「絵本読みのつれづれ」は、ひこ・田中さんが発行されているメルマガ「児童文学評論」に不定期連載させていただいている、子どもとの絵本読みのエッセイ&記録です。
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「絵本読みのつれづれ」(01) 児童文学評論 85号(2005.1)
鈴木宏枝と申します。本館の「児童文学評論」で時々子どもの本、小説、研究書などのレビューを書かせていただいています。今回から、別室をお借りして、絵本読みのことを少しずつ考えてみたいと思い立ち、不定期連載の形で、店子に入れていただきました。ひこ・田中さんに感謝申し上げます。
絵本は、私にとっては長年、高嶺の花でした。自分には語れないし、語る視点もなかなかもてないと感じていました。10代では(コテコテですが)「MOE」(白泉社)を愛読し、青山のクレヨンハウスや童話屋の空間が好きでした(今でも好きです)。そこで、名作といわれる絵本を読む機会や注目の画集や作品の情報を得て、それから現物を買ったり借りたり、あるいは展覧会に出かけたりしながら、自分なりに絵本を楽しんできました。…といっても、あくまで趣味の領域です。
その後、大学院に入って、絵本と同様に読み続けていた児童文学を専攻し、今は、研究者のヒヨコになって、日本や海外(主に英語圏)の児童文学研究を続けています。この間、絵本は特に児童文化や芸術や保育教材、あるいは出版文化の中で論じられることが多い印象を受け、ことばの「文学」「文芸」である子どもの文学の研究からアプローチするのはどうも難しいように感じて手を伸ばしてきませんでした。
同じように「子ども」がキーワードになっていても、文学を読むように絵本を読むことは、通用する場合もあるし、しない場合もあります。宮川健郎さんは、『日ようびのおとうさんへ 本をとおして子どもとつきあう』(宮川健郎、日本標準、2004.11)の中で、大学での児童文学の講義で、「視覚文化としての可能性を追求してきた結果、ことばの芸術としての児童文学とはちがうところに行ってしまった絵本の鑑賞の方法は、児童文学のそれとは別のものではなければならないだろう」から絵本は考察からはずすと学生に話したけれど、納得してもらえなかった、というエピソードを書かれています。
私自身、美術的に絵を読むという意味ではド素人なので、読み終わったあとの「よかったなあ」を「よかったなあ、素敵だったなあ」以上に言語化することが難しく(それこそ、何か言うと、その「よかった」を損ねてしまうような気さえして)、やはり絵本は趣味やfor
funのものでした。
「絵本はスゴイんだ」という前提を抱えつつ、周辺をうろうろしてきたのですが、やがて2002年6月に娘が生まれてから(生まれることが分かってから)、堂々といろいろあさってみようと、絵本読みが楽しみになりました。単純に親として夢もふくらみますし、なんにせよ相方がいるというのは心強いものです。産まれてしばらく経って、先日、彼女との絵本読み経験を季刊誌「子ども+(プラス)」17号(雲母書房、2004.4)に書かせていただく貴重な機会を得ました。そして、この時間・空間の記憶を私の中にだけとどめ、やがて主観的な思い出に変形させてしまうのではなく、そのときどきのリアルをとどめておきたい欲求が芽生えてきました。ひとつのフィールドワークのようなものとして、書き留めておこうと思います。
絵本読みという点では、もうひとつ、「子どもの反応は〜だった」「子どもが〜だった」という言い回しに、違和感を覚えることがありました。一対複数の読み聞かせや、お話会などの場での反応についてのコメントであることが多いのですが、「子ども」というのは「人間」と同じだから、ひとりひとりバックグラウンドも反応の仕方も違うはずなのに、分かりやすい反応や結果がすくいあげられがちなことに、物足りなさを覚えます。あるいは、言語化された聞き手の言葉が本当に言葉どおりのものなのか、と疑問に思うことも。それも、きっとたしかに、絵本との時間のある部分の真実なのでしょうが、読み手の顔も聞き手の顔も、彼らの普段の姿や性格を知らない者にとっては、どうも画一的に見えてしまうような印象です。
それで、もうちょっと違うリアルはないかしら? と考えると、さあ読むぞと絵本に向き合う、特殊な時間として切り離される絵本の時間ではなく、一日に起きている時間が12時間くらいの生活の一部として、脈絡なく絵本に手を伸ばし、「これよもっか」(=これ読んで)と当たり前に持ってきたり、時にはままごとのお盆にしたり、ぬいぐるみのごとくごつごつした本を抱いて昼寝したりしている、私が一番よく知っている受け手のことがやはり思い浮かんでしまいます。彼女を、少しだけ自分の興味をまじえて見てみようと思いました。マスではなくごく個人的な、彼女と私(あるいは彼女の父親や他の親しい大人)との間だけに芽生えるsomethingはあるかしら。絵本を通すことで立体化する彼女の子ども時代を、彼女の年齢分だけの素人絵本読みとしてともに体験し、同時に一児童文学研究者として客観的な視点も添えるようなコラムを考えています。
…と大風呂敷を広げてしまいましたが、どちらかというと気楽な気持ちではじめたいと思います。娘のことは、自分のサイトでと同じくTさんと呼びます。どうぞ、よろしくおつきあいいただければ幸いです。
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(1) バムとケロ シリーズ
バムとケロ、という名前を知ったのはTさんが生まれる前だが比較的最近である。たぶん21世紀に入ってから。大変な人気ということも、いろいろなご家庭で楽しまれているということも聞いていたのだが、一人で初めて本屋で見かけたときには、想像とは違うポップなトーンや「キャラクター」という感じに、正直、ちょっとがっかりした。なにしろ私はけっこう保守的でまじめなので。
でも、「子どもが産まれたら読もう」というやや他力本願な絵本読みの計画の中に、この本もしっかり入っていたので、Tさんが1歳過ぎから月に1冊ずつ『バムとケロのにちようび』(島田ゆか、文渓堂、1994.9)『バムとケロのそらのたび』(島田ゆか、文渓堂、1995.10)『バムとケロのさむいあさ』(島田ゆか、文渓堂、1996.12)と買っていった。『バムとケロのおかいもの』(島田ゆか、文渓堂、1999.2)は持っていないのだが、2004年8月に八ヶ岳の絵本の樹美術館に行ったときに図書室にあったものを読んでいる。
だいたい、初めての絵本を読むとき、Tさんは先を急がせることが多い。何度も繰り返して読むうちに、じっくり絵や文を見るようになるが、ファースト・コンタクトのときは、ちらちらと次のページを見たり、早くめくりたいそぶりを見せたりする。そのときは、あまり興味がないようにすら思えるのだが、壁の本棚に並べておくと、思い出したように次の日も持ってくる、さらにまた思い出したように次の日も持ってくる、という調子で、だんだん気に入っていっていくようである。実際、1歳のTさんの日常は、たかが狭い家の中だけでも「知らないもの」への好奇心と「知っているもの」へのシンパシーの混在だから、「これは見たことがある!」といううれしい驚きを、『バムとケロのにちようび』の表紙に感じたようだ。
1歳だったTさんは、バムケロに限らず、表紙や裏表紙の見返しに注目することが多かった(全部の絵本ではないけれど、私が多分にすっとばしてさっさと本文にいこうとするのに比べると、かなりの敬意を払っていた)。実際、『バムとケロのにちようび』では、まず喜んだのは1ページ目でケロちゃんが傘をさしながら庭で滑って遊んでいる場面だったが、その次くらいに好きだったのは見返しで、はしゃぐケロちゃんがバムに追いかけられているところである。「まてまてまて」と言い、バンバン本をたたいていた。
今、Tさんがバムケロを読むときも、シンパシーを示すのはケロちゃんである。2歳のクリスマスにサンタに傘をもらったTさんにとって、ケロちゃんの傘はもはや手の届かない憧れではなく、雨や雪の中、傘をさして歩く楽しさもリアルに経験している。もう一年もすれば、ケロちゃんの行為は、「ちっちゃいこみたいだねー」となっていくのかもしれない。
この前、3冊並べておいたら、Tさんが「これよもうか」と持ってきたのは『バムとケロのさむいあさ』だった。『バムとケロのにちようび』の、1歳児の頃の圧倒的な食いつきのよさに比べると、どっちかというと地味な扱いを受けていた本だ。だけど、ここで、Tさんは、11ページ目のお風呂の場面に、今までにないくらい喜んだ。夏の間はほとんどシャワーで済ませていたお風呂は、冬になってから、湯船にじっくりつかり、おもちゃを出して遊ぶ場になった。洗い場から湯船に入るときの、彼女にとって楽しい「ぼっちゃーん」をバムもケロちゃんもカイちゃんもここで再現している。「ざばーん」と合いの手を入れ、「シャワーがないねえ」と湯船を犬型のお風呂を観察し(次のページになるとちゃんと出てくる)、「こーりゃ どーこの じーぞうさん? うーみのはーたのじーぞうさん うーみに つーけて どぼーん!」(『あかちゃんとお母さんのあそびうたえほん』小林衛己子/大貫妙子、のら書店、1998.4)のわらべ歌を、3匹に一通り歌って聞かせていた。
それから、25ページ目の、絵本のクライマックスともいえる楽しいトイレットペーパー・ミイラの場面では、トイレやトイレットペーパーを知るようになった今だからこそ、そのおもしろさが分かったようだ。最近は、2歳半から3歳くらいまでの間でのトイレ・トレーニングが趨勢のようで、Tさんもその流れに乗っかっている。トイレットペーパーでこんなに遊んでしまう禁忌違反のおもしろさは、トイレの認識ができなければわからなかったな、と思う。かつては軽くスルーしていたこの場面をTさんはうれしく眺め、「Tちゃんもやりましょうか、ぐるぐるまきまき」、まんまる目玉しか出ていないトイレットペーパーのかたまりを見て「ぬいぐるみもなにも、こーんなぐちゃぐちゃになっちゃった」「ぱそこんもそふぁもー」と喜んでいた。
絵本は絵本だけであるのではなく、わらべ歌や、お風呂やトイレのある日々の生活とのつながりの中で、よりそのおもしろさを増す。このくらいの時期から楽しみはじめるという<見立て遊び>が、絵本の中で繰り広げられているように、私には見えた。
何度も接するうちに愛情が芽生えるというのはたしかにあるようで、私も、今ではバムケロをおもしろく読んでいる。ストーリーはどうも散漫だから、はっきりした起承転結というよりは、バムとケロのそれこそオチのあまりない楽しい日常をin
detailで描くところに魅力があるのだろう。Tさんがケロちゃんに圧倒的シンパシーを感じているのと同じように、私は後片付けや食事やお風呂の面倒に追われるバムに共感してしまう。そもそも、この2匹、なぜ一緒に住んでいるのかしら? ともあれ、バムとケロの家は、おふろといい椅子といい、屋根裏部屋の書庫(虫やねずみはいやだけど)や庭など、憧れに満ちている。こんなんあったら楽しいな、が満載のインテリアだ。バムの小さな分身のようにいつでもバムのすぐそばでバムと同じことをしたり、あるいはバムのかなえられざる願いをさらりとやったりしているように見える小さな犬のぬいぐるみが、私は好きである。
鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ Tさん(2歳7ヶ月)
「絵本読みのつれづれ」(02) 児童文学評論 86号(2005.2)
(2) センスとナンセンス
前回の続きのバムケロなのだが、島田ゆかさんはパッケージデザイナーを経て絵本作家になられたため、この絵本は、ストーリーよりも、ずっと眺め続けて色々なものを何度でも発見することのできる<絵>のおもしろさが魅力である、という話を聞いた。なるほど。
そこで、『バムとケロのさむいあさ』(島田ゆか、文溪堂、1996.12)でTさんがすごい勢いで反応していたトイレットペーパー・ミイラのページをもう1回、私もよくよく見てみたところ、それまでは、めちゃめちゃな散らかり具合の楽しさにばかり目がいっていた場面の中に『みんなでミイラ』という本が転がっていたことに突然気づいた。私は普段は文担当なので、あまり絵を読んでいなかった。
そうか、ケロちゃんって、リテラルないたずらっ子だったんだ。ケロちゃんは、トム・ソーヤー的個性の持ち主だったんだ。
以前、The Literary Heritage of ChildhoodThe Literary
Heritage of Childhood: An Appraisal of Children's
Classics in the Western Tradition(Charles Frey & John Griffith, Greenpress,
1987)という研究書で読んだ論考の中で、トム・ソーヤーのいたずらや遊びの数々が、実は聖書やロビン・フッドや「本で読んだ」山賊ごっこなど、書物に基づいていることが指摘されていた。この延長に、レスリー・フィードラーの命名した「グッド・バッド・ボーイ」のイメージを引いて、トムを「「軟弱な」男にならないよう悪童ぶりを発揮し、しかも「文明化」された男らしさを身につけており、将来は、社会で出世の階段を昇るだろうと予測」(吉田純子『少年たちのアメリカ―思春期文学の帝国と<男>』、阿吽社、2004.2)できる少年として捉える見方も生まれる。自由な悪童に見えるトム・ソーヤーは、実は規範の中にいる「良い悪童」なのである。
ケロちゃんも、実はこの系譜?
秀逸なトイレットペーパー・ミイラ遊びがオリジナルではなかったことに、ちょっぴり「なーんだ」、ちょっぴり安堵、という相反する思いが、本を見たときに、一瞬のうちに私の心にわいた。
しかしながら、オリジナルなんて本当にあるのか?と思えるのも事実。Tさんを見ている限り、低月齢時代のおっぱいや抱っこ以外のすべては、すべて模倣の連続だった。そして、今や、一番プリミティブに思える<食>や抱っこすら、生存のための本能と同じくらい(少なくとも、今の暮らしの中では)文化の一領域に織り込まれている――精神的なコミュニケーションや、食卓という文化の共有として。
彼女の生活のあらゆる面は、遊びも生活も、模倣とつなぎあわせの複雑化によって進化している。
例えば、公園に行くまでに郵便やさんの配達を見れば、それをじっと観察して、今までこぐしかしなかった三輪車に乗るときに、ストッパーをかけてかちゃかちゃとめて郵便物を配達する真似をする。――これは「すぐ」の模倣だ。
あるいは、時間がたってからの模倣もある。砂場で、プリンカップをつまさきにはめて「ガシーン、ガシーン」と歩いていたり、家の中でカンカラや小さな箱に足をいれて「ロボット、ガローンよ」と言っているのだが、これは、1歳の頃に好きだった012シリーズの『ロボットボット』(文:こかぜさち・絵:わきさかかつじ、福音館書店、2003.10)の記憶だろう。さらにいえば、その記憶が呼び覚まされたのは、つい最近いただいた『ぼくのロボット恐竜探検』(松岡達英、福音館書店、1994.10)がスイッチになったからだろう。
『ぼくのロボット恐竜探検』は、高崎で子どもと読書の活動に関わっている大学院時代の友人が、展覧会で作家の方をお見かけして、Tさんのためにサインを頂いてくれたという嬉しい1冊なのだが、今まで手を出してこなかったジャンルのこの絵本を、(主に反応するのはカブトムシやチョウやハエやカニなどなど、恐竜の周辺の小動物なのだが)「かいじゅうの本、よもうか」と持ってくるようになった。
「かいじゅう」も「きょうりゅう」もよく知らないはずなのにとよくよく聞いてみると、恐竜の記憶は、数ヶ月前に初めて出かけたディズニーランドのリバーランド鉄道の終点付近にある、恐竜時代のパノラマと重なっているらしい。ちょっと怖かった、でもきしゃぽっぽにみんなで乗った経験そのものは楽しかった、というミックスの経験と、それまでの明るさと打って変わったほの暗い恐竜時代の図は、たしかに印象的であったことだろう。
とにかく、「きょうりゅう」と『ぼくのロボット恐竜探検』とディズニーランド、それからロボットと『ロボットボット』と砂場のプリンカップ。いろんな記憶が、センス(秩序)の中で組み合わされて、一見ナンセンス(突拍子もない)な言動や遊びが生まれている。しかし、彼女の中では、とてもロジカルに展開している。生活の中で、すべてが、今まで見たもの、読んだもの、聞いたものの引用と組み合わせで成り立っているのだ。
だから、「オリジナリティあふれる」ではなくとも、きわめてロジカルに、かいちゃんのトイレをのぞいてトイレットペーパーを見て、以前に読んだ『みんなでミイラ』を思い出し、その遊びの実践によってかいちゃんとエンジョイしようというケロちゃんの一連の心情が、私にはきわめてリアルに見えた。
インパクトのある『みんなでミイラ』、どんな本なのだろう。気になる!
トイレットペーパー・ミイラは、ナンセンスな遊びではなく、きわめてセンスある文学的な遊びだった。ナンセンスは幼児的、幼児が好むと思われがちだが、今のところ、Tさんはナンセンスよりセンスある物語を好んでいるようだ。
例えば、『キャベツくん』(長新太、文研出版、1980.9)や『海は広いね、おじいちゃん』(五味太郎、絵本館、1979.3)は、ナンセンスといっていいと思うけれど、Tさんは神妙な顔をして、笑いもせずに読み聞かせを聞いている。
『海は広いね、おじいちゃん』では、おじいちゃんが宇宙人についての難しい本を読んでいるすぐそばで、孫の男の子が変幻自在の宇宙人とエンジョイしているというナンセンスが展開される。このドリフっぽいおもしろさと、宇宙人のクッキーを食べてちょっと考え方が変わったおじいちゃんの思いは、とても説明できないし、説明するものでもない。ただ、五味太郎さんの絵は私も大好きなので、単純に絵を見ているだけでも楽しい。Tさん、あと何年もしてから、言葉どおりの「海は広いね」の向こうにデュアルに重なるナンセンスに気づくのだろうか。ナンセンスは、センスが構築されてこそなのだろう。今は、大好きな「ピンク」の「ぞうさん」や「こんにちは」が楽しいだけでいい。
Tさんにとってのナンセンスというかギャグというかジョークのようなものといえば、例えば、様々な動物の絵が描いてある幼稚園の私道で、それぞれの動物についてわざと違う名前を言う、というものだ。以前は「ウサギ」「ライオン」「クジラ」「アシカ」など、動物と名前の<一致>を楽しんでいたが、今は、それをわざと冗談にして、クジラを踏みながら「アシカ、あ、まちがえちゃったぁ、クジラじゃないのぉ」と頭をかく、という一連の動作をすべての動物で繰り返す。<不一致>が彼女にとってギャグの第一歩というべきか。センスからはずれたところにあるナンセンスのおもしろさは、Tさんにとって、今はこういうところにあるらしい。「コンビニきのこ」とか「アンパンマンおなべ」とか異種のものをふたつ組み合わせて<変な言葉>をつくる遊びも好きである。
キャベツくんを食べると、ゾウもゴリラも不思議なキャベツ動物になってしまって、ブタヤマさんが「ブキャ」と驚く『キャベツくん』などは、一見ナンセンスな話だが、Tさんには、むしろ、とても論理立った世界に見えているのではないだろうか。
鈴木宏枝(http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/) Tさん(2歳8ヵ月)
「絵本読みのつれづれ」(03) 児童文学評論 87号(2005.3)
(3) うちに家族が増えました
うちに赤ちゃんが産まれることになり、Tさんは昨年の夏ごろから、私と一緒にせっせと産院での定期健診に通っていた。妊娠7ヶ月までは月に1回、8ヶ月〜9ヶ月は隔週、臨月は毎週である。徒歩と電車で1時間近くかかる道のりは、イベント的なお出かけですらあった。
新生児との添い寝もOK、和室分娩もあり、立会いは産婦さえよければanybody
welcome的なフレンドリーな産院だったので、子連れで通院する妊婦さんも多く、狭いながらもプレイルームがあって、入院中のママのお見舞いに来た子がパパとビデオを見ていたり、もちろんママと一緒に外来に来た子たちがなんとなく一緒に遊んでいたりする。
Tさんは、私と一緒に「あかちゃんのびょういん」に行くことで、胎児の心音を聞いたり血圧計のスイッチを押させてもらったりするだけでなく、このプレイルームでビデオや絵本を見たり、帰りにデニッシュを奢ってもらったりするのも、とても楽しみにしていた。
プレイルームでずいぶんはまっていたのは「パオちゃんシリーズ」である。2歳前後のときに、地元の図書館で『パオちゃんのすべりだい』(仲川道子、PHP研究所、1986.6)を読んだことをきっかけに好きになった絵本だ。児童室では、背の小さい子どもたち用に足元におかれた開架の本棚で、最初は特にひかれてではなく、手当たりしだい取った中にあったと記憶している。
主役であるゾウのパオちゃんにはワニちゃん、ペンギンちゃんなどの仲間がいて、一緒に公園で遊んだり、クリスマスパーティをしたり、お買い物に行ったりする。
わりに単純な動物の絵や、特にひねりのない日常の話に、正直、はじめて見たときに、私はそれほどいいと思えなかった。
だが、当時、図書室でTさんはすぐにパオちゃんに食いつき、行けばしばしば手に取った。実際、図書室に来て「パオちゃんだ〜」と喜ぶ女の子を見たこともあるし、トーマスやノンタンと一緒に並んでいるのだから、やはり幼児読者に圧倒的な人気のシリーズなのだろう。ちなみに、『パオちゃんのすべりだい』では、みんなで公園に来て順番にすべりだいで遊ぶうち、パオちゃんの大きなおしりがひっかかってしまう。みんなで押したり引いたり助けるのだが、ペンギンちゃんがひっぱったはずみでパオちゃんのズボンが脱げてしまい、さらにふっとんで池にはまってしまう。みんなでズボンを乾かすためにわっせわっせと土手に行ったら、そこは大きなすべりだいのようで、パオちゃんもおしりを気にせず、みんなでとても楽しく草の上をすべりました、という、普通で楽しいお話である。
産院には『パオちゃんのクリスマス』(1984.11)『パオちゃんのみんなでおつかい』(1985.12)『パオちゃんのかぜひいちゃった』(1988.10)『パオちゃんのたのしいキャンプ』(1993.7)などシリーズの他作品がたくさんあったのだが、Tさんは、最初、パオちゃんというキャラクターではなく、『パオちゃんのすべりだい』を見つけて、本じたいに「おんなじ!」と喜び、別の話にも手を伸ばしていくことになった。お気に入りはやはり、みんな大好きクリスマスの話で、パオちゃんたちが外で雪だるまを作る場面では「ごろごろ ごろごろ ゆきだるまん」とリトミックで教わった歌を歌い(「ゆきだるま」ではなく「ゆきだるマン」。ついでながら、冬の間、天気予報に出る雪マークは、「ゆきのまーくん」だった)、ケーキを作る場面で「おいしそうねえ、ケーキね、おかあさんとつくるのね」と見開きのページに見入っていた。
このシリーズは、実は、その産院で出産された編集者の方がご寄贈されたもので、その方の手書きのメッセージが絵本の裏見返しにつづられていた。お子さんがいて、こういう絵本を作るお仕事ができるのは幸せなことだなあと、丁寧な筆致を見て私もなんだかあたたかい気持ちになる。Tさんも含め、妊婦ママと一緒に来た子どもたちが競うようにパオちゃんを読んで、読んだ本を順番に積み重ねているのを見たときには、児童文学関連分野そのものが評価されているようなうれしささえ感じた。
たぶん、次にどこかの待合室やお友達の家に行ったときにこの絵本があれば、私はきっとTさんに「ほら、パオちゃんあるよ」と手渡すだろう。お気に入りというのは、最初のとっかかりの後は、親の側の、子を喜ばせたい気持ちと相乗して生まれていくのかもしれない。そして、ますます何度もパオちゃんに触れるTさんは、次の場でも、たくさんの本の中からパオちゃんに反応する。それを見て「やっぱりパオちゃんが好きなのね」と私は納得する。いろんな家庭で、いろんな絵本を素材に、その循環がある。タイミングを見て、次の新しい絵本を示すことも大事。そして、絵本の中にお気に入りのお友達が確かにいてくれるTさんの幸せもまた、大切にしたいと思う。
さて、無事に月が満ちれば赤ちゃんが産まれる。児童文学評論の1月号での『うちにあかちゃんがうまれるの』(いとうえみこ・文、伊藤泰寛・写真、ポプラ社、2004.12)』のひこさんによる紹介を見て、私もTさんと読んでみようと思った。
写真絵本というつくりにも、ちょっと惹かれる。いろいろなチャレンジが可能な絵本というメディアでは、絵が美しい絵本もさることながら、写真が力強いそれにも感動することが多い。あまりにマニアックになってしまうと、その芸術性がわからなくて結局本棚のこやしになってしまうのだが、この本なら、もうすぐ出産する私にもリアルに迫ってきそうだと予感した。
ただ、だいたい幼児の時間感覚ではそれほど先のことを考えられないから、いざ図書館から借りてきたのは、臨月も半ばを過ぎてからだった(大きなお腹で出かけるのが大変だった、というのもある)。
写真家のお父さんと、自然育児友の会の事務長をされているお母さんの間に、4番目の赤ちゃんが生まれることになる。お兄ちゃん2人は中学1年生と小学4年生で、語りの視点は、3番目で小学1年生の女の子、まなかちゃんにある。お母さんのお腹がだんだん大きくなっていくのを見るにつけ、まなかちゃんは赤ちゃんが来るのが楽しみで仕方ない。 やがて、その日がやってきて、お母さんは自宅のお風呂で出産し、助産師さんが介助する。力強い心音、見つめる目。家族みんなで赤ちゃんの誕生を見守り、迎え入れる。生まれたての赤ちゃんの写真は、大きく見えるけれども、本当はもっとちいさくてほにゃほにゃで、そして軽くて重たいのだ。安心しきった顔をした「そらと」くんの寝顔や百面相に、まるごと受け入れられているという本能的な信頼感と、生まれたときからいっちょまえに自然に家族の一員になっている感じが伝わってくる。そして、出産を見つめ、赤ちゃんを細くて筋肉質の腕で抱く少年がしみじみいいなあと、長兄のちひろくんを見て思った。
お産が身近でないと、ちょっと引いてしまう部分もある絵本かもしれないが、読者の状況とテクストのリアルさの一致という点で、その時期にこの絵本をTさんと読めたのは嬉しかった。といっても、Tさんはそのときは赤ちゃんよりもむしろ「大きなお腹」や「助産師さん」に反応していたし、お風呂も、出産の場というよりは、普通に普段入っているお風呂と認識しているように見受けられたけれど(当たり前か、出産じたいの認識があいまい。それにしても、Tさんは妊娠と出産と赤ちゃんの存在じたいとをどう把握していたのだろう)。
何度か読むと、本当に気に入った絵本は自分で読むようになる。『うちにあかちゃんがうまれるの』では、こんな感じだった。多分に直前に読んでいた別の動物絵本とまじりあっているけれど、一応全部ページを繰って、赤ちゃんが産まれる話をつないでいったのだから、かなり興味のある絵本だったのだろう(と思う)。
うちにあかちゃんがうまれるの
まなか 6さい
うちにあかちゃんがうまれてくることになり
かみやさん おかあさん
あかちゃんのしんぞう ききました とくとく
げんきげんきって いってるよ
おかあさんが おなかのあかちゃん うまれるのかな
もうすぐうまれます
おねえちゃん だいすきだいすきって いってるね
くだものみたいね
おなかのあかちゃん みてみました
まだです
がおー ライオンがきました
うわーい うわーい やぎがやってきました
あ、あかちゃんが うまれる
かちゃくんの あかちゃんが うまれました
あかちゃん ます
へっへっへ
あんしんした おとうさんが やってきました
おとうさんと Tと おふろにはいりました
おかあさん じょさんしさんが あかちゃんみせるの
ゆずがはいってるね
あかちゃん おとうとは ……してました
あかちゃんは うまれたばかりです
おとうさんとそうっとおててをもつの
げんきです げんきです
わーい
したから うわー ふわー ふわー
りすさんがやってきました
ぐーぐーぐー
きりんがやってきました
うわーい うわーいと
やぎがやってきました
うるうるうる
ライオンがやってきました
うわーい うわーい
とらが きました
なんかトイレしたいきもちになってきました
うー うー
せんせいがやってきました
おかあさんが やってきて
くるっ くるっ くるっ
くんくんくん たぬきもやってきました
うっうっうっ
このひとがやってきました
ふーふー ぶんぶん
おつきさまがやってきました
ふーふ ふーふ こんこんこんこん(手で本をたたく)
いたーい
おはなしのりすさんが
ちゅー ちゅー
あかちゃんがやってきました
それじゃ バイバイ おしまい
かぞくのひとがやってきました
で バイバイです
おしまいって いっちゃったの
「おねえちゃん だいすき だいすき」というくだりは、私が胎動を感じるたびに、Tさんに「赤ちゃんがTちゃんだいすき、おねえちゃんだいすきっていってるよ」と言っていたゆえの言葉だろう。
ところで、実は、この絵本を読んでいた頃、Tさんが一番気に入ったのは、後書き「かぞくでむかえるあかちゃんのたんじょう」の中にある子ども4人の足の裏を写した写真だった。お兄ちゃん2人の足は「おおきいあし」赤ちゃんの足は「ちいさいあし」、そして、まなかちゃんの足を「ちゅうくらいのあし」と教えたら、一瞬でその言い回しが気に入ったようで、「おおきい、ちいさい、ちゅうくらい」と言ってはけらけら笑うようになった。
テーマに添った絵本読みを中心に考えてしまいがちだけど、Tさんにとってこの絵本の一番の魅力が「ちゅうくらいの足」なら、それはそれで楽しいな、と思う。
さて、我が家の方の赤ちゃんは、予定日を9日遅れて2月16日に生まれた。スピード出産だったこともあって、立会いはパートナーだけだったが、分娩室から抱っこして出てきたら、Tさんも私の親と一緒に待っていてくれて、わりと生まれてすぐに「こんにちは」できた。以来、「あかちゃん、かわいいねえ」「Tくん、かわいいねえ」を連発している。 Tさんにとって、私の妊娠はたぶんある種のストレスだったと思うが、それは父親である私のパートナーにぶつけられ、むしろ、私はいたわってもらえた(と信じている)。パートナーには玄関から車庫まですら抱っこをねだるけれど、私と一緒のときはもくもくと駅まで歩き、電車に乗って出かける。「あかちゃん生まれたら抱っこね」と何度も確認されたが、たしかに、この間、久しぶりに、ほとんど眠りかけながら歩いていたTさんを抱っこしたら、急に目がパッチリ開いて「あかちゃん、うまれたの?」とうれしくしがみついてきたっけ。
ありがたいことに、弟に嫉妬したり意地悪したりすることはなく、ずいぶんかいがいしい姉貴をしてくれている。だが、パートナーへの甘えんぼは継続中で、私とのトイレトレーニングは後退した。いろいろバランスがあるのだろう。
このコラムでは、Tさんの弟は、Tくんとしたい。特別な胎教もしなければ、生まれてからもあまりに自然に日常に戻ってしまい、Tさんのときのような非日常的な育児中心生活ではないのだが、その実、Tさんのとき以上に、Tくんは絵本読みや歌の数々に触れていると思う。彼は、これからどんな風にTさんの影響を受け、あるいは自分独自の好みで、いろいろな「楽しい」を見つけていくのだろう。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ Tさん2才9ヵ月 Tくん1ヶ月)
「絵本の読みのつれづれ」back number http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm )
「絵本読みのつれづれ」(04) 児童文学評論 87号(2005.4)
(4) まるい話
3月31日に、神戸女学院大学で行われたIRSCL日本支部研究発表交流会に参加し、会の全体テーマである<Representations
of Otherness in Children's Literature, Other
Genres in Children's Culture>にあわせて、カニグズバーグの作品――特にThe Outcasts of 19 Schuyler Place(2004)の意味――について発表してきた。
この会は、2007年8月に京都で行われる第18回IRSCL大会のプレに位置づけられ、IRSCLの理事メンバーが各国から集まって行うミーティングに合わせて開催されたものである。IRSCLの会長でもいらっしゃるキンバリー・レイノルズ博士をはじめ、世界トップの研究者の方々の発表を日本で間近に聞くことができ、国際学会デビューだった私には、刺激だらけの一日だった。
今回は、日本で行う意義もあり、児童文学だけでなく、日本アニメーション学会の陶山恵さんが「Current
State and Future Prospects of Japanese Animation」、日本マンガ学会の吉村和真さんが「Connections
and Divisions between "Manga" and
"Children"」という発表をされた。好きで読んだり見たりはしていても、研究的なことは断片的にしか知らなかったマンガやアニメの話を興味深くうかがう。
吉村さんは、導入部分で、マンガの文法の身体化ということをお話されていた。マンガのコマを読む順番やそこに描かれているコードのリテラシーを、日本の子どもたちは幼い頃から身につけてしまう。たしかに、アメリカで翻訳出版されている日本のマンガには、コマの読み方順に番号が振ってある…というトピックをつい先日テレビで見たばかりだった(つまり、読み方を教えてもらわないといけない)。
学会の後、そのように身体化されてしまうマンガ読みのはじまりは、たぶんキャラクターの力では?という私見をローカルトークで聞いていただいたのだが、イエス。そして、そこで出てきたのは、やはりアンパンマンだった。
Tさんは、アンパンマンが大好きである。もちろん、子どもによって、どのキャラクターに傾倒するかは違うけれど、Tさんはアンパンマンだった。1歳児の頃から好きだった。たまたま最初に見たのは、プレイジムについていた大きな顔だったと記憶しているが、びっくりするほどの食いつきのよさで、1歳半検診のときにも「いえる言葉」欄に、「バイバイ」「ワンワン」などと並んで「アンパンマン」も書いたように思う。――もっとも、アンパンマンというのは、言葉としてとても言いやすいから、発語しはじめの幼児が反復してしゃべるうちに、実際に好きになってしまったり、親が「この子はアンパンマンに興味がある」といろいろ買ってきたりするということもあるだろう(うちの場合は、私の親だったが)。
吉村さんは、アンパンマンの顔のことをおっしゃっていた。まるい顔、まるい目鼻、まるいほっぺた。山形のまゆげににっこり笑った口。アンパンマンは、一回見ただけで、私でも書けてしまう、単純なマルでできている。まるがきっとミソなのである。
新生児は耳は良く聞こえているが、目はまだよく見えない。起きて目を開いているときは、光の方に目を向けるほか、見える距離は20〜30cmというから、ちょうど授乳しているときのお母さんの顔が見える。母子のアタッチメントを作るのに、自然の摂理が上手に働いているらしい。明暗のぼんやりした境目と、自分を見るお母さんの目や鼻やほっぺたのもりあがり。淡いもの、まるいもののいくつかを、まず自分をこの世で迎えてくれたものとして認識する。
たとえば、2ヶ月のTくんが私と目を合わせるようになったのは1ヶ月を過ぎてからだったが、やはり、見えているのは「光」と「顔」なのだろう。時々は天井を見てにこにこ笑っているので、見えないおともだちが浮遊しているのかもしれないが、私にも共有できるTくんの視界としては、たとえば顔のパーツであり、それらはいずれもまるく曲線的である。また、たいがい赤ちゃんを覗きこむひとの顔は、普通よりさらに笑顔に、まるい口になる。まるいもの、やわらかいものに回帰することは、赤ちゃん時代の記憶につながるのかもしれない。
また、視力と同時に、Tくんは、自分のにぎりこぶしを初めてのおもちゃにするようになった。寝ながらファイティングポーズでしげしげとこぶしを眺め、やがてべろべろなめてみる。指しゃぶりの前段階か。乳頭以外に最初に親しむものたちのまるさとあたたかさ、触覚からくるまるさも、最初期の記憶のひとつなのだろう。
まるさを前面に出した赤ちゃん絵本が多いのも、アンパンマンやドラえもんがまるっこいのも、そういう言語化しにくい事実が作り手に敏感にキャッチアップされているからではないか。経験的に思う。
まるや淡い色彩の絵本でいえば、Tさんが0歳児のときにはそのまんま『まるくておいしいよ』(こにしえいこ、福音館書店、2002年2月)という絵本があった。Sちゃんに頂いたものだが、単行本になっているということは、012の中でも人気があったのだろう。まるいシルエットが出てきて「これ、なあに。」に対して、チョコレートケーキやクッキーやのりまきが次のページであらわれる。これは、むしろ、ケーキもクッキーものりまきも好物な今の方が楽しむかもしれない、と、久しぶりに出してみた。Tさんは早速広げ、「なんのまる? ホットケーキ? ビスケットがふたつ。ふたつあるの、みっつあるの、いっぽんだけあるの。これはなに? なんのびっけっとでしょう。これはなんのまる? のりまきのまる! これはなに? すいかのまる。 まる。 おしまい」とひとりで読んでいた。
また、Tさんが同じく0歳児の後半に愛読していたのはNさんに頂いた『にこちゃん』(南椌椌、アリス館、1998年12月)だった。にじむ水彩の絵本に、まさに、にこちゃんの笑顔が広がる。わらっているにこちゃんの色合いの優しさに目を奪われる。Tさんが、もっと文字が多くストーリーのある絵本を楽しむようになった今でも、こういう世界そのものを表現するような絵本も、変わらず書架の自分の手の届くところに置いておきたい、と思う。
さて、最近のTさんはてざわりを楽しむ絵本がちょっとしたブームである。おもちゃ寄りの絵本といおうか、頭が固かった頃には、しかけで誘う絵本なんて...と私が見向きもしなかったのだけど、いただいたり、友達の家で見たりしているうちにその楽しさもなるほどと思うようになった。『パセリのおんがくかい』(いとうみき、ポプラ社、2001年11月)は、最近、私との会話が問題なくできるようになってから、より楽しめるようになった。
犬のパセリが主人公の、手のひらに乗るくらいの小さなしかけ絵本は、かなり人気があるシリーズらしい。『おんがくかい』は、厚くしてある表紙の中にたくさんのビーズが入っていて振るとしゃらしゃら音がする。パセリが順番に出会っていく動物や植物も、それぞれハープを弾いたりたいこをたたいたりしていて、テグスのハープ弦や厚いパラフィン紙のたいこで遊べるようになっている。
親の常で、壊さないよう「そっとやってね」と厳命し、Tさんがいじるそばで、「トントコ トントコ。たいこの れんしゅう。もうすぐ おんがくかいだもの」と文を読む。Tさんは音楽大好き、歌が大好きなので、「Tちゃんもハープやりたいなあ」といったり、「はなのおばあさん、すごいね」と、覚えたせりふを自分で読んだりする。最近、ひらがなをほぼ全部覚えてしまったTさんは、気が向くと部分的に「ね、こ、さ、ん、な、に、し、て、い、る、の、ねこさんなにしてるの、っていってるよ」などと字も時々読んでいる。
もうひとつは、季節外れの『サンタさんににあうふく』(文:ケイト・リー/絵:エドワード・リーブス、訳:櫻井みるく、大日本絵画、2004年)。赤い服しか着ないサンタさんが、もうすぐくるクリスマスに、いつもと違う服を着たいなあと、緑色や白やピンクや紫の服を次々に試してみる。だが、緑を着ればクリスマスツリーみたい、青と黒を着れば闇にまぎれてしまう、など、なかなかうまくいかない。「何を着ようか」と悩んだ最後に、サンタの奥さんが「あなたに一番似合うのはやはり赤い服」と言って、もとの衣装に落ち着く、という話である。
その服が、たとえば緑はマジックテープのようなざらざら、黄色はタオル素材、紫色は舞台衣装のようなきらきらつき、など触って楽しめるつくりになっている。サンタのひげや赤い服のトリミングも、白いモヘアでさわり心地がいい。この絵本を頂いたのは昨年の12月だったが、じわじわと好きになっていって、いまだに定番である。12月の段階では、普通まず手が伸びると思われる服の異素材の部分はあまり関心を払っていなかった。モヘアやタオル素材を「ふわふわね」「さらさらね」「きもちいいー」となでるようになったのは年が明けてからである。そして4ヵ月。もうすぐ初夏の今でもまだこの絵本は開架に置いてあり、遊びにきたTさんの友達にも人気を博している。
サンタクロースは通年? そうか、これも、ふとっちょでやさしい目をした、親しみ深い「まる」のキャラクターなのだ。
Tくんは、起きている時間が増え、喃語を発しながら、Tさんとの絵本読みにもたまに同席するようになった。にぎりこぶしを見つめながら、たぶん、音と声とを全部吸収している。Tさんは(またかよ、と思われるかもしれないが)『バムとケロのさむいあさ』(島田ゆか、文溪堂、)を読み、Tくんに「ケロちゃんはね、こんなぐちゃぐちゃにしちゃったの。ソファもパソコンもおにんぎょうも。やっちゃだめえっていわれるでしょ。でもやっちゃうのね」と説明している。泣いているTくんを観察しつつ「Tくん、おしゃべりじょうずね、おっぱいほしいって。あしばたばたもじょうずね。」さらに「くしゃみもじょうずね、はなみずもね」などと続くので、なかなかおもしろい。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ Tさん2歳10ヵ月、Tくん2カ月、
「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)
「絵本読みのつれづれ」(05) 児童文学評論 88号(2005.5)
こんにちは。鈴木宏枝です。いつもお読みくださってありがとうございます。
2月に登場したTくんなのですが、当初、自分でも心配していたとおり、Tさんとまぎらわしいという声をいただきました。今号から、Mくんに改めたいと思います。
登場人物:
Tさん 2002年6月生 (姉)
Mくん 2005年2月生 (弟)
「さん」「くん」は実はジェンダー的に落ち着かず、Mさんにしたいところでもあるのですが、男女の記号とわりきるということで。
改めて、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
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(5) 読む、ということ
毎月取っているブッククラブの今月分に、『さむがりやのサンタ』(レイモンド・ブリッグズ、すがはらひろくに訳、福音館書店、1974)が送られてきたのだが、これは手持ちにあるため、あらためて別の絵本を届けていただくことになった。
新品の『さむがりやのサンタ』は、めくらずに返品したのだが、家にあったその絵本が急になつかしくなって、季節はずれだけど探してくる。それをめざとく見つけたTさんが「サンタさんのほんなの? よもうか」というので、早速読んでみた。
でも、音読する側からすると、マンガを読むのは不可能だ。Tさんも、私が読んでいるセリフとはあらぬところを見て、あちこちきょろきょろ目線を動かしている。
もちろん、何度か読むうちに、「やれやれ」とか「きり!」とか「クリスマスおめでとう」といった部分的なセリフを覚えるけれど、ほんとうにストーリーを読んでいるとは思えない。
細かくコマ割された絵をどう順番に読んで、絵とセリフをキャッチするか――これは獲得されるべき技術であり、Tさんは、吉村和真さんがおっしゃるところの「マンガの読み方が身体化される」以前の状態で、(私としては、そんなに急いで身に着けなくてもいいよとも思う親心もあるのだが)その意味で、Tさんは『さむがりやのサンタ』を読めていない。
ただし、読めないからといって楽しまないわけではない。その後も、置いてあれば「さむがりのやサンタ(語順が違います)読んで」と持ってくる。夜明け前にうすねず色の空がだんだん明るい黄色になる4コマは、しみじみ眺めいって「あさになるねえ」と言い、屋根の上でサンタとトナカイたちがお弁当を食べるページでは「ゆき、あめ、ちぇっ」とまねをする。最後にサンタがシャワーを浴びている小さなコマでは、バススポンジを差して「ポチね」と言うが、犬とスポンジを、どうくっつけて理解しているのだろう。
Tさんがもっと大きくなったら、クリスマスには、サンタが喜ぶお酒やケーキを置いておきたい。トナカイやクリスマス・プディングやビッグベンやイヌイットの氷の家など、見えるものが増えてくるのも、個人的に楽しみにしている。
今、ひらがなをすべて読めるようになったTさんが気に入っているのは『あいうえおうさま』(文:寺村輝夫、絵:和歌山静子、デザイン:杉浦範茂、理論社、1979/2005.2)である。調剤薬局の待合室で手にしたのだが、最初の数ページで名前を呼ばれた。全部読んでからでないと帰らないというTさんに「今度、図書館で借りよう」と言って帰宅し、その週に出先で購入しておみやげにしたものだ。
『あいうえおうさま』は、「あいうえおうさま あさの あいさつ あくびを あんぐり ああ おはよう」のように、あいうえお五十音それぞれに頭韻を踏んだテクストと、それに合わせたおなじみのおうさまの絵が描いてある。
Tさんは、「こ」では、「ココアをこぼしちゃったのよ」と笑い、「し」では、おねしょをした布団をかぶってしょげているおうさまを「シンデレラみたいね」と評する(たしかに、白くすそをひいたドレスに見えなくもない)。一番気に入っている言い回しは「べそかく」で、「べっどに ぺんきを べったり ぬったら へばりつくので べそかく おうさま」では最後を待ち構え、私が言うやいなや「べそかくだってぇ」とけらけら笑う。
この本では、おうさまのまわりにちりばめられた絵が文字と連動していて、「あ」なら、あんぐりあくびをしている王様の横に、雨やあざらしや朝顔が描いてある。その仕掛けを、Tさんはまだ気づいていない。「か」のところで、カーテンレールの上のかたつむりを見て、「こーんなところに、なんでかたつむりがいるのよー、あははっ」と必ず笑うのだが、いつか、絵の秘密に気づいたら、今度はどのページがお気に入りになるだろう。
今、Tさんが見せる「よめる」ことのうれしさは、見ていてすがすがしいほどである。最初は、『あいうえおうさま』の各ページの上にあたたかい字体で描かれているあいうえおを指差して読みあげていた。今は、大きな文字のあいうえおだけでなく「あくびをあんぐり」といったテクストのほうもぼちぼち読んでいる(たいていすぐ飽きるけれど)。
外では、「これ、なんてよむの?」とたずねてくるのは、駆け込み乗車に×をつけたサイン、ゴミ箱のびん、かん、燃えるゴミなどのマークになった。絵の意味を知りたがる様子は、あいうえおの読み方を知りたがったときと同じで、その興味の行き方に、逆に、ひらがなも日本人に共通のサインであることを再発見させられた。
他方で、Tさんの文字獲得の姿を見ると、抽象に過ぎないひとつひとつの文字をひとかたまりの意味として捉え、言葉として変換し、それを具体的に想像するのは実に高度な作業なのだなと思う。ひとつひとつの文字が読めても、それを物語や文章として把握するには、もちろんまだ至っていない。
「す、て、き、な、じゃじゃじゃ(Tさん用語で”漢字”の意)、に、ん、ぐ、み。すてきなさんぐんみんよ」と持ってくるのは、おなじみの『すてきな三にんぐみ』(トミー=アンゲラー、いまえよしとも訳、偕成社、1969初版/1977改訂版)だ。個別の文字は読めて、この絵本が『すてきな三にんぐみ』だということもわかっていても、文字と題名というテクストと絵本そのものの認知の間には、まだずれがある。
『すてきな三にんぐみ』で、Tさんは、黒に灰色の絵柄と目だけのどろぼうたちが最初は怖かったようで、「まっくらね、よるばっかり」と腰が引けていたが、「みんなでいっしょにくらすんだ」という言い回しは好きになったようで(これは、作品の肝だろう)、絵柄は暗いけれど素敵な話だと理解したようである。
最近、Tさんはしばしば、自作のおはなしもどきをしゃべっているのだが、『すてきな三にんぐみ』以降、「みんなでいっしょにくらします」が入るようになった。
猫の表紙のついた私のハーブの本を見ながら、Tさんはこんな風に読む。
むかしむかし
おかあさんとねこさんがすんでいました
ピンクののはらもすんでいました
ひゅーひゅーって
はなびがはじまりました
それから まいにちまいにち
おかあさんとくらしました
で、よるになりました
おふろにはいって 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と
かぞえながら あさになりました
おとうさんと シンデレラのあかちゃんに
おっぱいをあげました
よるになりました
おとうさん おかあさんと ごはんをたべました
あひるのあかちゃんがうまれました
おとうさん
シンデレラのあかちゃんと
かもめをみました
あさのあいさつ
なみだがでてきました
そして ふたをしました
ぱかぱか
おとうさんと おかあさんの はなしです
みて だっこ しようか
おとうさんのためにくらしました
みんなでいっしょにくらしました
おしまい
「すてきなさんぐんみん」同様、題名がちゃんといえない「ぴっちゃーぼうや」は『ピッツァぼうや』(ウィリアム・スタイグ、木坂涼訳、セーラー出版、2000.3)である。Tさんは、表表紙も裏表紙も同じ笑顔というつくりにまずひかれ、「あれ、あれ、こっちがはじめ? こっちがおわり?」という混乱じたいを楽しんでいたが、やがて「あかいほうがはじまり。みどりがおしまいです」と秩序を重んじるようになった。
絵本を読むとき、私たちはたいてい並んで座る。私は文字を読み、Tさんがめくる。手助けはしない。絵本読みの最初の頃は、息が合わなかったけれど、特に勝手に最後までめくることもなく、文の切れ目がページの終わり、という阿吽の呼吸を、Tさんは身につけてきた。『ピッツァぼうや』はその阿吽がとてもうまくいく絵本である。
『ピッツァぼうや』は、雨の日の家の中の見立て遊びが楽しい1冊だが、Tさんは、一連の流れるストーリーが好きなようで、ピートが外に出て行く最後に、ほっとした表情を浮かべる。ままごとのピザを手にして、「ぴっちゃーぼうやのぴっつぁね」と言う。なんで「ぴっつぁ」といえるのに、絵本の題は「ぴっちゃー」なのだか。
私は、ピッツァ遊びの中の「ほんとうは水なんだけどネ」「ほんとうはベビーパウダーなんだけどネ」という( )がどうもなじまず、舞台裏は言わなくてもいいのになあと残念な気持ちにもなる。もちろん、この絵本の完成度の高さも絵の素敵さも、開架に置いておくとピートの満面の笑みにうれしくなるほど、大好きなのだけど。
ウェブでの紹介を見てみると、実際にピッツァごっこをやっているご家庭や保育園もあるようで(http://www.yamaneko.org/dokusho/shohyo/osusume/2000/pizza.htm)、ぜひうちも、と思いつつ、最近めっきり重くなってきたTさんだから、ここは、パートナーの出番にしよう。
Mくんの方は、Tさんの声が好きだ。最初は、声。私の声にはもちろん安心するけれど、ざぶとんの上で3人で転がってわらべ歌で遊んでいると、Mくんは明らかにTさんの声に喜ぶ。口を半月形にしてうれしくほほえむ。そして、私とTさんの会話を喜んでいるように見受けられる。私とTさんが会話をしているだけで、テレビの声に反応するのとはまた違うアンテナが立つように(親ばかだが)見える。Tさんは「Mくん、うまれてきてよかったねー」と誰かの口真似をし、ひっついて添い寝し、たぶん、Mくんは、その身体的な快も、言葉と同様に、うれしい。
Mくんは、声はまだたまに「えっうー」といった程度だが、レム睡眠のときには、なぜか、新生児の頃から声を出して笑うことが多い。赤ちゃんは神々しいと、ある編集者の方がおっしゃっていたが、親の造作に似てお地蔵様のような笑顔のMくんは、いったいどんな夢を見ているのやら。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ Tさん2歳11ヵ月、Mくん3カ月、
「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm
「絵本読みのつれづれ」(06) 児童文学評論 89号(2005.6)
(6) おいしい話
[Tさん3歳0ヶ月(女)/Mくん4カ月(男)]
絵本や児童文学と食べものは切っても切れない関係にある、というのはわりに一般的な実感である。食べものを戦略的に使う絵本はたくさんあるし、食べものが象徴的な意味をもつ作品や、食べものが読者の住む現実との着地点になるファンタジーも多種多様に思い起こされる。
その興味から、私は研究面で、白百合女子大学児童文化研究センターのFood
for Thought(思考の糧)プロジェクトに参加し、日本や世界の食文化や食と児童文学との関わりについて考えているところでもある。
食べものは、幼児の生活で大きな部分を占めるけれど、すべてではない。すべてではないけれども重要だ。絵本でずいぶん食にフォーカスした作品が多いのは、子どもの興味以上に大人たちのほうに、食の意義を伝えたい意識があるからだろう。
食育や子どもの食は、時代的なテーマでもあり、その時代性は大人が仕掛けていくものである。
さて、大人の思うとおり、Tさんは食べものの話が好きだ。だけど、それだけ突出しているかというと、実はそうでもない。
TさんやTさんの同年齢の友達を見ていると、単に食べるのではなく、好きなものを食べることが好きだという当たり前のことが見えてくる。大いに体を動かしてお腹がぺこぺこになれば、多少苦手なものもたいらげるが、そうでない日は、気分によって好き嫌いが現れる。おなかがすいていなくても食べられとか、見た目においしいものを食べられる、というのは、大人の食べ方に近く、親の思い通りにいかないことも多い。食は、親のルールに最初に逆らう自我の現われにすらなりうる。
Tさんの生活は、大人のように食で区切られていない。もちろん、ほぼ決まった時間に食事やおやつは食べているのだが、食の合間に遊ぶのではなく、本質的には遊びと遊びの間に食事(やそれに近いおやつ)を取っており、生きるメインは実は食ではなく遊びの方にある。
Tさんの食べもの絵本への興味は、自分の経験と遊びからの応用としてあらわれる。食べものの絵本は、食べもの固有への興味以上に、広く生活の経験に根ざしたところで魅力をもつようなのである。
食べものが出てくる絵本で、最初期に読んだひとつは、『はらぺこあおむし』(エリック・カール/もりひさし訳、偕成社、1976.5)だった。2歳前後の頃、友達の家で見せてもらった小さいボートブック版である。ページをめくるところは楽しんだものの、あおむしのごちそうは数種類の果物しか分からなかった。土曜日にあおむしの食べた「チョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキとそれからすいか」をすべて理解したのは2歳8ヶ月くらいだった(その場合も、これらを全部食べたわけではなく、「サラミはベーコンのおともだち」とか「チョコレートケーキはおいしいケーキ」とかそういうレベルのものもある)。
知っている食べものが増えていくにつれて、この絵本の楽しみ度も増していく。ぼーっと眺めているだけだった土曜日の食事の場面では、やがて、現実の食の広がりとリンクするかのように読まれる食べものを順番に指差していくようになった。
今では、Tさんは自分でそらんじる。アイスクリームもさくらんぼパイも手でばしんとたたいてすくいあげるように食べるまねをしたり、どうかすると紙をべろべろなめようとすることもあって、「Tちゃんおなかすいてるの?」と聞くと、たいていその通りで、ほんとのおやつになる。Tさんにとって、絵に描いた餅は食べられるものであるらしい。
Tさんが生まれたときにいただいたサイン入りの『まよなかのだいどころ』(モーリス・センダック/じんぐうてるお訳、冨山房、1982.9)を、私はずっともったいぶって仕舞っていた。いいタイミングで出会ってほしいと思っていて、開架に並べたのが、この前の3月のことだった。「パン屋さんのお話よ」とか「お料理かな」とか何の説明もせずにひととおり読んだ。そのあと、本を閉じたTさんがにんまあーっと笑ったのを見て、大成功だったと、心の中でガッツポーズをした一冊である。
Tさんの<遊び>は、電車遊びからままごと、とすぱっと切り替わるのではなく、らせんのように進化する。例えば、ひらがなを読み上げながら並べた「ばばばあちゃん」のかるたは、並べ方を変えて階段になり、家になり、それから全部まぜあわされ、大きなおなべに投入されて「おいしいケーキのざいりょう」になる。
「おいしいケーキをつくろう」というのは1年ほども長く続いているTさんの室内遊びで、これからも続くことが予感される。去年の2歳の誕生日に食べたケーキが印象的だったか、その頃から「ケーキ」という言葉に反応するようになり、やがて、誕生日にいただいたおままごとの木の野菜や果物は、包丁でばらばらに切ったあと(マジックテープで留めてあってすぱっと切れる)、「おいしいケーキのざいりょう」になるようになった。
「おいしいケーキをつくろう」と言いながらTさんはおもちゃを大なべに入れる。この大なべは私が台所の不要品をあげたものだが、体格比からいくと、魔女の大がまにも匹敵するかもしれない。
材料は1年かけてだんだん進化してきた。今の基本的材料は、木の野菜のおもちゃのほか、「やきそば」と称するひも、ひも通し遊びのスポンジ製のムーミン人形、アンパンマンのプラスチックの指人形、カルタ類、チラシから切り抜いたケーキの絵、はめこみパズルに使う小さな粒粒、おままごとの木のパンなどである。本物のケーキをつくる手順も今ではよく見ているから、「こなを入れて、ぎゅうにゅういれて」と説明しながらの作業で、彼女の中でほとんどできあがったころに「じゃあ、砂糖を入れて」とか適当なことを言うと、「もういれたでしょ」と一喝される。できた材料はオーブンへ。ダイニングテーブルの下にわっせわっせと運んでいって、「おいしいケーキやきますよ」となにやらもぐりこんで操作している。焼き時間にもこだわりがあるようで、食事のときにじゃまなので出そうとすると、「あっ、まだやけてないのよ」と再び押し込む。
『まよなかのだいどころ』は、ミッキーがまよなかの台所でパン屋さんたちに会い、ねりこにいれるミルクを取りにミルキーウェイに行く話である。牛乳瓶の天の川と、そこに飛び込む裸のミッキーの身体感覚もなんとも気持ちがよく、ねりこに埋もれる感覚もくるりと夜空に舞う場面も、もちろんふくらみのある絵も、私は大好きである。
Tさんは、この絵本で「ねりこ」という言葉を覚えた。私がケーキを作っているときに、これなあに?と聞かれて「ミッキーが飛び込んだねりこと同じ”ねりこ”よ」と答えると一発で理解し、さらには、目の前のねりことミッキーのねりこが、まさにつながりあった(ように見えた)。
ミッキーのはなし しってるかい
うるさいぞ しずかにしろってなったら
あかるいへやの はだかんぼになっちゃって
おとうさんとおかあさんのへや
クルッて まよなかのだいどころ
パンやさんが
しあげはミルク まぜて ならして やこう
できたオーブン あつい やけたら ゆげが
ミッキー あたまをつきだして いった
まっすぐ ベッドに もどって
やれやれ ぬくぬく
ミッキー どうもありがとう これですっかりわかった
パンやさん ケーキをたべるわけが
まだ耳で暗記している最中のTさんはこんな風に『まよなかのだいどころ』を読む。私と一緒に本物のケーキを焼き、たまには卵など割ったり、あわたて器でまぜたりする経験も含め、生活のフェイズが重なってこの絵本を楽しんでいるのは間違いない。
『まよなかのだいどころ』以降、彼女の作る大なべの「おいしいケーキのざいりょう」に必ずしも変化があったわけではないのだが、この細かいおもちゃのごたまぜが、Tさんには、あのどろりとしたねりこに見えているのかもしれない。何かの拍子に、「しあげはミルク、しあげはミルク」と歌っているのを聞くのは、私のほうがなかなかいい気分なのである。
もうひとつ、おいしい話といえば『ぐりとぐら』(なかがわりえこ・おおむらゆりこ、福音館書店、1963.12)である。これも、私の思いいれが強すぎて、手渡したのはつい先月のことだった。
大学院の頃、『いっしょにつくろう―絵本の世界を広げる手づくりおもちゃ』(高田千鶴子・酒本美登里・小林義純製作、村田まり子絵、「昭写真、福音館書店、1994.10)をもとに、黄色い手袋とフェルトで作ったぐりとぐらの人形がある。数ヶ月前にそれを見つけたTさんは「ねずみさん」と言って、服をぬがす遊びに使うようになった。私の作りがやわだったのか、もはや首がもげそうになっているぐりとぐらに、これは本物(?)を見せようかと、近所の「絵本の店 星の子」に行ったときにやっと買い求めたのである。
『ぐりとぐら』も、Tさんはそれはそれは深く聞き入っていて、カステラと大好きなホットケーキとオーバーラップさせて、すぐにお気に入りになった。
子どもの頃の絵本/読書体験が親の世代になってリピートされるというのは、出版の面でも読者論の面でもよく言われることだが、私もこの絵本は大好きだった。何が大好きかというと、カステラ以上に卵の殻の車の場面である。
子どもの頃、この最後の1ページにものすごく引き込まれたことを、ありありと思い出す。この車に乗りたい、こんな車が作りたい、と強く思ったのが小学校の低学年くらいだったろうか。戦隊もののヒーローが乗っていたサイドカーつきのオートバイにもあこがれたし、小学校高学年で男子の間でラジコンが流行ったときにも一度触ってみたかった。
それを私は口に出して言わなかったせいか、どれもかなわなかったのだけど、この卵の殻の車をうまく作れたら、TさんとMくんを乗せて、ついでに私も一緒に乗りたい。いや、私が乗りたい。「ぐりとぐらのカステラ」や「ぐりとぐらの人形」の作り方はよく見るけれど、この車の作り方を紹介したものが何かあったら、ぜひご教示ください。
この前、Tさんは、ホットケーキやケーキの作り方を思い出すように『ぐりとぐら』を楽しんだあと、最後の車の場面で「どこに行くのかなあ?」と言った。おうちかな? ゆうえんちかな? どうぶつえんかな? ……と私が口に出すのは簡単だったけれど、まっしろな状態で何を言うかとわざと黙っていたら、Tさんは「ここでつないで(殻どうしをつなぐわっかを指差す)、これ乗っけて(道具類をなぞる)……、どこにいくのかな。」としばらく思案し、切り株や木の絵を指でなぞったあと、右下の小さな署名を見つけ、「ゆ、り、こ。ゆりこにいくのね」と納得していた。ゆりこかあ。素敵なところだといいな。
Mくんは人好きである。まだ人見知りしない時期で、あやされれば笑い、ほほえみかける。空腹でもおむつでもなく、「かまって、遊んで、しゃべってよ」で泣くようになった。うれしいときやくすぐられたときだけでなく、Tさんが大声で笑っているときは、Mくんも声を出して笑う。笑いもまたまねびなのである。気候がいい時期は、リビングのそばのベランダに出し、バウンサーに座って外の風に当たっているのはなかなか優雅かもしれない。
我が家では特に絵本の時間というのは決まっていない。朝、出勤前のパートナーに読んでもらっていることもあれば、私がパソコンで仕事をしているそばに「こどものとも」を山積みにしているときもある。「1冊だけね」とやぼを言うと、Tさんはそれはそれで納得して、残りは「じゃあ、これはTちゃんがよむね」と音読しはじめる。もちろん、あとは寝るだけ、という状態で、眠くなるまでソファで読むというのは、一番いい時間だ。
そのとき、間が会えばMくんもよく聞いている。どうかすると、この子は、絵本好きで、ソファで私とTさんが並んですわり、Tさんのひざにある絵本をMくんを抱っこしながら読むと、Mくんは口を三角に開けて笑って喜び、すごいキックを入れて、絵本の上にダイブしようとする。
Mくんはまた、私の口の動きをじっと見ている。こうして彼は日本語を母語として獲得していくのだな、と私は日本語の絵本を読む。Tさんに読みながら、抱っこのMくんも機嫌よく聞いてくれるとき。これも、私にとっては、一回で二人分おいしい時間である。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/
「絵本読みのつれづれ」バックナンバー http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/ehon.htm)
「絵本読みのつれづれ」(07) 児童文学評論 90号(2005.7)
(7) 3歳になった―おおきい、ちいさい
登場人物:Tさん(3歳1ヶ月)、Mくん(5ヶ月)
昨年の4月、Tさんは1歳10ヵ月で、「たんぽこ」(=タンポポ)が大好きだった。NHKの子ども番組で流れていた「タンポポ団にはいろう!」という歌をこよなく愛していて、公園のタンポポを抜いては手に持ち、「たんぽこよ」と喜んでいた。「どこでタンポポ団したの?」「コーエン!」といった、意味の通る会話の始まりがその頃だったのも、よく覚えている。
やがて数ヶ月が経つとタンポポも枯れ、「たんぽこ、ないねー」「来年の春になったらまたね」という会話が増えた。そのとき、来年の春なんて、どんなにか先と思っていたのだけど、夏を過ぎ、どんぐりに夢中になる季節がやってきて、冬は足早に去り、そして再び本当にたんぽこの季節になった。今年の春も、昨年ほどの情熱ではないけれど、Tさんはたんぽこに再会したことを喜び、綿毛を飛ばして笑っていた。
春と同様、どんなにか先と思っていたTさん3歳の誕生日も6月にやってくる。昨年6月の満2歳の誕生日、友人仲間で誕生会をしてもらって、「おたんじょうびおめでとう、ハッピーバースディ」を覚えたTさんは、それからほぼ1年間、「ハッピーバースディ」のフレーズを口にして遊び、おままごとで見立て遊びをしてはごちそうを盛り合わせ、おめでとうパチパチパチと手をたたいていた。
誕生日遊びを見ながら、私は、自分の子どもの頃の1年の長さを思い出して、彼女にとって本物のハッピーバースディはどんなにか遠いかしらと思っていたのに、やがて、3歳の誕生日も、本当にやってきてしまった(実感として「ほんとに誕生日ってくるんだなあ」という妙な感じだった)。
何が欲しいの?と聞いたら、アンパンマンのおふろおもちゃとのこと。普段、Tさんのものは、服にしろおもちゃにしろ本にしろかなり親のバリアをかけて選んでいるのだが、年に2回、誕生日とクリスマスには、その年齢のときにこそキラキラ輝いて見えるものをプレゼントしたい。私は喜んで準備した。
3歳は、数の概念とも多少関係している。
Tさんが数を数えるようになったのは2歳何ヶ月頃だっただろうか、最初は、1、2、3、だったのが、だんだん長く言えるようになると1、2、3、4、5、6、8、10になる。長いこと、7と9は飛ばされていた。特に修正せず、おふろで数を数えるときにだけ一緒に唱えているうちに、Tさんは全体を暗記していった。
今はさらに少しずつ増えて、「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、30、16、18、40」である。11、12で「に」というと、次は「さん」と自然に言いたくなるのだろうか。
実際の数と抽象的な数はもちろん一致しているわけではなく、数えることはできても、数の概念的には1、2、3、わあいっぱい、くらいのものだ。
数ヶ月前に、鈴木出版の濱野さんが下さった絵本の中で、Tさんが一番気に入ったのが『ねこのかぞえうた』(せなけいこ作・絵、鈴木出版、2001年1月)だった。せなけいこらしい色合いと切り絵細工の絵で、「ひとつ ひなたで ひとりでひるね にゃーんにゃん」から始まる、まさに「ねこの数え歌」だ。表紙の題字の「ねこのかぞえうた」もそれぞれ猫がポーズを取って描かれているのだが、Tさんは、「え」の猫だけ読めなかった(読みにくかった)。読めないけれど、「ね、こ、の、か、ぞ、う、た。ねこのかぞえうたね」と全体で理解していた。
「ふたつ ふりむきゃ ふとった ねこが ふふふと わらう にゃーん にゃん」と続いていく、1から10までの猫たちの様子をTさんはうれしく私に読ませる。そして、「とおで とうとう ともだち じっぴき とっても うれしい にゃーん にゃん」まで読むと、おごそかにページをめくって、無言で手を上げて私を制し、最後のページだけ「Tちゃんがよむの」と言う。
「ゆうやけ こやけ あしたもみんなであそぼうね、にゃんにゃんにゃんにゃん にゃーんにゃん」(本当は「ゆうやけこやけ あしたもあそぼう にゃんにゃん〜」)。Tさんは、夕焼けを背にシルエットになっている猫たちを人差し指でテンテンテンテンと強く指差す。ちょうど、未就園児保育などで「みんなで遊ぶ」楽しさを知り始めた頃と、数への興味とが一致した頃に頂いた絵本だったのがありがたい。
春が過ぎ、「もうすぐTちゃんは3さい」という意識が芽生えてから、Tさんは文字通り、1、2、3、と指を折り、「もうすぐさんさいよ、ハッピーバースディ、クリスマスおめでとう」といろんなものを一緒にして誕生日を心待ちにするようになった。
『あなたがうまれたひ』(デブラ・フレイジャー/井上荒野訳、福音館書店、1999年11月)は、私にとって特別な1冊だ。妊娠中にBook
Galleryトムの庭から頂き、出産前の荷物の一番下に詰めて、出産したその日の午後に、Tさんと指をつないで、読んで聞かせた絵本だった。
だいたい親の思い入れというのはあまり伝わらず、この科学絵本にこめられた思想と、少しくすんだ色合いの美しさに私が惚れたのに反比例するように、Tさんはそっけなく、オープン棚に置いておいても持ってくることはなかった。
だけど、Mくんが2月に生まれ、Tさんのもうすぐ3歳が射程に入った4月ごろから、Tさんは、不意にこの絵本を持ってくるようになった。お誕生日とは必ずしも結びつけていなかったのだが、自然にこの絵本を引っ張り出してきたのは、Tさんなりに感じるところがあったからなのか。
最初のページだけ「おさかなが、とりとちょうちょにおはなしして、これはなに? かめさん?」と指さす。ページをめくって「ちきゅうは くるりとまわり」「ちきゅうは くるりとまわり」「ちきゅうは くるりとまわり」と同じことを何度も言う。これは、宇宙から見た地球、ぼうぼうとマグマを内部で燃やす地球、太陽の半円形、28日でひとまわりする月……と、絵が「くるりとまわる」(=球体)連続だからだろう。
『あなたがうまれたひ』は、「あなた」が生まれる前、地球も地球上の生き物も、海も大地も月も星も太陽も、どんなにか「あなた」を待ち、「あなた」を迎え入れる準備をしたか。ひそやかでダイナミックな自然のうごきと、生まれてこようとする赤ちゃんへのメッセージと、最後の「あなたがうまれてとってもうれしい」という一言に至るまでのall
for oneの豊かさが満ち溢れたすばらしい絵本である。
3歳の誕生日当日は小さな遊園地に出かけ、メリーゴーランドや観覧車に乗った。係員さんは、大人ではなく子どもに「おねえちゃんいくつ?」と聞く。Tさんは、恥ずかしそうに、誇らしそうにOKマークを出して、「3さい」じるしを見せた。
Tさんは、3歳になってお姉さんになり、お料理してみんなにふるまえるほどに「大きく」なった。「Tちゃんがやる!おかあさんあっちいって」と主張したり、今までは簡単にその下をくぐっていた冷蔵庫の扉にぶつかるようになって背が伸びたことを思ったり。 最近では、リサイクル資料で手に入れた『ジェインのもうふ』(アーサー=ミラー作、アル=パーカー絵、厠川圭子訳、偕成社、1971年)にもはまりはじめた。赤ちゃんのときの愛用の「もーも」(大好きな毛布)を、なくしたり取り戻したりしながら、最後に鳥がすべて持ち去るまでを見届けて、成長に一区切りつけるジェインの物語を、Tさんは、未来のシミュレーションに見ているのかもしれない。
しかし、3歳は、同時に、それほど前向きだけというものでもない。テレビでローラーコースターを見て、Tさんは「Tちゃん、3さいになったら、あれにのろうね」とよく言っていたのだが、実際に3歳になってみると、「Tちゃん、まだ3さいだからのれないの」とちょっと腰が引けてきた。遊園地でも、コースターは見るだけで充分楽しい、といった表情で、スリリングなものへの怖れはしっかり持ったまま。3歳になったばかりなのに、「Tちゃん、もうすぐ4さい、もうすぐ5さいよ。そしたらのろうね」に変わった。
週に2日の保育でプールがあると告げると、「Tちゃん、3さいだからまだはいれない」と言う。この場合は、「だいじょうぶ、3さいプールだから」とよく分からない理屈で励ましたら、結局ものすごくエンジョイして帰ってきた。慎重派のTさんは、初めてのものへの心の準備が必要なタイプである。うどん作りの企画でも「3さいだから、まだよ」と言うので、またもや「さんさいうどんだから大丈夫」と答えたが、まるで掛詞のようだった。
Tさんの場合、「3歳」は、大きくなってOKのしるしであると同時に、まだまだ小さいからだめなのよ(=だからやりたくないことやこわいことはやらない)のエクスキューズにもなる。一直線に成長街道を走るのではなく、ゆるやかに行きつ戻りつしながら、彼女が3歳になじんだ頃、少しずつ4歳が射程に入ってくるのかもしれない。
7月の初め、Tさんがすっかり気に入った『ぐりとぐら』のシリーズをもう1冊買おうと思って、『ぐりとぐらのえんそく』(なかがわりえことやまわきゆりこ、福音館書店、1979年4月)と『ぐりとぐらのかいすいよく』を手に取った。
ところが、『かいすいよく』をぱらぱらめくると、大きなフォームで泳ぐ人間のすぐそばに、小さな小さなぐりとぐらが見えてしまい、私は焦って本を閉じた。ドキドキしたのは、魔法の種明かしのように、人間と比べたぐりとぐらの小ささを突きつけられたからである。ストーリーは追わなかったけれど、そうか、のねずみのぐりとぐらって小さかったんだ、というのが、とてもショックだった。『ぐりとぐら』で、2匹が見つけた大きな卵も、当たり前の卵だったのかもしれない。私は、本当に六畳間くらいある卵を想像していたのだ。
ぐりとぐらが「実は小さい」ことに驚き夢破れるほど、私は、のねずみサイズにコミットしていた。本当は小さいムーミンの世界が、他と比べられることなくムーミン谷で閉じているように、ぐりとぐらも、幸福な林であって欲しかったというわがままで。
結局、私は『ぐりとぐらのえんそく』だけ買った。たしかにぐりとぐらは小さいけれど、一応それは大きいクマとの対比だし、ぐりとぐらのたっぷりのお弁当でクマももてなされうる奇妙な大小関係は、まだ『ぐりとぐら』のカステラ・マジックを引きつぐものである。小さいばかりでなく、自分が一人前であるという感覚を、絵本の中で実感できるように、私はねがっていた。
ところが、この前、何度目かに『ぐりとぐら』を読んでいると、最後のカステラをふるまう場面で、Tさんは「くまさん、かめ、わに!、うさぎさん、かたちゅむりもいるねえ、これは?ふくろう? これは?いぬしし?(=イノシシ)」と見ながら、「ひよこちゃんがねえ、ぼくもほしいなあっていってる」と言う。
ふるまわれていない動物がいたかしらと思ってよくよく見てみると、オオカミの肩にちょんととまった黄色い鳥にだけ、たしかにカステラがなかった。「そうだね、今度、Tちゃんホットケーキ作ったら分けようね」と言いつつ、Tさんが「より小さいもの」に向かうシンパシーを強く持っていることにも、改めて気づかされた。
3歳はお姉さんであるのと同時に「ちいさい」のだろう。幼稚園にもまだ行っていないひよこさん。幼稚園児が「お兄さん、お姉さん」であるほどに、自分はまだ小さい。ふとした瞬間に、Tさんはその「小ささ」をつきつけられる。自我の芽生え始める3歳は、大きい自分と小さい自分のバランスへの気づきの始まりでもあると思う。
Mくんは、4ヶ月過ぎて寝返りをマスターし、違う世界の見え方に喜ぶようになった。口を▽の形にして笑い、美しい喃語でしゃべる。この前、Tさんに絵本を読んでいると、「ふぁふぁふぁふぁ」と笑い、それは何への反応かというと、ページをめくる音がおもしろかったからだった。
抱っこしたり母乳をあげようとしたりしても、たまに(私が疲れて)無言だと、そのまま抵抗してぐずるMくんに、「なんなのよー、何が不満かねー」と思わず投げやりに言うと、投げやりな言葉なのにそれだけで笑顔になったりする。まこと、人間はコミュニケーションを糧として生きる動物なのだ。
スーパーのレジ袋がくしゃくしゃいう音にも「ははーん」と笑う。「みょみょみょ」とか「もももも」とか変な擬音でつっついたりくすぐったりすると、やっぱり反応よく笑う。絵本を読んでいても、ページをめくる音でMくんが笑うと、私もTさんもおもしろくて、絵本読みは中断し、私が「もももも」とMくんをさすり、Tさんが「みょみょみょみょ」と真似し、Mくんが「ふぇふぇふぇーん」と笑うおかしな空間に変わってしまう。絵本もいいけど、こんなコミュニケーションも、ぐっと楽しい。
「絵本読みのつれづれ」(08) 児童文学評論 91号(2005.8)
(8) 夏の成長
8月はじめに穂高町(安曇野)で5日間の夏休みを過ごした。
「自然と子供」にロマンを見るのはおとなの視点か。借りたコテージで、Tさんは「おもちゃがない、絵本がない」と不満をいいつつ弟をおもちゃにし、私の持ってきたマンガを眺めていた。
が、清流での川遊びにはすっかりはまっていたし、出かけた国営アルプスあづみの公園では、汗だくになって遊ぶ。さわやかで強い陽射しの中運動して真っ赤になったほっぺには頭から水をかけてやりたい気分になったし、じゃぶじゃぶ池の水は冷たく、私もついでに足を浸して涼をとる。
この公園には、清流が人工的に流されていて、ミニトレイルが作られている。高低差に出来て、段々状に水が流れおりてくるところで、Tさんは、ときどきしぶきを受けながら橋からじーっと長い間水を見つめていた。
そして、「もう帰ろう」と手をつないで歩き出したとき、突然「むかしむかしねえ、おとうさんがこのかわにぼっちゃーんってはいってね、おぼれちゃったのよ」と言った。
パートナーが川で怖い目にあったことはないし、そういう話も聞かせたことはない。でもTさんはここではじめて「おはなし」をつくった。聞いたことのある言葉と状況から考えた言葉で、まったくちがう話をぽん、と。
おはなしがフィクション=虚構である、と、そのとき、どきんとした。
たしかに、Tさんはこれまでよくしゃべってきたし、絵本も自分で声に出してめくっている。だれど、それは、読んでもらって耳でおぼえた話を再現しているだけだった。ひたすら聞き、ある程度まで満たされたら、絵本を手に「読み」はじめるが、それは心におぼえた言葉を再生する作業に近い。
だけど、清流でTさんが言った「むかしむかしねえ、おとうさんがこのかわにぼっちゃーんってはいって、おぼれちゃったの」というのは、本当に、フィクションだった。つぎはぎでもなく、絵本の断片でもなく、たぶん「おぼれる」という言葉の本当の意味も知らず、頭の中での「想像」を言語化しはじめた瞬間。
内容的はいかがなものかと思うけれど、おはなしがおはなしになった時を目撃したのは貴重だったと思う。
限りなく模倣をくりかえしたのちに、ほんの少しの独創性が、何かのはずみで振れる。その振れが大きくなって、次の複雑化のステップにいくのだろう。
他の遊びでも、この夏に変化が起きている。
何ヶ月も一年以上も、ひたすら高く高く、一直線に高く積んでいくだけだったレゴ・ブロック遊びでは、今、にわかに、幅も奥行きも広がり、すばらしい「動物園」や「横浜」が展開されるようになった。動物やパーツの複雑な使い方は、私の思いもよらない楽しい工夫に満ちている。
それから、人形やぬいぐるみに名前がつくようになったのも最近だ。今までは、どんなお気に入りも「いぬ」「ひつじ」「あかちゃん」と味もそっけもないネーミングだった。
ユニセフの作っている布おもちゃに、四角錐のピラミッドにセットされた動物と王族たちのセットがある。日本人のセンスでは考え付かないアメコミ風の顔つきの、15cmほどの布人形たちである。この前、Tさんが遊んでいるところを聞いていると、「よろしくね、これは、はだかのはーくん(と腰巻姿の男性の人形を手に取る)。これはね、ぎゅうにゅうのぎゅうくん ぎゅうぎゅうかぞくでしょ(白い服を着た女王の人形)。これは、たてがみがあるから(エジプトのミイラのマスクにあるような角ばった頭の人形)たーくんね。Tちゃんとおんなじね。こっちは、赤があるからあかくんちゃん。こっちはねえ、ラクダのビーバー。(他の人形を全部指差して)これとこれとこれとこれとかばとぜんぶなかよしなのよ。これは、かばのさい(サイ?)くんよ」と、紹介させあい、それからままごとに移行していった。
きっと、今の状態は、「子供の想像(創造)力は限りない」と(半ばロマンチックに)いわれたり見られたりするものではないかと思う。
だけど、私は、「創造性のかけらもなかった」、ひたすら塔を高く積んでいるだけだった、人形に名前をつけることをしなかった長い時期を忘れないでおこうとひそかに思う。
それから、知っていることばの知識と自分の想像がブレンドしてできた「むかしむかしねえ、おとうさんがこのかわにぼっちゃーんってはいって、おぼれちゃったの」というフィクションの瞬間を。
そういえば、白い女王のネーミングに出てきた『ぎゅうぎゅうかぞく』(ねじめ正一作、つちだのぶこ絵、すずき出版、2002.09)は、数ヶ月前にいただいたときに集中して読んでいた絵本である。
八百屋を経営しているとしおくんの家は、おとうさん、おかあさん、おじさんおばさん、おじいちゃんにおにいちゃん、おばさんのあかちゃんに、としおくんのいもうとなどなど大家族だ。「としおくんちって いっぱい ぎゅうぎゅうかぞくで いいなあ」と思う「ぼく」の目から描かれた絵本で、つちだのぶこの絵柄と色彩と、ド迫力の家族たち、狭いながらも楽しい我が家な感覚がページいっぱいにひろがっている。
商売で忙しくて子供に拘泥しないから逆に子供が適当にのびのびしていて、それでいて横目でしっかり働くおとたなちを見ている「感じ」も、私はとても好きな絵本だ。
Tさんは、「ぎゅうぎゅうかぞく、わあ、ぎゅうぎゅうだって、おもしろいね」とその響きを気に入り、おふろで抱きしめると「ぎゅうぎゅうよー」、私とTさんとMくんで狭い布団に入ると「わーせまい、ぎゅうにゅうよ(時々間違える)」と笑って叫ぶ。
絵本は絵本、遊びは遊びなのではなく、すべては複合的にからみあっている。そんなわけで、おそらくは、白い上下服から連想した「牛乳」に「ぎゅうぎゅうかぞく」をTさんは思い出したのだろう。
さて、安曇野滞在中に、安曇野ちひろ美術館にも行った。Tさんは、外の池に入って遊んだり、「にじみ絵体験」をしたり(これは、私たちもやったけれど、地元中学の美術部さんにいただいた若い空気が素敵だった上、どうやったって失敗のない美しさがありがたかった)体感的に遊んでいた。
たまたま、長新太さんの追悼展がされていたので、「あっちに『キャベツくん』の絵があるよ」とパートナーと二人で行かせてみて、あとでベビーカーのMくんと見に行くと、Tさんは、原画そっちのけで絵本を読んでもらっていた。何も知らないものより、少しでも知っていて共感できるものにまず近づいていく幼児。さんざんひとつのものに慣れ親しみ、レゴを高く積むようにひたすらひとつのものに向き合ったなら、次には原画を見る方にいくのかもしれない。
Tさんはおかっぱの日本人顔なので、私はちひろの描く絵になんだか既視感をおぼえてしまう。「夏草のパーティー」という原画には「Tちゃんとおともだちたちがいる!」と見入ってしまったほどだった。一方、パートナーは、『ぽちのきたうみ』(岩崎ちひろ/絵と文、武市八十雄/案、至光社、1974)を気に入って購入。飢えた本の虫さながらに、Tさんは何度も何度もコテージでその絵本を私たちに読ませた。
『ぽちのきたうみ』の主人公は、夏休みに、飼い犬のぽちと離れてお母さんと一緒に、おばあちゃんちの海に来たちいちゃんである。赤い水着に浮き輪も持って、楽しみにしていたのだけど、やっぱりぽちがいないとつまらない。「ぽち、はやく、はやくきてね」という手紙を出したら、お父さんが連れてきてくれた。ぽちが来るまで海にも入らず眺めるだけで待っていたちいちゃんの、ほんとうの夏休みが、ぽちと一緒にはじまる。
Tさんにはぽちはいないけれど、大好きな愛犬との充実した夏休み、大きな海の楽しさは存分に味わえたようだ。祖父母に手紙を書くと言い出したので、ミュージアムショップで買ったとっときのカードを渡した。
帰京すれば、また普段の絵本読みが始まる。その中に『ぽちのきたうみ』が加わったことが、なんだかうれしい。安曇野の澄んだ空気や、清流の中のTさんとMくん(足だけだけど)までが、表紙を見るだけでぱあっとよみがえる気がする。
今日、Tさんは、『ぽちのきたうみ』『はらぺこあおむし』の次に『まよなかのだいどころ』を持ってきた。「よんで」と言いながら、表紙を開けると自分で読み始める。私はMくんを抱っこしながら聞いている。Mくんは手を伸ばし、足でけり、絵本にかぶりつこうとする。Tさんは、きゃっきゃと「だめよー」とさわぐ。さわぎながら、ミッキーの話をまた読む。
6月に比べて、Tさんは格段にストーリーを追っている。
まよなかのだいどころ。セイディーとフィリップに。
ミッキーのはなし しってるかい くらやみにおっこちて はだかになって
はだかに なっちゃって はだかになっちゃって おりて…
「あー、てへへへ(Mくんが手を伸ばすのをさえぎる)」
くらいにおっこちて はだかになっちゃって えっと ママとパパとのへやをとおり おりたところは まよなかのだいどころ。パンやさんたちは よるもねないで
あさのケーキをやいている
「これよんで」
――(私)Tちゃん、読んで
パンやさんたちは あさのケーキをやいている しあげはミルク しあげはミルク しあげはミルク しあげはミルク さあ これでケーキがやけます。
できたねりこはオーブンへ やければおいしいミッキーケーキ!
ああいいにおい さっきのにおい そうおもったまっさいちゅう
ミッキーがあま あたまをだしていった。
こいで うん オーブンからとびだして。
うんうん これでよさそうだ。 こいでミッキー まいあがって とびたった。
こうさけぶ。ミルク ミルク ミルクがないと あさのケーキがつくれない。
うーん、あそんでもだいじょうぶ あ、あわてなくてもだいじょうぶ。
ぼくはミッキー パイロット そこにはミルクがいっぱい
あそこにミルクとりにいく。
ぐーんぐーん まよなかのだいどこを あまがわをすすんでいく。
びんのとこにとびこんで はだかになって ぼくがミルク
ミルクばんざい ぼくばんざい。
「うふっ、ひゃあっ へへへ」(Mくんが絵本を奪おうとするのを阻止)
しあげはミルク しあげはミルク。さあ これでケーキがやけます。
これでいうことはありません。 こいで ふ、わ、あ こいで すべっどをおりると (絵本のひらがなを指差してたどる)
そ、こ、で、だ、い、ど、こ、ろ、の、う、え、で、ひ、と、こ、え、さ、け、 ん、で、す、べ、え、つ おりると すべっておりると まっすぐベッドにもどって ……やれやれぬくぬく。
ミッキーどうもありがとう。こいですっかりわかったよ!
まいあさケーキがたべらるわけが。おしまい。
Tさんが読む絵本に手を伸ばすMくんは、下の歯がちいさく顔をのぞかせ、ハイハイが始まった。お盆休みの間にお尻が上がるようになり、ずりばいになるまで3日間。目ざす先は、ダントツに紙が多い。しかし、家にある紙は、ゲラやらカタログやら大事な本やら。ほとんどのものは、Mくんの目の前から、十戒の海のように遠ざかっていき、ひーんと泣くこともしばしばなのだった。
「絵本読みのつれづれ」(09) 児童文学評論 93号(2005.9)
(9) オバケの話
「オバケなんてないさ♪」という有名な童謡をリトミックで教わり、みんなで手をつないでぐるぐるまわってお遊戯してから、Tさんに「オバケ」ブームが来た。お絵描きでも、ピンクの紙に色とりどりのクレヨンでオバケの絵を描く。
楽しげな絵に「何描いたの?」と聞くと(我ながら野暮だ)、「オバケ」とうれしそうな返事で、ちょっとぎょっとしたが、何度か続くうちに、これが今のTさんの大事な遊びなのだと分かった。「オバケ」といわれると、子どもが不安を象徴化して…などとついつい余計なことを考えてしまうのだが、純粋に、何か楽しい友達としてとらえているようである。
保育クラブでも、オバケ好きなことをアピールするだろうと予想され、ストレスを抱えていると勘違いされると困るので、連絡ノートに書いておいた。案の定、保育室で「オバケ」を連呼していたようだ。迎えにいった帰りに先生に「オバケの出てくる絵本を読んで、オバケの格好になって遊んで、すごく元気に走り回っていましたよ」と教えていただいた。
そこでオバケの出てくる絵本が何だったのか聞き忘れたが、本で読むと逆にけっこう怖いのではないだろうか。NHK教育でやっている子ども番組でも、追い詰められるとか逃げるといった場面が苦手ですぐに消してしまうTさんである。大好きなシンデレラの紙芝居でも、舞踏会や変身の素敵なページと、いじめられたり怒られたりしている悲しいページはよりわけて、前者だけを大事に毛布にくるみ、後者は私に「ハイ」と渡すほど。Tさんの「オバケ」は怨念や悪霊ではなく、楽しく遊べる変なヤツ、なのだ。
さらにTさんは最近、バーバパパシリーズを図書館から借りてくるようになった。バーバパパは、図書館では「は」行のパオちゃんシリーズのとなりに並んでいる。借りるときは手当たり次第なTさんだから、最初は偶然に引き出してきたのだろう。
うねうねと姿を変えられて、楽しい大家族で、色合いがそれぞれに特徴的で、物語じたいも起承転結があってなかなか楽しいバーバパパシリーズを、私は絵本で初めて見た。そして「キャラクター」と決めつけていた不明を恥じた。
リサとガスパールもそうだが、人間や動物との共存と「自然に町にいる」感じがいい。それから、バーバママが「母」の役割に限定されず、夫に愛されている美人さんなところも、個人的には気に入っている。
昨日借りてきたのは『バーバパパのたんじょうび』(チゾン+テイラー、やましたはるお、講談社、1974/1997)と『バーバパパのあふりかいき』(チゾン+テイラー、やましたはるお、講談社、1974/1997)だった。その前に『バーバパパのクリスマス』『バーバパパのしんじゅとり』『バーバパパののみたいじ』と読んでいる。
「のみたいじ」では、バーバモジャがはりねずみと友達になる。だけど抱き合って昼寝したらのみが移ってカユカユになってしまい、モジャは毛を全部刈る。寒そうなモジャにバーバママがセーターを編んでくれる。
はりねずみにノミというのも、そもそもノミ退治が絵本になってるところも、実に異文化だった。また、バーバの「綿菓子」チックなところと背景になる町や営みのディテールの描きこまれ方の対比がいい。
バーバパパを何冊か読んだあとに、はっと気づいたのはバーバもオバケだったことだ。それまでとなりのパオちゃんは借りていてもバーバパパまでは手が伸びていなかったのに、ちょうど「オバケ」への興味とリンクするようにバーバを知ったのは不思議なことである。
そんなTさんとの一問一答。
私 「オバケってこわい?」
T 「ううん、こわくないよ」
私 「オバケってどこにいるの?」
T 「森のなか」
私 「森の中はこわい?」
T 「うん、こわい」
私 「オバケって大きいの?」
T 「うん、大きい」
私 「どんな色?」
T 「白だよ!」
「オバケってどこにいるの?」の質問に、「森のはずれの木の下じゃあ!」と答えたこともあった。Tさんにとって、異界は今生きている「大人と共存している世界」、その中で、「ちょっと変なモノ」「オバケ」「精霊」「ものいう動物」などなどは、異のものではなく、むしろ大人に対するよりもずっと深いシンパシーを感じるものなのかもしれない。
今月のトムの庭のブッククラブは『いつもちこくのおとこのこ――ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー』(ジョン・バーニンガム/たにかわしゅんたろう、あかね書房、1987/1988)だった。
私はバーニンガムの絵本に、いつもなんだか居心地の悪さを感じる。『ガンピーさんのふなあそび』では親切なはずのガンピーさんと動物たちのやりとりにも落ち着かない。『アボカド・ベイビー』もそうだった。痛快なはずのアボカド・ベイビーの活躍が手放しで楽しめなかった。そしていずれも、繊細でやわらかい色彩と絵にはものすごくひかれていて、そのギャップに余計に居心地の悪さを感じた。
『いつもちこくのおとこのこ』もテーマがはっきりしていて、その、妙に醒めたところになんだか後ずさりしたくなる。子どもの見る視点からの真実をつきつけられて、思わず「スミマセン」と謝りたくなり、それでいて、絵の奥行きと色合いにはとてもひかれる。 だが、Tさんは、私の葛藤など気にもせず早速何度も読ませて覚え、「ジョン・パトリック・オンマカヘンヌシさーん」とそのまま楽しんでいる。
未就園児のTさんだけど、ジョンが感じているような理不尽を、実生活でも感じる場面があるのかもしれない、それを言語化せずに思い出しているのかもしれない。 バーバパパやTさんの頭の中にある「オバケ」の親しさ・近しさに比べて、エドワード・リアのナンセンス絵本に出てきそうな、歯をむいた教師の造形。「オバケ」は、話の通じない「世の中」の方なのだ。それは、まるで不思議の国のアリスを見るようである。
このように、今はオバケブーム到来中のTさんだが、なんでもかんでもというわけではない。6月の誕生日プレゼントのアンパンマンおもちゃが入っていた大きなラッピング袋がある。ビニールではないので適度に通気があり、アマゾンカラーの紫色だ。かぶるとTさんの腰のあたりまでくる。
かぶって歩くのは楽しかろう。本当はちょっと危ないけれど、こけてもたいしたことないだろうと放っている。本人は意気揚々と「じゃーん」と出てくる。オバケブームを知っている私が「かわいいおばけねえ」と声をかけると、袋をぬいで「ちがうよ、プレゼントTちゃんだよ」と言った。
分かった気になってはいけないのだ。
Mくんは、がぜん身体が強くなってきた。つかまり立ちをすっかりマスターし、ずりばいで人間雑巾と化しながら部屋中自由自在に動いている。段差や階段のある家なので、はいはいで3段の階段を器用にのぼっていく。理解するはずはないと思いつつ、高さ20cmほどのベッドから降りるときは「足からよ」と足を持って足からおろすよう何度かやっていたら、頭から転げ落ちるのではなく足からすべりおりるようになった。
紙への興味は薄れ気味である。おいしいものではないということが分かったのかもしれない。耳はよく聞こえていて「Mくん」と呼びかけると動きが止まるとかちょっときょろきょろするとか、反応するようになった。それから、生まれたばかりの頃から言っていた「Mくんの大好きなおふろよ」の「おふろ」はどうやら素敵な言葉だと理解しているようである。「おそと」ももちろん大好きだ。分かっているのか分からないが、ちょっとでも通じると思っていたほうが楽しい。
Tさんとは、私が幸福になるくらい仲がいい(というかTさんに可愛がってもらって、Mくんもなついている)。Tさんが身体を張ってぴょんぴょん飛んだり、変わった音を出したり、ドアを閉めたりするとMくんが笑う。するとTさんも笑う。するとまたMくんも笑う。笑う門に、福よこい。
(Tさん3才3ヶ月、Mくん7ヶ月)
「絵本読みのつれづれ」(10) 児童文学評論 95号(2005.11)
(10) おひめさまの話
(Tさん 3歳5ヶ月、Mくん 9ヶ月)
先日、フィンランドのポスドクのマルティナさんという方が家に見えた。アリスのイメージの研究などをなさっていて、日本でのリサーチも、ビジュアルな資料にご興味をお持ちだったからのようなので、見せるほどのものでもないが、日本の一般家庭の絵本や『Bookend』『Pee
Boo』などの雑誌をご紹介した。
Tさんはお客様がくるとすっかりシャイになってしまうタイプなのだが、自分の絵本がわさわさ出されているのを見て「そういう集まり」なのだと理解したようで、なんだかまわりをちょろちょろしていたが、やがて、山積みになった中から、ふと、お客さんを忘れて『わたしのワンピース(にしまきかやこ絵・文、こぐま社、1969年)を読み始めた。
『わたしのワンピース』は、1年半前にTさんとの絵本読みの記録を『子どもプラス』に初めて書かせていただいたとき、入れようか迷った絵本だから、2歳になる前にはもう読み聞かせはじめていた。小さいTさんがすぐに暗記してしまった本でもあり、ワンピースの次々に変わる模様にひきつけられ、自分で「ミシン カタカタ」とまねをする。うさぎが眠って星空を横たわる場面にはテキストがなく、ばんばんページをたたくTさんに「字のないページもあるのよ」と、絵を読むことを初めて教えたのもこの絵本だった。
NHK教育の「テレビ絵本」で映像になったものを見たときは、CHARAさんのちょっと不思議なふわふわした声が、うさぎのモノローグによく合っていたのも思い出す。クレヨン風の一見単純な線と色合いの、だけどとても深みのある画のそれぞれが、私にもTさんにも魅力的な絵本だ。
だけど、この絵本、2歳前で読んだときから食いつきがよかったのに『子どもプラス』に書かなかったのは、まさに初めて見たときに「これがジェンダーのはじまり?」と戸惑ってしまったからだった。それまでは、バムとケロにしろ「012」のシリーズにしろ、Tさんが読んでいたのは「こども」向けのものだったのだが、『わたしのワンピース』が、とりあえずはとても「女の子」向きであったことに、それまでそういう絵本をほとんど見てこなかった中で、ものすごく強烈に感じたのだった。
ところが3歳半の今では、最初に読んだときに感じたあの「女の子らしさ」を、それほど強くは感じない。それはTさんの周りに、もうすでに1年半かけて女の子らしいものがどっぷり進出してきたからであり、彼女の宝物の中には、例えばおまけでもらったディズニープリンセスのカレンダーやプリキュアのティッシュが入っている。
マルティナさんに「この絵本はすてきね。でも、なぜうさぎなの?」と聞かれたとき、そういえば昔は驚いたのだ…と思い出しながら「たぶん、うさぎは白くてふわふわしていてかわいいから女の子のシンボルで、テーマもワンピース作りだから女の子向けで、出版されたのは1969年だからジェンダーのバイアスがかかっているかもしれない…」と、もごもごとしゃべった。最初は強烈に感じた『わたしのワンピース』は、他の記号にまぎれて当たり前になっていっていて、いつのまにか、Tさんは女の子になり、うさぎは女の子であることに私は慣れてしまっていた(なるべくそういう差異に意識的であろうとしていたのだけど)。
ごく低月齢の赤ちゃんのうちは男女がはっきり分からないことが多いから、他人にとっての目印に、女の子は赤、男の子は青のベビー服が選ばれる。その名残でいきおいTさんの場合は(頂き物が多かったこともあり)赤やピンクの服が多かった。もちろん青やオレンジや黄色や緑など他の色もあるけれど、「どのお洋服着ようか」とコミュニケーションができるくらいの年になると、「ピンク、Tちゃん、ピンク!」と主張するようになり、赤系で揃っていればコーディネイトもしやすいし、という実用的な理由もあって、見事に女の子色の服になっていった。
だけど、たとえばその先で他人にいわれる「やっぱり女の子ねえ」という言説は、社会性をおびている。そういう言い方には心の底で反発しつつ、そうですねえなどと適当に相槌を打ち、「着ないともったいないから、本人の喜ぶ服を買おう」「本人の喜ぶ服を着せよう」という意識に助長されるうち、少なくとも、Tさんの女の子服への方向性ができてしまった。デニムの服もシックな服も、Tさんは小躍りするほどは喜ばない。そのへんは、やっぱり子どもの喜ぶ顔が見たい親の気持ちで選んでしまうのである。
ジェンダーは少しずつ伸ばしたり叩いたり変形されたり整えられたりしていく。
ここで、私は記憶をひもとく。Tさんがピンクとふりふり好きになったのは…。
2歳半のときに買った、今まさに着て寝ているパジャマだった。買ったのはサイズが大きくなったからというまったく実用的な理由からだったのだが、本当になにげなく、「こういうのは喜ぶかな」と思って選んだのが、白地に薄いピンクの水玉で、綿レースとピンクのリボンがアクセントになっていて、上着はベビードール風のデザインの、まさに「可愛い」ものだった。
そうだ、あれが引き金だった、と今思う。Tさんはまさに一目ぼれで、「かわいいパジャマ」がいたくお気に入りになった。そして、ピンクと白とフリルとリボンに目覚めてしまったのだ。
何か潜在的なものを激しくゆすぶる記号が、Tさんの場合は「ピンクのお姫様風」だった(しかもパジャマ)。これは人によってそれこそ様々だろうから(キティちゃんが好きな人もいれば、ヴィトンに目がない人もいる)、Tさんのスイッチがたまたまピンクとリボンだったのだろう。そこには、文化的な縛りもジェンダーもない。
だけど、それをそのまま受け入れ、引き伸ばしたのは親も含めて周囲だと思う。パジャマ以来、「Tちゃん、ピンクが好き!」と叫んでも誰もそれを否定せずにピンクの服を着せた。修正しなかったものの結果が、彼女の好みを助長し、今のところはまさに「女の子」に要請された形を満たして現時点に至る。
もちろん、こんなパジャマだっていつかは卒業するだろう。彼女の選択はどんどん変わるだろう。だけど、変わっていく中で、Tさんが選択するコードと、社会的規範と、親の好みと、フィクションからのメッセージはどう複雑化していくのだろうか。
さて、そういう前提を踏まえて今Tさんが好きなのは『シンデレラ−小さなガラスの靴』(天沢退二郎訳、東逸子絵、ミキハウス、1987年)である。東逸子さんの絵はいつだってゴージャスで西洋的で、そのめくるめくきらきらの世界は、すっかりTさんを魅了している。「これすてきねえ」とかぼちゃの馬車の前に立つピンクのドレスを着たシンデレラをうっとり眺め、その見開きの場面を開いて書架に立てかけている。ペローの再話は宮廷文学だから、描写もまたゴージャス。その勢いで、保育クラブでは、ピンクのスカート(教室内のおもちゃで着て遊べる)をはいて「おひめさまになってパーティごっこ」で遊び、七五三の写真は着物以外に「ピンクのドレスも着る!」と主張した。
また、あいかわらずパーティごっこも好きで、Tさんはブッククラブで届いた『おばけパーティ』(ジャック・デュケノワ作、大沢晶訳、ほるぷ出版、1995年)で、アンリのパーティに喜び、『たんじょうびのまえのひに』(かるべめぐみ作、こどものとも586号、福音館書店、2005年1月)はかれこれ数ヶ月以上何度も読み続けている。
『たんじょうびのまえのひに』は、お隣のディエゴおばさんが、おたんじょうびの前の日に、まきちゃんに布やボタンやリボンを選ばせ、その材料で猫に変身できる着ぐるみを作ってくれる話だ。ディエゴおばさんの飼い猫のディエゴは、まきちゃんとは遊ぶペースが合わなかったのだが、まきちゃんが衣装で猫になったので、ディエゴと楽しく遊べるようになる。少しくすみの入った色と登場人物の表情に味がある。衣装を作る楽しみ、四角いボタンが好き、緑の布が好き、という選択が楽しく、Tさんは、「あーん、ディエゴだめ」というまきちゃんのセリフを、まさに弟に何か取られたりするときと同じ臨場感でしゃべっている。
Mくんの方は、今、「本棚から手の届く限りの本をなぎ落とす」遊びに夢中である。ペーパーバックや文庫本を深夜に片付けても次の日にはまた落とされ、親にとっては賽の河原だが、Mくんが落とす文庫本はすべて表紙が取られていて、本棚の下から三段目以上は無傷である。ということは、これは、かつてTさんが同じ遊びをしていたこと、Tさんはなおかつ文庫本のカバーも全部取る、という今よりハードな遊びをしていたこと、そして、三段目に手が届くくらい大きくなった頃にはこの遊びは卒業、ということだ。今だけ、今だけこうして遊んで楽しい。Mくんは文庫本とペーパーバックに埋もれ、ウェストールの原書をなんとなくめくっているが、それがつかのまであることを知っているから、寛大にもなれる。
絵本読みのときにTさんに読んでいると、Mくんは私の側からハイハイで絵本を乗り越え、Tさんにのしかかりに行き、ついでに、自分もページをめくりたくてしょうがなくて絵本のページをくしゃっとする。Tさんは「きゃあ、やめてよー、Mくん」と半ばゲラゲラ笑いながら絵本を引っ張る。
Mくんも、しかし、だんだんに男の子になっていくはずである。話しかけ方ひとつとっても、「ぼくのなんだよね」といった風に言語そのものが男性化されているし、お母さん同士のおしゃべりでは「もう離乳食もずいぶん進んでね」「二人目は早いよね」「でも、まだまだ母乳大好きなの」「そういうところは男の子だよね(笑)」といった会話が日常的になされている。彼を男の子にしていく社会や見方はすでに始まっている。TさんもMくんも、自分の好きなようにいろんなものを選んでいってほしい。やがて彼らが何か息苦しさを感じたら、それはそのときに考えよう。
「絵本読みのつれづれ」(11) 児童文学評論 96号(2005.12)
絵本読みのつれづれ(11) コラボレーション
Tさん(3歳6ヶ月) Mくん(10ヶ月)
年の瀬を迎え、なんだかあわただしい日が続いている。本当なら、アドベントカレンダーなど日々めくって、クリスマスイブまでカウントダウンしたいところなのだが、つい買いそびれてしまった。せめてツリーは11月中に早々に出し、いっときの寒波の襲来では東京でも冷え込み、寒さの中のぬくもり、の気分が盛り上がったと思う。
クリスマス絵本では、『まりーちゃんのくりすます』(文・絵 フランソワーズ 訳 与田準一、岩波書店、1953/1975)と『ペッテルとロッタのクリスマス』(エルサ・ベスコフさく・え、ひしきあきらこやく、福音館書店、1947/2001)を1回ずつ読んだ。やぎおじさんの種明かしや、贈り物は互い同士にが基本、というあたりで、「良い子にサンタからのプレゼント」の幼児的前提がはずれているような気がして、私の方がどきどきしてしまった。Tさんはどう受け止めたのだろうか。
「サンタさんってどこにすんでいるのかなあ」と典型的な質問をしてきたときは、「なんと典型的な」と思いつつ『サンタクロースと小人たち』(マウリ=クンナス作/いながきみはる訳、講談社、1981/1982)を読んでみた。
『サンタクロースと小人たち』は、レンガ色のようなややくすんだ赤の色合いと、まるっこい目鼻の愛嬌のあるサンタ・クロースと小人の絵本で、昔贈り物でいただいたものだ。普通の人間の家にはもはや住めなくなってしまった精霊の流れついた先がサンタクロースの国というのが、見ようによっては残念で、彼らはもはやサンタの国でしか生きのびられないのかと悲しくも思うが、サンタクロースという異界の人物を知るにあたっては、習俗の基盤がフィンランド式サウナやページェントなど、日本から見て異文化のそれであることがしっくりくるかもしれない。
さて、未就園児保育やリトミックでクリスマス会に参加し、去年よりもぐっとイベントを楽しむようになったTさんは、今年初めてサンタクロース(に扮装したどこかのパパさん)を見て本物と思いこみ、配られたプレゼントが自分の希望と違う…と浮かない顔をしていた。「ありがとう」もいえなかったTさんを叱りつつ、ちょっぴり滑稽にも思って、「幼稚園のサンタさんは幼稚園のサンタさんで、24日にはTちゃんのサンタさんは枕元にくるから大丈夫よ」と声をかけると、急に表情がぱあっと明るくなった。
Tさんは、このときのサンタクロース氏の扮装に、絵本とは違うリアリティを感じたようで、帰宅すると、大きなアマゾン・ジャパンのプレゼント袋を出し、そこに絵本をいっぱいにつめて、ずるずる引っ張りながら、私とMくんにプレゼントを配ってくれた。
手当たり次第であったが、私には『ちいさいおうち』(バージニア・リー・バートン文・絵 石井桃子訳、岩波書店、1942/1954)、Mくんには『ちいさないえがありました』(エヴァ・エリクソン絵、バールブロー・リンドグレン文、ひしきあきらこ訳、小峰書店、1994/1997)。そうかそうか、では読んであげようかとMくんのためだけに久々に絵本をめくって読んでいると、そばでTさんもじーっと聞いている。
この絵本は、何度か読むうちに動物たちの鳴き声のところをTさんが読むようになって「コラボ」した初めての絵本だった。テキストが「ぶたがでてきて、いいました。「ブーブー」」だったら、「ブーブー」の部分だけTさんが言う。今回は、ご挨拶のところをじーっと聞いているので珍しいなと思っていたら、「さあ、ごはんだ!」で再び動物たちそれぞれが鳴き声を出すページにくると、がまんできないように「ブーブー」「ワンワン」「ニャンニャン」とすべて効果的に声を入れてくれた。
当のMくんは、私の仕事机で抱っこされ、目の前にあるもっと魅力的な、落っことしてみたい品々に目がいっていた。目の前のすべてのものをなぎはらってみたいというのは、何の本能なのだろうか。本もしかり、テーブルもしかり、おふろのシャンプー類もしかり。私のノートパソコンのキーボードは、Tさんはバンバンたたきたがっていたが、Mくんはぎゅっぎゅっとつかみたがる。先代のノートパソコンのキーボードのキーは、1箇所欠けてしまったところから次々にむしられて、悲惨なことになった。
でも、まあ、そういうことをしながら、きっと耳では聞いているのだろう。Mくんはまた、Tさんの声が大好きで、たぶん、私が読むよりも、ねえさんがひとりで音読している絵本のテキストをよく聞いているから。
Tさんとコラボできる絵本はほかにもある。『へびくんのおさんぽ』(いとうひろし作・絵、すずき出版、1992)は、いとうひろしらしいとぼけた絵がユーモラスで、へびの表情に人間味を感じる作品である。
へびくんがおさんぽに行き、水たまりを越えようとして、うんと体を伸ばすと、「背中を渡らせてくださいな」とたくさんの生き物がやってくる。ねずみやかたつむりくらいならいいけれど、象まで来てしまって、支えるへびくんは大変だ。変則的に4コマ漫画のような動物どうしのやりとりのページが入るのだが、Tさんが読み上げるのは、主に見開きページの、動物が実際にへびくんの背中を渡っている場面である。ねずみたちの「ぞろぞろ ぞろぞろ ぞろ」、犬の「どかどか どかどか」、ライオンの「どすどす どすどす」。Tさんの読み方はなかなか迫真に満ちており、「どすどす」されているへびくんはいかにも苦しそうだなあと思える、力のこめっぷりである。
最近では末吉暁子さんに頂戴した『もくようびはどこへいくの?』(ジャニーン・ブライアン:ぶん、スティーブン・マイケル・キング:え、すえよしあきこ:やく、主婦の友社、2001/2005.12)がよかった。
クマのスプーのおたんじょうびは木曜日。ケーキにジュースに風船など、本当に楽しい一日を過ごしたあと、夜になってから「もくようびはどこへいってしまうのだろう」と考える。夜中に窓から外をながめ、「もくようびがいっちゃうまえに、 さよならって、いいたいな」と思うスプーに、友達でアヒルのガンブーが、一緒に夜の冒険に出てくれる。 全体に青い色が印象的で、紺色の夜の深さと、ぼうとする星々に、日付の変わる「夜」の不思議さが感じられる。 時間が経過するという感覚を具象化し、お誕生日のあとの「その日そのもの」にご挨拶するという発想のものを読んだのははじめてだった。
Tさんは、最初に読んだときに、スプーの出会う水の音や魚のはねる音を、大きな声で自分で読んでいた。そこだけ手書き風の「スイースイー」や「パシャリ」という音と、私が読むテキストが重なりあって、まるで演出効果つきのように楽しい絵本読みの時間だった。
また、Tさんは最近勝手にカタカナを覚えてしまって、シルヴァスタインの『おおきな木』をさして「おかあさん、おおきなホって本だね」などと言うのだが、さきほど、机の上に出していた『もくようびはどこへいくの?』を見るなり、おもむろに読み始めた。まだ一回しか読んでいない絵本だから、暗記しているのではなく本当に読んでいる。
「へんじはありません」が「へんじは りません」、「みずうみのほとりで」が「みずうみの とりで」になるのは、音読みしたときに母音が続くので重なるように省略されてしまうからである。
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もくようびはどこへいくのぉ? (尋ねる風に)
もくようびのことでした
そのひはスプーとおたんじょうびだったのです
たのしいことだらけ いちにちでした
よるになり
たのしかった こともおわり
あしたのあさは
もうスプーのおたんじょうびではないのです
スプーは ふしぎでたまりません
ぼくのおたんじょうび どこへいっちゃうんだろう
ねえねえ もくようびはさ きんよびがくると どこへいっちゃうのかな
はんぶーは かんがえこみました
はんぶーにきいてみました
どこにいくはずだね
スプーといいました
ぼく もくようがいっちゃうまえに さようならっていいたいな
そうしよう
そこまでふたりは すっとかいだんをおりて おもてにでて
それから きからほしへ
おほしさまが まちました
ふたりがまっさきにやってきたのは はしのした
おだやかになだれました
ごーごーごーごー (臨場感たっぷりに)
かわはそういってます
もくようくん きみなの
ぼくたちさよならっていいにきたんだよ
でも、へんじはありませんでした
スプーとはんぶーは
こうえんをみつけました
たかいきで ふくろうがこえをはりあげました
つめたいよぞらにとんでいきました
もくようびくん きみなの
スプーはきいてみました
へんじは りませんでした
スプーとはんぶー みずうみのとりにすわっていました
すわっているおとがきました
ぱしゃりとたたいて
もくようびくん きみなの
スプーはきいてみましたが へんじは りませんでした
ふたりは おかにのぼってみました
するととつぜんトンネルんなかからうなりごえがひびいてきました
ふーふー (実際に息を吹きかける)
エンジンがしゃべり しゃりんがうなりながらはしりさっていいました
もくようびくんきみなの
スプーはたずねましたが へんじはかってきませんでした
スプーとはんぶー うみへあるいていきました
しろいぎざぎざのなみがは ま べにう ちゅ よせていました
すいすいすーい (楽しそうに)
なんだかかなしくてスプーとはんぶー いえにかえっていきました
ふたりはいえのまえのかいだんにこしかけ
ねえ ぼく もくようびってこんなかたちをしているとおもうんだ
へえどんなかたち
はんぶーはきいています
それはねおおきくてまんまるだ
ぼくのおたんじょうびけーきみたいに
でね ろうそくみたいにあかるいの
でね ふうせんみたいにぼく たのしくしてるの
たしたほんだともう
はんぶーはじっとかんがえて かんがえこんでいるようでした
それからちらっとじっと それからそらをみあげました
そらにおつきさまがでていました
おおきくてあかあるくてまんまるできんいろで
それはまるで
もくようびだ!
ちょうどそのときおつきさまはゆくりとくものうしろにかくれました
スプーはてをふりました さようなら もくようびくん
スプーはさけびました
さようならあ
そうしてスプーとはんぶーはまたおうちにもどりました
すやすやとねむりました
おしまい
おひさまがきんようびをつれていくまで
おしまい
もくようびはどこへいくの?(書誌情報のページも読む)
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正直、ここまで読めるとは思っていなかったので驚いた。
野暮を承知で、「お母さんが読むのと自分で読むのとどっちがいいの?」と聞いてみたら、「じぶんでよむほうがむずかしいのはおかあさんがやって、よめるほうがはTちゃんがやる。」というしごくもっともな答えだった。
他のお母さんが絵本を読んでいるところを見ると、絵を指差して「ここに○○がいるね」とか「きれいな色になったね」とかコミュニケーションをしている。うちは、ほとんどの場合テキストオンリーで読み、最中に絵を媒介にして何か話をすることはあまりない。だが、先月から喜んでいる『おばけパーティ』(ジャック・デュケノワ、おおさわあきら訳、ほるぷ出版、1949/1995)は、いつになくよく言葉が出てきた。
『おばけパーティ』は、おばけのアンリが、自分の住む古城に仲間のおばけをたくさん招待して晩餐会を催す絵本だ。オードブルやカクテル、メインなど次々に出す中で、おばけたちはカクテルの色に染まってしまったり、「ほっぺがとろけそう」な料理で本当にとろけて透明になってしまったりする。すっかり気に入って、先日は、遊びに来たお友達にも読み聞かせていた。
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私「ふかいおしろの」(冒頭部。本当は「古いお城の」でいい間違えた)
T「ふるい!」(上記の間違いを訂正した)
…
私「いいかーい?」(アンリが料理を運んでもいいか聞く)
T「はーい!」(いい返事)
…
私「おいしいよ、とっても!」(カクテルを飲んだおばけたちの反応)
T「あれ、みどりになっちゃったね」
…
私「ふーん、おいしいね、このスープ」(おばけたちの反応)
T「これ、何色?」(かぼちゃのスープを指差して)
私「かぼちゃいろ」(テキストにはないが、私が補った)
…
私「こんどはおさかな。サーモンだ!」
T「サーモンきのうたべたね。さけね」(この絵本以来、Tさんは鮭をサーモンと呼ぶ)
…
私「あらあら サラダ はい チーズ」
T「はいっ、 チーズ!」(写真を撮るときのことを思い出している)
…
私「ほっぺがとろけそう」
T「なんでアンリのなかまたちはいなくなっちゃったのかなあ」(空中に食器だけが浮かぶ絵)
私「とろけちゃったんじゃない?」(テキストにはないが、私が補った)
…
T「あれ、アンリは?」(テキストのせりふを一緒に言う)
T「ここにいるんだよね」(アンリがふざけて隠れた甲冑をさす)
T「ばああっ」(アンリが仲間を脅かすせりふを一緒に言う)
T「これのんだらみどりいろにかわっちゃう みて いろがかわっかった。いた!あ、しろになった。アンリ もうアンリったら。」(うれしそうに)
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Mくんはもっぱら書棚の本をなぎたおす専門だったが、最近は時々絵本をめくって喜んでいる。最初は『どろんこハリー』(ジーン・ジオンぶん、マーガレット・ブロイ・グレアムえ、わたなべしげおやく、福音館書店、1956/1964)。これはTさんが最初に好きになったのと同じだ。それから、『五味太郎ポスター絵本』(五味太郎、偕成社、1987)だから、大きい絵本(?)がいいのかもしれない。Mくんが反応するのはTさんの声であることも多く、「おふろ」という言葉が大好きだ。それから、「Mくーん、気合を入れろ、ふんっ」(『ポスター絵本』のまねである)と言うとげらげら笑う。
言葉の真似もしはじめている。最初に、6ヶ月くらいの頃に「あっぶーわ」とMくんの真似を私がしたら「このひとには通じた!」といわんばかりに笑顔になった。今は「あんまー」が私のこと(もしくはおっぱいのこと)らしい。この前は、Tさんに「おいでっ」と言われて、すぐに「えっ」と真似した。そうそう、英語でもそうだけど、書き言葉と実際のしゃべりは違う。「おいでっ」とすばやくいわれると耳に残るのは「で」の母音で、たしかに「えっ」なのだ。そうか、こうして母語が身につくのかとおもしろい。
Tさんのジェンダーバイアスでいろいろ思うところがあったのだが、冬本番になり、寒そうなMくんに何かないかと探していると、Tさんが小さかったときに愛用していた、もこもこの着ぐるみのようなコートが見つかった。真っ白でピンクのハートの飾りがつき、ご丁寧に背中には小さな羽根もしょっている。それから、厚手のフリースのコートは、ちょっとシックなピンク色で、花の形のボタンに、ハートのトッグル留めである。
どちらも、「暖かい」というそれだけの理由で「ま、いいか」とMくんにおさがりにすることにした。かといって、0歳のMくんのアイデンティティに何か悪いことが起きるとは思えない。Tさんが赤やピンク好きになったのも最初は「女の子と分かる」「本人が喜んで着替える」という実用的な理由からだった。それで美しいお姫様の造形は好きになったけれど、今のところ、だから男性に依存的になるとも思えない。
あたたかいこと、楽しいこと。実用は理念にまさる。
たぶん絵本読みも。
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不定期連載といいつつ今年は楽しく11回も書かせていただきました。思いがけない方から読んでくださっていると声をかけていただいたり、メールを頂戴したりして、大変励みになりました。ご愛顧、ありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
鈴木宏枝 拝(http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/)
「絵本読みのつれづれ」(12) 児童文学評論 98号(2006.2)
「あいだ」にあるもの
(Tさん 3歳8ヶ月、Mくん 1歳0ヶ月)
Mくんは2月16日に満1歳になった。写真はお姉ちゃんと一緒に写っているものが多いし、お下がりも多いし、なんとなく「二人目の宿命」を背負いつつあるが、それでも、赤ちゃん時代はそれなりにつきっきりだし、ハイハイとかうつぶせとかたっちとか、いろんな貴重な瞬間を(時にはTさんも一緒に)目撃できたのはうれしかった。0歳児の1年は長く感じられる。誕生日にあたって、改めて生まれたての写真を見ると、体重だって当社比で3倍くらいになっているのだから、赤ちゃんの成長力はすごい。
今は、本棚の本をなぎ倒す遊びももちろん好きなのだが、最近は少し進歩して、厚みのある柔らかい本(例えば電話帳)をぱらぱらぱらぱらと親指でめくり落とすようになった。やけに真剣な顔つきで、ぱらぱら漫画のように雑誌をめくる。夢中になるとついよだれがつーっとたれて、柔らかい本にはしみになったりするのだが、「本」という形に対して、以前よりは、人間らしい興味で接している。
Tさんが10ヶ月くらいで、座って新聞をばさばさめくって遊んでいたのに対し、Mくんは、私が読んでいる新聞の上を、なきがごとくにハイハイしていく。絵本を読んでみても、ぷいとよそを向くことが多い。畢竟、Tさんにだけ読むことが多くなってやや悪循環だったのだが、この間図書館に行ったときは、初めて少し絵本に興味を示した。
最初はこどものともシリーズから『おにぎり』を読んでも見向きもせず、書架の絵本を引っ張り出そうとする作業に夢中だった。だが、赤ちゃんには赤ちゃん絵本かと、オクセンバリーの『さわる』(かわばたつよし訳、童話館出版、1995.11)をめくってみると、不意に磁石…というより鏡を見るように見入り、最後まで集中が続いた(といっても数ページだが)。
「赤ちゃんは鏡を見たときの鏡像に、初めて統合化された<自分>を見出して喜ぶ」というのはラカンの理論だったと思うが、絵本にもその効果はあるのだろうか。赤ちゃんに赤ちゃん絵本を、という主張に、それまでどうもなじみきらないものを感じていたのだが、「赤ちゃんのためのデザイン」というよりは、赤ちゃんそのものがいることに、もしかして赤ちゃんが喜ぶのなら、鏡で喜んで遊ぶように、赤ちゃん絵本で、自分に似たひとに触れるのは、やっぱり赤ちゃんにとって特別な絵本経験なのかもしれない。
赤ちゃんといえば、定番のブルーナの絵本がある。シリーズはしかし、わりに話が冗長でいまひとつオチが足りないと感じ、ブルーナのイラストも絵も大好きなわりに、絵本はいまひとつだなあと思っていた。Tさんも、1歳ごろのときはそれほど食いつきがよくなくて棚の飾りとなっていた。パートナーは、『うさこちゃんとどうぶつえん』を読みきかせたときに、「動物園に行くうさぎに<おまえも動物だろう>とつっこみたくなる」と笑った。私は、動物園の話なのに、半分くらいは、だらだらと行き帰りの汽車の場面が大きいことが散漫に思えた。端的に言って、我が家ではそのときブルーナが受けなかったのだ。たぶん、それまでの「子どもにブルーナの絵本を読むんだ」という大いなる夢の期待の大きさにも反するかのように。
同じ頃に何かの集まりで、「Tさんはブルーナの絵本を、全然見向きもしないんですよ」と言っておもしろがられたことがある。赤ちゃんはみんな喜ぶというブルーナだけど、私もおもしろくなかったし、Tさんもさして喜ばなかった。これは、マイナスではあったけれど、世間の指標ではなく、私と私の家族の絵本体験をいつか書きとめておこうと思ったきっかけのひとつになった。ブルーナを否定するときがあったっていい、それはタブーではない、と。
だが、2年を経て、うさこちゃんは、改めてTさんの仲良しになった。最初はNHKでやっていた3Dの「ミッフィー」の放送で、ぐっと楽しんだ。放送も終わってしばらくした昨年の11月(Tさんが3歳5ヶ月のとき)、私と出かけた「ミッフィーのおたんじょうび」のこどもミュージカルが、うまくはまった。
ミュージカルは私も意外に楽しめて、50歳(!)(とは言っていなかったが)のミッフィーの誕生日会の1日を芝居仕立てにしている。2部構成で子どもに手拍子させたり歌を歌ったりするプログラムもあり、1時間半も、程よい長さだったと思う。帰宅して改めて『うさこちゃんのたんじょうび』を読んだTさんは、「ミッフィー、ミッフィー、ミッフィーちゃん♪ ハッピーバースディ!」と歌い、「おんなじワンピースだね」と表紙を眺めていた。そうして、改めてブルーナの絵本を手に取り、今度はよく読むようになった。 ブルーナの色とデザインに反応したのが、ミュージカルやテレビ放送だったというのは、book
peopleとしては寂しさもあるのだが、私だって同じ穴のなんとやら。今ではTさんはひとりで『おひゃくしょうのやん』『びーんちゃんとふぃーんちゃん』『さーかす』と次々に出して読む。それを見ていると、私も、「やっぱりね、うさこちゃんおもしろいじゃない」と心から思うようになり、ウサギが動物園に行くのもまた楽し、と『うさこちゃんとどうぶつえん』も楽しく読んでいる。
本読みの時空間を作るのは本と人だけではない。経験とか、雰囲気とか、いろんなものが重なっているように思う。そして、大人の私が一方的に手渡すだけでなく、おもしろがって読んでいるTさんの姿から、「あれ、やっぱりおもしろいのかな」と私自身が思うような、逆方向の影響もありえるのだと思ったことだった。
今、Tさんは、幼年文学にも少しずつ手を伸ばしている。『テーブルがおかのこうめちゃん』(末吉暁子・作、仁科幸子・絵、岩崎書店、2005.12)は、12月に頂いて以来、もう何回読んだだろう。普通の児童書や似たような本が並んでいる中から、Tさんは新しく来たこの本を、並べるやいなや本当にめざとく見つけた。
『テーブルがおかのこうめちゃん』の主人公は、赤い小さな梅干の女の子。わりばし森にわたあめの花が咲いたのを合図に、友だちのなすびちゃんに現地で落ち合って、年に一度のお花見を楽しむ。てーぶるがおかからわりばし森に行くまでの間に、いたずらもののとうがらしこぞうが、落とし穴などの罠をしかけておく。だが、何も知らないことが逆に力になって、こうめちゃんはひっかかることはない。逆に、逆上したとうがらしこぞうの方が自分の仕掛けた罠にはまってしまう。とうがらしこぞうの素朴なドジぶりと、らんらんらんと出かけるこうめちゃんの愛らしさが、重なるように楽しめる幼年文学である。 Tさんは、どこが気に入ったのだろう。聞いてみても、「ここ」とたまたま開いていたページの絵を指しただけ。つまりは、絵があるところがいい、のかもしれないが、真相はよく分からない。ただし、私個人も、クラシックなフォントや、こうめちゃんの楽しさや、何より、話にぴったり合った夕焼け色の絵がとても好きである。
Tさんが好きなのは、お花見シーンに伴っておでんたちが緑茶温泉に入っている見開きページである。ここは自分で「おでーんでんでんぼくらはなかよし ちくわにがんもにこんにゃくだ!」と適当な節回しで歌う。「Tちゃんのすきなこんにゃくはどれかなー」と探す。「がんもってなに?」と聞くので「Tちゃんの好きなお豆腐の親戚」などと答えておく。今日は、みんながわたあめの花に見とれている白黒の絵のページで「こうめちゃんとなすびちゃんはどこにいるんだろう」としばし探していた。「ろくちゃおんせんにいるのね」と見つけて納得していた。先週は、<てーぶるがおかのこうめちゃんがスキップしているところ>なるお絵かきもしていたので、「好き」は本物なのではないかと思う。
幼年文学は絵がなくても通じる話で、絵本は絵がないと通じない、と大雑把に分けるけれど、「絵があったほうがぐっとおもしろいお話」は絵本と幼年文学の中間くらいだろうか。ジャンル分けは必須のものではないが、装丁含めた絵とテクストの幸福な合致は、どの本にも重要なことと思う。
ここで、定点観測的にTさんの読んでいる本を見ると、書きとめた日だけだがこのような感じである。
1/30
『テーブルがおかのこうめちゃん』
『うさこちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん』
(ディック・ブルーナぶん・え、松岡享子やく、福音館書店、1988/1993.04)
『ノディーおもちゃのくにへ』
(エニッド=ブライトンさく くめみのるやく 講談社、1949/1976.12)
『しらないいぬがついてきた』
(小林与志/作・絵、鈴木出版、2003.09)
『しまじろう』 2月号
『いっしょにつくろう』
(高田千鶴子他、福音館書店、1994.10)
2/6
『ももたろう』
(おばらあやこ・ぶん/うめだふじお・え、学習研究社、2000.12)
『ロサリンドとこじか』
(エルサ・ベスコフさく 石井登志子やく、フェリシモ出版、1924/2001.12)
『しまじろう』 1月号
2/7
『ねこガム』
(きむらよしお作 こどものとも年少版、福音館書店、2005.01)
『ムシムシエホン』
(井上洋介さく こどものとも年少版、福音館書店、2005.10)
『あおくんときいろちゃん』
(レオ・レオーニ・作 藤田圭雄・訳、至光社、1967/1994)
『ぐりとぐらのえんそく』
(なかがわりえことやまわきゆりこ、福音館書店、1979/1983.03)
『ルラルさんのにわ』
(いとうひろしさく、ポプラ社、2001.09)
2/8
『100まんびきのねこ』
(ワンダ・ガアグさく、いしいももこ訳、
2/9
『くだものだもの』
(石津ちひろ文、山村浩二絵、こどものとも年少版、福音館書店、2004.08)
『おやすみなさいマーヤちゃん』
(西巻かなさく こどものとも年少版、福音館書店、2005.06)
『らったくんのばんごはん』
(坂根美佳ぶん・宮澤ナツえ、こどものとも年少版、福音館書店、2004.10)
『サンドイッチ サンドイッチ』
(小西栄子作 こどものとも年少版、福音館書店、2005.04)
『ふりかけ』
(いしだえつ子文、横尾美美絵、こどものとも年少版、福音館書店、2005.10)
『パオちゃんのなつまつり』
(なかがわみちこ作、PHP研究所、2003.05)
『びっくりぎょうてん』
(小長谷清実文、ペテル・ウフナールとふりやなな絵、こどものとも年少版、福音館書店、2004.02)
『もしもこぶたにホットケーキをあげると』
(ローラ・ジョフィ・ニューメロフ文、フェリシア・ボンド絵、青山南訳、岩崎書店、1998/1999.09)
2/17
『ノディーのがくげいかい』
(エニッド=ブライトンさく なかやまともこやく 講談社、1949/1977.02)
『どうよう名曲集』
(永岡書店編集部編、永岡書店、1977.01)
『きらぼしひめの物語』
(ベリンダ・ダウンズ刺繍 アニー・ダルトン再話 せなあいこ訳、1999/2000.10)
※ほとんど絵だけ見て、「おかあさんはどのきれいなドレスがすき?」などと聞いてくる。「Tちゃんはこのみずいろのくつ!」と自分でも考える。原画も見たことがあるが、どれもたしかにため息ものの美しさである。
『いつもちこくのおとこのこ』
(ジョン・バーニンガムさく たにかわしゅんたろうやく あかね書房、1987/1988.09)
2/19
『こねずみチッポのクリスマス』(紙芝居)
『ぎゅうぎゅうかぞく』
(ねじめ正一作、つちだのぶこ絵、鈴木出版、2002.09)
『パオちゃんのなつまつり』
2/21
『いっしょってうれしいな』
(シャーロット・ゾロトウ、みらいなな訳、童話館出版、1991.04)
『でこぼこフレンズ』
『もしもこぶたにホットケーキをあげると』
『ことばのべんきょう くまちゃんのごあいさつ』
(加古里子 文・絵 、福音館書店、1972.02)
※最近の読み方としては、赤ちゃんくまが使っている赤ちゃん言葉がおもしろいらしい。「いってきまちゅ、ちゅ、だって、ははは。あかちゃーん」と笑う。お父さんのお見送りのときにわざと「いってらっちゃーい」と私が言うとげらげら笑う。
2/22
『目で見るパパとママの小児科入門』
(川上義、法研、2002.06)
2/25
『わたしのぼうしをみなかった?』
(原作ジョン・ノドゼット、画フリッツ・シーベル、ウエザヒル翻訳委員会、ウエザヒル出版社、1963/1966.07)
『ぐりとぐらのえんそく』
『パピンとサッカー』(こうつうあんぜんかみしばい)
『ぽちのきたうみ』
(岩崎ちひろ/絵と文 武市八十雄/案、至光社、1974/2003
『うさこちゃんとじてんしゃ』
(ディック・ブルーナぶん・え、松岡享子やく、福音館書店、1982/1984)
付録的な本といわゆる名作と幼年文学と絵本とその辺にある本とごちゃまぜであるが、何がおもしろいかは、まさにそのときの気分なのだろう。
だけど、今月は、ブッククラブだった『もしもこぶたにホットケーキをあげると』がおもしろかったようである。日本のマンガにも似たイラスト的な絵の絵本で、私は色使いも好きだ。 ペットのこぶたにホットケーキをあげたら、きっとメイプルシロップもほしがって、体がべとべとしたらお風呂に入りたがって…と、次々にお世話の空想が連鎖していくお話である。こぶたを飼っている女の子は、こぶたのお世話にてんやわんや。お母さんみたいに世話を焼くことになる。
異人種(?)間の世話関係でいくと「バムとケロ」のシリーズが思い浮かぶ。奔放なケロちゃんのいかにも幼児らしい欲求につきあうバムのキーワードは「しかたがないから」である。願いをかなえて懐柔しつつ、ケロちゃんのペースをととのえるバムは、とてもできたおかあさんに見える。
『もしもこぶたにホットケーキをあげると』では、こぶたはにっこりと笑って、かなえてもらう幸福感に満ちている。次々に願いが出てきて最後はもとにもどっておしまい、というスパイラルの中で、女の子は最後に疲れて眠ってしまい、そのそばで、こぶたは再びおいしいホットケーキを食べている。
こぶたをお風呂に入れたり、大工仕事を手伝ったり、ピアノを弾いたりする女の子は、不思議に表情がないことが気になっていたのだが、裏表紙を見ると、こぶたが手当たり次第にとったインスタントカメラの写真の女の子は、にっこり笑っている。ああ、よかった。なんだか、女の子が自分に重なってしまったのだ。でも、この子は、ちゃんと笑っていて、よかった。
バムも時折目を細めてケロちゃんを見て笑っている。時々でいい、笑っているのがいい。Tさんは実のところ、こぶた/ケロちゃん、女の子/バム、のどちらに共感しているのだろう。
夜になっておもちゃを片付けているそばからひっくり返してしまうMくんに、最初は泣いて抗議していたのに、最近は「はいってやるのよ、はいっ」と、なんと片付け方を教えていた。Mくんも神妙に大量の指人形をかごの中に放り込んでいた。Mくんがどさどさと出して放置した絵本を、いつの間にか片付けていてくれたこともある。バムとケロ、こぶたと女の子の「あいだ」にいるのが、姉なる幼児なのかもしれない。
「絵本読みのつれづれ」(13) 児童文学評論 103号(2006.7)
絵本読みのつれづれ(13) 「絵本を介して」
(Tさん 4歳1ヶ月、Mくん 1歳5ヶ月)
Mくんは、まわりよりやや遅かったけれども、1歳3ヶ月で歩くようになり、いまや、ずいぶん高いところを上りたがったり、好奇心旺盛にいろんなものに手を出したりしている。保育所では、親の知らない世界ではぐくまれ、同年齢のお友だちと元気に過ごしている。Tさんは、無事に幼稚園に入園して楽しい1学期をおくった。様々なことに配慮の行き届いている幼稚園で、成長に沿うていただいているような気がする。Tさんは、6月には誕生日を迎え、幼稚園では、お誕生会があった。1,2,3本とろうそくをともしていき、私があらかじめ書いた「お母さんのお腹の中にいたとき」「生まれたとき お母さんが思ったこと」「0歳の頃は…」「1歳の頃は…」の思い出を、先生が読み上げる。4本目のろうそくがともって、ひとつ年を重ねたことを感じ、贈り物に蜜蝋のろうそくと、先生のお手製のひよこの編ぐるみ人形を頂いた。親からの贈り物はドールハウスで、これは、遊び場になっている二段ベッドの上に設置され、中には、赤いテーブルと椅子が並んでいる。
この赤いテーブルと椅子は、春前に、作家の末吉暁子さんのお宅で開催されたガレージセールで買わせていただいたものである。モダンなご趣味のお母さまがお買い集めになった様々な可愛らしいものが出されていて、そのときは、まだTさんにはドールハウスはなかったのだけど、いつか使おうと、陶器の蓄音機やミシンの小間道具と、このテーブルと椅子を買ったのだった。
このとき、Tさんは、素敵な洋館の窓辺の階段の下に座り、私が買い物をしている間、末吉さんご放出の絵本を読み、頂戴した『バニーといっしょにやってみよう』(ドロシー・クンハート/エディス・クンハート すえよしあきこ訳、講談社、1999/2003)を読んでいた。それは、親がいうのもなんだけど、まるで絵のような、柔らかい日差しがあたった特等席の、Tさんだけのすばらしい絵本空間だった。
毎月届くブッククラブももちろんそうなのだけど、4歳になるTさんには、親が買い与える絵本や図書館で借りてくる絵本以外に、いろんな絵本との出会い方のバリエーションが生まれてくる。『バニーといっしょにやってみよう』は仕掛け絵本の一種で、指を入れてバニーを指人形のように使いながら、厚手のページをめくれる。「おててをぱちぱち」や「さあわらいましょう」と遊べる絵本は、家に帰ると、むしろMくんの方が楽しみ、まずはひっぱったりかじったりしていた。
ついでながら、末吉さんに頂いてきた絵本の中でMくんは『オリコウサウルスくん』(ミック・インクペン、きたむらまさお訳、大日本絵画、1993/1994)もお気に入りである。手のひらサイズの小さな仕掛け絵本で、開くと、オリコウサウルスくんがはみがきしたり、どろんこあそびしたりしている。そのコンパクトさが、あまりに大掛かりな仕掛け絵本よりも、ちょうど目線と彼のサイズに合っているのかもしれない。
「読み聞かせ」じたいも、私以外の人から行われる場合もある。もちろん、図書館のお話会に行けば、1対大勢でそのような場はあるけれど、2月に、群馬県で学校司書をしている小柳聡美さんが遊びに来てくれたときは、私の読む淡々とした棒読み調の絵本読みではない、豊かで優しく語り掛ける読みを味わわせてもらった。
小柳さんと一緒に来てくれたお嬢さんのYちゃんは、Tさんと同じ学年で、年に1度くらいは会う機会がある。二人の子どもが両側から小柳さんをのぞきこむような形で『リサといもうと』(アン・グットマンぶん、ゲオルグ・ハレンスレーベンえ、石津
ちひろやく、ブロンズ新社、2001)を読み聞かせてもらっているのを、私は少し離れたところから見ていた。Tさんにとって、それは、「家で」「自分の絵本を」「自分の想像とはまったく違う読み方で」読んでもらう、ものすごい新鮮な体験だったに違いない(と思う)。
『リサといもうと』では、犬のリサが、これから生まれる赤ちゃんに嫉妬。家族で名前を考えているときに、ゴミバコとかゴキブリとかいう。だけど、実際に妹が誕生して、だんだん近づいていってみると、とってもかわいい赤ちゃんであることに気づく。いまや、妹のリラはリサのご自慢だ。だけど、ママにもやっぱり甘えたい計算が働く。
リサのセリフを読みながら、子どもたちに「ゴミバコだって」と話しかけたり、大げさではなく声色を変えたり、目に入るものについて話しかけてくるYちゃんに答えたりしながら、小柳さんは、そっとページを繰っていく。Tさんにとって、まったく違った『リサといもうと』体験だった(と思う)。本職の絵本読みを贅沢にプライベートで聞いたひとときだった。
それから、3月に三辺律子さんに遊びに来ていただいたときに頂戴した『ねずみくんのちいさなおうち』(ペトル・ホラチェック作・絵、さんべりつこ訳、フレーベル館、2006.01)も、良かった。大きなりんごを見つけたねずみちゃんが、自分の家を出て、自分とりんごが入れるだけの大きな穴を探して歩きまわる。うさぎさん、あなぐまさん、どこも断られたねずみちゃんが見つけたのは結局、一番居心地のいい場所。実際のページに、それぞれのお家の「穴」が開いていて、家の内と外とを同時に体験できるような仕掛けも楽しい。また、鮮やかな色彩と、切り絵と貼り絵の手法から生まれる質感もいい。ねずみちゃんも、その所作も、なんとも幼児らしいのだが、他の動物の表情は意外にリアルで、優しいうさぎの顔あり、あとずさってしまう迫力のくまありで楽しめる。
この絵本を、本当は、三辺さんが読んで下さろうとしたのだ。だけど、Tさんは、遊びに来てくれたお兄ちゃんお姉ちゃんが気になって心がお留守。少しだけ読んでくれたあと、それを察した律子さんは、「気になるよね、今はいいよ」と本を閉じ、Tさんは遊びに参加しに行った。私は恐縮だったけれど、たしかに、もちろん、子どもには、絵本を楽しみたい時間と、そうでない時間がある。律子さんも、それはよくご存知なのだ。逆に、子どもの時間と絵本がはまるときに、絵本読みは、突然に始まる。
その後、Tさんは、何度も『ねずみくんのちいさなおうち』を読み、よく堪能している。じっと絵を眺めいり、だんだんに黙読も始まるようになってきて、字を追いかけ、動物を見つめる。絵本はやっぱり全身で感じてほしいと、私は改めて思う。音読しながら、うさぎさんの表情がいいなあ、優しい目だなあ、ねずみちゃんは後ずさっているし、声はおっかないみたいだけど、大きなクマも、いい味を出しているなあ、とあちこちに目をやる。Tさんも、物語を聞き、絵を読んでいる。
昨年の夏は、白百合女子大学で、蔵書整理のため、関係者限定の蔵書放出があった。そのとき、Tさん(当時は3歳1ヶ月)は私と車で出かけて、私が本を物色している間、裸足で本の山の間をてけてけ歩き回って、時折ぺたんと座っては、好きな絵本をめくっていた。このとき私が頂いた本の中で、Tさんのお気に入りになったのは、『ジェインのもうふ』(アーサー・ミラー、偕成社、1973)と『わたしのぼうしをみなかった?』(原作・ジョン・ノドゼット、画・フリッツ・シーベル、ウエザヒル出版社、1966)だった。
『わたしのぼうしをみなかった?』は、頂いてきた頃何度か読み、最近、再びTさんに大ブームがきている。原作の題もなく、訳者は「ウエザヒル翻訳委員会」。しかし、監修委員には三島由紀夫、ハル・ライシャワーなどの名前がある。調査をしたわけではないけれど、なにやら時代の志を感じる、そして今でも素敵な絵本だ。
古い茶色の帽子がお気に入りだったおひゃくしょうさん。あるとき、その帽子が風に飛ばされてしまう。動物たちにたずねるが、リスが見たのは「そらをとんでいくふとったまるいちゃいろのとり」、ヤギが見たのは「へんなまるいちゃいろのうえきばち」。帽子は、見るものによってアイデンティティを変えながら、飛ばされていく。最後に、おひゃくしょうさんが見つけたのは、その帽子を巣にしている鳥だった。おひゃくしょうさんは納得して、「りっぱなまるいちゃいろのすがたいへんすばらしい」といい、自分は新しい茶色の帽子を買いにいく。そして、その帽子もお気に入りになる。
おひゃくしょうさんののんびりとした表情も、線画で表される動物たちの様子も、探しに探すこっけいな様子も、ちょっと古風な教科書風のフォントも、なんだか落ち着く絵本である。蔵書放出だから、セロテープの修復のあともあるし、万年筆で消えた字をなぞっているし、全体にいかにも古書なのだけど、ぴかぴかの絵本ではなく、この年代を経た絵本で、このお話に出会ったことが、Tさんにとっては良かったのかもしれない。手渡されてきた時間の重みを、この絵本の全体から感じるのである。
「だいがくいこうよ、ごほんのところ」いまだに時々Tさんはいう。大学は、Tさんにとってはどんな場に見えているのか、聞こえているのか。幼児の知的好奇心も閉ざすことのない、すてきな場所だとインプットされていれば、幸いである。
最近のTさんのお気に入りは、この『わたしのぼうしをみなかった?』と『もしもこぶたにホットケーキをあげると』(ローラ・ジョフィ・ニューメロフ文、フェリシア・ボンド絵、青山南訳、岩崎書店、1999/1999)、それから『ぶたぶたくんのおかいもの』(土方久功さく/え、福音館書店、1970.10/1985.02)で、3冊をまとめて持ってくることが多い。『ぶたぶたくんのおかいもの』は特に好きで、しばしば夜のお休み前の一冊になる。
長い話なのだが、しだいにそらんじ、何度もせがむ。ぶたぶたくんが、おかあさんに頼まれて、ぱんやとやおやにお買い物。用がすんだあと、偶然友だちのからすのかあこちゃんに会い、一緒におかしやへ。さらにこぐまくんに会い、一緒に帰る。四辻でさようならして、しばらくひとりで歩くと、無事家にたどり着く。ぶたぶたくん「ひとり」の時間と、お店の人とのやりとりの時間と、仲間が増えていく重なりの部分のバランスがとてもいい(ことに今気がついた)。
Tさんが一番楽しんだところは、まず、3匹が一緒に歩く場面の軽快なせりふ「くまくま どたじた どたあん ばたん」というユーモラスな言葉で、次に、やおやのはやくちおねえさんのセリフだった。「おかいものは なにと なにと なにと なに、きゃべつ きゅうり とまと ねぎ、 ばななに りんごに なつみかん、あまい しょっぱい すっぱい にがい…」と大変な早口で言う場面。最初読んだとき、Tさんはげらげら笑い、やがて覚えて、ここにくると「みててね、Tちゃんが読むの…なになになになに きゃべつ きゅうり なななに りんご なつみかん あまい しょっぱい すっぱい…」と本人にしては思いっきり早口で読む。覚えているものを口にするのではなく、テクストを見て、それを早く読もうとしていくのが、年齢にふさわしい進歩かもしれない。
この絵本には、最後に、ぶたぶたくんのたどった場所の地図がついていて、Tさんは最後にその見開きで「めいろやろうよ」という。ぶたぶたくんのうちから出発して、「ぱんやさん、やおやさん、ここでかあこちゃんがこっち、こぐまくんがこっち…ぐるっとまわってとうちゃく!」
私は、この絵本の絵はそれほど好みではないのだが、読みながらのセリフが、読んでいて本当に気持ちがいいことに気づいた。「いけにさかながおよいでたっけ はやしには ことりたちが ないてたっけ とんでたっけ…」〜っけという言い方は、確認の言葉であり、本来、今現在進行している会話で使うものではない。だけど、「くもも ふわり ふわり うかんでたっけ……へりこぷたーが とんできたっけ」と「っけ」をくりかえすのんびりした話し言葉に、なぜだか、涙が出そうになるのである。そうすると、好みではない、ぱんやさんの妙にリアルな顔も、「かんしん かんしん」といってくれる本当にやさしいにこにこおじさんに見えてくるから不思議だ。
Mくんの方は、Tさんの同時期に比べてけっこう遅くになってから、絵本や本に興味を持つようになった。ふざけて新聞の上を歩いたりして、私に叱られるのだが、「本」という形は、好きなようである。少し前まで、大変気に入っていたのが『こどもとお母さんのあそびうたえほん』(小林衛己子編、大島妙子絵、のら書店、2000年)だった。たぶん「見て」か「読んで」か分からないけれど、自分の意思で私に持ってきた初めての本だったのではないだろうか。
わらべうたをいくつか歌うとうれしそうだが、必ずしも、読んでもらうことにこだわるわけではないので、途中でしまいになってしまう。「あんたがた どこさ ひごさ…」ぱたん「あら、もうおしまい?」くらいである