白百合女子大学児童文化学会発行
『白百合児童文化』 Z
1996年9月 所収
ヴァージニア・ハミルトンの『わたしはアリラ』に見られる遊びの機能 −そりすべりとローラースケート−
The functions of playing in Virginia Hamilton's Arilla Sun Down - sledge riding and roller skating -
はじめに
ヴァージニア・ハミルトン(Hamilton, Virginia)は、ル・グイン(Le Guin, Arshula K.)、ポーラ・フォックス(Fox, Paula)、カニグズバーグ(Konigsburg, Elaine L.)らと並んで、現代アメリカ児童文学界で最も重要な位置を占める作家の一人である。ハミルトンの作品は、アメリカ合衆国のドメスティックな問題を多く含み、多くの場合、オハイオ州の風土に立脚しつつも、決してアメリカだけにとどまらずに、国境を越えた児童文学としての普遍性を獲得しているものが多い。
例えば、彼女の最初の作品『わたしは女王を見たのか』(Zeely,1967)は、それ以前のステレオタイプ的なマミー像を軽やかに越える、魅力的な黒人女性を創造したことによって評価されている。『わたしは女王を見たのか』には、貧しい黒人女性が「今」「ここ」にある現実世界の中で、誇りを持って、堂々と生きることの美しさが示されている。この作品は、黒人文化を引き寄せているという点で、非常にアメリカ的な視点を持ち、アメリカ児童文学の流れの中で、一つの指標的な意味を持つ作品となった。だが、それと同時に、アフリカのワツチ族の女王と重ね合わされるジーリーは、「黒人」という但し書きを抜かしても、現実を高貴に生きる女性であることに変わりはなく、主人公の少女ジーダーの成長物語の中で、彼女の憧れを引き受けるに足る豊かさを持っているのである。
ハミルトンのテキストは、ニューベリー賞、ハンス・クリスチャン・アンデルセン賞、コレッタ・スコット・キング賞など数々の賞を受賞している。逃亡奴隷だった先祖の時代から住み始めた土地に、自らの意志でこれからも生きていくことの能動的な意味を体験した、ある非凡な少年の物語、『偉大なるM.C.』
(M.C.Higgins, the Great,1975 橋本福夫訳)や、過去と現在とが分かたれがたい歴史性の連続である(註1) ことを前提として筋が展開されている『マイ・ゴースト・アンクル』(Sweet Whispers, Brother Rush,1982 島式子訳)など、深い作品世界を持つものが多い。
これらの作品は、しばしば「問題小説」として扱われる。だが、貧困や黒人差別、ホームレスといった「問題」は、素材に過ぎない。こうした素材を持ち込むだけでは「新しい」作品にはならない。生きるための問題を抱える中で、人間が、そして子どもが、どのように生き延び、どのような価値観を選択していくかが描けているからこそ「新しさ」は生まれる。その点、ハミルトンの作品は、主題をあからさまなメッセージとしては伝えず、「問題」から発せられるいくつもの問いを重層的に織り込んでいるものだ。まさに、テキストと呼ばれるのにふさわしい。
ここでは、それらの作品群の中から、ハミルトンの自伝的要素が濃いと言われている『わたしはアリラ』(Arilla Sun Down,1977掛川恭子訳)を取り上げたい。『わたしはアリラ』は、訳者の掛川も後書きで述べているように、<(書き手のハミルトンのみならず)読み手の側にも努力を要求>する作品である。もちろん『わたしはアリラ』の主題のひとつは、主人公アリラのアイデンティティ獲得だ。だが、アリラの「私」を決定づけることになる「言葉の護り手」(wordskeeper)の役割の意味深さとパラレルに、インディアンや黒人のマイノリティ文化が、現代社会にどうかかわっているのか、あるいは、アリラが「言葉の護り手」を引き受けることそのものの意義など、考えねばならないことは多い。また、それらを考えることが、ハミルトンの作品を読む楽しみであるとも言える。
本論では特に、『わたしはアリラ』という作品のプロットにおいて、冒頭と終章で重要な役割を果たす、アリラと<太陽の石>父さんとの「そりすべり」、また、アリラが兄の<天翔ける太陽>ジャックと、そのガールフレンドのエンジェルと一緒に、夜中にこっそり楽しむ「ローラースケート」が、どのような意味を持つ「遊び」なのかを考える。そしてその中で、作品中に示される「いのちというのは『ただ環をえがいてまわるだけだ』」(『わたしはアリラ』p.266)という世界観にも触れていきたい。
家族の中のアリラ、祖先につながるアリラ
『わたしはアリラ』の主人公である12歳のアリラ・アダムズは、両親と兄と一緒に中西部の小さな町(名前は示されていない)に住んでいる。ハミルトンが生まれ育ち、現在も暮らしているオハイオ州のイエロー・スプリングスが、この町のモデルであることは明らかだろう。
アリラの父は、見栄えのするダンディなアメリンド(アメリカインディアン)で、職場でも人望が厚い男である。だが、アリラが五歳のときまで一家が暮らしていた、クリフビルという土地に、説明しがたい力で引きつけられてしまうことがあり、その度に、仕事も家族もほうり出して、まるで「環を描くように」そこへ帰ってしまう。 母は現実的な黒人女性だ。血縁・地縁の多いその町でダンスを教えており、教室は大盛況である。また、<ママは信用があるだけでなく、父さんがいうところの”美しい女性”だ。たしかにママのような舞台効果満点の美しさを持った人には、この辺ではめったにお目にかかれない。ママは(中略)背が高く、踊り手によく見られるようにやせぎずで、力強さにみちている>(前掲書 p.38)。母は、現実的な意味で、アリラのよき理解者であるが、近代の洗礼を受けた女性として、夫や息子がこだわるアメリンドの文化には、ほとんど重きをおいていない。
そして、16歳の<天翔ける太陽>ジャックは、<月の娘>アリラにとって、太陽そのものであり、その影響なしには生きることも考えられない兄である。彼は、力強くハンサムで、父と同様に誇り高く、アメリンドとしての自分というものを強く意識している。母が「アメリンドという見かけにこだわるのは意味がない」と実際的な意見を言っても、彼は、あくまでマイノリティそのものから、自分の中に流れる血にこだわりを持って、このように言う。<「見ているといい。そのうち、おれと同じ血を受けたこの辺の者たちがだまっていられなくなり、自分たちが何者か、主張しはじめるようになる。政治的にも力を持ち、政府が金を出すようになる。あちこちで起こっていることだ。なかには白人の田舎の百姓たちのように、金髪で青い目のやつもいるだろう。そこにいる<月の娘>みたいなやつもいれば、おれみたいなのもいるだろう。(中略)何世代ものあいだ、見かけは貧しい白人や貧しい黒人の百姓そっくりの顔をして、暮してきた。<月の母>、あんたみたいに見える人もいたし、父さんのような人もいた。でも彼らは待っていた。同じ血をひく者たちはみんな、待っていたんだ。」>(前掲書 p.178)。自信家で、自意識過剰で、<自分の王国を支配し、それに異をとなえる者、否定しようとする者とはげしくぶつかりながら>(清水真砂子、『子どもの本のまなざし』 p.253)生きているジャックである。彼は、やがて年を重ねて、マイノリティを見せびらかすことなく、アメリンドであることをもっと穏やかに引き受けることになれば、深みを増していくのではないかと思われる。
Anna Mikkelsenは、Virginia Hamilton(1994)の中で、『偉大なるM.C.』の<偉大なる>M.C.(メイヨー・コーネリアス)と<天翔ける太陽>ジャック、M.C.のすぐ下の妹のメイシー・パールとアリラとを比較している。そして、『偉大なるM.C.』をパールの視線で書くと『わたしはアリラ』のような物語になるのではないか(註2) 、と述べている。アリラもパールも、並外れて優れた、あるいは目立つ兄を持っているため、自分の存在意義に不安を感じ、焦燥感を抱いている少女だ。だが彼女たちは、そのような兄を決して憎んでいるのではなく、逆に彼(ら)にはそのままずっと輝き続ける男性であってほしいと深部では願っている。ハミルトンは、少女の自我確立の問題において、まず、すぐれた兄という、まさに「太陽」の存在を明らかにした。そしてその上で、太陽に支配されていると感じてしまう自己との葛藤から抜け出す、という形での少女の成長も、ストーリーの一つとして織り込んだのである。
また、アリラは兄だけでなく、家族のそれぞれに対しても、やはり葛藤を感じている。藤森かよこは、アリラが、共同体の中で異なった存在である家族の一員である上に、その家族の中でも、二重に疎外されている自分に悩んでいることを指摘して、<ハミルトンの読者への大きなメッセージのひとつが、人種としての、民族としてのアイデンティティを喪失することのない、他を同化することもなく、他に同化されることもない、互いに植民地化することのない、異なった人々の連帯であることは確かなようだ>(『児童文学世界』90年秋号 p.137)と、述べている。
一方で、清水真砂子は、その批評の中で「物語」という言葉を巧妙に使う。清水の言う「物語」は、人が人として豊かに生きていくために、よりどころにできる個としてのものの考え方、から「〜はかくあるべきだ」という型にはめられた、非物語とも言える妄想まで、様々な意味を含むタームである。清水流に言えば、アリラを除くアダムズ家の人々は、それぞれに自分のアイデンティティをしっかりと打ち立てており、それぞれの物語を生きている。だが、それらは個別的な虚構であり、互いに奇妙にちぐはぐで、調和していない。現実派の母には、妥当な理由もなくクリフビルに引かれて行ってしまう父が「移り気」であるように見えるし、アメリンドの男の外見にこだわるジャックに、「遊びはやめなさい」と諭す。父は、クリフビルという土地が、なぜそんなにも自分を呼ぶのかを語ろうとしないし、兵役で朝鮮に赴いた体験は、家族のタブーにされている。ジャックは、誇り高い勇士よろしくジェレマイアという立派な馬を乗りこなし、魅力的なガールフレンドを連れているが、スケート場への出入りに関して母とぶつかる様子は、ごく普通のティーンエイジャーである。高校を出たら大きな町に行き、ひとかどの男になるという未来図も、必ずしもバラ色ではないようだ。
『わたしはアリラ』の家族は、個性的な人間の集まりであり、ひとりひとりが際立っていても、決して豊かな関係を取り結んでいるわけではなかった。その中で、年齢、個性、容姿など、あらゆる意味で家族の中で一番小さく見えるアリラが、「言葉の護り手」として、アメリンドという民族そのものの、またアダムズ家固有の歴史の「環」を語るという役割を引き受けることになっていく。その役割は、アリラの希望のようにも見えるし、宿命のようにも見える。
物語の終章で、アリラはクリフビルに行ってしまった父を、ジャックの代わりに迎えに行き、共にそりすべりをする。そしてその帰途、クリフビルに行くことが、父の精神の最も大切な部分を占めていることを理解したアリラは、自分にとっての「大切なこと」として、乗馬とローラースケートを家庭内で解放することを提案する。ジャックを助け、ジャックから自立した女の子として、アリラは自分の足で立ち始める。これらのことが、ごく自然に「成長」と結びついたとき、アリラは民族の思想の護り手であると同時に、家族の絆の求心核にもなり始めたと言えるだろう。
そりすべりとローラースケート
『わたしはアリラ』には、いくつかのスポーツが登場する。乗馬、そりすべり、ローラースケートなどである。ここで、アリラの現実の生活により密着している乗馬に対して、そりすべりとローラースケートが、どのような遊びの機能を持っているのかを考えたい。問題の所在を明らかにするために、カイヨワ(Caillois, R.)に拠って「遊び」を定義する。
……遊びは自由で任意の活動であり、喜びと楽しみとの源である、という定義に問題はない。参加するように強制されれば、遊びは遊びであることをやめてしまう。それは、そこから急いで解放されたい拘束、苦役になってしまう。義務として課され、あるいは単に勧められただけでも、遊びは、その根本的特徴の一つを失ってしまう。すなわち、遊ぶ人が、いつでも、遊びではなく、引退、沈黙、瞑想、閉居、創造的活動の方を選ぶ完全な自由を有しながら、しかも、自発的に、自分の意志で、そして自分の快楽のために、遊びに熱中するという事実である。……特に、遊ぶ人は、好きな時に、「もうやめた」と言って、立ち去る自由を持たなければならない。(カイヨワ、『遊びと人間』 P.7〜8)
第一に、乗馬について述べる。ジャックは、名馬ジェレマイアを分身のように大切にし、どこにでも馬で出掛けていく。7月4日の独立記念日、丘の広場で、ジャックは、母と自分に無礼な言葉を放った3人の白人の男たちに向かって、投げ縄で仕返しをした。そして、騒ぎに興奮してしまったジェレマイアをなだめながら、その場を立ち去るために、群衆に道をあけさせる。彼の「あとにさがれ」という言葉には、駆けつけた警官すらも従わずにいられない迫力があった。この出来事は、町中の人々に、ジャックとジェレマイアとを印象づけることになる。だが、アリラは、気位の高いジェレマイアをおそれているし、また、馬に乗って威風堂々としているジャックのことを、ますます自分を支配する太陽のように感じている。アリラは、馬が苦手だ。
ところが、そのアリラが12歳の誕生日プレゼントに、ジャックからもらったのは一頭の馬だった。馬は、きちんと継続的に世話をし、優しくしてやり、躾をしなければならない動物だ。アリラは、<走る月>と名付けたその馬を、毎日馴らし、乗りこなしていこうと、肉体的にも精神的にも努力する。乗馬はアリラにとって、ジャックの存在やアメリンドの血と、折り合いをつけて生きていくために、あえて取り組み、克服するべきものであった。つまり、12歳の時を過ごす今のアリラにとって、乗馬は、本来的な意味での遊びではない。<走る月>は、決して思いどおりになる馬ではなく、アリラは辛抱強さも求められている。また、乗馬を通してアリラは、ジャックとの関係における次の重要なステップにさしかかっていくことになる。乗馬において、ジャックはアリラに君臨し、そしてまた、二人で出かけた遠乗りの最中に落馬事故に遭った<太陽>ジャックは、アリラの目の前で落ちてしまうことになるのだ。
では、乗馬に対して、他の二つはどのような意味で、遊びだったのだろうか。
第二に、そりすべりについて考える。そりすべりのシーンは、まだ幼かったアリラの記憶以前におきた真実として、冒頭におかれている。凍てつく夜中に父さんのそりすべりの音を聞きつけ、5歳半のアリラは外にでる。父さんにねだり、何度も丘の斜面でのそりすべりを楽しむが、その崖っぷちには柵もない。「こちら」と「あちら」のギリギリの境目で止まらなくては、谷に飛び出して死んでしまう。事故は起きた。凍りついた斜面でそりはなかなか止まらず、崖を飛び出したところで投げ出され、アリラは大ケガをし、凍傷にかかってしまう。そして、その現場に馬に乗って駆けつけ、ロープでアリラと父さんを助けたのは、10歳になるかならないかのジャックだった。アリラは近代的な医者のところではなく、<仮面の>ジェームズのところに運ばれる。ジェームズは、昔からアメリンドに伝わるやり方で、アリラを癒した。
アリラの意識化以前に、クリフビルに住んでいた頃の家族と民族をめぐる歴史は、主に<仮面の>ジェームズと、<内気な女>の語りによるものである。<仮面の>ジェームズは、古きよき日のアメリンドの叡知を持つ人物であり、その妻の<内気な女>または<超特大>スザンヌは気分屋だが、愛情深く実際的な女性である。彼らは、民族の物語が一杯に詰まった袋を、記憶の中に持っている。そして、幼いアリラは、ジェームズらの言葉を聞いて、その袋の中身を知らず知らずのうちに手渡されていた。アリラが、彼らアメリンドと親しんでいた時代のエピソードは、12歳の日々を過ごすアリラの現実に、フラッシュバックのように挿入されていく。
無意識のうちにアリラのものの考え方の根底をなしていたのは、「環」の思想である。「いのち」は連なる環であり、その中で言葉が脈々と伝えられていくのだというアメリンドの考え方を、アリラは意識化以前に、クリフビルという土地と<仮面の>ジェームズから受け継いでいた。アリラは、<仮面の>ジェームスとの体験を自分の中で昇華し、作文という手段でものがたり、自分の言葉を紡ぐことを覚えてから、その意味を知るようになった。そして、父がクリフビルにひかれていく心持ちも、どこかで理解しはじめる。この「聞き、語る」というアリラの行いは、『わたしはアリラ』に見られるハミルトンの自伝的要素が、最も色濃い部分のひとつであると言える。 このような幼時体験の中で、そりすべりは最も印象的な遊びだ。迷子になってジェームズに保護されるという出来事もあるが、そりすべりには、「すべりたい」というアリラの能動的な意志があり、さらにそりすべりそのものが躍動的な活動である。そして、この場合、重要なことはもちろん、父さんがそりを止め切れずに、アリラもろとも「あちら側」に行きかけたことだろう。そりから投げ出されることで「環」のとぎれめを一瞬経験し、すんでのところで「生きる」側に戻ってきた、つまり、環をアリラに認識させる最初の役割を果たしたのが、幼いアリラと若かった父さんとのそりすべりという遊びだったと言えるのではないだろうか。
再び12歳の日々に戻って、誕生日をだいぶ過ぎた初冬のある日、ジェレマイアに乗ったジャックと<走る月>に乗ったアリラは、遠乗りに出掛ける。そのとき、その町には記録的な大寒波がやってきており、なにもかもが凍りついてしまう中で、ジャックは落馬して動かなくなってしまう。そのときアリラは、きちんと実際的な役割を果たして、二頭の馬をふもとまでひいて行き、ローラースケート場への何マイルもの坂道を歩いて、大人の助けを求めた。ジャックは大ケガをしたものの助かる。しかし、真っ白い包帯でベッドに縛りつけられている様子は痛々しい。事故を通して、アリラは、自分が<太陽を落とした>アリラだろうかと自問自答する。太陽は落ちてしまった。それまでの兄のヒーローとしての像は、もはや戻って来ない。そうすると、彼女はもはや<月の娘>でもなくなってしまうのだ。
そこで、アリラの次の役割は、クリフビルへ再び引きつけられて行ってしまった<太陽の石>父さんを、ジャックの代わりに連れ戻しに行くということである。このシーンは、12歳の少女が長距離バスを使って初めての長旅を経験する、ということで、ある種のイニシエーションのようにも見える。そして、クリフビルを初めて訪れた人のように「眺める」うちに、アリラは、自分の無意識下に収められていた過去の記憶、家族との記憶、ジェームズたちの語りを思い出していくのだ。
ホテルに着いたアリラは、父さんの泊まっている部屋にあるものを「何も見逃さ」なかった。そして、確信を持って丘に行き、再び父さんとそりすべりをする。かつて転落事故を起こした崖には、今や柵が取り付けられているが、そりすべりの爽快さは変わらない。そして、アリラは、父さんから、かつての幼かった自分が今と同じようにそりすべりをしていたことを聞く。
ここでの、二度目のそりすべりは、「環」を意識的に感じ、アリラの中に眠っていた民族の「記憶袋」を、ゆるやかに、しかし確実に揺り動かす作用を果たしている。そしてアリラは、「言葉の護り手」であることそのものも、「今」につながる環の一部として受け入れ、現実世界にフィードバックしていくのである。そりすべりは、アリラに、自分に連なる先祖たちと、民族の「環」とを認識させる機能を果たしている。そしてそれは、アメリンドの中のアリラ、「言葉の護り手」としてのアリラにとって、重要な意味を持つ遊びだった。
第三に、ローラースケートについて考える。物語の中盤で、国道の近くに建設されたローラースケート場では、高校生以下の深夜の利用が禁止されている。母さんは、風紀がよくないところから子どもたちを遠ざけておくべく、ジャックとアリラのスケート場出入りを禁じる。しかし、ジャックは、恋人のエンジェルと共に、アルバイトで稼いだ小遣いでスケートを楽しんでいた。そしてアリラも、彼らに便乗して、年長者になりすまして、深夜にこっそりローラースケート遊びをしている。後に、ジャックの落馬事故のときにアリラが駆け込んだのが、このスケート場だったことは、少々ユーモラスにも見える。
三人ででかけるとき、ジャックとエンジェルは恋人同士でもあり、まぶしいほどの存在感を持っている太陽と天使である。だから、アリラは必然的に一人で滑ることになるが、ペア・タイムのときには、「ろくろっ首」という通称を持つ高齢の男性と組んで滑る羽目になったりもする。
スケート場では、皆が一方向に滑る。他の人との距離感をある程度保ちつつ、ペアになったり、ときにはトリオになったり、また、ペアとは言いつつ微妙につかず離れずの間をあけたりしながら滑る。この光景は、シュタイナー教育のオイリュトミーを思い出させもするが、そこにあるのは、バランスと関係性、つまり現実社会のひとつのモデルである。一口に人間関係と言っても、様々な種類・深さを持っている。偶然ペアを踊ることになるろくろっ首、アリラの<太陽>ジャック、アリラが憧れる素敵なエンジェル、その他、たまたま、そのときに居合わせた人々が、一つのリンクの中で高揚した気持ちで滑っている。ぐるぐるまわる、というのはアメリンドの「環」を連想させもするが、それよりもむしろここでは、歴史や民族の血とは切り離された、アメリカにおける純粋な同時代性が見えかくれしているように思われる。そこには、アメリンドの血を引くものも、白人も、黒人もいる。老若男女が匿名性を持ちつつ、そのときのその場をつくり、ぶつかりそうになったり離れたりしながら、多くの場合顔を知ることもなく通り過ぎる。ときたま、奇妙な出会いをすることもある。
このようなローラースケートは、そりすべりが引き出したような、誇り高いアメリンドの「環」の思想とは対照的に、試行錯誤しながら生きのびていくべき世間とも言える、「現実」の方に密着している遊びなのではないだろうか。
また、スピードに対する警告の声を聞いたアリラは、未成年であることを咎められたと勘違いしてリンクから飛び出し、二階の窓からスケート靴をはいたまま飛び降りるという行動に出る。だがアリラは、泥だらけ傷だらけになった揚げ句に、面倒を引き起こしたことに呆れた年長の二人に全くかまってもらえないまま、帰宅する羽目になった。濡れて転んで痣までつくった様子は、気の毒だが一種の滑稽さもある。なにもかもが、やすやすとうまくいくわけではない。痛い思いやみじめな思いもしながら、これも大人への背伸び、そして本当の成長に向かう通過点である。深い「環」の思想の伝え手としての、若い「言葉の護り手」であるアリラは、しかし、その外側に生身の体を持つひとりの女の子でもある。このようなプラクティカルな部分でも、アリラは、物語を通して一つのステップを踏んだ、ということも言えるのではないだろうか。また、作品の最後に、アリラは、ローラースケートを母さんに認めてもらいたいという希望を父さんに伝え、そこからアダムズ家として、新しい家族関係が生まれていくだろうということが示唆させられる。一見、深夜の小冒険に過ぎないスケート遊びもまた、一人の女の子と家族の変容という一つの主題の中で、相応の意味を持っていたと考えられるのではないか。
まとめ
読者は、『わたしはアリラ』という物語を、アリラそのものを通して読む。アリラは主人公でもあり、語り手でもある。アリラの目は、読者と作品世界をつなぐレンズそのものだ。清水真砂子は、この作品が<アリラの自分さがしの物語であり、地図かきの作業の話だ>(前掲書 p.253)と述べている。ジャックが自分の存在を疎ましく思っている、とか、際立って個性的な家族の中にあって自分は何のとりえもない人間である、などとアリラは認識している。だが実際には、ジャックはアリラのことを、守るべき妹として愛しているし、アリラ自身は<仮面の>ジェームズが持つ、民族の物語が一杯に詰まった袋から、断続的に言葉を手渡されている。パラレルのようにも見えるそのズレは、物語が進むにつれて徐々に一致を見ていく。
そこに、「成長」が豊かに描かれていると考えられる。「自分」というちっぽけなselfを取り巻く絶対的だった世界は、徐々に相対化されていく。他の人との関係や過去とのつながりがクリアーになっていき、その「あいだ」にいる柔らかな自己としての自分を認識するのが成長の一つの大きな要素ではないだろうか。誕生日パーティーや遠乗り、クリフビルへの旅などのイベントは、それを経験するのがアリラだからこそ、大きな意味を持つのである。小さな自我が自己主張する子ども時代を抜けて、アリラは、ジャックの言うところの「ほまれ」を積んでいく。
ここに、ハミルトンの力量がまさに顕現されている。著者であるハミルトンは、語りという手段を用いて、物語を支配しようとはせずに、ふみとどまって、アリラにすべてをゆだねている。もし、この作品に多少の難解さがあるとすれば、物語を見渡し、説明してくれる語り手が退いて、一人の少女であるアリラの自分探しが前面に押し出されていることだろう。だが、あえて語りのスタイルを選ばなかったことで、『わたしはアリラ』は一層の深みに到達できる作品になり得た。
この物語の中にあって、そりすべりもローラースケートも、表面的には普通の遊びに見える。だが、ハミルトンは、それらの遊びを、アリラその人に体験させている。それによって、これらのスピード感あふれる遊びの体験は、プロットの表層にとどまらず、主人公アリラにとってこそ意味のあるものであることを、一層明らかにすることができた。そして、アリラにつながっていく歴史の「環」の思想を、具象的に垣間見せると同時に、アリラという少女の内界をも深化させるという、二重の機能をも果たすことができたと言えるのではないだろうか。
註
(1)島 式子 「こだまする響き-V.ハミルトンの最近作を中心に」、『研究紀要』14(聖母女学院短期大学、1985年2月28日)、p.131−137.
(2)Mikkelsen, Nina. Virginia Hamilton (Twayne Publishers, 1994) p.43
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