牧師室2006

 

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<牧師のプロフィール> <2007年度の説教> <風光/風信子便り>

説教


「ひとり立つイエス」     後宮敬爾牧師

2007年3月18日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書9章28−36節

 1週間後、イエスは山に登ります。「祈るために登られた」とあります。イエスは十字架への道を歩み出すため、特別に真剣な祈りをするために山に登られたと言うことでしょう。十字架の道を歩んでいく力を求めて、イエスは祈ったのです。
 わたしたちはキリスト者としての困難に出会うと「十字架を背負うことは難しいし、無理だ」と思います。でも、その時に、わたしたちは本当に祈っているでしょうか。祈りに以外の力では、十字架の道を歩むことはできないのです。主イエスが祈られたように、わたしたちも祈りましょう。
 さて、イエスが祈っていると、真っ白に輝いたというのです。十字架を決意したイエス、そしてその道を歩み行くための力を求めているイエスが何よりも白いということは、そのイエスの決意が神の承認を受けたことを意味します。
 そしてそこにはエリヤとモーセが表れたのですが、エリヤとモーセは旧約全体を表しています。そしてイエスを含む3人は、イエスの最後について話していたというのです。この最後と訳されていることばは「エクソドス」、脱出、開放と訳すべきことばです。聖書の伝統で言いますと、出エジプトです。イエスの最後は十字架ですが、その十字架が真の開放をもたらすと言うことなのです。
 モーセも、エリヤも、受難の道を生き、そして人々を神へと開放したのです。その二人を加えて、十字架のことを話しているというのは、イエスの十字架へ赴く決意はまさに旧約の歴史が指し示していた救済そのものであるということが、確認されていると言うことでしょう。
 ペトロたちはこのすばらしい光景を見て混乱してしまいます。その弟子たちに神が現れて、こう宣言するのです。
 「これはわたしの子、選ばれたもの、これに聞け」
 そこにはイエスだけがいました。もう、モーセもエリヤも必要ないのです。私たちが聞くべき存在は、「ひとり立つイエス」のみです。
 そのイエスは十字架へと赴くイエスです。苦難の道へと進み行くイエスです。このイエスを見上げなさい、このイエスに従いなさい、このイエスに聞きなさいと、神が命じておられるのです。
 受難節、レントの時、わたしたちも十字架のイエスを主と見上げようではありませんか。祈りつつ、主に従う歩みをなそうではありませんか

「十字架を背負って従え」     後宮敬爾牧師

2007年3月11日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書9章18−27節

 この物語の書き出しは「イエスが祈っている」ところからです。これからの出来事が、弟子たちにとっても、後の教会にとっても大きな意味があるということを示しています。イエスは弟子たちに「群衆は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねました。それに対する答えは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者が生き返った」でしたが、イエスは続いて弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。ここで注意していただきたいのは、イエスが「何者だと言うか」と尋ねている点です。第三者にイエスをどのように伝えるのか、言い換えればイエスを誰と告白するのか、という問いになっています。
 この問いに対して、ペトロが「神からのメシア(=キリスト)です」と答えました。イエスの祈りがこの告白を導いたのです。しかし同時にペテロの言葉がすべてを理解した上の言葉ではないことを知っています。そこでイエスは救い主について語り出すのです。
 22節でイエスはキリストの真の意味を語り出します。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 ボンヘッファーは「苦しみは悲劇的なこととして、なお、それ自身の中に独自の価値と名誉と品位を保つこともあり得ましょう。イエスはしかし苦しみの中で捨てられたキリストです。捨てられるということは苦しみにつけられていた品位や名誉をも奪います。」と言います。そして「それにも拘らずキリストなのではなく、苦しめられ捨てられるからこそキリストである」と語りました。
 「自分を捨てる」とは自分を殺して生きると言うことではありません。自分の思いを捨てて神の思いで生きると言うことですし、自分自身を目的とせず、神を自分の人生の目的とすることであります。
 そしてこれがとても大切なことだと思うのですが、神の意志に従って生きたら、みんなが喜んでくれたというのではなくて、むしろその様な生き方をするものは、イエスがそうであったようにこの世界から歓迎されないのです。そこには当然、抵抗が生まれてきます。それが十字架です。イエスは自分をキリストとして歩むときに、必然的に大きな抵抗があることを宣言されているのです。
 しかし、それにもかかわらず、イエスがこの道を生きるようにと勧めるのは、そこにこそ人間の本当の生命があるからです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」言葉をしっかりと受けとめたいのです。
 緊張する言葉です。しかし、この弱い存在に可能性を与えるのが、冒頭のイエスの祈りなのです。貧しさの中にいるイエスです。貧しさの中にこそキリストは存在します。耐えられないという叫びの中にこそ、「私が共にいる」という神の言葉が響きます。
 私たちは「十字架を背負え」というイエスの言葉に不安を抱きます。しかし、これはイエスの厳かな、生命をかけた言葉です。イエス自身がまず十字架を背負い、イエス自身が生命を献げる決意をして、その上で、言われている言葉です。
 イエスに信頼して、このイエスの言葉に応えるものになりたいと思います。なぜならば、そのためにイエスは自ら十字架を負ってくださったからです。そして、本当の生命を生きる喜びを知りたいと思います。

「あなたが与えなさい」     後宮敬爾牧師

2007年3月4日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書11章14−26節

 あるところでイエスは癒しをされました。それは口のきけない人を話せるようにするという癒しで、イエスとの出会いによって今まで言葉を出すことができなかった人が言葉を話せるようになったというのです。まさに素晴らしい業であり、人々は驚嘆しました。
 ところが、「話せなかった人が話せるようになったこと」を喜ばない人たちがいたのです。その人たちは「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言い、「もし、そうでないなら、証拠を見せてみろ」と迫ったのです。
 イエスはそういわれた時、その人々の心を見抜いたのです。つまり、語られたのは単純な疑問や要望ではなくて、彼らは悪意の固まりであり、最初からイエスのことなど認めるつもりなどないということです。ここで展開されているのは、論争でも何でもありません。悪意に満ちた誹謗中傷です。イエスも衝撃を受けたにちがいありません。傷ついたにちがいありません。
 イエスは、論争の中で相手の矛盾を指摘します。「内輪もめをして、その国が成立するか?」と問いかけます。さらに彼らの仲間たちも癒しをしているのですから、サタンによって追い出していることになります。言っていることとやっていることが矛盾すると指摘したのです。普通なら一気呵成にたたみ込むところですが、その後にイエスはこう語りました。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
 もちろん、イエスの癒しの業は「ベルゼブルとの取り引き」ではなく、「神の指」によるのです。すばらしいのは、「神の国はあなたたちのところに来ている」とのことばです。あなたたちとは今対話をしている相手と考えるのが自然でしょう。とすると、イエスを悪意に満ちて中傷誹謗し、イエスを否定しているその人たちに向かって「神の国は、あなたたちのところに来ている」と語ったのです。さらに、私の味方になりなさい。わたしと一緒に、神の国を伝える者になりなさいと呼びかけられたのです。なんと愛に満ちたことばでしょうか。
 そして、おもしろいたとえ話が語られます。
 悪霊はいったんは出て行きますが、もう一度戻ってくるというのです。もし、もとの家に「強い主人」がいないならば、他の「強い7つの」悪霊をつれて戻ってくるというのです。つまり、悪霊が追い出された後、その心にイエスを主として迎えなければならないのです。
 だからキリスト者は、聖書を読み、祈り、礼拝を守る・・・そういう日々を送りながら、イエスを主として生きていくのです。私たちの主は悪意に満ちて中傷誹謗する相手に、「あなたのところに神の国が来た」と仰る方です。否定しようとする相手に「一緒に集めよう」と語りかける方です。その方を自分の主としていなければ、わたしたちは、再び悪霊に支配されてしまうのです。 苦しい日々があります。けれども、その日々の中にあって今日の聖書に示されています。私たちがなすべきことは、苦難の道にあっても愛をかざして歩み続けられたイエス・キリストを主として心に迎えることです。自分が勝利することではなく、神の愛の勝利を目指して、支え合いつつ生きていこうではありませんか。


「天使たちはあなたを支える」     中井 利洋牧師

 2007年2月25日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書5章1727節

 悪魔の誘惑は勇猛苛烈を極めました。イエス様は対抗すべく40日間断食して祈ります。でも、お腹が空いてどうにもならなくなった頃を見計らってこう言うのです。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエス様なら何でもできる、それを見越しての誘いです。イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになります。イエス様は申命記だけで悪魔の誘惑(攻撃とも言える)に対抗するのです。第二の誘惑は私たちにとっても魅惑的な内容です。悪魔はわざわざ高みに引き上げて「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と言うのです。イエス様は抜擢され、すべての権力と繁栄を手に入れるチャンスを得たのです。どのようにすればよいかというと、悪魔を礼拝することがその必要条件でした。この誘惑に「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とイエス様はお答えになります。悪魔を拝むことなんてできるか、という毅然とした態度です。そして最後に悪魔はエルサレム神殿の屋根の端に連れて行きます。何を言うかといえば「ここから飛び降りたらどうだ」。そして今度は詩篇の91編を用いて「天使たちは手であなたを支える」と念を押すのです。イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と答えました。 最初の石をパンに変えろ、3番目の飛び降りても死なない、という誘惑は実にイエス様には厳しい誘惑ですが、見事に撃退したのです。「悪魔は誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れ。」ましたが、ルカによる福音書22章3節に「12人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」とあるように、そこから真の悪魔との闘いが始まります。十字架の上の主イエスを見上げ、私たちは己の弱さを認めながら、悪魔の誘惑を拒絶した主イエスに倣いものです。 悪魔の狡猾な誘惑は、詩篇を用いるという手段を使います。イエス様は十戒の「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めが「悪魔の詩篇」が「主の詩篇」に変ります。「あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちはあなたを支え」てくださるのです。一人の天使ではなく、たくさんの天使たちが支えて下さるのです。分からないうちに入り込む悪魔の誘惑に対して、私たちが対抗する手段は毎週の礼拝に出席し、御言葉によって歩むこと、それしかありません。レントの期間、そのことを心に留めて日々、歩んでまいりましょう。

「あなたが与えなさい」     後宮敬爾牧師

2007年2月18日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書9章10−17節

 弟子たちは旅に行って帰ってきたところで、くたくたに疲れていました。イエスも彼らに休息を与えようと人里離れたところへ避難します。
 ところが、イエスを求める群衆は、それでもなおイエスを求めてやってきたのです。イエスは彼らを見て、喜んでお迎えになりました。いろいろとお話になり、癒しをされたのです。マタイやマルコには、イエスが群衆を「憐れんだ」と書かれてあります。群衆は希望のない民でした。見捨てられた民でした。イエスという存在に希望を託さずにいられない民でした。そのことを憐れに思い、イエスは群衆たちに迎えられたのです。
 しかし弟子たちはそうはいかないのです。日が傾きかけたとき、彼らは「群衆を解散させて下さい」というのです。彼らが食事をするためには、彼らが生きていくためには、そうする必要があるというのです。一見もっともらしい言い分ですが、「面倒見切れない」という弟子たちの本音が透けて見えます。現実に対して自分のもてるものがあまりに小さいというおそれが弟子たちを支配しているのです。
 その弟子たちにイエスは「あなたが彼らに食べ物を与えなさい」といいます。何もないのではない、五つのパンと二匹の魚があるではないか・・・あなたが持っているものがあるではないか、と仰るのです。
 みんなを座らせ、イエスは五つのパンと二匹の魚を手に取り、これを祝福して、分けたのです。すると男だけで五千人いた人たちが、「すべての人が食べて満腹した!」というのです。これは神の国の姿です。そしてこれが教会の目指すべき姿だと思います。
  自分持っているもので、五千人給食をせよと言われると、私たちにはできない。でもわたしたちには持っているものがある。その5つのパンと2匹の魚を差し出すことは出来るのです。
  私たちの力や能力で教会を形成しなさいと言われることは、大変なことです。一人の人間が他の人間の命にかかわることなど、実は、とても不遜で、傲慢な話です。私たちには誰もそんな能力は与えられていません。
    けれども、私たちが教会を形成していくのは、イエス・キリストが「あなたがたが」と仰ってくださっているからです。力のない者が、大変な事柄の前に立つ…イエスが、そこに行けと仰っているからです。
  お前はパンを持っているから行けではありません。お前は金を持っているから行けでもありません。イエスはこう仰っておられるのです。「わたしが一緒にいるから行きなさい」
 神は私を憐れんで下さっている。そして人々を憐れんで下さっている。その神の前に持てるものを分かち合っていく。たとえ2匹の魚と5つのパンでも。そこに神の奇跡がおこるのです。私たちが起こすのではなく、イエスがその奇跡の中心となって働いて下さるのです。二匹の魚と五つのパン、とるに足らないものを、圧倒的に小さく、弱く、貧しいものを、用いて下さるのです。
  主を信じて、持てるものを分かち合う、その時、私たちは神の豊かな恵みに与ることが出来るのです。

「驚くべき癒し     後宮 敬爾

 2007年2月11日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書5章1727節

 イエス・キリストが活動を活発に始められたとき、「ファリサイ派と律法の教師たち」が、やってきました。この人たちはイエス・キリストの話を聞きに来たのではありません。イエスの言動をチェックし、監視するためにやってきたのです。
 イエスが家の中で話をし、いやしをしていると、多くの群衆が集まって来ました。人垣でいっぱいになったとき、イエスの上から、屋根を剥いで独りの男の人がつるされて来たのです。みんなは驚いたに違いありませんが、イエスはこの人たちの熱心さを見て、「あなたの罪は許された」と言います。
 これは、ファリサイ派や律法の学者たちからすると神を冒涜することばでした。イエスは彼らの心の中がわかったのです。それで、「心の中で何を考えているのか。罪が赦されたというのと起きて歩けと言うのとどちらがたやすいか」と言われました。「罪を赦す」ことも病気で歩けない人に「起きて歩け!」というのも、人間にはできないことでした。
 けれどもイエス・キリストは「自分が、神から遣わされたものであることがあなたがたにわかるように」と言って中風の人に「わたしはあなたにいう。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。驚いたことに、中風の人はみんなの前で起き上がりました。そして元気に、神さまを賛美しながら帰って行ったのです。
 基本的には、病気が治るという奇跡の話で、わたしたちは、ここに心を奪われてしまいます。たしかに病気が治るということは、驚くべきことだと思います。けれども、このお話しの中にはもっと大切なことがあるのです。それは、この人がみんなの前で立ち上がったということと、そして神を賛美しながら帰って行ったというところです。
 当時の権力者であるファリサイ派の目の前でイエスは「起き上がりなさい!」とこの人に言いました。ファイリサイ派は「そんなことは、あってはならない」と思っているのです。起き上がろうとすることは、自分はファリサイ派の人よりもイエスの言葉の方を大事にするということを明らかにすることです。生殺与奪権を持つ町の権力者が、おまえはどっちの味方なのだ!そういう目で見ているのです。
 だから、ここでイエス・キリストが仰った「起き上がりなさい」は単に病気が癒されたということではありません。彼を拘束してきた社会そのものから「立ち上がれ」と命じているのです。
 彼は立ち上がるのです。自分を縛り付けていた拘束から、解き放たれて、立ち上がったのです。自分をがんじがらめにしているような不自由さから立ち上がったのです。それが本当の奇跡です。それが神の業なのです。それが証しなのです。
 こどもたちの叫びが聞こえてくるような事件が続いています。子どもが生きにくい社会は、大人にとっても生きにくい社会なのです。わたしたちの社会、自分であることを認めない社会です。違いがあることを認めてくれない社会です。
 そんな社会の中で生きているわたしたち、そんな社会の中で自分を見失いそうになっているわたしたち、意気粗相しているわたしたちに、イエス・キリストはあの日、中風の人に言ったように「起き上がりなさい」と言っておられるのです。
 病気が治ることではありません。強い人になることでもありません。そのままで、神に愛されいているのだということを知ること、それこそがイエスの「驚くべき癒し」なのです。

 

「み言葉を聞き、守り、忍耐せよ」     後宮 敬爾

 2007年2月4日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書8章4−15節

 「種は神の言葉である」とイエスは語って、種まきのたとえの解説を始めます。それによると、たとえはみ言葉に対する態度として4つのタイプが語られているというのです。
(1)  道ばたに落ちたのは、すぐに悪魔の誘惑に負ける人
(2)  石地に落ちたのは、熱心に飛びつくけれども、試練に遭うとみ言葉から離れていく人。
(3)  一応み言葉を聴こうとするのだけれど、自分の中から出てくる気持ちに勝てないで、み言葉から離れてしまう人
(4)  立派な良い心でみ言葉を聴き、良く守り、忍耐して実を結ぶ人
 小さい頃、教会学校では(1)(2)(3)の人はだめな人で、(4)の人になりなさいと教えられました。たしかにそんなふうに解釈をしたくなるところではあります。
( 4)に注目してみましょう。私たちは最初に書かれてある「立派な良い心で」というところに着目しますが、聖書学者によりますと、ルカが言いたいのは、むしろ後半で、み言葉を聴き、守り、忍耐する人が「立派な、良い心だ」と言うことだというのです。「聞き、守り、忍耐する」ことが強調されているのです。
 良い実を結ぶもの・・・それは、よく聞く人です。悪魔に抗してみ言葉を聞き続ける人です。次に、み言葉を守る人です。人間に試練が襲います。苦しい時には、もがき、あがいて、目に見えるものを頼りにしたり、自分の力を頼りにしたり、しかし結局それらのすべてのもの裏切られてしまう・・・それが試練です。しかし、良い実を結ぶ人は、その試練の中でもみ言葉を守り続ける人です。そして忍耐する人です。富の誘惑の中でも、快楽の誘惑の中でも、忍耐し続ける人です。そればかりではありません。人生の「思い煩い」の中でも、忍耐し続けてみ言葉を持ち続ける人です。その人こそ、「良い実を結ぶ人」だというのです。
 それは一体誰でしょうか。良い実を結んだ人は史上にただ一人です。悪魔の誘惑にも、試練にも、「思い煩い」の中でも、み言葉を聞き、守り、忍耐して、み言葉を生きた人は、この地上にただ一人でした。イエス・キリストだけです。
 イエスのたとえ話は、イエスの生涯の証だったのです。イエスはみ言葉を携えて、み言葉を生きました。どんな誘惑や苦しみや悩みの中でも、それを貫いたのです。イエスは十字架の死に至るまで、み言葉を携えて生き抜いたのです。そしてその生涯が福音という良い実を結んだのです。
 弟子たちも十字架のイエスに出会って初めてこのたとえの真意を理解したにちがいありません。そして、その時、もう一つの意味に気づいたのです。それは、あることを鮮明に思い出したからです。
 イエスがこのたとえ話を話されたとき、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた』ことを思い出したのです。いつも、どんな時も、聞きなさいということでしょう。いや、そんな命令の言葉ではないと私は思います。聞いてくれ、私の言葉を聞いてほしい、心から生命の言葉として受けとめてほしい、試練の時も、誘惑の時も、悩みの時も、神の言葉を聴いてくれ、私の言葉を聴いてくれ、私の言葉を携えて生きてくれ、そういう叫びだとおもえます。
 「種は神の言葉だ」というときの言葉はロゴスというギリシャ語です。そしてロゴスはイエス自身を指す言葉でもあります。イエスは、このたとえ話をする中で、ご自分の生涯を語りました。そして、同時に、あなたたちもいのちの言葉である私を携えて生きて欲しいと語りかけられたのです。
 イエスのようにはなれないかもしれません。しかし、イエスに従うものになりましょう。誘惑の時も、試練の時も、悩みの時も、イエス・キリストをこの心において生きるものとなりましょう。イエスに従うために、良く聞き、よく守り、よく忍耐して、生きていこうではありませんか。

「崩壊の中で残るもの     後宮 敬爾

 2007年1月28日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書21章1−9節

 1〜4節は大変有名なレプトン銅貨2枚を、そしてもっているものを全部献げたというやもめの話です。大切なのは行為そのものではなくて、神にすべてをゆだねるというやもめの信仰です。
 イエス・キリストはそのやもめの姿に、自分を重ね、感動されたにちがいありません。イエス・キリストも今日も、明日も、そして十字架に至る日も。自分自身のすべてを委ねて生きているのです。
 5〜6節には神殿に感嘆する人の声が書かれています。イエスはあのやもめ以上に見るべきものはないのだといって、神殿から出ていこうとされたのですが、神殿のあまりの立派さに感嘆した人がいたのです。しかしイエスはその人にこう言います。
「この建物を見ているのか。こんなものは完全に壊されてしまって、石ころ一つ残らないのだ」
 聞いた人たちは驚きました。神殿こそ大切だ、そして、神殿は永遠に続くだろうと思っていたからです。そして、イエスのこの言葉は実現します。紀元64年に完成したヘロデ神殿は、わずか6年、紀元70年には完膚無きまでに破壊されるのです。
 しかし人々には神殿の破壊は想像もできないことでした。だから「そんなことはいつ起こるのか、どういうふうに起こるのか」と尋ねます。それに対してイエスが答えているのが、7〜9節です。そしてここには、崩壊の内容が書かれているのです。
 深刻な崩壊とは、価値観が崩壊していくのです。正しいことがわからなくなり、混乱の中で戦争が起こります。そして、その破壊はいつ終わるともめどがつかない・・・それこそが崩壊の真実なのです。
 わたしたちの社会も崩壊の危機に瀕しているのではいでしょうか。イラクでの戦争は、その混乱が西アジア全体に広がっています。イスラエルとパレスチナ地域は緊張を強め、イランや北朝鮮は核武装を取り引きの材料に使い出しているのです。
 その混乱と日本が無関係でいられるわけはありません。わたしたちの社会にも価値観を揺るがすような事件が次々と起こっています。子どもが親を、兄弟が兄弟を、妻が夫を・・・考えられなかったような混乱が起こっています。
 神殿は崩壊するのです。わたしたちがこれによって自分たちの生活が成り立っていると思いこんでいるもの、それが崩壊するという時代、時期はたしかにあるのです。そして人々はそのなかで、自分を見失い、何に向かって生きたらよいのかわからなくなっているのです。
 しかし、イエスはその最中に「世の終わりはすぐには来ない」と宣言されるのです。(9節)世の終わり、つまり最後の時は、まだ来ないのです。今は終わりではなく、希望があると宣言されるのです。どこに希望があるのでしょうか。
 それがイエス・キリストなのです。イエス・キリストの十字架なのです。十字架のキリストが、そのような苦難、崩壊、絶望の中に人間に向かって「終わりではない」「希望がある」「私を信じろ」と声をかけておられるのです。そのために、イエスは自分のすべてを神に献げたのです。
 そうです。それがあの貧しいやもめのすがたです。どんな絶望、どんな苦難、どんな崩壊の中でも、あのイエス・キリストの十字架に向かって下さった生きざまは、残るのです。崩壊の中で残るもの、それはイエス・キリストの十字架です。


歓迎されないことば     後宮 敬爾

 2007年1月21日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書4章16−30節

 イエスが公生涯を始めてから、故郷であるナザレに戻り、安息日に会堂に入って礼拝を守りました。聖書の朗読、講解、そして祈りが献げられました。聖書の朗読では、ユダヤ人の男性で、ヘブライ語が読め、それをアラム語で話すことができる人には、輪読のようにまわってきたそうですので、ここでも会堂長からイエスは指名されたのでしょう。
 イエスは立ち上がって渡された書物を読み始めます。渡されたのはイザヤ書でした。「目にとまった」とありますから、渡された巻物の中でもイエスは選択をして、イザヤ61章1〜2節を読み始めたのです。
 イエスが読み終えて、巻物を返したときナザレ村の人々は一斉にイエスを注目したと言います。善意の興味もあるでしょうし、なかには悪意の興味もあったにちがいありません。いろいろな思いの中で、故郷ナザレの人たちはイエスの講解を期待しました。
 ここでイエス・キリストは驚くべきことばを語ります。「この言葉は今日実現した」というのです。そしてこの一言を境に、それまでの穏やか雰囲気が一変します。
 たしかにナザレの人々は、自分たちに対する神の救いの恵みを感じたのです。そして驚き、イエスのことを褒めたのです。感動し、力を受けたのです。けれども、最終的に彼らの口からでてきた言葉は「この人はヨセフの子ではないか」でした。つまり、この人は自分たちが昔から良く知っているヨセフの子イエスにすぎないではないか、という感想でした。
 このことばをきっかけにイエスは厳しいことばを故郷の人たちに語りました。それがどれほどに厳しい内容を持っていたのかと言うことを知ることができるのは、あの故郷の人たちがイエスを崖から突き落とそうとしたという後段のエピソードから伺うことができます。
 イエスが怒り、その怒りが人々の「殺意」にまで至る怒りを引き起こしたというのです。 
 なぜイエスはあそこの場で、人々の怒りを招くようなことをを言わなければならなかったのでしょうか。その視点でもう一度、読み直してみましょう。前半の穏やかな部分と、後半の大荒れの部分、それをつないでいるものはなんでしょうか。
 その中心に位置しているのが「この聖書の言葉は、今日、あなたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉でした。イエスは旧約聖書を読みました。そして解放と救いの預言の箇所を朗読して、「今日実現した」と宣言したのです。つまり、自分がその救いをもたらしたのだと語ったのです。
 それに対してナザレの村の人の反応はどうだったでしょうか。今日、救いは実現したと言われたら、ユダヤ人は飛び上がって喜ばなければなりませんでした。救いを待ち望んでいた人たちだからです。ところが実際には、その宣言を受けていながら、何の感動もせず、何に喜びも持たなかったのです。だからイエスは彼らに言ったのです。
 さて、この話は非常に大切な話です。
 つまり、「今日、実現した」という宣言は、今日、私たちになされいるからです。
 私たちは、神が人となってこの世界に来て下さった、それくらいに私たちを愛しておられると言うことを聞いています。どんな苦難の時も、それは私たちにはそう見えるだけで、実は神が最善をなして下さっていると言うことを聞いています。そして苦難の時に、神は決して私たちを見捨てず、共にいてくださり、そして苦難の中をまっすぐに歩む力を下さると言うことを聞いています。今日、聞いているのです。
 それでイエスは「それをあなたは実現した信じるか、この福音の言葉により頼んで生きているか。」と私たちに尋ねているのです。イエスは命を懸けて、この問いかけをしているのです。
 ナザレの人たちは、このイエスのことばを歓迎しませんでした。むしろ町の外に追い出し、そこで殺そうとしました。私たちはどうでしょうか。イエスの言葉を受け入れるでしょうか、歓迎するでしょうか、それともナザレの人たちのように自分の外に追い出そうとしているのでしょうか。
 この言葉は実現した信じて生きること、それをイエスは望んでおられるのです。

「ゲネサレト湖畔に立つイエス」      中井 利洋

 2006年1月14日 朝礼拝説教要旨  ルカによる福音書5章1−11節

 ガリラヤ湖は南北に一番長い所が20キロ、東西の幅の一番広いところが12キロ、166平方キロの広さです。北海道のサロマ湖より少し広いくらいです。日本の琵琶湖と類似点が多く、姉妹湖と呼ぶ資料もありました。緯度が北緯34度と35度の間です。地域に果たした役割や漁法も似ているそうです。荒野のイメージが強いイスラエルの中で、水が豊富で緑豊かなガリラヤ湖周辺、その中でも特に肥沃な土地がその北東にあるゲネサレト湖畔です。そして、今日主イエスは、そのゲネサレト湖畔に立つのであります。
 イエス様がそこにお立ちになった理由は、群集に教えを説くため。そして、初めての弟子選びをするためであります。目に留められたのは、徹夜で漁をしていたのに一匹も魚が獲れず、イエス様のお話に耳を傾けることもなく、網の繕いをしているシモン。イエス様はシモンに持ち舟を沖に出して欲しいと告げます。舟の上から群集に話しをしようとお思いになったのです。シモンは(おそらく渋々)舟を出します。イエス様は適当なところで舟を泊めさせ、腰を降ろしてお話をされます。
 話が終わってから、イエス様はシモンにこう言います。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」
 舟を出しただけでもようやくのシモンは、自分が夜通し漁をしていたのに何も獲れなかったことを主張します。彼だってプロの漁師ですから、いくらイエス様であっても言われたくないことがあります。シモンは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えるのです。シモンが主イエスの弟子となる所以(ゆえん)です。
 果たして、仲間の漁師たちの手を借りなければ引き上げられないほどの豊漁となりました。その時、主イエスが神であることを電撃的にシモンは感じたのです。そしてシモンは、シモン・ペトロとなりました。(ペトロとはアラム語ケファーのギリシャ語訳。意味は『岩』)
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」この信仰告白はペトロらしい表現方法です。普通なら「イエス様を主であると分からなかった罪深いわたしをお許しください」というような言い方になるでしょうが、いきなり私から離れてください、と言うのです。そしてここでは名前が伏せられているペトロの兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネもペトロと同じ思いになるのです。
 イエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と彼らに告げます。人間をとる漁師・・・。イエス様の愛の業によって救われる多くの人々。その主イエスの助け手として最初に選ばれた人たちは、聖書や律法のことをいっぱい知っているファリサイ派の人々や律法学者でもなければ、洗礼を授ける権能をもつ洗礼者ヨハネでもなく、社会的な評価としては不遇な漁師や徴税人でありました。主イエスに意見して怒られたり、主イエスの弟子でありながらこともあろうに主イエスを知らないと言い張るペトロに代表されるように、転んだりまた起き上がったりする普通の人々、信仰を持ちながら時に揺らいだりする者たち。まさに土の器である者が主イエスの弟子として名を連ねるのです。ガリラヤの清い水が流れ出るように、弱いけれど柔軟に主の御言葉を尋ねていく従順さがありました。
 だからこそ「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のであります。すべてを捨てて従うことができたのであります。

優れた方が来られる     後宮 敬爾

 2007年1月7日朝礼拝説教要旨 ルカによる福音書3章15−22節

 バプテスマのヨハネが登場したとき、ユダヤ人は疲れて果てていました。度重なる大国の支配、支配者層の乱れ、宗教層ではファリサイ派が幅をきかせ、律法を守ることができない庶民を罪人と決めつけていました。どこにも救いがないという状況の中に、バプテスマのヨハネが登場し、「すべての人は罪人であり、悔い粗めが必要である」と説いたのです。
 このヨハネの言葉は風のように人々の心の中に染みこんだのです。たくさんの人がヨハネのもとに集まってきました。そして人々は「ヨハネが救い主ではないか」と考え始めたのです。その時、ヨハネは「自分は救い主ではない」と明言しました。そして「自分はその人の靴のひもを解く値打ちもない」と言ったのです。靴のひもを解くのは僕の仕事でしたので、自分は救い主の僕の値打ちもないと語ったのです。
 イエス・キリストはそのヨハネのもとにきて洗礼を受けたのです。イエスの靴のひもの値打ちもないはずのヨハネが、神の子、救い主に洗礼を授けたというのです。ここに大いなる逆転が起こっています。洗礼を授けるべき人が、洗礼を授かっています。それは仕えられるべき人が仕えているということなのです。神が人に仕えているということなのです。
 ヨハネは救い主を「優れた方」と紹介しました。ギリシャ語は「強い、能力がある」などの意味を持った言葉ですが、神に近い存在だと強調したのです。
 「優れた」という言葉で忘れられないのは、岩村昇氏です。岩村氏は「人の憂いを我が憂いとするのが優れるという漢字の意味だと」語っていました。ある国語教師は「人というのは転んだ人がもう一度起き上がろうとしている姿だ」と語っていました。二つとも考えさせられる言葉です。
 
 憂いに向かって、立ち上がって下さる方がいる。人間の弱さ、悲しさ、貧しさと何度も出会い打ちひしがれながら、繰り返しその憂いに向かって立ち上がって下さる方、それが救い主なのです。
 
 優れた方、私たちのために何度も立ち上がって下さる方、死の渕からも立ち上がってくださった方、それがイエス・キリストなのです。優れた方があなたのところに来られるのです。

 

「肉となってわたしたちの間に」     後宮 敬爾

 2006年12月25日クリスマス早朝礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書1章1−14節