アメリカのテロと平和主義
アメリカ時間2001年9月11日午前9時頃、アメリカ・ニューヨークの貿易センタービルに2機の旅客機が衝突した。その後ワシントンのアメリカ国防総省にも旅客機が衝突し、さらにペンシルベニア州ピッツバーグ郊外にも4機目の旅客機が墜落した。今では、もう誰もが知っているアメリカのテロ事件である。アメリカは比較的早い段階で、テロの実行犯と主犯を割り出し、オサマ・ビンラディンらを支援しているとされるアフガニスタンのタリバン政権(各国に承認されない実効政権)に報復を宣言し、10月8日、アフガニスタンへの空爆を開始した。また、国内での動揺が収まらない中、アメリカでは炭疽菌がばらまかれる事件が頻発し、テロと関連づけられてさらに一層の混乱が広まっているらしい。
私がテロ事件を知ったのはほんの偶然である。日本時間9月11日の午後10時頃、たまたまビデオを観ていた子供たちがビデオの映像を消した時に、TV画面では飛行機がビルに激突する映像を、何の解説も音響効果もなく、ただ静かに流していた。「ママ、飛行機がビルにぶつかってるよ〜」との声に、ウルトラマンか何かのドラマだろうと生返事をしていたら、夫が「おいおい、これはホントの事件だよ!」というので、自室からTVのある居間にすっ飛んでいった。しばらくの間は、事故か犯罪か、にわかには予想もつかない状況であったが、次第に情報量が増え、どうやらこれはテロ事件であるらしいことが分かってきた。しかし、その後のビルの倒壊も含めて、一連の出来事はまるで映画のようであり、これは本当に事件なのか?と思えるほど冷酷に鮮明な映像は続いた。そして日頃TVを観ない私でも、目の前の惨劇にカメラを据えるより他に何もできない報道陣と同じ(?)焦燥を感じていたと思う。
これはひどい、恐ろしい、という感情は万国共通のものだろう。だがどういう対策を講じるかは、まさに各国様々である。特に当事国と周辺国、同盟国では雲泥の開きがある。日頃からアメリカに対して(軍事?)同盟国ニッポンを標榜する政府、小泉政権がどう対応するのか大変気になった。もちろん軍事制裁に関する日本国憲法の規定と自衛隊の現状から、矛盾がいっそう拡大することを懸念して。
ところで小泉首相はかなり早い段階でテロ事件への声明を発表はしたが、怒りの個人的表明だけであり、しかも官房長官を通して間接的に報道される有様だったから、一国の代表者の反応として失望した。せめてとは言わないが、イギリスくらい堂々とした、テロへの非難と各国の協力を呼びかける説得的な演説はできないものかと思う。テロへの感情的な怒りの表明なんて、そのへんの市民なら誰でもできる。代表者としての言葉が欲しかったと思うのは、私だけではなかったはずだ。そのせいかどうか、日本はテロ対策の最初の各国間電話協議で、見事にアメリカから無視された。
これに限らず、日本の代表者の演説というのはとにかく姿勢や方針が見えない。イギリスのような同盟国としての明確な姿勢を見せるわけでもなく、ロシアのようなテロ批判と対米協力といった新しい方針を示すわけでもなく、ただ個人的感想を述べました程度の内容しかない。いや、あなたがどう考えているかではなくて、それに対して「政府として」どう臨むのかそれが知りたいという時に、常にこの個人的な感想ではぐらかされてしまう。日本の政治家は、「政治」を市民に説明するという最も基本的な間接民主主義の原理を、まず実行した試しがない。自分の所信演説だけである。我々が政治に無関心で常に無力感があるのは、この政策非公開の鉄則があるからだ。このどこが民主主義なのか、誰か解説してもらいたいと思う。
さて、憲法問題の方であるが、テロ対策というのは、国防を従来の国家観戦争のレベルだけではない新しい視点で模索する必要から生じたものである。従来の憲法9条が示していたのは、少なくとも、承認政権が自ら名乗りを上げながら、戦争ルールに則って外交対立に決着をつける、武力ゲームへの不参加であった(実は、9条の条文は国連憲章2条の内容に酷似しており、あまり独自性はないのであるが…)。しかし自衛権の肯定は、あらゆる学説に共通の見解である。ではテロに対して自衛の目的で軍事力を行使することができるだろうか?
私は、現状憲法のままでは不可能だと考える。なぜなら、9条2項に示される、交戦権を否認する一文は大変重い。つまり専守防衛であろうとも、交戦権を行使しなければ、その殺戮について民事・刑事の両責任が追求されてしまう。交戦権はある種の殺人特権だからである。そのため事実上、軍事力は利用できない。いくら戦闘機・戦闘員・弾薬・火器があっても、人を殺せば殺人罪に問われ、モノを壊せば損害賠償責任を負うようでは、一般の市民が猟銃を撃つのと本質的には変わらない。殺人特権が日本の自衛隊には認められないのであるから、装備や規模の問題ではない。では、交戦権の否認を修正すれば、自衛隊は軍隊として利用可能だろうか。私はそうではないと考える。さらに一層の矛盾が日本国憲法のより本質的なところから発生してしまう。それは、憲法の三原則の崩壊、つまり平和「主義」の欺瞞と不存在を証明することになるからである。
日本国憲法の三原則が、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義であることは、小学生でも知っている。私は子供の頃、なぜ平和主義が「平和」ではないのかと疑問に思ったことがあった。その後、日本が柱としているのは、単なる平和ではなくて平和「主義」であり、それはどのようにして平和を達成するかについて、武力を使わないという手段で達成する構想のことを指すと知った。そうでなければ、世界中の憲法は皆何らかのやり方で平和を達成するため制定されているから、単なる平和の達成では原則と呼べるほどの特長とはいえない。しかしもし日本が自衛のために自衛隊を持つことが合憲であり、そのための交戦権も存在すると主張するなら、国連加盟国は皆一様に国連憲章でそれら自衛権の行使を保障されており(51条)、日本の平和構想は、原理原則に据えるほどの「主義」ではない。単なる国際常識である。
国際テロとの対決という新しい事態を考えれば、従来の国防観では世界の安全を達成できないことは明白である。だが、一足飛びに日本が軍隊を所有すればコトが解決するという問題でもない。日本人の多くが、軍隊と警察の違いが装備の違いにあると勘違いしているようだが、それはまさに交戦権の有無の問題であり、一国の命令で動かせる軍隊の存在は日本国憲法の原理を崩壊させる。国際テロには国際的に対応できる新たな国際組織をつくり、その中で軍事力行使に参加するしか、平和主義による国防の手段はないと思う(もし、国連の国連軍編成の困難さと、安全保障理事会の根拠なき権力主義が修正されないのであれば)。
さて、自衛隊活動を軍事活動と認め、日本は平和構想に関していかなる主義も持たず、従来より単に世界の常識に従って軍事力を行使するつもりでいたことを、今、内外に堂々と主張し説得できる代表者はいるのであろうか?そもそも毎年8月15日になると、歴代の首相が、政党内閣を崩壊させ不祥事を起こした軍事官僚(A級戦犯)のところへ参拝し、戦争のおかげで抵抗手段も持たずに亡くなった多くの戦争犠牲者の慰霊には殆ど目もくれない状況である(ネットで調べたところ、広島の平和記念式典には参加しているが)。さらに原爆被害者の国家補償もいまだに拒否し続けている。一方でテロの混乱に乗じて有事立法にも匹敵するテロ特措法がさしたる審議もなく成立し、ついでに自衛隊法とPKO法まで改正して軍事力の矛盾を広げたことは、殆ど犯罪に等しい。この国では、原理とか正義とか誠実という言葉は嘘と同義であり、死語なのだと痛切に感じる所以である。