私の教育概観   01.11. 9

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※教育学に関心を持ち始めた頃に書いたものです。無責任な放言ばかりです。これが当時の精一杯。

11月3日、『DPJリーダーズスクール』という会が行われました。解散した後、ほとんどが初対面同士の8人で飲む機会がありました。政局や外交安保の話もしましたが、日本の教育システムについても話し合いました。広い部分で意見は一致できたと思っています。その時の話を思い出しながら、2001年11月の時点での私が考える、日本の教育システムのあるべき方向を書いてゆきたいと思います。


■ 日本の教育の現状

今の日本の教育システムについて、「現行のままで良い」という人はかなり少ないでしょう。自ら危機意識を持った人、世論に触発された人、いろんな立場の人々から教育改革が叫ばれています。

では、何が問題なのか。私は次のように考えます。

 社会の総意として求められる価値観教育の当事者(特に親)が持っている価値観
今までの日本画一画一
現在の日本多様画一
これからの日本多様多様
 ※もちろん、これは極めて単純化したモデルだということをご理解ください。但し書きをつければキリがなくなります。

  「画一」、「多様」という言葉について説明します。

「画一」・・・国が唯一最大の目標を掲げ、それを成し遂げるためにつくられた教育システム。
戦後(戦前もそうだが)の日本の目標は欧米に負けない経済大国になることだった。その目標を達成するため、教育制度は文部省の強大な権力によって整備された。地域平等原則によって全国の子供に基礎学力をつけさせ、価値観を「学力」に一本化することによって学力の獲得競争(受験戦争といわれる)が行われる土台を作った。学力獲得競争に勝ち残った子供が最良であり、官僚や大企業の役員として日本の経済の安定成長を支える立場になる。逆にいえば、官僚や大企業の役員が最高の職業であり、そこにたどり着くために「学力」の獲得が求められた。

「多様」・・・価値観や職業観を一本化させることのない教育システム。代わって「創造力」が求められる。
国家目標が達成されてしまった今日、今までのシステムでは通用しないことは誰もが認めている。しかし「ポスト画一」のシステムはまだまだ模索中である。次代のシステムをどうするのか、その答えが出ていれば教育現場はこれほど混乱していない。

高度成長の時代、日本では「画一」の価値観にのっとった教育が行われていました。私はこれを否定するつもりはありません。日本が早く戦後から抜け出して豊かな国になるためには有効な策だったのではないかと思っています。
現在の東南アジアでは、小学生の段階から成績優秀な子供を選抜し、エリート教育を施して国を引っ張る役人を育てるという教育システムが敷かれている国もあります。社会に明確な目標があれば、そのために「学力」に価値感を絞り込んで教育を行うことは一つの有効な方法です。
しかし、日本ではその価値観を現在まで引っ張ってしまいました。

経済成長という目標が達成されたといわれるのが1980年頃。この頃から社会の価値観も、教育現場の価値観も、変化していかなければなりませんでした。
社会の価値観は緩やかに変化してきていると思います。私が義務教育を受けている頃、大人たちが「脱偏差値」という議論をしていたことは伝わってきましたし、現在「日本の子供は全員高学歴の獲得を目指すべきか」というアンケートをとったら大多数の人がNOと言うでしょう。

そのように(主にマスコミから流れてくる)社会の価値観が変化してきたのと違い、教育の当事者、例えば親や教師は価値観の転換に時間がかかってしまっているのだと思います。多様化という流れにうなずきながらも、自分の子供のこととなると高学歴と安定した就職を望んでしまいます。
現在の教育の当事者達は「多様」という価値観に対して「総論賛成各論反対」に陥ってしまっているのではないでしょうか。

今まで自分が生きてきた社会では高学歴が成功者への道だったわけですから、子供にそう期待するのも当然だと思います。しかしこの「総論賛成各論反対」によって子供はジレンマを起こしてしまいます。

子供は親から期待されるものも社会から求められるものも敏感に感じ取ります。自分がいまどんな行動をとれば親が喜ぶのか。自分が飛び込んでいく社会ではどんな行動をとれば認められるのか。その2つが相反している場合、子ども自身に混乱が生じます。
現在の教育現場はまさにこの状況が起こっているのだと思います。

私は、いまの教育現場の混乱というのは時代の転換期に起こる、必然のものだと思っていますし、誤解を恐れずに言えば、通るべき道であるとさえ思っています。
しかし、時代の転換期だから混乱は当然で、この時代に生まれた子供は運が悪い、と済ませるわけにはいきません。子供にとっては取り返しのつかない大事な問題です。一刻も早く混乱を治める努力が必要です。

混乱を収めるにはどうしたら良いのでしょうか。社会が求める価値観と、教育現場の価値観に整合性が戻れば、収拾がつくのだと思います。上の表を見ると、「今までの日本」には社会と教育現場の間に「画一」という整合性がありました。「現在の日本」ではこの整合性が失われています。ですからこの転換期を経て、「これからの日本」で社会と教育現場の価値観がまたリンクするようになれば良いのだと思います。


■ 社会のグランドデザインを

改革はそれ自体が目的となっては意味がありません。何かを変えるという大きな目的があって、そのための手段として改革があるのです。

教育改革の方向性について、「子供にゆとりを与えろ」「それでは学力が低下する」と言い合うのではなく、何のためのゆとりか、何のための学力か、どんな社会にしたいからそれが必要なのかという、社会のグランドデザインがまず議論されるべきです。

ここ2、3年で、制度的な「教育改革」が行われています。小中学校に「総合的学習の時間」という科目が導入されました。校長の裁量権の拡大も行われています。教育長を公募した自治体もあります。これらは教育の規制緩和といわれています。規制緩和は権力の分散であり、「多様化」につながってゆきます。

このように教育現場も制度というハード面では徐々に変化が起こっています。親や教師の意識というソフト面も、歩調を合わせて変化しなければなりません。何のための改革か、子供達が育った時に迎える社会はどんな社会が望ましいのかを議論し、社会像をある程度共有することが必要だと思います。

同時に、社会像の共有は大人と子供の間でも必要です。
2000年に首相の諮問機関として「教育改革国民会議」が持たれました。この会議には、大人と子供が社会像を共有するという視点が欠けていたのではないかと私は思います。
例えば、今の子供は道徳教育が必要だとされ、奉仕活動の重要性が指摘されていました。しかし、国民会議の出席者の道徳観と今の子供の道徳観が一致するとは思いません。そして道徳観が相違しているからといって「今の子供は道徳観が欠けている」と結論づけるのは間違いでしょう。時代の変わり目だから子供に変化が起こっているのだということを認識し、自分の年代の道徳観を押し付けるのではなく今の子供が大人になった時の社会にはどんな観念が必要なのかを考えるべきだと思います。

話が前後しますが、意識改革を起こすためには制度の改革が不可欠です。当事者が常に自分や子供の利害を考えるのは当り前のことです。ですから意識の転換に見合う社会のシステムが整備されるという予測がつかない限りは意識改革は起こりません。

制度の改革と意識改革が両立して初めて教育改革が成功するのです。


■ 私の考える多様化

最初の方で「次代のシステムをどうするのか、その答えが出ていれば教育現場はこれほど混乱していない。」と書きましたが、私が考える「これからの日本」の教育システムを書きたいと思います。

□ 職業観

酒を飲みながらこの話をしていた時に、次のような例を教えてくださった方がいました。
「日本で中学生や高校生に「外務省の幹部」と「中小企業の起業家」のどちらに魅力を感じるかというとほとんどが「外務省」と答える。アメリカで同じ質問をするとほとんどが「起業家」と答える。」

これこそ、安定志向の教育を受けてきた日本の生徒と、創造力を伸ばす教育を受けてきたアメリカの生徒の違いだと思います。
これまでの日本では高学歴−官僚・大企業を頂点とした、一本化された価値観のもとに教育がなされてきました。経済成長が終わり、国家目標が達成された今、求められるのは高さではなく幅です。独自のアイデアで他人が思いつかなかった事業を始められる人間がもっともっと賞賛されるようになるべきです。

現在の日本では大卒の人間が高卒の人間が明らかに優位です。大卒の人間の方が専門知識を身に付けているわけですから本来当然のことです。しかしあまりにも形骸化しすぎています。これでは大学に入れるかどうかが人生の大きな岐路になってしまいます。今の子供達が、学年が進むにつれ勉強をよくする子と全く勉強しない子に二極分化するという現象の原因がそこにあります。
オートマチックに大卒の人間の方が好条件で出世できる雇用体系を脱して、能力次第で大卒も高卒も勝負できる体系が望まれます。そうすれば大学に進学した人間は研究に専念するになるし、高卒の人間も卒業後も学ぶ意義を見出せるようになります。

とにかく学歴や職業に優劣を感じずに、アイデアや行動力で人が評価される(だから起業家に魅力を感じるのでしょう)社会が理想だと思います。

そのためにはどうするか。今の経営者が突然そのような雇用体系に変えるのは無理な話です。今の子供達が大人になったときを見据えながら、「君たちが大人になる頃はそういう社会なんだ」と言って(もちろん大人が意識を変えながら)意識を持たせる教育をしていくことが必要ではないでしょうか。

また、誰にでもチャンスが与えられるという土壌がなくてはなりません。
後で書く「公正な社会」でも触れますが、アメリカの風土では、ベンチャー企業が起こり、やがて失敗した場合の責任は起業家ではなく投資家にあると考えられています。企業家は、一度失敗しても今度こそ素晴らしいアイデアがあればもう一度チャンスを与えられます。これに対し、日本の風土では起業に「一度失敗したら二度と立ち上がれない」と言われているそうです。日本が安定を重視してきた結果だと思われます。守りに入るのではなく、アイデアと行動力を尊重できるように、義務教育のうちから起業や投資についての教育を行うべきだと思います(そんなことしている余裕はない!というクレームが来るので脱学歴偏重と同時進行で行わないと無理でしょう)。

□ 創造力

ここまで、アイデア=創造力の必要性について力説してきました。
よく、「つめこみ教育」か、「創造力」か、と2つが相反するように語られることがあります。
2つは矛盾するものではありません。二兎を追って二兎を得るべきだと思います。

「リーダーズスクール」の浅尾慶一郎参議院議員の講演の中で、浅尾議員がカナダで学校に通っていた時の話がありました。カナダの社会科の授業では、いわゆる「つめこみ」の単元としては「フランス革命」、「産業革命」、「第一次世界大戦」、「第二次世界大戦」の4つしかなかったそうです。あとは何をしていたかというと、例えば、クラスを3チームに分けてそれぞれがドイツ、フランス、アメリカのように第一次世界大戦に参戦した3カ国になり、当時のそれぞれの国益を考えながらどんな行動をとるべきだったのか、なぜ戦争が起こったのかという議論を行っていたのだそうです。

知識を与えられるのではなく自分で探すのですから、まず創造力は養われます。またチーム内の議論や他チームへのプレゼンテーションを通じて聞く、話すというコミュニケーション能力が培われます。
そして何よりもまず、チーム内で話し合いを行う上で、嫌がおうにも全員に予備知識が必要になります。予備知識を得る過程で暗記がなされます。この過程こそが「つめこみ教育」の変形だと思います。

知識の吸収の方法は、ただ一問一答で覚えるだけではないと思います。何かを考える時、何かを創造する時、その過程で必要となった知識は自然に吸収されます。前者の方が効率は良いかもしれませんが、後者の方が間違いなく物を覚えるインセンティブ(動機)になります。

文型教科でも理系教科でも、「つめこみ」は創造に必要なものだと思います。必要に迫られて「自然につめこまれている」状態が理想だと思います。幅広い分野のことを考える時こそ「つめこまれ」がより必要になります。その意味では「つめこまれ」が最も必要な教科は、あるいは国語なのかもしれません。

□ 公正な社会

長くなるので続編で。

□ 学校システム

ここまで読んでいただきありがとうございます。
最後はサッと流します。

かつて教師は絶対的な存在でした。国から下りてきた学習指導要領にしたがって授業をするのですから、少なくとも授業に関しては国が拠り所になっていたのです。しかし国家目標の喪失とともに社会に「多様化」の波が訪れます。時代は多様化を要請しているのに学習指導要領が画一化を要求してくるというジレンマに陥ります。

情報社会の到来と、親の高学歴化により、教師に注文をつける親も増えました。教師は親の意見がもっともだと思っても学習指導要領に縛られて変化を起こせません。

親にも教師にも子供にも膨大な情報が入るこの情報社会に、何年に一度に改定される学習指導要領はもう限界だと多います。権限をもう少し小さい自治体、親の手の届くところまで下ろして、親も教師も教育内容・方法の決定に参画できるシステムに移した方が良いのではないでしょうか。「学校が知識、家庭がしつけ」、と分業(なすり合い)するのではなく、親と教師が同一の主体になって教育に取り組むようになれば解消される問題は少なくないと感じています。


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