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白百合女子大学児童文化学会発行 『白百合児童文化』 [ 1997年10月 所収 |
アフリカ系アメリカ人のバージニア=ハミルトン(Hamilton, Virginia、1936−)は、現代の児童文学作家の中で最重要視されているひとりである。ハミルトンの作品には、民族集団(註1)や平行文化の諸問題が具体的に表現され、重いテーマを抱え込んでいることが多い。人種問題、貧困、差別などが、しばしば多層的に描かれているため、「問題小説」と定義されることもある。
そもそも問題小説とは、1970年代に優勢になったフィクションの一形式で、子どもの本においても感傷的になることなしに、現代社会の厳しい現実を描こうとするものだ。しかし、ハミルトン作品が「問題小説」とされるとき、「問題」とされている貧困、離婚、混血、マイノリティなどは、結局のところ大道具に過ぎない。これらの問題は結果的に照射されてはいるが、ハミルトンが本当に描きたいのは、いくつもの問題が複雑に絡み合っている社会と時代の中で、人間らしく生きようとしている子どもの姿の方なのである。彼女の真の主題は、アイデンティティを獲得しようとして真剣に自分と向き合う子どもたちの、サバイバルの道程であると言えるだろう。
そして、このようなハミルトンの作品には、ふるさとオハイオの風土が大変色濃く現れている。
Place and time are at the heart of the fiction I write.The place being a minuscule, unlikely piece of Southern Ohio, where I was born.The time is the period of my early life that is transformed and heightened to uniqueness through the creative process.(中略)Home is where I find the emotional landscape for my own spiritual growth and the geographical location for the fictions.Time and place become almost mythical.
訳:場所と時は私の書くフィクションの核心です。場所は、私が生まれた南オハイオの、ちっぽけな実際にはないような空間です。時は、私の子ども時代ですが、創作の過程を通じて、独特のものへと変えられ、高められます。(中略)私にとって故郷は、自分が精神的に成長するための情愛の風景であり、創作用の地理を見つける場所です。時と場所は、ほとんど神話の世界になっているのです。
(Virginia Hamilton."The Horn Book Magazine"
December 1981 "AH,SWEET REMEMORY!" p.635,l.6−20)
Justice and Her Brothers(1980−81)の蒸し暑いオハイオの夏。Arilla Sun Down(1976、掛川恭子訳『わたしはアリラ』)の、ものみな凍てつくオハイオの冬。Plain City(1993、掛川恭子訳『雪あらしの町』)で、突発的に巻き起こるホワイトアウト。また、M.C.Higgins, the Great(1974、橋本福夫訳『偉大なるM.C.』)の家族が暮らすセアラ山や、The Magical Adventures of Pretty Pearl(1983、荒このみ訳『プリティ・パールのふしぎな冒険』)での、ジョージアからオハイオに至る旅の道筋。アメリカ中西部の気候風土はハミルトン作品に具体的に再現され、ドメスティックな風景を見せている。そのことによって、これらの作品はまず「形」としてのアメリカらしさを持っていると言えるだろう。
このように、ハミルトンの作品群には、アメリカの国内性がはっきりと浮かび上がっている。だが、そこに登場する子どもたちの生きる姿は、より普遍的な人間像を示していると言えよう。ハミルトン作品の子どもたちは、しばしばサバイバー(生きのびる者たち)であるとされているが、それはまさに、現代という時代を生きている、私たち自身の姿とも重ね合わされるものだ。そして、過去を振り返れば、ハミルトンがこだわり続けているアフリカ系の民族集団もまた、偉大なるサバイバーである。彼らはまさに奴隷制度を生きのび、「自由」という真の人間らしさを獲得しようとしてきた歴史を持っているからだ。
本論では第一に、子どもたちのサバイバルの背景としての自然の機能を明らかにしたい。第二に、背景であるはずの自然に、もうひとつの主人公を見ることのできる例を挙げる。そしてそれに関連して、そのような自然の中に何が眠っているのかを考える。
1 サバイバル
ハミルトンの作品に登場する子どもたちは、強烈な個性を持ち、児童文学のメインストリームの子どもたちとは大きく異なっていることが多い。高いポールの上から山を見渡し、自分が世界に秩序を与えていると自負している少年M.C.(M.C.Higgins,the Great)。母親に過干渉されて疲弊しきっている、肥満のジュニア=ブラウン。ジュニアの友人で、天涯孤独のスーパーボーイ、バディ=クラーク(The Planet of Junior Brown)。あらゆるマジョリティから疎外されている、混血の少女ブレア(Plain City)。彼らはまさに、人間らしく生きるためにサバイバルをしている。そして、最もつらく厳しい状況におかれながら、驚異的に思えるほどの真摯さで、自分を規定するものを探り、自分が何者であるかを知ろうとしているのだ。
ハミルトンの9作目にあたるArilla Sun Downには、舞台となる町の様子や中西部の風土、家族の在り方や語りべとしての自己に目覚める少女像など、自伝的と言われる要素が数多く含まれている。祖父母をはじめとする親戚たちが語るたくさんの物語に耳をすませた、子どものころの記憶について、ハミルトンはいくつかのエッセイの中で語っている。ハミルトンの<内なる子ども>は、まさにバージニアとしてひたすらに聞く、イノセンスな少女の姿なのではないか。作品中のアリラもまた、知恵者のジェームズの語る輪廻の哲学や、ふるさとにたえずかえろうとする父の行為を通して、自分にとって、アメリンド(アメリカンインディアン)という民族集団とは何なのか、ということに気づいていった。「物語を聞き、それを昇華して語り直していく」ことを自らのアイデンティティとして獲得する、という一点において、この作品は、まさにハミルトンの自伝になっているのである。
そして、Arilla Sun Downの主人公アリラは、個性的な家族の中で、またアメリンドという民族集団の中で、どのように自分らしさを獲得するか、というアイデンティティの問題と、常に対峙している。「わたしはどこからきたのか」「わたしはどのように生きていくのか」という強い思いは、成長途上にある子どもたちの根底にある、人間らしさへの問いと同義なのではないだろうか。アリラは、語りべとしての自己を見いだすまでの過程で、世界観の大きな変容を体験した。そして、その成長への道程での内面の葛藤こそが、アリラにとってのサバイバルと言えるものだったのである。
つまり、ハミルトンの考えるサバイバルとは、衣食住を確保するといった物理的な問題ではない。それは、最も苛酷な状況の中で、いかに人間らしい尊厳を保ち、自分の人生を深く意味あるものにするか、という、自分とのたたかいのことなのである。表面的な苛酷さは、彼らの精神的サバイバルの背後にある装置に過ぎない。
現代の子どもたちの姿(註2)と、物語中でサバイバルをしている子ども、また歴史的にサバイバルを強いられてきたアフリカ系アメリカ人やアメリカンインディアンの姿は、容易に重ね合わせられるだろう。周縁からのメッセージとしての「児童文学」は、困難の中で絶望せずに生きていくことの意味について、読者に考えさせる。ハミルトンは、装置として苛酷な状況を用いながら、むしろ希望をもって、人間らしさを追求する作品を書き続けているのではないだろうか。
2 サバイバルの背景にある自然
では、ハミルトン作品の子どもたちのサバイバルにおいて、オハイオという土地は、どのような意味を持っているのだろうか。
オハイオにはかつて、奴隷州のケンタッキーと、自由州の北部をつなぐ地下鉄道(underway railroad)の駅(station)があった。ハミルトンの祖先もまた、地下鉄道を通じて自由を手に入れた逃亡奴隷である。ハミルトンのテーマが、平行文化の担い手たちの手に入れるべき自由な精神と、彼らのサバイバルであるということは、彼女の背後に綿々と連なる民族集団の歴史を眺めるとよく分かる。
ハミルトンは常に、自分のルーツを問うている作家である。もともとはアフリカの民であったハミルトンの先祖は、奴隷として新大陸に輸入されたときから、アメリカでの新たな歴史を刻み始めることを余儀なくされた。彼らは、歪められた形でアメリカに土壌を得、そこを生きる場として選ばざるを得なかった。そして、そのような厳しい状況の中で、真の自由を求めながら、したたかにアメリカという土地に根を張ってきたのである。例えば、アフリカから来た人々が、自分たちの土地としてのアメリカを獲得していくリアリスティックな様子は、ファンタジー作品としてのThe Magical Adventures of Pretty Pearlに、希望に満ちたものとして描かれている。
オハイオという土地の厳しい自然も、そこにある家族の絆も、南部と北部をつなぐ自由への駅を持っていたことに由来する解放の精神も、すべてがオハイオ「性」として、オハイオという土地に、そして作家ハミルトンに内在していると言えるだろう。自然の厳しさ、サバイバルのあるべき姿が、この土地には必然的に宿っているのである。
オハイオの自然風土は、書き手ハミルトン自身のバックボーンである。そしてそれは、現実的妥当性という意味で、作品中にきわめてリアリスティックに描かれていることが多い。だが、それと同時に、オハイオの自然は、サバイバルの持つオリジナルな意味を再確認させる機能も持っているのではないだろうか。常に「現在」の書き手であるハミルトンは、現代社会を生きのびなければならない子どもたちを主人公に据える。ハミルトンは、過去から啓発を受け、先人に語られた物語を自分の中で熟させ、新たな言葉を用いて、再び語り直す。この作家にとって重要なのは、過去の物語ではない。むしろ、彼女が常に問題にしているのは、過去を受け止めながら生きている子どもたちの現在なのだから。
ハミルトンは、厳しい「現実」と「現在」が、オハイオの自然に内包されているのを実感しながら生きてきた。そして、その現実感覚を作品の中にたえず生かしている。オハイオの自然は、作家にとっても、登場人物にとっても、読者にとっても、常に現在であり、常に現実だ。そしてオハイオの自然は、ハミルトン作品の中でのサバイバルの意味をいっそう際立たせるものなのである。
ハミルトンの7作目であるM.C.Higgins,the Greatの舞台は、オハイオ川を臨むセアラ山である。ヒギンズ家の長男のM.C.は自我が強く、存在感が大きい。彼は、セアラ山に君臨していると思い込み、the Greatを自認している少年である。
ヒギンズ家は、セアラ山の中腹にある小屋で暮らしていて、その庭には15mの高さのポールが垂直に立っている。このポールは、M.C.が幼いときにオハイオ川を泳ぎ渡ったことへの褒美として父から与えられたものである。それは、名誉と同時に、孤高のM.C.のありようをも示しているのだろう。
M.C.Higgins, the Great では、セアラ山とオハイオ川という自然そのものが、単なる背景として以上に、私たち読者に迫り寄っている。
第一に、墓標としてのポールがそびえ立つセアラ山は、密接に「過去」と結びついている。M.C.は、<赤ん坊を連れたセアラがどのようにしてこの山にやって来て、そののちの人生を生きのびていったか>という物語を常に意識せずにはいられないほどである。
Effortlessly, his mind brought Sarah back to life. There she was, hurrying over the last hill facing the mountain. She always glanced behind her, never trusting the empty trail as she raced ahead, carrying something. M.C. knew the story by heart. He knew she ran for freedom. She carried a baby.
(本文 p.26.l.23-28)
訳:努力もせずに、彼はセアラを頭の中でよみがえらせた。彼女は山に面した最後の丘を急いで上っている。誰もいない小道でも安心できずに、何かをおぶって、たえず後ろを振り返っていた。M.C.は、その話を暗記していた。彼は、セアラが自由のために逃げていることも知っていた。それに赤ん坊を背負っていることも。
彼の父ジョーンズは、今はもう意味を知る者もいない、セアラの古い子守歌を深層に記憶している。その歌は「過去」と直接つながっているものであり、M.C.が不気味に感じるほどの力強さを持っている。
"Granddaddy came here in his mama's, Sarah's arms," Jones said quietly. "She wasn't free yet. The war wasn't started but it was coming. Only Sarah couldn't wait. I expect she ran until she found a place big enough to free her troubles. Just the clothes on her back, that half-dead child and the song she sang to him, my granddaddy. He grew up and sang it to my daddy. And he to me." And then Jones began the weirdest chant: "O bola," he sang, "Coo-pa-yani-, Si na-ma- gamma, o deh-keh-no."
(本文 p.77.l.28-p78.l.7)
訳:「じっちゃんは、母ちゃんの、つまりセアラの腕に抱かれてここにやってきた。」ジョーンズは静かに言った。「セアラは、まだ自由じゃなかった。南北戦争はまだ始まってなかったけど、足音はしていた。セアラだけが待ちきれなかったんだな。たぶん、いろんな面倒にしばられない、でっかい土地を見つけるまで逃げてたんだろう。背中にしょってたのは、自分の服と、半分死にかけの赤ん坊と、おれのじっちゃんに歌ってやれる子守歌だけだった。じっちゃんは大きくなって、おれの父ちゃんにその歌を歌ってやった。父ちゃんはおれに歌った。」そしてジョーンズは不思議な旋律を口ずさみ始めた。「オー、ボラ」という歌。「ク−パ−ヤニ、シ、ナ−マ−ガマ、オー、デーケーノウ。」
代々の息子に歌い継がれてきた不可思議な子守歌と同様、先祖の過去の記憶は、セアラ山に地層のように集積していた。そしてその山で、M.C.とその家族は、毎日の生活を営んでいる。過去に支配され規定されつつ、現在を生きのびるM.C.と家族。彼らの「現在」をこのように形作った「過去」は、理屈を越えたリアルさでセアラ山という自然の中に眠っているのではないだろうか。
第二にM.C.は、悠然と流れるオハイオ川を、ポールのてっぺんからはるかに眺めることができる。M.C.の人生とセアラ山は、オハイオ川ともまた、分かち難く結びついているのだ。オハイオ川は、奴隷と自由との境界線であり、多くの奴隷たちの悲しみと喜びの歴史を見続けてきた証人でもある。
そもそもオハイオ州は、歴史的に自由を表していると言われている。ハミルトンの同時代作家トニ=モリソン(Morrison, Toni)は、『黒人として女として作家として』(Black Women Writers at Work)でクローディア=テートのインタビューに答えて、
オハイオ州の北部には地下鉄の駅があって、黒人たちがカナダへ逃げ出す歴史があ り、南部はケンタッキーそのままで、十字架を燃やすことまでケンタッキーと似て います。オハイオでは、この国で理想とされていたものと、基本的にあったものと が奇妙に並列しています。黒人にとってはメッカでもありました。いくつかの厳し い障害もあったとはいえ、オハイオにはよい生活の可能性と自由の可能性がありま したから、黒人たちは工場を目指してやってきました。オハイオはまた、黒人にとっ て型通りの生活からにげださせてくれるところでもあります。農園でもなければ、 特殊地区でもありません。 (p.158.l.7−17)
と述べている。モリソンもオハイオ出身の黒人女性作家であり、中西部の独特の空気に内在するオハイオ「性」に大きく影響を受けている一人である。
モリソンやハミルトンらにとって、南部と北部の分岐点の地に生きて物語を書くということが、同時にいかに自分自身をも語るものであるかということは、容易に想像できる。この場合、オハイオ川はオハイオの象徴の一つなのだろう。過去の墓標の上で揺れるM.C.の眼下に、時間が悠然と流れている。逃亡奴隷たちは自由に向かって、この川を渡った。先祖の歴史を背負って今を生きるM.C.は、この川を泳ぎ切ることで、the Greatとしての自己のアイデンティティを得ている。このとき、M.C.の姿は、再びアフリカ系アメリカ人そのものに重ね合わされる。民族集団の過去の歴史は、現在をしたたかに生きていかなければならないM.C.にこそ、引き受けられるべきなのだから。
つまり、オハイオの自然は、まず、現在のサバイバルを際立たせる装置として機能している。現在のサバイバルを支えている、過去の人々のサバイバルの経験は、ハミルトンの作品では、自然の中に深く眠っている。また、奴隷制度を生きのびてきたアフリカ系アメリカ人の経験は、常に思い起こされ、新たな語りの中で新たないのちを与えられる。過去は、現在を生きる黒人のサバイバルを規定し続けてきた。過去の物語としての民話や昔話が、現在のフィクションを規定し、根底で支えているように、民族集団の過去の記憶は、個人のサバイバルを規定し、支えていると言えよう。
そのような、現在を支えるべき過去の記憶は、ハミルトンにとっては、オハイオの自然の中に眠っている。そこで、作家としての彼女の仕事は、それを現在の現実の中で何度でも意味づけし直すことにあるのではないだろうか。
M.C.Higgins, the Greatでのセアラ山は、逃亡奴隷だった先祖のセアラにちなんで名づけられたものであり、「過去」の歴史を集積させる場としてあらわれている。しかし、山は作中で、必ずしも豊かな自然を体現しているわけではない。セアラ山は鉱山として採掘されたため、すっかり痛めつけられてしまっていて、雨が降るごとに汚染された廃土がずり落ち、土砂崩れの危険性さえはらんでいる。
さて、物語にはM.C.の友人としてベン=キルバーンという少年が登場する。キルバーンはコミューンを作っている孤立した混血の一族で、メリノと呼ばれ、全員が多指症である。この不可思議な一族を、人々は差別し、疎外し、不吉なものとして恐れていた。だが、彼らは畑を作り、食物を貯蔵し、幼い子どもから年寄りまでが平和に暮らす、一種のユートピア的共同体を形成しているのである。(註3)
セアラ山では、ヒギンズ家の暮らす小屋は土砂崩れに遭いかねない危険地帯になりつつある。そして、廃土からは有害な廃液が流れ出していて、キルバーン一族の暮らす豊かな谷間もまた、汚染されつつあった。 セアラ山やキルバーンの谷。これらの自然は、過去の歴史が眠る「過去」のみならず、平行文化の担い手たちが、傷つけられ、歪められながらも生きのびている「現在」をも表していると考えられる。
採掘されて痛々しく山肌があらわにされ、有毒物質を含んだ土は何の処理もされないままに、ただそこに捨てられている。そのような山に、マイノリティの姿を重ね合わせることができるのではないだろうか。極貧のアフリカ系アメリカ人一家のヒギンズ家。谷あいで自分たちだけで暮らす、二重差別された六つ指のキルバーンの人々。自然のままに偉大なものの意志に身をゆだねて生きてきたはずの者たちが、機械・産業・資本といった物質優位主義の中で搾取されている様子。また、構造上のマジョリティである白人たちに、健康なありようをねじ曲げられてしまっている様子。痛々しく汚染された山肌をさらしているセアラ山は、そのままそこに暮らす彼らの姿をも、映し出しているのではないだろうか。
自然は、ここで搾取され傷つけられている。しかし、このように痛めつけられた自然でも、たしかに呼吸をしている。危険をはらみながら、セアラ山はオハイオに動かしようもなく根を下ろしている。非・自然なものに歪められていたとしても、自然は、いのちを生きのびさせるために、マイナスの変化すらも飲み込みながらアメリカという国土の一部になっている。その自然のたくましい姿は、奴隷制を生きのびてきたアフリカ系の民族集団、居留地に押し込められつつサバイバルを模索してきた先住民という民族集団、まさに現代を生きのびようとしている子どもたちの姿にも重なっていく。柔らかさとしたたかさを併せ持つ自然に、ハミルトンは再びマイノリティを見いだしているのではないだろうか。
セアラ山に抱かれながら暮らしているようなヒギンズ家に対し、キルバーンの人々は、この自然の山を癒そうと試み、山にまじないをしたり奇妙な祈りを捧げたりしている。彼らの試みは、崇高でありつつどこか不吉な雰囲気を漂わせているのだが、それは、もしかしたら、その儀式が、卑しめられ差別されてきた先祖に対する鎮魂の意味合いを持っているからなのかもしれない。
【註】
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