組に代表されるような「場の空気」に応じてボケたりツッコミを入れて盛り上げたりしながら、常に明るい雰囲気を形成する能力。子ども達によって現代的なリーダーシップには不可欠と考えられている、現実的には最も人間関係を調整し得る能力。

※この三つの総合力を「コミュニケーション能力」と呼び、毒舌タイプの級友にツッコミを入れて逆にオトしたり、大人しい子やボケ役の子をいじって盛り上げたりして、「場の空気」によって人間関係を調整していく。

この三つの力の総合力を子ども達が「スクール・カースト」(=学級内ステイタス)を測る基準としている、というのである。森口はこれをマトリクスとしてまとめ(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・45頁)、三つの力といじめ被害者リスクとの関係を示した。そこで分析されているのは、現代の学級が以下の8つのキャラクターによって構成されている、ということである。

①スーパーリーダー(自己主張力・共感力 ・同調力のすべてをもっている)
②残虐なリーダー(自己主張力・同調力をもつ)
③栄光ある孤立(自己主張力・共感力をもつ)
④人望あるサブリーダー(共感力・同調力をもつ)
⑤お調子者・いじられキャラ(同調力をもつ)
⑥いい奴(共感力をもつ)
⑦自己中心(自己主張力をもつ)
⑧何を考えているかわかにない(自己主張力・共感力・同調力のどれももたない)

この①~⑧の順で「スクール・カースト」の高低が決まる。しかも、ここで言う「スーパーリーダー」は、現在の学級にはほとんどいない。それに対して、「お調子者」「いい奴」「自己中心」はかなりの数がいる。また、「残虐なリーダー」も一定程度いる。この集団構成が現在の学級集団の統率を著しく難しくしている。

さて、ここで教師の立場として考えておかなければならないことは、実はこの「スクール・カースト」が、決して子ども達だけが対象になっているわけではない、ということである。実はこの視線は、担任教師にも向けられているのである。もしも、担任教師が「自己主張力」と「共感力」しかもたず、「同調力」をもっていないとすれば、それは「スーパーリーダー」以下、「残虐なリーダー」と同等程度のカーストと見なされる。「共感力」「同調力」はあるが、「自己主張力」が弱いという場合には、「残虐なリーダー」以下の「人望あるサブリーダー的な教師」と見なされている。「自己主張力」だけなら「自己チュー教師」、「共感力」だけなら「いい奴だけど、いじめのターゲットになり得る教師」とさえなるのである。

おそらく最近の小学校高学年から中学校において頻出している学級崩壊は、担任教師のカーストが低く、それ以上のカーストとして認められている子ども達の影響力の大きさによって引き起こされている。こうした現状に鑑みると、現在、学級担任が「残虐なリーダー」タイプや「お調子者」タイプと対立しながら学級を統率していくことは至難の業である。その意味でも、子ども達のノリ、時代的なノリに対する、教師の「同調力」が重要になる。他人を思いやりましょう、規律を守ることが大事だ、といった真面目一辺倒の路線では立ちゆかないのが現代的学級の特徴なのである。

教師はいま、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉という三つの力の総合力としての「コミュニケーション能力」をもたねばならない立場に置かれている。ベテラン教師、お母さん教師、優しいお兄さん・お姉さん教師が、学級を統率することができずに崩壊させる要因はここにある。

とは言っても、こうした三つの能力を須くもつことは、教師にとっても困難である。その打開策として、私は学年団がキャラクターに基づいた「チーム力」を発揮することを提案している。それがここ数年、私が何度も紹介している「教師力ピラミッド」の思想である。



「相棒season8」第一話「カナリアの娘」/2009.10.16(金)

「相棒SEASON8」第一話「カナリアの娘」を見ました。

脚本家は輿水泰弘。この脚本家のつくる話では、大がかりな事件が起こる割には、事件関係者の心象が深く描かれないことが多く、また、どんでん返しっぽいトリックもない、そういう印象を抱いていて、いま一つ期待感をもてずに見始めました。

しかし、今回は布石の打ち方もうまく、伏線があちらこちらに張り巡らされていて、なかなか完成度の高いドラマになっていたなあ、と感心しました。素人が「感心しました」などという言い方をするのは不遜なのかもしれません。「感心しました」が悪ければ「感動しました」と言い換えます。

ラストの落ちは、内山理名の演技力もあって、かなり説得力がありました。最後、右京に背を向けながら唇を噛む内山理名の長いカットはかなりのものでした。嫌われ松子のときも感じましたが、この女優の演技力はすごいです。目はもちろん、鼻にも、唇にも、頬にも、すべての表情に演技が行き届いています。喜怒哀楽の表情をアップで、しかも長いカットにもたえうる、そういう数少ない女優だと思います。顔の造形は十人並みなのに、ものすごい美人女優に思えてきます。こういうのを「女優」というのだなあ、と改めて思います。

留置場に一人、髪の毛から空を見つめる表情のアップへと移行する、古谷一行の数秒のカットにも、説得力がありました。メリーゴーラウンドに乗る母親と子役の存在感もなかなかのもので、このドラマの完成度を高めているのは、もちろん脚本だけでなく、カメラワークや俳優陣の力が大きいなあ……とも実感させられました。

そうそう。長いカット言えば、水谷豊と及川光博が警視庁に戻ってきた折、山西惇との長いやりとり、途中に特命係の部屋でコーヒーをいれている岸部一徳に焦点をあわせ、再び3人のやりとりへ、という非常に長いカットがありました。ちょっとユーモラスに描くシーンですが、こういう味のあるカメラワークにぼくは感動を覚えます。すごいシーンだなあ、と感じました。

映像では、長いカットは要所に織り込むと計り知れない効果が生まれることがあります。もちろん監督は意図的にやっているのでしょうが、かつて「あぶない刑事」で打ち合わせをしているシーンでものすごいロングがあって感動を覚えたことがありました。また、映画「それから」で松田優作と藤谷美和子のとてつもないロングカットにも感動を覚えましたし、最近では、行定勲監督がずいぶんと長いカットを効果的に使っています。特に、「それから」のロングは素晴らしかった。借りてきたVHSを何度も繰り返し見て、感動に浸ったのを覚えています。

脚本家と監督との関係も、俳優陣と監督との関係も、文学で言えば「物語」と「語り手」の関係に近いものがあるわけで、文学も映像ドラマも、読者や視聴者に可能な限り意識させずに物語性を鮮明に意識づけることが求められるわけで、その点で、今回の「カナリアの娘」は何度でも見て、演出やモンタージュの技法について、いろいろな意図を発見してみたいという衝動に駆られました。まあ、そんな時間はないので、思い切ってハードディスクの録画を削除しましたが……。メディアリテラシーの授業に使うには長すぎますし。

それにしても、文学的な形象性を見事に具現化した作品でした。

次回は太田愛さんの脚本のようです。たぶん「相棒シリーズ」ははじめてじゃないでしょうか。人間同士のあまいタイプの「絆」を描く脚本家なので、「相棒」には向いているのかもしれないなあとも思います。



班組織は一人一役を基本とする/2009.10.14(水)

私は冒頭に、班づくりと係組織づくりとは、別々に組織されることもあれば一致させて組織されることもある、と述べました。私は中学校においては両者を一致させるのではなく、別々に組織した方がいいと考えています。

両者を別々に組織することには、次の3つの利点があります。

(1)一人一役を機能させることができる

「一人一役」を徹底させることは、生徒達に将来の社会生活に対する心構えを抱かせるうえで大変重要な教育活動です。大衆消費が社会の末端まで浸透し、生徒達も消費主体として生きている現代社会においては、ともすると生徒達までが労働には経済効率的な観点が必要であると考えている場合が多いという現実あります。つまり、「働く以上は何か利益がもたらせれて当然である」という発想です。社会をスムーズに機能させるためにこの意識を打開し、協調・協働・共創といった「チームによる達成感」を若いうちに味わわせる機会は、現在、学校しかないというのが現実ではないでしょうか。

例えば、平成20年度の私の学級の場合、各班は総務係・生活係・文化係・環境係・学習係2名の計6人で構成しました(後に詳述)。男女比は半々です。学年4学級だったのですが、すべての学級でこの構成をとり、1年間この構成を崩しませんでした。旅行的行事では各係が係の仕事については班員に対して責任をもつことになり、班員に傍観者が出ない構成にすることができます。

(2) 二つの組織に所属し二重に動く場を保障できる

日常の学校生活を送る班は、安心して楽しく過ごすことを第一目的としています。いっしょに授業を受けたり、学校行事や学級のイベントに班単位で動くことによって、協力性や協調性を学ぶということが第一義です。しかし、係活動は日常生活を送る班とはまったく趣を異にしています。係活動は学級全体がより向上するために、生徒会組織との連動がよりスムーズに行われるように、本来、そうした巨視的な視点で運営されるべきものです。班と係を別々に組織することは、すべての生徒にこうした二つの視点をもつ機会を与えます。生活の場と学級向上に資する場とを同時にもち、常に二つの視点で動くことになるわけです。これはちょうど、私たち教師が「所属学年」と「校務分掌各部」との双方に所属しながら仕事をしているのと同じ構造です。どちらも蔑ろにするわけにはいかず、それでいて両者のバランスを常に考えなくてはならない、そうした視座です。

小学校では班組織と係組織とを一致させる実践が多いようです。これまで担当してきた生徒達に訊いてみると、どちらかというと「一致していた」と応える生徒が多いように思います。それなら尚更、中学校ではもう一段高い次元の組織づくりをおこなって、生徒達に「小学校とは違うんだよ」という自覚を促すうえでも、班組織と係組織とは別々に組織することがよいように思えます。

(3)一人一人の責任感の醸成に培う

読者のみなさんはプリントをどのように配付しているでしょうか。自分が一列ずつまわり、一番前の生徒にその列の人数分を渡してまわしてもらう、というのが一般的でしょう。しかし、わたしは生徒に取りに来させることにしています。中学校では、一度に5~8種類のプリントを配付しなければならないことが多く、そのすべてを担任が配付していたのでは時間がかかってしまうからです。この場合、私は班単位で配ることにしています。例えば、学習関係のプリントを配付する場合には教卓に学習係を呼び、保健便りなら環境係を呼んで班員に配付させるというように、日常生活でも一人一役を徹底的に意識させて運営していきます。

生徒達はこの班に自分しかその係がいないとわかつていますから、当然のようにそれを自分の責任だと思うようになります。それが自分の班への貢献であるとも意識するようになります。もちろん小さな小さな貢献に過ぎないのですが、それでもこうした小さな責任感を毎日持ち続けることが、実はいざというときの大きな責任感の醸成へとつながるのです。



生活班と奉仕班とはベクトルが異なる/2009.10.13(火)

学級組織は多くの場合、生活班と奉仕班で構成されます。生活班とは日常的に学校生活を送る班。奉仕班はいわゆる「係活動」を指します。生活班と奉仕班を別々に組織することもありますし、生活班と奉仕班とを一致させて組織することもあります。本章ではわかりやすくするために、便宜上、生活班組織づくりを「班づくり」、奉仕班組織づくりを「係組織づくり」と呼びましょう。

班づくりは席替え・係活動と連動し、修学旅行や宿泊学習、遠足、現地学習などの校外学習の動きとも連動するのが一般的です。また、生徒会組織とも連動しますから、学校行事では委員会や外局ともつながりをもっていると機能的です。更に、日常の学校生活では授業中の生徒も同士の交流の単位として機能させたり、給食・清掃・日直といった当番活動の単位として機能させたりと、学習・生活双方において、学級づくりの要素として非常に大きな意味をもちます。

こうした重要な意味をもつ「学級組織づくり」において最も根幹となるのは、「偶然性を排除する」ということです。つまり、くじで決めたり、ジャンケンで決めたりしない、ということです。しかし、だからと言って、教師が一方的に決めるというわけにもいきません。教師がアドヴァイスをしながら、或いはその時々によって教師がその意図を説明しながら、学級リーダーに考えさせていくというのが現実的ではないでしょうか。

一方、係活動組織の構成は一般的に、学級代表や議長団で構成される「総務系」、日常の学校生活を安全かつ規律ある状態に保つことを目的とする「生活・環境系」、学級の学力向上、学校・学年行事や総合的な学習の時間の学習活動の効果を高めることを目的とする「文化・学習系」の三つに分かれます。

生徒達が系統の異なる二重の仕事に四苦八苦することを避けるため、生徒会活動と連動させ、学校の生徒会組織(委員会)に倣った係組織をつくるとよいでしょう。例えば、生活委員は生活係に、文化委員は文化係に、編集委員は編集係に、というようにです。また、生徒達に余裕があれば、係活動組織には学級の雑務を分担させるだけでなく、独自の活動をさせると学級集団に潤いが出ます。

班組織づくりは生徒達に楽しく安心して学校生活を送ってもらおうとの思想に支えられ、係活動組織づくりは必要な仕事をみんなで分担することによって学校生活に自治的な風土をつくろうとの思想に支えられています。その意味で、新組織づくりと係活動組織づくりとは向いている方向が異なる、といえるでしょう。



インフルエンザの流行と授業時数確保/2009.10.12(月)

ここに書きたいのは、インフルエンザの流行で学級閉鎖や学校閉鎖になって減ってしまった授業時数を、どうやって確保するかという話ではない。そんなことは、6時間授業を増やしたり、冬休みに登校日を設けたりすればいいだけの話だ。まあ、多くの学校ではそういう方策はとらないだろうが。

そういう話ではなく、今回のインフルエンザの流行が、市教委にとってはある意味でチャンスになるということだ。

つまり、こういうことである。

現在、中学校の授業時数は980時間である。979時間ではいけない。980時間は絶対に確保せよという最低保障時数である。少なくとも学習指導要領はそう言っている。

しかし、普通に行事を行い、普通に学校の行事計画を組んでいると、この980時間という時数の確保はなかなか難しい。1・2年は確保できるのだが、3年生が難しいのだ。札幌市では何十年にもわたって、卒業式を3月15日におこなっている。そうすると、授業日数が1・2年よりも6~7日分少なくなる。2月に4日間、3月に2日間、入試もある。修学旅行の回復日も2~3日ある。簡単に言えば、これらに手をつけなければ、980時間の確保は難しいわけである。

しかも、980時間は最低確保時数である。インフルエンザの流行による学級閉鎖や学校閉鎖、数年前に何度かあった台風による休校、こういった予測できない非常時に備えて、まあ、980時間+50時間、つまり1030時間くらいは計画上確保しておく必要がある、ということである。こうなると、これを満たした計画をたてている学校はほとんどないといって過言ではない。噂によると、現場があまりに授業確保が難しいと叫ぶものだから、市教委は計画段階で981になっていれば、黙認しているという。まあ、現実的といえば現実的だろう。

しかし、である。

計画段階で981時間だった学校は、今年度、一度学校閉鎖になれば950時間前後ということになる。学校閉鎖は原則5日間。ということは28時間が吹っ飛んでしまうからだ。

この秋、学校閉鎖、学年閉鎖の措置をとった中学校はかなり多い。札幌市の中学校の何割かの学校が950時間前後しか授業時数を確保できなかったとなると、これは市教委にとって重大な問題となる。本当は市教委だけでなく、現場にとっても重大な問題なのだが、現場にはあまり危機感はないのが現実である。現場は授業時数の確保よりも行事その他で生徒たちの人間性を高めようという方向に賛成するのが一般的だからだ。たとえ学校閉鎖があったとしても、授業はカットしても行事はカットしない。これが一般的な現場のコンセンサスである。

市教委の981を黙認する姿勢も、この現場の声との妥協点という趣が強い。少なくとも、私にはそう見える。

とすれば、今回の学校閉鎖による授業時数不足が、市教委にとって大チャンスとなるのは当然である。「そら見たことか。おまえたちの計画はこういうことがあると、とたんにこんなにも授業時数が不足してしまう計画だったのだよ」と……。次年度は計画段階で1000とか1020とか1030とか、こういった数値をクリアすることが至上命題として設定されるはずである。すべての管理職、すべての教務主任はこう予測して、次年度計画を立てるべきである。行事の削減の検討、総合と行事内容との検討、授業時数のカウントの仕方の検討、すぐにでもこれらに取り組み始めるべきである。3月、4月になってばたばたしないために。



駐車場/2009.10.11(日)

勤務校の校舎が平成24年度から新しくなるらしい。

いまの校舎は傾いているので、新しくなるのはよいことである。ここでいう「傾いている」は比喩ではない。地盤のゆるい地域に立つ勤務校は、文字通り「傾いている」のである。この校舎が建てられて39年目を迎える。この間、玄関前の階段が十段近く増やされているという。基礎をかためた校舎はあまり沈まず、まわりの地盤はどんどん沈む。その結果、玄関と地盤との段差がどんどん広がった、というわけだ。ほんとにほんとに「傾いている」のである(笑)。

ここ数年、新しい校舎が建った学校には駐車場スペースがつくられない。市の保有する土地である学校の敷地内に、職員の駐車場スペースがあるのはおかしい、との理由からである。道庁も市役所も、職員の駐車スペースなどない。学校だけが当然のように職員の駐車場スペースを確保しているのはおかしい、というわけだ。確かに一理ある。

当然、勤務校の新校舎建設予定の図面を見ても、当然、駐車場スペースはない。私も基本的にそれが正しいだろうと思う。

しかし、正しいことにも悪影響がないとは限らない。

駐車場スペースがなくなるということは、職員に公の交通機関で通えということである。職員が交通機関で通うということは、これまで当然のように行われていたことが行えなくなるということだ。

例えば、家庭訪問。結論から言えば、これは廃止するしかないだろう。学級担任が車で移動できないということは、これまでの日数では家庭訪問週間が終わらないということである。家庭訪問による午後カットの日数をこれ以上増やすということは、授業時数確保の観点から考えてできない話である。しかし、広い校区を歩いて3日や4日でまわるのは不可能である。廃止するしかないだろう。

地域から苦情の電話がかかってくる。或いは生徒の非行目撃といった情報が寄せられてくる。これまでならば、すぐに教職員が何台かの車に便乗して数分で駆けつけていた。これもできなくなるだろう。歩いていく、走っていくとなると、もう既に苦情の対象はどこかに散逸しているにちがいない。

隣の学校の生徒が勤務校にやってくる。こうした場合、すぐにその学校に電話をかけて引き取りにきてもらう。隣の学校には駐車場スペースがあるから、隣の学校の先生方は車で来る。電話をしてから数分で引き取りにくる。逆のことが起こった場合、つまり、勤務校の生徒が隣の学校にいき、隣の学校から引き取りに来てくれと電話が入った場合、我々は歩いていくことになる。おそらくこの程度のことでタクシーを使うことは許されないだろうから、きっと歩いていくことになる。隣の学校からは数分で来るのに、こちらの学校からは30分かかる。でも仕方がない。足がないのだから。

体育的行事があると、その運営をつかさどっている教師は、朝5時台に来て雨天中止にするかどうかを決定している。これもできなくなる。公の交通機関はこの時間には動いていないからだ。どうするのだろう……。一人や二人なら、タクシーを使わせるだろうか。

おそらく、機動力を必要とする生徒指導畑の教師、部活動を一生懸命やっている教師、遠くから通っている教師、こういった人たちはきっと勤務校から逃げていくだろう。札幌市のすべての学校から駐車場がなくなるのなら、勤務校を出る理由はない。しかし、隣の学校に転勤すればこれまでどおりの動きができるのである。だれが好き好んで勤務校に残るだろうか。生徒指導をするにしても、部活指導をするにしても、研究活動をするにしても、車があるとないとでは大違いである。きっと人材が逃げていく。いい人材ほど、機動力を必要とするからだ。

この裏返しとして、いい人材がはいってこない、ということも起こるだろう。勤務校は決して、交通便のいいところにあるわけではない。そんな学校への通勤に自家用車が使えないとなると、その学校に勤めることは避けたいと思うのが人情である。

まだまだデメリットがあるが、このくらいにしておこう。

一番の問題は、学校というものがもともと交通便のいいところには建たない運命をもっている、ということだ。子供を遠くに通わせるのを避けたいと思う地域住民が、地方公共団体に陳情に陳情を重ねて建ててもらう。それが学校である。道庁や市役所、警察署や税務署とは、そもそも設立される条件が異なるのである。

もう一つ、こうした駐車場を不必要とする最近の学校構想が、実は東京をモデルにしているということである。あの狭い地域にあれだけの交通網のある東京都なら、確かに私も車通勤などしない。しかし、札幌は地下鉄が南北線と東西線のみ、JRは札幌を北西から南東に走るのみ。バスは頻度の高い路線で1時間に3本である。東京なら、バスは5分に1本来る。この違いが想定されていない。

しかし、まあ、こんな愚痴を言ったところで、計画が変わるわけもない。転勤を考えるしか手はなさそうである(笑)。せっかく気に入っていた学校だったのだが、まあ仕方がない。まったく住みにくい世の中になったものだ。



蛮族/2009.10.03(土)

ネットワーク東京大会の事務局から、感想用紙が送られてきた。ぼくの講座に対する感想と質問が数十枚である。

ぱらぱらとめくっていたら、次のような感想があった。

「私は○○の中学校教員です。修学旅行でよく京都・奈良方面に行きますが、旅館の方々が口々に言うには『北海道の中学生は一番悪い』。だから先生の学校の映像を見たときには驚きました。子どもたちが実にいい顔をしていたし本当に可愛い。(後略)」

うーん…。これを読んで、はたと考え込んでしまった。もしも旅館の人たちが本当にこう言っているのだとしたら、けっこうな問題だな、と。どう考えても嘘だからだ。北海道の中学生は、京都・奈良には行かない。せいぜい東北止まりである。行かない生徒たちに、良いも悪いもないはずではないか。

この虚言は差別意識ではないか。

京都・奈良と北海道は対極にある。いにしえから文化・政治の中心として栄えた京都・奈良、そして伝統・文化をもたぬ新しい開墾地蝦夷地。二次大戦で沖縄が皇国からはずされ、国土防衛線からはずされたのは、沖縄が日本人の無意識に異国として捉えられていたからだといわれるが、北海道もまた日本人にとってそういう土地なのである。

北海道はだれがどう見ても、学級崩壊率は低い。関東の大都市や大阪にくらべたら、多くの学校が安定している。そういう地域である。保護者のクレームも少なく、学校が顧問弁護士をもとうなどという話ともまだまだ無縁である。良くも悪くも、古い学校風土がまだまだ残っている。それが北海道である。全国学テの成績が良くないのは、子どもたちの頭の出来や学校教育の不備不足というよりは、土地柄の影響である。一次・二次産業の遺る北海道は、他県に比べて学歴によって生きていくという意識がまだまだ低い。学力を高めて欲しいとの生徒や保護者の期待も他県に比べてまだまだ低い。

北海道の高校生が悪い…というなら、まだわからなくもない。北海道の高校生は多くが京都・奈良に行く。北海道には国の文化財を大事にしようという意識は希薄である。そもそもそういう文化財のない土地柄であるから。それが大事なものであることを頭では理解できても、心では理解できない。流れている空気が違うから。だから、おそらくは北海道の高校生は京都・奈良の深みを理解しようとはしないだろうし、それを教えたところで理解できないだろう。そういう運命なのだ。

その代わり、北海道には、江戸時代以来の身分制度による差別はない。従って、同和教育なんて概念もない。アイヌ民族に対する差別もぼくらが子供の頃に比べたら、ずいぶんと見られなくなってきている。そういう土地柄である。

京都・奈良と北海道。

京都・奈良から見れば、北海道民がまだまだ蛮族であるということを思い知らされる出来事だった。

books


人を見抜く技術
桜井章一/講談社+α新書


「伝説の雀鬼」の書いた人間観察というので、期待したのだが、期待はずれ。床屋談義・居酒屋談義の域を出ない。文体もダメ。



ルパンの消息
横山秀夫/光文社文庫
★★★★


ものすごい構想力をもった作家だなあ、という印象。とてもおもしろかった。



上司につける薬!
マネジメント入門

高城幸司/講談社現代新書
★★

言っていることは至極まとも。ただMBOを是としているところが、どうしてもぼくの感覚とはズレる。「ブルーなホワイトカラー」という比喩はなかなかうまいことを言うな、と感じた。



臨場
横山秀夫/光文社文庫
★★★★


ドラマによるところが大きいのだろうが、単純に楽しめた。横山秀夫を読むのは初めてだったが、語り手の使い方と心理描写が上手い書き手だ。いくつか読んでみようという気になった。



小説作法ABC
島田雅彦/新潮選書
★★★★

近代文学を専門に学んだ人、或いはもと文学青年といったタイプの読者には「うーん」というところもあるだろうが、例えば「ことのは」の多くのような「文学がいまいちわからない…」という人には、たいへんわかりやすい本になっていると思う。読めば授業にも役立つと思う。お勧め。それにしても、島田雅彦のこうしたエッセイを久し振りに読んだ。たぶん10年振りくらいだと思う。



books2009
books2008



music


IF ON
A WINETR'S NIGHT

STING
★★★★★

ディスク:1
1. ガブリエルのメッセージ
2. ソウル・ケーキ
3. かほどの美徳あるバラはなからん
4. 雪はすぐとける
5. クリスマス・アット・シー
6. 一輪のばらが咲いて
7. コールド・ソング
8. バーニング・ベイブ
9. ゆっくり冬は訪れる
10. ハウンズ・オブ・ウィンター
11. 子守歌
12. チェリー・トゥリー・キャロル
13. 安らかに眠れ、我が子よ
14. ハーディ・ガーディ・マン
15. ユー・オンリー・クロス・マイ・マインド・イン・ウィンター
16. ベツレヘム・ダウン (日本盤ボーナス・トラック)
17. ゆりかごの歌 (日本盤ボーナス・トラック)
18. コヴェントリー・キャロル (日本盤ボーナス・トラック)
ディスク:2
1. 神秘的で物語形式のアルバム
2. 原始の記憶
3. 曲目リストの方向性
4. 制作過程のカオス
5. 安全地帯からの脱却
6. 徐々に作り上げた結果

ただひと言。素晴らしいアルバム。このアルバムを買ってから、ここ2週間ほど、ずーっとこのアルバム。通勤の車の中でもこのアルバム。DVDはまだ見ていないけれど、こんな特典はぼくにとってはどうでもいい。STINGの声も、トラッドもこのアルバムの完成度を高めている。ぼくにとってはSTINGの現段階での最高傑作に思える。もちろんTHE POLICEもいいし、POPなソロもいいけれど、こういうアイロニカルな世界観こそがSTINGだと思う。前作「ラビリンス」と違って、STINGのファンじゃなくても聴けると思う。大きく、深く、お勧め。




TOKIO
沢田研二
★★★★★


1. Tokio
2. Mitsuko
3. ロンリー・ウルフ
4. Knock Turn
5. ミュータント
6. Dear
7. コインに任せて
8. 捨てぜりふ
9. アムネジア
10. 夢を語れる相手がいれば
11. Tokio (Reprise)

こんなものに、いまさらだれも興味を抱かないのはわかっているのだが、このアルバムは絶対にいい。沢田研二のファンしか知らないのだけれど、沢田研二のあのシングルヒットってのは、実は沢田研二の魅力の1割くらいしか占めていない。沢田研二はアルバム・アーティストだったと思う。本当に完成度の高いアルバムが多い。それは80年頃から始まって、いまだに続いている。



バラッド'77~'82
サザンオールスターズ
★★★★

ディスク:1
1. 朝方ムーンライト
2. ラチエン通りのシスター
3. 私はピアノ
4. Just A Little Bit
5. シャ・ラ・ラ
6. 涙のアベニュー
7. 松田の子守唄
8. 夏をあきらめて
9. 別れ話は最後に
10. いとしのエリー
ディスク:2
1. 恋の女のストーリー
2. ひょうたんからこま
3. 恋はお熱く
4. わすれじのレイド・バック
5. Oh!クラウディア
6. 働けロック・バンド(Workin’ for T.V.)
7. Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)
8. 流れる雲を追いかけて
9. 思い出のスター・ダスト
10. 素顔で踊らせて

初期の名曲がおさめられている。「涙のアベニュー」とか「わすれじのレイドバック」とか、あの5ヶ月連続でシングルをリリースしたときの曲が好きだ。「シャ・ラ・ラ」なんかも、いまとなってはサザンの初期を代表する曲になっている。



テルーと猫とベートーヴェン
谷山浩子
★★★★★


1. 竜
2. テルーの唄
3. 数え唄
4. 旅人
5. 空の終点
6. 素晴らしき紅マグロの世界
7. 雨のアタゴオル
8. 人生は一本の長い煙草のようなもの
9. 夢のスープ
10. ポプラ・ポプラ
11. かおのえき
12. 偉大なる作曲家

アルバムとしての統一感はまったくないけれど、どの曲も谷山浩子らしい楽曲に谷山浩子らしいボーカルではずれなし。「ゲト戦記」への提供楽曲のほとんどを収録。「テルーの唄」は圧巻。谷山浩子のボーカリストとしての才能の健在振りを示している。



偶然と必然
松山千春
★★★★★


1. 偶然と必然
2. 自分なりに
3. 恋よララバイ
4. Dancing with me
5. ひき潮 (アルバム .)
6. 涙ポロリ
7. ワンシーン
8. わがまま
9. 天国
10. 生きております

松山千春の3年振りのオリジナルアルバム。久し振りに名盤。素晴らしい。80年代、千春を愛したすべての人たちにお勧めします。あの頃、松山千春的生き方に憧れた人たちのその後がしっかりと描かれています。


music2009邦楽
music2009洋楽
music2008



movie


ジェネラレル・ルージュの
凱旋

監督:中村義洋
出演:竹内結子・阿部寛
堺雅人・羽田美智子


くだらないものを見てしまったな、という感じ。「チーム・バチスタ」にあったエンターテインメント性さえ消えていた。なんのためにつくられたのかさえわからない。



感染列島
監督:瀬々敬久
出演:妻夫木聡・檀れい
★★★


ずいぶんとハリウッド映画を意識したつくり。日本映画にもこういうものが出てきたのだなあ…という印象。ストーリーはどうということもないのだが、佐藤浩市とか藤竜也とか、脇の役者の使い方がなかなか良かった。爆笑問題田中もいい味を出していた。まあまあ満足だった。



鑑識・米沢守の事件簿
監督:長谷部安春
出演:六角精児・萩原聖人

★★

今年の学祭でネタにしたこともあって、また、上映当時、ずいぶんと六角精児がテレビ出演して宣伝していたので、割と楽しみにしていたのだが、ちょっとがっかり。「相棒」劇場版のときにも感じたのだが、映画にする必要を感じない。まあ、テレビドラマとしてなら、割と満足度の高い内容だったかも知れない。



容疑者Xの献身
監督:西谷弘
出演:福山雅治・堤真一
★★★★


一にも二にも堤真一が良かった。原作とのイメージの違いもまったく気にならないほどに、堤真一が石神を引き寄せていた。そういう印象である。あまり好きな役者ではなかったが、いい役者なのだなあ、と感じた。心から感服した。



ルパンの消息
監督:水谷俊之
出演:上川隆也・佐藤めぐみ
長塚京三・岡田義徳
★★


原作読んでいなかったら面白いと思えたかも。ちょっと重要な展開を端折りすぎだなあ……。



RAMBO 4
最後の戦場

監督・主演:シルベスター・スタローン
★★

なぜあそこまで残酷なバラバラ死体を出さなければならないのかが理解できない。あれがスタローンのリアリティなのだろうか。ちょっと「RAMBO」の名が泣くな…という印象を受けた。




長い長い殺人
監督:麻生学
出演:長塚京三・仲村トオル
★★★

原作宮部みゆき。語り手は財布。各パートに分かれていた一つ一つ事件が少しずつ、しかし確実につながっていく…そんな構成をとる。よくできたドラマだった。




ブラックサイト
監督:グレゴリー・ホブリット
出演:ダイアン・レイン


ダイアン・レイン主演に惹かれて借りてきたけれど、「ダイアン・レイン、年とったなあ~」というのが率直な印象。年齢を重ねて新たな渋い魅力が出てきているのならいいのだが、そうではない。ストーリーもいまひとつ。



相棒-劇場版-
監督:和泉聖治
出演:水谷豊/寺脇康文
西田敏行/柏原崇
★★

まあ、2時間ドラマよりも金がかかっている分だけ壮大ですね。でも、いまひとつの感は否めない。退屈はしません。あれほどの話題になるような映画ではありませんね。


これまでのmovie