We didn`t start the fire(ハートにファイア)1959年


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1959

Buddy Holly(バディ・ホリー 1936-1959)

 1959年バディ・ホリー死去。米国テキサス出身。しゃっくりをしているみたいに聞こえる独特の唄い方、リズミカルなビートを中心に据えたギターが特徴。
 テキサス人とは思えぬような温厚な人柄の彼であったが、その死は決して穏やかなものではなかった。ツアーで移動中、機がトウモロコシ畑に墜落、22歳の若さで死亡する。
 この事故では同乗していたリッチー バレンス(享年17歳、ゴリラ風の顔をしたミュージシャン、ラ・バンバが有名)も死亡している。
 一般の人気もさることながら、ホリーはミュージシャンからの人気も高かった。
 ビートルズのレパートリーの中にはホリーの曲が数曲(Words of loveが有名かな?)あったし、ドン マクリーンなどは自曲アメリカン パイ(これは名曲、ぜひ一聴を。最近マドンナがカバーしていた)の中で、「バディ ホリーの死んだ日は、音楽の死んだ日」とまで言っている。

 こちらで視聴できます。有名曲はPeggy Sue、Everyday、 That`ll be the day(全米No1)、 It`s so easy、 Rave on、あたりでしょうか。個人的なお薦めはビートルズがカバーしたWords of love、そして、ポール アンカ作のIt doesn`t matter any more.


Fidel Castro Ruz(フィデル・カストロ・ルス 1926-)

 現キューバ共和国国家評議会議長。1959年2月16日バチスタ政権を倒し、キューバ首相に就任する。

 1950年代のキューバは腐敗しきっていた。独裁者バチスタ、及び政府の要人たちはやりたい放題、巨額の黒い金が支配層間で動いていた。
 土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街。
 弁護士であった青年カストロは、最高裁にバティスタを告発する文書を提出するも、判決は無罪。カストロは次の計画を練り始める。
 1953年、カストロは150名くらいの同志とともに武装蜂起、キューバ革命のはじめの一歩であった。
 しかし、この戦いはカストロらの敗北に終わり、カストロは投獄される。
 1955年、恩赦にてカストロは釈放された。(これだけのことをしでかした人間がたったの2年で釈放されるというのは、どうにも納得がいかないが)彼はメキシコに渡り、性懲りもなく再び革命の準備を始める。ここで生涯の友、その当時は青年医師であった、エルネスト・チェ・ゲバラ(1928−1967)に出会う。(このゲバラという人はものすごい人なのだが、本題から逸れるため詳細は記さず) ゲバラの娘の言葉
 1956年、カストロは同志とともにキューバに上陸しようとするも、政府軍に事前に情報が漏れていたため、待ち伏せされ、100人近くいた同志のほとんどが殺されてしまう。(生き残ったのは17名)「俺たちは17人も生き残った。これでバティスタの野郎もおしまいだ!」このとき、カストロはこんな台詞を吐いたという。ちなみに敵はキューバの政府軍2万人。はっきりいって無謀な試みである。
 しかし、カストロには勝算があった。人民はバチスタ政権にうんざりしている。俺たちが蜂起すれば、人民は俺たちについてきてくれる。
 本当か?本当であった。民衆を味方につけたカストロらは、徐々に政府軍を追い詰める。
 1958年、ついにカストロは首都、ハバナへの攻撃を開始した。結果は上記の通り、31歳という若さでキューバの首相となった。
 その後、カストロは社会主義的な政策を次々と推進してゆく。アメリカはキューバに持っていた利権を失い、マフィアは追放、もしくは投獄される。こうして、カストロはアメリカとの溝を深めてゆく。
 爆弾テロなどのアメリカの嫌がらせが始まる。カストロ暗殺計画がCIA主導の元に練られる。また、歓楽街、麻薬の密輸ルートなどを失ったマフィアは、メイヤー ランスキー(当時のマフィアの大ボス)の命令により、カストロの首に100万ドルの賞金を懸けた。
 カストロの怒りは頂点に達した。彼はソ連の協力を仰ぎ、核武装に踏み切ろうとするが(キューバ危機)、これは失敗に終わる。そして、悪政の時代を終えたキューバは、今度は貧困の時代に突入する。(米の経済制裁、封鎖による)

Edsel is a no-go(Edsel さっぱり売れず、生産中止)

 1959年11月19日、フォードの新ブランドとして1957年に登場したエドセルが生産中止に追い込まれる。

 戦後危機的な経営難に襲われていたフォードであったが、1950年代半ばには回復の兆しを見せ始めていた。
 しかし、GM(ジェネラル・モータース)との販売台数の格差はまだまだ大きい。そこで様々な対策が練られる。
 GMは中間の価格帯に、ビュイック、ポンティアック、オールズモビルの3ブランドを持っていたが、フォードにはマーキュリーしかない。そこで、この価格帯を埋めるための新たなブランドを立ち上げることになる。これが、問題のエドセルである。この時点では名無しで、Eカー、と呼ばれていた。
 当初、Eカーは独自のエンジン、独自のボディを持つ全く新しい車になるはずであった。しかし、そんなことをすれば途方もない金がかかることは明らかである。
 結局はボディやエンジンは、マーキュリーやフォードから流用することとなる。新たな試みは、横長ではなく、縦長のグリルを使うということくらいであった。
 そして、ブランド名である。この決定が、自動車の歴史上、かつてなかったくらい揉めに揉めて、なかなか決まらなかった。
 社の販売促進部は、おおまかな指針を出した。「単純明瞭、否定的、猥褻な意味にとられるような2重の意味のない言葉で、2音節、ないしは3音節の名前」
 担当した広告代理店は6千もの名前をリストにして提出してきたという。
 また、詩人のマリアンヌ・ムーアにも協力を願い出たらしいのだが、彼女の考案してくる名前がすごい。
「インテリジェント・ホエール(お利巧なクジラ)」「レジリアント・バレット(跳弾)」「ユートピアン・タートルトップ(理想郷の亀の頭)」どれもこれも問題外である。
 結局、当時フォードのNo2であった、アーネスト・ブリーチの鶴の一声で、エドセルに決定する。
 様々なドタバタを経て、1957年4月、ビング・クロスビーやフランク・シナトラらの出演するTVショーにて、エドセルは発表された。大量の発行部数を誇る『タイム』『ライフ』誌上などにおいても大々的に取り上げられ、華やかなデビューとなるはずであったのだが、結果は惨敗。
 1日650台売れなければ赤字のところを、300台くらいしか売れず、コメディアンにはジョークのネタにされ、挙句の果てには生産中止の憂き目にあう。

 エドセル大敗の原因は?
 その1 その最大の原因は車自体に魅力がなかった、ということに尽きるのでは。なにから、なにまで新しい完全な新車ではなく、唯一の個性は縦長の奇妙なグリルぐらいしかなく、生産中止の直前にはその唯一の個性さえも変更になり、横長のグリルになってしまった。わざわざ購入する意味のない車になってしまったのだ。
 その2 組立工場の問題。エドセルはフォードやマーキュリーと同じ組立工場で製造されていたのだが、フォードやマーキュリーの後、作業時間の一番最後の1時間に組み立てられていた。早く家に帰りたいという自然な気持ちから、工員たちの仕事は粗くなる。
 実際、エドセルの品質はイマイチであったようで、ディーラーや顧客たちは、エドセルを品質の劣る車であるとみなし始めた。この件に関しては後に改善されるのだが、そのときには既に手遅れとなっていた。
 その3 時代が悪かった。エドセルが登場した当時は、経済車が急激にシェアを伸ばし始めたころであった。経済車のシェアは以前の4倍にもなり、エドセルのような車は売りづらい状況になっていた。
 また、経済車以外の車を売るにしても、ディーラーは新参者のエドセルより、マーキュリーなどの昔からある車の販売に力を入れる傾向があった。
 エドセルはフォードに2億5千万ドル以上の損失を与えた後、上記の通り生産中止とあいなった、合掌。

 私が小学生の頃、『サスケ』という清涼飲料水が、TVのコマーシャルで派手に宣伝されていた。この『サスケ』あっという間に消えてなくなっていた。
 理由は単純明快、この『サスケ』ひどくまずかったのだ。作った人は自分で試飲してみたりしないのだろうか?私が社長だったら、こんなジュースを販売しようなどと言い出した者には制裁を加えるかもしれない。そのくらいまずかった。
 Drペッパーのようなマニアックな人気を得ることもなく、人々はサスケのことを忘れた。
 エドセルのことを調べていて、ふと、『サスケ』のことを思い出した管理人であった。
 エドセルのこと、アメリカ人は憶えているのだろうか?  


 参考文献 
「世界百科事典」日立デジタル平凡社
「100人の20世紀」朝日新聞社
「カストロ 民族主義と社会主義の狭間で」宮本信生
「ゲバラ日記」エルネスト・ゲバラ
「冒険者カストロ」
「フィデル・カストロ カリブ海のアンチヒーロー」タッド・シュルツ
「アメリカ車の100年」二玄社  
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