小夏手記

私、夏 一月の、心に浮かぶよしなしごとを書き連ねていきたいと思います。

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漫画学(?)的視点から見た香港漫画

先ごろ、夏目房之助の漫画学の本を買ったんですが、そこでまるまる一章割いて香港漫画が論じられておりました。「おお!」とか思って読んでました。なかなか面白く、頷ける点もたくさんあったんですが、もとが講演のような、時間制限のある場での発表だったようで、物足りなく思ったりもいたしまして。
さらに、それとは全然関係ないんですが明日(もう今日)、大学の先生が、現代中国表象?資源?のようなテーマで香港漫画に関して研究発表するのをきけるかもしれない、とかいう状況もありまして。
漫画表現としての香港漫画について、ぼんやりとまとめてみようかな、とか思いました。
ただし、参照文献(手元に)なし、思い違い、記憶違いの検証もほとんどできない状況でやるので、大嘘を書いてしまう可能性大ですが。ご愛嬌ということで…。

 

 さて、表現としての香港漫画なのだが、実は私にとって香港漫画の「コマ割り」「描き文字」「効果」などは香港漫画を愛する上で大変重要な位置を占めている。私が愛しているのは香港漫画の表現技法である、と言ってしまっても過言ではないほどである。実際、私が香港漫画を読み始めたとき、中国語もろくにできない、長大至極な香港漫画の長編は、通して読むことなどとてもできなかった。それでも香港漫画は面白かったのだ。少なくとも当時の私にとって、香港漫画の魅力が小説的な意味での「ストーリー」でなかったことは断言しておきたい。

 もちろん漫画という表現において、それを編み上げる物語の糸はこの上もなく重要だ。どんな緻密な技法も、空疎な物語の骨組みの上では中に浮いてしまう。だが、だからこそ作品の評価を「ストーリー」におくのは間違っていると私は言いたい。なぜなら、「ストーリー」というこの曖昧な存在は、実にたやすくごまかされてしまうからだ。「おはなし」を面白いと感じる心理には、たくさんの仕掛けがある。物語の物理的な量(例えば、同じ内容の小説でも、短編より長編のほうが面白いと感じることがある)、思わせぶりなキーワード、技法も重要な要素だ。こういったものに、ひとは簡単にだまされるのだ。だまされるのが悪いとは思わない。だが、だまされているその意識もなしに、「ストーリー、ストーリー」とわめきたてるのは、愚かではないだろうか。
 本当に求めているのは「面白いおはなし」などではないはずだ。語り部の物語を聞くのはその声を聞くこと、そこで時間を過ごすことだ。小説ですら、それは言葉の響きを楽しみ、行間の余韻を楽しむことなしに、成り立ちうる娯楽ではないのだ。単なる「物語情報」の摂取だけなら、あらすじだけで十分ではないか。そして言うまでもなく、漫画は総合芸術の一種だ。絵と言葉と、それらをまとめあげるできごとの流れ−「物語」でできているのだ。
 本来漫画のような、非常に多くの要素から成る作品では、最も重要なのはそれらの調和であるはずだ。「ストーリーが悪いから面白くない」という批判が成り立つ一端は、それがすでに「悪いストーリー」によって全体が破壊されているからだ。だが、本当は全体を破壊してしまうのは、何もストーリーだけではない、絵もセリフを含む言葉も、それが見る影もなく破綻すれば、全体を破壊することに変わりはない。そして、ストーリーによって作品が破壊されていない状態、よい状態には二つある。ひとつはよいストーリーがよく調和していること、そしてもうひとつはストーリーが存在しないことだ。前衛的な「脱・物語」漫画の話をしているのではない。程よく読者をかわし、ストーリーのよしあしを、感じさせないタイプの作品のことである。「悪くない」ことは「良い」ことではないと言うのはあたりまえなのだが、こういった作品でも「面白い」という評価を勝ち得てしまったりする。実に、あてにならない。

 さて、話が大幅に脱線したが、「ストーリー」を読まずに楽しむことは別に間違ったことではない、と私は主張したかったようだ。そして、はじめて香港漫画を読んだとき、私はそのようにして楽しんでいたのである。画面と言葉と世界の雰囲気で。

漫画には、ある程度決まったルールと言うものがある。誰もがそう思っている。
「ふきだしに囲まれた文字列はセリフである」というようなところから始まって、視点、コマ運び、時間経過の表現、本職の編集者や漫画家に訊けば、ありとあらゆるセオリーが列挙されてくるだろう。なかには「こうすればより効果的」という程度のものもあれば、「絶対にこうしなくてはいけない」というものもある。それは経験則によって積み重ねられたものだ。だがこのルール、じっさいどれほどの普遍性があるのだろうか。

 香港漫画では、大変多くの「ルール」が破られている。一ページに詰め込まれる、膨大な量のネーム(これらの多くは小説的な「語り」だが)、叫ぶときはフキダシではなく描き文字で、効果線はあくまで流麗な「ペン画」の一部、画面上の線の密度は均一というかあくまですべて限界まで描き込む、こういった事態は日本の漫画ではほぼ考えられない。もっとも「何でもあり」が日本漫画なのでもちろん例外はあるが。
さらに、これは余談的な特徴で、現在はあまり見かけないが、かつては縦長のコマの横に横長のコマが複数くるような場合は、コマに矢印がふられることがあった。ギャグではないのだ。
 冒頭で言及した本で、夏目房之助は「漫画をよく知っている人ほど香港漫画を軽く見る」というようなことを言っているが、おそらくこの多彩な「ルール違反」によるものだろう。プロに限らず、評価を下そうとする人は、どうしてもマニュアルに沿って採点してしまう。そのマニュアルが整備されてきた過程を考えれば、それが絶対的なものでないことなどわかりきっているはずなのに。経験則はたくさんの可能性から偶然得られた「当たり」の蓄積に過ぎない。そこでは他の「当たり」があることは考慮されないのだ。新しい表現はいくらでも生まれ得る。そんなことは、常に漫画表現を進化させ続けてきた、日本の漫画人には身に染みていることのように思われるのだが。
 今までの漫画表現にとらわれた、がちがちの「漫画脳」ではなくて、虚心坦懐に香港漫画を眺めれば、その表現にどれほどの効果と更なる可能性が隠されているかがわかるはずだ。細部まで制御の行き届いた緻密な効果線は、「勢い」と同時にドレープのような流線を生む。彩色の密度を変化させることで、画面には贅沢な緊張感が漂う。フキダシを用いず、まるで「音」のように描き出されたセリフはどんな形のフキダシを使っても表現できない絶叫を響かせる。実際、この「描き文字セリフ」については、安彦良和など好んで使う日本人の漫画家もいる。連環画の名残とも言われる、コマに添えられる小説的なネームの数々も、読み方さえ心得れば、決してリズムを乱すものではなく、漢詩を読むのにも似た余韻を生むと思うのだが。

 日本漫画には、(本当は香港漫画にもあるはずの)コストの削減という至上命題があった。可能な限り無駄を省き、省略し、その上で効果的に。それは思わぬ洗練をもたらしたかもしれないが、それが最良であったとは、誰にも保証はできないはずだ。日本漫画が発達する過程で、どうしようもなく選び取った道、捨てざるを得なかった可能性、そういったものを抱えたセオリーを、他の国で育まれた表現にまで押し付けて、それで評価を下してしまうのはあまりにももったいないではないか。私は、香港漫画がひどく不当な評価を受けていると思っている。現地においてすら日本漫画に圧され、訳知りの日本の漫画家には表現をつまみ食いされている。日本の出版会の人々に問いたい。ただ「なぜ私達に香港漫画を読ませてくれないのか」と。上記のような理由で香港漫画を侮っているなら、もう一度よく考え直してほしい。単なる偏見や怠慢なら、私は日本の漫画というものに、やはり絶望ぜずにはいられない。


なぜ、「だ」体で書くと私の文章というのは
こうも攻撃的になるのだろう。
そして、行き着くところはすべて同じ。
「もっと日本で香港漫画を読ませろー!」
ううむ…

2003/07/18 記