1.相手の立場に配慮しないネットコミュニケーション
かつて,米国の掲示板サイト(アメリカYAHOO!)において,一人の心ない日本人の書き込みが米国人を激怒させたことがあった。掲示板参加者の怒りのレスポンスは当日だけで数千件に及んだと言う(1)。
【資料A】
−−−−−−国際貿易センタービル倒壊は笑えた!/ビルが折れるごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー片方粉砕!よーし次はもう片方もーって)/でも結局はみんな避難したんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/国際貿易センタービル倒壊は笑えた。まじで。/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)
これが「アメリカYAHOO!」の掲示板に書き込まれたのは2001年9月12日。折も折,9.11テロの翌日だったのである(ただし,本文は翻訳ソフトを用いての英文である)。
さて,この書き込みは,2ちゃんねるのいわゆる「コピペ」と呼ばれる形式で書き込まれたものだった。コピペとは「コピー&ペースト」の略語で,鈴木謙介によれば,2ちゃんねるでは「書き込みのテンプレート」のことを指すと言う。その機能は「相手に対する揶揄であると同時に,それがそもそもテンプレートであるがゆえに場の雰囲気を『茶化す』」ことにもなると言う。つまり,内容的な茶化しと形式的な茶化しとを同時に成立させる,2ちゃんねる特有の修辞であるというわけだ。
テンプレート化するに至るもともとの書き込みは以下である。
【資料B】
−−−−−−阪神大震○は笑えた!/死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)/でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/阪神大震○は笑えた。まじで/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)
「アメリカYAHOO!」では,2ちゃんねるに詳しい日本人が,米国人参加者に対して「この書き込みが日本の匿名掲示板に特有の書式であること」「投稿者を無視して欲しいこと」を訴えたが,事態が収束するはずもなく,米マスコミでも報道されるに至った。
この事件は,日本人の「2ちゃんねる」的な匿名性が及ぼす軽薄さ,モラルハザードが巻き起こした国際的な騒動として,記憶しておく必要がある。もちろんこれを読んで怒りを覚えるのはアメリカ人ばかりでなく,多くの日本人が見ても,被害者の立場や心情に思いの至らない下品な記述に怒りを覚えることだろう。
ただし,このような軽薄さ,下品さこそが,昨今問題視されている学校裏サイトや掲示板等に見られる,生徒たちのコミュニケーションの粗雑さと通底していることは確かである。
2.生徒のネット体験の掘り起こし
資料A・Bを題材として,以下のような指導計画を立てて授業実践(中学校3年生/国語科)をおこなった。※道徳での実践も可能と思われる。
【第1時】
@資料Aを配布し,この文章の問題点を箇条書きさせる。
A4人グループで問題点を交流させる。
B各グループに発表させ,板書にまとめる。
C資料Bを配布し,資料Aが2ちゃんねる特有のテンプレートで書かれていることを説明する。
D4人グループに資料A・Bを対比させ,更に問題点を交流させる。
E各グループに発表させ,板書にまとめる。
F各自に200字感想を書かせる。
※次時,携帯電話を所持している者は持参することを確認。
【第2時】
@インターネット上の資料(学校別掲示板から抜粋したもの。自校のものは避ける。)を配布し,問題点を箇条書きさせる。
A4人グループで問題点を交流させる。
B持参した携帯電話の着信メール,自校の学校別掲示板等から同様の問題点をもつメールや書き込みを探す。
※携帯電話をもっていない生徒には,インターネット上の学校別掲示板から抜粋した資料(10種類程度)を与えた。
C見つけたメールや書き込みを引用しながら,その問題点について800字で論述する。
第1時の資料Aを題材とした問題点の交流では,主に内容的な問題点が挙げられる。「多くの被害者を9.11テロに対して,こういう書き込みはひどい」「日本人として恥ずかしい行為である」といった感想をはじめとして,「他人の不幸を笑いものにしている」「不幸な事件を題材と資することで優越感に浸っている」「国際問題に発展してもおかしくないほどに,読み手がどうとらえるかに配慮されていない」などいった問題点が出された。ところが,資料Bを配布すると,内容面ばかりでなく,インターネットの危険性について主に技術的な側面の問題点が検討されることになる。「簡単に素早く文章をつくれるから,深く考えないで書いてしまう」「瞬時に無限の相手に対して一斉に送ることができてしまって,具体的な相手について考えづらい」といった問題点が挙げられた。特にインターネットで誹謗中傷する場合,内容的な引用ばかりでなく,フォーマット自体の引用(テンプレートの引用)が瞬時に可能であり,それがインターネット上のコミュニケーションに独特の「空気」を産み出していることが生徒たちにも実感される。
その結果,インターネットコミュニケーションについて,@読み手の立場・心情を思いやる気持ちが必要であること,A読み手の置かれている文化のレベルまで想定しなければ資料Aのような国際問題に発展しかねない危険性をもっていること,B簡単にメッセージがつくれ,瞬時に複数の相手に送信できることから,内容をよく考えるということが蔑ろになりやすいこと,という3点について教師が説明した。こうしたことを勘案しないと,インターネット上のコミュニケーションはとれないのだという趣旨である。
第2時の生徒のレポートについては,個人情報保護の観点からここでは公開できないが,授業においても生徒に書かせるレポートにおいても,引用文の匿名性を担保することが大切である。ハンドルネーム(インターネット上のニックネーム)でさえ書かせようとしてはいけない。また,レポートを交流させてのフィードバックも避けた方が良い。生徒個々にとって,かなり微妙な問題をはらんでいるだけに,教師はできる限り心理的抵抗を和らげることに腐心しなければならない。文明の利器に伴う問題,生徒に現在起こっている問題の教材化は授業づくりにも大きく影響を与えている。
【注1】『RUNAWAY
暴走するインターネット』鈴木謙介/イースト・プレス/2002年9月/p35〜40
※資料A・Bの全文についても同書を参照されたい。
代表質問。小沢一郎民主党代表が自らの代表質問、麻生総理の答弁が終わった時点で、15分ほど議会の席を立って休憩に行ったらしい。それに腹を立てたのか、ちょうど代表質問に立っていた細田官房長官が小沢代表の批判をNo原稿で始めたらしい。
いわく、小沢代表がかつて自民党から離脱した折、いっしょについて行き、現在自民党に復党している議員が15名いる。彼らは「もう小沢政治はこりごりだ。自由な自民党が一番いい」と言っている。こういう発言だった。ぼくはこれを、報道ステーションで〈編集された映像〉で見たので、前後の文脈がわからない。この番組はかなり際どい編集をすることで有名である。しかも、風呂上がりにビールを一杯、という見方でもあったので、発言するには少々心許ない情報で発言するのを知った上で書く。少なくとも映像として残っているのだから、この発言があったことだけは確かであるからだ。ぼくがいかに書く批判はそれだけで十分なのだ。
くはこの発言は問題だと思う。ここで細田官房長官が批判しているのは「小沢一郎代表の人となり」であって、「民主党の政策」や「民主党代表としての小沢一郎氏の発言」ではない。これは国会の発言としてふさわしいのだろうか。「ここで中座するのは失礼だろ」と、小沢氏を瞬時に叱責したのであればまだ話はわかる。場の論理に規定された、「生もの」としての発言になるからだ。しかし、細田官房長官の発言はそうではない。90年代前半の、既に15年も前の出来事を話題に挙げ、その意味・意義の批判でもなく、小沢氏の言動に対する批判でもなく、かつて小沢氏の周辺にいた人物による伝聞によって、なんの論証もなく、人間批判をして負のイメージを喚起しようとしたのである。しかも国会で…。国会でである。しつこいようだが、いいですか? 「国会」でですよ。
公の会議の場でも他人にの人となりを批判することが許される…そんなコンセンサスがこの国でいつ得られたのか。
これが認められたら、地方議会も、会社の会議も、町内会の会合も、学校で言えば職員会議も学級会も、すべての議論の場が崩壊してしまうではないか。議論をする上での根本的な規範が崩壊してしまうではないか。
ぼくは別に小沢氏や民主党を支持しているのではない。自分の代表質問が終わった途端に休憩に入る小沢氏は責められて然るべきだし、細田官房長官が腹を立てるのもおかしなことではないだろう。しかし、しかしである。その問題と〈議論の作法〉の問題とは別の問題である。いくら腹を立てても、やっていいこととわるいことがある。公の会議というものは「言いたいこと」を言うのではなく、あくまでも「言うべきこと」をこそ言わねばならない。少なくともぼくは生徒たちにそう指導している。それが〈議論の作法〉である、と。
その昔、学校教育にディベートが盛んに導入され始めた頃、様々な批判があった。批判の仕方はいろいろあるが、要は二つである。@子どもが本当に思っていることではないことを、議論の練習だと言って主張させるのはおかしい、Aディベートで議論の練習をしても口先人間をつくるだけである、という二点である。
ぼくは現在ディベート教育に賛成の立場をとるけれども、ここでディベート教育の良さを主張するつもりはない。しかし、今週に入ってからの国会は、どうもこの二つの批判がまるまんま当て嵌まる議論になっているようだ。〈本当に思っていること〉を〈強い口調で主張すること〉が国会を盛り上げ、国民に政策を訴えることになり、活発で良い議論になる、という馬鹿げた風潮に縛られているのではないか、ということである。つまりは政治家が、〈本当に思っていること〉を言う口先人間に成り下がっているのである。それが相手の人となりを批判しても良いのだという空気を無意識のうちに作り出しているのではないか。言っておくが、今日の細田官房長官の発言は「批判」ではない。「非難」である。「人格に対する非難」である。小学校の学級会でさえ先生が絶対に禁じる、議論の前提の前提を侵しているのだ。公の議論における「禁じ手」を、恥じることなく、堂々と展開したのである
そして、何度も何度も繰り返すが、それが「国会」で行われたのだ。いいのか、これで。
一年前、昨今の子供たちには規範がない、学校教育が毅然とした指導を行えるように、そう教育基本法改訂に力を入れた首相が政権を放り投げた。そして今日、官房長官が小沢一郎という政治家個人の人となりを「国会」で非難した。彼らは自分たちが、国民の、そして子供たちのモデルになっているということを自覚しなければならない。
学級内ステイタス/2008.10.01(水)
昨年、「いじめ」について、きわめて有益な提案がなされた。森口朗『いじめの構造』(新潮新書・2007年6月)である。この書が「いじめ」を考えるにあたって「スクールカースト」(学級内ステイタス)概念を中心に据えた点を、私は炯眼だと思う。
誤解を怖れずに言えば、世の中のすべてにおいて、人と人との間にはステイタスの差がある。どんな古くからの友人であろうと、どんなに社会的地位が同等であろうと、人と人との間にはステイタスの差がある。それは本人たちが意識しているしてしないにかかわらず、〈暗黙知〉として成立している。これを否定し、人間はみな平等であるとか、私の学級の子どもたちは互いに互いを認め合い尊重し合っているとか言ってみても、それは「スクールカースト」から目を背けているに過ぎない。人間関係においてそんなことはあり得ないのである。
例えば、読者諸氏に問う。あなたの職場に、職員会議において校長以上の発言力をもっている教員はいないか。大きな声でギャーギャー意見を言うタイプのことではない。ふだんの職員会議では黙って様子をうかがっているものの、会議がもめて収拾がつかなくなると決まってその教員が静かに語り出す。「まあ、あの先生がいうのなら仕方ない」と会議がまとまっていく。そんな教師はいないか。その教師は、明らかに「職員室内ステイタス」が高いのである。それも学校長以上に。
例えば、高校時代のクラス会がある。そこに中心的に話題を振りまいて、会話の輪の中心になっている同級生がいないか。明らかにその人を中心に大きな輪ができている。そんな人物はいないか。その人物は、明らかに「学級内ステイタス」が高いのである。かつてのそのクラスのだれよりも。
社会的地位や収入、成績の良し悪しなど、浮き世の価値観との相関がないわけではないが、必ずしもそれが重要ではない。もっともっと重要なのは「コミュニケーション能力」である。周りにいる人間たちを笑わせ、惹きつけ、いい気持ち、楽しい気分にさせることのできる能力、或いは周りに気を遣い、周りの悲しみや苦しみ、つらさを軽くしてあげられる能力、そうした「コミュニケーション能力」を持つ者こそがステイタス上位の人間である。
いま、学校の職員室とクラス会の例を挙げた。この二つの例を挙げたのには実は理由がある。この二つには、ステイタスが際立つ理由があるのだ。それは両者ともに、そこにいる人間のすべてが「平等である」という前提のもとに参集しているのである。
言うまでもなく、職員室はいわゆる「鍋ぶた組織」である。校長・教頭という鍋ぶたの取っ手に位置する二人がいるものの、その他の一般教員が圧倒的な数を占める、それが職員室である。つまり、管理職以上に一般教員の多くに影響力をもつ人間こそが、実は組織上もっている力が強い、それが職員室の構造なのだ。
また、クラス会は学生時代の平等性へと帰る機会である。一般に、社会生活においては上司・部下の関係を個人的な思いによって超えるようなことはあってはならない。それをした人間は社会から疎んじられ、悪くすれば抹殺される。しかし、クラス会は違う。その人間のもつ活力、器用さ、人となりの掛け合わせのみによって、その場の〈空気〉が形成されていく。そしてそれが顕著に表れるのがクラス会なのだ。
さて、以上を勘案してよく考えてみよう。その集団が外面的には「平等である」とされる集団、そしてその「平等性」を表だってこわさないように、ある種の人間関係力学が働きやすい集団、それは何か。言うまでもなくその最たるものは「学級集団」である。そして、この「学級集団」を実質的に動かしているステイタスこそ、森口の言う「スクールカースト」なのだ。こうした順位づけから、構造的に人間は逃れることができない。それが社会である。いや、イヌやサルが順位づけに躍起になっているのを見ると、すべての動物がもつ種の存続のための本能なのかもしれない。
だらだら週末。暇つぶしに録画しておいた「朝まで生テレビ」を見ていたら、珍しく辻元清美がおもしろい比喩を使っていた。金融政策を揶揄したものだが、新自由主義下での日本経済の状態は弱肉強食の「ジャングル」になった、かつての護送船団方式は「動物園」だった、もちろんどちらもダメなのだが、なんとか「サファリパーク」くらいの金融政策がしけないものだろうか、というのである。総論としてみな賛成だったのか、参会者はみな大笑いになっていた。
なるほどこの比喩は金融政策のみならず、現在のすべての分野の危機意識をあらわした良質な比喩である。教育を考えてもそうだ。
戦後教育は基本的に「動物園」だった。すべての子どもに社会生活の基礎となる学力を身につけさせ、日本の国力を上げるのだ、という政策である。これを均等化と批判するのは簡単だが、高度経済成長下で国民が日に日に豊かさを実感していく世相と相まって、多くの国民は満足していた。その証左は「一億総中流」と謳われた国民意識に顕著に表れた。しかし、人間の欲とは奥深いもので、下位層が中流層に昇った実感をもってしまうと、「もっと上」がいることが気になってくる。うちの子にもっと良質の教育を、という人が増えてくる。塾・予備校をはじめとする受験産業の隆盛が始まる。偏差値教育が始まる。管理教育が始まる。そして当然、マイノリティ側が「反偏差値教育」「反管理教育」を反動的に叫び始める。
ところが、80年代の臨教審依頼、日本の文教政策は国家が国際競争力をもつために、各産業が国際的に通用するような開発力をもつよう、科学技術をはじめとした「エリート教育」を進めようとし始めた。そのためには多少の規範の乱れはあったとしても、その中から輩出されてくる「超エリート」の育成こそ急務であると考えてきた。「ジャングル」を勝ち残るエリートを、である。その完成が、学校週五日制・「総合的な学習の時間」の創設を旗印にした「ゆとり教育」と称されるものだった。しかし、「ゆとり教育」とは一般受けをねらった造語に過ぎず、その実態は「できる子はもっとできるように、できない子は切り捨てる」という「エリート教育」への国家的転換であったことは古くから指摘されていた。「偏差値教育」「管理教育」に対する反動をうまくまるこめる、とても便利な用語だったのである。
さて、2000年前後の学力低下・学級崩壊の論議を経て、現在はゆりもどしの時代といわれる。社会に格差が生まれ、教育機会の均等さえくずされている。もちろん教育機会が均等であった時期などこれまで一度もないのだが、少なくとも「均等であった」と信じられていた時代があったことは確かなのだろう。その結果、もっと金を分配せよ、もっと学力保障を分配せよ、という世論が圧倒的になった。しかし、学校教育のシステムを「動物園」に戻すわけにはいかない。生徒も保護者も「動物園」システムに耐えられないほどには、うわべだけの「主権者」として、うわべだけの「消費者」として成熟してしまったからである。そうして世論は、各学校・各教員の「能力」を問題にし出した。うまく子どもたちを捌き、子どもたちの能力を発揮させられないのは各学校・各教員の能力の問題である、と。もちろん政治も、それに乗っかった。システムを変えることは政治の責任だが、各学校・各教員の能力の問題とすれば最低でも地方公共団体を、あわよくば教員個々人の努力の問題にすり替えることができる。
さて、そこで「サファリパーク」である。学校教育制度における「サファリパーク」とはいったい何だろうか。ある種のフレームを設定してその中では自由に、と抽象的に述べるのは簡単だが、具体的に有効なアイディアを出すとなると非常に難しい。
授業研究を例に考えてみよう。
一般に、実践研究する教員には二種類ある。一つは新しいアイディアを知るとすぐに飛びつき、深い素材研究、深い教材研究、深い学習者研究、深い授業課程研究もせずに、すぐに教室に持ち込み、実際に起こった現象から研究を進めようとするタイプである。成功すればいいが、半分以上は失敗して「ジャングル化」してしまう。ただし、成功すれば授業には大きなダイナミズムが生まれる。そういうタイプの実践研究である。いま一つは、なにがしかの新たな試みをする場合に、すぐには実践に移さずに、とにかく素材研究・教材研究・学習者研究・授業課程研究を徹底し、ある程度のパッケージになるまで授業にかけないタイプである。時間をかけて検討しているだけに大きな失敗はほとんどないが、深く分析され検討される過程で素材のダイナミズムは削ぎ落とされ、授業は「動物園化」しやすい。そういうタイプの実践研究である。私は前者を〈味見授業〉、後者を〈レシピ授業〉と呼んでいる。
では、少なくとも教員の実践研究における「サファリパーク」をどう構築するか。
〈味見授業〉は力量の高い一部の教員にとっては、たいへん魅力的な研究形態である。現在、「つねに新しいこと」がマネジメント成功への最も近道といわれているが、その点から考えても理に適っている。しかし、残念ながら、力量の伴わない後続の若手たちが勘違いをし、次々に新たな試みを導入しては捨ててしまい…と、結果的にまったく力量形成につながらないという例が多々見られる。結局、ベンチャー企業同様、教師格差を招いてしまっているのである。
一方の〈レシピ授業〉のほうはというと、旧態依然としたマネジメント感覚を前提としているために、一斉授業の勘所を得るという意味での若手の力量形成には秀でている。しかしながら、「冒険をしない」「新たな試みに慎重である」という態度は、実はモチベーションの維持が難しいという側面をももっている。その結果、若いときこそ先輩教師について研究実践に精を出すものの、自分が学級運営・授業運営に困らない力量をつけてくると足を洗ってしまう藻のが多くなる。部活動指導に熱心になったり、自分の趣味に夢中になったり、子育てを第一義に悪い意味での公私の切り離しといった状態に陥りやすい。その結果、著しい教師格差を生じないかわりに、仕事がルーティンワークとして意識されるようになり、「食うために働く」だけのサラリーマン教師になっていく傾向が強い。この手のタイプが研究実践を続けるのは、官製の研究団体が地域の出世構造と連動している場合に限られると言っても過言ではない。
簡単に言えば、若手教師を惹きつける〈味見授業〉の魅力と、確かな力量形成を保障する〈レシピ授業〉の安定性とを同時達成する授業研究システムをどうつくるか、それが実践研究の問題点なのだ。いちばんいいのは、amazonのような「あなたのやりたい授業はこれではありませんか?」「そのためにはこんな実践がありますよ、こんな本がありますよ、こんな研究団体がありますよ」「追試してみての感想をレビューとしてお書きください」なんていう、オープンソース型のデータベースでもできればいいのだろうが、なかなか難しいだろう。実現のためには行政が強制するか、TOSS-LANDのように閉じられた目的的な集団が行うかでないとモチベーションを維持させられないからである。
だれか目の覚めるような「サファリパーク-システム」を開発してくれないものかなあ。教師が老いも若きも一斉に活気づくような、目の覚めるようなシステムを。教師に活気が出れば生徒も活気づくし、生徒が活気づけば保護者のクレームも間違いなく減るんですけどねえ。そういう構造だけは今も昔もとてもシンプルなんですけどねえ。
〈学級崩壊力〉に自信あります?/2008.09.27(土)
〈指導力〉〈授業力〉〈学級経営力〉〈コミュニケーション力〉まではまあいいとして、〈教師力〉〈学校力〉〈人間力〉〈老人力〉〈鈍感力〉と、なんでも〈力〉をつければ何かを新しいことを言っている、最近そんな風潮があります。
それなら私も。
〈KY力〉 … 敢えて空気を読まずに自己主張する力。成功すれば、自分が生きやすくなるような新しい空気をつくることができる。
〈オタク力〉 … 皆が理解できないような独特のものに興味関心を示し、他を顧みずに執着する力。理解者を少しずつ増やしていくことで新たな流行をつくれる可能性がある。仮につくれなくても、全国に散在する同じ趣味の人間たちで、2ちゃんねるに独特のコミュニティをつくることができる。いずれにしても幸せになれる。
〈アナーキー力〉 … 常に無法地帯、無政府状態にする力。どうすれば混乱するかを考えているうちに、システマティックに混乱させることを考え始め、結局、アナーキーではなくなる。
〈再チャレンジ力〉 … 失敗にめげずに再チャレンジする力。再チャレンジして成功し、時がたってまた失敗。更に再チャレンジ。この力がつけばつくほど、たとえ成功してもまた再チャレンジしたくて、わざと失敗するようになる。
〈セーフティネット力〉 … 弱者やマイノリティをすべて救っていこうとする力。どんな弱者・マイノリティが存在するか、つねに目を光らせ、ことごとく救っていく。そのうち、国民の労働意欲がなくなっていく。ハングリー精神が死語になり、オリンピックも弱くなっていく。
冗談はこれくらいにして。
さてさて、教師のみなさん。〈学級崩壊力〉に自信あります?
〈学級崩壊力〉 … 新たな学級を担任したとき、迅速かつ的確に〈学級崩壊〉の状態を形成する力。
これ、力量のない教師より、力量のある教師のほうが迅速かつ的確に学級崩壊を起こせそうですよ。だつて、力量のある教師なら、何が子どもを荒れさせるか、何が子どもの意欲をなくさせるか、よくわかってますもの。
力量のない教師は、学級を長く安定させることができないだけじゃなくて、学級を早く崩壊させることもできないわけです。
私なら、次のようにしますね。
1.給食のおかわりをある子どもには認め、ある子どもには認めない。しかも、認めない言い方は激しく強くいう。認める子どもがちょっとやんちゃな子、認めない子どもがおとなしめの子なら、なおいい。
2.3日くらいたったら、前回認めた子には厳しく認めないといい、前回認めなかった子には「勝手にどうぞ」という。
3.最初の給食からこんなことをやれば、4月の第三週には、間違いなく、晴れて学級崩壊するでしょう。
1.初めての掃除当番のときに、勉強のできない子を教卓の横に座らせ、熱心に勉強を教える。
2.他の子どもが「なぜ、その子は掃除しないのか」と訊いても、「掃除より勉強の方が大切なんだ」と答える。
3.掃除の仕方について子どもに何か訊かれても、「自分で考えなさい」という。
4.これは給食よりはちょっとインパクトがなくて、4月第四週の崩壊かな。
1.帰りの学活で日直が「次は先生のお話です」と言ったのに対し、「特に話はありません」とチャイムも鳴っていないのに子どもたちを教室から出す。
2.他の先生に「こら!まだチャイム鳴ってないだろ!」と怒鳴ってもらう。
3.それに対して、自分も「なんだ!勝手に出やがって!」と怒鳴る。
4.これを3日続ければ、間違いなく3日で崩壊します。
まだまだアイディアはありますが、今日はこのへんで。
要するに、〈学級崩壊〉を迅速に起こすということは、〈日常の学校生活〉の象徴をいかに強烈に壊すかということなのだ。とすれば、裏を返せば、〈学級崩壊〉を起こさない学級経営というものは、いかに〈日常の学校生活〉をシステマティックに構築するかということなのである。一瞬の盛り上がりをねらう「打ち上げ花火」が好きな教師ほど〈学級崩壊〉を起こしやすい。「打ち上げ花火」で学級経営するには、一年分の花火、つまり200連発の花火が必要なのである。そんなことは凡人の業ではない。
〈いじめ指導〉の逆説/2008.09.26(金)
子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」である。これが「いじめ認定」の原理だという。何日か前に、この認定原理について批判的に述べたので、今回はその対策について考えてみようと思う。
子どもが「いじめられた」と感じれば、「いじめ」であると認定する。この認定原理の中で、多くの教師は何をするか。間違いなく「悪口ダメ」「いじりダメ」「人を馬鹿にしちゃダメ」「乱暴な言葉遣いダメ」「人を無視しちゃダメ」「ひそひそ話はダメ」「人の方を見て笑っちゃダメ」……などなど、ダメダメ指導のオンパレードになる。
中には、「あの子が私のほうを見てひそひそ話をしていた。私はいじめられている。」という訴えを聞いて、教師が確認してみると、ひそひそ話の話題はちょっとエッチな話。まったくその子のうわさ話などではなかった。こんなことがよくある。そんなときさえ、教師は「人前でこそこそと話をするから、そんな誤解を受けるんだ。」などと指導せざるを得ない。しかし、少々エッチな話をするくらい、別に罪ではない。だいたい、エロ話を堂々と大声でするようになるとすれば、それはそれで問題になるはずだ。
また、こんなこともある。これまで仲の良かったAとBが、つい先日、口喧嘩をした。その日以来、二人は口をきかない日々が続いている。数日たって、Aには次第にそれが寂しく思われてきた。ところが、一方のBにとっては、その喧嘩はもうAとはつきあわないと決意するほどに決定的な出来事だった。ある日、Aが、Bにあやまろうと思って話しかける。しかし、Bは応じない。Aに背を向けて、最近になってよく話すようになったCとともにどこかに行ってしまった。Aは担任に訴えた。「私はBにいじめられている。Bが私を無視している」と。果たしてこれは「いじめ」だろうか。両成敗されるべき口喧嘩に過ぎないのではないか。しかも、Bが今後もAとつきあい続けなければならない理由など何もないのである。
子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」である。
「いじめ」の認定方法をこのように決めてしまうと、上のような事例でも、いじめ被害を訴えた側が必要以上に保護され、いじめ加害を訴えられた側は必要以上に悪者にされる。確かに、いじめ被害の訴えから「いじめ」が発覚し、いじめ加害生徒に指導することによって大きく発展するのを防いだという事例はたくさんある。しかし、学校現場の中には上のような事例も、数限りなくあるのだ。
なぜ、教育現場は、或いは教育行政は、更には教育関係の識者まで含めてだが、いじめ被害を訴えた子どもをただちに保護し、即座にいじめ加害の子に毅然とした指導を、という論調ばかりになるのだろうか。それは、いじめ被害を受けている子のみに立って主張することが、自分の身を守ることになるからではないのか。深く考えることもせず、データを分析することもなく、ただ自らの安全だけを考えて思考停止の言説をふりまいてはいないか。
よくよく考えてみて欲しい。
もしも本当に、子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」であるというのであれば、逆に、もしも相当深刻な「いじめ」であるのに、その子が鈍感で「いじめ」だと感じていなければ、それは「いじめ」ではない、ということになってしまうのである。この場合は、指導しなくていいのか。いま、すべての子どもがいじめをしない学校が目指されている。いわゆる「いじめ撲滅運動」である。しかし、「いじめ撲滅」にはもう一つ手立てがある。すべての子どもが「いじめられた」と感じない強い子どもになる学校である。
そんなことは無理だ、という声が聞こえてきそうである。しかし、だれもいじめない学校と、だれも「いじめられた」と感じない学校は、どちらがどのくらい実現が難しいだろうか。
子どもが「いじめられた」と感じれば、それは「いじめ」である。では、子どもが「いじめられた」と感じた事実を、保護者や教師はどうやって知るのか。当然、子どもが「いじめられた」と訴えることによって知る。ということは、このテーゼは、子どもが「いじめられた」と言えば、それは「いじめ」だ、というのと現実的には同義となる。小学校低学年ならまだしも、十歳前後になれば「嫌いなあの子を困らせてやろう」くらいのことは考えられるようになる。このテーゼは原理的に、意地の悪い鬼っ子に金棒を与えてしまったことになるまいか。
もちろんそんな鬼っ子など滅多にいるものではない。しかし、少数ではあるが確かに存在するのも事実。現在、40人学級と言われているがそれは制度上のこと、現実の学級は平均30人前後である。30人の中にもしもそんな鬼っ子が一人いれば、学級は間違いなく大混乱に陥る。なぜなら、担任が「きみは、本当はいじめられてなどいないのではないか」と問いただすことを封じられてしまったからである。しかもその訴えを真に受けて、名前のあがった「いじめっ子」被疑者たちに、「おまえ、○○をいじめただろう」と迫ることもできない。「教師はつねに子どもと信頼関係を結ぶことが大切です。そのためには子どもを信じ、決して一方的に疑ってはいけません。」というのも、これまた学校教育を縛りつけている大前提のテーゼだからだ。
では、実際、学校はどうするか。まずはじめに、いじめ被害を訴えた子どもに、「あなたは悪くない」「先生がなんとかするから安心しなさい」と包み込むことになる。次に、いじめ加害として名前のあがった子どもに「こういう訴えがあるのだが……」と事実確認をすることになる。ここで「はい。いじめました。すいしませんでした。」となればいいのだが、そんなことはまずあり得ない。少なくともわたしの20年近い教師生活では一件もなかった。複数の目撃情報を集めてなんとか口を割らせたという場合が7割、最後まで否定し続け、学級に対する一斉指導で抑止力を効かせたという場合が3割、現実はそんなものである。
しかし、これはまだいいほうで、多くの場合、いじめ被害の訴えは「報復が怖いので加害者をあからさまに指導しないでほしい」という要望とセットで行われる。結果、いじめが起こらないようにと、教師はいじめ被害を訴えた子どもに見守り続けることになる。つまり、その子につきっきりになる。「見守る」とか「安心感を与える」とか言い方はいろいろあるが、要するに監視するわけだ。だって、もう一度、「いじめられた」なんていう訴えがあったら大変ですもの。今度は、学校が「いじめ」と認定し手立てを打っていたにもかかわらず起こった、とんでもない「いじめ」になってしまいますから。学校の指導は甘かったのではないか、学校は子どもとの信頼関係を築けているのか、学校の指導が適切でなかったから報復が行われたのではないか、そういう声があがってくることになる。
ひとたび「いじめられた」という訴えがあれば、学校はすぐに動き出さねばならない。しかも適切に対処し、必ず指導を成功させなければならない。いじめられた子を「あなたはいっさい悪くない」と包み込み、いじめた子たちには「なぜいじめがいけないか」を諭して聞かせる。しかもそこには、彼らを心から納得させ、反省させなければならない、という大前提がある。それができないのは教師に力がないためだ、指導が適切ではないからだ、という大前提である。
みんながそう考えている。マスコミも政治家も、銀行員さんもお医者さんも、みんながそう考えている。そうして教師も、そのように考える〈振り〉だけがうまくなっていく。ここ数年、滝川・福岡・稚内から学校教育が学んだのは、こういった猿芝居の演出だけなのではないか。