2000年10月の日記


10月31日(火)
 今日は、センの『不平等の再検討』(以下『再検討』と記す)の第2章「自由、成果、資源」を取り上げる。まずは、第1節からである。
 センによれば、社会における人の立場は、

(1)その人の実際の成果・・・我々が実際に達成した成果に関わる
(2)それを達成するための自由・・・我々が行なう価値があると認めることを達成するために、実際にどれだけ機会が与えられているか関わる

という二つの視点から評価することが出来る。そして、不平等は成果と自由の両面から見ることができ、この二つの面での不平等は必ずしも一致しない、とセンは言う。ここでセンが重視しているのは、社会的評価において中心的な意味を持つ、成果と自由の間の区別である。
 センは、個人の優位性の評価や社会秩序の評価に対するよく知られたアプローチ(=功利主義)では、直接扱われるのは成果のみであり「達成するための自由」は実際の成果を得るための手段としてしか扱われてこなかった、と功利主義を批判する。センによれば、功利主義のアプローチは以下の二つの特徴を持つ。

(1)社会評価のための個人的比較を成果のみに限定する
(2)成果を「得られた効用」と同一視する

 もちろんセンは、最近の社会的選択理論では評価の枠組の中に自由を取り込むことが試みられていることや、ロールズやドゥウォーキンの理論が自由を評価する方向に進んでいることを見逃しはしない。しかしそれでもセンは、資源や基本財の所有を平等化させることは必ずしも各人によって享受される実質的な自由が平等されることを意味しない、といってそれらの議論に反論する。その理由としてセンが挙げているのは、資源や基本財を自由へと変換する能力には個人間で差があるから、というものである。

 次に、第3節である。ここでセンは、「自由」と「自由を達成するための手段」との間の区別に注目する。センによれば、予算集合(ある予算制約の下で選択可能な財の組み合わせの集合)は財空間における人の自由の程度、すなわち様々な財の組み合わせの消費を達成する自由の範囲を表している。センは「予算集合」という概念を使うことを通じて、以下のような対応を設定する。

予算集合を決める資源・・・自由の手段
予算集合(自体)・・・自由の程度

 センによれば、このように成果から資源へ焦点をシフトさせることは、自由に対してより大きな注意を払うことになる。その理由としてセンが考えているのは、選択可能な財の組み合わせの集合は資源によって決まってくるから、というものである。
 しかしセンは、先にも触れたように、「自由を達成するために役立つ資源」と「自由そのものの範囲」とのギャップの重要性を強調する。センによれば、人が保有している資源や基本財は、その人がそれをもって何かをしたり何かになったりする自由を実際にどのくらい享受しているのかについての不完全な指標にすぎず、選択の自由に関心があるなら、実際に個人が持っている選択肢に注目しなければならないのである。 


10月30日(月)
 今日は、センの『不平等の再検討』(以下『再検討』と記す)の第1章「何の平等か」の続きで、まずは第5節を取り上げる。
 センは平等を評価する変数が複数存在するという認識が、平等という概念に対して深刻な困惑を抱かせるいうことを取り上げている。その困惑とは、平等は多くの異なった方法で定義できるので、平等は真に本質的な要求とは捉えることが出来ない、という考えにつながっていく。
 それに対してセンは、「平等の空虚さ」という考え方がある程度妥当であるにもかかわらず、このような考えは間違っていると反論する。その理由として、センは以下の三つの議論を用意している。

@特定の変数が選ばれる前でも、特に重要と見なされる変数に関して平等を評価する必要を一般条件として求めることは、決して空虚な要求ではない。

Aいったん文脈が決まると、平等は強力で厳密な要件となる。

B平等が求められる変数の多様性は、より深い多様性、すなわち価値目的が多様であること、問題となっている文脈において人の優位性を捉える適切な概念が多様であることを反映している。

 次に、第6節である。センは、これまでに議論してきた(平等を求める)変数の選択とその重要性に関して、ロールズの議論を例に挙げながら自らの議論を進める。
 センによれば、ロールズの「格差原理」では効率も平等もともに「基本財」の保有と関連している。そしてロールズの議論においては、受け継いだ資産や才能の多様性は所得の不平等を引き起こすことはない。なぜなら基本財は構成要素のひとつとして所得を含んでおり、基本財の分配にはロールズが格差原理で平等主義的な条件を課しているからである。
 しかしセンはこのようなロールズの議論に関して、基本財を福祉の達成に交換する可能性が個人によって多様であるために、所得も含めた基本財と福祉の間の関係も多様であるということを指摘している。そしてセンはそのことに関連して、基本財と個人の目的を追求する自由との関係も多様であることも指摘する。
 センによれば、異なった変数に関する不平等は、これらの互いに異なった変数間の関係が人によって多様であるために、相互に非常に違ったものになるので、不平等を評価するときにはどのような変数をもって評価しているのかをはっきりさせておくことが特に重要になる。このような議論からセンは、平等の倫理学は異なった変数間の関係に影響を与える多様性を十分に考慮しなければならないのである。  


10月29日(日)
 今日は、センの『不平等の再検討』(以下『再検討』と記す)の第1章「何の平等か」の続きで、まずは第3節を取り上げる。
 センによれば、人間は様々な面で互いに異なった存在であり、このような差は不平等を評価する場合に重要な意味を持ってくる。センは、ここで二つの例を挙げる。所得は平等であっても、行なう価値があると認めることを行なう能力の面で不平等はまだ残っている、とセンは言う。また、体の不自由な人はたとえ健常者と全く異なる所得を得ているとしても、健常者と同じように活動することは出来ない、とセンは言う。
 この点に関してセンは、他の人と比べて相対的に有利な点や不利な点は、多くの変数(例えば、所得、富、効用、資源、自由、権利、生活の質など)によって評価することが出来る、という。それは言い換えれば、「評価空間」(すなわち適切な焦点変数の組み合わせ)の選択は、不平等を分析する際に決定的に重要な意味を持ってくるということである。

 次に、第4節である。センによれば、平等の重要性はしばしば自由の重要性と対比されるが、平等と自由の関係を「平等と自由の間の対立でどちらの立場をとるか」というように捉えるやり方は、まったく間違っている。
 ここでセンは、ノージックの議論を例に挙げて以下のように自らの議論を進めている。−ノージックのようなリバタリアンは、確かに人々が自由であることが重要であると考えている。そうであるとすると直ちに生じる問題は、誰の自由か、どの程度の自由か、自由はどのように分布しているのか、それはどの程度平等か、ということであろう。このように、平等の問題は自由を重視する主張に付随して直ちに生じてくる。実際典型的なリバタリアンが主張する自由には、例えば他人からの干渉から平等に免れるべきであるという主張のように、「自由の平等」が重要な用件として含まれている−。
 このような議論を通じてセンは、自由が重要であるという信念が、人々の自由を平等に促進するような社会制度を考案しなければならないという考え方と対立するものではない、と結論づけるのである。
 センはここで、「自由対平等」という図式として考えてしまいがちな二つの場合を取り上げ、批判を加えている。一つは、自由以外の変数の平等を求める人と、自由の平等を求める人との対立である。しかしセンによれば、これは「何の平等か」という問いをめぐる対立である。
 もう一つは、分配を無視した一般的な自由の促進(分配のパターンには注意を払うことなく可能な限り自由を促進すること)と、所得における平等との間の対立である。しかしセンによれば、この対立はさらに二つの対立に分けられる。

@自由に注目するか、あるいは所得に注目するか、という対立
A分配のパターン(この場合は所得の分配パターン)に注目するのか、分配を無視した総量(この場合には自由の総量)に注目するのか、という対立

 センは、いずれの場合にも「自由対平等」という観点から違いを考えることは正確でもないし役立つものでもない、という。センによれば、自由は平等の応用分野の一つであり、平等は自由の分布パターンの一つなのである。


10月28日(土)
 仕事で忙しくしているうちに、とうとう日本シリーズが終わってしまった。結局、一試合もまともに見られないまま巨人が優勝してしまった。いろいろなスポーツニュースをはしごして見たのだが、どうも面白くないのである。やはり、こういうものはリアルタイムで見なければ。
 さて今日は、センの『不平等の再検討』(以下『再検討』と記す)の第1章「何の平等か」の中の第1節を取り上げる。センは、平等の倫理分析における中心的な課題として、下の二つを挙げる。

(1)なぜ平等でなければならないのか
(2)何の平等か

 センによれば、この二つの課題は別個のものであるが、どの面(例えば、所得、富、機会、成果、自由、権利など)の平等について論じているのかを知らずに平等を擁護したり批判したりすることは出来ないというように、相互に密接な依存関係にある。センは、(2)の課題に言及することなしに(1)の課題に答えることは出来ないが、(2)の課題に答えるならば(1)の課題に答える必要はないと考える。
 センの考えは、もしある変数xに関して平等を支持する議論を成功裏に行なうことが出来たとすると、我々はxを比較の基準として平等を支持する議論をすでに行なったことになり、この視点からすれば、なぜ平等か(あるいはなぜ平等ではないのか)という点に関してそれ以上に深く答えるべき問題は残ってはいない、というものである。
 なぜ、センがそのように言うのか。それは、平等をこのように見ることには、より興味深い本質的な論点が含まれている、とセンが考えるからである。その論点とは、時の試練に耐えて生き延びてきた社会制度に関するいかなる規範的理論も、その理論が徳に重要であると見なしている何かに関する平等を要求しているということである。センによれば、そのような諸理論(ロールズ、ドゥウォーキン、ネーゲル、スキャンロン、ノージック、ブキャナンの理論)は、いずれの理論においても、その理論で中心的役割を果たす変数に関して平等が求められているのである。そしてセンは、功利主義哲学もまた、「隠れた」平等主義を内包しているという。
 このような議論からセンは、平等主義は理論を「統合する」特徴ではないという結論を導き出す。センによれば、平等主義に対する批判でさえも他の面では平等主義を求めているのであり、政治・社会・経済哲学における平等の要求は特定の変数と伝統的に結びついており、平等主義として取り上げられるのはこれらの変数の一つにおける平等である。センは、平等主義という言葉の使い方には限界があること、ある変数における平等は他の変数に関して反平等主義になること、またその相対的な重要性は総合的評価の段階で批判的に評価しなければならないことの認識の重要性を主張しているのである。


10月27日(金)
 またも更新が遅れてしまった。仕事の方でいろいろなことになっているからなのだが、こんなことをしているうちに、日本シリーズが終わってしまうではないか。それはさておき、今日は、センの『不平等の再検討』(以下『再検討』と記す)の序章「問題とテーマ」を取り上げる。
 センによれば、平等という概念は以下の二つの異なったタイプの多様性に直面している。

(1)人間とはそもそも互いに異なった存在である
(2)平等を判断するときに用いられる変数は複数存在する

 これは言い換えれば、人間は互いに異なった存在であるために異なった変数によって平等を評価すると多様な結果が導かれるということである。そして、このことが「何の平等か」という問いを非常に重要なものにしている、とセンは言うのである。
 センはこのように平等について論じた上で、次に「人間の多様性」を取り上げる。センによれば、人間とは全く多様な存在である。それは、相続した資産、自然的・社会的住環境などの外的な特性だけでなく、年齢、性別、病気に対する抵抗力、身体的・精神的能力などといった個人的な特性における差異となって現れる。したがって、平等を評価する場合、このような多様性を考慮せざるを得ないのである。
 センによれば、「人間の平等」という強力なレトリックは、このような多様性から注意をそらしてしまう傾向がある。センはこの点に関して、このようなレトリックは平等主義の重要な要素と見なされているが、個人間の際を無視することは実は非常に反平等主義的であり、全ての人に対して平等に配慮しようとすれば不利な立場の人を優遇するという「不平等な扱い」が必要になるかもしれないという事実を覆い隠すことになっている、という点を指摘している。
センは、ここで「焦点変数」および「空間」という用語を導入する。これは、異なった人々の間の不平等を比較する際には分析の焦点となる変数(所得、富、幸福など)の選択(すなわち「空間の選択」)に依存している、という考えに基づいている[ここではいくつかの焦点変数が空間を構成すると考えられる]。
 センによれば、異なった空間における不平等の特徴は、人間の持つ多様性のために相互に異なったものとなりがちである。これは、ある変数に関して平等であったとしても、他の変数で見た場合にも平等であるとは限らないということである。このことからセンは、もし各個人が互いに非常に似通っていればこのような不調和の主要な原因は消え去るであろうが、実際に人間は本質的に多様であり平等を評価する際に「焦点の多様性」を考慮することが必要になる、とセンは論ずるのである。


10月24日(火)
 ずいぶん更新が遅れてしまったが(仕事の方が急に忙しくなったのだ)、また続けていきたいと思う。今日からは、センの『不平等の再検討』(岩波書店)を取り上げることとする。この本の内容は『自由と経済開発』とも重なるが、議論を更に深めるために、「はじめに」(p.F〜p.IF)から取り上げる。

 センによれば、この『不平等の再検討』(以下『再検討』と記す)は、不平等を考え直すことを目的としている。そして、そのことは社会制度全般の評価にも関わっているとセンは言う。
 センが『再検討』全体を通して主張するのは、平等についての分析や評価の中心にある問題は「何の平等か」であるということである。そして、社会制度の倫理的アプローチの中でも歳月の試練に耐えて生き残ってきたもののほとんどは、何かについての平等、すなわち、その理論の中で重要な位置を占める何かについての平等を求めているという特徴を持っているという点で共通しているということである。
 センによれば、古典的な功利主義者は全ての人々の効用に等しいウェイトが与えられるべきであると主張し、また純粋なリバタリアンもあらゆる種類の権利や自由が平等に与えられることを要求している。このように捉えた上で、センはこれらの思想が本質的には平等主義者であり、各々のアプローチにとって極めて重要と見なすものを全ての人が平等に持っていなければならないと主張する点で共通している、と考える。
 ここでセンが言いたいことは、これらの諸議論の争点を「平等主義 vs 反平等主義」と捉えてはいけないということである。そのように捉えることは、この問題の中心的なものを見失うことになる、とセンは言うのである。センによれば、「何の平等か」という問いの決定的に重要な役割は、様々な思想間の論争を、それらの思想がそれぞれ何の平等を追求すべき社会的課題と見なしているのかという基準で整理できるという点にある。そしてセンは、これらの諸思想によってそれぞれ掲げられる諸要求が、諸思想の議論の内部においてそれ以外の社会的取り決めの性質を決めるようになる、という点を指摘する。つまりそれは、ある理論が一つの変数について平等を要求することは、その他の変数に関して平等主義でないかもしれないということであり、なぜならこれらの変数が対立する可能性が十分あるからである。「中心的」と見なされている社会的課題の平等を求めることは、中心的ではない「周辺的なもの」の不平等を受け入れることを意味し、したがって諸思想による争点は、何を中心的な社会的取り決めと見るかである。

 なぜ「何の平等か」という問いが重要なのか、ということに対してセンが提示するもう一つの論点は、「人間の多様性」である。一つの変数を基準にして平等を求めることは、単に理論上だけでなく現実的にも他の変数における平等の要求と衝突することが多い、とセンは言う。センによれば、わたしたちは外的な状況(資産の所有、社会的な背景、環境条件など)においてだけでなく、内的な性質(年齢やジェンダー、一般的な力量があるか、特別な才能があるか、病気にかかりやすいかどうか、など)においてもまた実に多様である。そしてセンはこのような多様性を指摘した上で、ある面で平等主義を主張することが他の面での平等主義を拒否することになることと人間の多様性とを結びつける。つまり、そのような人間の多様性のために、一つの変数を基準にして平等を求めることが他の変数における平等の要求との衝突につながるのである。
 センによれば、人間の多様性は副次的な複雑性ではなく人間の基本的な側面なのであり、人間の同一性を前提にして不平等の考察を進めると、問題の重要な側面を見落とすことになるのである。


10月19日(木)
 昨日に続きまた、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第10章「文化と人権」である。今日は、人権に関する知的構築物を批判する人たちの抱く三つのかなりはっきりした懸念のうちのB文化性の批判の続きである。
 センは、ヨーロッパ啓蒙思想と比較的最近の発展が一般的にし広めた価値は、本当に長期的な西欧の遺産の一部であるとはみなせないとし、そのような価値はアジア的伝統における著作にも多く見出されるとする。ここでセンは、「全ての人間にとっての個人的自由は良き社会にとって大切である」という思想を例として出し、さらにこの思想を二つの構成要素に区別する。

@個人的自由の価値…個人的自由は重要であり、良き社会で「重要な」人には保証されるべきである。
A自由の平等…全ての人は大切であり、ある一人の人間に保障される自由はすべての人に保障されなければならない。

 センによれば、この二つが合わさって、個人的自由は保障の共有によって、全ての人に保障されるべきだということになる。センは、アリストテレスが(@の命題は大いに支持したものの女性と奴隷は排除していた)Aの命題はほとんど擁護せず、Aのような平等の用語が始まったのはかなり最近のことであることを指摘する。そして、そのような状況が中国やインドの場合と同じであったと論ずる。
 さらにセンは、先の「全ての人間にとっての個人的自由は良き社会にとって大切である」という思想を次のような二つの構成要素に区別する。

T寛大さの価値…異なる人々の間の多様な信念、価値への献身、行動に対しては寛大さがなければならない。
U寛大さの平等…ある人々に与えられる寛大さは、理にかなう限り全ての人に与えられなければならない。

 センによれば、初期の西欧の著作にはある種の寛大さの主張がたくさん見つかるが、それは寛大さの平等によって補完されていない。したがって近代の民主主義思想や自由思想から見れば、それらの著作は構成要素でしかない。
 ここでセンは、儒教やインド思想およびイスラム教を短いながらも検討する。その上で、自由に価値を認めることはただ一つの文化に限定されていることではなく、自由を基本に社会を理解できるようにしてくれるのは、西欧の伝統だけではない、と結論づけるのである。

 次にセンは「もう一つの文化的問題」として、西欧の文化やライフスタイルが暮らし方や社会の道徳的慣習の伝統的な様式を圧倒的な力で弱体化させている、ということを挙げており、このことに対し深刻な脅威の念を表している。
 もっともセンは、貿易や経済のグローバル化の進行そのものを非難しているのではない。グローバルな貿易と商業が各国に大きな経済的繁栄をもたらすことを、センは肯定的に評価している。しかしそれでもなお、二つの懸念される問題があることを、センは主張する。一つは、近代的なコミュニケーションと相互交流の世界が基礎教育と訓練を要求することである。そしてもう一つは、以下の議論によって導き出される。
 センが指摘するのは、置き換えられた生産方法や技術を惜しむ人はいないが、失われた文化の伝統は大いに悔やまれる(古くからの暮らし方の消滅は苦痛と深い喪失感を引き起こし得る)ということである。しかしセンは同時に、少なからぬ経済的コストを払ってでも昔の暮らし方を維持するのならば、そのためにどうするかを決めるのは社会である、と自らの考えを進める。
 ここでセンが問題にするのが、「潜在能力(capability)」である。センは、社会の中の様々な異なった階層が、何を保存し何を捨てるかについての決定に積極的に参加できなければならないと主張する。センによれば、消え行く生活様式をどれほどのコストがかかろうとすべて保存することが強制されるわけではないが、人々がそれを選択するならばこうした社会的決定に参加できることが(社会的正義のために)必要なのであり、(基礎教育を通じて)読んだり書いたりすること、(自由なメディアを通じて)十分な情報を与えられ説明を受けること、(選挙、住民投票、市民的権利の一般的行使を通じて)自由に参加することなどの基本的な能力(capabilities)を重視すべき理由が増すのである。


10月18日(水)
 今日は、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第10章「文化と人権」の続きである。人権に関する知的構築物を批判する人たちの抱く三つのかなりはっきりした懸念のうち、今日はB文化性の批判について取り上げる。
 Bの批判は、「人権の考え方は本当にそれほど普遍的なのだろうか」、あるいは「儒教文化の世界のように、権利よりも規律を、エンタイトルメント[請求]よりも忠誠に焦点を当てる倫理はないのであろうか」という形で表される。
 ここでセンは、「アジア的価値」という言葉を用いる。センによれば、「アジア的価値」の性質は、アジアにおける権威主義的な政治体制を正当化するために、その当局者である政府高官やスポークスマンや権力者に近い人々の口にされてきたものである。このような発言に対しセンは、彼らの発言が重要だったのは明らかに国を統治するためや、他国との関係に影響を与えるためだったからであるとした上で、「アジア的価値」が基本的な政治的権利と対立する根拠がないことを指摘する。
 アジアについて一般化することはアジアの大きさゆえに容易ではなく、したがってこの途方もなく、異質性のある人口全てに当てはめることのできる本質的な価値など存在しない、ということをセンは指摘する。そして、世界全体の人々からアジア人を選り分けることの出来る価値などない、と結論づける。

 センによれば、アメリカとヨーロッパには、政治的自由と民主主義の卓越性は西欧文化の基本的で昔からの(アジアには容易に見出し得ない)特徴であると、暗黙のうちにせよ想定する傾向が明らかにある。そのような考えには、例えば儒教の中に暗黙裡にあるといわれる権威主義と、西欧の自由主義的文化に深く根差しているといわれる個人的自由と自立の尊重の対象が想定されているとセンは言う。そしてその考えの中には、個人的自由や政治的自由を非西欧世界で推進しようとする西欧人が、それによって西洋の価値をアジアやアフリカに紹介しているのだというものも含まれている。
 このような考えに対して、センは反論を加える。センは、ヨーロッパ啓蒙思想と比較的最近の発展が一般的にし、広めた価値は、本当に長期的な西欧の遺産の一部であるとはみなせない、と主張する。センによれば、特定の西欧の古典的思想家の著作から分かるのは、その内容が政治的自由に関する現代思想を形成している総合的な概念の構成部分となっていることであるが、そうした構成部分はアジア的伝統における著作にも多く見出されるのである。


10月17日(火)
 今日は、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第10章「文化と人権」の続きである。10月15日の日記でまとめた、人権に関する知的構築物を批判する人たちの抱く三つのかなりはっきりした懸念について、順番に取り上げることとする。
 始めに取り上げるのは、@正当性の批判である。このような批判の代表的なものとしてセンが挙げるのは、マルクスとベンサムのものである。マルクスの主張は「権利は国家の制度に先立つことはできない」というものであり、ベンサムの主張は「自然的権利はナンセンス」というものである。
 センによれば、これらの批判に共通していることは、倫理を他のものに優先する倫理的なエンタイトルメントとしてよりも、出来上がった制度の枠組の中で、手段として捉えられなければならないという主張である。これは、普遍的な人権という基本的な思想に対してかなり根本的に立ちはだかるものである。
 このような批判に対しセンは、「人権が秘める可能性」を重視する立場を採る。人権はその法的な執行が極めて不適切のような意味合いにおいてさえ、有効に引き合いに出すことが可能である。したがって、人権を法制化された法的権利と同一視しなくてもかまわないが、人権がよく引き合いに出される意味合いでの人権思想の有用性を抹殺する必要はない。このような議論をもとにしてセンは、人権が秘める可能性を倫理的な思考の体系として、そして政治的要求の基礎として判断しなければならない、と主張するのである。
 次に取り上げるのは、A一貫性の批判である。センによればこの批判の主張は、「権利の実現を保証するのは誰の義務なのかをつまびらかにすることなしに、権利について一貫性のある議論をすることが果たして可能なのか」というものである。この主張によれば、権利はそれと相互に関連する義務と対になっているときにだけ意味のある形を取り得るのであり、ある人間の何かに対する権利はその何ものかをその人に与える別の人の義務と組み合わせなければならない。この二者間のつながりを主張する人たちは、権利を実現する責任を実現する者を正確に特定することなしに、「人権」において「権利」の言葉が用いられることに非常に批判的である。
 このような批判に対してセンは、権利の言語そのものが人々の自由を助けることが出来ることを主張する。センによれば、権利は人々が持つことが好ましいエンタイトルメント、力、あるいは不可侵権として擁護されることが多く、ある一人の人間の権利を確実に実現することはその人自身の特別の義務ではないが、助ける立場にいる全ての人に向かってそのように要求することが出来るのである。
 権利の倫理的主張がそれに対応する自由の価値を超える程度は、他者を助けるべき立場にある人に対してどれほどの要求がなされたかによる、とセンは言う。ある人がその自由を達成することを他者が助けるよう示唆し、またそのように要求するというように、権利の言語は自由の言語を補完するのである。


10月15日(日)
 今日は、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第10章「文化と人権」を取り上げる。この章ではまず、人権の思想と活用に対する非常に厳しい見方を取り上げるところから、議論を始めている。
 その前に、この章に出てくるセンのいう「エンタイトルメント(entitlement)」という用語について、説明する。セン『不平等の再検討』(岩波書店)の訳注(p.IE〜p.IF)によれば、エンタイトルメントとは、他者の手によって付与された諸権利・諸機会の行使を通じて、ある個人が自由に使える財貨の組み合わせを意味し、所有および交換はその下位概念に位置づけ直される。センは、飢えは誰がどのくらいの食糧を入手できるかを決定する現実の財と人間の関係、そしてその背景にある所有権の構造が重要であると考えるのであり、エンタイトルメントはその所有構造の分析のために提案した概念である。
 また、『開発』の訳注(p.40)によれば、「ある者に、何かを受け取る、あるいは何かをする法的な権利、あるいは正当な請求権を与える」という意味のentitleから派生した名詞で、「何かに対する権利を保有していること」、「ある人が権利としてもっている量」を指す。

 人権に関する知的構築物を批判する人たちは、三つのかなりはっきりした懸念を抱く傾向がある、とセンは考えている。

@人権が法体系の帰結を混乱させるという懸念[正当性の批判]
 ある特定の明確に定義された権利を人に与えるのは法体系であり、法以前の原則は法律で解決できる権利を与えることは出来ない。これは、人権が国家の許したエンタイトルメント[請求権]を通じる以外に最終的な法的権威としての真の地位をいかにして持ち得るのか、という人権の正当性の問題である。
 この見方によれば、自然の人間は人権をもって生まれてくるのではなく、権利も立法によって獲得されなければならないのである。

A人権の倫理と政治がとる形態に関する考え方[一貫性の批判]
 この見解によれば、権利とは、相関関係のある義務を要求するエンタイトルメントである。もし人物Aがある物xに対する権利を持っているとすれば、Aにxを与える義務のある媒介(agency)−Bとしよう−が存在しなければならない。そのような義務を認めないのならば、主張されている権利は中身のないものにならざるを得ない、というのがこの見解である。
 このことは、人権をそもそも権利として見なすことに対して非常に大きな問題を提起するものだと受け取られている。この主張によれば、全ての人間は食糧や医療に対する権利を有していると言うことは大変結構なことだが、媒介を特定した義務(agency-specific duties)の特徴が説明されていない限り、これらの権利は対したことを「意味する(mean)」ことが出来ないのである

B人権は、法的・制度的な形をとるのではなく、社会倫理の領域にあるという見方[文化的批判]
 この見解によれば、人権の力の及ぶ範囲について、ある文化ではもっと他の魅力ある徳や特質に比べて権利をそれほど価値のあるものと見なさない、ということがある。おそらくこのもっとも顕著な例は、アジア的価値の人権についての懐疑という考えの主張に基づくものである。人権という言葉を正当化するには、普遍性が要求される。しかしそのような普遍的価値は存在しないのである。 


10月13日(金)
 今日もまた、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第6章「民主主義の重要性」を取り上げる。前回の日記では、センによって提示された、基本的な政治的権利・自由の権利が一般的に卓越するための三つの異なる要件をまとめた。今日は、それらに関するここの議論を取り上げる。
 センによれば、基本的潜在能力の一部としての政治的自由については、人間には各々の生活において表現と行動の自由に価値を認める理由があるのであり、人間が政治的、社会的行動への制約のない参加に価値を認めることは理不尽なことではない。そして、この論点に関して二つの事柄が付け加えられる。

1. さらに、人間の価値が十分な情報に基づき、型にはまらず自由に形成されることには、開かれた意思疎通と議論が必要とされるのであり、政治的自由と市民的権利はそのプロセスにとってなにより重要であり得る。

2.人間が価値を認めるものを公に表明し、それに対する関心を要求するには、言論と民主的選択の自由が要る。

 次にセンは、政治的自由の道具としての役割に議論を移す。これは、支配者が選挙で人々の批判に直面し支持を求めなければならない時には、(支配者は)人々が何を欲しているかを聞こうとするようになる、というものである。
 三番目にセンは、経済的必要事と政治的自由のつながりには推定的な側面もあるかもしれないことを指摘する。経済的必要事の内容が何であるかを正しく理解することは、討議と意見の交換を要求することだと言うのである。センによれば、悲惨や欠乏には様々な種類があり、人間の境遇全体が人間の「必要事」を認識するための全般的な基礎となる。必要事に関するわれわれの観念は、ある欠乏の予防可能な性質の認識、そしてそれらについて何をなし得るかの理解に関係する。そして表現と討論の自由を含む政治的権利は、経済的必要事への社会的対応を誘発するのに中枢的であるだけでなく、経済的必要事とは何かを概念化するためにも枢要なのである。


10月11日(水)
 今日は、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第6章「民主主義の重要性」を取り上げる。この章では、前に第3章でロールズの「自由の優先」についての議論の際に触れられた、「自由と基本的な政治的権利の擁護は、所得など他の個人的利益の源泉との不釣り合いから生じる手続き上の優先課題である」(第3章p.72)という問題に関連した章である。センによれば、「この問題が特に重要なのは、広く一般的な議論とコミュニケーションを通じ、規範と社会的価値についての合意を出現させる上で、自由と政治的・市民的権利が果たし得る本質的な役割という意味合いにおいてである」(第3章p.72-73)。それでは、第6章に入ることとする。
 「経済的な必要が圧倒的に差し迫っている時、なぜ政治的自由などというきれいごとにかかずらうのか。」(p.166)第5章でも取り上げられたこのような疑問に対して、センは、(経済的な必要性の力を認識するとしても)政治的自由の重要さを理解するのには全く間違った方法だと主張する。取り上げなくてはならない真の問題は別のところにあるとし、それらの問題は政治的自由と、経済的必要性の理解と充足の間にある相互連関を認識することを要求するのである。
 経済的必要性が大きいことは政治的自由の緊急性を減じるのではなく、増すのだとセンは主張する。基本的な政治的権利・自由の権利が一般的に卓越するのは三つの異なる要件の故である。

(1)それらが基本的な潜在能力(政治的、社会的参加を含む)に関連する人間生活にとって持つ直接的な重要性
(2)人々が政治的主張(経済的必要事の主張を含む)を表明したり、支持したりするうえで、耳を貸してもらえる力を向上させる道具としての役割
(3)「必要事」の概念化(「経済的必要性」の理解を含む)における推定的な役割


10月10日(火)
 ゼミでの発表も終わり、取りあえず一段落である。今日は、センの『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第5章「市場、国家、社会的機会」である。この章は、市場メカニズムをめぐる問題について、センが論じている章である。
 センは市場メカニズムについて、人々が互いに関わり合い、相手に利益になる活動を行なう制度であると考える。たとえ市場メカニズムが、支持するにしても反対するにしても激しい感情を引き起こすものであるとしても、である。センによれば、問題が起こるのは市場の存在そのものからではなく、市場取引を行なうだけの用意が不十分であるとか、情報を無制限に隠すとか、強者が不釣り合いに有利な立場を利用して利益を得られる活動を無制限に行使するとかが含まれる。これらに対応するには、市場を抑制することではなく、むしろ市場がより良くより公正に、そして適切に補完されて機能するようにすることである。市場が総合的に達成できることは、政治的・社会的な制度に大きく左右される。
 センによれば、市場メカニズムが大いに成功を収めてきたのは、ある状況下でもたらされる機会がうまく共有され得るような場合である。これを可能にするためには、基礎教育の施設、基礎的な医療施設の存在、ある経済活動にとって決定的な資源の入手可能性などについての適切な公共政策(学校教育、医療、土地改革など)が要求される。
 このようにセンは、確かに部分的に市場メカニズムの効率性の面での貢献を認めてはいるが、それと同時に効率の成果がそれ自身では分配の平等を保障しないことを指摘するのである。センが問題とするのは、本質的な自由の不平等という点においていくつか不利な条件が重なるときである。それは、障害者あるいは訓練を受けていない人が所得を得る難しさが、所得をより良き生きる潜在能力のために使おうとするときの難しさによって増大するような場合である。センが主張するのは、市場メカニズムの広範な力は、社会的平等と正義のための基本的な社会的機会の創出によって補完されなければならない、ということである。
 センによれば、開発途上国一般にとって、社会的機会の創出における公共政策のイニシアチブの必要性は決定的に重要である。そしてこのような考え方からセンは、ある政策形成関係者の間に支配的な、人間開発は豊かな国にだけ可能な一種の贅沢であるという基本的信念そのものを問題視するのである。
 それに対してセンは、「人間開発(human development)」を重視する。それは社会的機会の創出、医療・教育・社会保障等の拡大によってもたらされるものであり、それによって人間の潜在能力の拡大と生活の質の向上に貢献する。そしてセンは、医療と教育−そして人間開発全般−は非常に労働集約的な仕事であり、労働コストが安い経済発展の初期の段階では費用が比較的安く済むということを主張するのである。
 センによれば、自分を財政保守主義者だとみなす人々は、ときに人間開発に関し懐疑的な考えを表明することがある。しかしそのような人々をセンは、そのような推論には理性的な基盤はほとんどない、と喝破する。そしてセンは、人間開発の利益は多岐にわたり、その全体的な効果を十分総合的に見ることによってより完全に説明できる、と主張する。センによれば、財政保守主義が真に攻撃すべきなのは、(戦争のような)社会的利益が全くはっきりしない目的に公的な資源を使うことである。


10月9日(月)
10月8日(日)
10月7日(土)
 ただいまレジュメ書きに追われていて、日記にまで手が回らない。というわけで、お休みである。


10月6日(金)
 今日もまた、セン『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第3章の続きである。今日はセンがロールズの理論を扱うところから始める。
 センは、確かに所得は我々が出来ることと出来ないこと非常に大きな影響を持つが、所得の分析だけでは終わらないことも同じように大事であると言う。センによれば、ロールズの「基本財」についての古典的な分析は、目的が何であるかに関わりなく人が必要とする資源について広い見方を提供している。これには所得も含まれるが、その他の一般的目的の「手段」も含まれる。
 「基本財」とは人が自分の目標を推進することを助ける一般的目的の手段で、「権利、自由と機会、所得と富、自尊心の社会的基盤」などを含む。ロールズ理論の枠組の中では「基本財」に焦点が当てられているが、それは彼が個人の利益(advantage)を追求するために享受する機会として見ていることに関係する。
 しかしセンは、情報の焦点を所得から「基本財」に拡大することは、所得と資源、そして福祉(well-being)と自由の関係のあらゆる重要な変化に対応するには不適切であると言う。なぜなら「基本財」自体が主として様々なタイプの一般的資源であり、価値あることを行なう能力(ability)を創り出すためにこれらの資源を用いることは、個人間の異質性・環境の多様性・社会環境の変化・関係についての考え方・家族内の分配の相違といったものに左右されるからである。

 これまでの議論を踏まえて、センは自らの「潜在能力(capability)」アプローチを提示する。「潜在能力」とは、「ある人が価値あると考える生活を選ぶ真の(=本質的な)自由」(p.83)"the substantive freedoms to choose a life one has reason to value"である。センによれば、自分の目的を追求するための個人としての真の機会に焦点を当てることが本当の目的ならば、人それぞれが持っている「基本財」だけでなく、その「基本財」を自分の目標を促進する能力(ability)に転換する過程を左右し得る個人の特性も計算に入れなければならない。
 ここでセンは、「潜在能力」について詳述するために「機能(functionings)」という用語を持ち出す。「「機能」の概念は(中略)、ある人が実行したり、なったりすることに価値を認める様々のことを反映する」(p.83-84)"The concept of "functionings" reflects the various things a person may value doing or being."このように価値を認められた「機能」は、適切な栄養摂取や避けることのできる病気にかからないといった初歩的な機能から変化し、地域の暮らしに参加するとか自尊心を持つとかいった複雑な行動や個人としての状態に至る。
 センによれば、ある人の「潜在能力」とは、その人にとって達成可能な諸機能の代替的組み合わせを意味する。潜在能力は、今までのものに替わる機能の組み合わせ(もっとくだけた言い方をすれば、様々なライフスタイルを生み出すこと)を達成する真の自由なのである。


10月5日(木)
 今日もまた、セン『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第3章の続きである。センはこれまでの議論において、功利主義の批判を通じて「人間の多様性」という考え方を導き出した。これは、「効用」(utility)の個人間比較がどのような妥協をもってしても困難であるところから、それをさらなる妥協によって乗り越えようとするのではなく、その困難さを所与のものとした上で、別様の「自由を判断するアプローチ」を提示することを、センが狙っていることを示している。
 センによれば、我々は福利(well-being)の物質的基礎として所得と商品を用いるが、所与の商品の集合や所得水準から得ることの出来るものは、個人的にも社会的にも多数の不確定な状況に決定的に左右される。そしてセンは、実質所得とそこから得る利益(advantages)−福利(well-being)と自由(freedom)−の間にある差異について、5つのはっきり区別できる原因を挙げる。

(1)個人的な異質性…障害・病気・年齢・性と関係する異なる身体的特徴
(2)環境の多様性…気候条件
(3)社会的環境の変化…公共教育制度、特定の場所における犯罪や暴力の広がりの有無
(4)関係についての考え方における差異…しきたりや慣習によって左右される行動様式
(5)家族内における分配…家族の所得がそれぞれの成員の利益や目標を向上させるためにどのように使われるか


10月4日(水)
 今日もまた、セン『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第3章の続きである。これまで、センによる功利主義、ロールズの正義論、ノージックの自由至上主義の論評についてまとめてきた。そのうち、ロールズの正義論については『開発』第6章および第10章において考察される。またノージックの自由至上主義については、すでに結論づけられている(その結論については昨日[10月3日]の日記に付け加えておいた)。この章で扱われるのは、功利主義である。この章でセンは功利主義との比較を通じて、自らの「潜在能力」(capability)アプローチを提出しようとするのである。

 センによれば、伝統的な功利主義倫理(utilitarian ethics)では、「効用」(utility)は、単純に幸福(happiness)あるいは快楽(pleasure)、そして時には欲望(desires)の充足と定義されている。センはこのように効用を(幸福あるいは快楽の)精神的な計測基準とする見解に対して、恒常的な窮乏状態に対する心理的適応によってもたらされる歪みを免れないとする。そしてここに、快楽や欲望などの精神的計測基準という主観主義に依存することの限界を見る。
 もちろんセンは、現代の選択理論における「効用」の使い方が、単に快楽あるいは欲求充足と一体視するのではなく、人間の選択の単なる数量的表現とみなすようになっていることを見逃しはしない。ロビンズら実証主義的方法論者による「異なる人々の心の比較をなし得る方法はない」という主張を受けて、功利主義がさまざまな妥協に屈した結果、現在では先の通り「効用とはある人間の選好の表現以外の何物でもないとするようになった、という功利主義自体の変化をセンは概観する。
 しかしこのように妥協してもなお、功利主義は個人間の福利(utilities)を比較することはできない、とセンは言う。センによれば、選択行動の一致は必ずしも福利の一致を生むことにはならず(ということは個々人の選択行動を比較しても個人間の福利を比較したことにはならない)、したがって個人間の比較は選択行動の説明とははっきり別のことである。
 さらにセンは、異なる人々が多様な需要関数を持っているときは、実質所得の比較でさえ容易ではないと言う。センによれば、このことが効用そのものの比較や金銭的効用の比較の存在理由に限界を設けるのである。
 センはここで、「多様な需要関数」を「人間の多様性」という用語に置き換え、その「人間の多様性」が、福利についての実質所得を基準にした考え方の最大の困難であるとする。それは、二人の人間が全く同じ商品の束を共有している場合でさえ、年齢・性・特別の才能・障害・病気にかかりやすいこと、などの差異が、二人に生活の質について非常に違った機会をもたらす、ということである。


10月3日(火)
 今日もまた、セン『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第3章の続きである。今日は、センがロールズの正義論について論じている箇所から取り上げる。

 センはロールズの理論の検討を、ロールズ自身が「自由の優先」と呼んできた特定の要件から始める。「自由の優先」とは、政治的・市民的自由を含む各種の個人的自由から成り立つ権利に与えられる優先度は、完璧なものとして意図され、経済的必要事項が持つ力によって妥協されることがあってはならない、というものである。
 このようなロールズの議論に対してセンは、「生死の問題になり得るほどの切迫した経済的必要事項の順位が、なぜ個人的自由のそれより低くなければならないのだろうか」(p.71)と疑問を投げかけ、極貧国の状況下ではその優先度の中身はかなり修正されなければならないとしている。
 ここでセンが言いたいのは、「自由の優先」への要求が経済的必要事項を安易に無視する結果にならないようにすべきだということである。そしてセンが認識する肝心な問題は、自由の完全な優先度ではなく、ある人間の自由に、他の種類の個人的利益(personal advantages)−所得、福利(utilities)、その他−と全く同じくらいの(それ以上ではない)重要性を与えるべきかどうかである。
 センにとって特に問題なのは、自由は社会にとって重要なものであるということが、ある人間が自分自身の総体的利益を判断する際に自由に与えるウエイトに、適切に反映されているかどうかである。センによれば、自由(基本的な政治的自由と市民的権利を含む)の卓越性の主張は、自由はある人がそれから獲得する利益−例えば所得の特別の増加−だけで判断するのが適切である、という見解に反対する。自由と基本的な政治的権利の擁護は、所得など他の個人的利益の源泉との不釣り合いから生じる手続き上の優先課題である、というのがセンの考えである。

 次は、自由至上主義=リバタリアニズム(libertarianism)と呼ばれるノージックの理論に対する、センの論評である。
 ノージックに関してまとめる前に、エンタイトルメント(entitlement)という用語の説明を挟む必要がある。この用語は、ノージックが使用するときには「取得の正義に関する原理に従って財を取得した人が、その財に対して持つ正当な資格」という意味を帯び、通常「権原」と訳される。また、この用語はセンも使用する(センの訳書ではエンタイトルメントとカタカナ書きである)。ただしセンの場合には、別の意味をもつ用語として使われる。
 センによれば、ノージックの理論は「権利の完璧な優先」という特徴を持っている。それは、人々が完璧に優先された権利の行使を通じて獲得する「権原」は、それが生む結果によって重要性を失うことは(その結果がどれほど悪いものだったとしても)あり得ない、というものである。
 しかしセンは、自由至上主義的な権利に与えられる妥協のない優先度は特に問題になり得るという。なぜなら、こうした権原の運用の実際の影響がかなりひどい結果をもたらす可能性があるからである。特にそれは、個人の重要な自由の侵害になり得る。その自由とは、避けることの出来る死を逃れること、栄養が完全で健康であること、読み書き計算ができることなど、非常に重要だと考えるべき理由のある事柄を個人が達成する自由のことである。
 ノージックによる、結果から独立した政治的優先事項という理論の提唱は、真の自由に対してかなり無関心であるという問題を抱える、とセンは言う。センの考えでは、人々が行使するために獲得する(しない)自由を含め、結果一般を無視することは、受入れ可能な価値評価システムの適切な基礎にはなり得ないのである。
 以上のような議論を踏まえて、センはノージックの自由至上主義について、以下のように結論づける。−情報ベースの観点からは、アプローチとしての自由至上主義にはあまりにも限界がある。それは功利主義や福祉理論(welfarist theories)が重視する変数を無視するだけでなく、私たちが大事にし要求する理由のある基本的な自由も軽視する。自由に特別の地位が与えられるにしても、自由至上主義が言い張るような、自由が絶対的で妥協のない優先順位を持たなければならないとの主張はきわめて受け入れがたい。私たちは、正義についてもっと幅の広い情報ベースを必要としている。


10月1日(日)
 今日もまた、セン『自由と経済開発』(以下『開発』と記す)第3章の続きである。とは言っても月が変わってしまったので、今日の最初の部分は9月27日の日記と一部重複する。第3章「自由と正義の基礎」(p.59-p.98)では、以下の問題が論評される。

(1)価値判断のための情報ベースの重要性についての一般的問題
(2)社会倫理と正義に関するいくつかの標準的な理論、特に功利主義、自由至上主義(リバタリアニズム)、ロールズの正義論のそれぞれの情報ベースが適切かどうかについての特定の問題

 今取り上げているのは、(2)の方である。センは、それぞれの情報ベースが適切かどうかについて、まず功利主義から順に吟味していく。なお、主な用語には原語をつけておくが、そのことについては9月30日の日記書いてある通りである。
 センによれば、標準的な功利主義の情報ベースは、一定の状況下での効用(utility)の総和である。古典的なベンサム流の功利主義では、ある人にとっての「効用(utility)」は、当人の快楽(pleasure)あるいは幸福(happiness)を何らかの方法で計測したものである。そしてこの考え方は、各人の福利(well-being)に注意を払うということである。そしてセンは、功利主義的評価が要求することを、三つの明確な要素に分解する。

@結果主義(consequentialism)
 すべての選択(行動、ルール、制度などの)は、、それらの帰結(consequence)によって判断されなければならないという主張。結果がどうなるかに関係なく正しいものもあると見るような規範的理論の傾向を、特に否定する。

A福利主義(welfarism)
 物事の状況の判断をそれぞれの状況下における効用(utilities)に限定する(権利の行使や侵害、義務、その他の事柄には直接の関心は払わない)。福利主義が結果主義と組み合わされるとき、すべての選択はそれが生み出す福利(utilities)によって判断されなければならないという要求になる。

B総和のランキング(sum-ranking)
 異なった人々の福利(utilities)を単純に合計して全体としての価値(merit)を求めようというもので、それが各個人にどのように配分されるかには関心を払わない(ということは、福利(utilities)の配分における不平等の程度にはおかまいなく、福利(utilities)の総和を最大にしようというものである)。

 功利主義を以上のように把握した上でセンは、まず功利主義がもつ洞察に満ちた点を二つ挙げている。

(1)社会的体制を判断する上で、その結果(results)を計算に入れることの重要性…結果(conseqence)に注意を払うことの正しさは、完全な結果主義が極端に見えるときでも、大いにありうることである。

(2)社会的体制とその結果を判断するときに、影響を受ける人々の福利(well-being)に注意を払う必要性…福利(well-being)を判断するための効用(utility)を中心にした精神的な尺度に同意しないとしても、人々の福利(well-being)に対する関心に捨て難い点があるのはいうまでもない。

 次に、功利主義的パースペクティヴの限界を3点示している。

(1)分配に関する無関心…功利主義の計算は幸福の分配における不平等を無視する傾向がある。

(2)権利、自由、そのほか非功利的な関心事の無視…功利主義的なアプローチは権利や自由などの主張に本来的な主張を認めない。

(3)適応と精神的な条件付け… 功利主義アプローチが個人の福利安寧(well-being)についてとる見解といえども、非常に強固なものではない。なぜなら、それは精神的な条件付けや適応態度によって簡単に揺らぎ得るからである。
(続きは明日以降)


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