新春の悔恨――原発問題によせて

                                
本会常任世話人代表 望田幸男

 2012年の「新春の言葉」は、その多くが東日本大震災による福島原発事故によせて語られるであろう。そして、原発の空恐ろしさを強調し、返す刀で「原発安全神話」をふりまいてきた「原発共同体の輩」を厳しく指弾するであろう。たしかに、それは欠かせないポイントである。だが他方で「原発安全神話」にあざむかれてきた大多数の国民は、「なぜあざむかれたのか」と自問せざるをえないだろう。そしてまた、そのような自問は、日本の非核平和運動もまぬがれえないと思う。

 自分自身を振り返ってみても、核兵器廃絶や日米安保に反対する姿勢と運動にはそれなりにコミットしてきた。だが原発問題についてはそうではなかった。それに関しては「原子力の平和利用の三原則」として民主・自主・公開の堅持を叫び、また京都北辺の久美浜原発の設置に反対する運動に関心をよせ、あるいは時折の原発事故に注目するぐらいにとどまっていた感がある。戦後日本における資本主義の高度化とそれに対応した国家の支配との底深い関係から、原発問題を位置付けてとらえていなかった。このことは、私が自然科学的な問題になじんでいないということで片付けられない、と思う。
  
    
          
二つの新春――昨年と今年
 

                              常任世話人代表 望田幸男

 2010年の新春には、「一票一揆」=自民党政権の崩壊という体験を、いまださめやらぬ期待のなかで迎えた。だが、それから一年、古きものの衰えはたしかだと思われつつも、新しきものへの展望も見えてこない。こんなときに求められていることはなにか。

 二つのことが想い浮かぶ。第一は、今日明日どうするかだけでなく、子や孫のために、世の中のどういう新しい枠組みをつくり残さねばならないか、という根本的な応答を発することである。第二は、その応答を「国民の目線」を出発点にして描き語ることである。「国民の目線」は、「とりあえずの打開策」を追い求める。まず、これに答えねばならない。

 たとえば名護市に米軍再編交付金が停止されたなら、ただちに抗議行動を提起することだ。同時にそれだけでは、「本当の解決」にはならず、世の中の新しい枠組みをつくらねばならないこと、その新しい枠組みはどうしたらできるかを語らねばならない。

 こうした努力の積み重ねの彼方にしか、新しきものへの展望は開けない。「とりあえずの打開策」を機敏に打ち出すこと、「本当の解決」にむけての展望を雄弁に語ること、この両面をたくみに駆使できるようになること、こんな「宿題」をわが身に課しつつ、2011年の新春を迎えた。

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