2000.12.17より

<ハトラ遺跡とは?>
イラク北部,ワディ・タルタルの砂漠にあるパルティア帝国時代の都市遺跡。 発掘および復元は 1951年以来イラク考古総局によって行われている。 2重の円形城壁と堀によって防御され,5つの正門をもっていた。 都市の中央部には東面する長方形の広場があり,その奥に8つのドームをもつ宮神殿が構築されていた。 ほかに宮殿,十余の神殿,住宅,塔状の墓などが建てられていたが,主要な建造物は切り石積みの構造物であった。 城壁内のいたるところに池がうがたれ,飲料用の水をたくわえていた。 出土遺物として重要なものは石製の神像,人物像,金製装身具類などで,銘文はアラム語で刻まれていた。 これらの遺物は最初のアラブ人の文化,アッシリアの文化,ヘレニズム文化の奇妙な混交を示している。 85年世界遺産の文化遺産に登録。 <パルティア帝国とは?> Parthian Empire; Prt; Prtiy 古代イランの王国 (前 247〜後 226) 。 イラン北東部のパルティア地方にいたイラン系遊牧民パルニ族の族長アルサケスが,セレウコス朝から独立して建てた。 始祖の名を取ってアルサケス朝ともいわれ,中国の史書では「安息」と記される。 初期の都はニサにあったが,その後ヘカトンピロス,クテシフォンにおかれた。 前2世紀中頃,西はユーフラテス川から東はインド西部にいたる領域を占めた。 西方では政治・経済上重要な意味をもつアルメニアとメソポタミアの争奪をめぐって,ローマ帝国との間に平和と抗争の時代を繰返し,その軽装騎兵の機動力はよくローマの重装歩兵に対抗しえた。 しかし北方遊牧民の侵入,国内諸侯の反乱,王室の内紛が相次いで,226年ササン朝の攻撃を受けて滅亡した。 この王朝はアケメネス朝の中央集権的統治方式を用いたが,地方では土着諸侯の勢力が強く,地方分権的傾向がみられた。 主要財源は領内を通る東西交易物資に課せられた関税にあり,主として銀貨が用いられた。 宗教にはミトラ教,ゾロアスター教,キリスト教などがあり,仏教も伝わったと考えられる。 文化は前半期には当時都市を中心に浸透していたギリシア文化の影響を受け,多くの王が「ギリシア愛好者」の称号をつけたが,後半期に農耕的イラン人と混合するにつれて, 貨幣銘もギリシア文字に代ってアラム文字が用いられるなど全般にイラン的要素が復活し,それはササン朝時代に継承発展された。


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ハトラ遺跡