
コミュニケーション論・教育社会学・歴史社会学を展開するページ
このホームページは、鈴木弘輝(すずきひろき)[東京都立大学(社会学)博士]が
自らのコミュニケーション論・教育社会学・歴史社会学を展開することを目指して、作成しているものです。
このような試みに興味を持ってくださった方、感想はこちら(EZD04022@nifty.ne.jp)まで。
ブログを開設します。
これまで、なかなかこのページを更新できずにいたのですが、その不便を解消するべく、このたび自分のブログを開設することにしました。それに伴い、このページの更新はこれが最後になります。
いままでご愛読いただきまして、本当にありがとうございました。そして、これからの情報発信はブログで行いますので、今後はそちらの方をどうぞよろしくお願い申し上げます。
現代位相研究所ブログにアップした文章を、ここにもアップします。
現時点において、私自身の考えていることの一端を示しているものとして、ぜひお読みいただければと思います。
「現代日本で教育を論ずる意義」を考える
昨年の私は、宮台真司氏や堀内進之介氏(当研究所首席研究員)と、朝日カルチャーセンターで講座を担当していた。そして、その際には「教育を社会学的に研究する者」として発言することが専らであり、現に自分の肩書きも「教育社会学者」というものになっていた(ちなみに、この4月からも引き続きこの3名で朝日カルチャーセンターの講座を担当することになっている)。
しかし、私は自分の専門領域を「教育社会学」に留めておくつもりは全くない。現に、私はこの4月から都留文科大学で「コミュニケーション論」という講義を非常勤で担当することになっているし、このブログでも前回は(「モーニング娘。」という)「ポピュラー文化」について少々論じてみたりした。
とはいっても、「これからはもう教育について論じない」といっているのではない。ただ、4月からまた新たな講座や講義を持つにあたって、特に朝カルでは教育について話をふられることがまた多くなるだろうから、ここいら辺でもう一度「(教育学者ではない)社会学者の私が教育を論ずる意義」について考えてみたいと思ったのである。
ということで、今回は私自身が教育を論じるようになった経緯ではなく(もし機会があれば私自身の「主体的な関心」について述べることもあるかもしれないが)、現時点で私が考える「現代日本で教育を論ずる意義」について述べることとする。
そして、その口火を切るために参照するのが、昨年の12月に出版された橋本治の『日本の行く道』(集英社新書)である。この本は、前々回の私のブログで紹介した『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』の続編である。では、なぜ今回この「続編」を取り上げることから始めるのかというと、それはこの本における議論の半分近くが「教育の話題」で占められているからである。
著者の橋本は、「教育学者」でも「社会学者」でもなく、「作家」である。だから、その彼が「これからの日本が行くべき道」について考えることになったからといって、「教育について論じる必然性」はないはずである。それは、教育学者が教育を論ずることとは全く違うことである。しかし、この本は現に、教育に関する議論にかなりの紙数を割いている。そして、私には、そこに「現代日本で教育を論ずる意義」の一端が見えるような気がするのである。
では、「これからの日本が行くべき道」について論じるために、橋本は教育に関する議論をどのように展開するのか。まず登場するのは、「子供がいじめで自殺する」という事態についてである。
まず、彼はこの議論を始めるにあたって、「いじめが問題になるこの日本社会は、なにがどうおかしいのか」という問題設定を行う。次に、1980年代の初めに登場した「小学6年生の男の子がいじめを苦にして自殺」というニュースを取り上げながら、「昔の小学生は『自殺』など考えもしなかったのに、今はいじめにあった小学生が自殺をするようになった」という「変化」に疑問を投げかけている。そして、その「変化」に「現代日本の状況」を見ようとしている。
橋本は、昔の頃までの子供には「助けてくれる大人」がいたので、子供は「自殺」という選択をする必要がなかったという。つまり、ある人に「自分でなんとかしなくてはいけないこと」が大きくのしかかってきたにもかかわらず「自分では何ともできない」となって、それがその人の「自殺」につながるとしても、昔の子供にはそのような「責任」がのしかかってこなかったというのである。しかし、今の子供は「誰にも助けてもらえない」というところに追い込まれているというのである。
その原因として橋本が挙げているのが、「友達」という概念である。彼によれば、かつての世の中には「いじめっ子」のような明白な「他者」がいたのに、今の世の中には「距離のある他人」が存在しにくくなり、本当なら「距離のある他人」であるはずの存在が、「距離を置いてはいけない」とか「『分かり合える仲間』として考えなければならない」などと考えなくてはならなくなったという。そして、そのような前提がはびこっているがゆえに、「『分かり合える仲間』からの排除」=「いじめ」という「剥き出しの残酷さ」に対して人々が気づかなくなってしまったというのである。
そして、1年に3万人の自殺者を出す現代日本においては、このような「コミュニケーション状況」が子供だけでなく大人の世界にも見られると橋本はいう。すなわち、「自殺をする人」や「(未婚・非婚や離婚によって)自分の家を作ることに失敗した人」といった「自分の行き場をなくした人々」というのは、「自分の家から学校に軸足を移して、そしてそのまま拒絶され、行き場をなくしてしまった子供たち」と同じだというのである。
しかも、そのような人々のことを「それは彼ら/彼女ら個人の問題である」とか「それは彼ら/彼女らの『自主的な判断』の結果だから仕方がない」と片づけてしまいがちな現代日本の風潮に、橋本は疑問を投げかけている。そして、そのような現代日本社会を、彼は(「格差社会」ならぬ)「隔差社会」と名づけている。それは、「あるレベルからはずれたら、もう生きていきにくくなる」、「あるレベルからはずれた人間たちなんか知らない」という「オール・オア・ナッシング」の世界のことである。
橋本のいう「隔差社会」とは、いたるところに「自助努力」や「自己責任」といった言葉が充満している社会である。言い換えれば、「当人の自主性に任せたんだから、こっちは関係ない」という「我知らず」の拒絶が野放しにされた社会であり、そうであるがゆえに結果として「格差」も「いじめ」も野放しのまま隠蔽されている社会である。
では、そのような現代日本に必要なのは何か。橋本によれば、それは「思いやりが足りない」ということを日本の人々が認めることである。さらに、彼は現代日本がこのようになってしまったルーツを、「明治以来の人々の働き方」に求める。そして、「一部の政治的指導者たちが『産業革命の達成=近代化の実現』を先導し、人々はそれに従って働く」という従来の「人々の働き方」に代えて、「必要なものを必要なだけ作る」という人々の生活を支える程度の「民主主義」を達成することが大切だと説くのである。
ここまでの橋本の議論において最も重要なのは、「いじめ」という「教育の問題」から出発して、最終的に「人間の労働の仕方」=「人間の生き方」にまで議論が進んでいるということである。
まず特筆すべきは、「いじめ」という「教育問題」を「個々人における感情の有り様の問題」に絞り込んだということである。もっとも、このようにまとめると、以下のような反論が来るかもしれない―「いや、そうではなくて、『個々人における感情の有り様の問題』である『いじめ』を『コミュニケーション様式の問題』に転換し直したということではないか」と。
しかし、橋本がやっているのはそういうことではないだろう。それは、彼はこの一連の議論の最終節に、「思いやりのなさが人を混乱させる」というタイトルをつけていることから読み取れることである。
もし、「ある基準から外れても、それは彼ら/彼女らの『自主的な判断』の結果だから仕方がない」という風潮が現代日本にあることを示して議論が終わっているのであれば、それは「現代日本のコミュニケーション状況」を示して終わってしまっているのであり、きわめて「(悪い)社会学的」である。しかし、橋本の議論はそこで終わることはなく、「だから人々には思いやりがないのだ」という非常に「教育(学)的」な結論を出すところまで文章が進んでいる。
私は、橋本がそのような結論を出したところに、「教育学者」でもない者(作家でも社会学者でも)が「現代日本で教育を論ずる意義」の一端を見る。つまり、これほどまでに「他の人間の問題なんか、僕には関係ない」という風潮のはびこっている現代日本において、「現代の日本人には思いやりがない(からけしからん)」といった「人間の感情の有り様」そのものに対する堂々とした批判を展開できるのは、このような「教育(学)的」な言説しかないということである。このような言説を摂取することによって、「人々の心掛けが悪いのは『社会の在り方』のせいだ」という「社会学の悪用」をただし、人々の様態に批判を加えたりできるようになるのだと、私は考える。
そして、次に特筆すべきは、そのような「個々人のおける感情の有り様の問題」を「人間の働き方の問題」に結びつけ、さらにそれを「人間の生き方の問題」へと結論づけたことである。つまり、「他の人間の問題なんか、僕には関係ない」という人々の心情を「日本社会の現状把握」に結びつけて終わりにするのではなく、「現代における人間の働き方」の問題との関連へと議論を展開し、最後に「人間学的」な結論と「民主主義」を結びつけるところまで文章を進めているということである。
フランスの社会学者であるP.ブルデューは、晩年に「労働」を「人間の生き方」と結びつけた上で「グローバリゼーション」を批判する言説を展開していたが、日本ではそのような社会学的議論はあまり見かけることができない。だからこそ、「人間学的」な議論のとば口としての「教育学的」な議論が日本では意義深いと考えられるのである。
現代位相研究所ブログにアップした文章を、ここにもアップします。
現時点において、私自身の考えていることの一端を示しているものとして、ぜひお読みいただければと思います。
「モーニング娘。の10年」と日本社会の変化
今回はいきなり「モーニング娘。」に関する議論を展開するのであるが、何も私が突然のように「モーヲタ」に目覚めたというわけではない。宮台真司・堀内進之介(当研究所首席研究員)の両氏と共著の『幸福論』でも少し披露したように、私も「1970年代以降のポピュラー文化(マンガやら女性アイドル歌手やら)と日本社会の関係」というお題で少々語る程度の知識なら、なんとか持っているのである。
ということで、今回のテーマは、「『モーニング娘。』10年間の変遷」から「日本社会の変化」について考える、というものである。
去年の12月に発売になった『DVD映像 ザ・モーニング娘。』は、1998年にメジャーデビューしたアイドルグループ歌手「モーニング娘。」が結成10周年を迎えたことを記念して発売されたものである。メジャーデビュー曲の「モーニングコーヒー」に始まり、その後「シングル曲」として発売された全35曲(この時点での最新曲「みかん」まで)のPVが、DVD2枚に発売順に収められている。したがって、このDVD2枚組を通してみることによって、「モーニング娘。」というグループのメンバーの入れ替わりや、曲調や歌詞内容の変遷を確認することができる。
しかし、実際にモノを購入してみて真っ先に感じたのは、装丁などのあまりの「そっけなさ」である。曲がりなりにも10年間、「1つのアイドルグループ歌手」として活躍してきたのだから、「この10年の名場面を集めた『ミニ写真集』」とまではいかなくとも、せめて『ヒストリーブック』ぐらいつければいいのに」と思ったのだが、そういった「付録」は一切ないのだから、驚きである。
何せ、パッケージを開けるとDVDが2枚入っているだけで、後は「コンサートのお知らせ」のチラシ1枚のみ。このグループをめぐる歴代の様々な事情を予め知らなければ、「メンバーの誰がどこで入れ替わったのか」ということさえ分からないようになっている。もちろん、「とても公式に記せない理由」でメンバーを降りた子もいるので気持ちは分かるが、もう少し「親切」な作りにしてもよかったのではないだろうか。
それでも歴代のPVを通して見ていると、1つの興味深いことが分かってくる。それは、「『モーニング娘。』の変遷にはヤマが2つある」ということである。以下では、それを順に追って述べていこう。
まず、1つめのヤマは、もちろん『LOVEマシーン』(1999年9月)から、『恋のダンスサイト』(2000年1月)、『ハッピーサマーウェディング』(2000年5月)、『I
wish』(2000年9月)、『恋愛レボリューション21』
(2000年12月)までの5曲の流れの中にあり、それは『ハッピーサマーウェディング』と『I
wish』である。
それまでの「モーニング娘。」は、テレビ番組「アサヤン」での放送もあって話題性は多かったものの、どうしても「B級アイドル」のイメージを払拭できないでいた。そこで、いわば「ピンクレディー路線」(『UFO』[1977年12月]を彷彿とさせる)お揃いの衣装、眼を引く特徴的なダンス、耳に残る印象的な歌詞)を踏襲して『LOVEマシーン』を発売したところ、これが起死回生のヒットとなったのであった。
(他のメンバーと比べて)アイドル性の高い後藤真希をメンバーに加え、「不景気」、「インフレーション」、「明るい未来に就職希望」、「日本の未来は世界がうらやむ」といった「新聞・ニュース語」をちりばめたことが功を奏したのか、この曲は1999年を代表する曲となり、「モーニング娘。」はようやく「人気アイドルグループ歌手」となる。そして、同系統の「二番煎じ」ともいえる「恋のダンスサイト」を経て、さらにヒットをねらったのが「ハッピーサマーウェディング」である。
加護亜依、辻希美、石川梨華、吉澤ひとみを新たにメンバーに加え、さらなるアイドル性の強化をねらったこの曲の特徴は、歌詞内容としていわば「ファミリー路線」を採用したことである。「ウェディング」をテーマとしたこの曲では、「結婚する娘が両親に感謝を捧げる」というスタイルで全編が貫かれている。歌詞の一部を紹介しよう。
アー 父さん母さん(ヤイヤイヤー)
アー 尊敬します(ハイ!ハイ!)
アー わがまま娘(ヤイヤイヤー)
アー これからも娘(ハイ!ハイ!)
一生懸命 親孝行(Fuwa Fuwa Fu−!)したい
それまでとは違い、一目見ただけでかなりの制作費を投入したと分かるPVは、「恋愛から結婚=子から親への尊敬・親孝行=娘の幸せ」といった雰囲気に満ちあふれている。年少世代にも人気が出てきたことを受けて、そういった「明るく幸せな恋愛」という歌詞内容を用意したということであろう。
そして、次の『I wish』と『恋愛レボリューション21』では、そのような路線がさらに深められ、「素敵な恋愛をして前向きに人生を送ろう」というイメージを、さらに強化している。以下は、『I
wish』の歌詞の一部である。
誰よりも私が
私を知ってるから
誰よりも信じてあげなくちゃ!
人生って すばらしい ほら 誰かと
出会ったり 恋をしてみたり
Ah すばらしい Ah 夢中で
笑ったり 泣いたり出来る
このように、ここまでの5曲は一貫して「恋」とか「愛」とか「LOVE」などがテーマとなっている。おそらく、『LOVEマシーン』がヒットしたので、「LOVE」に関連した曲でどんどん流れを作ろうとしたのであろう。
しかし、このような一連の歌詞内容で終わってしまうのであれば、「アイドル歌手の曲」としては特に目新しいものはない。なぜなら、この手のテーマは実に多くの歌手によって、すでに十分歌われているからである。したがって、「モーニング娘。」がその「らしさ」を明確に見せるのは、「次のヤマ」なのである。
2つめのヤマは、『ザ☆ピ〜ス!』(2001年7月)から、『Mr.
Moonlight 〜愛のビッグバンド〜』(2001年10月)、『そうだ! We're
ALIVE』(2002年2月)、『Do it! Now』(2002年7月)、『ここにいるぜぇ!』(2002年10月)と続く5曲の中にあり、それは『Do
it! Now』と『ここにいるぜぇ!』の2つである。
今度の5曲の特徴として挙げられるのは、「身近な人たちとの(普通の)共同性」を高らかに歌い上げるということである。まずは、『ザ☆ピ〜ス!』の歌詞から見てみよう。
EVERYBODY GET UP ウチらが住む
未来だぜ LET'S GET UP
EVERYBODY SREAM 意味ないけど
コンビニが好き HAHAHAHA
選挙の日って ウチじゃなぜか
投票行って 外食するんだ
(奇跡見たい すてきな未来 意外な位 すごい恋愛!)
LET'S GO! LET'S GO! LET'S GO! LET'S GO! LET'S
・・・PEACE PEACE!
好きな人が 優しかった(PEACE!)
うれしい出来事が 増えました
大事な人が わかってくれた(PEACE!)
感動的な出来事と なりました
この曲では、「ウチら」という主に10代の女子が使う代名詞や、若者たちが集団で出入りする「コンビニ」という言葉を使いながら、家族や「好きな人」との身近なコミュニケーションの大切さを「モーニング娘。」たちが明るく元気に歌っている。そして、PVの途中では、「モーニング娘。」のメンバーたちが嵐の中をめげずに、全員で力を合わせて「m」の旗を船のマストに掲げるというシーンが登場する。これなどは、「『モー娘。』の旗の下に」という「共同性」、言い換えれば「『モー娘。』共同体」の表れであろう。
それは、次の『Mr. Moonlight 〜愛のビッグバンド〜』と『そうだ! We're
ALIVE』にも表れている。これら2つのPVは、「とても楽しい(中学校の)文化祭」というイメージを濃厚に漂わせている。特に『そうだ! We're
ALIVE』のPVは、全編を通じて、「赤・青・黄の3色で彩られた『M』の旗をバックにメンバーが歌い踊る」という構成となっている。つまり、ここでもまた、「『モー娘。』の旗の下に」という「『モー娘。』共同体」を明確に志向しているのである。
そして、そのイメージは『Do it! Now』と『ここにいるぜぇ!』で、さらに明確に描かれている。まずは、『Do
it! Now』の歌詞を紹介しよう。
最初のデートの帰り道
口づけしたこと覚えてる
ほんの一秒足らずでも
Ah 一生忘れない
何度か歩いた商店街
ギリギリ間に合った終電車
ドキドキしたと同じ分だけ
恋に落ちていった
どんな未来が訪れても
それがかなり普通でも
一歩一歩でしか
進めない人生だから
立ち止まりたくない
DO IT NOW!
宇宙のどこにも見当たらないような
約束の口づけを原宿でしよう
DO IT!
私の持ってる 未来行きの切符
あなたと二人できっと叶えたい
I Love You
この歌詞内容で注目すべきことは2つである。1つは、「商店街」などの「地元(ジモト)」をイメージさせる言葉を使っていることである。つまり、「原宿」という「東京の都会」の代表である地名が「二人のこれからの目標」にからんでいることから、この恋人たちが生活しているのが「都会ではなく地元(ジモト)」であることが示されている。
もう1つ注目すべきことは、「自分の未来が『かなり普通』でも進んでいこう」という主張が、言葉としてはっきりと表れていることである。つまり、「それほど特別ではない未来であっても、二人で(ジモトで)幸せになりたい」というイメージが、この曲全体のコンセプトとなっているのである。
次は、『ここにいるぜぇ!』であるが、これはここまでの「『モー娘。』共同体」路線の集大成ともいえる曲である。
YES! WONDERLAND
夢の翼を広げ
(Here is Wonderland)
BREAK THROUGH
自分をブチ破れ!
僕らはまだ夢の途中
みんなみんなそうなんだ
いいわけなどGOOD BYE BYE
チャンスはそこにある
YES! WONDERLAND
愛の翼を広げ
'I'M HERE'
今ここで叫ぶぜぇ!
この曲のPVは、「モーニング娘。」のメンバー全員がステージで歌い踊り、それを見ている観客と一体化するという構成で出来上がっている。すなわち、「モーニング娘。」たちと一緒に過ごしている「今ここ」こそが「ワンダーランド」だというのである。そして、全員で力を合わせて「m」の旗を山の上に掲げるというシーンが、やはりPVの最後に登場する。つまり、「『モー娘。』の旗の下に」という「『モー娘。』共同体」の明確なイメージを強調して、このPVは終わっているのである。
しかし、次の『モーニング娘。のひょっこりひょうたん島』(2003年2月)では、まだ「とても楽しい(中学校の)文化祭」というイメージがPVに漂っているものの、その次の『AS
FOR ONE DAY』(2003年4月)以降、それまでのように「『モー娘。』共同体」を特に強調するような曲は、ほぼ全くといっていいほど歌われなくなる。もちろん、「アイドルグループ歌手」であるから、全員が共通のセットで歌い踊るというシーンは、現在に至るまでたくさんPVに出てくる。しかし、歌詞内容が一つの方向性を持っているということは、もはや失われているのである。
ここまでの議論を踏まえて、私がここで考えたいことは、「なぜ途中で『歌詞内容のイメージ変更』があったのか」ということである。しかし、このことについて考える前に、「『モー娘。』共同体」のイメージとはどのようなものだったのかということについて、まずは考えなければならないだろう。
いきなり乱暴な言い方をすると、この「『モー娘。』共同体」の前提となっているのは、「知識(知性・理性)と感情(友達・家族・恋愛関係)は別もの」という図式だと考えられる。すなわち、「たとえ学校では冴えなくても、自分の身近な人たちとの『共同性』の中では幸せに暮らせる」、「勉強は出来なくても、愛があれば大丈夫」というイメージで語ることの出来る図式である。
そして、このイメージが前提としてあったからこそ、「コンビニ」や「商店街」といった「ジモト」と結びつく言葉を並べて、そこを舞台とした「親密な人間関係」を明確に描くことが出来たのではないかと考えられるのである。
したがって、「なぜ途中で『歌詞内容のイメージ変更』があったのか」という問いに対しては、「『モーニング娘。』の作り手」の側が「そのような前提がもはや成立しなくなった」と考えるようになったからではないか、と答えることが出来る。そして、その分岐点となっているのが、それぞれのシングル曲が発売された年を追っていけば分かるように、2003年なのである。
とはいうものの、では「日本社会にとって2003年とはどのような年なのか」と聞かれても、「2001年に小泉純一郎内閣が発足してから2年経った年」とか、「(イラク戦争の開始に伴った)イラク復興支援特別措置法が成立した年」といった事実でしか答えることができない。しかし、こういうことぐらいは言えると考えられる。
―この年ぐらいから、「『ジモト』の共同性へ感情的に寄りかかる」といった姿勢が、人々にとって魅力的なものと感じられなくなってきたのではないか―。
すると、今度は逆のことも言えるようになる。例えば『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(水野和夫著、日本経済新聞出版社)は、「世界経済を支配する法則は、1995年を境に一変した」というが、日本社会では2002年ぐらいまでは、(ハーバーマスのいう)「生活世界」のヴァリエーションである「『ジモト』の共同性」が残っていたのではないか、と。
そして、「モーニング娘。」に限らず、90年代のポピュラー文化や若者の様子を考える時には、このようなことを再検討してみる必要があると思うのだが、いかがだろうか。
現代位相研究所ブログにアップした文章を、ここにもアップします。
現時点において、私自身の考えていることの一端を示しているものとして、ぜひお読みいただければと思います。
「閉じられた社会」を相対化するための「教養」
前回のブログで、高田里惠子の『グロテスクな教養』を引用しながら「教養」について述べてみたのだが、今回はその続きである。
その本の中で、高田は「教養」を「自分自身で自分自身を作り上げようとすること」と定義しているのだが、そのことを踏まえた上で、彼女はさらに「逆転的」な見解を示している。それは、「教養」を考える上で重要なのは、「自分が他者からどう見えるか」ということだというものだ。
その見解によれば、自分自身は他者の承認によってしか確認できないものであるのだから、「教養主義的読書」は「自己に閉じこもった作業」どころか、「他者との関わり」そのものだった。そして、戦前期の日本にとっての「教養主義的な他者との関わり」=「教養の培われる場としての対面的人格関係」とは、「旧制高校」という「閉じられた社会」における友人関係のことを主に指すのである。
では、その場合の「教養を身につけた人」=「教養人」とは、どのような人か。それは、「他者との建設的な関係をとりむすぶことのできる、伸びやかで健全な普通人」だということになる。そして、高田は、そのような見解を示す代表的な「教養人」として、『ビルマの竪琴』の作者・旧制第一高等学校教師の竹山道雄を挙げる。
高田によれば、竹山は「『エリート』の代名詞である『旧制一高生』たちの大部分が『普通』である」ことを強調する。そして、そのような「普通」の学生とは正反対のタイプの者に、手厳しい批判を加えているのである。
その「一高生」は、ランボオとショパンを崇拝し、フランス語を愛し、自ら詩を書いており、一高寮内の仲間に「自殺」をつねづね公言していたという。そして、実際に「自殺」を果たす際に、彼は「自らの死後」について、友人たちに以下のような「遺言」を残していたという。それは、自分の「自殺」を大手新聞社に通報することと、自らの「遺稿集」を出版することの二つであった。
しかし、高田はこの「一高生」とその友人たちのとった行動こそ、「教養の培われる場としての対面的人格関係」なのではないかと論じており、それを「他者との比較・競争関係の胸苦しさ」と表現している。なぜなら、そのような「エリート」は、すでに「受験の勝者」として承認されてしまっている者同士であるがゆえに、「なおも自分を特権化しうる差異」を求める競争を行っているからである。そして、そのような《「他者との比較や競争」を通じての葛藤をくぐりぬける》という体験の回避が、現在における「自己形成」の問題点であるとしているのである。
高田が問題としているのは、「教養人になる」というプロセスについて、竹山道雄が「他者との比較や競争に参加すること」を否定した上で、「普通であること」を奨励しているように見える点である。つまり、「『教養人』たらんとするならば、『他者との比較や競争』などに心血を注ぐのではなく、むしろ『普通』に過ごしている方が望ましい」という「教養論」には、やはり問題があるのではないかと高田は述べているのである。
もっとも、高田も「他者との比較や競争」にうつつを抜かしているだけでは、やはり「自分自身で自分自身を作り上げようとすること」は困難だと考えているようである。なぜなら、彼女の文章では「葛藤をくぐりぬける」と表現されているからである。すなわち、「他者との比較や競争」という「閉じられた社会」に留まったままでは「教養」は身につかず、そこを「くぐりぬける」という次のステップが「教養人への道」だと考えているようなのである。
このような高田の議論は、「『閉じられた社会』をくぐりぬけろ」と無理やりまとめることができるだろう。すなわち、「自分の身近な人とのコミュニケーション」に拘泥することなく、「『閉じられた社会』を相対化することのできる視座」の獲得を目指すことが、「教養人への道」だというのである。
しかし、「『閉じられた社会』を相対化することのできる視座」の獲得は、何も「『自分の身近な人とのコミュニケーション』からの脱出」によってのみ得られるものではない。むしろ、現代の日本社会においては、「『身近な人とのコミュニケーション』への脱出」によってこそ得られるとも考えることができるのではないか―。そのような思考へと読む人を誘ってくれるのが、橋本治の『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』である。
橋本は、最近の「勝ち組・負け組」という二分法的判断が、「それ以外の思考様式を人に許さない」ものであると指摘している。そして、そのような判断の背後に、「日本経済は破綻しない」、あるいは「世界経済は破綻しない」という思考があると推論している。
すなわち、「『世界経済は破綻しない』で成長するのだから、その流れに乗らなければならない」という思考が停留にあるからこそ、「あの人(学校・企業)は『勝ち組(・負け組)』だな」という判断ばかりが意識にのぼってしまい、さらには「『勝ち組』の流れに乗り遅れるな」といわんばかりの行動に出てしまうというのである。
つまり、橋本の意見をこれまでの流れの中でまとめるならば、「勝ち組・負け組」という二分法で他人や物事を判断している人々は、「世界経済は破綻しない」という意見だけが絶対的な「閉じられた社会」に住んでいるのだというのである。そして、橋本自身は以下のように、「『身近な人とのコミュニケーション』への脱出」によって「『閉じられた社会』を相対化することのできる視座」を獲得しようとする。
私が言いたいのは、どこでどうなっているのか分からない「世界のあり方」なんてものを勝手にシミュレイトして、それに自分を合わせようとしたって、合うかどうかなんか分かんないじゃないか、ということです。
自分が「世界の中」で生きているんなら―そのことを明確に自覚していたら、「世界」だって、「合わせてやろう」と言って向こうからやって来るかもしれないという、そんなことだけです。「世界」という、よく分からない遠くの現実に合わせるより、自分の生きている現実との調和関係を維持構築することの方がずっと重要で、そういうことをしていなかったら、遠くの「世界」が「こんにちは」と言ってやって来たって、どうしたらいいか分からないままでしょう。
自分の生きている現実との調和関係が維持構築出来ていて、そんな自分が「世界」に必要とされるのなら、その時は、自分の現実がほんのちょっと広がるだけで、「遠い世界も、小さな自分の現実も、現実になってしまえば違いはないな」と思うだけです。
(橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』集英社新書75-76)
ここで橋本が指摘したいのは、本来ならば「世界経済」といった「視野」に立って物事を見ることは、「大局的に物事を見る」ことであるはずなのに、かえって自らの「視角」を狭くしてしまっているという「逆説的事態」だと考えられる。
すなわち、いささか乱暴な結論ではあるが、「グローバル」や「コスモポリタン」といった「大局的な観点」を人に与えてくれそうな概念が、かえって人を「『閉じられた社会』の住人」にしてしまい、結果的に「『閉じられた社会』を相対化することのできる視座」を獲得できなくしてしまうと考えられるのである。そして、もしそのような「『閉じられた社会』の住人」であるならば、その人がどれほど「グローバル」や「コスモポリタン」について知識を深めたとしても、それは「教養」から最も遠い作業だということである。
現代位相研究所ブログにアップした文章を、ここにもアップします
現時点において、私自身の考えていることの一端を示しているものとして、ぜひお読みいただければと思います。
「新潮文庫の100冊」から「教養」のあり方を考える
もう夏も終わりだというのに、「今さら・・・」という話題を持ち出して恐縮だが、みなさんならば「新潮文庫の100冊」というのは、きっとご存じであろう。
毎年夏になると全国の本屋の文庫本コーナーで大々的に行われる、あれである。確か以前は、テレビやラジオのCMも流れており、やや低い男性の声が、叫ぶでもなくささやくでもなく、淡々と「この夏、新潮文庫の100冊」と言っていたような記憶がある。何年か前は、宮沢りえが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節を朗読していたものも放映されていたはずである。
しかし、よく考えてみると、「いったい何で、『この夏、新潮文庫の100冊』なんだ?」という疑問がわき上がってくる。出版社や各書店の継続的な努力の蓄積のおかげで、今では「夏が来れば〜」といった様相を呈しているが、そもそもこのキャンペーンは何を訴えようとしているのだろうか。
私が改めてそう思う理由は、「〜だから、『新潮文庫の100冊』を読もう!」といったもっと具体的なキャプションが、このキャンペーンにはないというところにある。もちろん、公式の小冊子やホームページなどを見れば、その由来や意味するところが説明されているのかもしれないが、少なくとも各書店の店頭では、そのような文言を見つけることは難しい。各書店の店員さんが工夫を凝らして「この本は、〜ですよ!」とそれぞれの本を宣伝してはいるが、それはあくまでも「それぞれの本の宣伝」であって、「『新潮文庫の100冊』の宣伝」ではない。
それでも、今年のラインナップを見てみると、100冊のうちの何冊かは明らかに「中学入試によく出題される小説」である。私はいま中学入試にしか深く関わっていないので、高校入試や大学入試の状況は分からないが、おそらくそれは似たような状況ではないだろうか。そして、それならば「○○入試によく出るから、『新潮文庫の100冊』を読もう!」とした方が宣伝効果も高いだろうと思うのに、それは全くなされていない。つまり、「〜だから、『新潮文庫の100冊』を読もう!」といった具体性がないままに、ただ「この夏、『新潮文庫の100冊』」とうたわれているだけなのである。
では、このキャンペーンは何を訴えようとしているのか。そのことについて考える上で、ここでは「現代における『教養』のあり方」といった主題を掲げてみたい。
この手の主題について論ずるに当たり、最初に参照すべきは何といっても『教養主義の没落』(竹内洋著、中公新書)であろう。それによると、「夏に読書」というのは新潮文庫の専売特許ではなく、「昔の大学生」の一般的作法だったようである。『教養主義の没落』には、以下のような論述がある。
《昔の大学生は故郷や避暑地(高原や海岸)で書物を読んだり、高等文官(公務員)試験の勉強をするというのが正しい夏休みの過ごし方だったのである。だから昔の雑誌は夏休み前になると、「夏期学生読物」のような記事を載せていた。といっても最初立てた読書の予定の半分はおろか三分の一も進んでいないところで、夏休みは終わってしまって愕然とする、というのが毎年の顛末であった。
(中略)閑静な田舎で、読書を含めてゆったりと過ごすことができたことは、なんとも贅沢な時間と経験だった。いまにしてあらためて思う。こうした都会を離れる大学生の夏休みの「正しい」過ごし方が消えたのは、なんといってもクーラーの登場が大きい。多くのすぐれた書物を読むという夏休みの過ごし方が消えたのは大学生の世界から教養主義が消滅したことによるだろう。》(9-10頁)
そして、この本の最後の方では「『教養』のあり方」について、〈「教養」は現状に「適応」するためだけに必要なのではなく「自省」するためにこそ必要なのであり、言い換えれば自らの妥当性や正統性を疑うために必要なのではないか〉と論じられている。これは、私が『幸福論』(NHKブックス、200-201頁)で紹介したとおりである。
しかし、このような「『教養』のあり方」に関する提言も、『グロテスクな教養』(高田里惠子、ちくま新書)の著者の言い方にならえば、非常に「いやったらしい」物言いと見なされるだろう。この著者自身は、そこまで明言はしていないが。
なぜ私がそう思うかというと、この『グロテスクな教養』という本には、これまでの日本社会において「教養」と目されてきた諸言説に対する揶揄が、ふんだんに盛り込まれているからである。例えば、以下は庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を初めとする「赤黒白青四部作」に関する論述である。
《それにしても、いま改めて読み直してみると、これほど不愉快な、あるいは薫くんの口癖の言葉を使えば「いやったらしい」小説はなかろう、とさえ思われてくる。薫くんは、日比谷高校という、当時の超有名校に通う「いやったらしいエリート」で、ピアノとテニスが得意で、女の子にもてるのに「ドーテー」で、そのうえ山の手の高級住宅街に住む良家の子息である。東大入試が中止にならなければ、ごく自然に東大に進学しただろうし、薫くんの二人のお兄さんをはじめとして、登場する大人の男性たちのほとんどが、漱石の小説と同じように東大出である。》(57頁)
では、なぜ『グロテスクな教養』では、「教養」あるいは「教養主義」は揶揄の対象になるのか。それは、この本の著者独自の「教養」観があるからである。その一端が見える論述を、少し長くなるが以下に引用することとする。
《それにしても、「君たちはどう生きるか」とは、素晴らしい題名ではないか。教養論とは、陰に陽に「君たちはどう生きるか」を伝える文章の謂であり、教養主義とは、文章のなかに「君たちはどう生きるか」を、頼まれてもいないのに、つい読みとってしまう態度であると考えると、一九六〇年代に教養主義的読書の最後を飾ったサルトルの著作も教養論になるだろう。
丸山眞男の、これもまた名高い「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」にあるように、ここでは、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」人間の主体的生き方が教示される。現在の視点で読んでみると、主人公の属する階級も含めて、雲の上の人の話としか思えず(もっとも丸山眞男も「「ずいぶん上流だなあ」と私には思わせるものがありました」と言っているが)、どう生きるかを主体的に選びうる「君たち」というのが、実は少数の特権的な男の子たちだけを指していたことがよく分かる。実際、「君のような恵まれた立場にいる人が、どんなことをしなければならないか、どういう心掛けで生きていくのが本当か」と語りかけられている。
だが、これは非難の言葉ではない。「君たち」というのが、少数の特権的な男の子たちだけではなくなったことが、教養(主義)の衰退なのである。現在では、こういう差別的なヤバイ態度を平気で、あるいは、わざと押し出しているのは、『新教養主義宣言』の山形浩生や『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』の立花隆くらいしかいないことのほうに、むしろ注目しておこう。
それなりに才能のある少数の男の子たちが、いかに生きるかは、国家的な問題であったわけだが(とくに昭和のファシズム期から、「戦後」と呼ばれる時期にかけてで、これがまさしく教養主義時代である)、そうではなくなったのが、そうとは口に出さなくなったのが、「教養主義の没落」以後の日本なのだ。そしてこれは、われわれの考察にとっては重要な点なので、ここで強調しておくが、突出した才能に恵まれた男の子(この場合では女の子でもよい)には、「君たちはどう生きるか」なぞまったく関係ないのである。》(26-27頁)
さらに、この著作の「はじめに」には、《それなりに才能がある、つまりそれなりの才能しかない。その事実をみずからの力によって知っていくエリート(と呼ばれる)青年たちの姿を、教養言説を背景として描き出してみること、それが本書の狙いである》(10頁)とある。だから、先の引用とこの「はじめに」を合わせて読んでみると、この著者の言いたいことが分かるはずである。では、それはどのようなものか。
それは、〈「教養」が最もよく宿るのは、「本当はもっと『デキる』はずだったのに、○○ではなく××にしかなれなかった」と自らの現状を哀切とともに自覚する人たちだ〉というものである。すなわち、そのような人たちは「『自らの妥当性や正統性』を疑ってみたところで、今さら○○になれるわけではない」と、痛切にそして冷静に思っている。言い換えれば、「自分には、もはや『新しい人生の扉』など開かれない」といった認識に、自らのこれまでの人生経験を通じて至っている。そして、そうであるにもかかわらず/そうであるがゆえに、これからも彼ら/彼女らは「自らの妥当性や正統性」を疑い続けていく。なぜなら、それこそが「(では、そのような)自分はどう生きるか」と考え続ける「教養主義的な行為や態度」だからである・・・。
『グロテスクな教養』の著者は、「ほんとうの『教養』とはそのようなものである」といったそのあり方を指して、自著に「グロテスクな〜」という修飾語をつけたのではないかと考えられる。ちなみに、この「グロテスクな〜」について、著者自身は《ここには、確固とした理念としてではなく、生きて戸惑い動揺している教養の「神聖喜劇」という意味を込めた》(235頁)と述べている*。
「教養」を「自らの妥当性や正統性を疑うこと」と提言した『教養主義の没落』の著者は、「では、その先に何があるのか」について、慎重にも何も語っていない。その一方で、その言説を読む人には、「その先に何かがあるからこそ、そのようにしなさい」と著者が語っているように「誤解」されがちである。しかし、その後の人生の中で、ほんとうの「教養」の何たるやを知ることとなった人は、そのような「誤解」から解き放たれる。では、その「誤解」から解き放たれて、その人は何を得るのか。それは、「自分はそれなりに才能がある/それなりの才能しかない」といったことに対する自覚である。そして、その人はそう自覚するにもかかわらず/そう自覚するがゆえに、これからも「(では、そのような)自分はどう生きるか」と「自らの妥当性や正統性」を疑い続けていく・・・。
私は、この「そう自覚するにもかかわらず/そう自覚するがゆえに」といった「ほんとうの『教養』」のあり方に対して、「グロテスクな〜」という修飾語がつけられたのだと考える。そして、私がこの「グロテスクな〜」という語からさらに考えるのは、これを自らの書名につけた著者の思考の発端に、〈ある人々が「自分はどう生きるか」と「自らの妥当性や正統性」を問うことには、どのようなコミュニケーション上の前提があるのか〉といった「社会学的な問い」があったのではないかということである。
以上のように考えることを通じて、「新潮文庫の100冊」にはなぜ「〜だから、『新潮文庫の100冊』を読もう!」といった具体性がないのかについて、私なりに理解することができた。それは、「『新潮文庫の100冊』には一切の具体的なキャプションがない」ところにこそ「教養」の何たるやが宿っているのであり、さらにその「グロテスクさ」を強調するために、ただ「この夏、『新潮文庫の100冊』」とうたっているのだということである。つまり、そのような意味において、「この夏、『新潮文庫の100冊』」というコピーは、「ほんとうの『教養』」のあり方を示しているということなのである。
*『グロテスクな教養』の中で『神聖喜劇』がどのように論じられているかについては、各自で確認してほしい。
『幸福論』の見本ができました
表紙の画像をアップします。3月31日の講座では、この本についての詳細な議論を展開する予定です。
皆様ぜひご参加ください。

2007年3月31日(土)に、朝日カルチャーセンター新宿教室で講座が開講されます
3月31日(土)15:30〜17:30に、朝日カルチャーセンター新宿教室において堀内進之介氏と私の両名による講座「〈共生〉の不可能と不可避について」が開催されます。
本講座は3月30日にNHKブックスから出版される、宮台真司氏と堀内氏と私による鼎談本『幸福論
<共生>の不可能と不可避について』の出版に合わせて、堀内氏と私が内容の解説に加え、本では盛り込めなかったことについてもお話しするものです。
皆様ぜひご参加下さい。なお連絡先、受講料等詳細は以下のURLをご参照願います。
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0704koza/A0101.html
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0704koza/A0101_html/A010114.html
『幸福論』に収められている私の文章を、一部アップします
3月30日に発売が予定されている、共著『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』(NHKブックス)には、
会話調の本文以外に、著者それぞれが執筆した文章が収められています。
ここでは、そのうちの私のものを、一部ですがアップします。
==
「幸福」から「教育」へ、「教育」から「幸福」へ:鈴木弘輝
この文章は、第一章から第三章までの前半の議論と、第四章と第五章の後半の議論の間をつなぐものとして、本書における全ての議論が終了した後に書かれている。前半では、主に人々の「幸福」につながる「政治のあり方」をめぐって議論が展開されてきたのに対して、これから展開されるのは、「幸福」につながる「教育のあり方」をめぐる議論である。このように「政治から教育へ」と本書の論題がスイッチすることについて、ここでは簡単に補足をしておきたいと思う。
政治社会学を専攻する堀内氏と、教育社会学を専攻する私に対して、宮台氏はある問題を投げかけている。それは、現代の日本社会における人々の「幸福」を考えるのであれば、特に若年層に「まともな感情プログラムをインストールする」ための具体的な方法を定め、それに基づいた諸実践を行う必要があるのではないかというものである。
宮台氏による上のような問題提起は、彼自身の現状認識に基づいている。それは主に第一章で語られているが、ここで改めて簡単にまとめると、次のようになる。日本社会においてかつては人々のコミュニケーションを支えていた「暗黙の前提」が自明なものでなくなり、年長世代が行っていたようにそれらを当てにしてコミュニケーションを持続することができなくなってしまった。そのため、今の若年層が個別の状況にそくして自らの感情を表出できなくなってしまっており、そのことが様々な「不幸」を呼び込んでいるというものである。そして、現行社会に必要な政策を決定するために「政治」が必要で、そこで決められた実践を担うのが「教育」だというのが、宮台氏の議論の流れである。したがって、三人の議論もおおむねその流れに従っており、本書の前半では「政治」を行う前提となる「グランド・デザイン」をめぐる議論を行い、後半ではその「グランド・デザイン」を「教育」において実践する際に考慮すべき諸問題について議論するという順番になっている。
*
前半の三つの章では、「教育」を決定する「政治」のあり方について、主に宮台氏と堀内氏の間で論争が繰り広げられている。そして、上のような問題意識そのものについては、堀内氏もほぼ同意している。しかし、「それでは私たちはどうすればよいのか」という段に議論が進むと、宮台氏と堀内氏の分岐が明確になる。それについて私なりに考察してみると、両者の違いはこれまでの章で何度か論争になったように、「フィールグッド・ステイト」化政策と「エリート/民衆」の二分法との関係をどう捉えるかという点において最も鮮明に現れる。両者の認識は、各先進国社会のフィールグッド・ステイト化は避けることができないにもかかわらず、その社会内の一部の者が「フィールグッド・ステイト化の進行はやがて批判精神の消滅を導く」ことに必ず気づいてしまうというところまでは一致している。とはいうものの、以下に示すように、二人の認識は全てが重なっているわけではない。
宮台氏は、まず社会の全構成員を、「自分以外の他者が多様な生を営むことに耐えられる者/耐えられない者」という基準で、エリート/民衆の二種類に分けるべきだと考える。そして、民衆の感情的安全を保障する政策として、エリートがフィールグッド・ステイトを現実化することを是としている。自らの所属する国家社会がフィールグッド・ステイト化することの危険性に気づいた者は、同時にその流れが不可避であることをも理解するはずである。ゆえに、そのような者たちは徒にフィールグッド・ステイト化そのものを批判するのではなく、「よりましなフィールグッド・ステイト」を目指すべく、その社会におけるエリートとなるはずである(あるいはなるべきである)。そして、その危険性を相対化できないまま感情的に不安になってしまった民衆に対して、エリートがその心理を慰撫するようにふるまうことのできる社会を構築すべきだと考えるのである。
それに対して、堀内氏は、まず各先進国社会においてはフィールグッド・ステイト化が現に進んでおり、人々が自他をエリート/民衆の二分法で分類しようとする動きが広がっていくこと自体が、さらなるフィールグッド・ステイト化の表象にすぎないということを力説している。そして、その国家社会の各種政策に携わっている者たちが、たとえ多様な思いを抱えながら「よりましなフィールグッド・ステイト」を目指しているとしても、それだけでは危険だと述べる。なぜなら、政策担当者が「我々も本当は危険だって分かっているんだよね」と、自分たちにまだ批判精神が残っていることを確認し合っているだけでは、いつのまにかその批判精神も消滅してしまい、フィールグッド・ステイトの「外側」には何もないという状況がやがてくることが十分に予想されるからである。したがって、たとえフィールグッド・ステイト化が不可避だとしても、それと同時に、その進行を絶えず批判する者が社会内に存在することの重要性をも説くのである。
*
このような議論を前提として、これからの議論が展開される。そして、話題が「教育」に移るとともに、今度は宮台氏と私の間で論争が繰り広げられることとなる。もっとも、その時は自分の意見を言うことだけで精一杯になってしまい、自分の発言における立場というものにまで考えが及ぶことはなく、今から振り返って見るとずいぶん混乱していたなと反省することしきりである。しかし鼎談を収録後に、本書でもたびたび話題になったマイケル・ウォルツァーの『政治と情念』をあらためて読み直し、自分の考えがさらにまとまったように思う。そこで、私が対談の時にどのような立場に立とうとしていたのかについて、以下で述べてみたい。
当時の私の立場を振り返って一言で述べると、「これからの先進国社会ではフィールグッド・ステイト化が不可避だが、それと同時に、その中で現状への感情的不満をもったまま生活する人々が絶えず出現することも不可避だ」というものである。つまり、宮台氏は「よりよきフィールグッド・ステイト化への政策を実施することの重要性」を主張し、堀内氏は「フィールグッド・ステイト化を批判する視座を確保することの重要性」を主張しているのに対して、私は「フィールグッド・ステイト化への感情的不満が絶えず湧き上がってくることの不可避性」を主張しているということになる。【続く】
2007年3月21日(水・祝日)に、「メディア・リテラシーの学校」というイベントに参加します
「かながわメディア・リテラシー研究所」が主催するイベントに、このたび「講師」として参加することになりました。
当日は、近刊予定の『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』(NHKブックス:宮台真司氏と堀内進之介氏との共著)で
私が述べている内容や、そこでは話せなかったようなことについても、少しふれたいと考えています。
「入場無料・予約不要」ですので、ぜひお出で頂ければと思います。
以下、かながわメディアリテラシー研究所からの告知です。
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kmnpas:Kanagawa media-literacy network &
practice at school
かながわメディアリテラシー研究所
「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」のおしらせ
kmnpas(けむんぱす)「かながわメディアリテラシー研究所」は、
メディアリテラシー教育に関心を持つ神奈川の高校教職員らが
ゆるやかにつながった研究グループです。毎月、現場感覚/ライブ
感覚があふれて止まらない一般参加型の学習会を行っています。
ゲストをお呼びしての当研究所主催イベント「メディアリテラシー
の学校」も4回目を迎えました。
今回は、社会学者の鈴木弘輝氏と対話プロジェクトの小川直美氏を
ゲストにお迎えして、「境界線」をキイワードにメディアリテラシー
をみなさんとともに考えてみたいと思います。
今回は対話プロジェクトの実践篇として、インターネット回線を使って
ラオスとのリアルタイムでの「対話」も行います。
そして今回も、質疑応答、意見交換の時間をたっぷりとります。
社会学、開発教育、e-learning、メディア教育、「対話」、「境界線」
そしてメディアリテラシーに関心のあるすべてのみなさまのご来場
をお待ちしております。
日時:2007年3月21日(祝・水)午後13時00分〜17時
受付12時40分〜
場所:武蔵工業大学横浜キャンパス
情報メディアセンター2階 プレゼンテーションラボ(定員130名)
http://www.yc.musashi-tech.ac.jp/top/access.html
横浜市都筑区牛久保西3−3−1
横浜市営地下鉄 中川駅 徒歩6分
*お車での来場はご遠慮下さい。
入場無料 予約不要
主催:かながわメディアリテラシー研究所
http://kmnpas.cocolog-nifty.com/blog/
共催:武蔵工業大学 環境情報学部 中村雅子研究室
後援:(財)神奈川国際交流協会
協力:特定非営利活動法人ラオスのこども http://deknoylao.org/
お問い合わせ:かながわメディアリテラシー研究所
kmnpas6@yahoo.co.jp
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲
「メディアリテラシーの学校:2007春」時間割
■1時間目 13:00〜14:20「境界線を疑うための社会学」
講師:鈴木弘輝氏
東京都立大学社会学博士。現代位相研究所所長。
http://homepage2.nifty.com/hirokisu/
2007年度より首都大学東京非常勤講師および朝日カルチャーセンター講師。
N・ルーマンやN・ボルツの議論を参照しながら教育・家族・友人関係における
様々なコミュニケーションに注目して研究を進めている。近刊予定である
宮台真司氏と堀内進之介氏との共著『幸福論<共生>の不可能と不可避について』
(NHKブックス)においても、このうような観点から発言・執筆している。
《内容》グローバル化の進む現代社会において、一人一人のまっとうな「批判」精神
を新たに喚起するためには?「境界線」とは?そして「境界線」を疑うとは?など。
社会学的に世の中を眺める方法を指南していただく。
■2時間目 14:30〜15:50「手作り生中継!教室で異文化対話」
講師:小川直美氏
対話プロジェクト代表。http://www.jca.apc.org/taiwa/
対話プロジェクトは、衛星電話・テレビ電話・インターネットなどを使って、
遠く離れた国や地域の人々をつなぎ、同時・双方向・対話のコミュニケーションを
実現させる活動である。これまで、日本の高校の教室とアフガニスタンやイラク
の高校の教室などをつないできた。
《内容》この時間は楽しい実習を予定。東南アジアの国・ラオスの中高生や現地NGO
スタッフとの対話を試みる。
ゲスト:NPO法人ラオスのこども共同代表 森透氏
*時間の関係で、対話は3人程に絞らせていただきます。
*日本語/ラオス語の通訳が入ります。
*ラオスからの参加者は予定です。変更の可能性があります。
*通信事情等により、対話ができないこともあります。
■3時間目 16:00〜17:00
討議:「学校の境界線を跨いで〜メディアとしての学校を考える〜」
「境界線」をキイワードに、学校や教育、メディアリテラシーについて
会場のみなさんとゲストでディスカッションをつくる時間。
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲
詳しくは下記のblogをご覧下さい。
「かながわメディアリテラシー研究所」
http://kmnpas.cocolog-nifty.com/blog/
モダンフェイズ・システムズのホームページが出来上がりました
先日、研究部門である「現代位相研究所」、大学院受験のための個別指導・小中高の訪問個別指導を行う塾部門である「MPスクール」、社会調査や各種イベントなどを実施する部門である「MPサービス」をもった「モダンフェイズ・システムズ」を設立しました。そして、それに伴いホームページが出来上がりましたのでお知らせいたします。
詳しくは、こちらを御覧ください。「現代位相研究所所長」である私をはじめ、研究所に所属する研究員たちのプロフィールや活動予定なども載っているので、どうぞよろしくお願い致します。
2006年度 最終公開イベントの告知です
公共性の現在:不可能かつ不可避な政治を考える
【内容】
「公共」性とは何か、「われわれ」とは誰か。区別の恣意性が反省され、自明性の喪失が不可避となった現在は、同時にまた恣意的な区別の放棄が不可能であることが自明となった現在でもあります。こうした不可避性と不可能性を前に、公共性をめぐる政治を考えます。
【登壇者(敬称略)】
杉田敦 (政治学者)
宮崎哲弥 (評論家)
宮台真司 (社会学者)
堀内進之介(政治社会学)
鈴木弘輝 (教育社会学)
【日時】
1月28日(日曜日)15時〜18時 (会場は14:30予定)
【場所】
丸善 丸の内本店3F日経セミナールーム(千代田区丸の内1-6-4 OAZOビル)
【定員】
130名
【料金】
1500円(思想塾会員1000円)
【申込】
TEL:(03)5288-8881
【付記】
イベント終了後サイン会あり
今年度の公開イベントをまとめた本が、筑摩書房から刊行される予定です。
「現代位相研究所」を立ち上げました
●2年余りの月日を費やし、有志で企画および準備をしてきた研究所が、11月1日に立ち上がりました。研究所の名称は、「現代位相研究所 Modern
phase studies」です。ここにいう研究所とは、以前から勉強会を行ってきたメンバーを発起人とし、「会」にとどまらず、経済的な側面を備えた正式な組織として構想されたものです。
●私が主宰兼主席研究員となり、以前から共同研究を行っている堀内進之介さんをはじめとして、前述の勉強会メンバーも研究所の研究員となって、研究を進めるとともに、研究成果を公にアウトプットしていきます。シンクタンクとしての機能を持てるような企画を立案するなど、すでに具体的な準備も整っています。
●仔細は「現代位相研究所」専用のホームページの公開時に発表しますが、研究所の理念に賛同いただける研究者には、可能な限り門戸を開く予定です。
●また多くの学生の要望に応えて、人文・社会科学系の大学院への進学を希望する学生にアドバイスしたり、また院試に向けた具体的な指導を行えるような体制も整えます。つまり研究員がチューターとなり指導できるような体制です。
●それでは、専用のホームページの公開に先駆けて、大学院への進学を目指す社会人や学生のためのチューター部門(人文社会科学系)について以下ご紹介します。
●「現代位相研究所」の研究員の中には、院へ上がるときに政治学から社会学に変え、なおかつ大学も変えたので、院試の勉強には大変苦労したという者がいます。現在通っている大学とは違う大学の院に進学を希望している学生の方や、学部を変えて受験する方、あるいは社会人でありながら再び学問を志そうとされている方などは特に、大学院に入るための試験に向けて、いまも勉強されていることと思います。しかし、まず何から手を付けてよいのか分からないと言うことはありませんか?どの参考書で勉強すればいいのかがよく分からなかったり、問題集を見つけても模範解答がなかったり、あるいは難しすぎて覚えられなかったり、範囲が広すぎたりして、要領よく勉強ができなということがありませんか?さらには、目指す大学院の過去問題を手に入れても、解答がないために勉強しづらいと言うことはありませんか?
転部や編入をしようとされている方は、上記のような戸惑いを覚えることもあろうと思います。確かに転部や編入、進学のための予備校もありますが、カリキュラムが融通が利かなかったり、時間の都合が合わなかったり、または非常に受講料が高いので、二の足を踏む方も多いのではないでしょうか。そこで、同じような経験をした現代位相研究所の研究員が、みなさんのそれぞれのニーズに合わせてチューターをする、そうした部門を設けることにしました。要望に合わせてマンツーマンで、しかも格安でチューターを引き受けるそんな部門です。来年の二月に院試を控えている方もいるでしょう。そんな方々のために研究所の立ち上げと同時に、チューターの派遣希望を受け付けることにしました。試験までの最後の追い込みの一ヶ月間をサポートします。詳しくは、研究所ホームページに記載しますが、前もってお知りになりたい方は、私のメールアドレスまで、【チューターの詳細希望の旨、返信用のメールアドレス】を書いて、メールしてください。おって返信いたします。
2006年10月28日(土)に、日本社会学会第79回大会で共同研究者の堀内進之介さんと共同発表いたしました。
タイトルは、「ハーバーマスにおける『生活世界』の再考 ―歴史の中のハーバーマス」です。内容の詳細は、後日このホームページでも紹介する予定です。
2006年10月17日(火)に、「未来社会研究会 モバイル社会における技術と人間」に登壇者として参加いたしました
私は、教育社会学の立場から発言いたしました。内容については、すでに何人かの方がウェブ上に御報告されていますが、いずれは書籍などのかたちで多くの方に見ていただきたいと希望しております。
2006年9月23日(土)に、日本教育社会学会第58回大会「課題研究U ルーマン教育システム論の可能性を問う」で発表いたしました。
タイトルは、「システム論から見た社会化」です。内容の詳細は、後日このホームページでも紹介する予定です。
※最近、下記のように公表および発表しているものについて、特に下記の雑誌に拙論文と併載されている私の写真および外見について、私と面識のある方が御本人のブログ上で、揶揄するような発言を書いているのを発見して、とても悲しくなりました。論文の内容について検討していただいた上で論評することを、不特定多数の人々が見る可能性のあるブログ上で行うことについては、私自身も重要なことだと考えています。しかし、写真や外見に関するような事柄であるならば、直接会うなり、電話するなり、メールするなりといった方法で伝達するべきことだと、少なくとも私は考えます。
同様に、もしも写真および外見に関する事柄だけでなく、拙論文および拙発表に関する事柄でも、内容を検討しているというよりは特定の言葉に反応して揶揄しているように(私には)読めるようなものが、面識のある方のブログに上がっているのを見たならば、やはり悲しくなると思います。なぜなら、揶揄するぐらいのことであれば、直接会うなり、電話するなり、メールするなりといった方法で伝達するべきことだと、少なくとも私は考えるからです。もっとも、これについては「どこまでが内容の検討で、どこまでが特定の言葉をもとにした揶揄なのか」は、私にも判断がつきかねるとは思うのですが。
論文「差異を大切に ―実践としての社会システム理論に寄せて―」が、『Mobile
Society Review 未来心理』vol.006に掲載されています。
詳細は、下記ホームページでご確認ください。
http://www.moba-ken.jp/activity/msr/index.html
※下の大会でも、この論文の内容とほぼ同じものを発表しました。なお、宮台真司先生のブログにおいても「サードオーダー」に関する文章が掲載されていますが、堀内進之介氏と私で研究している「サードオーダー」の考え方とは、方向性が違っているようです。
この点については、堀内進之介氏のブログも御覧下さい。
http://trickystar.blog59.fc2.com/
2006年6月17日(土)に、第54回関東社会学会大会で発表いたしました。
タイトルは、「緊張関係のダイナミズムA ―教育社会学における『サードオーダー』の必要性」です。
詳細は、下記ホームページでご確認ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kss/congress/54/program_detail_section.html
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