公正な社会の実現のために   01.11. 9

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「私の教育概観」の続編です。
教育改革自体が目的になるのではなく、実現させたい社会像をまず共有して、そのための手段として改革するべきだと書きました。

では実現させたい社会とはどんな社会か。私が考えるのは「公正な社会」です。浅尾慶一郎参議院議員風に言えば、「誰にでも、何回でもチャンスがある社会」です。
時代の転換期にある日本では、様々な分野での意識改革が必要だと思います。職業観、男女、障害者という3つの例を挙げていきます。


■ 職業観

ひとつめの例は、前のコラムで書いた職業観です。繰り返しになりますが、現在は大卒の人間が高卒の人間が明らかに優位です。大卒の人間のほうが専門知識を身に付けているわけですから本来は当然のことなのですが、しかしあまりにも形骸化しすぎています。オートマチックに大卒の人間の方が好条件で出世できる雇用体系を脱して、能力次第で大卒も高卒も勝負できる体系にしていくことが必要です。 また産業の規模をただ大きくすれば良いという時代から、独自のアイデアで産業を創造しなければならない時代に入った今、起業に対する意識改革も不可欠になります。

アメリカでは、ベンチャー企業が起こり、やがて失敗した場合の責任は起業家ではなく投資家にあると考えられています。企業家は、一度失敗しても今度こそ素晴らしいアイデアがあればもう一度チャンスを与えられます。これに対し、日本の風土では起業に「一度失敗したら二度と立ち上がれない」と言われているそうです。

このように、何かに挑戦しようという人に対しては公正な、ある意味ドライな目でチャンスが与えられる土壌を社会全体で築かなければならないと思います。そのためには、アイデアと行動力を尊重できるようなプログラムを学校教育に取り入れると同時に、職業訓練などで大人を対象にしたプログラムも行われなければなりません。


■ 男女の雇用機会

ふたつめの例は、男女同権(「男女」と書くだけで差別だと言われる人もいますが)です。労働市場の拡大や第三次産業の成長と共に、女性の社会進出は当り前のようになってきました。1985年の男女雇用機会均等法によって、法制度の面では一応の男女平等が達成されました。しかし現状では、不況も重なって、女性の就職は男性に比して著しく厳しいといわれています。

男女同権を主張される人の中には、男女が完全に同じ条件で雇用されるべきだと主張される方がいます。この考えには無理があると思います。私は、雇用という面においては、女性は男性よりも弱者であると思っています。理由は2つ。ひとつは体力面、ひとつは出産による時間的なブランクです。それを考慮せずにいくら法整備をして男女が均等に採用される機会を設けても、例えば能力が互角な男女が1人の採用枠に応募していたとしたらまず男性が採用される、という状況は変わらないと思います。

まずは両性の物理的な違いの理解を進めて、男性は何が得意で何ができないのか、女性は何が得意で何ができないのか、どんな条件があれば両性が対等に仕事ができるのかを議論する必要があります。女性の社会進出は新しい事象ですから、まだまだ議論の余地は充分にあります。そして、女性が男性と対等に雇用されるために整備されるべき条件かが浮かび上がってきたら、それを両性で認識し合いながら、フォローするためのルールを作っていくことが必要です。

女性の立場の弱さを認めて、それでも雇用するために条件を再整備する。いわばアドバンテージを与える(=「ハンデをつける」の裏の意味)わけです。私は、このアドバンテージを与えることが女性に対する保護行為であるとは思いません。雇用する側にもメリットが生まれると思っているからです。それは「女性の視点」「女性の発想」といわれるものです。これからの日本の産業で一番求められるのは創造力です。単純労働を求められた高度成長期とは異なる点です。
女性の社会進出は時代の要請であり、やっと女性が社会で活躍できる時代になりました。だから女性の能力が十分発揮できるように、両性の違いを認識した上でどんなアドバンテージをつけるのかという話し合いが行われるべきなのです。

また、そのようなアドバンテージの要求は女性の権利だと思います。だからこそ女性も感情的にならずに、自身と男性との違いを認識した上で、どんな土壌があれば男女が仕事の上で平等に勝負できるのかを考えて、どんな条件が整備されれば良いのかを主張するべきではないでしょうか。

以上のような男女の雇用機会の意識改革を促すのは、やはり教育です。もっとも、この分野の意識改革はどんどん進んでいくのではないかと思っています。なんてったって時代の要請ですから。しかし、変化のスピードを速めるためのプログラムは、学校教育においても生涯教育においてもやはり必要なのです。


■ 障害者の権利

みっつめの例は、障害者の人権です。これは先進国で日本が一番遅れていると言われる分野です。男女均等の問題と違い、やがて自然に進んでいくだろうとは思えません。

□ 障害者への抵抗感

問題は、マジョリティーである健常者が、マイノリティーである障害者を自分とは別の世界の人だと思ってしまうところにあるのだと思います。別の世界の人とは言い過ぎかもしれませんが、日本では障害者は健常者から隔離され、保護されるという状況にあります。自分がこのまま普通に生きていけば障害者と深く関わることはない、関わる必要はないと(漠然とでも)考えている人は少なくないのではないでしょうか。その意味では別の世界という表現が必ずしもオーバーだとは思いません。
また日本人の健常者は、障害者に対して抵抗があるのではないかと思います。抵抗とは、嫌悪感といったものだけでなく、気を使ってしまって嫌だなという感情などです。
その原因を考えると、最後は教育に行き着きます。日本では障害児は特殊教室に入れて、健常児と障害児を分けて教育してきました。障害児と健常児を分けて教育してきたことが、互いの距離感の大きさを作り、相互理解を阻んできました。そうしてきたのにもいろいろな事情があったわけですが、現在は統合できる限りは統合していく時期に来ていると思います。

□ 自分の問題として

障害者の権利の問題は、決して特定の弱者の問題ではありません。例えば、私が明日、交通事故で半身不随になる可能性、あるいは視力を失う可能性を完全に否定することはできません。
いつでも、誰にでも、自分が障害者になるという可能性があります。そのとき周囲がどんな反応を起こすか。雇用などの自分の環境はどう変わるか。事故にあう前の自分のライフスタイルは事故後、どのくらい維持できるのか。障害者の権利の問題を議論するうえでの大前提は、自分の問題として考えることです。
しかし、私が受けてきた学校教育の中で、自分の問題として障害者対策を考えさせられたことはありません。今の日本でも、障害者の権利の問題は特定の弱者の問題という意識を持っている人は多いようです。障害者というのは、生まれつきにしろ、生まれた後にしろ、自分と同じ人間が体にハンデを負ってしまったにすぎません。

□ 社会環境と障害者

アメリカでは、障害は個性だという理念が尊重されています。人間はひとりひとりユニークな存在であり、ひとりひとり異なっていることが当たり前であるという理念です。きれいごとを言うな、と思われるかもしれませんが、人間には誰にでも欠点があります。走るのが遅い子や口下手な子や手先が不器用な子や音痴な子と、言葉をうまく発音できない子や肢体が不自由な子の間には大差はないと思います。
日本で走るのが遅い子や口下手な子や手先が不器用な子や音痴な子と、言葉をうまく発音できない子や肢体が不自由な子の間に大きな差があると感じてしまうのは、日本の社会が前四者には比較的暮らしやすく、後二者には大変暮らしにくいという、社会環境という面での違いなのだと思います。
「社会が障害者を作る」という言葉があります。「障害者」という概念にもともと明確な定義があるわけではありません。その社会環境で普通に生きていくことに対してハンデを負ってしまった人が「障害者」と規定されるのです。逆に、ハンデを軽減させる条件を社会環境として整備していけば障害の度合いも当然軽減されます。
そう考えると、日本で障害は個性だという理念が広まらない理由は、やはり社会環境、すなわち障害者を分離、隔離してきた歴史に帰依します。障害者がもっと社会に進出していたら、障害者が社会に出やすくなるよう整備が進められて、さらに多くの障害者が社会に出るようになるという好循環が進んでいたでしょう。逆に障害者を社会から隔離してきたことが、ますます障害者が社会に出にくくなる状況を生むという悪循環を起こしてきたのです。

先ほど「障害者の権利の問題を議論するうえでの大前提は、自分の問題として考えること」と書きました。もし生まれてくる自分の子供が事前に障害児だとわかったら、それでも自信を持って産みたい(産んでほしい)と思えるでしょうか。私は、産んでほしいと思うことに抵抗がないと言ったら嘘になります。障害をもっていることに抵抗があるのではありません。障害を持った子が活躍できる社会環境に、今の日本はない。そのことに対して大きな抵抗感を感じるのです。

□ 日本経済と障害者

今まで障害者が隔離されてきたことを日本経済と関連させて考えると、障害者は高度成長の犠牲になったのだと考えることができます。国が成長の段階にある時は、最大多数の最大幸福を得るための政策がとられます。多数の人と少数の人の利害が対立した場合は多数の人の利益が優先されるということです。第一次産業や第二次産業が日本経済を支えていた時代には、障害者は労働力としては歓迎されないグループでした。また、障害者が歩きやすい道路よりも、輸送など経済活動に有利な道路が優先してつくられてきました。このような政策を許容できるとはいいませんが、こんな政策が行われてきたことを理解しなければなりません。

それを踏まえたうえで21世紀、多様化の時代です。ここからは男女雇用機会均等とロジックが一緒になります。
第一次産業、第二次産業では体力面で劣る女性は活躍の場が与えられませんでした。しかし第三次産業全盛の時代になって、一気に女性の社会進出が起こりました。第三次産業、つまりサービス業ではそれほど体力面の差は問題にされず、男女が同じ条件で働ける産業だからです(それでも平等にならないのは雇用体系に問題)。
さて、その第三次産業、サービス業が活発になっても、障害者には活躍の場は与えられませんでした。営業などをする際、言語障害などは大きなハンデとなってしまうのでしょう。しかし現在は第四次産業とも言うべき情報産業の時代です。またバリアフリー機器の開発も急ピッチで進んでいます。女性が腕力ではなく知力で勝負してその活躍の場を広げてきたように、障害者もその能力を活かすIT機器により、社会参加が可能になったと言われています。障害者が健常者と肩を並べて活躍できる社会はもう目の前に来ているのです。
しかし、女性と障害者で決定的に違うことがあります。法整備です。

例えがアメリカばかりで恐縮ですが、アメリカには、ADA(Americans with Disabilities Act/障害を持つアメリカ人法 = 障害者差別禁止法)という法律があります。この法律では、障害をもった人間も、あらゆる場面で等しく扱われなければならないということが定められています
また。アメリカには「リハビリテーション法」という法律があります。その508条で、アメリカ政府が調達するIT機器のすべてが障害者対応のものでないといけないと決められています。その結果、官庁でも民間企業でも多くの障害者が健常者と一緒に働いています。組織のトップになっている障害者もいます。

日本の技術力をもってすれば、アメリカ並みに障害者が社会に進出できる環境を整備するのは難しくないはずです。ではなぜアメリカでできて日本でできないのか。ここで意識改革が問題になるのです。
ある政治家は「日本で建前と思われていることが、欧米では本気でなされてきた」と言っています。

□ 意識改革・日本の特殊教育

日本で障害者の社会進出が遅れている原因は、教育に行き着くと書きました。
日本では、視覚障害児、聴覚障害児、 精神薄弱児(法律用語で、最近では「精神遅滞」、「知的障害」が用いられる)、肢体不自由児、病弱・身体虚弱児、言語障害児、情緒障害児を対象に特殊教育が行われています。障害児と健常児は完全に隔離されてしまいます。

特殊教育とは、「その心身の障害の状態や発達段階、特性等に応じ、よりよい環境を整え、その可能性を最大限に伸ばし、可能な限り積極的に社会に参加する人間に育てるため」に行う教育です。また特殊教育を行わないで障害児と健常児を一緒の教室に入れると「障害をもつ子どもは通常の授業には全くついていけず、時には授業を妨害し、他の生徒に迷惑をかけることさえある。」「その子の発達に合った、専門的な教育を受ける機会がほとんど無い。」「いじめや中傷の対象となりやすい。」などの問題点があることが、日本で特殊教育が行われる根拠の一つでもあります。

確かに、私が以前に聾学校へ実習に行った時に、5人くらいの少人数の教室で、先生と活発に手話でコミュニケーションをとる(誰もが誰も、みな積極的なのです。)児童を見ながら、「普通教室に入ったらこうはいかないだろうな」と思った覚えがあります。特殊教育の目的である「その心身の障害の状態や発達段階、特性等に応じ、よりよい環境を整え」という部分は非常に重要だと思います。しかし後半の「可能な限り積極的に社会に参加する人間に育てるため」に私は疑問符がつきます。社会に出れば大半の人間は健常者です。1人で健常者に混じって活躍できなければ「積極的に社会に参加する」ことはできません。ということは、障害児も普通教室に入って、1人で健常児に混じって過ごすことに慣れていく必要があるのです。
それとも「可能な限り」という枕詞にミソがあるのでしょうか。

障害児にとって、学童期から健常児に混じって活躍できる環境が整っていない限りは自立して社会参加できる人間に育つことは困難です。一方で、健常児にとっても、学童期に障害児を理解し、「彼らには不自由なところもあるが長所もある、環境さえ整えれば一緒に仕事ができる」という意識を持たせなければ日本の障害者の社会進出は進みません。

□ 意識改革・統合教育の時代

私は、障害者に対する政策が高度成長期におろそかになっていたのと同じで、障害児への教育も経済成長の犠牲になってきたと思っています。成長期にはとにかく日本の経済成長に貢献できる人材を育てる必要がありました。授業の進度が遅れてしまうという要素は極力排除する必要がありました。障害児を特殊教育に入れる政策にはそんな一因もあったと思います。また、障害児を健常児と一緒に普通教室で学ばせるためにはハード面の整備のために大きなコストがかかります。限られた予算の中でそれほど多くの教育への投資をすることはできないという事情もあったと思います。繰り返しの表現になりますが、このような政策を許容できるとはいいませんが、こんな政策が行われてきたことを理解しなければなりません。
しかし現在は日本の経済成長期とは社会事情が異なります。「高さ」ではなく「幅」が求められる時代、障害児と健常児が違いを認め合うことは以前にも増して必要になります。また科学技術の進歩により、障害者対応のIT機器など障害児が普通教室で学ぶためのハードも整うようになっています。「モノ」から「ヒト」の時代と言われるように、予算の中身も人材への投資が重要視される時代になりました。

障害児と健常児が一緒の教室で学びあうことを統合教育と言います。私は、健常児と障害児を完全統合すべきだとは言いません。しかし、「その心身の障害の状態や発達段階、特性等に応じ、よりよい環境を整え」るための特殊教室も併用しながら、基本的には統合教育を進めていくべきだと思います。障害児が一緒に教室で学ぶために必要なIT機器などがあれば揃えるべきだし、人件費がかかるようなら予算をつぎ込めばいい話です。公正な社会が実現するまでは、教育への公共投資はもっともっと増えるべきだと思います。

□ 意識改革・大人の意識改革

また、学校教育と同時に大人の意識改革が必要なことは言うまでもありません。
「Nimby」という単語があります。「Not in my backyard」、「私の裏庭には建てないで」という意味です。「障害児と健常児が仲良くなるのは賛成だけど、私の子供のクラスに障害児が来たら私の子供の勉強が遅れてしまうから反対。」という親は必ず現れます。このような人達を粘り強く説得していかなければ公正な社会は訪れません。

乙武洋匡さんの『五体不満足』では障害を持つ乙武さんが普通学級に入り、健常児と一緒の生活を送る姿が描かれています。また乙武さんが不得手なことに対しアイデアを絞って乙武さん用のプログラムを工夫する先生の姿も描かれています。この『五体不満足』が社会現象になっているうちは(文学性でヒットするのなら良いのですが、題材自体がウケているうちは)まだまだ本物の公正な社会ではないと思います。あの本の内容が早く日本の社会で当たり前の風景になることが望まれます。

最後に、障害者の労働環境について。「女性」のところで書いたことを主語をすり替えて書いておきます。

まずは障害者と健常者の物理的な違いの理解を進めて、健常者は何が得意で何ができないのか、障害者は何が得意で何ができないのか、どんな条件があれば双方が対等に仕事ができるのかを議論する必要があります。そして、障害者が抵抗なく雇用されるために整備されるべき条件かが浮かび上がってきたら、それを社会全体で認識し合いながら、フォローするためのルールを作っていくことが必要です。

これからの日本の産業で一番求められるのは創造力です。労働環境が整備されていれば、障害者も充分に創造力を発揮できます。だから障害者の能力が十分発揮できるように、経営者が障害者のことをよく理解した上でどんな環境を整えれば良いのかという話し合いが行われるべきなのです。

また、そのような労働環境の整備の要求は障害者の権利だと思っています。現在は「障害者は健常者に守られる人」というイメージが強く残っています。「健常者が納めた税金で福祉を受けている障害者が意見を言うな」という人もいます。そのような土壌の上では権利の主張も叶いません。障害者自身が、自身の長所と短所を認識した上で、どんな条件が整備されれば良いのかを主張できる土壌作りも急がれなければなりません。


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