内山裕之 つれづれ日記
     
(2003年7月3日〜2003年9月27日)

山城高校 投稿者:H.H  投稿日: 9月27日(土)22時43分05秒

山城高校定時制の警備のアルバイトをされていたそうですが、定時制や校舎がなくなったのはご存知でしたか?(新しい校舎が建っています)


宮本武蔵〜巌流島の決闘〜 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 9月23日(火)23時57分01秒

 NHKドラマでついに宮本武蔵が佐々木小次郎と巌流島で決闘した。吉川英治の長編小説を元にしているので、史実通りではないが、宮本武蔵は小次郎の長剣に対して長い木製の櫂で対抗した。そして、見事、小次郎を打ち破った。宮本武蔵は遅れていき、太陽を背に、長い櫂で小次郎の額に必殺の一打を加えたのだ。
 正々堂々と勝負するとはどういうことだろう。じらされていらいらする・・・・、太陽を真っ向から見て目がくらむ・・・・、戦いの間合いに入れず、長い櫂で打ちのめされる・・・・。この一つ一つの条件は正々堂々とは言いにくい。とは言うものの、ボクシングを見ていても、手の長い選手が相手との距離をある程度、開けて、ジャブを小刻みに与え、弱らせるのを見ると、勝負とはもともと、人間そのものの形質の違いを活用するもの。相手の弱点を見抜いてそこを攻めるもの。弱みにつけいるもの。
 テニスを見てもそう思う。相手が右方向に飛んだボールをうまく返せないことに気づくと、対戦者は右にばかりボールをたたき込む。一騎打ちといっても、勝負というものは五分と五分はあり得ないのだ。
 映画「プレデター」で異星人がカムフラージュの装置で身を隠し、見えない場所からいたぶるように人間を殺す場面があったが、結局、戦いとは最後に勝った方が強いということになる。戦いではなりふり構わず生き残ること、それが優先されるということ。宮本武蔵は手段を選ばず勝って生き残ってきたことで剣豪と言われた。巌流島はその宮本武蔵の生き様の最も表れているところだろう。
 しかし、それでも勝負に勝つためには基礎基本の技を身につけなければならないと思う。それなくして、相手の弱点をつくことはできないから。
 さて、宮本武蔵の『五輪書』で心に残る言葉がある。「神を信じる、しかし、頼りにしない」という名文句は言わずもがなで、次の言葉だ。
 千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。よくよく吟味あるべきもの也。
 1ヶ月、2ヶ月、練習を積んでも身に付かない。どんなことでも3年、練習に励めばその人にとって一生、身に付くということ。さらに万日、練習を積み重ねれば奥義が見えるというような意味である。最近はすぐに結果を欲しがる輩が増えたが、実際に何か身につけようとするならば最低でも3年の量的な積み重ねが必要である。ヘーゲルのいうところの量質転化である。究極の血肉に育みたければ、30年、練習の量を積み重ねる事が大切という。この考えは非常に大切である。量をこなす地道な努力なくして、質的な向上は望めないということを宮本武蔵は言っているのだ。
 ところで次の言葉は練習しなくても人間は強くなれることを意味しているように思えないか。
『人は三日あわざれば刮目してみよ』
 以前に剣で勝った相手であっても、三日間あわずに出会ったときは、目を大きく見開いて油断せずに相手にせよ。三日あれば、人は強者に変化することができるということ。
 この言葉と宮本武蔵の言葉は違うように感じるが、これも量質転化である。地道な努力をしている者は、その量的積み重ねである日、突然、何らかのきっかけでグイーンと伸びることがある。
 「千日の稽古を鍛とし、・・・・」と「人は三日あわざれば・・・・」はまったく逆のことをいっているようで、実は同じ真理を言っていると思う。
 そんなことを考えながらドラマを見ていた。
 


遠い昔のなまずの記憶 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 9月21日(日)00時51分52秒

 私はなぜ、生き物好きになったんだろう。かつて、ぜん息で全国的に名をとどろかせていた尼崎市東難波町の工場地帯で幼少時代を送ったことから、自然に対する枯渇感が強いせいだろうか。小田実や野坂昭如が大食漢なのは、少年時代を戦争の焼け跡で過ごし、いつも腹を空かしていたからと言われるが、私の自然好きもそれとよく似た反動のようなものなんだろうか。何はともあれ、私は自然が好きで、生き物が好きだ。
 3歳か4歳の頃、赤ちゃんに毛が生えた程度の頃のことを私は結構、覚えている。工場地帯のすき間に密集したような住宅地が我が家だった。一軒家だったがマッチ箱のような家が続く長屋である。近くの風景で記憶していること。土ぼこりの舞い上がるトラック道とたまにそこを通るロバのパン屋、道に面した散髪屋(私はここに来ると泣いていた)、風呂屋とニワトリ小屋、その前に来る紙芝居と黄金バット、草の茂る三角公園、隣の家にいた落ち着いたおばさんとそのお婆ちゃん。鬼ごっこをする近所のお兄ちゃん、お姉ちゃんの集団。
 私は幼すぎて、お兄ちゃん、お姉ちゃんの遊びの仲間に入れてもらえなかった。ときたま、肩車や抱っこをしてもらうだけ。遊びの周辺部分でうろちょろしていた。ほ乳瓶のミルクを息苦しい感じで飲んでいたこと。我が家の便所とその前の小さな中庭、そこにつるしてあった風鈴・・・・。姉と二人で母親を待ち、寂しさから泣いていた記憶。仕事で疲れて帰ってきた父親の寝姿、・・・記憶をたどれば、それでも次々に幼い頃の映像が脈絡もなく浮かんでは消える。
 そんな記憶の中で、強烈に映像として残っていることがある。それは近所のお兄ちゃんが捕ってきたという、たらいの中の大きなナマズである。
 ナマズは家の近くを流れる大川(庄下川のこと、子どもの頃の私はおおかわと呼んでいた)を渡ったところにある池で、近所のお兄ちゃん(小学校高学年ぐらい)が捕ったものだ。私はうらやましかった。池の主のような大きな魚であった。
 私はその池が好きだった。いつも行きたいと思っていた。ただ、近所の子ども集団が池に遊びに行くとき、後を付いていくのだが、大川にかけた小さな橋を渡る段になると、私は足がすくんで橋のたもとで泣いた。3歳年上の姉が仕方なく私と残り、他の子ども達の背中が小さくなるのを二人で眺めていた。幼児の私には、その橋はめちゃくちゃ高く、下を見ると怖かった。私は高所恐怖症なのだ。ものすごく池に行きたい気持ちはあるのだが、子どもだけでは橋が渡れず行けなかった。姉が手を引いて「こわくないよ」と優しく声をかけられ渡ろうとするのだが、いつも泣きわめいて、すわりこんだ。ところが父親に連れて行かれるときだけは違う。抱っこされれば、完璧な安心感で橋を渡るのが平気だった。
 橋を渡ると、そこには人家はなく、工場とその工場から林のように建ち並ぶ煙突、その延長線上の黒煙が全てであった。目指す池は、大川にそって左に折れて、しばらく歩くと工場と大川の間にあった。ブルドーザーが2台、漬け物石のようにでんと土山の上に横たわっていた。その土山を超えると、鬱そうと茂る緑が見え、その中にひょうたんのような形の池が横たわっている。幼い頃の私は、そこだけがまぶしく輝いて見えた。池の縁を歩くと、カエルが水の中に次々にジャボン、ジャボンと飛び込んだ。池の中をのぞくとメダカの大群が同じ方向にサッと動いた。アシの間で潜む大蛇を見たこともあった。私が見つけて騒いでも、大蛇はゆったりとしていて、首を左右に振ってスッとアシの間に消えた。周辺の草むらにもいろいろな生き物であふれていた。草の上を歩くと、キチキチバッタがいて、大きな音をたてて突然のジャンプした。虹色をしたトカゲや茶色のカナヘビがさわさわと足下を逃げた。
 私が生き物好きになったのは、この大池のせいだと思う。今、もしタイムスリップしてみたとしたならば、ちっぽけな池に違いない。しかし、幼児の私にとってはまるでアマゾンの大自然のような感動を与えてくれた場所だったのだろう。土煙をあげて通るトラック、工場とその煙突の林、黒煙。庭や花壇を持たない余裕のない人家・・・・・そんな記憶の中で大池の周りだけがカラーの映像で私の脳裏に記憶されている。5歳の春、その池は完璧に埋め立てられ、新しくノコギリ屋根の工場に変わったが、私が気が狂う前にすぐに引っ越しをしたので、今の私があるのだと思う。今も気になるのは、あの大池のわんさかといた生き物たちはどこへ行ったのだろうということ。あそこにはとてつもなく大きなナマズがいたということ。こんな遠い昔の記憶が今の私の生きる力のもとになっている気がする。


牢獄でやせるダイエット 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 8月27日(水)01時18分23秒

 私は中島らものファンである。なぜならば同じ学年、同じ裕之という名(らもの本名は裕之なのだ)。同じ尼崎出身。同じような青年期。同じような酒好き。同じようなおもろい人間。
気にしない方がおかしいでしょう。
 同じように阪神間で青年期を送っただけに『僕に踏まれた町、僕が踏まれた町』では、懐かしさでうるうるとなった。2冊目に読んだ小説『今夜全てのバーで』でアルコール依存から立ち直る青年を描いて見せて、私を勇気づけ感動させてくれた。「時代を切り取ってくれてるやないか!すごいやっちゃ」感心した。
 ところが、感動させてもらったのもつかの間、中島らもは薬依存症に舞い戻り、大麻取締法違反で逮捕された。なさけない!!全国のファンにどう弁明するんだ!「ミルクで乾杯!」あの格好良いラストのセリフが泣くじゃないか。私は心底そう思った。 
 そんな彼が本を出した。『牢獄でやせるダイエット』・・・・・・・(-_-;)
 彼は拘置所に3週間放り込まれた。独房で睡眠薬、煙草、酒を絶った(絶たされたか)。寒い拘置所の慣れない生活(拘束)で血圧があがり三途の川を渡りかけた日もあったという。一方、依存症の原因である睡眠薬、酒、煙草を断ったため、独房で自由を束縛されているにもかかわらず、体は特に下半身は健康に戻ったなんてことをぬけぬけと書いている。
 この小説を書いた理由は何か。逮捕されたことの弁明か、言い訳か、それとも大麻解放論を真っ向から呼びかけているのか、拘置所の窓から真実が見えたからか、自由と時間に関する悟りを開いたからか、会いたい人、話したい人、愛する人に気づいたからか、・・・・・。
 らものことを情けないと愕然としていたにもかかわらず、私はこの本を買ってしまった(-_-;)実際、買う人はみんな私と同じような気持ちからだろう。それで、この小説、今ベストセラーなんだろ。すごいね。牢屋に入ったことも金にできるなんて・・・。
 やっぱり中島らもは脳天気でポジティブで面白おかしくてアングラだ。本心は臆病で神経質で真面目なのかもしれないが、表面上はそのアングラ路線で生きてきたし、これからも生きていこうとしている。
 それでだ、ここは言っておきたい。どうせ突っ張って生きていくのであれば、拘置所、懲役十ヶ月、執行猶予三年なんて判決の経験をバネにして(最近良い作品を出していないのだから)、寝ていた獅子がけつを蹴飛ばされて覚醒したような感じで、鼻にしわを寄せ、10cmほどの犬歯を見せ、うーうーと噛みつかんばかりの低い声をだし、後ろ足の太股にしこたま弾性力を蓄積し、「なんぼのもんじゃ」と叫びジャンプして、新しい作品をつかんで欲しい。
 世をはかなんで逼塞するような演歌路線は願い下げにして頂きたい。
 「ええ話やな」と感動する作品を書いて欲しい。頼みますよ。
 人間くさい町、尼崎出身じゃないか。丹下さんじゃないけれど、ジョーに言うように叫ぼう。
「らもよ。くそったれ。負けるんじゃないぞ。お前の明日はどっちだ!!」


下の続き〜甲陽園小学校へ講演その2 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 8月25日(月)02時08分06秒

 それでさっそく始めたのが理科通信「大社の自然」であった。これをやめるときは教師を辞めるときと思って通信を継続した。わらをもつかむ気持ちだった。「ウッチャン。面白いことをはじめたな。三日坊主で終わるなよ」と冷たい子ども達であったが、私がしつこく続けるとそんな子どもたちが徐々にのってきた。数ヶ月後にはヒメタイコウチ、ウシガエル、7つ葉のクローバー、セグロセキレイのヒナ、カラスの巣、ヘビ・・・・次々に持ち込んできた。それを契機に授業は何とか成立し、教師としてどうにかやっていく自信の芽のようなものがでてきた。
 うれしかった。涙がでるほどうれしかった。何がうれしいと言って、子どもたちに向かって「駄目なやつらだ、お前らは。こんな仕事できるか」と悪たれ口を吐いて教師を止めなくてすんだことだけではない。一生懸命すれば、実は子ども達は見かけとは違って、ちゃんと答えてくれる。打てば響くんだという発見ができたことだ。
 「大社の自然」は「自然平木」「真砂の自然」「住吉の自然」、そしてついには神戸新聞から兵庫県全体を対象に連載「兵庫動物探険」と発展し続けてきた。今考えると、古市先生のおかげで、教師失格の自信喪失からたちなおられてばかりか、馬鹿の一つ覚えではあるが、理科教育の実践をこの歳まで続けてこられた。古市先生や彼の講演会に誘ってくれた畑中先生には今も感謝の気持ちでいっぱいだ。
 そこで、それじゃ古市先生の自然探険ニュースの講演とはどのような内容だったのか。その核心部分を明日、甲陽園小学校で話をすることにしよう。ここでは理科教師ばかりではなく、色々な職業の人も見ていると思うので、私が記憶している核心的な部分だけひとこと示そう。
 古市先生は自然通信を続けるコツを次のように言った。
「子どもが持ってきた生き物はその子にとって大切なものだ。先生がそれはどこにもいるからたいしたことないよ、と言ってしまえば、もう持ってきてはくれない。どんなささやかな報告でも、その子にとってはかけがえのない素晴らしいものである。その子の気持ちになって「すごい発見だね。どこで見つけたの?」と寄りそえば、子どもはどんどん自然を探険し発見し、自然を好きになってくれる。先生はこつこつその報告を通信で積み重ね、深め、学習につなげていくことだ」


甲陽園小学校へ講演 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 8月25日(月)02時06分39秒

 25日は西宮市立甲陽園小学校の校内研究会で先生方に「地域の動植物を生かした環境教育〜生物をどう教え、栽培活動をどうすすめるか〜」という演題でお話をしにいくことになっている。私が話をするようになったのは、知人の太田先生のご推薦だ。講演に呼ばれる場合、私はできる限り一生懸命、その依頼には答えようと思っている。「人生の中で人に頼られることってそんなにないものだ。頼られるうちが花なのだ」というのが私の考えである。
 それで甲陽園小学校の町のことを振り返ってみよう。実は、あの辺りは中島らも(本名、中島裕之)風に言うと、「僕に踏まれた町であり僕が踏まれた町」なのだ。
 甲陽園小学校は私にとって非常に懐かしい場所である。私が今から25年ほど前、最初に赴任した大社中学校(新任から7年間勤務した)と校区が同じなのだ。当時の大社中学校は甲陽園小学校、神原小学校、大社小学校、安井小学校の卒業生を受け入れていた。
 私は西宮出身であるが子どもの頃は浜手で、鳴尾東小学校、浜甲子園中学校、西宮東高校と渡り歩いていた。教師として大社中学校へ教育委員会教職員課の先生から行くように指示されたとき、「おお、山手か!ぼんぼん、お嬢さん相手にやっていけるかな?」なんて甘く思いこんでいた。しかし、その楽天的杞憂?は、入学式を迎えたその日から粉々に砕かれた。ぼっちゃん、お嬢ちゃんのはずが、当時(昭和53年頃)、すでに茶髪、ミニ。髪と運動靴に赤いピンポン球のようなものをつけて、廊下をうろつく上級生女子がいた。新任の私は1年学級担任(9学級あった)を仰せつかっていたのだが、初日から上級生を注意して、まわりをその女子たちに取り囲まれ、けんかというか大もめを起こしてしまった。
 はっきり言って、啖呵を切ったり、つっぱったり、ケンカをしたり・・・・というのは、私の幼い頃からの個性そのものなので、学級の生徒は「担任の先生が3年の女子とけんかをした」みたいに思ったようだ。その噂は燎原の火のごとく学年にパッと広がり、「けんかをするとはあきれた先生や」とか、中には「3年女子に負けて泣いていた」とか噂は尾ひれどころか胸びれ、背びれ、尻びれまでついてデフォルメされ先生方や保護者にまで広がった。まあ、1年目の教師というのは子ども達から見たら、私が叱咤激励をしたつもりのことが、生徒指導とはうつらず、ケンカを売ったとしか見えないようだ。実際、今冷静に考えたら、ケンカを売っているような応対の仕方をしていたのだろう。ケンカじゃないとか、いくら言い訳しても、だめであった。生徒から信頼を得るというのは時間がかかるし、本当に難しい。私は怒鳴る以外の方法で子ども達の指導ができるのだろうか、教師をして1月も経たない間に自信をなくし、酒をくらう日々であった。私と同期の社会科の先生は1年後、明石に帰り病院へ入って教師を辞めた。(今から考えると、校内でも体育の先生が療養休暇をとった。次の年、13人の先生が別の学校へ転勤したので、老若男女を問わず大社中では自信をなくし、焦燥しきっている先生が多かった。校内暴力で生徒も先生も地域の方も保護者もみんな悩んでいた頃だったんだろう。)
 ただ、そんな時代にもかかわらず(馬鹿にされてもへこたれないという我慢強さを歳をとっていなかったので、私は持っていた。積み重ねた信頼や権威ではなく教師になれた喜びや若いエネルギーを持っていたからか)私は大社中の教師を続けた。
 私が少しでもへたくそな授業をすれば「いっこもわからへんど!おもろないな」と生徒達から辛辣な批判を浴びせられた。「教師として何かせなあかん」、「理科の授業を一人前に成立させたい」とわらをもつかむ気持ちで日々を送っていた。酒の依存、躁鬱、・・・だいぶおかしくなっていたように思う。
 そんな中で「おお!!これや」と思える講演に出会った。それは芦屋の山手中学校の古市景一先生の「自然探険ニュース」の実践に関する講演であった。宮城教育大の高橋金三郎先生の主催する極地研サークルの「走りもの、変わり種」の発展形、芦屋バージョンの実践であった。
 私は生き物が好きで学生時代は昆虫を学んだ。小さい頃から生き物が好きだった。そんな好きなことを授業をいかそう、自分のカラーを出そう。授業を面白いと子ども達に思わせるには、自分ももっともっと教材研究や授業を面白いと感じる先生になろう。古市先生の講演は私にそう決意させる素晴らしい話であった。


マイカーで奈良へ家族旅行 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 8月16日(土)02時12分49秒

 毎年恒例の盆の家族旅行。今年は奈良へ行った。1日目(8月12日)自転車で明日香まわり(亀石→橘寺→石舞台→酒船石→飛鳥寺→いるかの首塚)そして吉野(芳雲館で一泊)、2日目(8月13日)飛鳥寺→飛鳥資料館→飛鳥坐神社→ここから一気に飛んで法隆寺そして帰宅という行程である。
 妻と息子2人(14歳と2歳)を連れて旅をする。何気ない旅であるが(ここに娘優希子がいないのがいつの間にか当たり前というか、当然のこととして納得している自分がいるのが残念と言えば言えるが)じんわりとこんなもんか、これが幸せかと思いつつ自転車のペダルをこいだ。
 こじんまりとした里山風景。その風景にラインを入れる田んぼのあぜ道の凹凸を、ぎっこんぎっこんペダルを踏んで進んでいると、何気ない普通の人家の横に、これ見よがしの不釣り合いな大きな岩石の塊があった。よく見れば亀かなと思われる大きな石である。すっとんきょうな顔である。石舞台など古墳では巨石が当然だが、酒船石、猿石・・・・大きな岩石が飛鳥ではよく使われているなと感心する。トラックもない時代に、しかも、辺りには岩石はないはずなのに・・・。どこからこの巨石を運んできたのだろう。遠距離を切り出して運んでくる権力というか圧倒的な力の誇示できるボスが、3世紀、4世紀、5世紀、6世紀なんていう時代にこの地で闊歩していたとうのが、驚きである。きっと、いっぱいの農産物をつくりだす農民たちがいたからだろう。
 ところで、この巨石群、今まで多くの研究家が、その妙な形のものが存在する意味を考察してきた。例えば、酒船石、あのアトミックボーイで有名な手塚治虫は毒薬を合成する溝ではないかと考えた。他には秘密の祭礼を司るナゾの石ではないか、・・・・・・・色々・・・諸説紛々である。
 しかし、これは大きな声では言えないが、飛鳥坐(にいます)神社(9世紀にできた余り有名ではない神社であるが・・・)の後生大事に陳列されている御仏に、余り考えすぎないことの大切さをハッという感じで悟らされた。そこにある石というのは、すべて男性の性器に似たものであった。それが神社を取り巻く道沿いにこれでもか、これでもかという感じで並べられていた。しかし、やらしさは微塵も感じない。あたたかさ、素朴さはいっぱい感じた(^o^)古代人はきっとおおらかだったのだろう。この男性の逸物こそ、子孫繁栄、一族維持に関与する大切なものであるという認識を古代人はきっと持っていたに違いないと推察される。
 とするならば、猿に似た石も亀に似た石も妙な幾何学模様の酒船石も・・・その他の巨石もきっとおおらかな考えでできているのではないか。単に人々が見て喜び安心できる像であるとか、大勢の人が使える水飲み場であるとか、便所をした後の手洗い場であるとか、・・・・。現代の庶民感覚の延長線上に飛鳥文化はあると思う。


京都へ職員旅行 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 8月 3日(日)10時23分08秒

 7月31日から8月1日、職員旅行があり、京都に行った。以前は北海道や沖縄、九州湯布院など贅沢?な旅だったのだが、日本全体の状況と同じで、経済的、時間的余裕の欠如および職場の高齢化(-_-;)で「あまりしんどいことや金がかかることをしたがらない、マイホーム主義が増える」等の理由で神戸からは非常に近い京都へ行こうということになった。京都には大学生の頃、7年間もいたので何でも知っているつもりだったが、やはり京都は実に奥が深い。年齢を重ね熟成した(単に老けた?)職場の仲間が行きたがるところは寺であり、京料理店であった。若手の幹事が旅行業者と組んできたコースは、普段は観光客に見せない相国寺の本殿を鑑賞すること、日本庭園のきれいな場所で京料理を食べること、貴船の川床料理を食べること、京菓子(八つ橋)作りを体験することであった。
 学生時代には絶対行くことのなかった貴船や先斗町の料亭で川床料理や京料理を食べた。アユの塩焼きが17000円!(もちろん酒や色々な料理が付くが)、淡泊な京料理が5000円!「高いがな、初めて食べるがな、来たことないがな!」で仲間から「あんたは本当に京都で学生時代おくったんか?ニセ学生じゃないのかい」てな感じで疑われてしまった。
 学生時代は金がなく、アルバイトと昼寝?に明け暮れていた。高い京料理で悦楽にひたったり、お寺で悟りを開くなんてことには、靴の裏に付いた小さな砂粒ほどにも関心がなかった。だから、そんなところへ行っても懐かしさなんて微塵も感じなかった。
 やっぱり京都では、私が毎日のようにお世話になった「餃子の王将」の看板を、バスの窓越しに見た方が目頭が熱くなった。
 みんなと離れて一人で王将に入り、本当は「パウロ・イーガー、コーテル・リャンガー」と叫んでもらいたかった。
 さて、普段は閉めている、座禅で有名な相国寺(同志社大学の奥にある寺)に行ったが、これには驚いた。学生時代も見ていたはずだが、「こんな立派な寺が目と鼻の先にあったのか」と感心させられた。本殿の高い高い天井にはとんでもなくでかい竜が描かれていた。
 私は関心がないものは、例え目には映っていても、まったく見えていなかったようだ。その証拠に、相国寺には気づかなかった私が、その近くにある今出川通りの「ほんやら堂」(私が学生時代、1杯のコーヒーで、いつも3時間はねばらせていただいた小さな喫茶店)には目が釘付けにされた。今もそこにあった!職場の誰もが見過ごした古めかしい喫茶店であるが、私にとっては想い出の場所である。それが今も営業していた。
 ほんやら堂ではフォークのライブがあった。この喫茶店で走馬燈のようにまぶたの裏に浮かぶのは、岡林信康、加川良、中山ラビ、豊田勇造、高石ともや・・・・関西フォークを歌う面々である。そして、「時代は自分たちで変える」と信じていた若者の衰退を知らない目の輝きである。
 というわけで、職場の仲間に京都の案内ができなかった私であったが、夜は燃えた!ほとんどみんなが帰った後、若手?6人を引き連れて京都駅横のカラオケ店へ行った。
 午前2時まで歌いまくった。
 教訓1、プカプカ、ヨイトマケの唄、・・・・・・・懐かしい唄を声を張り上げて歌わせたのは、懐かしい京都の空気のせいだった。


宮本武蔵を見て 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 7月22日(火)01時22分07秒

 NHK大河ドラマ「宮本武蔵」を毎回何となく見ているのだが、久しぶりに心に残るセリフがあった。武士が江戸の町を歩いていて、大工の差し金を踏んで折ってしまう。それに抗議した一人の大工がバッサリ切られた。本来、切り捨てゴメンで、大工は泣き寝入りのところであるが、大工の頭領はこう言った。
「俺の雇っているのは荒くれどもよ。だけどさ、こいつらがこのままじゃ、うごかねえって言ってるんだ。働かねえって。当たり前じゃないか。虫けら同然に切り捨てられて頭領の私が黙っているわけには、いかねえ。小次郎さんよ、あんたは遊郭の女を自分の命を省みずに助けなさった。そん時はあんたは本当に馬鹿だと思った。だけど、今は違う。人に馬鹿だと言われようが、俺はこの荒くれどものために役所に抗議にいこうと思っている。
 小次郎さんよ、人生、馬鹿なことをしなくっちゃ、ちっとも面白くねえぜ」
 宮本武蔵が終わって違うTVを見る。現実のニュースではずる賢い輩のうさんくさい話であふれている。悪いことをしたはずの人間が、上手に口先三寸で弁解している。小利口な人間には本当に愛想がつきる。このTV「宮本武蔵」は史実通りには描いてはいないが、作者の言いたいことはズシンと心に響く。愛のために馬鹿なことをしようじゃないか。たった1回の人生、愛もなく表面的に上手に生きて何になるんだ・・・・そんな作者の熱い思いが感じられて面白い。
 馬鹿正直(馬鹿とは違うよ)と言えば、大相撲七月場所で殊勲賞をとった高見盛関が実にあてはまる。今場所、横綱、大関をことごとく破ったのだけれど、土俵に上がって立ち会うところが、実に良い。ロボコップとあだなされるぐらいカチカチ緊張スタイルで、ゴリラさながらに胸を叩く。器用に相手の目を見て、戦略的に威嚇したり、なめた流し目をしたり、・・・・そんなずるさは微塵もない。ただ、氷のように固まって口をへの字にしてすまなさそうな、くしゃくしゃ、しわくちゃ顔をして、立ち向かっている。それで勝ったときには、本当にごめんなさいと言わんばかりの、すまなそうな表情を見せる。人が良い。お人好し。古い映画だが「男は辛いよ、寅次郎」を思い出す顔の動作だ。日本人(少なくとも私)の醸し出した文化には、不器用だけれど一生懸命に生きている人間を好きなり、ほっとけないという性癖がある。したたかでないから甘ちゃんという人もいるけれど、私は日本にそんな温かさがいつまでも残って欲しいと思っている。この感性が残れば、日本はきっと世界を引っ張っていくリーダーになれるだろう。


N君の質問、高井さんは? 投稿者:うちやまひろゆき  投稿日: 7月 2日(水)00時20分33秒

 N君からの質問に答えて
 高井さんは1年生の時だけ大社中にいました。2年生から神戸の方(神戸女学院への編入?)へ転校しました。高井美紀だったと思います。いまは関西テレビのアナウンサーですね。テレビではメガネをかけていません。さすが、テレビに出るだけあって美人ですね。まだ、高井という名でアナウンサーをしてるので、結婚していないのでしょうか?わかりません。
 ただ、中1の頃は君も会えば思い出すでしょうが、彼女はものすごく勉強家でしたね。しかも勉強ができる子は皆、判をついたようにしていた?ショートカット(右の髪を少しゴムでくくる)で、牛乳の底のようなかなり厚いレンズのメガネをしていました。でも、その頃から、利発でかわいい魅力的な子でしたよ(^o^)覚えていないかな?