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明日の教室2
学級をつくる

「明日の教室」研究会・編
ぎょうせい



明日の教室3
授業をつくる

「明日の教室」研究会・編
ぎょうせい


【2009年11月】
1日(日) 今日が開校記念日の学校は可愛そうだな……と同情しながら、単なる日曜日を楽しむ。原稿を書き、テレビを見、昼寝をし、犬と戯れる。
2日(月) 授業は2時間。3年2・8組で「ウミガメと少年」の主題読み。6校時はキャリア・バンクの講師を招いて、職業体験学習のマナー研修。なかなか中学生の扱いに慣れている講師で感心する。空き時間は3時間あったのだが、2時間は自習監督があたる。それでも、この3時間で期末テストを作成し完成させる。放課後は生徒会役員と打ち合わせ、更に3年2組の合唱を聴いてアドバイス。混声四部の「河口」に果敢にチャレンジしている学級である。完成度を高めるためにどこをどう直すべきかを少しだけコメントして退勤。帰宅後、メールを確認して、飲み会へ。
3日(火) 疲労がたまっているので、今日は一日、ひたすら休む。PCに向かうのも、メールを確認するだけ。疲労回復にはほど遠い。やはり先週の10時間の運転がきいたかな。まあ、2、3日で回復するだろう。幸い、テストもできているし、生徒会も忙しい時期ではない。せいぜい合唱コンクールの審査員くらい。土日も休みである。なんとかなるだろう。
4日(水) 授業は4時間。1年2・3組は主述関係の練習問題。3年7組は「ウミガメと少年」の視点比較。3年8組はノート・ワークの整理。6校時から放課後にかけて1年2・3組の合唱指導。ちょっと指導するとグーンとうまくなる。素直で意欲のある子供達である。上篠路は明日が合唱コンクールのはずだ。あの子たちの今年の歌はどうなのだろう。決して歌の得意な生徒達ではなかったが、昨年よりも少しは成長しただろうか。
5日(木) 授業は4つ。1年2・3組で「河童と蛙」の小テスト。3年8組でノート点検&ワークのまとめ。3年2組で「ウミガメと少年」の主題。空き時間は教科会で期末テスト打ち合わせ。6校時から放課後にかけて合唱指導。退勤後、日本シリーズ。久し振りに巨人のすごさを感じた。日本シリーズが俄然おもしろくなった。このまま巨人が第5戦で決めてしまうというのだけはやめてほしい。ぼくは巨人ファンでも日ハムファンでもなく、シリーズ自体はどちらが勝ってもかまわない。ただ、プロ野球ファンとして、久し振りの両リーグ覇者対決は、第7戦までもつれてほしい。
6日(金) 合唱コンクール。1・2時間目は1年生。これは審査員。まあ、妥当な順位がついたという感じ。3年2組でワークのまとめ。1年3組でワークの答え合わせと古文の小テスト。空き時間は他学年の合唱コンクールを聞く。どの学年も思っていた以上には頑張っていた。まずまずの合唱コンクールである。放課後は学年会。生徒会役員のTV認証式の撮影。帰宅後はメールを確認して飲み会へ。
7日(土) 午前様だったので、昼過ぎまで寝ている。タイヤ交換をし、犬の病院へ行き、日本シリーズを見る。結局、PCに向かい始めたのは21時半。そこから14日のセミナー準備。
8日(日) セミナー準備。指圧。ビートたけしの「点と線」。見るのは二度目だが、東京駅や札幌駅をはじめ、昭和30年代の再現にまたもや感動させられる。内山理名のシーンが大幅にカットされていて残念だった。
9日(月) 朝から評定事務。2時間目は校内研の教科内授業交流。3年生の「ウミガメと少年」のまとめの授業を参観。3年2組でノート点検。8組で「おくのほそ道」の「平泉」「立石寺」の音読。放課後は全校協議会、学年協議会のあと、国語科の授業検討会。これが18時過ぎまで。帰宅後は来週の学年PTAのビデオ編集。さらに土曜日のセミナー準備。よく働いた一日。
10日(火) 2時間目は1年2組でワークの解答&小テスト。4時間目は3年7組で「ウミガメと少年」のまとめ。空き時間はこまごまとした事務仕事。放課後は校務部会、生徒会誌の原稿、3年生の生徒たちとの談笑。帰宅後、浦河の毛ガニで一杯。
11日(水) 3年生は学力C。試験監督が3つ。1年2組でテスト前のプリント学習。空き時間はテスト勉強をさせるためのプリントを印刷したり採点をしたり。採点を終わらせて退勤。白石のロイヤルホストで山下くんに会い、頼んでいた去年の生徒のノートを受け取る。少しだけ談笑して帰宅。帰宅後はセミナーの準備。評価・評定の出し方について整理するのは初めて。我ながら、無意識にやっていたことに法則性があって、変な言い方だが、発見があって勉強になる。この企画は何より自分のためになっている。
12日(木) 3年2・7組で「平泉」「立石寺」の音読練習。1年3組でプリントに取り組ませながらノート・ワーク点検。放課後は様々な印刷、期末テスト打ち合わせ、生徒指導関係の打ち合わせなど。帰宅後は来週月曜日の学年PTAのビデオ編集、土曜日のセミナーの準備。
13日(金) なんと、午前中がすべて空き時間。期末テストを完成させ、評定資料を打ち込み、キャリア教育関係の打ち合わせをし、たまっていた仕事のすべてが終わる。午後からは3年2・8組で「平泉」の音読テスト。放課後は全協、教育課程検討委員会、3年の期末テストの打ち合わせ。19時過ぎに退勤。帰宅後、「なんだかんだ」へ。べろべろ。
14日(土) 国語科授業づくりセミナーと銘打った9回目。今回のテーマは評価。これは講座をやっている側のぼくらに大きな気づきがあった。いまさらながらなのだが、〈評価〉を語るということが、授業のすべてを語ることになり、それだけでも足りなくて、結局は教育観の全体像を語らねばならなくなるという、当たり前と言えば当たり前の、それでいて日常的にはついつい忘れがちになってしまう、この構造を実感させられたからである。終了後、ロイホで次年度の企画など考えながら談笑。
15日(日) 昼間で寝て、テレビを見ながらだらだら過ごし、録画していたドラマをを見ているうちに、締め切りを想い出して夜は原稿執筆。なんとか今日のうちに仕上げて送信。一日中、音楽は沢田研二の「TOKIO」というアルバム。このアルバムに収録されているバラードはどれも素晴らしい。ぼくが中学1年のときのアルバムである。あの頃から、ずっと聴き続けている。
16日(月) 1年2組で「聞き取りテスト」とノート・ワーク点検。3年2組で「立石寺」の音読テスト。3年7組で「平泉」の音読テスト。これが授業参観。授業参観で音読テストとは申し訳ないのだが、評定締め切りも近く、授業時数も少ないので、どうしようもなかった。放課後は学年PTA。ぼくの仕事は行事のビデオを流すのみ。空き時間は3年の期末テストの打ち合わせをしたり、1年の期末テストの解答用紙をつくったり、キャリア教育でお世話になる事業所で電話打ち合わせをしたり。割と忙しい一日だった。帰宅後は、昨日に引き続き沢田研二のアルバムを聴きながら、土曜日のセミナー準備。新しい資料をつくる暇がなく、どうも古い資料で提案するしかないかもしれない。まあ、古いもののほうがわかりやすいというところもあるのだが。だれも見たことのない資料だろうし。取り敢えず、できるだけ頑張ろうと思う。
17日(火) 1年2組で試験前自習。生徒達の質問に応えたり、提出遅れのノート・ワーク点検をしたり、合間を見て同僚のつくった3年生のテスト問題を検討したり。2時間目は教科会で1年・3年のテスト打ち合わせ。3時間目は1年3組で「聞き取りテスト」と試験前自習。4時間目は3年8組で「立石寺」の音読テスト。給食を食べ、年休。ちょっと寒気がしたので、家で寝る。
18日(水) 1~3時間目が空き時間。1年テストの解答用紙を直したり、模範解答、採点基準をつくったり、テストを印刷したり、総合のキャリア教育関係の文書をつくったり。4時間目は3年2組で、5時間目は3年8組で試験前自習。放課後は学年会。18時過ぎに終了し、その後、同僚と学年経営について話す。退勤後は土曜日のセミナーの準備、21時から「相棒」。脚本がいまいち。その後、セミナーの準備。
19日(木) 期末テスト1日目。試験監督が3つ。空き時間が一つ。その後、キャリア教育の職場訪問でお世話になる事業所に赴き、最終打ち合わせを4件。学校に戻ると勤務を解かれていたので、発送作業用の封筒を買い、明後日の講座用の雑誌を何冊か購入して帰宅。帰宅後はひたすら講座準備。
20日(金) 期末テスト2日目。この日は1年2組の担任がお休みで学級にはいる。1時間目が試験監督。2時間目が国語。3・4時間目は空き時間。14時に3年生3クラスの採点終了。職員会議のプリントを整理して、1年生2学級の採点を開始。16時40分に終了。同僚と談笑したあと退勤。帰宅後は夜中まで講座準備。3時就寝。
21日(土) 中学校・学級経営セミナーの11回目。与善さんのマジック、大野さんのアクティビティ、ぼくのメディアリテラシー、晋ちゃんのワークシートの4本。ネタ発表会的な趣でどの講座もおもしろいので、どれも好評。終了後は「なんだかんだ」で小宴。帰宅後はマジックを練習したり犬と遊んだり。明日はBOWの誕生会をやる予定。BOWは7歳になった。来週・再来週の2週連続のBRUSHを乗り切れば一息つける。今年は担任がないので、校務も評定を出せばほぼ終わり。あとは年末の学級経営セミナー、BRUSH合宿のみ。今年も終わりが見えてきたな、という感じ。
22日(日) 前日24時に寝て、目が覚めるまで寝ようと思って目覚ましをかけずに寝たら、目が覚めたのはなんと15時過ぎ。15時間寝た。買い物に行って食材を買い、きのとやでケーキを買って、BOWの誕生会。7歳になった。酒を飲んでダウン。よく寝た一日。
23日(月) 9時に起きて犬のトリミングへ。バブルウオッシュも頼んで、犬が良い匂い。土曜日のセミナーの準備。24時前には床に就く。
24日(火) 朝少し早めに出て期末テストの点数を転記。1時間目に3年生の一斉返却。その後、「平泉」「立石寺」の解説の授業を2クラス。8組は「言葉の力」に突入。空き時間は評定作業。1・3年とも、取り敢えず評定が出た。放課後は職員会議。次年度の学校祭の持ち方について白熱した議論。こういう議論ができる職場は健全である。帰宅後は土曜日のセミナー準備。目鼻がついた。
25日(水) 7組の担任がインフルエンザでダウン。今日は一日、7組に入る。大変ノリのいいクラスで楽しい一日だった。1時間目は英語の自習監督。2時間目は1年2組でテスト返却。3時間目は空き時間で評定作業。4時間目は3年7組で視写をさせながらワーク点検。5時間目は1年3組でテスト返却。6時間目は明日の総合の職場訪問のグループ別打ち合わせ。放課後は全校協議会。更に教育課程検討委員会。同僚と評定基準の打ち合わせをして帰宅。帰宅後は土曜日のセミナーの準備。
26日(木) 2組の朝学活。3年8組で「言葉の力」。指示語問題演習。空き時間は評定作業。1年2組で「竹取物語」の暗唱。2組で給食を食べる。総合の職場訪問の出発集会。総合の見回り。成績小票への転記。成績小票の提出。生徒会役員の指導。同僚と談笑。17時退勤。帰宅後、土曜日のBRUSH-UPセミナーの準備。PPTをつくり、DVDを焼く。2学期が一つ、また一つと終わっていく。
27日(金) 1年2組で「竹取物語」冒頭の暗唱テスト。前に暗唱テストをおこなっている「矛盾」をまず暗唱、それが言えた時点で受験資格が与えられる、というもの。これくらい厳しくしても、合格率は9割を超える。一般的に、いまの教師は理想を高くもたず、従ってこういう厳しさを前面に出さなくなっている。それが生徒達の学力を下げている。教師が理想を高くもち、ハードルを上げていれば、生徒達はそれなりに着いてくるものである。それがわかっていない。1年3組では「竹取物語」暗唱の1時間。3年8組は時間調整のために図書室で読書。6校時に1年2組で総合のまとめ作業。空き時間はこまかな事務仕事。退勤後、クロネコメール便で研究会案内を発送。更に、国語科の飲み会。


【2009年10月】
1日(木) 開校記念日。朝から何をするでもなく過ごす。夕方から重い腰を上げて、「ぶらっしゅあっぷ教師力」の謹呈分の発送作業。明後日の研究会の模擬授業準備を少々。あとはテレビドラマを見たり、本を読んだり。、支払いに行ったり、といった一日。
2日(金) 1時間目1年9組の書写。この1時間目で第1学年は学年閉鎖。40名近い欠席。4割の罹患率。3時間目に3年2組で「ウミガメと少年」にはいる。午後はリフレッシュ休暇。夜の地域巡視は雨で中止。10日(土)のPPTをつくり始める。
3日(土) 朝から累積国研。24回目。授業技術に視点をしぼった模擬授業12連発。はずれ授業のない、提案性の高い研究会になった。集う人たちに力量がついているなあ、ということを実感する。夕方から楽しい宴会。
4日(日) 中川昭一死去。昭一よ、おまえもか。衆院選落選とともに北海のヒグマが連れて行ったか。午前中は犬の病院。順調に回復。午後から来週のセミナーの準備。久し振りにHPやブログの更新。学祭が終わり、セミナーの連続で、なんとなく疲れている。まずい。
5日(月) 1時間目終了後、全学級を帰す。既に学年閉鎖になっている学年があったので、「学校閉鎖」という言葉は使わないけれども、事実上の学校閉鎖。朝学活時で14人欠席という学級さえあった。生徒を帰したあと、全員で分担して電話連絡の雨霰。その後、職員会議を開いて今後1ヶ月の月行事を変更する。合唱コンクールを2週間遅らせて実施、生徒会立ち会い演説会を集会形式からテレビ放送形式にするなど、次々と対応策を決めていく。問題は3年生の学力Bの試験範囲を終えることができるかどうか。授業時数確保はどうするか。今後も問題が山積である。取り敢えず、明日は午前校務部会、午後は学年会としいうことに。このあたりの機動力はまずまず。ぼくは今日までに提出された学校祭反省をまとめ、「中間報告」として配付して帰宅した。
6日(火) 朝から学級閉鎖中の生徒の健康状況を一軒一軒電話確認。その後、校務部会。定例の内容に加えて、生徒会役員選挙や学校祭の反省及び次年度改革案を検討。昼に、明日から登校予定の11学級中、9学級の閉鎖延長を決定。電話連絡。午後は学年会。秋の職業体験や修学旅行案の検討。16時過ぎから学年の先生方と学校祭の改革について話をする。かなりいい話ができた。
7日(水) 今日から復活した学級が2学級。1年3組と5組。4校時に3組で漢文の返り点の授業。その他は事務仕事。15時から職員会議。帰宅後、10日の研究会の準備。
8日(木) 昨日の2学級に加えて、3年3組と4組が復活。授業は1校時に1年3組で返り点。その他は午前中に1時間ほど校区内巡視に出た以外は事務仕事。帰宅後は10日の研究会の準備。
9日(金) 授業はなし。朝から事務仕事。学校祭プログラムの改善案をつくったり教材をつくったり期末テストの構想をたてたり。3組の担任が休んでいたため、給食にはいり、5校時の総合にはいり。生徒が帰った段階で年休をとって帰宅。明日の準備。19時に昏睡。23時に起きて仕事を少々。
10日(土) 第8回の国語科授業改革セミナーin札幌。「話すこと・聞くこと」と「書くこと」がテーマ。出番が講座3本210分。苦しかったが、まあ、満足行く提案ができた。一日を通して参加者の評価も上々で、我々には益の少ないセミナーだったが、やってよかったなと思った。夜は森くん、山下くん、早坂さんと小宴。
11日(日) 朝からゆっくり過ごす。テレビを見たり、方々にメールを送って事務連絡をしたり。夜は21時に寝る。疲れがとれた。
12日(月) 8時過ぎに起きて、雑誌原稿執筆。午前中に1本完成。昼頃、近くの本屋へ。来年の手帳と新書を一冊購入。午後から雑誌原稿をもう1本。夕方に完成して送付。ふう…。疲れた。HPを更新したあと、録画しておいた2時間ドラマを1本見る。更に書斎日記を更新。今週は4日間。特に行事はない。学校閉鎖後の授業の立て直しが必要か。しかも、少々スピードを上げて、期末テストの範囲を確保することが現実的には必要である。
13日(火) 授業は3つ。「ウミガメと少年」の範読。学年集会。
14日(水) 風邪で欠勤。
15日(木) またまた3年生1学級が学級閉鎖。授業は4つ。1年生2学級は漢文の返り点。3年生二つは学力テストの試験監督。学力テストの採点を終わらせて帰宅。
16日(金) 1年2組で漢文の返り点。3年生2学級は「ウミガメと少年」に描かれている事象を時系列に並べ替える作業。この教材はこれが面倒である。1年9組で給食を食べる。午後各学級の後期委員選出を眺める。放課後は教育課程検討委員会。学校祭の改革案を提案。帰宅後、久し振りに刺身で熱燗を飲む。うまい。
17日(土) どこに出かけることもなく、本を読んだりHPを更新したり。土曜日に研究会がはいっていないのは1ヶ月振り。「休みってこういうものなのだろうなあ…」と思いながらも、生産性のない一日に「これでいいのだろうか…」とも思う。重傷である。
18日(日) 昼過ぎに起き、新書を一冊読み、夕方から買い物に行き、夜は雑誌原稿を1本。更に、HPの更新。お気楽で、いい一日。
19日(月) 授業は3時間。1年2・3組は訓読文の書き下し。3年8組は古今和歌集と新古今和歌集。二度にわたる学級閉鎖による遅れを少しずつ取り戻そうとしているが、なかなか追いつけない。まあ、あたりまえのことなのだが……。その他、教科会でテストの打ち合わせをしたり、1年2組の男子に合唱の指導をしたり。帰宅後は原稿執筆。久し振りに原稿が進んでいく。あんなに書きたくなかったのに、不思議なものである。やっぱり世の中には「流れ」というものが確かにある。
20日(火) 授業は2時間。3年7組で「ウミガメと少年」の事象を時系列に整理。1年3組で川柳。避難訓練。生徒完全下校。12時10分で年休をとって帰宅。原稿執筆。ずいぶんと仕事のはかどった一日。
21日(水) 授業4時間。3年生2クラスは「ウミガメと少年」。今日は6割程度を読み通しながら、語句の意味や史実など、必要事項の確認。「ウミガメと少年」はこれが必要なので面倒だ。1年生は2クラスとも川柳+漢文の書き下し。空き時間は1時間が給料日に伴う支払いで銀行や郵便局まわり。もう1時間は道徳の教材づくり。放課後は生徒会役員と談笑。帰宅後は原稿執筆。
22日(木) 授業は4時間。3年2組で学力テスト返却のあと「ウミガメと少年」の中用を時系列に整理。1年2組で川柳+「児の飴食ひたる事」の口語訳。3年7組で「ウミガメと少年」の解説。1年3組の学活は半分が合唱練習で、半分が総合の校外学習の希望調査。空き時間は職員会議用のプリント作成。放課後は生徒会役員と談笑したり、3年生の合唱練習を覗いたり。帰宅後は原稿執筆。
23日(金) 授業は2時間。3年7組・2組とも「ウミガメと少年」。6校時は生徒会役員選挙。空き時間は郵便局に行ったり、こまごまとした事務仕事をしたり、印刷作業をしたり。放課後は開票作業。帰宅後は原稿執筆。
24日(土) 第10回の中学校・学級経営セミナー。道徳模擬授業8本を題材として授業技術について。まずまずの一日。終了後、森くん、山下くん、和寛くんと今後の企画を打ち合わせて帰宅。スーパーに買い物に行き、食事をしながらゆっくり過ごす。いろんなことが見えてきた一日で、いい一日だった。
25日(日) 何もしない一日。煙草を買いに行き、BOOK OFFでCDを買い、TSUTAYAでDVDを借りる。帰宅後はDVDを2本見る。明日からまた一週間、仕事をしなければならない。当たり前なのだが、なんとも言えぬ気分である。そういえば、今週は木曜日に遠出もしなければならないのだった。疲労の溜まる一週間になりそうだ。いまから、週末が待ち遠しい。
26日(月) 授業は2時間。1年生の2組と3組。ともに漢文の書き下しの小テスト、「矛盾」の読解、そして故事成語。5校時は2組の担任がお休みで学活にはいり合唱練習。1時間でずいぶんとうまくなった。放課後は生徒会役員と談笑。最近はこういう時間が楽しい。16時過ぎに年休をとり床屋へ。帰宅後は方々とメール。今日は依頼案件が3件。そして早く態度を決めろというメールが1件。3件の依頼はすべて引き受け、態度を決めろというメールには明日返信することにする。どうも新しいことに踏み出さなければならないような予感である。この予感がはずれてくれればいいのだが……。まあ、求められるうちが華だとも言えるのだが。
27日(火) 授業は2時間。1年3組で故事成語。3年8組で「ウミガメと少年」の史実解説。今日も2組の担任がお休み。総合で職場体験学習の計画をたてさせる。これで4日連続で教室で給食を食べている。給食を生徒といっしょに食べていて思ったことは、やはり給食というものは教室で食べるものだ、ということだ(笑)。放課後は職員会議。学校祭の反省集約と学校祭改革案を提案。今日のところは予定通りに進む。帰宅後はテレビ。昨日、夜が遅かったので、早めに寝る。
28日(水) 授業は3時間。3年8・2組で「ウミガメと少年」の史実解説、1年2組で故事成語。6校時は2年生の合唱交流会を見る。決してうまいとは言えないが、一生懸命に歌っている。空き時間は読書。放課後は全校協議会。その後同僚と談笑。帰宅後は「相棒」を見たりHPを更新したり。明日は長時間の運転なので早めに寝る。
29日(木) 一路乙部町へ。檜山管内の町である。朝8時半に出て13時着。乙部町のレストランで生姜焼き定食を食べ、乙部中学校へ。なんとも立派な校舎。築6年目とのこと。外観も内装も美しい。勤務校とは大違い。乙部中学校の公開研究会にて90分の講演。その後、場所を乙部小学校に移して、若い先生方に対して、質問に応える形で国語科授業のつくり方をレクチャー。楽しい時間だった。18時過ぎに乙部町を出て、雫石峠を越えて八雲インターから高速へ。22時過ぎに帰宅。まぶしい紅葉に大好きな歌ばかりを聴きながら、煙草も吸い放題の長距離運転。疲れたけれども、いい一日だった。
30日(金) 1年2組・3組で「日本語の音と文字」。3年8組で「ウミガメと少年」のカメと哲夫の視点比較。6校時は3年生の合唱交流会を聴く。放課後は生徒会役員と談笑しながら仕事。帰宅後はゆっくり過ごす。
31日(土) 昼間で寝る。メールを確認する。テレビを少し見る。ソファで昼寝をする。買い物に行く。キリン・クラシック・ラガーとサッポロ・ラガーを1本ずつ飲みながら、日本シリーズを見る。クルーンの牛のようなペロペロに気持ち悪さを覚える。鍋をつつく。熱燗をなめながら、真野あずさの土曜ワイド劇場を見る。ああ、疲れをいやす週末。神無月終わる。

イベント情報

第12回中学校・学級経営セミナーin札幌/2009年12月19日(土)
職員室の人間関係!教師の力量形成!
札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・山下幸・石川晋・田中幹也

第9回国語科授業改革セミナーin札幌/2009年12月26日(土)
本当に国語の授業がうまくなりたい人へ
指導事項に基づいた学習活動のつくり方~国語科授業塾・授業づくり編~

札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費3000円
堀裕嗣・森寛・大谷和明・南山潤司・齋藤佳太・太田充紀

BLOG「裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com」~今日のひとこと


一人で抱えるな、みんなでやろう。/2009.11.26(木)

1 沈静化した学校批判

教師批判、学校批判が沈静化し始めている─そう感じているのは私だけだろうか。

マスコミに、一時のような、学校のやることなすこと批判するという姿勢が見られなくなってきている。保護者にも、重箱の隅をつつくような、小さなことに対するクレームが見られなくなってきている。教師も、学校現場も、批判されないための心得について考え始め、しかもそれが少しずつ形になり始めている。そして何より、ある大規模な保護者アンケートでは、自分の子を通わせている学校への満足度が「非常に満足」「ある程度満足」をあわせて80パーセントを超えた、という報告も現れ始めている。

思えば、学校バッシング、教師バッシングが喧しかったこの十年、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分たちはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。 一九九八年、学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩するようになった。その後十年、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、一段と闊歩の度合いを強めてきた。2000年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、2000年代半ばには、かの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになっていった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっていた。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していた。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。

結果、「教員免許更新制」が敷かれ、教師は十年に一度、30時間の講習を受けることが義務づけられた。教師はダメだ、教師が生徒・保護者の期待に応えていない、そうした世論がこの制度の実現を後押しした。しかし、現在、民主党政権がこの制度の廃止を提案しても、特にそれに反対しようとする大規模な世論は生まれない。

2003年4月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰したことを意味していた。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見られた。このことは、80年代以来の教職サービス業化の流れと70年代以前の「熱血教師」待望論という、相矛盾した期待がはびこっていることを思わせた。いやはや、教師への要求水準はどこまで上がるのか、当時の教師たちは戦々恐々としていたものである。

しかし、ここに来て雲行きが変わってきた。安倍首相による市場原理主義的な教育改革が頓挫し、教育再生会議が雲散霧消し、各新聞社の過激な教育特集も沈静化しと、教育が旬ではない世の中が二年ほど続いている。クレーム処理のノウハウを蓄積するとともに、クレームを受けないためのノウハウも蓄積されてきた。学校は二十年ぶりの安定期に入り始めたとの声も聞くほどである。

しかし、この見解は甘い。私見によれば、この沈静化は一時的なものに過ぎない。これから数年のうちに、保護者・マスコミによる教師批判の大合唱が起こる。

2 教員の質の低下

いわゆる「団塊の世代」の大量退職が始まった。私の勤める札幌市では、この十年で半分の教師が入れ替わるという。

苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約10万8000人だった志願者が、1998年には6万4000人、2007年は4万7000人にまで減少した。18歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。18歳同一年齢人口比に照らしても、1988年に5.7%が教員志望であったのに対し、2007年は3.6%にまで落ち込んでいると言う(「教育再生の迷走」筑摩書房・2008年11月)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。

こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。

昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、80年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。

こうした中学校教師の実感から想定されるのは、今後数年のうちに、主に小学校において、質の低下した若手教師たちに我が子を預けざるを得ない保護者たちによって、最低限の教育が行われていないのではないかという不満が顕在化するのではないか、という危惧である。このとき、これまで幾多の問題が起こってきたにもかかわらず、いまだに「担任任せ」を維持している小学校がもつのだろうか。私の心配はそこにある。

3 新たな世代の登場

最近、新たに現場に入ってくる若手教師を見ていて、危惧することがある。それは、若手教師が生活指導上の問題で生徒とトラブルを起こす事例が増えてきていることである。生徒の立場を考えずに指導してトラブルになったり、生徒の言い分を一切聞かずに指導してトラブルになったりと、ひと昔前であれば、生徒指導部長や生活指導係が生徒たちの壁となるうえで起こっていたトラブル事例が、若手教師に見られるようになったのである。

若手教師のトラブルといえば、ひと昔前なら、授業がわかりづらいとうちの子が言っていると保護者からクレームを受ける、授業のフレームが甘くて授業中に生徒同士のトラブルが起こる、一部の子どもたちを優遇するという差別がおこなわれているという訴えがある、悪いことをした子をちゃんと叱っていないというクレームを受ける、女子生徒に甘いという評判が立つ、などなど、いかにも若手教師っぽいトラブルだった。そうしたトラブルから、生徒との距離感覚を学んでいくというのが、若手教師の成長モデルだったといっていい。

しかし、最近のトラブルは、どうもそうではない。言葉は悪いが、若いくせにあまりにも「教師然」としていることから起こるトラブルなのである。これはどうしたことか。

思うに、彼らは「教師─生徒関係」を前提とした役割演技をしようとしているからではないか。スカート丈の指導、名札の指導、チャイム着席の指導、授業中の私語の指導……こうした指導をするのはいい。毅然とした態度で指導するのもいい。しかし、「なんで名札つけなきゃならないの?」「ちょっと手を洗いに出ただけじゃない」と言い返されたときの二の矢がない。

そうしたことに生徒が疑問をもつことくらい、ちょっと前、自分が生徒だったときのことを考えればわかりそうなものだが、そうした認識がない。次の手立てがないから、もっと語気を荒げて激しく注意するか、この段階で早くも先輩教師を頼るか、この二つしかない。そして前者を選択したときに、トラブルになるわけだ。

単なる印象でしかないことを承知のうえで言えば、彼らは「スカート丈」や「名札」や「チャイム着席」が大切だとは、特に思ってはいない。ただ、教師とはそういうことを注意するものだ、教師とはそういうものだ、という漠としたイメージに自分を同化させているだけである。だから、一言、単純な言い返しが来ただけで、既に手立てがない。お手上げになってしまう。私にはそう見える。

どうも、前節で述べた学力的な質の低下とは異なった、昨今の若者の世代的傾向が出ているように思える。教師にとって、「役割演技」は確かに重要なスキルである。しかし残念ながら、教師は「役割演技」のみでできるほど単純な商売ではない。公私混同は避けねばならぬが、「公」だけの個人などあるはずもない。そのあたりの機微が最近の若者には欠けている。

4 教師力ピラミッドの効用

こうした状況の中で、二年前、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。

「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。



第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日 常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。

第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。

また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編制という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。  更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。

以上が、「教師力ピラミッド」に関する大まかな説明であるが、これには既に二つの大きな誤解が生じている。

第一に、私自身がこれらの能力のすべてを身に付けていると、私が主張しているのだとする誤解である。しかし、私の意図はそうではない。本稿の冒頭にも書いたことだが、「教師力ピラミッド」は学校バッシング、教師バッシングに対する反発が私につくらせたものである。私は「なぜ、こんなにも自分たちは責められねばならないのか」「世論は我々にどういう教師であることを求めているのか」と、悩ましさを抱いていた。そこである日、「讀賣教育メール」の五年分をフォルダから引っ張り出し、教師の不祥事として報道されている記事を一件一件読んでいった。すると、教師には「これも求められていればあれも求められている」「わかるはずのないこんなことさえ事前にわかれといわれている」といった実態が理解されてきたのである。教師がこうした事態に陥るのは、間違いなく、世論が架空の「理想の教師」像を抽象的なイメージとして設定し、それを基準にして教師の具体的な行いを断罪するからである。しかも、そこで基準とされている「理想の教師」像は完璧な教師であり、完璧な人間であった。そこで、私は「みなさんの求めている教師像はこんなにもすごいスーパー教師なのですよ。こんな教師がいるわけないじゃないですか。」という意味で、「教師力ピラミッド」をつくったのである。「教師力ピラミッド」はむしろ、私の反骨精神のあらわれなのたと言ってよい。

第二に、「教師力ピラミッド」に示されているすべての能力を身に付けることが、教師の理想像であり、教師修業の目標であると、私が主張しているのだとする誤解である。これも私の意図に反している。私が主張しているのは、こんなにも多彩な諸能力をすべて一個人でもつことは不可能なのだから、これらを組織として機能させようということである。例えば、一つの学校(大規模な中学校ならば学年団でもいい)に、先見性・創造性をもつ人が一人もいないとか、教務力・研究力に長けた人が一人もいないとか、怖い先生を演じられる父性型教師が一人もいないとか、そういう状態にならないように、人事も学校運営も配慮すべきではないか、ということである。

ところが実際の学校には、父性型教師が生徒指導を牛耳って母性型・友人型教師を軽視したり、研究型・教務型教師が父性型教師を「時代遅れだ」と揶揄したりといった実態がある。それが学校や学年の「チーム力」に計り知れない悪影響を与えているケースが多々見られる。そのことをすべての教師が意識すべきではないか、という提案なのである。

私のメッセージはたったひとつだ。「一人で抱えるな、みんなでやろう」である。

新たな世代に成長モデルを提示しながら、一段一段、階段を昇らせる。叱りつけるのでもなく、突き放すのでもない、チームの一員として機能させることによって成長を促していく。学校現場の現実に鑑みると、いま考えられる手立てはこれしかない。特に、いまだに「担任任せ」のはびこる小学校には、こうした発想の転換が急務である。



HOWからWHYへ/2009.11.01(日)

2ヶ月くらい前のことだったと思う。あるセミナーで登壇した折。全員に音読させるのは時間の無駄だとある先生に言われたのだが、自分は音読が大切だと思っている。全員音読に時間をかけるのを堀先生は無駄だと思うか。こんな質問を受けた。

つい先日、ある小学校で若い先生方に国語の授業に関する質問に応えていた折。一次感想を子どもたちが書けない。「おもしろかった」とか「つまんなかった」とさえ書けない。「別に…」とか「書くことがない」などと言われてしまう。どのように書かせたらいいのだろうか。こんな質問を受けた。

どちらの質問に対しても、同じ応え方をした。

「目的によります。」

最近、「HOWからWHYへ」なんていうちょっと洒落た、そして耳障りのいい言い方で言っているのだが、要は「方法から目的へ」という意味である。最近、よくなされる質問の答えは、少なくとも授業に関する質問の答えは、ほとんどがこれにつきると言っていい。

要は、多くの質問が骨格だけ見れば、「どうすればいいか」「この方法を堀先生はどう思うか」で構成されている。つまり、「方法は何か」「方法Aは適切か」という質問である。

しかし、「方法」だけを取り上げてそれが良いか悪いか、適切か不適かと問われても、応える側としては応えようがない。何のためにその方法を採っているのかがわからないからだ。その結果、「○○という場合なら適切ですが、△△という場合なら適切ではありません。また、××という場合も考えられますが、この場合なら□□をいっしょにやるといいでしょう。しかし、これらはあくまで原則的なことであって、そのときそのときの条件によって変わります。Aという条件ならば……、Bという条件ならば……」と説明が長くなる。

そもそも、「方法」というものは「目的」が最初にあって、その「目的」を達成するために様々な「方法」の中からある「方法」が選ばれる、という質のものである。ある「方法」が常に適切であったり、ある「方法」が常に不適切であったりするわけではない。

従って、「この方法は適切か」という問いは、実は問いとして成立していないのである。

ほとんどの生徒に定着している事柄を全員に音読させる必要はない。しかし、定着度が低く、重要度の高い事柄ならば全員に音読させなければならないだろう。どんなに時間がかかろうが、次の時間も、その次の時間も音読させて定着させるべきである。しかし、何時間もそればかりに費やすわけにもいかない。従って、2時間目からは授業の冒頭の2~3分を使って、10時間くらい一斉音読させるという手立てをとる。10時間も授業冒頭でやり続ければ、ほとんどの生徒たちに定着するはずである。ところが、それをやり始めて5時間目に小テストを行う予定がある。そのときには冒頭の2~3分がとれない。そのときは仕方がないと考える。小テストの次の時間には、1時間あいたので、いつもなら2~3分のところを5~8分ほどかけて、じっくり復習をする。ところが……

と考えていけばきりがない。場合分けで応えるとはこういうことなのだ。こんな答え方をしていたのでは、時間がいくらあっても足りなくなってしまう。

第一次感想はどう書かせるかという問いも同じである。それは第一次感想を何のために書かせるのか。第一次感想をその後の授業でどう使うのか。そうした目的によるに決まっているのだ。例えば、その後の授業に一切使わず、ただ書かせるだけなら、やめてしまったほうがいい。学習課題をつくるため、或いはレディネスを把握するための第一次感想なら疑問点・問題点を書かせればいい。主題論争をしたいのなら主題を書かせなければならないし、表現技法の勉強なら「うまいなあと思った表現」について書かせなければならない。第一次感想が独立してあるのではない。それは常に、その後の展開(つまりは目的)とセットであるのである。

何を目的にどういう学習活動を組めばいいだろうか。

いまやろうとしていることは、目的と合っているか。

すべての教師がこういう発想をもち、こういう考え方をするというだけで、日本の学校教育は劇的に変わるのになあ……と、いつも思う。



振り子/2009.10.28(水)

偏差値教育が批判されていた時代がありました。管理教育が批判されていた時代もありました。学力よりも情操をという時代もありました。関心意欲を高めればすべてが解決するような幻想が抱かれていた時代でした。そんななかで新学力観もゆとり教育も生まれてきました。

1998年のことです。学校完全週五日制、総合的な学習の時間の創設、選択履修枠の拡大、こんな大文字の言葉が氾濫して新しい教育の形が志向されました。

しかし、と同時に学級崩壊、学校崩壊、学力低下、指導力不足教員、不適格教員というネガティヴキャンペーンも目立ち始めました。酒鬼薔薇聖斗事件、黒磯女教師刺殺事件、佐賀バスジャック事件、長崎幼児殺害事件、佐世保小6女児刺殺事件といった事件も起こり、子どもたちの規範意識の希薄化や情報社会のデメリットが大きく叫ばれもしました。

そんななかで、社会は、2000年には既に、学力向上路線を選択していました。振り子は再び、大きく振れたのでした。日本国中みんなで唱えていた関心意欲、創造性重視の教育が、こんどはみんなで学力向上です。猫も杓子も。

ゆとりで失敗したからやはり学力向上だ、というのは、あまりにも短絡です。

関心意欲、ゆとり、創造性、それらをあまりにも追い求め過ぎたがために失ったものが目立ってしまった。それが、いわゆる「学力」だった。こんどは学力をあまりにも追い求めることによって、何が失われるのでしょうか。まだそれが顕在化していないだけで、それが顕在化され、更には世論向けに命名され、マスコミを賑わす日はそう遠くないはずです。

いま、教師も、子どもも、親も、だれもが学力が高くなったほうがいいと考えています。現場では是が非でも全国学力・学習状況調査の点数を上げろと教委に命じられている、そんな市町村がたくさんあります。そして、去年より何点上がったとか、全国平均よりも何点高かったとかいうことを単純に喜んでいる。しかし、全国学テの点数が上げる努力をしたことによって、何かが失われているのかもしれない。その可能性は顧みられもしません。

何かに夢中になることによって、そうした問題意識は見過ごされてしまうのです。いいえ、そういう問題について意識的な人も一部にはいるのですが、そもそも「失われている何か」について、その失われているものが何なのかについては調べようがないものですから、なかなか意味のある声として挙げることができません。これが失われているのだと思いついたとしても、その因果関係を証明することがこれまた難しい。世論が夢中になっているものについては調査が行われることがあっても、世論が鼻にもかけない「失われたかもしれない何か」ごときについては、調査がおこなわれるはずもない。予算もつくわけがない。そうやって、また、振り子が振れるのです。

例えば、力量のある教師がすばらしい学級経営としたとします。その教師は自らの力量に悦に入ることはあっても、また、自分は力量があるのに隣の担任の学級経営は何だと批判することはあっても、隣の教師が自分の学級と比較されることによって、必要以上に子どもや保護者から非難されている可能性があることになど、まったく考えが及ばない。それだけ力量のある教師なら、それを踏まえて両方の学級ともにうまくいかせる方法を考えつくはずなのです。

いつだって、劣勢に置かれている立場の人、流行に乗っていない事柄については、データがない。学力向上路線によって失われている何かがあったとして、それがどのように学力向上と反比例しているかというデータは絶対に測られない。力量のある教師の隣で相対的に必要以上に力量がないと揶揄されている教師がいたとして、その因果関係をはかるデータなどあり得ない。因果関係ばかりが大手を振って歩く世の中では、弱い者は泣き寝入りするしかない、それがこの都市型社会、情報化社会のからくりなのです。

「情報」とはよく言ったもので、「情報」は単なる「報」ではない。だれかの「情」がはいった「報」なのです。つまり、「情報社会」とは、世論に見向きもされない「報」は世論に見向きもされないがゆえに存在しないものとされ、世論の「情」を引く「報」のみが存在するものとみなされる、そういう社会です。臭いものには蓋、蓋をしているうちにみんなが忘れ去り、そのうちにないものにされてしまう。それが「情報化社会」なのです。

しかし、臭いものはやがて、本当に悪臭を放つようになり、ちょっとやそっとの蓋では隠しおおせなくなっていきます。いつの日かだれもが知るところとなります。そんなとき、世論の「情」は、「なんだこの悪臭は…」という議論一色に染まります。そして正反対の「情」が大手を振って闊歩し始め、正反対の「情報化社会」が生まれるのです。こうして教育の振り子は振れ続けます。

構造改革、郵政民営化も4年後には正反対に振れました。政治でさえこんなに大きく振れるのですから、文教政策のごときの振り子が振れるくらい、当然なのかもしれません。



事実の確認/2009.10.20(火)

生徒指導上の事案が起こる。

例えば、ある女子生徒Aが「BちゃんとCちゃんにいじめられている」などと訴えてきたような場合である。

もちろん教師はAに事情を聴く。なるほどAから話を聴いていると、B・Cのやり方には行き過ぎがみられるようだ。そこで教師は、B・Cを呼び出して指導する。Aが二人の言葉に傷ついていること、他人を傷つけるような言動はいけないということ、これからはそういう言動を慎まなければならないこと、こうした内容について指導する。B・CはAにだって責任があると訴えるが、教師は切り返す。「どういう理由があるにせよ、いじめはいけない。」と。「現に、Aは深く傷ついているのだ。」と。

結果、教師はB・Cの信頼を失う。いや、それだけではない。B・CはAに対する恨みをも抱く。そしてAもそれに気づく。「先生はやばい指導の仕方をしたな。」と。それが教師に対するAの信頼をも失わせる。Aは「先生を頼ると、状況が悪くなる。」ということを、経験を通じて学んだのである。それが、今後の生徒指導に大きな悪影響を与える。

教師だけがそのことに気づかない。中には、「うまく解決できたな。」などと、お気楽なことを考えている者さえいる。その裏には、「悪いことは悪いとしっかりと指導しなければならない。それが規範意識を育てるということだ。」という、短絡的な思想がある。いや、〈思想もどき〉というべきか。

多くの生徒指導がこのようになってしまうのには、実は理由がある。それも単純な理由だ。それは教師が指導にあたって、〈起こった事実〉を確認しないからである。

生徒指導上の事案には、必ず〈起こった事実〉がある。B・CがAを攻撃し始めたのはいつからか。どんな言葉をAに浴びせたのか。いつ、どこで、どんな状況で、何回程度浴びせたのか。それを見ていた第三者はいるのか。B・Cがそのような態度に出るようになったきっかけは何なのか。それ以前のA・B・Cの関係はどうだったのか。AとB・Cの関係がこじれる至る過程において、AはB・Cにどのような態度をとったのか。このようなことを確認しなくてはならない。

どんなに面倒でも、教師はこれらの経緯を逐一確認しなければならない。これを怠ると、教師は生徒達の信頼を失ってしまう。教師がうまく対応できなかったという噂が学級中、学年中にあっという間に広がっていく。教師と生徒との関係が少しずつ少しずつ、しかしそれ以上ない確かさをもってくずれていく。そういう学級・学年のなんと多いことか。

では、どのように〈起こった事実〉を確認するのか。

まず【図1】をご覧いただきたい。



生徒Aと生徒Bがトラブルを起こしたとする。それを訴えてきたのが生徒Aである場合、教師は無意識のうちに生徒Aの側に立ちがちである。〈起こった事実〉をAの立場からのみ聴いて、それを前提に生徒指導をしがちである。つまり、無意識のうちにAの味方をしながら、生徒指導にあたりがちなのである。まずはこれを避けねばならない。避ける方法は簡単である。生徒Bからも同じように〈起こった事実〉を確認すれば良いのだ。すると、Aとはまったく正反対の〈起こった事実〉が出てくる。ここで、教師はAの言い分とBの言い分とをフィフティ・フィフティの信用度と捉えなければならない。

すると、この事情を知る者、つまり、A・Bのトラブルに直接的・間接的にかかわよったすべての人間に事情聴取しなくてはならなくになる(図2)。

CやDはA・Bとはまた違った角度で〈起こった事実〉を認識しているかもしれない。中には、終始ひねくれた目で見る者(E)、最初は何が起こったのかを理解していなかったのに事情聴取の中で理解してくる者(F)、A・Bどちらにも気を遣う日和見的態度の者(G)、最初から最後まで事を理解できておらず話のコロコロ変わる者(H)など、様々な角度の事情が明らかになる。

しかし、このくらいの人数に対して事情聴取を重ねれば、教師の側にもおぼろげながら〈起こった事実〉の全貌が見えてくる。これをそれぞれの生徒に突きつけていく。生徒も忘れていた細かな事実を思い出す。

様々な人間が様々に「事実」を解釈していることを知った生徒達は、自らのものの見方を「メタ認知」せざるを得なくなる。つまり、こんな単純なトラブル(=起こった事実)でさえ、自分の見方は絶対ではないのだということを、同級生・仲間内の証言から実感していくことになる。教師から教えられるのではなく、自ら発見するようになる。規範意識は、こうした営みの繰り返しの中で身についていくのである。



コミュニケーション能力/2009.10.18(日)

学級集団を構成する子ども達が、時代とともに変容してきている。現代の子ども達は、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力としての「コミュニケーション能力」の高低を互いに評価し合いながら、自らの「スクール・カースト」の調整に腐心していると見て良い(『いじめの構造』森口朗・新潮新書/『友だち地獄』土井隆義・ちくま新書)。「スクール・カースト」は別名「学級内ステイタス」とも呼ばれ、学級への影響力・いじめ被害者リスクを決定し、子ども達を無意識の格闘に追い込んでいる、重要な概念である。

21世紀に入って、教育界から政財界に至るまで、これからの人間に必要なのは「コミュニケーション能力」であると声高に主張している。しかし、この「コミュニケーション能力」の具体が何であるのかという説得力ある論述はなかなか見られない。森口朗は、これを子ども達が〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力と捉えていると分析した。〈自己主張力〉とは自分の意見を強く主張する力、〈共感力〉とは他人を思いやる力、〈同調力〉とは周りのノリに合わせる力である。更に詳しく言うなら、次のようになる。

自己主張力:自分の意見をしっかりと主張することができ、他人のネガティヴな言動、ネガティヴな態度に対してしっかりと戒めることのできる力。80年代以降の世論によって大切だと喧伝されてきた能力。

共感力:他人に対して思いやりをもち、他人の立場や状況に応じて考えることのできる力。従来から学校教育で大切と考えられ、リーダー性にとって絶対的に必要とされ重要視されてきた能力。

同調力:バラエティ番組に代表されるような「場の空気」に応じてボケたりツッコミを入れて盛り上げたりしながら、常に明るい雰囲気を形成する能力。子ども達によって現代的なリーダーシップには不可欠と考えられている、現実的には最も人間関係を調整し得る能力。

※この三つの総合力を「コミュニケーション能力」と呼び、毒舌タイプの級友にツッコミを入れて逆にオトしたり、大人しい子やボケ役の子をいじって盛り上げたりして、「場の空気」によって人間関係を調整していく。

この三つの力の総合力を子ども達が「スクール・カースト」(=学級内ステイタス)を測る基準としている、というのである。森口はこれをマトリクスとしてまとめ(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・45頁)、三つの力といじめ被害者リスクとの関係を示した。そこで分析されているのは、現代の学級が以下の8つのキャラクターによって構成されている、ということである。

①スーパーリーダー(自己主張力・共感力 ・同調力のすべてをもっている)
②残虐なリーダー(自己主張力・同調力をもつ)
③栄光ある孤立(自己主張力・共感力をもつ)
④人望あるサブリーダー(共感力・同調力をもつ)
⑤お調子者・いじられキャラ(同調力をもつ)
⑥いい奴(共感力をもつ)
⑦自己中心(自己主張力をもつ)
⑧何を考えているかわかにない(自己主張力・共感力・同調力のどれももたない)

この①~⑧の順で「スクール・カースト」の高低が決まる。しかも、ここで言う「スーパーリーダー」は、現在の学級にはほとんどいない。それに対して、「お調子者」「いい奴」「自己中心」はかなりの数がいる。また、「残虐なリーダー」も一定程度いる。この集団構成が現在の学級集団の統率を著しく難しくしている。

さて、ここで教師の立場として考えておかなければならないことは、実はこの「スクール・カースト」が、決して子ども達だけが対象になっているわけではない、ということである。実はこの視線は、担任教師にも向けられているのである。もしも、担任教師が「自己主張力」と「共感力」しかもたず、「同調力」をもっていないとすれば、それは「スーパーリーダー」以下、「残虐なリーダー」と同等程度のカーストと見なされる。「共感力」「同調力」はあるが、「自己主張力」が弱いという場合には、「残虐なリーダー」以下の「人望あるサブリーダー的な教師」と見なされている。「自己主張力」だけなら「自己チュー教師」、「共感力」だけなら「いい奴だけど、いじめのターゲットになり得る教師」とさえなるのである。

おそらく最近の小学校高学年から中学校において頻出している学級崩壊は、担任教師のカーストが低く、それ以上のカーストとして認められている子ども達の影響力の大きさによって引き起こされている。こうした現状に鑑みると、現在、学級担任が「残虐なリーダー」タイプや「お調子者」タイプと対立しながら学級を統率していくことは至難の業である。その意味でも、子ども達のノリ、時代的なノリに対する、教師の「同調力」が重要になる。他人を思いやりましょう、規律を守ることが大事だ、といった真面目一辺倒の路線では立ちゆかないのが現代的学級の特徴なのである。

教師はいま、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉という三つの力の総合力としての「コミュニケーション能力」をもたねばならない立場に置かれている。ベテラン教師、お母さん教師、優しいお兄さん・お姉さん教師が、学級を統率することができずに崩壊させる要因はここにある。

とは言っても、こうした三つの能力を須くもつことは、教師にとっても困難である。その打開策として、私は学年団がキャラクターに基づいた「チーム力」を発揮することを提案している。それがここ数年、私が何度も紹介している「教師力ピラミッド」の思想である。



「相棒season8」第一話「カナリアの娘」/2009.10.16(金)

「相棒SEASON8」第一話「カナリアの娘」を見ました。

脚本家は輿水泰弘。この脚本家のつくる話では、大がかりな事件が起こる割には、事件関係者の心象が深く描かれないことが多く、また、どんでん返しっぽいトリックもない、そういう印象を抱いていて、いま一つ期待感をもてずに見始めました。

しかし、今回は布石の打ち方もうまく、伏線があちらこちらに張り巡らされていて、なかなか完成度の高いドラマになっていたなあ、と感心しました。素人が「感心しました」などという言い方をするのは不遜なのかもしれません。「感心しました」が悪ければ「感動しました」と言い換えます。

ラストの落ちは、内山理名の演技力もあって、かなり説得力がありました。最後、右京に背を向けながら唇を噛む内山理名の長いカットはかなりのものでした。嫌われ松子のときも感じましたが、この女優の演技力はすごいです。目はもちろん、鼻にも、唇にも、頬にも、すべての表情に演技が行き届いています。喜怒哀楽の表情をアップで、しかも長いカットにもたえうる、そういう数少ない女優だと思います。顔の造形は十人並みなのに、ものすごい美人女優に思えてきます。こういうのを「女優」というのだなあ、と改めて思います。

留置場に一人、髪の毛から空を見つめる表情のアップへと移行する、古谷一行の数秒のカットにも、説得力がありました。メリーゴーラウンドに乗る母親と子役の存在感もなかなかのもので、このドラマの完成度を高めているのは、もちろん脚本だけでなく、カメラワークや俳優陣の力が大きいなあ……とも実感させられました。

そうそう。長いカット言えば、水谷豊と及川光博が警視庁に戻ってきた折、山西惇との長いやりとり、途中に特命係の部屋でコーヒーをいれている岸部一徳に焦点をあわせ、再び3人のやりとりへ、という非常に長いカットがありました。ちょっとユーモラスに描くシーンですが、こういう味のあるカメラワークにぼくは感動を覚えます。すごいシーンだなあ、と感じました。

映像では、長いカットは要所に織り込むと計り知れない効果が生まれることがあります。もちろん監督は意図的にやっているのでしょうが、かつて「あぶない刑事」で打ち合わせをしているシーンでものすごいロングがあって感動を覚えたことがありました。また、映画「それから」で松田優作と藤谷美和子のとてつもないロングカットにも感動を覚えましたし、最近では、行定勲監督がずいぶんと長いカットを効果的に使っています。特に、「それから」のロングは素晴らしかった。借りてきたVHSを何度も繰り返し見て、感動に浸ったのを覚えています。

脚本家と監督との関係も、俳優陣と監督との関係も、文学で言えば「物語」と「語り手」の関係に近いものがあるわけで、文学も映像ドラマも、読者や視聴者に可能な限り意識させずに物語性を鮮明に意識づけることが求められるわけで、その点で、今回の「カナリアの娘」は何度でも見て、演出やモンタージュの技法について、いろいろな意図を発見してみたいという衝動に駆られました。まあ、そんな時間はないので、思い切ってハードディスクの録画を削除しましたが……。メディアリテラシーの授業に使うには長すぎますし。

それにしても、文学的な形象性を見事に具現化した作品でした。

次回は太田愛さんの脚本のようです。たぶん「相棒シリーズ」ははじめてじゃないでしょうか。人間同士のあまいタイプの「絆」を描く脚本家なので、「相棒」には向いているのかもしれないなあとも思います。



班組織は一人一役を基本とする/2009.10.14(水)

私は冒頭に、班づくりと係組織づくりとは、別々に組織されることもあれば一致させて組織されることもある、と述べました。私は中学校においては両者を一致させるのではなく、別々に組織した方がいいと考えています。

両者を別々に組織することには、次の3つの利点があります。

(1)一人一役を機能させることができる

「一人一役」を徹底させることは、生徒達に将来の社会生活に対する心構えを抱かせるうえで大変重要な教育活動です。大衆消費が社会の末端まで浸透し、生徒達も消費主体として生きている現代社会においては、ともすると生徒達までが労働には経済効率的な観点が必要であると考えている場合が多いという現実あります。つまり、「働く以上は何か利益がもたらせれて当然である」という発想です。社会をスムーズに機能させるためにこの意識を打開し、協調・協働・共創といった「チームによる達成感」を若いうちに味わわせる機会は、現在、学校しかないというのが現実ではないでしょうか。

例えば、平成20年度の私の学級の場合、各班は総務係・生活係・文化係・環境係・学習係2名の計6人で構成しました(後に詳述)。男女比は半々です。学年4学級だったのですが、すべての学級でこの構成をとり、1年間この構成を崩しませんでした。旅行的行事では各係が係の仕事については班員に対して責任をもつことになり、班員に傍観者が出ない構成にすることができます。

(2) 二つの組織に所属し二重に動く場を保障できる

日常の学校生活を送る班は、安心して楽しく過ごすことを第一目的としています。いっしょに授業を受けたり、学校行事や学級のイベントに班単位で動くことによって、協力性や協調性を学ぶということが第一義です。しかし、係活動は日常生活を送る班とはまったく趣を異にしています。係活動は学級全体がより向上するために、生徒会組織との連動がよりスムーズに行われるように、本来、そうした巨視的な視点で運営されるべきものです。班と係を別々に組織することは、すべての生徒にこうした二つの視点をもつ機会を与えます。生活の場と学級向上に資する場とを同時にもち、常に二つの視点で動くことになるわけです。これはちょうど、私たち教師が「所属学年」と「校務分掌各部」との双方に所属しながら仕事をしているのと同じ構造です。どちらも蔑ろにするわけにはいかず、それでいて両者のバランスを常に考えなくてはならない、そうした視座です。

小学校では班組織と係組織とを一致させる実践が多いようです。これまで担当してきた生徒達に訊いてみると、どちらかというと「一致していた」と応える生徒が多いように思います。それなら尚更、中学校ではもう一段高い次元の組織づくりをおこなって、生徒達に「小学校とは違うんだよ」という自覚を促すうえでも、班組織と係組織とは別々に組織することがよいように思えます。

(3)一人一人の責任感の醸成に培う

読者のみなさんはプリントをどのように配付しているでしょうか。自分が一列ずつまわり、一番前の生徒にその列の人数分を渡してまわしてもらう、というのが一般的でしょう。しかし、わたしは生徒に取りに来させることにしています。中学校では、一度に5~8種類のプリントを配付しなければならないことが多く、そのすべてを担任が配付していたのでは時間がかかってしまうからです。この場合、私は班単位で配ることにしています。例えば、学習関係のプリントを配付する場合には教卓に学習係を呼び、保健便りなら環境係を呼んで班員に配付させるというように、日常生活でも一人一役を徹底的に意識させて運営していきます。

生徒達はこの班に自分しかその係がいないとわかつていますから、当然のようにそれを自分の責任だと思うようになります。それが自分の班への貢献であるとも意識するようになります。もちろん小さな小さな貢献に過ぎないのですが、それでもこうした小さな責任感を毎日持ち続けることが、実はいざというときの大きな責任感の醸成へとつながるのです。



生活班と奉仕班とはベクトルが異なる/2009.10.13(火)

学級組織は多くの場合、生活班と奉仕班で構成されます。生活班とは日常的に学校生活を送る班。奉仕班はいわゆる「係活動」を指します。生活班と奉仕班を別々に組織することもありますし、生活班と奉仕班とを一致させて組織することもあります。本章ではわかりやすくするために、便宜上、生活班組織づくりを「班づくり」、奉仕班組織づくりを「係組織づくり」と呼びましょう。

班づくりは席替え・係活動と連動し、修学旅行や宿泊学習、遠足、現地学習などの校外学習の動きとも連動するのが一般的です。また、生徒会組織とも連動しますから、学校行事では委員会や外局ともつながりをもっていると機能的です。更に、日常の学校生活では授業中の生徒も同士の交流の単位として機能させたり、給食・清掃・日直といった当番活動の単位として機能させたりと、学習・生活双方において、学級づくりの要素として非常に大きな意味をもちます。

こうした重要な意味をもつ「学級組織づくり」において最も根幹となるのは、「偶然性を排除する」ということです。つまり、くじで決めたり、ジャンケンで決めたりしない、ということです。しかし、だからと言って、教師が一方的に決めるというわけにもいきません。教師がアドヴァイスをしながら、或いはその時々によって教師がその意図を説明しながら、学級リーダーに考えさせていくというのが現実的ではないでしょうか。

一方、係活動組織の構成は一般的に、学級代表や議長団で構成される「総務系」、日常の学校生活を安全かつ規律ある状態に保つことを目的とする「生活・環境系」、学級の学力向上、学校・学年行事や総合的な学習の時間の学習活動の効果を高めることを目的とする「文化・学習系」の三つに分かれます。

生徒達が系統の異なる二重の仕事に四苦八苦することを避けるため、生徒会活動と連動させ、学校の生徒会組織(委員会)に倣った係組織をつくるとよいでしょう。例えば、生活委員は生活係に、文化委員は文化係に、編集委員は編集係に、というようにです。また、生徒達に余裕があれば、係活動組織には学級の雑務を分担させるだけでなく、独自の活動をさせると学級集団に潤いが出ます。

班組織づくりは生徒達に楽しく安心して学校生活を送ってもらおうとの思想に支えられ、係活動組織づくりは必要な仕事をみんなで分担することによって学校生活に自治的な風土をつくろうとの思想に支えられています。その意味で、新組織づくりと係活動組織づくりとは向いている方向が異なる、といえるでしょう。



インフルエンザの流行と授業時数確保/2009.10.12(月)

ここに書きたいのは、インフルエンザの流行で学級閉鎖や学校閉鎖になって減ってしまった授業時数を、どうやって確保するかという話ではない。そんなことは、6時間授業を増やしたり、冬休みに登校日を設けたりすればいいだけの話だ。まあ、多くの学校ではそういう方策はとらないだろうが。

そういう話ではなく、今回のインフルエンザの流行が、市教委にとってはある意味でチャンスになるということだ。

つまり、こういうことである。

現在、中学校の授業時数は980時間である。979時間ではいけない。980時間は絶対に確保せよという最低保障時数である。少なくとも学習指導要領はそう言っている。

しかし、普通に行事を行い、普通に学校の行事計画を組んでいると、この980時間という時数の確保はなかなか難しい。1・2年は確保できるのだが、3年生が難しいのだ。札幌市では何十年にもわたって、卒業式を3月15日におこなっている。そうすると、授業日数が1・2年よりも6~7日分少なくなる。2月に4日間、3月に2日間、入試もある。修学旅行の回復日も2~3日ある。簡単に言えば、これらに手をつけなければ、980時間の確保は難しいわけである。

しかも、980時間は最低確保時数である。インフルエンザの流行による学級閉鎖や学校閉鎖、数年前に何度かあった台風による休校、こういった予測できない非常時に備えて、まあ、980時間+50時間、つまり1030時間くらいは計画上確保しておく必要がある、ということである。こうなると、これを満たした計画をたてている学校はほとんどないといって過言ではない。噂によると、現場があまりに授業確保が難しいと叫ぶものだから、市教委は計画段階で981になっていれば、黙認しているという。まあ、現実的といえば現実的だろう。

しかし、である。

計画段階で981時間だった学校は、今年度、一度学校閉鎖になれば950時間前後ということになる。学校閉鎖は原則5日間。ということは28時間が吹っ飛んでしまうからだ。

この秋、学校閉鎖、学年閉鎖の措置をとった中学校はかなり多い。札幌市の中学校の何割かの学校が950時間前後しか授業時数を確保できなかったとなると、これは市教委にとって重大な問題となる。本当は市教委だけでなく、現場にとっても重大な問題なのだが、現場にはあまり危機感はないのが現実である。現場は授業時数の確保よりも行事その他で生徒たちの人間性を高めようという方向に賛成するのが一般的だからだ。たとえ学校閉鎖があったとしても、授業はカットしても行事はカットしない。これが一般的な現場のコンセンサスである。

市教委の981を黙認する姿勢も、この現場の声との妥協点という趣が強い。少なくとも、私にはそう見える。

とすれば、今回の学校閉鎖による授業時数不足が、市教委にとって大チャンスとなるのは当然である。「そら見たことか。おまえたちの計画はこういうことがあると、とたんにこんなにも授業時数が不足してしまう計画だったのだよ」と……。次年度は計画段階で1000とか1020とか1030とか、こういった数値をクリアすることが至上命題として設定されるはずである。すべての管理職、すべての教務主任はこう予測して、次年度計画を立てるべきである。行事の削減の検討、総合と行事内容との検討、授業時数のカウントの仕方の検討、すぐにでもこれらに取り組み始めるべきである。3月、4月になってばたばたしないために。



駐車場/2009.10.11(日)

勤務校の校舎が平成24年度から新しくなるらしい。

いまの校舎は傾いているので、新しくなるのはよいことである。ここでいう「傾いている」は比喩ではない。地盤のゆるい地域に立つ勤務校は、文字通り「傾いている」のである。この校舎が建てられて39年目を迎える。この間、玄関前の階段が十段近く増やされているという。基礎をかためた校舎はあまり沈まず、まわりの地盤はどんどん沈む。その結果、玄関と地盤との段差がどんどん広がった、というわけだ。ほんとにほんとに「傾いている」のである(笑)。

ここ数年、新しい校舎が建った学校には駐車場スペースがつくられない。市の保有する土地である学校の敷地内に、職員の駐車場スペースがあるのはおかしい、との理由からである。道庁も市役所も、職員の駐車スペースなどない。学校だけが当然のように職員の駐車場スペースを確保しているのはおかしい、というわけだ。確かに一理ある。

当然、勤務校の新校舎建設予定の図面を見ても、当然、駐車場スペースはない。私も基本的にそれが正しいだろうと思う。

しかし、正しいことにも悪影響がないとは限らない。

駐車場スペースがなくなるということは、職員に公の交通機関で通えということである。職員が交通機関で通うということは、これまで当然のように行われていたことが行えなくなるということだ。

例えば、家庭訪問。結論から言えば、これは廃止するしかないだろう。学級担任が車で移動できないということは、これまでの日数では家庭訪問週間が終わらないということである。家庭訪問による午後カットの日数をこれ以上増やすということは、授業時数確保の観点から考えてできない話である。しかし、広い校区を歩いて3日や4日でまわるのは不可能である。廃止するしかないだろう。

地域から苦情の電話がかかってくる。或いは生徒の非行目撃といった情報が寄せられてくる。これまでならば、すぐに教職員が何台かの車に便乗して数分で駆けつけていた。これもできなくなるだろう。歩いていく、走っていくとなると、もう既に苦情の対象はどこかに散逸しているにちがいない。

隣の学校の生徒が勤務校にやってくる。こうした場合、すぐにその学校に電話をかけて引き取りにきてもらう。隣の学校には駐車場スペースがあるから、隣の学校の先生方は車で来る。電話をしてから数分で引き取りにくる。逆のことが起こった場合、つまり、勤務校の生徒が隣の学校にいき、隣の学校から引き取りに来てくれと電話が入った場合、我々は歩いていくことになる。おそらくこの程度のことでタクシーを使うことは許されないだろうから、きっと歩いていくことになる。隣の学校からは数分で来るのに、こちらの学校からは30分かかる。でも仕方がない。足がないのだから。

体育的行事があると、その運営をつかさどっている教師は、朝5時台に来て雨天中止にするかどうかを決定している。これもできなくなる。公の交通機関はこの時間には動いていないからだ。どうするのだろう……。一人や二人なら、タクシーを使わせるだろうか。

おそらく、機動力を必要とする生徒指導畑の教師、部活動を一生懸命やっている教師、遠くから通っている教師、こういった人たちはきっと勤務校から逃げていくだろう。札幌市のすべての学校から駐車場がなくなるのなら、勤務校を出る理由はない。しかし、隣の学校に転勤すればこれまでどおりの動きができるのである。だれが好き好んで勤務校に残るだろうか。生徒指導をするにしても、部活指導をするにしても、研究活動をするにしても、車があるとないとでは大違いである。きっと人材が逃げていく。いい人材ほど、機動力を必要とするからだ。

この裏返しとして、いい人材がはいってこない、ということも起こるだろう。勤務校は決して、交通便のいいところにあるわけではない。そんな学校への通勤に自家用車が使えないとなると、その学校に勤めることは避けたいと思うのが人情である。

まだまだデメリットがあるが、このくらいにしておこう。

一番の問題は、学校というものがもともと交通便のいいところには建たない運命をもっている、ということだ。子供を遠くに通わせるのを避けたいと思う地域住民が、地方公共団体に陳情に陳情を重ねて建ててもらう。それが学校である。道庁や市役所、警察署や税務署とは、そもそも設立される条件が異なるのである。

もう一つ、こうした駐車場を不必要とする最近の学校構想が、実は東京をモデルにしているということである。あの狭い地域にあれだけの交通網のある東京都なら、確かに私も車通勤などしない。しかし、札幌は地下鉄が南北線と東西線のみ、JRは札幌を北西から南東に走るのみ。バスは頻度の高い路線で1時間に3本である。東京なら、バスは5分に1本来る。この違いが想定されていない。

しかし、まあ、こんな愚痴を言ったところで、計画が変わるわけもない。転勤を考えるしか手はなさそうである(笑)。せっかく気に入っていた学校だったのだが、まあ仕方がない。まったく住みにくい世の中になったものだ。



蛮族/2009.10.03(土)

ネットワーク東京大会の事務局から、感想用紙が送られてきた。ぼくの講座に対する感想と質問が数十枚である。

ぱらぱらとめくっていたら、次のような感想があった。

「私は○○の中学校教員です。修学旅行でよく京都・奈良方面に行きますが、旅館の方々が口々に言うには『北海道の中学生は一番悪い』。だから先生の学校の映像を見たときには驚きました。子どもたちが実にいい顔をしていたし本当に可愛い。(後略)」

うーん…。これを読んで、はたと考え込んでしまった。もしも旅館の人たちが本当にこう言っているのだとしたら、けっこうな問題だな、と。どう考えても嘘だからだ。北海道の中学生は、京都・奈良には行かない。せいぜい東北止まりである。行かない生徒たちに、良いも悪いもないはずではないか。

この虚言は差別意識ではないか。

京都・奈良と北海道は対極にある。いにしえから文化・政治の中心として栄えた京都・奈良、そして伝統・文化をもたぬ新しい開墾地蝦夷地。二次大戦で沖縄が皇国からはずされ、国土防衛線からはずされたのは、沖縄が日本人の無意識に異国として捉えられていたからだといわれるが、北海道もまた日本人にとってそういう土地なのである。

北海道はだれがどう見ても、学級崩壊率は低い。関東の大都市や大阪にくらべたら、多くの学校が安定している。そういう地域である。保護者のクレームも少なく、学校が顧問弁護士をもとうなどという話ともまだまだ無縁である。良くも悪くも、古い学校風土がまだまだ残っている。それが北海道である。全国学テの成績が良くないのは、子どもたちの頭の出来や学校教育の不備不足というよりは、土地柄の影響である。一次・二次産業の遺る北海道は、他県に比べて学歴によって生きていくという意識がまだまだ低い。学力を高めて欲しいとの生徒や保護者の期待も他県に比べてまだまだ低い。

北海道の高校生が悪い…というなら、まだわからなくもない。北海道の高校生は多くが京都・奈良に行く。北海道には国の文化財を大事にしようという意識は希薄である。そもそもそういう文化財のない土地柄であるから。それが大事なものであることを頭では理解できても、心では理解できない。流れている空気が違うから。だから、おそらくは北海道の高校生は京都・奈良の深みを理解しようとはしないだろうし、それを教えたところで理解できないだろう。そういう運命なのだ。

その代わり、北海道には、江戸時代以来の身分制度による差別はない。従って、同和教育なんて概念もない。アイヌ民族に対する差別もぼくらが子供の頃に比べたら、ずいぶんと見られなくなってきている。そういう土地柄である。

京都・奈良と北海道。

京都・奈良から見れば、北海道民がまだまだ蛮族であるということを思い知らされる出来事だった。

books


人を見抜く技術
桜井章一/講談社+α新書


「伝説の雀鬼」の書いた人間観察というので、期待したのだが、期待はずれ。床屋談義・居酒屋談義の域を出ない。文体もダメ。



ルパンの消息
横山秀夫/光文社文庫
★★★★


ものすごい構想力をもった作家だなあ、という印象。とてもおもしろかった。



上司につける薬!
マネジメント入門

高城幸司/講談社現代新書
★★

言っていることは至極まとも。ただMBOを是としているところが、どうしてもぼくの感覚とはズレる。「ブルーなホワイトカラー」という比喩はなかなかうまいことを言うな、と感じた。



臨場
横山秀夫/光文社文庫
★★★★


ドラマによるところが大きいのだろうが、単純に楽しめた。横山秀夫を読むのは初めてだったが、語り手の使い方と心理描写が上手い書き手だ。いくつか読んでみようという気になった。



小説作法ABC
島田雅彦/新潮選書
★★★★

近代文学を専門に学んだ人、或いはもと文学青年といったタイプの読者には「うーん」というところもあるだろうが、例えば「ことのは」の多くのような「文学がいまいちわからない…」という人には、たいへんわかりやすい本になっていると思う。読めば授業にも役立つと思う。お勧め。それにしても、島田雅彦のこうしたエッセイを久し振りに読んだ。たぶん10年振りくらいだと思う。



books2009
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music


TOKIO
沢田研二
★★★★★


1. Tokio
2. Mitsuko
3. ロンリー・ウルフ
4. Knock Turn
5. ミュータント
6. Dear
7. コインに任せて
8. 捨てぜりふ
9. アムネジア
10. 夢を語れる相手がいれば
11. Tokio (Reprise)

こんなものに、いまさらだれも興味を抱かないのはわかっているのだが、このアルバムは絶対にいい。沢田研二のファンしか知らないのだけれど、沢田研二のあのシングルヒットってのは、実は沢田研二の魅力の1割くらいしか占めていない。沢田研二はアルバム・アーティストだったと思う。本当に完成度の高いアルバムが多い。それは80年頃から始まって、いまだに続いている。



バラッド'77~'82
サザンオールスターズ
★★★★

ディスク:1
1. 朝方ムーンライト
2. ラチエン通りのシスター
3. 私はピアノ
4. Just A Little Bit
5. シャ・ラ・ラ
6. 涙のアベニュー
7. 松田の子守唄
8. 夏をあきらめて
9. 別れ話は最後に
10. いとしのエリー
ディスク:2
1. 恋の女のストーリー
2. ひょうたんからこま
3. 恋はお熱く
4. わすれじのレイド・バック
5. Oh!クラウディア
6. 働けロック・バンド(Workin’ for T.V.)
7. Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)
8. 流れる雲を追いかけて
9. 思い出のスター・ダスト
10. 素顔で踊らせて

初期の名曲がおさめられている。「涙のアベニュー」とか「わすれじのレイドバック」とか、あの5ヶ月連続でシングルをリリースしたときの曲が好きだ。「シャ・ラ・ラ」なんかも、いまとなってはサザンの初期を代表する曲になっている。



テルーと猫とベートーヴェン
谷山浩子
★★★★★


1. 竜
2. テルーの唄
3. 数え唄
4. 旅人
5. 空の終点
6. 素晴らしき紅マグロの世界
7. 雨のアタゴオル
8. 人生は一本の長い煙草のようなもの
9. 夢のスープ
10. ポプラ・ポプラ
11. かおのえき
12. 偉大なる作曲家

アルバムとしての統一感はまったくないけれど、どの曲も谷山浩子らしい楽曲に谷山浩子らしいボーカルではずれなし。「ゲト戦記」への提供楽曲のほとんどを収録。「テルーの唄」は圧巻。谷山浩子のボーカリストとしての才能の健在振りを示している。



偶然と必然
松山千春
★★★★★


1. 偶然と必然
2. 自分なりに
3. 恋よララバイ
4. Dancing with me
5. ひき潮 (アルバム .)
6. 涙ポロリ
7. ワンシーン
8. わがまま
9. 天国
10. 生きております

松山千春の3年振りのオリジナルアルバム。久し振りに名盤。素晴らしい。80年代、千春を愛したすべての人たちにお勧めします。あの頃、松山千春的生き方に憧れた人たちのその後がしっかりと描かれています。



THE BEST OF
AIR SUPPLY

★★★★

1. ロスト・イン・ラヴ
2. オール・アウト・オブ・ラヴ
3. ときめきの愛を
4. シーサイド・ラヴ
5. ヒア・アイ・アム
6. スウィート・ドリームス
7. あなたのいない朝
8. さよならロンリー・ラヴ
9. ヤング・ラヴ
10. 夜明けのふたり
11. 渚の誓い
12. アイ・キャン・ウェイト・フォーエヴァー
13. 潮風のラヴ・コール
14. パワー・オブ・ラヴ
15. サンディ
16. ロンリー・イズ・ザ・ナイト
17. ウィンター・ワンダーランド
18. クリスマス・ソング

昨年の秋に買ってから、なんとなく聴くことが多くなっている。確かに酸素を供給してくれるような、さわやかなメロディである。「あなたのいない朝」が昔から好きだ。



music2009邦楽
music2009洋楽
music2008



movie


感染列島
監督:瀬々敬久
出演:妻夫木聡・檀れい
★★★


ずいぶんとハリウッド映画を意識したつくり。日本映画にもこういうものが出てきたのだなあ…という印象。ストーリーはどうということもないのだが、佐藤浩市とか藤竜也とか、脇の役者の使い方がなかなか良かった。爆笑問題田中もいい味を出していた。まあまあ満足だった。



鑑識・米沢守の事件簿
監督:長谷部安春
出演:六角精児・萩原聖人

★★

今年の学祭でネタにしたこともあって、また、上映当時、ずいぶんと六角精児がテレビ出演して宣伝していたので、割と楽しみにしていたのだが、ちょっとがっかり。「相棒」劇場版のときにも感じたのだが、映画にする必要を感じない。まあ、テレビドラマとしてなら、割と満足度の高い内容だったかも知れない。



容疑者Xの献身
監督:西谷弘
出演:福山雅治・堤真一
★★★★


一にも二にも堤真一が良かった。原作とのイメージの違いもまったく気にならないほどに、堤真一が石神を引き寄せていた。そういう印象である。あまり好きな役者ではなかったが、いい役者なのだなあ、と感じた。心から感服した。



ルパンの消息
監督:水谷俊之
出演:上川隆也・佐藤めぐみ
長塚京三・岡田義徳
★★


原作読んでいなかったら面白いと思えたかも。ちょっと重要な展開を端折りすぎだなあ……。



RAMBO 4
最後の戦場

監督・主演:シルベスター・スタローン
★★

なぜあそこまで残酷なバラバラ死体を出さなければならないのかが理解できない。あれがスタローンのリアリティなのだろうか。ちょっと「RAMBO」の名が泣くな…という印象を受けた。




長い長い殺人
監督:麻生学
出演:長塚京三・仲村トオル
★★★

原作宮部みゆき。語り手は財布。各パートに分かれていた一つ一つ事件が少しずつ、しかし確実につながっていく…そんな構成をとる。よくできたドラマだった。




ブラックサイト
監督:グレゴリー・ホブリット
出演:ダイアン・レイン


ダイアン・レイン主演に惹かれて借りてきたけれど、「ダイアン・レイン、年とったなあ~」というのが率直な印象。年齢を重ねて新たな渋い魅力が出てきているのならいいのだが、そうではない。ストーリーもいまひとつ。



相棒-劇場版-
監督:和泉聖治
出演:水谷豊/寺脇康文
西田敏行/柏原崇
★★

まあ、2時間ドラマよりも金がかかっている分だけ壮大ですね。でも、いまひとつの感は否めない。退屈はしません。あれほどの話題になるような映画ではありませんね。


これまでのmovie