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「赤ちゃんのいのちが危ない時代」 後宮敬爾牧師
2007年11月18日朝礼拝説教要旨 創世記2章1−10節
モーセが誕生した時代、つまり「いよいよ神がその救いを実現しよう」とされた時代、を象徴するのが、今日の物語です。つまり「あかちゃんのいのちが危ない時代」なのです。人間の中でもっとも弱いあかちゃんのいのちが危機にさらされている・・・その事が、その時代に生きる人たちが、どんなに厳しい中にあったかということを表しています。 モーセの両親は、涙ながらに子どもをナイル川に捨てることにしたに違いありません。王の命令と圧倒的な武力の脅しの前に、それ以外に選択肢はありませんでした。それでも、彼らは自身の手で赤ちゃんをナイル川に投げ込むこともできません。そこでパピルスのかごにアスファルトとピッチで防水をしてナイル川に流すことにした、と聖書は記しています。それが彼らのできるせめてもの抵抗でした。 私は、今回この聖書個所を読んで「アスファルトとピッチで防水をし」ということばが胸に突き刺さりました。それは、この時の両親の気持ちを想像したからです。かごの編むその一編み一編みに、彼らの祈りがあったのではないでしょうか。アスファルトを塗り、その上からピッチを塗っていくとき、彼らは涙を流しながら祈っていたのではないでしょうか。 あまりにも哀しい世界の中で、彼らのできることはあまりにも小さく、あまりにも無力なのです。だからこそ、両親は祈りながらできることを精一杯にしたにちがいありません。 彼らのつくったかごは「ゆりかご」なのです。このいのちが守られるようにと、切なる祈りと願いが込められた揺りかごなのです。その揺りかごの中に、愛する赤ちゃんを入れて、そっとナイル川の葦の茂みにおいたのです。強大なこの世界の力に対する、小さな小さな抵抗でした。けれども、それは祈りの中で行われた精一杯の抵抗でした。 そして、その揺りかごによって、あかちゃんは守られたのです。ファラオの王女がそこに水浴びに来ることも、そして王女が赤ちゃんを不憫に思ってくれることも、人間には想定外のことでした。けれども、それらが赤ちゃんを守り、この赤ちゃんが成長して、解放者モーセになったのだと聖書は伝えているのです。背後に、人の思いを越えた神の存在があるのです。 わたしたちがモーセの誕生物語から学ぶべき事は、「神の物語」なのです。赤ちゃんのいのちが危機にさらされている時代、そのくらいに暗く絶望的な時代に、神が行動を起こして下さったということです。そして、その時に、神がわたしたちの祈りの業を用いてくださると言うことです。 パピルスのかごを編み、アスファルトとピッチで防水をする・・・それはとても日常的な行動ではないでしょうか。わたしたちの日々を祈りつつ、自分にできることを精一杯に生きていくとき、わたしたちのその祈りと行いとを、神が支えてくださり、用いてくださると言うことではないでしょうか。 わたしたちもまた、あかちゃんのいのちが危ない危機の時代を生きています。そしてこの時に、わたしたちのなすべきことは、祈りつつ精一杯に生きることだと聖書は教えているのです。人を救おうとする神が、わたしたちを支えてくださるのだと聖書は語っているのです。
「兄弟を愛する」 久世そらち牧師(札幌北部教会)
2007年11月11日札幌地区礼拝交流 Tヨハネの手紙2章7―11節
「互いに愛し合う」ことがヨハネの手紙Tを通してのテーマである。当時、教会の現実は、「互いに愛し合う」ことが危うい状況であった。教会の兄弟姉妹が愛し合わない。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は今も尚、闇の中にいる」と言われており、当時の教会の中で、「自分はもう救いの光の中にいる」と言うなら、「同じ教会の仲間を憎む」ことはあり得ないはずだが、言葉では「光の中にいる」と言いながら、振る舞いは「兄弟を憎んでいる」という現実があった。 「憎む」という言葉は、日本語の「憎む」という言葉より意味が広く、「憎む、嫌う、無視する、ないがしろにする」ということを含む言葉である。「自分は神の光の中にいる」と言いながら、「信仰の仲間について、無視する。関心を示さない。思いをよせない」。同じキリストにつながり、同じ教会を形作っている兄弟姉妹に対し、どれだけ思いを向け、心を寄せているのか。仲間に対して憎しみを燃え立たせる経験はなくても、ないがしろにする。無視する。無関心である。そのようなあり方をふり返ると、心傷むものがあるのではないか。 北海道各地に小さな教会がたくさんあり、そこでは、礼拝後、語り合う機会を持っている教会が少なくない。お茶や食事を頂きながら、一週間のそれぞれの生活の中の出来事や、こころの深い思いを語り合い、心をよせ、信仰によって結ばれた深い交わりを築いている。日曜日の礼拝に始まるひと時が、文字通り一週間のそれぞれの歩みを支え、導いている。 北海教区は、教会同士の連帯を大切にする。しかし、最初からそうだったわけではない。1950年代に、北海道特別開拓伝道(北拓伝)という計画が実施された。北海道各地に20数件の開拓伝道が一斉に行われた。神学校を卒業したばかりの若い牧師がまったく縁もゆかりもなかった北海道に送りこまれた。そして彼らは、5年間で援助を打ち切られることを前提として開拓伝道に飛び込んでいった。しかし、たずさわった牧師の中にはその後、深く傷ついて、牧会から放れて行った人もある。そして残された信徒は牧師を支えきれず、やはり深く傷ついた。その困難、苦悩は経済的、物質的なものだけではない。何よりも、自分達のしていることは、だれにも知られず、結局、何にもならないのではないか。そういう孤独感、孤立感、無力感、空しさ。それが一番深く苦しめ、傷をもたらした。裏返せば、そのように開拓伝道の教会が、多くの苦労を担っている間に、既にあった他の教会、その計画に責任を負うべき教区や教団さえ、牧師を送り込んだ後、関心が薄く、つながりを持とうとすることが、あまりにも少なかった。また、同じくキリストにつながる教会に、兄弟姉妹に対する関心の薄さ、冷たさ、ないがしろにした扱い、それは、ここで言われている「兄弟を憎むものは闇の中におり、闇の中を歩み。自分がどこに行くかを知りません」ということではないのか。この時代の教訓、反省から北海教区の諸教会は、長い間かかって、今あるような教会同士のつながりを意識的にはぐくんできた。今も、無関心の闇に取り囲まれないように、そのことをいつも意識し、繰り返し、いろんな機会に教会同士のつながりを確認している。 2000年の道北地区の信徒の集会が、「地区内の小規模教会、無牧師の教会に学ぼう」というテーマでもたれた。美馬牛福音伝道所の信徒の発題があり、伝道所の状況を切々と訴えられた。信徒達一人一人の抱えている生活の状況、この先の不安、建物の老朽化、毎週、旭川から通ってくる清水真理牧師への感謝とそれを充分に支えきれない負い目、それでも主の体である教会としてこの伝道所を自分一人でも守っていかなければならないという責任の重さ、使命について語られた。その発題は参加者の心を打った。これまで、美馬牛伝道所のことは、知り、地区の仲間としてつながっているつもりだった。しかし、実は大事なことを分かっていなかった。心をよせ、関心を持ってこなかった。そういう驚きと反省の中、一晩、みんなが熱心に話し合った。そして共に祈った。それを受けて、その後、礼拝を共にする機会をもち、また会堂の老朽化について旭川伝道圏の人たちが自分達のこととして、考え、支えて行こう。美馬牛伝道所の主体性を尊重しながら、それでも、それは、その伝道所だけのことではなく、私たちのことだとして委員会を作り、計画が、進められてきた。 こうやって、起こされてきた一連の出来事は、一体誰にとって喜ばしい出来事であったか。それは美馬牛伝道所が感謝するべきこと。そいうことがらではないのではないのか。その教会と、そこにつながる兄弟姉妹と関わり、その関心を呼び覚まされ、実際に顔を合わせ、つながり、働き、一緒に歩み出していく、他の教会こそが兄弟への無関心という闇の中から光の中へと美馬牛福音伝道所によって導かれていく。そういう他の教会の兄弟姉妹にとってこそ、感謝すべきことがらなのではないのか。「愛する者たち、私があなたがたに、書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたがはじめから受けていた古い掟です。」それは、兄弟を愛するということです。兄弟を愛する。それはつきつめて考えれば、大変難しい事柄です。しかし、無関心を抜け出し、これまで隔たってきた、その距離を一歩近づけることが、闇から一歩踏み出し、光に一歩近づくことになる。 今日のこの礼拝も札幌地区の礼拝交流月間の一環であり、これまでもさまざまなつながり、交わりの中に共に歩んできた。しかし、また、こういう機会にいっそう深く、親しく、近しく、互いを覚え、関心をもちそのことによって無関心から、愛へ。闇から光へ一緒に歩を進めるものになることを願うものである。(文責清水明次)
「罪の根源」 後宮敬爾牧師
2007年11月4日朝礼拝説教要旨 創世記3章1−15節
3章1〜7節には、人間の罪の現実が書かれています。2章で非常に麗しい関係にあった人間と神との間にひびが入ります。悪いのは蛇だという事になっていますけれど、蛇の果たした役割は、神を相対化する事でした。神のようになるという誘惑こそ、恐るべき誘惑なのです。 2章では制限であった事柄が、神が相対化された結果、選択しうる可能性として語られるのです。そして特徴的な事は、ここに神は登場しないと言うことです。あれほど人間を愛し、人間と共にいた神がこの場にいないのです。また、逆に言うと神と語り、神に語っていた人間が、神と語らなくなっているのです。人間は神の制限を破り、自由を曲解し、使命を放棄しています。彼は禁断の実を食べるのです。そこから悲劇が始まるのです。ありのままを受け入れあって、共にいて、助け合っていた二人が、自分を隠すようになりました。自分を飾り、自分を見せないようになっていくのです。 3章8ー24節では人間は神の前から隠れ、そして神に問われると、自己弁護をし、責任転嫁をしています。神から身を隠し、自己弁護に終始している人間はおよそ2章で語られていた「互いを助け手」とする存在ではありません。人間は互いを責め合い、傷つけあう存在になったのです。 ここに人間の悲しい現実が描かれているのです。その原因はどこにあるのでしょうか。そうです、人間が神から離反したことが、人間に悲惨と滅びをもたらしたのです。 私たちはどうしてこんなに悲しい存在であるのか、その問いに対して、聖書は答えているのです。それは人間が罪を持っているからだ。そして、その罪の根源とは、人間が神から離れていったことだ、というのです。神のようなものになろうとして、思い上がり、神を忘れ、神と語ることを忘れ、神の御心から離れて生きていることだと指摘するのです。 それでは、人間は絶望するほかないのでしょうか。しかしそこに一筋の希望が与えられています。裏切った人間を滅ぼさず、エデンを追放した人間を見つめ続けている神の愛です。 イエスの十字架は、その神の業が確実に表された出来事でした。人間の絶望連鎖を断ち切るものが、主イエスの十字架に示された愛なのです。だから、私たちの務めは、この罪の現実の中で、神の愛を証していく事です。神の愛を知っているものとして生きることです。 神は、罪を犯して身を隠しているアダムとイブに向かってなんといわれたでしょうか。「どこにいるのか」です。それは叱責の言葉ではありません。神のもとへとかえってくることを期待している言葉です。あなたのいるところはどこなのか、あなたは私の前にいるのか、私に心を向けているのか、私を見ているのか、神の前に自分を隠そうとしている私たちにも、そう呼び掛けておられるのです。
「神にかたどって創造された」 清水明次牧師
2007年10月28日朝礼拝説教要旨 創世記1章1−5節、24節−31節a
創世記は、聖書のどの巻を読むにしても、今から読もうとする聖書がどういう観点から書かれたものであるかを示した書物であるといえよう。その観点とは、創世記は、神は創造する方であるということである。創世記が書かれた当時の古代オリエントでは、太陽を、夜空に輝く月を、星を、神、神々としてきた。しかし、創世記の創造物語は、それらは、あくまでも神によってつくられたのだと記しているのである。このことは、神が、あらゆることを超えた存在、超越的な存在であることを表わしている。そして、創世記は、そのような方と人の関わりについて書かれた書物であることが宣言されているのである。われわれは、神を唯一の神であるという信仰をもっている。 わたしは、一人暮らしをしているが、時々自分が一人であることを強く実感する時がある。それは、ドジなことをしたときである。ご飯を炊こうと思って計量カップで計った米を、炊飯器の釜に入れようとして、手をすべらせて、ばら撒いてしまったり、洗濯物を床に広げていて、足に絡ませてこけてしまったりしたことがある。しかし、そこには「何やってるの」ととがめる者もいなければ、笑う者もいないのである。 さて、聖書の神、私たちの信じる神は、唯一だが、不思議なことに、今からしようとする事柄を一々口に出して言うのである。「光あれ」といったかと思えば、「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣それぞれの家畜をそれぞれに生み出せ。」というのである。聞くものはどこにいるのであろうか。神は、寂しがりだったのか。聞かせるべき相手はいないのに言葉を発しているのである。神は、独り言を言っていたのだろうか。 私たちが、言葉を発するときに望んでいることは、その言葉が聞かれることである。それは、語りあうことであり、相談することであり、自分をわかってもらうことである。また言葉を発するということは、言葉を発する者が生きて働く方であることをもあらわしている。それは、神が言葉を交わすことを望んでいる存在であることをしめしている。 さらに進むと、不思議なことに、「われわれにかたどり、われわれに似せて」とかかれている。父親にしても、母親にしても、生まれてくるものが、自分に似ているといわれると嬉しいものである。神も「われわれにかたどり」「われわれに似せて」と語るのである。今からつくろうとするものをとても慈しんだということがわかる。ときには、似ていることをいやがるこどももいる。親子の関わりの中で困難を乗り越える子どもたちもいるのである。 人間を創造して、すべての創造の業を終えたとき、神にとって、「それは、極めて良かった」と聖書は記しているのである。 その神が「われわれにかたどり」「われわれに似せて」と語ったものは何だったのか。慈しみをもってつくったものは何か。それは、空にかがやく星でもなく、太陽でもなく、この自然の素晴らしさでもなく、この世の王様でもなく、人だというのである。そして、「人を創造する」と言ってできたものは、「人」ではなく、「男」でもなく、「女」でもなく「男と女」なのである。ご自身のことを「われわれ」と語る神が、自らにかたどってつくったものは、実は単に「男」でもなく、「女」でもなく、「人」でもなかった。「男と女」であった。 「男と女」ということは、人の関わりの中で、もっとも強い結びつきである「夫婦」を連想させる。それは、神は、各々の人をつくったというよりも「強い関わり」を、「交わり」を、「共に生きる関係」をつくられたといえるのではないだろうか。私たちは、信仰者として、神の喩えとして生きたいと願ったとしても、一人では、何も現すこともできない。そのことが現れるのは、関わりの中で、交わりの中で、共に生きる中で初めて現すことが出来るのである。教会は、そのような場なのである。神は、その関わりを、交わりを、共に生きる関係を最大の慈しみをこめて、創造したのではないだろうか。
「忍耐して走り抜く」 後宮敬爾牧師
2007年10月21日朝礼拝説教要旨 ヘブライ11章32節−12章2節
11章は1節のテーマ「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」に基づいて聖書の中から様々な具体的な例が、人の名前を挙げ、そしてその人の信仰と人生を表しながら、語られてきました。そして32節で、「これ以上何を話そう」とつながるのです。いくらでも例を挙げることができる。あげだしたらきりがないというのです。 ヘブライ人への手紙というのは、迫害が前提にあります。迫害の時代に問われるのは信仰とは何かということ、信仰することは得か損かということにあるのです。 信仰によって、どんな事が生じると言うのでしょう。 前半には信仰によって得られる「良いこと」が列挙されています。ところが、それに続く記事を読みます時に驚きます。「拷問の苦しみに甘んじ、放免される事を願わなかった。・・・・荒野と山の中と岩の穴をさまよいつづけた」となるのです。信仰故に、このような状況に追い込まれていくというのです。 良くこのような事を書いたものだと思います。もっと良い面ばかり書いておけばいいのにと考えたりしますが、信仰の事実はこの通りです。信仰によって、私たちは栄光と悲惨を受けるのです。聖書は簡単にその理由を示します。「世は彼らにふさわしくなかった」と言うのです。 つまり、悲惨と栄光と申しますが、これらの事は神にとっては一つの事なのです。神のみ心を表す。この一事です。信仰とは状況の善悪にかかわらず、常に神の御心を求め、それを行っていくことだと聖書は言うのです。迫害の時代に、迫害のあることを隠さないで、むしろそれを堂々としるし、信仰故の苦しみを受けることが当然あるのだと語っているのです。 そしてそのような信仰を生きたものが、証人として11章に記されているのです。 私たちは、迫害の時代を生きているわけではありません。しかし、信仰故の戦いというのは当然あるはずです。 教会で楽しよう、とか教会で得しようと言うのは間違いなのです。イエス・キリストは十字架を背負われたのです。そのことを覚え、主に従うのが信仰者であり、教会です。楽でもないし、得でもない、しかし私たちはそれによっていのちを得るのです。 札幌北光教会が111年の歴史を経て、今日ここにあるということは、ただ存在し続けてきたという事ではありません。どんな時にも、誰かが十字架を背負っていたという事なのです。 このように私たちは、多くの信仰の証人に囲まれています。「常に、主のみ心を表しなさい。それが教会の使命であり、いのちの道である」と証言しているのです。いのちを得るために、「絡みついてくる自己欲望実現の思いをかなぐり捨てて、ただイエス・キリストを見上げて歩もうではないか」と呼びかけているのです。 先達は全力で、この道を走りました。私たちも同じ道を、神によって定められたいのちの道を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
「本当に重要なものを見分ける」 後宮敬爾牧師
2007年10月14日朝礼拝説教要旨 フィリピの信徒への手紙1章1−11節
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