成人式妨害行動に想う
(平成13年01月14日記)

21世紀初めての成人の日である平成13年1月8日、全国各地で新成人を祝う式典が例年通り催された。そしてまたもや起こった。高松市長祝辞の際、市長にクラッカーを投げつけ飲酒に及ぶ狼藉を働いた一部の新成人、橋本高知県知事祝辞の際、会場で騒ぎを起こした狼藉者に対する知事の一喝の映像は全国の茶の間に映し出された。大多数の人がこれら一部若者の行動に強い憤りとやるせなさを感じておられることであろうと思う。そして、高松市は狼藉を働いた不届き者を氏名不肖のまま告訴し、数日後、不届き者は自首してきたところを逮捕された。

これら一連の不届き者を見るにつけ遂にここまで来たかという感慨にとらわれる。マスコミはこれら不届き者の行為に対し、困ったもんだという紋切り調のコメントはするにはするが何が若者をこうさせるのでしょうかというピントのずれたコメント以上のコメントはしない。

これら不届き者は式典に出席した若者の一部であったろうとは思うが、式典中に私語をする多くの若者も同根であろうと思う。彼等に共通しているのは徹底した個人主義であり公の場における身の処し方、倫理観の欠如であろう。戦後50余年の間、日本人は斯くも個人主義を肥大化させ規律喪失状態になってしまったのであろうか。

奇しくも1月13日に福教組結成50周年の大会が開かれている。委員長曰く、これからも民主教育を推し進めていこうと。先の敗戦を境にアメリカ流の民主主義とやらを手本にして国の根幹をなす憲法を新たに推し頂き、全国津々浦々小児から大人まで信じて疑わなかった民主主義、人権至上主義、学校においては福教組に見られる民主教育という名の徹底した個人主義教育、これがどういう帰結を迎えたか先の成人式騒ぎを見れば火を見るより明らかであろう。斯かる事態に立ち至った現今においても福教組は未だ民主教育が足らないと信じているらしい。

しかし国民の大多数は一昨年以来、ベストセラーとなっている「教科書が教えない歴史」シリーズや昨年発刊された「国民の歴史」「国民の道徳」への関心の高さから見ても戦後、日教組指導の下に行われてきた民主教育が如何に子供達を、そして育ち大人となった日本人をここまで駄目にしてきたのか漸く認識し始めたと言える。最近、野党からも提唱されている改憲の動きを見ても今まで信じて止まなかった戦後民主主義をもう一度問い直そうという動きは大きな潮流となりつつある。

今ここに冷静に沈思黙考するにそもそも民主教育の根幹をなす人権至上主義なるものが如何にまやかしの誤った考えであるか!子供達は事ある毎に人権人権と教えられてきた。その結果、個人は至高の権利を有するが故に何をしようとそれは許されるという観念が自然と身に染み付き、成人式騒動に見られるように公の席で守るべき基本的な規律さへも平気で破って恬として恥じることの無い全く倫理観喪失の状態に至ってしまった。

人権を至上のものとするその主体である人間は本当に完全無欠な存在であろうか?そうではあるまい。近々行われるアメリカ新大統領の就任宣誓式を見るがよい。本家本元の民主主義とやらを国是とするアメリカのしかも最大の権力者である大統領ですら聖書に手をおいて国民に国の舵取りを誓うではないか!即ち、最大の権力を持つ大統領といえども完全無欠ではないが故に完全無欠の神に誓うのである。即ちアメリカという国のあり方を根本において体現している聖書に誓うのである。そこには大統領が完全無欠の人間であると考えるような傲慢な人権至上主義の入り込む余地は微塵も無い。

勿論、この人権至上主義を徹底させた個人主義と対極をなす極端な観念的集団統制を突き進めると専制的全体主義へ繋がる。然るに集団規律への服従と個人主義との間にはバランスが必要でありそのバランスへの構え、バランスを保つ平衡感覚はその国をかたち作ってきた長い歴史の中の民族の英知、慣習に存在すると考えるのが至当であると思う。歴史の浅いアメリカはそれを聖書に求めて大統領も宣誓するのである。

こう考えると日本における行き過ぎた個人主義を正しい姿に戻すには先祖より長い年月を経て継承されてきた日本人共通の価値観、道徳観といった慣習の中に日本固有の国柄があると見るのが至当であろうと思う。教育は人を造り、人は国を造る。この荒れた日本を再建するには国を造る根幹は何かと問えば日教組が推し進めてきた民主教育を極めることでは決してなくアジア大陸の東岸に孤島として位置し営々と数千年の間、先祖が築き上げ今や慣習となっているその日本人が歩んだ歴史の英知の中に日本人が進むべき姿を見出したいと思うと同時に日本の将来を担う子供達にも斯かる教育をすることが何にも増して必要なことではなかろうかと思う。