| 30年代 |
光輝一頁 |
30年代、香港は日中戦争のただ中、皆かつかつで生き延びているような状態であった。しかしそんな戦火のもとでも、芽吹き、成長するものがあった「漫画」である。
1938年6月、葉淺を始め漫画家達が本土から次々に香港へたどり着いた。1939年には全国漫畫協会香港分会が成立、抗日戦争をテーマとした大漫画展「救国漫畫展」を開催した。場所は香港中央戯院仮倉庫(?)、香港と大陸の漫画家の「大合作」であった。
そのころ、北京、上海、広州がすべて占領され、残された香港は孤立した。そのため、この漫画展は各界から注目され、また好評であった。政府要人であった宋慶齢、金仲華と斯諾なども、訪れ、空前の盛況であったと言える。
1939年香港分会には堅道主催の漫畫訓練班があり、「漫畫比賽」(競作?コンペのようなもの?)の主催や、「今日中國畫報」「日冦暴行實録」「漫畫展場刊畫集」といったタイトルの出版を行った。この主な意図は、中国人の抗日記録の宣伝であった。
1941年末、太平洋戦争が勃発すると、漫画家達は次々に香港から逃げ出した。香港漫画界の一時の繁栄。この時期は日本の侵略によって終わりを告げた。ただ、漫画史上に光輝の一頁を残して。
ついに抗戦に勝利したあと、香港漫画は空白の時期を迎える。我々は、60年代におこる萌芽と成長の時期まで待たねばならない。 |
| 60年代 |
萌芽時期 |
60年代以前、香港では主に大陸製の「連環図」(漫画と同義語として使われることもあるが、若干イメージするものが違う)であった。しかしこれは、内容が似たり寄ったりで、技術も旧態依然として、次第に衰退していった。これに代わって興こったのが、香港での漫画製作であり、この漫画は広く子供達に愛された。
香港の漫画家の技術は普段の進歩と成熟を遂げ、ついに当時を代表する大ヒット作を多数生み出した。許冠文の「財叔」と「一千〇一個笑話」、莫君岳(上官玉朗)の、「黒蝙蝠」、上官小龍の「飛女正傳」、李恵珍の「13點」、丁小香の恋愛漫画や、伍寄萍と潘飛鷹の民間時代劇漫画さらに後に登場した王澤の「老父子」など。これらの漫画は、一世を風靡し、漫画市場の分厚い基礎を作ることとなった。これと同時に、香港の漫画市場が興隆しはじめる。60年代末期には、多数の外国産漫画、台湾の陳海虹による「小侠龍捲風」と「先鋒號」、日本からは「[手率]角」と「七金剛」棋図かずおの「秋燈夜話」(済みません、原題分かりません)などが香港市場に現れ、潮流を巻き起こしていく。そこに、香港の漫画家も対等に渡り合った。香港漫画の盛況は推して知る可しである。
しかし、60年代末には、香港漫画の短い冬の時代が到来した。とうとう外国漫画の進入が深刻に影響を及ぼし始めたのだ。幸い、香港漫画はすでに深く根を張っており、そう簡単に崩壊はしなかった。しかしまた、たくさんの漫画家が耐えきれず次々と転業し、残った漫画家達も、経営に苦しまなければならなかった。彼らはこの、先の暗い状況の中、血路を開き、70年代を迎える。 |
| 70年代 |
成長発展的重要時期 |
70年代初頭、漫画界は一群の新人漫画家達によって、新しい局面を切り開いた。その新人とは、黄玉朗、上官小寶、東方庸、黄小鶯、白雲天、何可、白金龍、上官凌霄(上官小強)、柳依依(漢民)、夢[女尼]等であった。彼らは個性的なスタイルで市場を開拓していった。また同時に、香港漫画の防塁も出来つつあった。共同で外国漫画の進入を防いだのである。この時期、彼らは外に対する守りのために、安い稿料で耐えたのであった。また同時に、社会からの蔑視も受けた。しかし彼らの不断の努力により、指示する読者は、どんどん増えていったのである。そしてついに、「技撃連環圖」(アクション漫画、江湖ものも広くはこれに含まれる)によって名を成す作家が現れた。
まず、「小流氓」で名を成した黄玉朗、それに続いて「李小龍」の上官小寶、ここに更に、「方世玉」「小魔棍」をひっさげて上官小威が加わった。ここに至り、それ以外の漫画家が、次第に淘汰され始めた。黄小鶯の「小神仙」、東方庸のSF漫画、白雲天の「小三毛流浪記」、何可の「十兄弟」、白金の「黄飛鴻」、凌雲の「功夫」等々、特に、黄小鶯と東方庸の作品は非常に印象的であったが、彼らには大胆さという面で欠けるところがあった。結果、漫画界の主導権は次第に、黄玉朗、上官小寶という二人の青年漫画家の手に移っていったのだった。
同時に、外国漫画は玉朗ら二人の前に敗退し、香港市場からあっさり姿を消して、台湾に向けて進出を開始する。
黄玉朗と上官小寶の二人は全盛期にはいると、彼らは独立し個人で会社を興し、漫画の新しい試みを始めた。中でも、黄玉朗は判型を「小書度」から「大書度」にかえ、大成功の売り上げを納めた。
漫画業が隆盛を極める中、一部の漫画家は、売り上げを伸ばそうとする余り、過度の流血とエロを含む不健全な漫画を描いた。これが社会の攻撃を受け、1974年香港政府はついに、不良刊物条例を成立した。この処置は、漫画界を怯えさせた。
1975年までの間に、黄玉朗の「小流氓」は「龍虎鬥」と名を変え、更に黄玉朗は漫画報「生報」を立ち上げた。この斬新な新聞型式の漫画は、当時の停滞がちな漫画界に新しい局面をもたらした。
その後「喜報」「金報」といった漫画報が続々と発行され、漫画業を発展に導く。こうした日刊発行型式では、大量に原稿が常時供給されなければならない。そこで、上官小寶と上官小威が率先して、一群の新人を養成し始め、当時の漫画界に新風を吹き込むこととなった。
そのときの新人は、
黄玉朗(門下)--祁文傑、張萬有、毛名威
上官小寶(門下)--黄偉サ、黄國興、文啓(の口が左に寄ってる字)明(牛[人老])、趙汝徳
上官小威(門下)--王俊偉、李景倫、謝志榮、馬榮成、馮志明
70年代末期には、彼ら新人達の画力はまだ未熟であったが、普段の研鑽のあと、80年代漫画を支える重要な柱となっていく。 |
| 80年代 |
由一天下至群雄割拠的時期 |
80年代にはいると、黄玉朗は製作に「流水作業」を導入する。大量の行員を雇い、漫画企業化を進めて行く。当時、上官小強、漢民、馬榮成などを含む、殆どの実力ある描き手は、すでに玉朗の旗下に従っており、唯一、脅威となり得るのは上官小寶だけであった。しかし小寶は玉朗と長年競い合ってきたとは言え、一度も勝てなかった。その後、玉朗はついに上官小寶をも手中に収めることに成功し、ここに、空前の漫画王国が誕生したのであった。
82年上官小威と上官小寶は相次いで玉朗を離脱し、それぞれ自費で出版活動を行い、立ち向かおうとしたがこの局面の前にはすでに手も足も出なかった。
このころ、売り上げ低下により、喜報、生報といった漫画報は続けて発行を停止した。各社は単行本出版に力を注ぐようになる。制作の質は大々的に向上した。そして「龍虎鬥」、「酔拳」、「如来神掌」の玉朗三大作品が占拠する市場に、一本の民国初期を舞台とした武侠漫画が、急激に支持を集め、数年の内に確固たる地位を築き、万千の読者に、愛された。それこそが馬榮成の--「中華英雄」であった。
馬榮成の精密で写実的な絵柄は、今日の漫画界で一大典範となっている。その後、中華英雄は一号で、20万部という空前の売り上げを記録した。これは宗師である黄玉朗すら達成していない数字であった。しかしこの時期玉朗はすでに会社の発展のための、その他の事業に専念していた。「描くこと」は彼の僅かな部分に過ぎなず、「ビジネス」の才こそが彼のすべてであった。
86年、玉朗公司株式上場、漫画j事業は最高潮を迎えた。市民が漫画について認識を深め、一般の文化として受け入れただけでなく、産業としての漫画の盛り上がりも加速していった。当時店頭で売られていた漫画は実に40タイトルにも達していた。需要、供給共に驚くべき量に達していた。そして多くの人が漫画を出版することは紙幣を印刷するに等しいという認識を持った。これはひとつの、発達への容易な道程であった。
玉朗機構だけでもこの時期、毎週約10タイトルにも及ぶ漫画を出版している。中でも「玉朗漫畫」と「猛鬼寃魂」は、それぞれ10万部と5万部という驚くべき売り上げを記録した。玉朗機構の大収益以外にも、他の出版社もまた少なくない収益を上げた。
特に、上官小寶の[廣邑]氏公司は数年間の励行と牛[人老]の加入により、採算がとれるようになってきた。とりわけ「愛情故事」は、 「歓場漫畫」の第一位を占め、大好評となった。そのほかにも、上官小威は、モノクロ漫画を発行して市場に一定の地位を築いた。またこの頃、外国漫画熱が再び高まり、外国漫画の専門店が、雨後の筍の油に次々に開業した。
87年10月、風雲変色。
世界的な株価の暴落で、玉朗機構は大損害を被る。その後漫画史上の熱狂も収まりを見せ始め、淘汰の時代が始まる。特に玉朗機構の刊行物は大幅に売り上げを落とし、未だかつてない疲労を見せる。ここにいたり、長きにわたる玉朗の独り勝ち状態はかげりを見せ始める。
翌年、玉朗旗下の主筆が多数、次々と玉朗機構を離脱した。その中には、馮志明、黄国興、狄克、漢民、等が居た。その中でも、元玉朗編劇、劉定堅は、自由人公司を設立、馮志明との「刀劍笑」をもって指導的地位に立った。奇しくも同年5月、馬榮成が襲撃を受ける。この為中華英雄は休刊せざるを得なくなる。突然現れたこの武侠漫画の空白期に、刀剣笑は新鮮な題材で道を切り開き、漫画界の「奇兵」となった。
89年1月再び馬榮成が襲撃され漫画界を震撼させる。2月馬榮成の玉朗機構との契約期間が終了し、人々はその去就に注目した。6月、馬榮成は個人漫画展を開催、結果はすばらしく、同時に「天下出版有限公司」を設立、「天下畫集」を発行し、新作武侠作品「風雲」の連載を開始する。80年代末の漫画界にまた一つの火花を起こす。
同年、牛[人老]の「牛家班」が成熟を迎え、鬼書皇(我若為皇第二輯)を出版する。読者の反応は熱烈で、売り上げは直ちに上昇した。これは、同類の作品系列の第一となり、更に[廣邑]氏公司の看板作品となる。
ここに、漫画界の各勢力が興亡するなか、漫画界は由一統天下から群雄割拠の時代を迎えることになる。
89年12月、黄玉朗の「戯劇性地」が玉朗機構を離脱。
ここに、動乱の80年代は終わりを告げるのであった。 |
| 90年代 |
? |
90年代はまさに今始まったところだ。現在の漫画界に目を向けると、依然、群雄割拠が続いている。
ここに見える香港漫画界は、「玉朗」「[廣邑]氏」「自由人」そして「天下」と、四大勢力が分け合っている。各社とも互いに譲らない構えを見せている。いったい誰が勝ち、誰が後塵を拝するのか。すべては未知数である。
近い将来、香港漫画界は百家争鳴、浪濤澎湃の、
競争時代に入る |
| かに見えたが…→90年代の現実へ |