日本イギリス児童文学学会1998年度大会 研究発表
Virginia Hamiltonの非現実世界
-Jamake Highwaterとの比較を通じて-
鈴木宏枝


 アフリカ系のVirginia Hamiltonとネイティブ系のJamake Highwater の作品は、驚異に対して現実的妥当性を要求しないという点で共通している。だがその非現実世界の捉えかたには、本質的な違いがある。
 Hamiltonは、厳しい過去を背負いつつ未来に向かって現在をサバイバルしているすべての人類の姿を,アフリカンアメリカンに重ねている.作品の子どもたちはサバイバーで,自己の内部にそれぞれ中心的なリアリティ(アイデンティティの模索や愛情への渇望)を持つ.そして,過去の記憶や非現実的なできごととファンタスティックにかかわりあったのち,歴史の中の自己・他者との関係性の中に生きる自己を認識する。
 具体的には、M.C.Higgins, the GreatのMCは、強力な夢想の王国に君臨し,自分の暮らすセアラ山に危機感を抱いていた.だが,逃亡奴隷の祖母セアラの物語,古い子守唄,先祖の墓標,母のヨーデルに護られる日常の中で、外の世界の人間と交流した数日間の経験の後、過去や他者との関係を引き受け,セアラ山に主体的に生きることを決心する。Arilla Sun Downのアリラは、個性的な家族の中でのアイデンティティを強く求めていたが、賢人ジェームズらから民族集団の記憶とWordkeeperという秘密の名前(役割)を与えられていたことを思い出し,歴史の環の中で物語を語りつづける役割を引き受ける。Sweet Whispers, Brother Rushのツリーは、受動的に待つ子どもだったが,幽霊のラッシュ伯父に、家族と民族集団の過去の風景を見せられた後,他者と交わり,新たな家族を形成することを知る。Plain Cityのブレアは、母の愛情や自分の過去への切望に満ちた子どもだが,ホームレスになっていた父に出会って過去を取り戻す.ブレアは,深い孤独と愛情への渇望を抱える自分のまわりに、いくえもの関係性があるのを悟り,世界観の変容を経験する。
 一方、Highwaterの幻の馬三部作は、ユニークなビジョンを持つアマナの一代記で、Hamiltonnoの作品と同様に,現実と日現実の不可思議な共存が見られる。だが、Highwaterの非現実世界は、人間の側からの規定を許さないゆるぎなさで確立されている.それは,存在であるところのbeであり、Highwaterの非現実世界はネイティブの歴史や物語であるが,それらは白人が転倒する以前の土地と言葉と精霊に属しているため,物語が進むに連れて,その力強さも過去のものになっていく.この作品でのネイティブは,白人の物質と略奪の文明によってアメリカ大陸全体の地図を書き換えられ,物語を滅びさせられた。結果として,個々人の人間性も喪失されてしまう。
 アフリカンアメリカンの土地は,白人の地理境界線上に存在しうるので、彼らは自分たちの物語と歴史を保持できた.Hamiltonの非現実世界も,平行文化が共通に持つ歴史と記憶に根ざしているが,それはbeの世界ではなく、人間に対してファンタスティックに作用するdoの世界である。非現実に援助される人間に力点が置かれること,また,援助する非現実そのものも人間の記憶であること.この二つの意味で,Hamiltonの作品は人間中心といえる。
だから、昔話や神話・伝説の再話についても、HighwaterとHamiltonには相違点がある。Hamiltonは、民族集団が抱えてきた人間としての悲しみと希望を、民話の形式で語る。HighwaterのAnpaoでは、太陽・月・精霊・動物・人間は同じいのちとしてワピの造った世界に生き、人間の登場人物に必ずしも重きがおかれるわけではない。
 Hamiltonの文学観(人間性を求めてサバイバルする人間を賛美する)と歴史観(今を生きていくために、過去を生きた人間の記憶と歴史が大きな援助になる)は、人間中心と成長の礼賛という意味で,西欧的な考え方にも受け入れられる部分がある。Hamiltonは、一人の子どもが生きのびていくために、平行文化全体の過去の記憶で援助する。Hamiktonの非現実世界は人間に暖かく向かうまなざしから成り立っており、そこから、普遍的な児童文学としてのHamiltonを評価することも可能だろう。

『日本イギリス児童文学会会報』 1999年春号 1999年4月発行
日本イギリス児童文学会発行 所収

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