2000年8月の日記


8月30日(水)
 昨日の続きである。橋爪大三郎は最近の著作である『言語派社会学の原理』(洋泉社)において、自らの理論的立場を体系的に展開している。橋爪は、自らに課した理論研究上の目標について、以下のように述べている。「社会科学を、いちから構築し直さなければならない。それには、従来社会科学が自明視してきた、記述のための基礎的な概念をひとつ残らず疑ってかかり、もっと一般性の高いものに置き換える必要がある。近代社会だけをうまく説明できそうなものでは、かえってまずい。近代社会との関連(循環)を断ち切った、一般性の高い概念を、うまく見つけ出す必要がある。そのうえで、単純なものから複雑なものまで、社会現象のさまざまなあり方をどうやって説明していくのか、個々に理論的モデルを考えていく必要がある」。この文章でいっている「従来社会科学が自明視してきた、記述のための基礎的な概念」というのは、「権利、人格、自由、家族・・・」などの「常識からの借り物」のことを指している。
 橋爪の理論的目標は、権利や自由といった「原住民の知識」よりも深く私たちの社会を規定しているものを確定し、そこから社会における諸概念を積み上げていく、というものである。しかしそのような目標は、<目標とすべきもの>だったのだろうか。以上のような目標を掲げながら、その一方で橋爪は次のようにも言っている。「・・・社会科学者が、社会を生きる一般の人々にくらべて、いささかでも優位な場所に立っているということはない。さらに、ある日、人々が別なふうに考え行動し始めるならば、現在の社会秩序は崩れ去って、これまでと別のものに変化してしまう、ということが十分にありうる。永遠不変の自然法則に匹敵する、社会法則なるものは存在するかどうか判らないのだ」。
 もしそうであるならば、目指すべき目標は「近代社会との関連(循環)を断ち切った、一般性の高い概念を、うまく見つけ出す」ことではなく、もっと他のことだったのではないだろうか。一般性を高め、階層構造のしっかりした理論の構築を徒に目指したことが、社会学理論の退潮を招いたのではないだろうか。
(続きは明日以降)


8月29日(火)
 以前の日記で、社会思想の<社会事象への接近可能性>について書いた。これは<ある特定の社会思想が内包する複数概念の体系が、どれだけ社会事象に接近出来ているか>ということを論ずるために、私が勝手にこしらえた概念である。しかし、この概念には自分でも問題があると思う。それは、<接近>という言葉をあいまいなままに使っているということである。今日は、このことについて書いてみたい。なお、この話題もおそらく一日では終わらないであろう。
 私が<接近>という言葉で表したかったのは<多様性への敏感さ>ということである。言い換えれば、<差異への敏感さ>ということである。そのような思考は、他のどのような思考を相対化しようとするのか。それは<ある社会事象について考えるには、思考のためのスタートラインを確定しなければならない>と考えるような思考である。ここで私が想定しているのは橋爪大三郎氏であるが、彼は自ら社会を論ずるに当り、まず<社会の構成原理>を確定しようとする。彼は社会の構成原理を言語に求め、自らの理論的立場を「言語派社会学」と称しているが、それは<社会を議論するには、まずスタートラインを確定させなければならない>と考えているからであろう。
 <社会の構成原理を「言語」にまで求めることによって、どのような社会にも存在する共通の基盤から議論を進めることが出来る。そしてそのような地点から議論を出発しない限り、その議論は普遍的な議論とは言えない>。橋爪氏の議論からは、そのような並々ならぬ<普遍主義>への志向を見て取ることが出来る。しかしそのような<普遍主義>は、かえって<社会事象への接近可能性>を狭めるのではないだろうか。
(続きは明日以降)


8月25日(金)
 昨日は仕事が休みだったので、気晴らしも兼ねて横浜駅すぐ近くの書店に立ち寄った。すると、橋爪大三郎『こんなに困った北朝鮮』(メタローグ社)が目に留まり、早速購入して読んでみた。という訳で、今日の話題は橋爪大三郎氏についてである。
 この『こんなに困った北朝鮮』という本は、タイトル通り北朝鮮に関する本である。橋爪氏が北朝鮮を旅行したときに見たことも交えながら、他の北朝鮮関連文献をもとに、北朝鮮の現状及び今後について分析している。前半は現状分析に費やされており、後半は今後の北朝鮮の動きについていくつか予測を立て、さらに日本がどう対処すべきかについて論じられている。さらに巻末には、北朝鮮とアメリカ・中国・日本との国際関係をゲーム理論によって分析した論文も載せられている。
 読んでみて強く感じたのだが、非常に力の入った本である。そしてサービス満点の本である。全編に渡り、橋爪氏が北朝鮮の政治・社会制度をコンパクトにまとめ、そこから北朝鮮の社会について切り込んでいく。その手さばきは、見事なものである。これを読めば、確かに北朝鮮のことについて「クリアになった」という読後感をもつことは多分間違いないだろう。
 しかし、私がここで問題にしたいのは、そのあまりにも見事な手さばきである。つまり橋爪氏もそしてその師匠の小室直樹氏も、このような<国家>を分析の枠組とした場合の分析は、非常に得意なのである。国家における(その国家を支えているとされる)いくつかの社会制度を発見し、議論できるまでに抽象化し、それらを並べて提示することによって、その国家の特徴を把握しようとするのが、彼らの手法である。その手さばきが、この本ではいかんなく発揮されていると私は思う。だからこそ私は、<なぜ、北朝鮮なのか>と思うのである。
 もちろん北朝鮮について日本人が考えなければならない、ということには何の反論もない。しかしこの本を読むと、橋爪氏が<自分の得意技をもっとも使えそうな対象>として北朝鮮を選んだのではないか、と思えてしまうのである。これは、私が勘ぐりすぎているのかもしれないが。


8月24日(木)
 昨日は、随分リベラリズムに肩入れした(コミットメントには<肩入れ>という日本語訳がつくこともある)文章を書いた。読み返してみて、そう思う。しかし、だからといって私は「もう社会学は駄目だ、リベラリズムしかない」と思っているわけではない。
 そのことについて言うために、まず<リベラリズムとはどのような思想か>ということについてもう一度押さえておかなければならないだろう。稲葉振一郎『リベラリズムの存在証明』(紀伊国屋書店)では、「リベラリズムは基本的には国家について人間が抱く思想、国家に対して人間が取る、ある立場である」(p.3)とされている。つまり、リベラリズムとは<国家と人間>という二項対立を、議論の前提としているということである。
 そのように捉えると、各論者の展開する議論に幅があるように見えるリベラリズムも、同一の問題について議論しているということが分かる。古典的自由主義を支持する立場から見ればセンの議論は<リベラリズム>に見えないかもしれないが、<人々に対して国家はどうあるべきか>という議論をしているという点において、やはり同じカテゴリーに入るということになる。
 センの議論は、その著作を読めば分かるように基本的に<社会政策論>である。言い換えれば、<人々が自由を獲得するために、政府は政策の立案・実行においてどのようなことを考慮すべきなのか>ということについて考察しているのである。そして社会科学的に見た場合、そこにセンの議論の、そしてリベラリズムの限界があるのではないかと考えるのである。
 いくら人々の自由のためとは言え、国家が政策を通じて人々の暮らしにまで関与(コミットメントには<関与>という日本語訳がつくこともある)するというのは、結構おそろしいことであるようにも思う。政府の過剰な関与が人々の自由な活動を妨げるのではないか、という議論はこれまでに何度となくなされてきた。もちろんセンの議論はそのような反論に簡単に組してしまうほどやわなものではないと思うが、<社会政策論>という性格上、人々のコミュニケーションに関してはどうしても踏み込めない部分があるようにも思う。
 私が考えるに、そこに社会学理論の<居場所>があるのではないだろうか。その<居場所>を<すきま>と捉えるか<広大な領域>と捉えるかは、個々人の勝手であるが。それはともかく、社会学理論が、以上のようなセンの議論と思想的・理念的に親和性をもつようなものであれば、その親和性を起点として社会学理論を発展させることが出来るだろう。では、そのような社会学理論とは何か。私は、ギデンズの理論なのではないかと、今日思いついたのである。


8月23日(水)
 昨日は仕事が忙しくて、更新できなかった。まあ、でも時々日付が飛んでいる方が、ちゃんと毎日書いているように見えるかもしれない。それはともかく、前々日までリベラリズムについて書いてきた。そしてその中で、「リベラリズムの懐の深さ」について感想を述べた。そのことについてもう少し書いてみたい。
 私が<懐の深さ>という表現で言いたかったのは、リベラリズムが(潜在的なものも含めて)持つ社会現象への接近可能性のことを指す。つまり、リベラリズム(この場合私はセンの議論を想定している)に内包されている、歴史的に蓄積された様々な思考様式に、私はその可能性があると感じているのである。例えば前々日に<寛容精神>についてまとめてみたが、それは寛容精神によって包括的な視点を(特権的に)得ようとしたからではなく(井上達夫の議論にはそのような特権的視点の獲得願望が見えてしまうような気がする)、<寛容精神>という概念を思考の前提とすることによって、<社会における人間のあり方>の多様性に接近することが出来るのではないか、と考えるからである。
 ここでいう<多様性>というのは思いつきで書いているのではない。これまで<多様性>というのは、その言葉さえ出せば議論が丸く収まるようなマジックワードであったような気がする。しかし同じ<多様性>でもセンの議論においては、それを議論の落とし所とするのではなく、むしろそれからさらに思考を延長していこうとという<探究心>が見られるのである。このような<探究心>は、先に挙げた<寛容精神>をその対象とすることも可能である。つまり、議論の落とし所として(井上のように)<寛容精神>を持ち出すのではなく、<寛容精神>の様々な様相について、あるいは<寛容精神>が持ち出されにくいようなハードケースについて、思考を延長していくことが、<探究心>ということなのではないかと私は考えるのである。


8月21日(月)
 昨日の続きである。昨日は、井上が批判の対象としている相対主義についてまとめた。先回りして言っておくと、井上は自らが依って立つリベラリズムの観点から、相対主義を批判している。したがって昨日の引用も、それ自身はが井上の主張ではない。
 そのような相対主義に対して井上が持ち出すリベラリズム上の概念が、寛容精神である。井上は言う。「相対主義にはむしろリベラリズムへの背反を動機付ける要因が内在していることが分かる。相対主義はリベラリズムの主要徳目である寛容精神の基礎を破壊する」。では、寛容精神とは何か。「人間的共感を抱き得ない相手に対してなお寛容であることが寛容精神の核心である」。そしてそのような寛容を可能にするものとして、「『我々は誤りを犯し得る存在である』という自覚、特に自己の価値判断の可謬性の自覚」をあげる。「このような寛容観は不可謬性・確実性の標榜をいかなる価値観にも許さない点において相対主義の認識論と一見似ている。しかし、実は両者の間には根本的対立が存在するのである。なぜなら、価値判断の可謬性の主張は評価主体の恣意から独立した客観的妥当性を価値判断がもち得るという前提の下でのみ意味をもつが、相対主義はまさにこの前提を破壊するからである」。
 以上の議論を私なりに言い換えると、<リベラリズムは相対主義である>と考える者は、暗黙のうちにその相対主義を根底で支える寛容精神を前提としている、ということである。つまりリベラリズムに引き付けられる意味における相対主義は、寛容精神を内包しているのである。さらに言えば、寛容精神が存続していてはじめて相対主義はその主張を十全に発し続けることが出来るが、その逆はあり得ず、さらにそのまま相対主義を主張し続けるとそれを支える寛容精神が破壊されてしまうのである。相対主義そのものの主張を貫こうとするその行為態度そのものが、相対主義を困難にする要因である。つまり、相対主義はそれが内包する自己破壊的な性格によって、その実践が困難であるような主義なのである。
 ここまでリベラリズムの議論を追いかけてみて私が感じたのは、比喩的に表現すれば<リベラリズムの懐の深さ>である。つまり人々の思考の根拠であると考えられ、あるいは世界認識における<はじめの一歩>であると考えられるような主義を、相対化することのできる<懐の深さ>である。ただし上記の感想は、必ずしも井上の議論そのものに対してのものではない。井上の自称「逞しきリベラリズム」は、そのキャッチフレーズに比べてちっとも逞しくなく、むしろナイーブなものとして、私には映るのである。


8月20日(日)
 昨日の続きである。本当は相対主義の不備について井上は立ち入った考察をしているのであるが、それについては割愛する。知りたい人は、直接著作に当ってほしい。なお、以下の文章では、他の論文からの引用の場合のみ「」を使用する。それ以外の括弧は、全て<>を使用する。
 さて私なりに、井上の相対主義批判の戦略をキャッチフレーズのようにまとめるとすれば、<相対主義の相対化>とでも言うことが出来るだろう。その戦略とは、過去から現在に至るまでの様々な議論を通じて蓄積されたリベラリズムの内包する諸概念を、相対主義的思考にぶつけることによって、相対主義的思考につきものの<基底的性格>を破壊する試みである、と私は考える。
 私の言う相対主義の<基底的性格>とは、井上が前提とする「リベラリズムの実践を指導する哲学は相対主義である」というありがちな誤解を、<リベラリズムを突き詰めていくと、その究極的原理は相対主義になる>、ないしは<リベラリズムの精神を根底で支えているのが相対主義である>と言い換えた文章によって表現される。そのような立場について、井上は次のようにまとめている。「価値判断の客観性を信じる者は自己の価値観を独善的に絶対化し、その結果、他の異なった価値観に対する不寛容と迫害に行き着かざるを得ない。これに対し、対立・競合する異なった諸価値観はいずれも原理上主観的・恣意的である点でそれらの間に優劣の差はないと考える相対主義の立場が受容されるならば、人々は他者が自己と異なった価値観を選び取る自由を互いに承認し合うことができ、多様な価値観の多元的共存を可能にするリベラルな文化を発展させることが出来る」。これをもっと俗っぽく言えば、<リベラリズムって結局相対主義に行き着くんだろ?>というようなイメージである。
(続きは明日以降)


8月19日(土)
 現在、私が参加しているメーリングリストで、「相対主義は論理的に不可能か」ということが議論の対象となっている。このメーリングリストは、私が所属している大学院の院生たちの参加によって成り立っているもので、この議論は修士課程に所属する院生たちが主に意見のやり取りをしている。私は「相対主義か・・・」と思いながら、「相対主義」について書いてあったと記憶していた、井上達夫『共生の作法』をもう一度読み直してみた。自分も意見を求められた場合、取りあえず相対主義について何か言えるようにしておこうと思ったからである。そんな、どちらかというと消極的な理由で読み直してみると、依然興味を持てなかった部分であることが分かった。しかし、今になって改めて読み直してみると、このホームページのタイトルでもある「リベラリズムと社会学理論をリンクする」という考えにつながっていきそうで、とても面白い。さすがにセンの話題ばかりでは飽きたので、今日はちょっと井上の議論について書いてみることとする。なお、一日ではとても書き切れないので、何日にも渡ることとなるであろう。

 井上達夫『共生の作法』(創文社)によれば、リベラリズムにおいて相対主義は議論の対象である。なぜ、井上のリベラリズムにとって相対主義は議論すべき問題であるのか。それは、「リベラリズムは相対主義である」という誤解を批判するためである。では、井上はどのような思考に依拠して批判を展開するのか。それは、「リベラリズムとは『何が正義か?』を問い続ける営みである」という、井上自身のリベラリズム理解に依拠してである。以下、議論の順序通りにまとめてみる。
 井上は、「正義論の可能性を主張するものは、相対主義の問題にいかに対処すればいいのか」という問いを立てる。そしてその方法として、「相対主義による正解の不存在証明が成功していないことを示すこと」をあげる。そのために、まず相対主義の概念を分類学的議論を通じて明確にすることから始める。彼の相対主義に関する分類は、以下の通りである。


広義の相対主義 T経験的相対主義

           U価値論的相対主義  (1)規範的相対主義

                          (2)メタ価値論的相対主義  @非普遍主義

                                            A価値相対主義(狭義の相対主義)

 井上によれば、一番下にある価値相対主義というのが、厳密な意味での価値相対主義である。それは、いかなる価値判断も客観的妥当性を持ち得ず、相競合する価値判断のうちのいずれを選ぶかは原理上恣意的な問題であるとするものである。
(続きは明日以降)


8月18日(金)
 今日は、センのagencyの訳語について書くこととする。その理由は、もちろんセンの議論におけるcapability以外の重要な概念といえばagencyだからである。しかし今日あえてagencyを取り上げるのは、それ以外の個人的な感慨のせいである。
 capabilityの定訳は「潜在能力」にほぼ決まったようであるが、それに比べてagencyの方は書き手によってかなり異なった訳語が当てられている。まず『不平等の再検討』(岩波書店)では、「エージェンシー」とカタカナでそのまま表記されている。ただこれでは、会社名にも使用される「代理店」という意味しか思い浮かばないことが十分考えられる。そのことを見越してなのだろうか、『不平等の再検討』では「エージェンシー」には訳注がついている。以下、引用である(p.112)。

 エージェンシー(Agency)とは、経済合理性を越えようとするところに人間の自発性や主体性を見出そうとするセンが用いる概念。具体的には、自分の周囲にいる人たちなどの願いを自分の使命として引き受けようとすることを言う。

 この訳注には、以上の記述の後に「桂木隆夫『市場経済の哲学』(創文社1995年)146−147ページ参照」と書いてある。そこで、この『市場経済の哲学』の該当ページを見てみると、agencyはそのままAgencyとアルファベットで表記されているではないか。「意味が分からなければ自分で英和辞典を引け」ということなのだろうか・・・と思いもう少し前のページを見てみると、143ページに「Agency(主体性あるいは主体の自発性)と記されていた。ひと安心である。
 一方、昨日も見た「A・セン関連文献」をもう一度見てみると、センの"Well-being,Agency,and Freedom"(1984)に、大場健氏によって「いい人生・行為主体・自由」という邦題がつけられている。ここから、agencyに「行為主体」という訳語が当てられていることが分かる。
 さらに最近出版されたセン『自由と経済開発』(日本経済新聞社)では、agencyには「力」「能動力」「エージェンシー」など様々な訳語が当てられている。そして「訳者あとがき」では、「主体的、能動的に行動する力、そうした行動」という説明がなされている。
 しかし、agencyという用語はセンだけが使用しているのではない−。それを、今ごろになって思い出したのである。自分の不見識を思いながら、私はギデンズの『社会学の新しい方法規準』(而立書房)を手に取った。ずいぶん前に大学院のゼミで取り上げられていたのを思い出し、見てみると「行為作用」という訳語が当てられていた。さらに「訳者あとがき」を見ると、あのcapabilityが出てきたのである。私は、思わず声を上げてしまった。以下、その箇所の引用である。

・・・本文中で「行為」と訳したactionと「行為作用」と訳したagencyについては、原文中での両者の区分が不明確であったため著者に直接問い合わせた結果、ギデンズから「両者の定義は、agencyが、具体的な行為(action)を可能にする『別様にもおこないうる』力(capability)をさす、そうした一般的な定義にしたがっている」との回答があり、・・・

 ギデンズの原著自体は1976年のものであり、邦訳が出版されたのが1986年なので、ギデンズが1976年の時点でcapabilityを念頭においていたかどうかは不明である。しかし私にとって感慨深いのは、こういうかたちでギデンズの議論を思い出すとは、思い出す瞬間まで思いもよらなかったということである。さらに、「ギデンズなんて・・・」と思っていた昔の自分のことを思い出すと、恥ずかしいことこの上ない。反省を込めて、今日は、このことをどうしても記しておきたかったのである。


8月17日(木)
 さて、センの議論における重要な概念であるcapabilityに、「潜在能力」という訳語をつけたのは誰なのか。以下に書くことは、あくまでも私の推測の域を得ない。その理由は、現時点では全ての文献に目を通しているわけではなく、また翻訳者や論文の執筆者に直接聞いたわけでもないからである。
 センの『合理的な愚か者』(剄草書房)についている「A・セン関連文献」を見る限り、最初にセンのcapabilityについて取り上げている邦語文献は、川本隆史(1985)「A・セン『権利と能力』」だということになる。「A・セン関連文献」によれば、この川本論文はセンの論文"Rights and Capabilities"を紹介したものであるとされており、このことから、この時点ではcapabilityは「能力」と訳されていたことが分かる。また、この川本論文に言及している井上達夫(1986)『共生の作法』(創文社)においても、井上自身がcapabilityに「能力」という訳語をつけている。
 一方「A・セン関連文献」から、capabilityをそのまま「ケイパビリティー」とカタカナで表記する例も見ることが出来る。川勝平太(1986)「ケイパビリティーの話」および、朝日譲治(1988)「ケイパビリティー・アプローチの意義と問題点」が、それである。朝日譲治氏は1991年に出版された『生活水準と社会資本整備』(多賀出版)においても、一貫して「ケイパビリティー」と表記している。
 それに対してセンの Commodities and Capabilities の邦訳として、1988年に岩波書店から出版された本の邦題は、『福祉の経済学 財と潜在能力』となっている。このことから私は、capabilityに「潜在能力」という訳がついたのは、この鈴村興太郎氏の訳書からなのではないか、と考える。そして他の訳者がそれ以降、この「潜在能力」という鈴村訳に従うようになったのではないか、と推測するのである。1989年に大庭健・川本隆史両氏の訳によって出版された前出の『合理的な愚か者』では、capabilityに「潜在能力」という訳語がつけられている。そしてそれ以降、川本氏自身もその著書『現代倫理学の冒険』(創文社)において、「潜在能力」という訳語を一貫して使用している。ここまでの私の推測からは、capabilityの訳語が「潜在能力」となったのは鈴村訳からだということになる。
 しかし、それ以前につけられていた「能力」という訳語でも、センの含意はほぼ過不足なく伝わるのではないだろうか。前日の日記にも書いた通り、現に『不平等の再検討』でも「能力」としている箇所もあるぐらいである。だから、「潜在」という言葉がどうしても引っかかる人は、単に「能力」と置き換えて読むことも一つの手だと思う。何だか前日と言っていることが違うかもしれないが、それは気にしないでいただきたい。何しろ、これは日々思ったことを書く「日記」なのである。


8月16日(水)
 書いている日付はまだ15日なのであるが、これは16日の分ということで了承願いたい。
 とある掲示板に、センのことについて書き込みをしてきた。その内容は、原語(センの論文は英語である)と訳語の対応に関する指摘である。ちょっと長くなるが、調べてみて自分でも面白かったのでせっかくだからここに残しておこうと思い、大体の内容を載せることとする。なお必ずしも、書き込んだ文章通りではない。

 センの『不平等の再検討 潜在能力と自由』(岩波書店)の訳語について、availabilityを「潜在能力」と訳すのは問題だ、という指摘がありましたが、邦訳と原著(Harvard University Press)を見比べてみたところ、availabilityを「潜在能力」と訳しているところは見当たりませんでした。capabilityが「潜在能力」の原語です。
 capabilityというセンの議論において非常に重要な概念は、邦訳ではほぼ一貫して「潜在能力」となっています。ただ私が見つけた限りでは、一個所(邦訳p.197)「能力」と訳されています。ただしavailabilityという言葉は、『不平等の再検討』に出てきます。原著(p.52-53)では data availabilty あるいは informational availability のように使われており、邦訳では「(情報の)入手」、「(情報の)入手可能性」となっています。

 この短い文章を読んで、「センの議論が難しいのは、用語が難しいからだ」と考える人がいるかもしれない。セン独特の「言葉づかい」が読者の理解を阻んでいるのだ、と。しかしセンの議論の難しさは、むしろ「想定している事象の多様性」にあるのではないだろうか。つまり、「われわれが考慮すべき事柄は多岐に渡っている」という彼自身の議論におけるスタンスが、読む人にとっての「分かりにくさ」となっていると私は思うのである。
 確かに、capabilityとは「潜在能力」のことであると言われても、はじめて読んだ人はピンとこないであろう。しかしこの語を「潜在能力」と訳すこと自体には、それほど問題はないように思う。私が持っている『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)でcapabilityをひいてみると、「能力、才能、手腕」のほかに、複数形で「(今後伸びる)素質、才能、潜在能力、将来性」と書いてある。つまり、それほど突飛な訳ではないと考えてよい。だから訳語が難しいのではなく、彼の議論そのものが多岐に渡っているので、読んでいるうちに何のことを言っているのか分からなくなってしまうのである。少なくとも、私の場合はそうである。


8月15日(火)
 先日、友人から柄谷行人の編著による『可能なるコミュニズム』(太田出版)を譲り受けた。出版されているのは知っていて、ただ買ってまで読もうとは思わないなあと思っていたところだったので、とても有り難いことである。でもって、取りあえず最初に載っている柄谷の文章を読んだ。そして私は、いわゆる「学術論文」と「思想評論」との違いについて考ええざるをえなくなったのである。
 柄谷の文章「『トランスクリティーク』結論部」は、マルクスの『資本論』が主要な論題となっている。この文章の中で柄谷は、『資本論』の新たな解釈を示そうとしている。そのような意図が、文章全体からひしひしと伝わってくる。そして書かれている内容について、なるほど、と思わなくもない。しかし私が引っかかるのは、その内容や結論そのものよりも、そこに至るまでの議論の流れである。「マルクスは『資本論』で〜したのだ」という具合に、結構断定口調で言及している。しかし、どうしてそのように断定できるのかという説明が足りなすぎるような気がするのである。柄谷は文章全体の中のいくつかの部分で、従来の『資本論』の解釈と異なった自説を発表しているが、そのようなことをいうためにはここに書かれている文章の何倍もの量による論証が必要であろう。柄谷が一行で断定している解釈を示すために、この文章全体分ぐらいの分量が必要であろう。
 このように書くと、「そんなもの最初から柄谷に求めたってだめだよ」という反論が聞こえてきそうである。柄谷のは「思想評論」なのだから、それはそれとして承知して読まなければならないのだ、と。この文章を「学術論文」と同じように読んでは駄目で、それに気がつかないのは読者の不見識である、と。もちろん、私もそう思わないでもない。だからこそ、柄谷の「論文」とは書かずに「文章」と書いてきたのである。しかし、そう思って最初の「引っかかり」についてそれなりの解答が出たのにもかかわらず、何かが引っかかるのだ。何だろう。それは、自分の作業も「思想評論」の閾を脱していないのではないか、という恐怖感なのだろうか。それとも、自分のは「思想評論」にすらなれないただの駄文なのではないか、という恐怖感なのだろうか。


8月14日(月)
 ようやく、ここまでこぎつけた。本当はもっともっと早くここまでくるはずだったのだが、仕事が忙しかったのにかまけて、ついつい先延ばしにしていたのだった。さらに言えば、本当は昨日のうちに公開するはずだったのだが、この文章を書いていたら日付が変わってしまい、結局今日までずれ込んでしまった。外見など考えると、とてもはずかしくて人前にさらせるものではないとは思うのであるが、これ以上先延ばしにしては永久に公開せぬままに終わってしまいそうなので、恥を忍んで公開することにした次第である。だから、見た目に関しては不問にしてほしい。
 さて、このホームページには一応「目的」というものがある。それが、「リベラリズムを社会学理論へと接続する」というものである。このことについて、少し書いておきたい。
 リベラリズムは、日本語に訳すと「自由主義」となるように〔井上達夫『他者への自由』(創文社)p.197によればこの訳語は間違いということになるのであるが〕、事実関係のみに照準を絞った議論ではない。必ずその議論には、「〜べきである」という規範的・倫理的要素が含まれる。したがって社会学を専攻する向きには、「社会学とリベラリズムはそもそも接続しないのではないか」という考えが頭に浮かぶのではないだろうか。なぜなら、社会学という学問は「社会的事実」を扱うものであり、「人々は〜すべきである」という議論から距離を置かなければならない、とされているからである。このような議論は、「価値判断排除」および「価値自由」という概念へとつながっていく。
 この問題は、非常に難しい問題である。だから今でも、自分のやっていることが本当に妥当なのかどうか、疑わしく思うことがある。もしかしたら、最初から「禁じ手」のところに踏み込んでいるのかもしれない。
 しかし私は、<社会における「自由」の位置づけ>について論じることは社会学的に意義のあることだと、今のところ考えている。「自由」という概念及び考え方は、すでに社会に十分浸透している。そしてその「自由」を前提として、社会的相互行為が営まれる。したがって、「自由」についての思考が蓄積されているリベラリズムをもとに、<社会における「自由」の位置づけ>を論じることには、社会学上の意義がある。と、ここまでは何とか言うことが出来る。
 しかし、問題はここからである。<社会における「自由」の位置づけ>とは一体何のことを指しているのか、考えなければならないのである。


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