佐野乾山事件の経緯


参考文献:長谷川公之 「東西贋作犯科帳」 月刊美術連載


贋作派真作派で色分けしてあります。

●経緯    -    経緯のまとめ
    *昭和34年、京都から上京した森川勇氏は、 林屋晴三氏(東京国立博物館陶磁室)から、新発見の「佐野乾山」
       の話を聞いた。世に、乾山作として通用しているもののうち、万人が真作と認める作例は九牛の一毛に過ぎない、
       と言われるほどに贋作に多い乾山であることから、初めて「佐野乾山」の出現を耳にした森川氏も信じなかった。
       この情報を持ってきた、林屋氏自信、初めて聞いた時は、一笑に付したのだが、現物をみせられて真作と認めざる
       を得なかったとのこと。森川氏も半信半疑で東京都港区の古美術商米政に行き、実物を見て本物であると確信した。

    *昭和35年2月頃から市場に「佐野乾山」が出回り、一部に贋物説が囁かれた。
        → 神戸在住の実業家が収集家の森川勇 氏から700万円で譲り受けた「佐野乾山」の絵皿4枚を芦屋市在住の
            乾山研究家である 山田多計治氏に見せたところ、「偽物」と断定され返却する事件が発生。

    *昭和37年1月3日、来日中だったイギリスの陶芸家バーナード・リーチは、 藤岡了一(京都国立博物館工芸室長)
       と共に、京都在住の収集家森川勇氏を訪問。 彼の収集した「佐野乾山」を詳細に鑑賞して感嘆した。

       <バーナード・リーチ氏>

       <藤岡了一氏>

   *上記事実に関連して、昭和37年1月19日付けの朝日新聞朝刊の「青鉛筆」に次の一文が掲載。

   *昭和37年1月28日付け毎日新聞(中部版)

       <山田多計治氏>

       <米田政勝氏 : 古美術店米政主人>
       <山根有三 : 東大助教授(乾山・光琳の研究者)>
       <森川勇氏>

   *昭和37年2月9日付け読売新聞
   <陶工”尾形乾山”の作品二百数十点でる 栃木で発見 鑑定を急ぐ>

   *昭和37年2月13日付け毎日新聞
   <「佐野乾山」のナゾ>

   *昭和37年2月14日 衆議院の文教委員会で代議士の高津正道氏が文化財保護委員事務局長の清水康平氏に質問

   *「芸術新潮」昭和37年3月号に「新発見の佐野乾山」の特集を組む。

   *昭和37年3月8日付け読売新聞
   <「佐野乾山」の出所> <発見の三氏が公表 土地の旧家から集める>

   *昭和37年4月12日毎日新聞
       <「佐野乾山」に新たな波紋> <手控えにニセ物説 書体、内容の数々に疑い>

   *昭和37年4月13,14日毎日新聞に「佐野乾山」関連の記事が掲載。
       <「佐野乾山」手控えの疑問>


   *昭和37年4月15日日本テレビは大宅壮一の司会で公開討論を実施。
      森川勇氏と吉竹英二郎氏(元国立陶磁試験所加工課長)、梅沢彦太郎氏(陶磁協会理事長)、小森松菴氏で討論を行ったが、
      議論がかみ合わなかった。


   *昭和37年4月末発行の「芸術新潮」五月号で「乾山真贋説の終幕」を特集。
      「ニセモノ説に答える」と題した森川氏の一文を掲載。
      ●作陶に関して
  1. 乾山が佐野では江戸の「入谷の黒土」を使った筈とされているが、乾山は京都方面の白土を入谷窯で素焼き
    したものを使ったと思われるから、黒土でないのは当然。
  2. 新乾山は、サヤに入れて焼いているというが、乾山はすべて一貫して内窯で焼いており、サヤの場合には必ず
    残る「目」がないのが何よりの証拠である。
  3. 内窯では、一回に八寸皿が五枚は焼けるし、一日に五〜八回は容易だから、短時間に数百枚焼いたとしても
    矛盾はない。
      ●手控えについて
  1. 仮名使いや文法上の誤りについては、乾山在世中には正確なものが未だ定められていなかった。
  2. 季のない俳句は、芭蕉の作品にも見られる。稚拙というのは、俳句を佐野に来て始めたばかりの乾山の素朴さに由る。
      ●作風について
  1. 絵の<筆致>が「真正乾山」と違うと言うが、「真正」の基準は何か
  2. 乾山が京都在住中の作品にのみ入れた「洛中」の<銘文>は、彼が佐野にあって生地の風土を偲び、”望郷の詩人”と
    して京都の夏を思い「洛中の夏 天下に魁」と讃を誌したもので、むしろ当然すぎると言うべき。

   *昭和37年6月13日毎日新聞に「佐野乾山」関連の記事が掲載。
      「"佐野乾山"に新たな資料"古くから私の家に"」
      NTV討論で森川氏が「出所を公開する」との約束に基づく高津正道氏(衆議院文教委員)と淡谷悠三氏(衆議院文化財小委員)
      の両代議士が6月12日、個人の立場で行った現地調査の様子を伝えた。
      森川氏が直接買い求めた元の所有者7人(うち1人は死亡)のうち5人の証言を掲載。
      ●須藤清市氏(元小学校長):先祖から伝わった。
      ●島村源吉氏(料理店主) :土蔵にあった。
      ●脇坂景秋氏(質商) :土蔵修理をしたさい明治初年の質証文類といっしょに出てきた。
      ●鈴木源之助氏(陶器商) :土地の旧家から”古くから伝わったもの”ということで買った。
      ●大田清平氏 :初代(明治初期)が買った品。
      須藤清市氏を除き全員「騒ぎが大きくなってから乾山と知った。」というもので、それらの”佐野乾山”が古くから伝来していた
      という第三者の証言は得られなかった。


   *昭和37年6月19〜28日「芸術新潮」編集部は、「新発見”佐野乾山"展」を日本橋・白木屋で開催。
      大阪・心斎橋大丸で7月3〜14日まで開催され多くの反響を呼んだ。       手控え10種と約170点の"佐野乾山"を展示。
      藤岡了一氏
      乾山の全容を知る上にもきわめて重要な資料。佐野乾山のそうした絵画性を、より美しく微妙に表現するための支えは、
      彼独特の工夫になる<下絵付けの技法>である。下絵付けによる色絵付けによる色絵陶磁器は、じつに乾山にはじまり、
      乾山をもって終息すると言っても過言ではあるまい。


   *昭和37年7月08日毎日新聞に「佐野乾山」関連の記事が掲載。
      「佐野乾山"手控え"に新ニセモノ説 筆法、書体が違う 紙も画箋紙でごま化す」
      水墨画家でかな文字研究家の加瀬藤圃氏の見解を紹介。
      1)拓本の虫食いを補修したと見られる裏打ち画箋紙をはがして使っている。
      2)裏打ちに使ったノリのため、手控えの文字や絵には墨がのっていない。
      3)拓本は現在では古いものが幾らでも入手可能だから、手控えの紙質が古いものだとしても偽作の可能性は十分にある。


   *昭和37年7〜9月号日本陶磁協会の機関紙「陶説」に加瀬藤圃氏の見解を紹介。
      「八ッ橋杜若長四方皿」に関して以下のように主張。
      1)皿に「洛中夏魁天下」と賛が書き込まれているが、「洛中」は京都、「八ッ橋」は伊勢物語第9段に出てくる。京都と三河では
      辻褄が合わない。
      2)杜若が夏に魁するという表現はおかしい。
      3)図中の橋は向こう側に渡れない橋となっている。
      4)橋桁を描き落としているため、橋板が浮いている。
      5)杜若は群生して咲くにも関わらず、この皿では一本一本分離している。


   *昭和37年7月14日毎日新聞に「佐野乾山」関連の記事が掲載。
      「佐野乾山はニセモノだ」とのタイトルで大阪陶芸文化研究所所長:保田憲司氏の意見を報じた。
      1)「紅白蓮八寸皿」の裏に「禅門末弟・・・」とあるが、禅僧でもなかった乾山が自称するのはおかしい。
      2)「水仙絵八寸皿」は、本来6弁であるが、5弁しか描かれていない。

   *昭和37年7月27日栃木新聞に「佐野乾山」関連の記事が掲載。
      乾山研究会は検討の結果、「手控え」が信頼するに足る乾山の真蹟とほぼ認めるに至ったと報道。

   *昭和38年1月13〜20日栃木新聞主催で宇都宮市の東武デパートで「佐野乾山名品展」を開催。

   *昭和38年4月6日毎日新聞にバーナード・リーチ氏が37年10月12付け英国日曜紙に掲載した真作説の論旨を報じた。

   *昭和38年9月「陶説」9月号で大川英三氏が真作派の動きを誹謗した記事を掲載。

   *昭和39年9月「芸術新潮」9月号にバーナード・リーチ氏が一文を寄せる。

      手控えは読めないが、手控えの文字や絵がやきもののそれらと一致しているから「佐野乾山」は真作だ。

   *昭和49年9月「芸術新潮」9月号に加瀬藤圃氏が「"佐野乾山"に決着を...」の一文を寄せる。

      乾山の真筆である「小西家文書」と佐野乾山の手控えを比較して斎藤素輝氏の筆跡と佐野手控えの筆跡は同じと結論づける。

      その後、20年以上経過しても真贋論争の結論は見ていない。

   *昭和60年に入り住友慎一氏が佐野乾山に関する著書を刊行。
      これからの本当の真贋論争が期待される。


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