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西村元政務次官の強姦発言と性の自己決定権

──差別の社会問題化におけるメディア・リテラシーの導入──

松村 比奈子

    目 次

1.はじめに・本論の目的と要旨
2.事件の経過
 @週刊プレイボーイ誌の対談記事
 A辞職までの経緯
3.問題の所在
 @西村発言と反論の要旨
 A記事の分析
4.平等原則と女性差別
 @女性差別の社会性
 A法の下の平等と女性差別
 B法の下の平等における平等権と平等原則
 C平等原則とアファーマティブ・アクション    
5.強姦罪規定における女性差別
 @強姦罪の由来
 A強姦罪規定の保護法益
 B夫婦間の強姦は成立しない
 C強姦罪の差別性と性の二重基準
6.性暴力としてのセクシュアル・ハラスメント
 @セクシュアル・ハラスメントの定義
 A西村発言とセクシュアル・ハラスメント
7.女性の人権─性の自己決定権という視点から言えること
 @性の自己決定権とは何か
 A自己決定論理の新しさ
 B自己決定権は自己のものだから決定権があるのではない
8.平等原則に求められていること・求められるべきこと
 @社会権と平等権の類似性─自由権では補完し得ないこと
 A自己決定権は平等原則を補完する
9.平等権としての自己決定権
10.おわりに・差別の社会問題化とメディア・リテラシー
【脚註】


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1.はじめに・本論の目的と要旨

 憲法は法律ではない。という場合、法律の制定・改正は唯一の立法機関としての国会で、国会議員の多数決によって決まるのであるから、国民の理解は必ずしも不可欠ではない。しかし憲法は国民投票によってのみ改正されるが故に、憲法解釈には国民の理解が不可欠である。
とすれば、現在、国民が憲法をどう理解しているかに関し、メディアの話題から論点を起こすことも有意義と思われる。憲法論は高級井戸端会議であることも念頭に置き、メディアの話題を分析してみようというのが本論の動機である。
 昨秋、防衛問題を強姦に例えた発言を雑誌に公表し、一政務次官が更迭された。その発言が性差別を助長し、憲法に保障される法の下の平等を否定したという非難を浴び、また憲法九九条における公務員の憲法遵守義務に違反したという趣旨である。とはいえ、その発言の何が差別を助長するかに関して、著名な新聞上に識者のコメントはなかった。その発言が性差別であり、また差別を助長するものであることは、憲法上の平等原則以上に社会的に許されないことが明白というわけなのであろうか。
 しかしながら、新聞紙上の反応を追っていくと、明白であるはずの性差別があまり浮き上がってこない。むしろ「強姦」という表現に対するある種の言葉狩りとして、この問題は処理されたように見える。だが、この構造こそ、実は性差別が断ちがたい差別として存在することを明らかにする。これは憲法の人権論内部に潜む矛盾を同時に明らかにする。
 考察を進めるにあたり、この問題提起の限界を示しておかなければならない。第一に、西村元政務次官の更迭の原因が、強姦発言か否かの考察はない。すなわち、強姦発言が国会に与えた衝撃の政治性については分析対象としない。基本はあくまで憲法に関わる論理の考察である。第二に、私が論述するメディアの反応は、特定の新聞報道にその根拠を負う。にもかかわらず、メディアの視点や報道姿勢における偏向性を問題としない。報道の偏向性を問題にすれば、必然的に「正しい」報道のあり方を論証しなければならず、本論の目的から遠ざかる。また偏向の中にも一定の理論はあり、その理論のあり様が考察の対象と考えるからである。
 以上から、いわば砂上の楼閣を前提としてこの報告は成り立つが、その意義を次のように考える。憲法問題について、メディアや人々の反応における疑問や矛盾は、憲法論と無関係ではあり得ない。なおかつ、一方的にメディアにより歪曲される憲法諸問題が、国民意識と学問との乖離を示すなら、その乖離の中に、学問としての自己撞着を発見し修正する方法が隠されているのではなかろうか。憲法の論理ならば、どこでどのように行われようと、基本的には同じであり、また同じでなければならないと思うからである。また憲法論が学問として象牙の塔にこもる限り、憲法は依然として不磨の大典であり、民主主義を経験することも保障することもできない。国民の意思に左右されるべき憲法だからこそ、メディアの現象にも目を向けて分析することが憲法理解に重要であろう。
 ところで、この事件の考察を通して、私はある興味深いことを発見した。女性が差別される原因は、生物学的な意味での「女性」と直接には関係しないということである。西村元政務次官の強姦発言(以下西村発言)とその反応における分析から、少なくとも次のことが言える。つまり、女性が差別されるとすれば、それは社会における人一般を「社会的強者=自律した個人」と「社会的弱者=自律し得ない個人」に二分する視点において、女性が後者のカテゴリーに入れられるからである。
 ここで女性が実際に弱者であるかどうかを論証する必要はない。西村発言では、女性は男性に比して社会的弱者であるということを、ひとまず無条件に前提していることが理解される。
 そしてこれは、社会的弱者への対応をどう捉えるかといった、現代国家に特有の難題を示す。近代市民革命において生成・発展した人権理論は、自律した個人を国家の単位とし、またそれを資格として保障を約束してきた。それ故、一定の条件により自律しないと見なされた個人は、当然に人権を制限されてきた。つまり人権保障の歴史というのは、保障に値する「人間=自律する個人」のカテゴリーを巡る闘争の歴史でもある。労働者然り、有色人種然り、犯罪者、病人然りである。しかも人権の制限された彼らを管理・支配するのは、自律した個人とそれを代表する国家とされる。
 人間の自由・平等保障の基礎として生成したはずの人権理論において、なにゆえ強者は弱者を当然に支配できるのか、またその支配の領域と正当性の根拠はどこにあるのか。そのような問いを立て、私はこれを考察した。したがってこの考察は、障害者、老人、未成年等の権利考察にも同様に対応できると思う。社会関係を考えるとき、男性が何故無条件に強者であり、女性が弱者とされるのか、それ自体の詳細な考察は別に譲るが、前述の問いに対して、私は次のことを推論する。
 人権は国家を成立・維持する単位として存立する個人に保障される権利である。ところで社会は国家と同義ではない。社会的諸関係において様々に位置づけられ存在する個人に対し、国家は基本的に一つのカテゴリーしか提供してこなかった。それが自律した個人すなわち国家の認める「人間」である。この人権意識が半ば自動的に社会の多様な人々を分断し、特定の人々を不可視にし、支配・被支配の階級秩序を構成してきた。人権は平等に保障されるべきであるし、また実際にそうあるとしても、誰が「人間」あるいはより「人間」なのかという選別が行われる限り、全ての個人に人権が保障されたとはいえないであろう。性差別、より正確に女性差別は、このような選別において、今日でもなお女性が自律した個人の周辺に存在するとして扱われるが故に維持される。しかしそこに論理的正当性はあるのだろうか。そもそも、女性の権利保障が何故問題にされるのか。その回答の一つとして、性の自己決定権が主張されているのではないかと考える。
 性差別の論理矛盾を考察するにあたっては、差別と平等の関係についても整理しなければならない。詳細は後述するが、ここでは以下のことを問題意識とした。
 憲法一四条における法の下の平等は何を要請しているかについて、それは実質的平等であるとの見方が今日有力とされる。しかしながら実質的平等は、むしろ実質の内容が計量的・固定的でないために明確化できず、必然的に人権の自由な行使を抑制する。しかも実質的平等は客観的原則としては作用するが、請求権としては作用しない。つまり個人の側からは、非合理的差別の解消は要求できるが、実質的平等の実現を要求することはできない。何故それが問題かと言えば、非合理的差別の解消は、実質的平等の実現を直接には招かないからである。(註1)
 そこで、実質的平等を請求する権利として自己決定権が提唱される。自己決定権が従来の人権と違うのは、人権の中核とされる自己決定そのものを権利として要求するからである。しかも当人に自己決定能力すなわち自律性の有無を問わない。より明確には、他者の決定を排除するという消極的な意味での自己決定が保障される。
 性の自己決定権を代表とする自己決定権が確保するのは、「自律しない個人」の権利である。自律した個人のみが享受できる人権を、自律しない個人も享受できることの正当性を、この権利概念は確立するのではないかと考える。


2.事件の経過

 @週刊プレイボーイ誌の対談記事

 西村元政務次官が辞任することになった原因は、週刊プレイボーイ誌平成11年11月2日号の対談記事の発言に始まる。解釈はいろいろあろうかと思われるが、新聞記事のみを基に考察を進めていくならば、週刊誌上の、決して本旨とは言い難い一部の発言に、これほど徹底的に注目し追求した議員及びメディアの精力的な活動に感心せざるを得ない。何を目的にメディアがこれを社会問題化しようとしたのか、その動機は別におくとしても、ここに問題意識を発見したメディアの反応は、確かに、今日の平等観念の矛盾を確実に捉えている。女性差別に関する発言は、以下の部分であろう。すなわち、プレイボーイ誌の231頁下段にある「そうそう。柔らかい乗り物(女)には乗れませんけど、…」という箇所と、233頁後半部分「個人的見解としてね。核とは「抑止力」なんですよ。強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。けど、罰の抑止力があるからそうならない。…」「…社民党の(集団的自衛権に反対を唱える)女性議員に言うてやった。「お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ」と。」、さらに「例えば、集団的自衛権は「強姦されてる女を男が助ける」という原理ですわ。同じようにいえば、征服とは「その国の男を排除し、征服した国の女を強姦し、自分の子供を生ませる」ということです。逆に、国防とは「我々の愛すべき大和撫子(なでしこ)が他国の男に強姦されることを防ぐこと」…。」である。


 A辞職までの経緯

 メディアの批判と追及は素早かった。例えば朝日新聞では、平成11年10月20日に社説で防衛問題及び強姦発言を批判し、連日のように反響と議員の動きを伝えている。その攻撃の影響を受け、同日夕方までに西村政務次官は辞任し、22日は小渕恵三首相が新聞などのインタビューで陳謝を表明する。しかしこの反響は、延々と11月まで読者の声欄などに非難の文書として多数寄せられ、記載された。


3.問題の所在

 @西村発言と反論の要旨

 朝日新聞における西村発言とそれに対する政界での反応は、平成11年10月22日付朝日新聞(朝刊)によると、「女性の怒り、党派超える・西村真悟前防衛次官の『強姦』発言」という見出しで、以下の通りである。強姦発言における問題は三点に集約されている。

 週刊誌での核武装をめぐる発言で辞任した西村真悟前防衛政務次官に対して、女性の国会議員らの間に反発が高まっている。西村氏が「強姦(ごうかん)しても何も罰せられんのやったらオレらみんな強姦魔になってる」などと、再三にわたって強姦を例にあげながら安全保障問題を語ったことから、女性差別の点でも問題化している。
民主、社民両党の女性議員らは二十一日、それぞれ首相官邸で青木幹雄官房長官に抗議し、「西村氏の辞任で済む話ではない」(清水澄子社民党副党首)などと政府の対応をただした。小渕恵三首相は臨時国会で見解を示す方針を明らかにしたが、与党内でも女性議員らの批判が広がっている。

 清水氏「西村氏の発言は女性べっ視だ。セクハラ(性的いやがらせ)問題について、首相も官房長官も発言しないのはなぜか」
 青木氏「論外なので、ふれなかった」
 清水氏「首相は男女共同参画推進本部長、官房長官は担当大臣だ。発言しないと女性への侮辱を容認したことになる」
 清水氏ら社民党議員は二十一日、青木氏に政府の見解を示すよう迫った。民主党もネクストキャビネット(影の内閣)の「男女共同参画・人権・総務」担当大臣の千葉景子氏らが青木氏を訪ね、「人権感覚の欠如、女性べっ視の不適切極まりない発言に強い憤りを禁じえない」などと抗議した。
 青木氏は記者会見で、「首相とも相談し、正式な場で問題に対する首相の見解をはっきりさせたい」と表明。千葉氏らに対しても「臨時国会の冒頭あたりで、首相が本会議場で見解をきちんと話す機会を設けたい」と理解を求めた。共産党も、吉川春子党参院国対副委員長が二十一日、参院議院運営委員会の理事会に出席した青木氏に対し、「辞任ですまされない」などと抗議した。
 こうした野党の女性議員らの抗議には、臨時国会に向けた自自公政権との対決の構図が背景にあるものの、それを超えた反発も強い。男女共同参画社会基本法が六月に施行されたばかりということもあり、今回の西村氏の発言に「女性に対する暴力をいかになくすかに、国会も政府も取り組んでいることを知らないのか」(吉川氏)との憤りが強いようだ。
 超党派の女性議員二十五人が二十日、首相に対して「女性議員に対するセクシュアル・ハラスメントともとれる発言で、国会議員にあるまじき行為」などとした抗議文を提出した際には、自民党の森山真弓元官房長官も名を連ねた。自民党のある女性議員は「党からコメントを控えるように言われている」としながらも、「西村発言は論外」と語っている。
【西村発言をめぐる論点】
<発言のポイント>
 核とは「抑止力」なんですよ。強姦(ごうかん)してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。罰の抑止力があるからそうならない。
<女性議員らの主張>
 論理的に支離滅裂であるばかりでなく、男女平等についての無理解と女性へのべっ視、人権感覚の欠如があり、男女共同参画社会実現に冷や水を浴びせた。
<発言のポイント>
 集団的自衛権は「強姦されてる女を男が助ける」という原理ですわ。社民党の(集団的自衛権に反対を唱える)女性議員に言うてやった。「お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ」と。
<女性議員らの主張>
 強姦された女性を救済するかどうか、その女性の考え方により扱いに差異を設けることは、強姦された女性の落ち度を問題にしており、強姦されても仕方がないという論理につながる。
<発言のポイント>
 征服とは「その国の男を排除し、征服した国の女を強姦し、自分の子供を生ませる」ということ。逆に、国防とは「我々の愛すべき大和撫子(なでしこ)が他国の男に強姦されることを防ぐこと」。
<女性議員らの主張>
 強姦は女性の人権侵害であるということを無視した、セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)にとどまらない、全女性に対する性差別発言である。


 A記事の分析

 西村発言に対する公開の場での反論は、これ以外には見あたらない。といって、同記事が西村発言の問題の核心を明確にしたとは言い難い。
 朝日新聞では、西村発言に対する記事の主張は以下の問題点に集約される。複数の投書紹介によって、まず強姦を防衛に「例えたことが」慎みのない発言であり、あきれるほど下品、女を馬鹿にする下品で無教養な人という非難を強調し、西村発言を断罪する。それに呼応するように、記事の主文も、強姦の「例え」が、やがて強姦という「言葉」を発したのが良くないという論調に変わっていく。23日の記事では、「『西村氏の比ゆ、極めて不適切』女性べっ視で小渕首相」という見出しがあり、小渕首相は22日に朝日新聞などのインタビューで、「『強姦(ごうかん)』という言葉を再三使って安全保障について語ったこと」について、「『たとえとしても論外の表現。極めて不適切だ。』と述べ、『改めて国民の皆さんに深くおわび申し上げる』と陳謝した。」と記述する。
 しかしながら、「強姦」という「言葉」が何故不適切なのだろうか。国民はその陳謝で何を納得すべきなのだろうか。西村氏の文脈から問題とされるべきは、一方で強姦を不可避的犯罪として容認しながら、それを国防の意義と関連づけたことにあり、「強姦」という言葉の品性に関わる問題ではない。
 なおかつ、次のことが言える。強姦を国防の隠喩として使う手法は一般には右翼の常套手段といわれる。(註2)しかし右翼だけではない。リベラル派を自認する評論家においても、国防とレイプは関連づけられて論述される。(註3)ここで理解されるのは、国防と強姦というテーマ自体は必ずしも不適切な比喩ではなく、少なくとも、小淵首相の言うような論外の比較とは見なされていないということである。
 ならば、朝日新聞の記述から何を考察すべきだろうか。これに関して、次の事実が指摘される。河原理子氏によれば、かつて朝日新聞には、強姦という表現を使わないという内規があり、レイプという代替表現を使うことがあったという。(註4)理由は、「新聞の品位を保つため、からかい、あざけりの言葉は使わない。隠語や不快感を与える言葉も使わない。」とのことである。その例として、「町のダニ」「しらみつぶし」「ケツをまくる」等と共に「強姦」が並べてあったという。しかし強姦をレイプや暴行と言い換えることで、抑制される不快感とは何だろうか。例えば殺人もまた読者には充分に不快であるが、言い換えはない。読者に不快感を与えるという理由で、何が隠蔽され、誰が利益を被るのか。かつて強姦が「暴行」、強制わいせつが「いたずら」と言い換えられていたように、男性から女性への暴力を明確な表現で正面から伝えてこなかったメディアの態度は、今日でも少なからず維持されている。
 ところで、この発言に対して女性議員らが挙げた反論は、(1)女性蔑視をもたらす性差別発言であること、(2)セクシュアル・ハラスメントであること、(3)女性の人権侵害であること、(4)特に性的自由の侵害であること、と思われる。その論理について以下に簡略に推論する。そしてそれらの推論を、次章以下で詳細に検討していきたい。
 第一に、女性べっ視をもたらす性差別発言であるとの反論について。その批判を浴びたのは、西村発言中の「核とは「抑止力」なんですよ。強姦(ごうかん)してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。罰の抑止力があるからそうならない。」という箇所である。西村氏は、少なくとも積極的には強姦そのものを肯定してはいないが、「罰せられなかったらオレらみんな強姦魔になる」という発言で、強姦を不可避な犯罪として容認していることがわかる。西村発言のこの理論はいかなる根拠から発せられるのか。それは従来、男女の性関係において、「男はそれを我慢できない」という男の性欲の盲目的攻撃性が容認されることを前提に、加害者の男性は性欲から強姦をすると信じられてきたことによる。このような強姦神話は今日では様々な方面から否定され、加害者の男性は性欲から強姦をするのではなく、権力支配の誇示のために強姦することが明らかになってきているという。(註5)
 それゆえ強姦は一種の思想的犯罪ということができる。単に性欲の相手としてではなく、女性一般を権力支配の道具と見なす思想によって、強姦は実行される。従ってこの発言は、性差別を助長する発言でもあり、性役割強要型セクシュアル・ハラスメントの典型とも言える。(註6)
 第二に、セクシュアル・ハラスメントであるという非難について。セクシュアル・ハラスメントとは、「公的領域の人間関係を背景にして起こるセクシュアリティに対する侵害」である。(註7)近代社会は、労働に代表される公的領域において、セクシュアリティを含む私的感情の表出を禁ずる規範を発達させた。ここでいう公的領域は職場に限定されない。公的領域の人間関係を背景にしているならば、強姦や性暴力をも包含する広い概念である。西村発言では、「社民党の(集団的自衛権に反対を唱える)女性議員に言うてやった。『お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ』と。」が、それに該当する。社民党の女性議員が何をどう言おうと、それが強姦に値すると暗に示すような言動は、明らかに威嚇を意図したセクシュアル・ハラスメントである。相手はそう言われることによって、自らの言動を抑制せざるを得ない雰囲気に追い込まれる。
 第三に、女性の人権侵害について。女性の人権という表現自体が矛盾をはらむように感じられるが、そこには、女性がすなわち人一般と見なされていないという主張を見落とすことはできない。(註8)プレイ・ボーイ誌上で、民族主義者を自認する西村氏が、民族国家の価値観を説くとき、そこに女性の視点はない。西村氏が「征服とは『その国の男を排除し、征服した国の女を強姦し、自分の子供を生ませる』ということ。逆に、国防とは『我々の愛すべき大和撫子(なでしこ)が他国の男に強姦されることを防ぐこと』。」と言うとき、征服も国防も女性の問題ではないと主張するのと同義である。女性がいかにして他国の女性を強姦することができるのか、さらに我々の「愛すべき大和撫子」とやらは、全ての女性を無条件に含むのか、含むとすれば、女性が自らを強姦から防ぐことと国防の間に、どういう関連があるかという視点が欠落している。また、民族の女性は全て民族の男性のものであり、女性は「男性の子」作り装置として機能するという前提が見られる。その逆は想定されない。(註9)さらに、この明らかに支配・被支配の関係にある性分業・制役割固定を前提とする、男性主体の視点を国民の視点として一般化することは、自国も他国も、男性国民が判断の主体であると主張していることになり、必然的に女性を「非国民」扱いする。男性と対等の主体とみなさない態度が、女性の人権に対する感覚の欠如として非難されるのである。
 第四に、性的自由の侵害について。女性の人権の中核でもある性的自由の主張は、性差別からの解放として生み出された。社会においては、一般に男性の攻撃性と女性の受動性を性関係における正常な形態と見る規範が存在する。(註10)その規範の中で、性関係は男性からのみ提案できるのであるから、男性は強姦(一つの提案洋式)もする存在として容認され、対する女性は強姦されるか否かという選択肢しか与えられない。「『お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ』と。」という西村発言は、そもそも男性の意見に従わない女性には性的自由を認めないという論理によって、性的自由が女性にとっては人権ではなく、男性の判断によって取捨される権利であるという結論を導く。性的自由は男性にのみ通用する権利というわけである。これに対するアンチ・テーゼとして主張されるのが性的自由の権利、すなわち性の自己決定権である。性の自己決定権は、「男性」という領域以外の人々にも性的言動の自由があることを論理として内包する。与えられた選択肢以外のものを提案する権利を男性と同様に認めるべきだとの主張である。
 以上の西村発言の分析によって、次のことは明白である。第一に、西村発言は女性差別を助長する。第二に、西村発言はセクシュアル・ハラスメントである。第三に、西村発言は、性の自己決定が男性にあることを主張する。これらの点から、以下において、男女平等の問題点、セクシュアル・ハラスメントの定義、性の自己決定権という概念を考察し、憲法の人権規定の問題点を追及していきたい。


4.平等原則と女性差別

 @女性差別の社会性

 さて、西村発言での憲法上の問題は、強姦に関わる発言が女性差別を助長するか否かである。政治家が、どのような意見にせよ、自己の信条を述べたことで更迭される妥当性は、別に考察されなければならないと思うが、ここでは、強姦に言及したことが女性差別の助長を意図し、ひいては性差別支持者と推測される構図について考察してみたい。メディアおよび世論の反応で最も多かったのが、この女性差別を助長するという非難であった。
 さしあたり、女性差別があるという前提で論を進めようと思う。女性差別があるということは、差別であるが故にあってはならない状態という意味でもある。強姦の存在を肯定し、それを国防の比喩として利用することの、何があってはならないことなのか。そして理想的な性の平等とは、どのような状態を指すのであろうか。また現実に、男女平等の実践により先進的と印象づけられるアメリカや北欧諸国は、日本にはない何があることによって、より平等に近いと思われるのであろうか?性差別の国際比較については、これもまた別に膨大な資料と分析を要するのでここでは追求しないが、一つ漠然と言えるのは、それらの国では、差別が個人的なものではなく構造的なものであることを早くから看過して、ある種の合理的差別すなわちアファーマテイブ・アクションを、制度としてかなり積極的に導入しているということである。また、そうであるなら、それほどに性差別は根が深い問題なのだといえるかも知れない。つまり合理的差別を積極的に行わないと、自動的に差別化される構造だということである。


 A法の下の平等と女性差別

 女性差別は、まず現行憲法の規定によって禁止される。第14条1項において、「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と定める。条文解釈において、前段にいう法とは、例えば佐藤功氏によれば、「国会の議決によって成立する形式的意味の法律に限られず、すべての実質的意味の法を意味する」とする。つまり成文法のみならず判例法・慣習法も含まれる。ゆえに性別によって人を差別する慣習法も違反の対象になるという。(註11)そして法適用の平等のみならず、法内容の平等をも指すとする。なぜなら、不平等な内容の法をいくら平等に適用しても、平等に扱うことにはならないからである。これを立法者非拘束説という。また平等の意味については、相対的・実質的平等であるとされ、絶対的平等は否定されるのであるから、合理的差別は差別ではなく平等として許容される範疇にある。
 後段の列挙について、列挙事由に他の事由とは異なる特別の意味を付与する見解が有力視される。その場合には、列挙事由は推定違憲の立場で、合憲のための特別の正当化が権力側に課せられるとされる。これに対し、列挙事由に特別の意味を付与しない学説もあり、その根拠として、列挙事由であることのみを理由に判断することの合理性がないことを挙げる。いずれにせよ、性差別の禁止については明記されているので、基本的には平等であることが求められる事由といえる。また労働は、経済手段として直接生活に影響を与えるため、別個に男女雇用機会均等法が制定・改正されている。
 さらに24条では、婚姻と家族生活について、個人の尊厳と両性の本質的平等の原則を認める。すなわち、「(第1項)婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」。
 婚姻が、両性の合意に基づくと明言されたおかげで、家族の基本は夫婦が中心になったといわれる。これは従来の家制度において、戸主や親の同意が必要とされ、夫の妻に対する優越性が否定されたことを意味する。ただし両性の合意のみに基づくというくだりは、それが結婚の理由として重視されるということであって、合意があれば即婚姻関係とみなされるわけではない。また、「(第2項)配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とあるので、民法では婚姻適齢に対する制限や未成年者の両親による同意や、届け出による法律婚としての成立・解消も明記する。この中で、婚姻適齢や再婚禁止期間の男女差については、性差別であるとの批判もある。ともあれ、両性の合意が重要な成立要件とされることは、男女が共に個人として尊重されるべきである以上、人権保障の自由権的側面から見て当然といえる。
 しかしながら、例えば24条にいうところの、両性の本質的平等とは、実際にはどういう現実として現れるのか。法の下の平等に関する判例はきわめて多いとされるが、性差別に関わるものとして重要な判例を三つ挙げる。第一に、住友セメント事件での、東京地裁の昭和41年12月20日判決である。女子職員が結婚した場合には、退職することを労働協約や就業規則などで定めた結婚退職制は、民法90条に対し違法・無効であるとした。そこでは、両性の本質的平等を実現するため、国家と国民の関係だけでなく、国民相互間の関係においても、性別を理由に合理性のない差別待遇を禁止することは法の根本原理であるとして、憲法14条と共に民法1条、労働基準法条の趣旨を説明する。
 第二に、昭和56年3月24日の最高裁判決によって、民法90条により違法・無効の判決が下された日産自動車事件がある。男女の定年を5歳差とした就業規則が、民法90条に違反するかどうかが争われた事件で、判決は性別のみによる不合理な差別とみなした。そこに憲法14条1項が参照条文としてカッコ書きで示されている。
 第三は、平成7年12月5日最高裁判決の、再婚禁止期間訴訟事件である。これは民法7条において、離婚の際、女性にのみ再婚禁止期間を設けたことに対する差別の合理性を争った事件であるが、判決では、父性の推定の重複を回避し、父子関係を巡る紛争の発生を未然に防ぐ合理的差別であるとした。とはいえ、現在の医学技術で父性の確定は容易であり、待婚期間の長さからみても合理性は疑わしいという批判も少なくない。(註12)
 また、強姦罪規定の男女平等性も疑問視され、裁判で争われたが、昭和28年6月24日、最高裁大法廷判決は、「(男女間における)かかる事実的差異に基づく婦女のみの不均等な保護が一般社会的、道徳的観念上合理的なものであることも多言を要しない」として容認されるべき合理的差別という判定を下している。(註13)強姦罪規定が男女の性的自由を平等に保護するものはないことに疑いはないが、しかし婦女のみを保護することで、男性が得るべき法的保護を侵害されるといえるだろうか。むしろこの規定ゆえに、女子の性的自由が男性よりも狭められている可能性がある。その考察については、別章として強姦罪の差別性で述べる。


 B法の下の平等における平等権と平等原則

 「法の下の平等」の性格については、それを、国政の指針と定めた客観的な法原則であると同時に、「平等に取り扱われる権利」ないし「差別されない権利」という個人の主観的権利を保障するとみるのが、通説である。(註14)平等とは平等原則か平等権かという論議は、古くて新しい問題でもある。憲法一四条は、個人の側からは平等権の保障を、国家の側からは権力を規制する平等原則として、二つの側面を持つと理解されてきた。
 しかし平等権が他の人権と異なる性質を持つことから、その法的性格は、自由権、社会権等の実体的権利ではなく、平等原則であるという見解もある。(註15)逆に平等権と平等原則を区別せず、平等権と見なす立場も主張されるようになってきた。(註16)この主張は、平等が他者との関係性の問題であり、不合理な差別を受けていれば、それだけで出訴できるとする。
 しかし両者いずれにおいても問題がある。今日では、平等権には自由権的側面と社会権的側面があることは否定できない。平等を保障するために、国家は差別しないという自由権的保障に加えて、事実上の平等を保障するために、積極的に政策を展開していくことが要請されている。「同じような状態にある者は、国家により同じように扱われなければならない」(註17)とするならば、平等原則は、不合理な差別を受けない権利としての平等権と同義に捉えて問題はない。しかし国家が、社会権的保障を何も行わない場合、積極的政策の展開を求めることは前者の平等原則の概念からはもちろん、後者の平等権概念においても、できない。
 現代国家においては、自由と平等は相互補完的な概念として理解される。自由主義社会の弊害を既に経験した先進主義諸国では、行政国家という理念によって、平等権の保障が国家の義務という視点から積極的に政策として進められている。もはや、実質的平等が健全な民主主義社会には不可欠であり、14条の規定が実質的平等の実現を含むことは明かである。しかし法的には、あくまで差別等な取り扱いを拒否するのが平等権であって、実質的平等の判断は政策的な範疇におかれており、国民にはそれを選択する受動的な権利としてのみ保障されると解されている。
 もし国家が積極的政策を行わない場合、差別が存在することになるが、「差別が存在すること自体、差別される者にとっては苦痛」である。(註18)何故なら差別の存在は、被差別者に劣等の烙印を押しつけるからである。従ってその解決のためには「平等の権利を独自の権利として構成する必要がある。平等を原則とすることは、平等を他の権利に対して副次的なものとみるからである。」(註19)
 この点から、新たな平等権概念の構築が要請されているのではなかろうか。平等権が、他の自由権とは異なり個別的人権として捉えられないと指摘されるからといって、人権がおしなべて個別的人権でなければならないという理由はない。(註20)人権は歴史的要請により拡充されてきたものである。新しい平等権概念を人権カタログに加えることに、歴史的制約はない。


 C平等原則とアファーマティブ・アクション

 平等思想の起源は、古代ギリシア思想にまで遡る。特にアリストテレスの思想は、今日の平等原則に大きな影響を持つとされる。アリストテレスは、正義を一般的正義と特殊的正義に分類し、この特殊的正義をさらに配分的正義と平均的正義に分類する。配分的正義では、各人の価値に応じた「比例的平等」が要求されるのに対して、平均的正義では、各人の価値を考慮せず平等に扱う「算術的平等」が要求されると説く。前者の比例的平等の概念は、今日の平等原則に多大な影響を及ぼすとされている。(註21)
 近代における平等原則は、一切の差別を否定する形式的・平均的平等として説かれるところに特色があった。しかし夜警国家観に基づく平等原則は、資本主義社会内部の矛盾の増大により、個人間の実質的公平を維持するため、まず経済生活の分野で改変を迫られた。今日では、国家の操作を排除するための機械的・形式的平等原理(自由権的平等=機会の平等)と、各人の事情に考慮した実質的平等原理(社会権的平等=結果の平等)とのバランスが重要とされ、それらの実現においては、国家の積極的な施策が要請されている。
 この両者の調整作用として、アファーマティブ・アクションが論じられる。アファーマティブ・アクションは、「歴史上差別的取扱いの理由として用いられてきた特性(黒人、女性など)そのものを考慮することによって、雇用や入学の機会を平等化するための公的または私的施策をいう」と定義される。(註22)アメリカでは、1964年の雇用機会均等法(公民権法第七章)、1965年の行政命令以後、少数者や女性に対して平等の機会を保障するだけでなく、雇用や教育においても実質的平等を実現するための積極的な政策として、アファーマティブ・アクションが実施されてきた。しかし少数者に対する優先的処遇は、結果的に多数派が差別を受けることにつながるため、逆差別という視点から、特に白人男性によって、異議申し立てがなされてきた。例えば、1978年のカリフォルニア州立医学学校対バッキー事件がそうである。これは、定員100名のうち、16名がマイノリティーに割り当てられている医学学校の入学試験において、試験に落ちた白人男性が、平等保護条項に反すると争った事件であるという。(註23)また、技術者確保におけるアファーマティブ・アクション計画によって、工場内で働きながら技術者になる訓練コースに参加できなかった白人男性が、計画は雇用機会均等法に反すると提訴した。(註24)後者について連邦最高裁は、雇用機会均等法は、アメリカ社会における黒人差別を撤廃するために、人種を意識して行うアファーマティブ・アクションを禁止するものではないと判断している。(註25)
 しかしながら、アファーマティブ・アクションがこれまでの少数者差別を是正するとしても、具体的に不利益を被る個人は、必ずしも差別に荷担していたわけではないので、やはり逆差別につながるとも言える。しかし、これについては、以下のような論理が肯定され、定着しつつあるという。すなわち、「黒人が米国社会のあらゆる場に平等に参加していくことには、強い社会的利益が存在するから、たとえ白人に対して損害をもたらすとしても、国はこの利益をすすめるために黒人を優先的に取り扱うことができる」と。(註26)
 女性についても同様のことが言えるであろう。元アメリカ広報局広報官のスーザン・スターンは、男女平等の推進において、最も有効だったのは、行政命令によるアファーマティブ・アクションだったと語っている。(註27)世界的規模では、1979年、国連総会本会議において、女性差別撤廃条約が成立し、不平等が存在する場合には、締約国が「暫定的な特別措置をとること」を認めたが(4条1項)、これがアファーマティブ・アクションである。日本も1985年に批准したこの条約は、今日、女性差別撤廃委員会の一般的勧告第五(1988年)や、経済社会理事会によって採択された「ナイロビ将来戦略第一回見直し勧告」(1990年)の第4・6勧告が、締約国に対し、この措置をもっと利用して男女平等を促進するよう要請している。(註28)この措置の日本への導入は、「新国内行動計画(第1次改定)」による、1995年までに「審議会委員の15パーセントを女性に」という政策のみである。(註29)日本政府代表は、「雇用や政治に関して割り当て制度はない。雇用における男女平等の機会を阻害しているのは、女性の能力や役割をステレオタイプとしてみる意識と、女性によって担われている重い家庭責任である。」として、「政府にアファーマティブ・アクション計画はない」と答えている。
 前項で述べたように、もし国家が積極的政策を行わない場合、差別が存在するならば、その解決のためには平等の権利を独自の権利として構成する必要があることになる。アファーマティブ・アクションを促す平等権の新しい概念とは、どのような論理が妥当であろうか。


5.強姦罪規定における女性差別

 @強姦罪の由来

 アメリカでは、強姦罪というのは財産犯として考えられてきたという。妻、娘は夫又は父の財産であり、その財産侵害が強姦罪の由来とされる。70年代以降になって、それは女性の権利侵害であり所有者の権利侵害ではないと主張したのが、女性運動の始まりである。日本の刑法においても、強姦罪の保護法益は貞操ともいわれる。それについて、角田由紀子氏は次のように言う。「私は、強姦罪の保護法益を貞操と考える発想は、女性を誰かの所有物と考えることの反映ではないかと思っています。つまり、貞操ということは、女性の性とか心とか身体が、その女性自身のものではなく、本来の所有者として、夫とか父とか、あるいは将来の夫候補というものが想定されていたのです。女性はそういう男性から、自分の身体、心、性といったものを、将来その人たちが利用するために、いわば「預かり保管」しているという考えに立っています。その預かり保管中のものを、本来の所有者、権利行使を許されている人から権利のない強奪者が奪うものと考えるから、貞操を保護法益として考えているのではないかと思います。例えば日本の強姦罪で、被害者に非常に強い「抵抗」を要求するという点も、その「保管者」としては、所有者への義務を尽くしたかどうかというところが見られているからではないかと思います。」(註30)
 最近になって、強姦の保護法益は「性的自由」であるという考え方が出てきているが、判例を概観する限り、その主張と判例の法理には今なお大きな矛盾がある。


 A強姦罪規定の保護法益

 強姦罪が婦女のみを保護する妥当性は、昭和28年の強姦罪違憲訴訟で争われた。判決は、それを合理的差別として退けたが、合理的差別か否かはともかく、強姦罪は婦女を保護するといえるかという疑問が提示されている。今日では、むしろ強姦罪における女性差別を問う主張も多い。強姦罪は何を保護していると考えるべきであろうか。
 犯罪学の視点では、刑法を応報刑ではなく教育刑の側面から重視する。そこでは、「生まれつきの悪人はいない」という性善説に立って弁護がなされ、処罰される。犯罪が学習の成果なら、矯正・反省も学習可能だからである。処罰によって犯罪者が矯正されるのならば、強姦は、どのような学習の成果であろうか。矯正・反省が学習可能ならば、西村発言のように、罰せられないなら男は皆強姦魔になるという論理は誤りである。法は、本能を処罰できないからである。
 そこで、西村発言について検討する。ここでは二点の考慮が必要である。第一に、女性議員への個人攻撃であるが、攻撃された議員がたまたま女性であるために、女性蔑視と拡大解釈されたとの反論が予想される。第二に、たまたま強姦を国防の比喩として利用しただけであり、通常の暴行でも窃盗でも解釈可能であったとする偶然性を指摘する主張である。前者には、まず個人のセクシュアリティを公で批判する問題性を、セクシュアル・ハラスメントの項目で指摘し、後者には、強姦という行為の犯罪に占める特殊性と、軍事行動との共通性を指摘しなければならない。比喩の対象が強姦ではなく強盗事件であったなら、ここまで非難されはしないという主張(註31)は、ある意味で正しいが、別の意味で誤りである。強盗事件を比喩にすれば性差別と非難はされなかったが、軍事行動が通常の暴力と異なるという主張が強調できない。強姦犯人と闘うことは、強盗犯人の場合とは比較にならないほど英雄視される。それは、単に個人の財を守ったということ以上の意味を付与される。母国という言葉に代表されるように、女性性は抽象的な国家というイメージと簡単に同調する。強姦犯人と戦うという構図がそのまま母性、さらに母国を守るために兵士として戦うという、戦時中のプロパガンダと同様の幻想をもたらすが故に、強姦は国防の巧妙な暗喩となり得るのである。(註32)
 このような強姦罪の特異性を理解するには、まず強姦罪の法的解釈への接近が必須である。強姦罪は、刑法第22章にある。刑法177条において、「暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、2年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。」という規定である。
 担当する憲法の講義の中で、私はこの問題に触れ、学生に次のような質問をしたことがある。それは「強姦とは、何を侵害しているか。類似の犯罪をあげよ。」であった。強姦罪の保護法益は、まず条文の位置づけによって推測される。殆どの学生は、現実には松田区別領域にあるにも拘わらず、暴行罪と傷害罪に類似するとして両者の中間ないしは前後に置かれた規定と判断した。さらに、強姦罪と同章内における他の犯罪との関連性、また前後の章における犯罪との関連性を考察すると、強姦罪規定の特徴が明らかになる。
 22章には、わいせつ、姦淫及び重婚の罪が規定される。わいせつ・姦淫は性暴力に関する罪と定義することもできる。しかし、その定義では重婚罪と強姦罪との関連は説明できない。また22章の前には、21章として虚偽告訴の罪が置かれ(その前には偽証の罪、印章偽造の罪)、後には賭博及び富くじに関する罪、そして礼拝所及び墳墓に関する罪、が続く。ここには一つの秩序があるはずである。刑法に限らず、法律条文の配列は、同一の保護法益をひとまとめにする方式であるから、刑法が強姦罪をどう見ているかは、この秩序によって理解される。
 それは則ち、強姦罪が、社会的法益に対する罪とみなされているということである。性的自由なら、個人の人格を守る個人的な法益であるが、実際には、社会の秩序や風俗を保護法益とした犯罪群として列挙される。この配列は明らかに強姦罪を、社会的秩序ないしは性風俗を保護法益と考えていたことを意味する。(註33)
 強姦罪は、今日では、女性の性的自由を侵害する、すなわち女性の人権侵害に対する犯罪として認識される。しかしながら刑法の構造と同様、判例の法理とは大きな乖離がある。背景には貞操から離れられない司法界の固定観念があるとされる。強姦に限らず性犯罪については、法曹関係者において、こういう犯罪の被害者はこういうもの、被害にあったらこういう行動をするという「あるべき被害者像」の思いこみが非常に強いという。傷害や強盗の被害者と比較して考えるとよくわかる。例えば、次のように説明される。
「つまり、ある状況のもとで、人は自分が危機に瀕したときにどういう行動をとるか、どのように反応するかというのは、その人の持っているさまざまな条件によって全部違うわけです。だから、あるべき強盗の被害者像、あるべき傷害罪の被害者像というものは決してありません。それなのに、こと性暴力犯罪に関してだけは、裁判官はなぜか、あるべき被害者像というものを頭の中に設定しているのです。そしてそれに合わない被害者については、あなたは被害者ではない、したがって、嘘を言っているといいます。例えばセクシャル・ハラスメント裁判の場合に、それが敗訴の理由になっているのです。横浜・金沢・秋田というように私はそうした裁判をたくさん見ていますが、全部に共通するのは、やはり貞操観念にどっぷりとつかった、あるべき被害者像です。」(註34)
 強姦被害者は、身体的・精神的侵害によって屈辱を感じ、正義を求めて訴訟を起こすのであるが、前記のように、その訴訟の過程においても間接的に性的侵害を受ける。何故なら強姦罪成立には、女性側に落ち度がないことが証明されなければならず、その反映として男性の行為が断罪される仕組みになっているからである。それを性的二次侵害すなわちセカンド・レイプという。そこには、強姦は性欲の暴走にすぎないという錯誤と、男性の性欲の責任は女性にあるという、いわゆる性の二重基準が潜んでいる。被害者に対する非難いわゆる被害者の落ち度論は、性的暴力犯罪以外、たとえば窃盗罪では起こらない。しかし、強姦の場合は被害者の落ち度が執拗に追求され、しかもその問題性自体が認識されない。
 例えば告訴後の、警察や検察庁で被害者の取り調べについて、元検察官である伊藤栄樹氏は次のように言う。(註35)
 強姦被害者の取り調べの際に捜査することは、「被害者の経歴、説くに職歴。過去における男性との交友関係、および性交経験の有無。それから犯人との平素の知己(知り合っているかどうかということ)。それから交際の程度。また助けを求め、また逃げようと務めたかどうか。もしそのような努力をしなかったとしたら、その理由」である。何故なら、「強姦罪の無罪のほとんどは、公判廷において被害者の証言がぐらつき、被告人の和姦の主張を覆すに至る信ぴょう力を発揮しない場合なのである」から、「そういうことで審査段階においてまず被害者を、慎重に、納得のいかない点は、あくまで聞きただしていくことが必要である」という指摘をする。しかし取り調べ項目の中に被害者の私生活事項が多く含まれるということは、証言の信用性は、日常生活の潔癖性に依存することを意味している。ここから推測されるのは、日常的に潔癖な女性から性的自由を奪ってはならないが、日常的に潔癖ではない女性は性的自由はなくて当然であるという、権利とは別種の観念である。


 B夫婦間の強姦は成立しない

 夫婦間では強姦は成立しないという婚姻例外は、男女平等が普遍的な理念とされるようになった後も、多くの国で残存していた。唯一の例外はソ連である。ソ連では革命後の刑法改正によって、法文上も、判例においても婚姻例外は認められないという。(註36)資本主義国としては、スウェーデンが1965年に、婚姻例外を削除して以来、その検討や判例変更がなされている。(註37)アメリカでは、従来結婚生活内の強姦は処罰の対象ではなかった。例えばニューヨーク州の刑法では、強姦罪の客体の被害者になる人は「妻以外」とされていた。(註38)
 しかし70年代後半には、刑法の強姦罪規定を改正する運動が起こり、80年代半ば、婚姻内強姦も犯罪とする法改正が進んだ。ただ、州によって、妻に対する強姦は刑が軽いとか、日本の告訴に相当する親告の加重の義務を付されているところもある。(註39)とはいえ、日本のように法律婚の妻という理由だけで拒否されることはない。
 夫婦間の強姦については、次のことが重要である。一般に強姦事件における問題の一つは、「暗いところで、知らない人から」襲われるという強姦神話に反して、7割以上が親しい間柄で発生しているという統計に由来する。この中には恋人も含めて、当然夫婦間レイプの存在が予想されるが、「法は家庭に入らず」の原則のもと、おそらく強姦の多くを占めるであろう夫婦間レイプについて、救済されない。1986年の鳥取地裁判決は、夫婦間の強姦を犯罪と認定したとされるが、(註40)両者は別居中で実質的婚姻関係はなく、また輪姦でもあることから、例外ともいわれる。(註41)何故夫婦間の強姦は処罰されないのだろうか。強姦は夫婦内に成立しないとの明文の規定はない。しかし学説では、「法律上有効な結婚が成立している夫婦間では、夫は妻に対して性交を要求する権利があるから、暴行・脅迫を用いて、妻を姦淫しても、暴行罪・脅迫罪を構成するは別格、強姦罪は成立しない」とされ(註42)、例外的な事情がある場合に限って強姦罪の成立を認める主張も、少数説にすぎなかった。(註43)判例も、従来から通説と同じく「夫婦は相互に性交渉を求める権利及びこれに応ずる義務を有する」としているので、裁判所は婚姻例外の考え方を基本的には崩していない。(註44)女性が妻になると、権利侵害において何がどう変化するのか。それは全て国民は個人として尊重されるという憲法の趣旨に反しないのか。家庭内における児童虐待の救済として、2000年の改正で児童福祉法内の通報制度が強化されていることから見ても、夫婦間の強姦について救済措置が何ら講じられていない現状は、著しい不均衡といえる。
 最近ではマインド・コントロールやPTSD(心的外傷性後ストレス性傷害)、共依存などの精神科の診断によって、強姦はそれらの症状を伴いやすいことが明かになってきている。その症状の下において、人は必ずしも常に自分に有利に動くとは限らないという実情からすれば、当人による強姦の訴えはもとより、客観的にそれと推定される性暴力全般について、通報制度を設けることが必要不可欠である。家庭を国家が管理することは望ましくないにせよ、無法地帯として認められて良いわけではない。
日本ではなお通説とされている強姦の婚姻例外は、欧米諸国で見直しが進んでいるだけではない。一九九三年に国連が採択した「女性に対する暴力撤廃宣言」においても、夫の強姦は女性の性的自由を侵害する「女性への暴力」と認識されている。(註45)今日では、夫婦間レイプはあってはならない性暴力として、普遍的に断罪される性格を持っているのである。


 C強姦罪の差別性と性の二重基準

 一方、強姦罪が婦女を保護する犯罪という視点からは、男性側の次のような疑問が提示される。「婦女子を姦淫すること」が犯罪の構成要件なら、女性から男性への強姦は適用外であり、結果的には、男性に対する性差別だというのである。男性への強姦は、現行法では強制わいせつ罪に該当するのみで処罰も軽い。それに対する反論として、女性加害者の強姦とは、どのような具体的行動を指摘できるか、またわざわざ女性による強姦を想定する現実がどのくらいあるのかなど、その前提無しに男女を同じに処罰せよと主張するだけでは不十分という意見もある。
 しかし現実に少数だからという理由で、男性への強姦が見過ごされて良いわけではない。強姦罪が女性の性的自由を保護する規定であるならば、今度は逆に女性の性的自由だけでよいのかという問題は避けて通れない。性的自由の侵害は男性にも起こりうるからである。現にアメリカでは、そういう議論がされているという。
 この点については、まず、強姦罪と強制わいせつ罪が区別される根拠について考えなければならない。確かに強制わいせつ罪は、強姦罪に比べれば軽い刑罰である。ではなぜ強姦罪は比較的に重罰であるのか。
 その問題に関しては、被害者の側からも疑問が提示される。被害者という視点からは、性器の結合があろうとなかろうと侵害の程度に明確な差異はない。性器の結合だけが性的自由を大きく侵害するという根拠は他にあるのではないか。刑罰の加重の差について考えられるのは、性暴力の結果としての妊娠可能性の有無である。妊娠が性的暴行の処罰を左右する理由は、直接的には、望まない妊娠を引き受けるという被害者の心身の負担であり、間接的には、法的関係にない父親を生じさせるという家族制度に対する脅威であろうか。そうすると、刑法は女性による強姦そのものを推定していないのではなく、男女間の性暴力のうち、男性による性暴力で、より被害の大きいとされるものを、選択して強姦と定義していることになる。つまり、女性が男性を強姦するという現象がたとえ現実にあり得ても、妊娠や家族制度の脅威などの重大な被害が発生しないので、男性は「強姦罪で保護されるに価しない」というわけである。
 しかしこのような理論は別の観念を女性に押しつける。それは、女性は家族制度に反する子どもを生むべきではないし、その可能性を持つ婚外交渉をも禁止されるという、性的自由の制限として現れる。婚外交渉の制限は、女性においては未婚・既婚また相手の人格を問わないが、男性においては、相手の女性が性的に潔白であると判断される場合のみ、制限される。これもまた性の二重基準である。
 強姦罪は、女性の性的自由を守るためであるという定義も、現在の刑法の教科書には散見する。しかし判例の判決理由の中にあるのは、女性の性的自由ではなく「貞操」を守ることであり、結果として女性の権利ではなく社会道徳を維持することにあると理解される。「貞操」は女性にのみ義務づけられた道徳観念であり、従って強姦の判決は加害者男性の行動よりも、被害者女性が「貞操」を保障するに価する人物であるかどうかが判断の対象になる。女性の行動や経歴が「貞操」にふさわしくなければ加害者は無罪となる。被害者が水商売の女性の場合、特にこの傾向が顕著である。さらに、強姦罪が男性から女性への犯罪と規定されていることは、次のような結果を引き起こす。すなわち、「『一部の』男性がレイプすることによって、『すべての』女性は男性と比較して行動範囲が狭められ、服装に気を付け、行動を制限されるのであるから、逸脱した個人とされる加害者は、本質的には男性支配社会の『突撃専用部隊』である」と位置づけられる。(註46)この、一部の男性の強姦によって、全ての女性が男性の性的反応に警戒し、男性の性的暴力に対する恐怖を感じなければならないという構造が差別なのである。
 以上の理由からすると、強姦罪の規定を女性にも適用させるという表面的な操作だけでは、この犯罪の持つ差別的な構造が変革される根拠はないと思われる。いずれにしろ、強姦罪の成立において、加害者の行う行為が問題とされ、「強姦裁判では、男(加害者)ではなく女(被害者)が裁判にかけられる」(註47)が、最大の問題点である。このような強姦法理を転換し、性的自由を保護法益として抜本的な刑法改正を行ったのは、カナダである。改正法では、これまでの強姦(Rape)という言葉を廃止し、性的自由の侵害行為を、性暴行の罪(Offence of Sexal Assault)という概念で一括する。その結果、性によって特定することなく人の性的自由を保護法益とした犯罪と理解され、性交の有無が犯罪要件から削除された。暴行に対して同意はあり得ず、従って和姦という抗弁は成立しない。婚姻例外も認められなくなった。(註48)
 この点につき、日本との性暴力認識の違いを象徴する事件が起きたことは、記憶に新しい。1999年2月19日、日本国内の複数の新聞は、カナダで日本の総領事が妻への暴行容疑で取り調べを受けたことを報じた。その際、「総領事は妻をたたいたことを認め、『単なる夫婦げんかを暴力と見るかどうかは、日本とカナダの文化の違い。大騒ぎするようなことではない』などと述べた」とされる。(註49)カナダの前述のような法改正の背景を考慮すれば、総領事が罪を追及されることは当然の法理といえる。夫婦間なら何をしても良いという手前勝手な自己意識を、日本の文化と放言することは、性差別に対するあまりの認識の低さを露呈するようで、かえって気の毒でもある。総領事でありながら、カナダや世界が性暴力をどのように捉えているのかという認識も反省もないというのは、まさに性暴力の原因たる、コミュニケーション・ギャップの手本を見るようである。日本政府は外交官選定に関して、英語や世界史の知識より、もっと相対的な視点を持つことの重要性に想いが至らないようである。


6.性暴力としてのセクシュアル・ハラスメント

 @セクシュアル・ハラスメントの定義

セクシュアル・ハラスメントとは、「性的いやがらせ」を意味する英語である。当事者の望まない性的な働きかけや言動を指し、上下の力関係を反映していることが多く、労働環境の悪化や不利益につながると判断される。主に雇用の場で起きる性差別の一形態だが、学校でのスクール・セクハラなども問題化しつつある。男性優位の社会では、男性が加害者、女性が被害者の場合が多いが、逆の例や同性間でもあり得る。
 アメリカでは1980年代から訴訟が相次ぎ、日本でも92年に福岡地裁で初の判決があり、原告側女性が勝訴した。しかし、「セクハラ」という略語の流行に隠れて、被害の本質が見えづらくなった一面もある。米国三菱自動車が雇用均等委員会(EEOC)に提訴されたことは日本企業に衝撃を与え、雇用管理の一環として、内規の作成など対策を練る企業も増えてきた。
 先ごろ国会で成立し99年から施行された改正男女雇用機会均等法では、セクシュアル・ハラスメントについて、はじめて雇用者側に防止義務を課している。均等法におけるセクシュアル・ハラスメントの定義は、「職場での相手の意に反する性的言動」である。(註50)大別すると(1)対価型セクハラと(2)環境型セクハラ、の二種がある。1998年に出された「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上配慮すべき事項についての指針」(労働省告示第20号)によると、改正均等法に言うセクシュアル・ハラスメントとは、あくまで女性に対するものとされる。男女双方が加害者にも被害者にもなり得るが、日本の現状を考慮して、被害者に女性のみを推定している。(註51)
 セクハラは「相手の意に反する性的言動」であるがために、セクハラかどうかは相手の判断が重要になる。セクハラを生み出す原因は、従って、相手の反応に配慮しないコミュニケーション・ギャップの存在である。嫌悪感や不快感には個人差があること、相手から必ず意思表示があるとは限らないことを前提にして、勝手な推測や思いこみをしないことが基本となる。なお、「職場」の範囲については、先の指針によれば、「労働者が業務を遂行する場所を指し、当該労働者が通常就業している場所以外の場所であっても、当該労働者が業務を遂行する場所は職場に含まれる」とする。


A西村発言とセクシュアル・ハラスメント

 セクシャル・ハラスメントとは、広くは「公的領域の人間関係を背景にして起こるセクシュアルティに対する侵害」も含む。(註52)またこれを性暴力としてとらえる視点もある。(註53)日本では、マスコミを中心に、セクシュアル・ハラスメントを女性に対するマナー違反ととらえる向きがあるが、最近のアメリカ研究では、その加害連続性と深刻さが検証されるに及んで、個人の倫理を追求するだけでは防止効果はないことが理解されている。
 通常、暴力という言葉から連想されるのは相手を殴ったり、蹴ったりする行為である。しかし、被害を受けた人がどのような影響を受けるか、暴力がどのような目的で行使されるか、暴力が社会においてどのような機能を有しているのかという視点から、「暴力とは何か」を考えると、「暴力とは、相手の人間的尊厳を侵害するような強制力の行使」と捉えられる。(註54)
 かつてアメリカの女性運動においても、家父長制に基づく男性の女性支配構造において、セクハラは社会的威圧を意味すると強調していたが、実際に男性が直接的に身体的暴力を行使することはまれ、と考えられていた。(註55)しかしながら、女性たちが体験を語ることによって、認識は次第に変化した。家庭の外のみならず、家庭の中においても親密な男性による直接的身体的暴力の行為は頻繁に起こっており、女性の心身の健康を深刻に脅かしていることが明らかになった。ジェンダー(社会的に認知された性差)やセクシュアリティは、社会的な過程によって定義づけられ、形成されるという理解が定着するにつれ、暴力の行使だけでなく、女性の行動を制限する威嚇も含めて、幅広い暴力の定義をセクハラの概念の中に持ち込むようになった。(註56)
 身体的暴力にさらされるかも知れないという恐怖感を植え付ける威圧行為は、女性の生活において大きな脅威となるが、現実に女性が家庭の内外で危険にさらされているにも拘わらず、内と外を分ける法的アプローチが人を誤解に陥れると批判される。(註57)実際、女性は統計的に自宅で身体的・性的暴行の被害に遭う確率が非常に高い。(註58)ならば、「面識のある者によって身体的あるいは、性的安全を侵害された女性が、どうして見知らぬ他人のまわりで安全だと感じられようか?」ということになる。(註59)つまり女性の認識では、法的常識としての、「内=安全」「外=危険」という二分はないと主張される。
 このような有形・無形の性暴力の一側面としてセクシュアル・ハラスメントを捉えるとき、相手を自分の意に添わせようとする、相手に対するコントロールの欲求は、それ自体性暴力として定義される。
 ところで、通常の対人関係で、相手をどう呼ぶかは常に重要な問題であり、相手が希望する呼び方で呼ぶことが相手の人格を尊重することになる。清水澄子議員に対する西村発言では、「お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ」と言うが、この「お前」という呼びかけから、少なくとも西村氏が当議員の人格を尊重していると理解するのは難しい。議員同士が日常「お前・オレ」で通用する間柄であることが証明されれば別であるが、例えば清水議員が西村氏を「お前」と呼んだら尊敬されていると思うのだろうか。「お前」呼ばわりすることで、暗黙の内に自分の意のままにしようとの欲求が看過される。
 「強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ」は、相手のセクシュアリティに言及する明かな威嚇行為である。改正雇用機会均等法は職場のセクハラを想定するので、誌上対談の個人攻撃が職場のセクハラに該当するかは定かではないが、前述のように、セクハラを「公的領域の人間関係を背景にして起こるセクシュアリティに対する侵害」と定義するならば、西村発言は女性のセクシュアリティを攻撃した、セクシュアル・ハラスメントであり、また性暴力そのものであると断罪することはさして難しくない。


7.女性の人権─性の自己決定権という視点から言えること

 @性の自己決定権とは何か

 近年、人権概念を補足するために、新しい人権と呼ばれる様々な権利が生まれてきたが、その中で今最も脚光を浴びているのがプライバシー権と自己決定権ではないだろうか。とりわけ、自己のものごとについては自己が決定するという、自己決定権のこの論理は、必然的に他人に決定権がないことを強調する。
 この視点から、以下のことが考えられる。すなわち、強姦という、女性にとって自分の身体を侵害する犯罪が日常的にあり、しかもその処罰の判断について、男性の客観的行為ではなく、女性の潔癖さが基準となることへの不満がある。そしてそれは自己の身体が自己のものとして正当化されないことが原因なのだとする、女性の側からの問題提起を促した。従ってこの場合の自己決定権とは、自己の身体、特にリプロダクション(=生殖)に関わる決定は、自己に帰属させるべきだという主張である。女性においては、胎児の中絶という問題で顕在化し、今日ではその他の自己決定権概念と区別して性の自己決定権と呼ばれているが、自己に関わるものは自己の判断に任せる、という感覚は今日一般に承認されつつある。(註60)

 A自己決定論理の新しさ

 ところで、自己決定を認めるとはどういうことか。自己決定を認めるとすれば、決定の内容は問わないのであるから、ここで「同一のものは同一に扱うべし」という形式的平等の普遍性は破られる。規範は常に一様な基準を設定している、ないしは設定すべきであるとの視点では考慮し得ない認識である。にもかかわらず、ある決定がある人に委ねられるべきだと思われるならば、それはどうしてか。例えば、女性の自己決定権が自己の身体の所有権として説明される。身体は私のものである、ゆえに身体に起こることについては、当事者である女性にのみ決定権があるというのである。しかしそれはいかにも当たり前のことといえる。信教の自由は、信仰が個人のものだからこそ決定権が認められる。財産権は、財産が個人の労働の結果だからこそ、その処分権を認める。その意味で、自由権はすべからく自己決定の論理によって成り立つ。そこで、わざわざ自己決定をもう一度正当化しなければならないほど、自己決定権は何か新しい概念を顕わしているのだろうか。
 私のものだから私に決定権があるという、しばしば当然の前提として語られる自己決定の論理正当性は、実は正当化されるべき自己決定がどういうものなのか、それ自体を明確に示さない。しかし自己決定権の主張が、強姦や中絶制限のように、他人による個人の支配や侵害に対する抵抗として主張されてきたことに注目するならば、このような立場からの主張だからこそ、「私のものは私のもの」と誇張する必要があった。
 しかし、そこで言おうとしている自己決定は、実は自己所有の正当性とは関連がない。例えば、中絶制限政策に反論する場合、確かに女性の身体は女性のものである。しかしその体内に息づく命は生理的にも心理的にも女性にとっては別個の存在である。従って自己のものとは言い難い。その、自己のものとは言い難い存在に対して、なおかつ女性にその処遇の決定権を与えるべきだとすれば、それは自己所有の原理からは導き出せないのである。こうして、自己決定権の主張は、自己所有に派生する権利ではないことが明かとなる。では、いかなる概念として自己決定権は定義づけられるのであろうか。


 B自己決定権は自己のものだから決定権があるのではない

 何故、ある決定をその当事者に委ねるのが正当と考えられるか。それは、その相手が私ではない存在、私が制御し得ない存在、すなわち私とは別の「個人」としてあることを認めようとするからだと思われる。憲法における「国民は、すべて個人として尊重される」という理念は、このように理解できないのだろうか。
 性の自己決定権を巡る、例えば中絶の是非を問う議論においても以下のことが言える。胎児の生命は確かに尊いが、それを宿す母親はこの状態から自らを選択的に解き放つことができない。引き受けざるを得ないものとして引き受けている。他人はその経験に共感したり反感を抱いたりすることはできるとしても、その経験自体を経験することはできない。
 この事実に価値を付与し、規範を設定する。つまり、母親に胎児の処遇についての優先を認めるのである。何故なら、他人がその経験を制御することは、その母親が個人としてあること、即ち私のものではない存在としてのあり方を否定するからである。
 これはまた、母親が胎児の存否を制御できるか否かとは別のことである。自己決定能力が母親にあるかどうかは、ここでは問われない。擁護されているのは処分権としての自己決定権ではなく、国家を含めて他人がそれを制御してはならず、譲渡を求めてはならないという義務、それに呼応してその母親に生ずる不可侵の権利であると考える。このように考えると、自己決定権の根源は、個人が個人として存在すること、個人としてあるそのあり方自体を無条件に承認することといえる。従来の人権保障において、濫用によって陥り易かった利己主義とは別の、個人主義のもう一つの到達点を示しているのではないだろうか。
 我々は通常、あるものについてそれが誰の経験かという事実を判断し、その経験の差異に応じて、それに対する優先を与える自己決定を認めている。例えば、ある病気の原因や病状について、医者の方がよく知っていることはある。しかし、それでもなお患者に対して病気に関する自己決定を認める。それは、その当人だけが病身を経験していることに根拠づけられる。ある事実に関して、人は皆同じ位置にいるのではない。私達は、その違いを承認し、それを根拠に誰かに決定を委ねるのである。
 例えばアメリカの有名なベビーM事件は、ニュージャージー州で代理母として第三の女性と契約を結び、その夫の精子を人工授精して妊娠した女性が、出産後自分で養育したいと申し出て子供の引き渡しを拒否したため、争われたものである。1987年3月の最終審では、代理母と、契約夫婦の夫に親権を認めた。代理出産の依頼者が契約の履行を求める時、そこで求められているのは私の欲求の実現であった。代理母の決定をさしおいて、私の正義、私の価値を代理母の身体の上に実現させようとする欲望とみることができる。
 胎児に関する決定を妊娠している女性に委ねるということは、個人の有りようが私の価値観や私との同一性の延長にあるのではなく、私でないもの、私の価値が及ばない存在としてしか現れることができないと考えるからである。それは、個人を無条件に承認し受け入れることを要請する。個人とは、具体的には私と別の存在である。そのことによってその者の決定自体がひとまず承認される。胎児の処遇を決定するのは、胎児ではなく母親であるが、その正当性は以上における個人の絶対的尊重という認識から導かれる。その論理が、性に関わる女性の自己決定権を承認せざるを得ないものとする。ベビーM事件では、第三者の夫に養育権が与えられ、代理母は面接交渉権のみが認められた。遺伝的にも、また生理学的にも間違いなく「産みの母」である代理母が、親としての権利を認められないという判決の考え方は、生殖技術が母の権利を奪う危険性を持つとして批判されるが、自己決定権の論理においても、同様に指摘できる。いかなる理由にせよ、子供の決定権はその出生を担う女性の判断を第一に尊重すべきであって、精子提供にすぎない第三者の夫や、ましてその夫の配偶者の権利が優先される道理はないといえる。
 これを性交渉の自己決定権として考えた場合も同様である。性交渉は、関係する当事者たちの同意によってのみ承認される。ここでは、一方の決定が他方よりも優先されることはない。(ただし、避妊具の承認については女性が優先される。妊娠については、女性が引き受けざるを得ないからである。)しかし交渉は同意によってのみ正当化されるのであるから、一方が他方と異なる判断をすれば、結果的に当初の交渉は破棄される。そういうものとして性交渉は成り立つはずなのである。女性だから優先されるのではない。より消極的な判断が、より積極的な判断に優先されるだけである。この論理は、自己決定以前に契約の原理から派生している。
 以上のように考えると、結局性の自己決定権は、中絶においては、中絶をしないことも含めて胎児の処遇を決定する環境を要求する権利であり、性的自由については、例えば、いつどこで誰とどのように性交渉を持つか持たないかを決定する環境を要求する権利と考えることができる。その環境とは、通常の自己決定ができる個人と同じ環境という意味であり、そこから自己決定権は自律した個人と対等の環境を求める権利であるとして、合理的差別(優遇的処置)を要求する平等権と定義することができるのである。


8.平等原則に求められていること・求められるべきこと

 @社会権と平等権の類似性─自由権では補完し得ないこと

  今日の社会において、なぜ生存は社会権として万人に保障されなければならなかったのか。これを保障するためには、生存自体が資格に呼応する権利ではないことが確認されなければならない。つまり、引き替えに何かが問われるものとしての生存ではないという理念を、人間の尊厳という抽象的な文言だけでなく、具体的な何らかの法的根拠として実現しなければならなかったのである。
 ここで、現代国家は同等に自律的な個人の集団としてではなく、多様な自律性を持つ個人の集団によって維持されるという、共生の原理が問われているといえる。社会権としての社会福祉・社会保障は、多様な立場に立つ人々の実質的平等を保障するために有効な政策として出現したが、欠点はそれが国家からの恩恵という形でしか与えられず、権利義務を個人関係にまで還元し得ないところでの平等の実現であった。
 その平等原則の持つ限界に対し自己決定権が提唱されたことは、実質的平等を結果として要求し、個人決定を絶対的に尊重することの意義を自覚させる。ここで人権は、自律しているがゆえに国家から干渉を受けない恩恵としてあるのではなく、自律に関わりなく干渉を受け得ない絶対的存在として、またそのために国家が呼応する義務を持つ権利として理解される。平等原則としての政策に関して、個人の側から合理的差別――むしろこの場合は優遇的処置になるが――を要求する平等権といえる。であれば、自律しない個人のいかなる決定によっても、国家はその決定を他と平等に保障するために、何らかの施策を講じなければならない。例えば重度の障害者が家や施設を出て自活することは、従来は福祉の可能な限りで(でなければ個人の責任で)承認されるものという、平等原則主体の論理で考えられてきたが、(ここでの実現とは公的機関・民間共に含む)自己決定権の概念では、自己決定が自己責任を意味しない。まして、決定を尊重し、それを実行できる環境を整えることが周囲の義務であるから、例えば他人の決定の排除や国家の福祉政策としてその決定を周りが支えることが要請される。自己決定の尊重という理念において、暫定的特別措置としての、アファーマティブ・アクションの必要性も理解されると思われる。


 A自己決定権は平等原則を補完する

 繰り返すが、自己決定権は、自己の性・身体に関わることについて自己が決定するという能動的な権利としてではなく、自己の性・身体が他人によって決定されることを排除する権利、またその反射として国家に主に優遇的処置を義務づける権利として捉えられる。これは自律性の程度によって保障されてきた従来の人権に対して、その差別的処遇を排除する平等原理の側面であるといえる。従ってどのような決定を下すか、あるいは決定をしないという決定を下すことをも含めて、判断は自己のもとに留め置かれる。それは他人にとって、自己の延長として他人を操作しないという義務を課す。このような自己決定権が承認されるならば、もしその人が決定しないという決定を選んだ際、どのように呼応されるべきであろうか。
 決定しないことを選んだ当人に対して、それを根拠に他人が決定することは、許可する本人の決定がなければ依然として許されない。しかもその決定は、自由権のように当人が自律的であることを要件としない。にも拘わらず、自律的な個人と同様の選択的環境を提供しなければならないのである。従って最終的には、自己決定権の尊重は、支え合い、見守るという共生の理念がなければ維持していくことはできないであろう。故に自己決定権は、社会権的平等原理すなわち社会福祉という平等原則を、個人の側から平等権として補完する側面を担うことになる。
近代憲法における自由権の概念は、形式的平等によって補強されていた。しかし貧富の格差によって自由権の限界が確認され、それを補完する実質的平等の要請と共に、さらに平等を人の絶対的な権利として実現することが、求められている。それは結局、自律する個人はもとより、自律しない個人にも自由権を保障する機構として働く。自己決定権は決して「ワガママ権」ではなく、むしろ自己拡大としてのワガママを徹底的に排除する権利である。それは個人が個人のままでいることを義務づける権利でもある。よってこの権利の実現は、自律的な個人を前提とする自由権的人権とは異なり、自律的な個人を前提としない平等権的人権といえるのではないだろうか。


9.平等権としての自己決定権

 私は、西村元政務次官の強姦発言が世論に与えた反応を概観し、さらに以下の結論が言えるのではないかと思っている。
 西村発言は、本人の意図に関わりなく、強姦を、表面上は男性固有の欲望の発現にすり替えることによって、全ての女性に男性に対する恐怖心を生起させ、男性の制御におかれることを暗黙のうちに強制した。それは間接的には性分業と性役割の固定化を通じて、階級社会の維持に貢献する。さらに、極端にいえば男性の感覚のみが人間の感覚であるという、それ自体は根拠のない自己拡大によって、異なる存在の権利を不可視にした。その態度は、近代の資本主義の発達の中核である自由権、特に財産権の保障によって拡大された自己意識と考える。しかし自由主義社会の競争原理においては、権利を充分に享受できる個人は相対的に少ない。それが権力格差となり、民主主義理念との調和を大きく欠くことが、今日ようやく認識されるに至ったといえよう。
 現代社会は、あらゆる場面において、ある個人が、例えば経済生活において同等の能力を持たないとしても、それを根拠に被支配を当然視される存在であることを問題視する。自己決定権の提唱は、「自律しない個人の権利」という形で、それに答える論理を提供することができるのではなかろうか。
 以上のことから、国家に対して、自律した個人はもとより、自律しない者にも無条件に同等の資格を認める義務を要求する平等権として、自己決定権が定義づけられる。今日論議される憲法上の各種の問題、例えば障害者の人権や子どもの人権、外国人の人権というテーマは、女性の人権と同様、自律を要件とするが故に、近代憲法の原理によっては解決されない「個人」の境界設定に関わる問題として共通する。その意味で西村発言の社会問題化は、性差別固有の問題というよりは、広く多様な個人をどう受容するかという社会全体の問題に対する人々の関心を明らかにしたように思われる。
 結局、西村発言の問題化とそれへの反応は、多様な個人を多様な個人のままに平等に扱うべきという、現代人が内包する平等原理への期待を、強姦における男女差を強調することで、人間格差の正当性を誇張したように感じられたため、非難されたといえるかも知れない。女性が社会的弱者であるかどうかがここで問われているのではなく、社会的弱者を対等な個人として認めない、従来の人権のあり方が問われているのではないだろうか。もし女性が弱者であるとしても、従来の人権感覚では西村発言は非難に価しない。しかし強者故に弱者よりも人権を享受できるという感覚は、一部の特権的な人々を除いて、多くの人の受容できない抑圧的な論理であり、法的にももはや前近代的な感覚になってしまったと思われるのである。


10.おわりに・差別の社会問題化とメディア・リテラシー

 以上のように、朝日新聞の報道を一例に、西村発言の社会問題化を様々な視点から考察することで、この報告は成立した。女性の人権の中核とされる性の自己決定権も、従来からその概念の提唱は聞いていたが、今ひとつ心の中で他の人権とうまく組み合わされないもどかしさがあり、その論理を分析する機会がなかった。
 しかし朝日をはじめとする各新聞の報道において、ある一定の偏向性を感じたとき、これは何かメディアの意識とは別の、重要な社会意識なのではないかと強く思うところがあった。その結果、掘り出したものは、「個人」を資格要件とする人権保障の矛盾に、直感的なアプローチによって反応する、メディアと人々の不満であった。
 この考察の最大の成果は、自己決定権を平等権と考える妥当性を発見したことである。これは西村発言の分析から演繹した、重要な学問上の発見であった。未だ理論構築が粗雑で充分でないために、錯誤や論理の飛躍もなしとはしないが、基本的な筋道は従来から漠然と心に暖めてきたものである。今後、より広範で精緻な分析を積み上げることで、さらなる理論補強に努めたいと思う。
 今回の西村発言で感じたのは、メディアの流すメッセージがこんなにも多くの成果を生み出すことへの素直な感動である。遙洋子氏は言う。「マスメディアは直感の宝庫だ。娯楽と同時に処理しきれない気持ち悪さも放出している。」(註61)私はこれを全面的に支持したい。
 今日、メディアの言説が、人々の現実を構成する重要な要素になっていることは、否定しがたい事実である。であれば、メディアの言説が何を言おうとしているのか、あるいは何かを言おうとする陰ですでに言われていること、言われないことは何か、それを行間から、あるいは映像の中から読みとりながら、メディアに対して私たちが感じる一抹のうさんくささを学問によって検証することは可能であろうか。
 私は、もしメディアで「人権」に関するテーマが語られるなら、それを憲法の学問領域に取り込んで検討することは、今後いっそう重要であると感じるようになった。人権は憲法学で最も中心的なテーマである。しかしメディアの言説は多くは直感を持って語られており、その点で、曖昧でありながら妙に限定的・断定的であったりする。
 一方においてメディアは、その明かな弊害が批判の対象となる。シルバーマンは、セクシュアル・ハラスメント報道の偏向について、以下のように述べる。「……リベラルなメディアの報道についてふたつの傾向が見られる。まず、ハラスメントは職業階級を問わず、全ての女性に影響しているのは明白であるにも拘わらず、メディア報道の焦点がほとんど専門職やビジネス・ウーマンである中上流社会に限られているという点。次に、分析の欠落。資本主義社会、家父長制のもとでのセクシュアル・ハラスメントの意味を理解し、フェミニストの問題として最近とりあげられるまで、何故この問題が論じられてこなかったのかについて理解しようとする意欲も能力もないようだ。」(註62)私は、日本の報道にも同様の傾向があると思う。
 このような態度を前提にしながら、私たち自身がメディアを使いこなし、メディアの情報を読み解く能力を、今日では、「メディア・リテラシー」という。それを単純にメディアの情報を読み解く能力と訳す向きもあるが、与えられた情報を分析するだけでなく、メディアの構造的問題点にも接近し使いこなす視点がなければ、分析の有用性はないと批判される。(註63)
 大切なのは、メディアがいかなる特性と問題を持ち、いかにすれば主権者である国民・市民のためのものとして機能し得るかということへの解明と、そこへ至る道筋をつけることとされる。(註64)メディアを補助手段として、現代社会の情報環境を市民の視点において編成し、主体的に考察する態度を忘れまいと思う。
 ところで、上野千鶴子氏は言う。「直感とは、分節される以前の論理の別名である。直感から論理への距離は長そうに見えても、その間には連続性がある。だが直感だけのレベルでは自分以外の人びとを説得することができない。」(註65)
 直感は未だ語られない未分化な論理であり、一見他の人々を容易に説得できないように見えながら、それがメディアによって流されるだけで、実は強力な共感を引き起こすことがある。上野氏はさらに言う。「学問は直感を論理的に分節する後追い作業である。」(註66)メディアは直感の宝庫であることを実感する。論理的に分節すべきテーマは山ほどある。ゆえに学問の宝庫でもある。メディア・リテラシーを駆使してこの宝庫の山に分け入れば、朝日新聞が西村発言を社会問題に仕立て上げたような構造的権力装置から、さらなる視点が発掘できるのではないかと思われる。




【脚註】

(註1)刑法200条の尊属殺規定無効の推定は、尊属殺を特別扱いすることの非合理性ではなく、量刑格差の非合理性に基づいている。尊属殺そのものを他の殺人と区別することが実質的平等と言えるかどうか、議論が分かれるのではないだろうか。このような場合、差別と平等の間にはいわゆるグレーゾーンが存在していることがわかる。
(註2)上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社・1999年)104〜108頁。
(註3)竹内靖雄『国家という迷信』(日本経済新聞社・2000年)212〜223頁。
(註4)河原理子『犯罪被害者』(平凡社・1999年)189〜194頁参照。
(註5)小倉千加子『セックス神話解体新書』(学陽書房・1988年)参照。
(註6)鈴木由美「セクシュアル・ハラスメントの基本構造とその日本的特質」鐘ヶ江他編『セクシュアル・ハラスメントはなぜ問題か』(明石書店・1994年)131頁。
(註7)同上、139頁。
(註8)金城清子『法女性学・その構築と課題』(日本評論社・1991年)27頁。
(註9)何故なら、もしその子どもが男性のではなく「女性の子ども」であるならば、産まれた子どもは相手国の子どもであり、相手民族の人口を増やしこそすれ、自国民族のいかなる利益にもつながらないと言えるからである。
(註10)鈴木由美、前掲書、123頁。
(註11)佐藤功『日本国憲法概説』(学陽書房・昭和58年)141〜142頁。
(註12)例えば、金城清子、前掲書、240〜241頁参照。
(註13)長尾一紘『憲法の要点整理』(実務教育出版・1997年)67頁。
(註14)樋口陽一他編『注釈日本国憲法・上』(青林書院・1984年)320頁。
(註15)戸松秀典「平等原則」(法学教室18号・1982年)6頁参照。
(註16)野中俊彦「平等原則と平等権」『ファンダメンタル憲法』67〜76頁参照。
(註17)戸松秀典、前掲書、6頁参照。
(註18)浦田一郎「平等、とくに合理的差別をめぐる討論について」(憲法理論研究会ニューズ1981年10月1日号、18頁参照。
(註19)浦田一郎、同右、18頁参照。
(註20)戸松秀典、前掲書、6頁参照。
(註21)西修『日本国憲法25講』(八千代出版・1994年)58頁。
(註22)M.Duncan,The Future of Affirmative Action, 17 Hrev. C.R.-C.L. Rev. 504, 1982.
(註23) 加藤隆之『長尾憲法 解釈の指針』(クイック教育システムズ・1997年)50頁参照。
(註24)United Steelworkers of America v. Weber, 443 U.S. 193, 1979.
(註25)金城清子、『法の中の女性』(新潮社・1985年)171頁。
(註26)金城清子、同右、171頁。
(註27)大脇雅子『働いて生きる』(学陽書房・1980年)
(註28)山下泰子他『法女性学への招待』(有斐閣・1996年)32〜33頁。
(註29)山下泰子他、同右33頁。
(註30)角田由紀子「女性の地位と暴力」『家族・暴力・虐待の構図』(読売新聞社・1998年)91頁。
(註31)月曜評論1406号。
(註32)若桑みどり『戦争中がつくる女性像』(筑摩書房・1995年)40頁。
(註33)角田由紀子『レイプ・クライシス』(学陽書房・1990年)39〜40頁参照。
(註34)角田由紀子「女性の地位と暴力」『家族・暴力・虐待の構図』(読売新聞社・1998年)93頁。
(註35)角田由紀子『レイプ・クライシス』前掲書、107頁。
(註36)上田寛「夫婦間レイプの成否と比較法(6)」(法律時報60巻8号)65頁参照。
(註37)上田寛「夫婦間レイプの成否と比較法」(法律時報59巻12号〜60巻8号)では、6回にわたり、日本、英米、独仏、北欧、社会主義国についての検討が報告されている。
(註38)角田由紀子「女性の地位と暴力」前掲書、103頁。
(註39)角田由紀子、同右、103頁。
(註40)鳥取地判昭和61.12.17、判例タイムズ624号250頁。
(註41)山下泰子他、前掲書94〜95頁参照。
(註42)団藤重光『注釈刑法』(4)(有斐閣・1965年)298頁。
(註43)葛原力三「夫婦間での強姦」(法学セミナー35巻10号)36頁。
(註44)広島高裁判決昭和62.6.18、判例時報1234号154頁。
(註45)山下泰子他、前掲書、95頁参照。
(註46)鈴木隆文他『誰にも言えない夫の暴力』(本の時遊社・1999年)202頁参照。なお、「」内は、ブラウンミラーからの引用として紹介されている。
(註47)R.Tong, Women, Sex, and the Law (Rowman & Allanheld, 1984) p.104.
(註48)C.Smart, Feminism and the Power of Law (Routledge, 1988) p.45.
(註49)日新聞東京版・1999年2月19日夕刊
(註50)日経連出版部編『セクハラ防止ガイドブック』(1999年)18頁。
(註51)日経連出版部編、同上、20頁。
(註52)鈴木由美「セクシュアル・ハラスメントの基本構造とその日本的特質」鐘ヶ江晴彦・広瀬裕子編『セクシュアル・ハラスメントはなぜ問題か』(明石書店・1994年)139頁。
(註53)鈴木由美、同上、13頁。
(註54)内藤和美「『女性への暴力』とはどういう問題か」(昭和女子大学女性文化研究所紀要25号)36頁。
(註55)吉浜美恵子「セクシュアル・ハラスメントと女性への暴力連続体」鐘ヶ江晴彦・広瀬裕子編『セクシュアル・ハラスメントはなぜ問題か』(明石書店・1994年)153頁。
(註56)吉浜美恵子、同右、154頁。
(註57)吉浜美恵子、同右、155頁。
(註58)吉浜美恵子、同右、156頁。
(註59)吉浜美恵子、同右、157頁。
(註60)もっとも中絶については胎児の生命をどう考えるかという点で、論議はまだ始まったばかりではある。
(註61)遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房・二○○○年)71頁。
(註62)吉浜美恵子、前掲書、151頁参照。
(註63)渡辺武達『メディア・リテラシー』(ダイヤモンド社・1997年)96〜98頁。
(註64)渡辺武達、同右、98頁。
(註65)上野千鶴子『記憶の政治学』(インパクション103号、1997年)
(註66)上野千鶴子、同上。


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