アリズムとファンタジーとの境界・序論
-『宇宙のみなしご』を中心に-
鈴木宏枝

季刊 ぱろる 3 特集:遊ぶことば
1996年4月20日 パロル舎  所収
季刊 ぱろる 4 特集:宮澤賢治といふ現象
1996年9月25日 パロル舎  所収

(発表時は前半・後半を
2号に分けて掲載しました)


 子どもの文学は水に似ている。低い目線に向かって流れていこうとするし、どんな形の器でも満たすことができるし、老若男女がおいしく飲めて飽きることがない。見た目はおいしそうなのに、実はたくさんの不純物が混じりこんでいる水もあれば、作者の深い内面の泉からこんこんと湧き出るいのちの水もある。私も、このおいしい水にひかれて豊かな水量をたたえる児童文学の渕に立った一人であり、その冷たい泉に遊び、その甘さを味わい、精神世界を育んでもっている。
 ところで、この「おいしければ(=おもしろければ)いいのだ」と思ってきた児童文学の中にも、<フィクションとノンフィクションがあり、フィクションには大きくいって空想物語と日常生活を中心としたリアリスティックな物語とがあり、その中には散文の物語だけではなく、詩や演劇も含まれる>(安藤美紀夫、『児童文学事典』)というジャンル分けがされているという。
まず、空想的な物語とリアリスティックな物語という分け方についての印象を述べる。一般的に、いわゆる社会的な内容を子どもの目線から描き、主人公が現実的な生活の中で様々なイニシエーションを体験する作品には「リアリズム」、空想的な冒険や驚異としての魔法が登場する作品には「ファンタジー」という冠が、比較的安易につけられているように思われる。単に子どもが主人公であるだけで「子どもの本」とされているものもまだまだ多い。さらに、作品の中で主人公である子どもの成長が語られるだけで、児童文学の本質があると直ちに定義されてしまっているようにも感じる。
 すぐれたファンタジー作品は、決して単なるおとぎ話ではなく、子どもと大人双方の心に訴えかける力を持っている。児童文学が、ファンタジーという世界から現実世界にむかって、新たな価値観を提出する試みであるということは、これまで多くの人によって語られてきた。故ミヒャエル=エンデは、ファンタジーのことを<新たな観念を形成したり、既存の観念を新しい関連形態に置く人間の能力である>(『アインシュタインロマン6 エンデの文明砂漠』)と述べている。エンデは、ファンタジーの持つ、根本的な柔らかい力を高く評価し、そこに自分の空想力を溶けこませた。そしてそれによって、『モモ』や『はてしない物語』といった作品を創造し、その力を証明してくれたのだ。
 ではその一方で、ファンタジーの双璧と見なされているリアリズムは、ファンタジーに比するにはあまりにも当たり前の手段に過ぎないのだろうか?リアリズムという手法は、ファンタジーと同じ力を持ち得ないのだろうか?もし持ち得るならば、それはどのような力なのだろうか?そして、そもそもリアリズムとファンタジーとはそれほど明確に分かたれるものなのだろうか?これらが私の素朴な疑問である。
 まず第一に、児童文学作品の多くはリアリズムだとされている。児童文学作品の中に最も強く豊かに表現されるのは、子どもの、あるいは人間のリアリティであるからこそ、そのように「分類」されるのだろう。だが、子どもや社会のリアリティが全編に溢れる作品でも、例えば、少々謎めいた登場人物が"実は魔女だった"というような、ほんの少しの予定調和的スパイスがあるだけで、突然ファンタジーへとラベルの張り替えがなされてしまうのはなぜだろうか。このことは、ファンタジーとリアリズムの双方に対する冒涜なのではないだろうか?私たちの住む日常の社会というリアリティから、ほんの少し視点を変えた時に見えてくるものを描き出すというのは、ファンタジーを創造するのに当然有効な方法である。また、純粋な魔法の世界であるファンタジー作品の中にこそ、子どものリアリティや社会のリアリティは写し鏡のように存在し、むしろ現実のリアリティをこそ問うものが多い。ファンタジーの本質は驚異だと定義されているが、この「ファンタジー」という言葉はあまりに多くのものを含んでいるのではないだろうか。そして「生きる」ことこそ驚異そのものである。
 反対に、あたかも魔法を使っているかのように見える宇宙的出会いを描いたリアリズム作品も数多くある。もし、リアリズム作品中のある登場人物が実に謎めいていて、主人公らに何かをもたらし、不思議な作用を及ぼすなら、そのテキストは人間の画策以上の叡知が日常にごく自然に溶け込んでいる「魔法のような」リアリズムとでもいうべきものである。また、主人公がbeing(人間あるいは動物)として成長し、それにより、読者である私たちと化学反応にも似た出会いを経験しあうとき、そこにもまた新しい関係が生まれる。このようなリアリズム世界では、日常と魔法の衝突であると定義されるeveryday magicよりもずっと大きな目で「ふしぎ」をとらえることができるし、安直な魔法よりもずっとwonderfulなリアリズムを描いたテキストは数多くあるのだ。
 このことについて、例えば脇明子は、『日本児童文学』で連載されていた「魔法の復活」で、E.ネズビットの『鉄道の子どもたち』について、<いささかセンチメンタルであるとはいえ、父が無実の罪に問われた一家の不幸が、子どもたちの努力といくつかの幸運な出来事によってめでたく解消していくのだから、私にははるかに魔法的であるように思われる>(p.119)と述べている。
 これらの点を考えていくと、リアリズムとファンタジーの本当の境界はどこにあるのかますます分からなくなってくる。だが、そのヒントは、児童文学が大人と子どもの共同体の、すなわち人間の文学であるというところに隠れているのではないだろうか。
 結論から言えば、リアリズムとファンタジーと間に全く明確な一本の線としての境界というのは存在していないのではないか、と考えられる。第一に私は、リアリズム性とファンタジー性は、太極図のように組合わさって一つの作品を形成していると理解している。また同様に、「リアリズム作品群」と「ファンタジー作品群」も組合わさって、児童文学という大きな世界図を形成しているとも考えている。
 太極図とは、易の根本原理として、万物は陰陽の二原理からなりしかもその組み合わせは流動的であることを示す有名な図だが、私の考えるテキストの世界はこれに近い。つまり、完全なハイファンタジーと、「今現在、自分が他人とのルールによって生きている社会」(コンテキストとしての現実感や、多くの人が共有していると認める現実感)とが、構造として組合わさっているというイメージである。
 その中で、一人の作家がどのような方法を用いて双方の世界にアプローチし、どのような目をもってリアリズムを選択するのか、あるいはまたファンタジー世界をのぞき込むのかが、一つの作品に貫かれる視点になるのではないだろうか。だから、そこで作家がリアリズムという芸術を用いることを選ぶなら、その作品では単なる写実を超えたものが表現されなければならない。そうでなければ、それはマジョリティからのものの見方の一方的な押し付けに過ぎなくなってしまうし、そのようなリアリティは無意味だからだ。
 例えば、現在の精神医学の領域では、「正常」か「異常」かを医者が判断するのが困難な境界例の患者が増加しているらしい。一人の人間の宇宙の中には合理の部分と非合理の部分があって、時に自己を守り、時に陰の部分が色濃くなって不調和をきたしもする。人間一人の内面宇宙の営みはそのバランスなのだ。同様に、文学の、児童文学のどのテキストにも、リアリズムの部分とファンタジーの部分が混沌として存在するのではないだろうか。完全なリアリズムは、たった今生活している現実感の中にしかないし、完全なファンタジーもまた、神の領域である。
 神という言葉を出してしまったが、『ぱろる』の1号のテーマは「はじまり」だった。宇宙の誕生同様、0からすべては始まる。受精卵は無から有へと次元以上のものを飛び越えた途端に、いのちになる。1が2に3にと分裂したり増えたりしていくのは、有である数の同じ地平での出来事だ。しかし、0からどのように1は生まれたのだろう。これは、神だけが知る偶然としか言えない。生まれ出た1が分裂し加減乗除されながら、世界はだんだん複雑になっていった。だが、この無限大とぴったり向き合い支え合っているのは、巨大な0の空間なのである。0の世界を神様の世界や宗教の世界と呼ぶ人もいるかもしれない。とにかく、巨大な不可視の世界なくしては可視の世界は在り得ないという前提は、私の中でこのように理解されている。
 人間全体の営みの中には、人と人との可視の関係と、人と神との不可視の関係とがある。前者から後者に向けての絶え間ない探求は、人間が知を得たときからの命題であり、18世紀以降には科学が冷徹な目で切り刻み、おのがものにしていこうとする対象であった。だが、巨大な0の空間の中に、あるとき突然1を生み出したゆらぎがあったことは、私にとっては偉大なものへの畏怖にも似た驚異である。
 このようにして誕生し得た「はじまり以降の世界」があるから、「はじまり以前の世界」を認識することができるのだとも言える。だからこそ、子どもの本の書き手は大人なのだろう。
 さて、私たちは、えてして0というあちら側の宇宙をのぞき込めばのぞき込むほどに、深くさまよってしまいがちだ。自分の無意識である、0の、つまり「はじまり以前の」部分を見いだそうとすることについて、エンデは、

 
 <真の自己とは自身の外にあるものなのです。自身に課せられた課題をつかまえよ、ということなのです。課題は外なる生がもたらしてくれる。外からこちらに近づいてくる。これがほんとうにだいじなことです。やたらに自分の中にもぐりこんで聞き耳を立てるのではなくて、世界が自分にさしだしてくるものに気づくこと。あなたの相手に、他者の中に、あなたの自我が見つかります>
(『三つの鏡』)

と述べている。私たちは、のぞき込むほどに深遠な自己に向かっていくよりは、外との関係において自己を作っていくものなのだ。そして、その種の試みにおいて、優れたファンタジーも優れたリアリズムも、同様に大変有効なものなのである。私たちは、様々な手段を通じて可視の世界の中に不可視を感じようとしており、文学もその手段の一つなのである。
 そして、ことに有効なのは児童文学かもしれない。なぜなら、児童文学は抽象論ではなく、こころを具象化し具体的なものや人の「関係性」を表さずには成立しないからだ。子どもは、イメージの哲学者とも呼ばれている。秋山さと子は『ロストワールド』の中で、子どもの思考は、具体的な形と、そこからくる感動があるという点で野生に近いということを述べている。<(子どもや周縁文化の人々は)大人や文明人よりもはるかに全体的で、しかも明確な意識を持ち、自分たちの固有の文化をその上に発展させている。>
別な方向から見れば、例えばフェミニズム批評というのも、不可視な世界の方から、男性原理の中で構築され続けて来た文学を問い直そうという試みである。だから、この批評の方法はもちろん児童文学にも当てはめられるのだ。非合理を体内に抱え込んだ女の側からの問いかけは、作品をきっぱりとジャンル分けする鋭さを避け、wholenessで眺めることを許す。
児童文学そのものへと視点をさらに狭めてみたい。児童文学は、0の世界と1(以上)の世界との周縁をただよいながら、その双方を透視し、具体的な物語世界の中に作者自身が見たものを映し出そうとする試みである。その本質から考えれば、児童文学の中でも、リアリズムの領域とファンタジーの領域との境界にあるテキストが増えているというのは、当たり前に導かれた結果なのかもしれない。そのような新しさを持つテキストの例として、私は、森絵都の『宇宙のみなしご』という作品を挙げたい。この作品世界で重要な役割をもつ「屋根の上」が、その境界の場になっていることについては、後で考察する。
 そもそも児童文学は、「現実」と「ふしぎ」の境界をゆらぎながら、むしろそのようなことを意識せずに「現実」も「ふしぎ」も具体的に表現することのできる貴重な手法である。だから、リアリズムとファンタジーという境界にこだわって、冷静に作品を「分類」しようとするのはもはや限界なのではないだろうか。区分け自体を否定しているのではない。ただ、そこを鳥瞰図で眺めたときに、その境目自体が既にぼやけてきているのではないかと考えられる。
 不可視にあたるあちら側の0の世界は、つまりはファンタジーである。あちら側の0の世界を描くファンタジーでは、あらゆる可能性を秘めつつ混沌とした0の世界そのものが主役だ。一つのファンタジー作品は一つの世界を表現した時点で一つの限定を行わざるを得ない。しかしその限定は必然であり、描き切ることができず体験するしかできないものは、具象を描かれることによってしかかいま見ることができない。表現は常に限定という矛盾を内包している。 そして、その向こう側の0の世界に属する者すべては、そこに必要とされて生まれてきたものたちだ。現実世界の子どもは、何かしらの必然性をもってあちら側に送り込まれ、たましいやいのちの世界に触れてくる。来訪者すらも必然なのだ。読者も来訪者もひきつける世界そのものが、巨大な主人公なのではないだろうか。
 一方で、可視の世界である私たちの生きる側では、リアリズムという「関係性」の世界で、子どもも大人も他の人に影響を及ぼし得るという意味での個である。私たち自身も、また作品の中の子どもたちも、一つの宇宙としていかに内面を豊かにしていくかが無限大に問われていくことになるのだろう。中村雄二郎は、<象徴の問題やレトリックの問題に関しては(中略)なにか学問的でないもの、いかがしいもののように思ってしまう。けれども、それでは、知が間違いなく沈滞化してしまう。>(『母性とはなにか』)と述べている。科学にとって<いかがわしいように>見えるものの中に、実はナチュラルな姿があるのだろう。児童文学は子どもという命題そのものを表現するのに文学的な手段を用い、作品世界の中で主人公である子ども(たち)に、そして現実の読み手にも物語を与えるのではないか。
そしてまた、児童文学の物語のテーマは、しばしば「登場人物の成長」という一言で片付けられてしまうことが多いが、主人公たる子どもたちだけが成長する可能性を持つという考えには、説得力がない。子どもにしか可能性がないわけはない。志向する世界があればこそ、そしてそれが現実を支える側の世界のできごとであればこそ、大人だろうが老人だろうが誰にでも人間としての可能性があると信じたい。ただ羨むべきは、子どもの方が混沌とした0の世界に本質的に近いという事実なのだろう。なにしろ、子どもはすべてあちら側からやってきたのだから。
作品について以上のように考えるなら、それを創造した一人の作家にも、それを受け取る一人の読者にも、その物語の中でいのちを与えられた一人の登場人物にも、子どもの部分と大人の部分が同種の太極図的関わりを持っていると考えられる。人間一人がまるっきり子どもだったり、まるっきり大人だったりするのではない。見た目や年齢ではなく、バランスの問題だ。近年、男女ということについても、一人の中に男の部分と女の部分のバランスがあり、性差とジェンダーに引き裂かれる人が多くなってきているという報告もあるが、大人と子どもということについても似たようなことが言えるのかもしれない。
 大人のimaginationがファンタジーというあちら側の世界に向かえるから、良質のファンタジーはおもしろいのだ。また、そのようなファンタジーを理解している目でリアリズムを追求できるから、良質のリアリズムもまたおもしろいのだ。すぐれたリアリストがよきファンタジーの創造者でもある例は数多い。一方で、imaginationではなく思い込みで子どもににじり寄った作品は、結局のところつまらないものになってしまう。
 ファンタジーは児童文学の王道ではある。だが、すぐれたファンタジー同様、すぐれたリアリズムも、生に向かう新たな価値観を創造する力を持つと考える。子ども・人間のリアリズムが描けていないファンタジーは不毛だ。ファンタジーが飛び立とうとする力なら、リアリズムはそれをこそ支える力である。色でさえ、光の具合や角度によってどんな風にも変化し、様々に受けとられる。ならば万人が「納得」するようなリアリティは、既に「ほんとう」からは遠いものであり、表現者自身だけでも真実と思う一瞬を切り取ることが真のリアリズムなのではないだろうか。リアリズムは単なる写実ではない。それは、この世をどのように眺めるかに心を傾ける人間の営みなのである。

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 さて、日本の児童文学でも、以上のことを体験として持ち、新しいまなざしで世界を眺めようとする作品が創作されはじめている。ここで、今まで述べてきた試論を『宇宙のみなしご』に当てはめてみたい。同書は1994年出版の新しい作品で、いくつかの賞も受賞している。パソコン通信という目新しい小道具や共稼ぎ家庭という設定、登校拒否や保健室など、一見社会派的作品ではあるが、そこに迫っているのは中学生の必死の生であり、個であることのさみしさとせつなさとすばらしさが表現されている。そしてここでは、リアリズムの中にあるファンタジックな世界は「屋根の上」で体験されているのだ。

 「ぼくたちはみんな宇宙のみなしごだから。ばらばらに生まれてばらばらに死んでいくみなしごだから。自分の力できらきら輝いてないと、宇宙の暗闇にのみこまれて消えちゃうんだよ、」  (中略)「でも、ひとりでやっていかなきゃならないからこそ、ときどき手をつなぎあえる友だちを見つけなさいって、富塚先生、そういったんだ」             (本文)

 屋根の上にのぼってかじかむ寒さに手をつなぎあう四人の子どもたち。『宇宙のみなしご』の最後の屋根のぼりのシーンでキオスクが皆に言ったすみれちゃん(富塚先生)の言葉は、この作品からのメッセージのうち最も心にしみるものである。
 この作品は、陽子とリンの姉弟の始めた「屋根のぼり」という遊びが軸になっている。二人にとっては退屈イコール生きる力をなくすことであり、退屈しないためにつまり自分自身を殺さないために、幼いときから「遊び」続けてきた。二人が陽子のクラスメイトの七瀬さんに披露した、小さい頃のいたずらとも遊びともつかないエピソードの数々は読者も笑いに誘う。
 陽子とリンの秘密の屋根のぼり遊びに、陽子のクラスメートである七瀬さんやキオスクたちが、半ば偶然半ば必然的に加わっていく。この作品は、四人の必死で生きるちっぽけな個としての中学生たちが、ときに手をつなぎあって心の休憩を共にできることの温かみを知っていく過程を描いているものだ。
 大人になるにつれて私たちは、哀しいくらいに自分が一人であることを知っていく。あるいはそれを知ることが大人に近づくということなのかもしれない。利害や損得、恩や義理。社会を構成する一員として、そういうものと全く無関係に行動することはだんだんに難しくなっていく。ふれあい、語り合い、たくさんの人とのつながりを通り過ぎて生きていても、やはり、私たちは一人であることをを自覚せざるを得ない。社会、企業、学校。生活という場にあって、個人はネットワークの点になってしまう(もちろん、この場合のネットワークは、子ども社会に特有の口コミや横のつながりとは異なるニュアンスを持つものだ)。一方で「ひとり」を考えるときには、私たちは自分だけの中に守るべき"何か"を持たずには生きていけないことを、経験的に知っている。
 このことは、善し悪しの問題とか、そのような社会的な必然としてのネットワークとはほとんど縁のなかった子ども時代への郷愁といった問題ではない。ただ、大人になるというのは、子ども時代をくるみこみながら、もっと大きい責任をも担っていかなければならないということだろう。またその一方で、哀しいくらいに一人であることを知っているからこそ、それに立脚した新たな種類の優しさが芽生えてくる、ということも言える。
 私は、大人になることが児童文学の本質に反するとは思わない。それは「成長物語」とはまた別の問題であるが、子どもにしか味わえないことを言葉に翻訳し、それを語って再体験できるのは、やはり大人の力なのではないか。
 子ども時代に味わったことを再発見しそれに意味を与えることのできる大人は、意識的にしろ無意識的にしろ、子ども時代に深い体験を持っている。同様に、孤独であることを前提とした大人の優しさを身につけるためには、孤独の真の意味と、そこで手をつなぎあえることが、人間にとってどんなに大切なことかを知る体験とが、重要なのではないだろうか。孤独の真の意味は、自分のまわりに何もない・誰もいないということではない。それは、私たち一人一人が大きな宇宙にたゆたい、見えない何かに護られているという充足した感覚にも似ている。
陽子、リン、七瀬さん、キオスク。この四人の子どもたちがこの作品のメインキャラクターであるが、彼らは中学生という微妙な時期にあって、やがて一人っきりで立ち向かっていくだろう世間に対し、それぞれの想いを抱いている。最後まで「こんどはなにして遊ぼうかな」と挑戦的につぶやく陽子。物静かな外見や物腰の中に、やはり熱くなって足を踏み鳴らす小人が住んでいるのではないかと思わせる七瀬さん。いつかもっと辛いことが起きるかもしれないが、とにかく今はマイペースで人の輪のバランスをとるリン。本物のファンタジーとは全く別物のまがいものの幻想から、本当に生きていくことにつながる宇宙との関わりを体験したキオスク。彼らは、今手をつなぐことはできても、そこから先はやはり一人で歩くだろう。そして、後には一人で歩かなければならないからこそ、今手をつなぐことが何よりも彼らの心にともしびを灯す。
 大人の小説であるが、増田みず子という作家は『シングル・セル』(福武文庫/1988年)で、植物の孤細胞(シングルセル)のように生きる大学院生と女子学生の別離と共生を描いて泉鏡花賞を受賞した。この作品の主人公は、農学部で植物の研究をしている大学院生である。彼は、一見静かな営みに見えて、生命を賭けた激しい生存競争を土の中で繰り広げている植物にひかれ、自分の中にも植物的な血を感じている。彼が研究している孤細胞とは、<植物や動物の体組織をバラバラにほぐして、1個ずつの細胞状態にした>(P.156)ものである。<化学処理によってシングル化した細胞も、そのまま放置しておくと、2個3個と再び寄り添い、集合して、やがて固まってしまう。だからそうさせないためには、撹拌し続けなければならない。/もう一つ問題がある。シングル化した細胞は、条件さえ整っていれば、確かにそれ1個で生き続けるから、独立した生物とも言えるが、しばらく生きるうちに、細胞壁が異常にに肥大して、つまり身を守るカラが厚くなり過ぎて、やがて窒息死してしまう>(P.160)。そのような孤細胞に、主人公はふと人間関係と同じものも感じている。
  『シングルセル』は、人間の営みを、毀れては再生し続ける植物世界に置き換えつつ、孤であることを問う小説だ。例えば作中に、女子学生がタバコを吸うシーンがある。夜中に旅館の廊下の隅で灯るタバコの赤い火。その赤さ小ささが、暗がりとそれよりも暗い人影という背景にぽつりと浮かぶ様は、人間の最も孤独な部分を象徴しているようだ。
  この、タバコの鈍く赤い光の脆さと何も寄せつけないような孤独に比べ、『宇宙のみなしご』では、屋根で眺める星々と同じようなあかり、目に見えないぬくもりが子どもたちのハートの中で静かに凜と輝く。それはある意味で、いのちとかたましいといってもよいかもしれない。そのあかりは一人一人のものとしてまったく個人的なものでありつつ、タバコの赤い光とは異なる。それは、共振しあえるゆらぎを持っている。そして、このように大きなものに護られている感覚に包まれるような孤独の体験を持つ人間は、強い。
 さて、「屋根にのぼる」ということは、一見リアリティがありそうだが、おそらくは不可能なことである。いくらのぼりやすそうな屋根を物色し、音を立てずに家主に気づかれずのぼるコツを身につけ、深夜そっと行う冒険であるとはいえ、やはり現実にはできないことだろう。ほとんど犯罪の一歩手前で、しかも自分たちにも説明できない「屋根にのぼる」という行為。
 だが作中、陽子とリンの中の小人たちに、キオスクや七瀬さんは共鳴した。共鳴するということは、行動することである。「よく分かる」と思うことに限ってほんとうには分かってはいないのと裏腹に、「よく分からないけど、一緒にのぼりたい」という七瀬さんやキオスクにとっては、屋根にのぼることで何かが変わった。そして、彼らとのぼることによって陽子とリンもまた変わった。変化こそが共鳴の証しだろう。これを成長物語として述べるのはたやすいが、そう言い切るにはこの変化はもっと深いところにあるのではないだろうか。
 私は『宇宙のみなしご』に、『耳をすませば』という映画の中で<ひとつの理想化した出会いにありったけのリアリティを与えながら、生きる事の素晴らしさをぬけぬけと唄いあげようという挑戦>(映画パンフレット)をした宮崎駿の態度に似た、作者の視線を感じる。この映画も1995年公開の作品である。もしかしたら、時代が『耳をすませば』あるいは『宇宙のみなしご』のようなファンタスティックリアリズム、生活の中に魔法のようなファンタジーが織り込まれた物語を必要とし始めているのではないかとも思う。屋根は、言わばひとつの理想化された場だ。「屋根にのぼる」ことは現実にはあり得ないことかもしれない。だが、そのことをめぐる状況に、森絵都はありったけのリアリティを与えて豊かな作品世界を展開したのだ。
 例えばそこには、どのようなリアリズムがあるのか。
 第一に、作品中の語り手である陽子のリアリズムがある。「白熊のエアロビクス」や「マウンテンゴリラの綱引き」など、ユーモラスな表現が随所に見られるが、その中で一番陽子自身の生に結びいているのは、ざわざわと体の中で足踏みを始める1000人の小人たちだろう。動き続けないと止まってしまう自転車をこぐように、陽子はリンと自分のためだけに貪欲に遊ぶ。<けんかなら負けない>という顔をして、多少さみしくても媚びることなく、人に遠慮せず、見せかけの優しさは持たない陽子は、潔い。
 陽子は主人公である。彼女の不登校から物語は始まる。この不登校は、すみれちゃんがインドに行ってしまったことが誘因だと思われるが、特に理由もないがサボりたいという微妙なけだるさには、不思議なリアリティがある。やがてリンと一緒に屋根にのぼりはじめる陽子だが、不登校から「遊び」という形で突っ走ることによって孤独への内省から逃れようとしているのだ。
 陽子は、結局孤独を知っていたようである。それを深く考えることがこわいことを本能的に知っていたから、そこに踏み入ろうとせずに「遊ぼう」とする。陽子は行動する人であり、考えるプロセスはほとんど省かれているのに、ふとしたときに流れこぼれるその内面には、みなしごとしての醒めた自意識が感じられる。
ところで、陽子を巡って変化する七瀬さんとキオスクを踏まえて「肝心の主人公は、こうした二人を『見ている』ことが中心となる。面白いスタンスだと思う。」と言った人がいた。陽子は女の子であり、成長しつつある子どもであり、14歳の冷静な判断として、孤独であることを悟りつつ、それを乗り越えていこうとする。彼女は自ら変化し、他人の変化を促し、さらにそこへの視点を持つという三重の役割を果たしていると言えるだろう。
 第二に、弟リンのリアリズムがある。陽子が自分の中の小人たちと一緒にステップを踏むべくがむしゃらに遊ぶのに比べ、弟のリンはゆったりとした落ち着きとほんわかとした暖かい雰囲気を持つ。彼は年下ながら、姉の陽子を包んでいるように描かれている。彼が豊かに人を愛することができるのは、自分で自分をきちんと愛することができるからだろう。挫折を味わうことが勲章であるかのように言う人もいるが、リンのどうやら生まれつきのものらしい脳天気さはそれよりもしたたかなものだと、私は思う。
 そしてその彼の広がる心の中にも、やはり寄せてはかえす貪欲な海があるように見える。その海は陽子の小人たちと同種のものだろう。退屈しないことはリンにとってもまた、生きるために必要な知恵である。陸上クラブの活動や人づきあいがあっても、穏やかに、しかし譲れない気持ちで「遊び」を求め、陽子と共に楽しんでいる。 第三に、七瀬さんのリアリズムがある。陽子にあこがれリンに陸上部へのチャンスをもらった七瀬さんだ。彼女は、自分にはまぶしくうつるだろう姉弟に対しても卑屈になっていない。表面的には静かに、しかし、<夜中の風っておいしい>と思わずつぶやいたように、自分のために「説明できないもの」にチャレンジし、その空気を味わう余裕と強さを秘めている。
 第四に、キオスクのリアリズムがある。パソコン通信や最終戦争というのはオウム事件ともからんでアップトゥデイトなテーマに見えるが、ここでは現実に結び付かない妄想がいかに無意味で、「今」「ここで」生きることについての意味を全く持ち得ないことが示された。キオスクは挑戦し、友だちと手をつなぐことを体験する。おそらく最も劇的な変化を遂げたのはキオスクだろう。キオスクは、クラスメイトにあごで使われてもずっとヘラヘラしていた。それは、自分が「愛の戦士である」という自信を持っていたからであり、学校や家庭とは違う次元によりどころを求めていたからである。だが、高度な屋根のぼりを決行し大ケガをして、勘違いした同情を受けるようになってから、彼の中の小人たちも目覚め、足を踏み鳴らし始めたようである。密かな冒険を自殺と勘違いされ、パソコンも打てなくなった自分を<まぬけな戦士>と自嘲気味に言うキオスクには、それまでにないユーモアすら感じられる。
 そして第五に、彼らすべてが屋根の上で共感し合ったせつなさとあたたかさというリアリズムがある。それは、もはや子どもでもなく、しかしまだ大人でもないまま、まっすぐなエネルギーを内側に一杯に秘めつつ、手をつなぎ合う人間そのもののリアリズムだ。
 また、少々ひねれば、この四人の子どもたちは、一人の子どもの中に存在する心のパーツであるとも言えるかもしれない。毅然とできる強さ、人間関係のバランス、なりたい自分になれないもどかしさ、生きるよすがを与えてくれるものにしがみつきたくなる弱さ。それらが現実と宇宙との境目で手をつなぎあい、大きな宇宙に対峙する小さな、それでいて胸を張れる一人の人間という宇宙になれること。彼らは生きてきたし、これからも生きていく。ひとりひとり違った道を進むが、だからこそ手をつなぐことができるのだ。四人は生きていく。一人が生きていく。一人として生きていく。
 そして、その意識を支える体験は、屋根の上というこちら側とあちら側の境界線で行われたと言えるのではないだろうか。このような宇宙的出会いを提供した屋根は、つまりは地上の現実と宇宙のファンタジーをほのかに混沌とさせる場である。現実にはそのような場は減少しているし、解放される場を求める余裕も失いがちな今、この作品の中で子どもたちが見つけたのはたまたま屋根の上だった。屋根そのものには意味はない。しかしそこにのぼることで屋根は素晴らしい「場」になり得た。
 宇宙の広がりと星と夜風とを味わいながら、友達の指の温もりを感じるのに、もしかしたら屋根の上ほど最適な場所はないかもしれない。例えば、エンデのファンタジー作品『モモ』の中で、モモは、ひとり円形劇場で、星の丸天井の荘厳な静けさと星の世界の声とを聴く。この経験をリアリズム作品に置き換えれば、『宇宙のみなしご』の屋根の上に流れているのは、まさにファンタジーの世界から吹いてくる風であり、自分の内面から聞こえてくるいのちのメロディだったのではないだろうか。そしてそのような体験を通じて、宇宙のみなしごとしての自分を乗り越えるからこそ、彼らは、そして読者である私たちも、大人になるという意志を持つことができる。社会や世間の中で折り合いをつけて暮らしていくことができる。
  『宇宙のみなしご』は、子どもたちの挑戦の物語であるとも言えるだろう。自分自身に対して、また、ストーリーの今後としては常識や決まりといったものに対して。森絵都は、舞台に現代的なものを持ち込みつつ、主題は人間に普遍の問題を扱い、しかしそれがフィードバックされて行く先はやはり現代の日本の社会を選ぶ。ここにはやはり1990年代というものが大きく影響していると思われる。また、作品の中で、おそらくは子どもたちと同様に宇宙のみなしごでもある大人たち、さおりをはじめとするかつてのみなしごたちが今いかに周囲と折り合いをつけながら生きているかというのを見るのも興味深い。そのような意味でもこれは、児童文学が大人のための物語としても有効であるのを示すことのできる作品になっているのではないだろうか。
 『宇宙のみなしご』は決して完璧な物語ではない。ラストの、「手をつないで、心の休憩ができる友だちが必要なんだよ、って・・・・」というキヨスクの言葉は、台詞に表現されてしまったことでやや唐突な印象を与えもする。ストーリーが導くものとしては妥当であるが、言葉で饒舌に語られ過ぎてしまった。弧を乗り越える個というテーマと、自分をみなしごと規定する興味深いキャラクターが設定されていたのに、印象的でもあり強引でもあるラストを少し残念に思う。そのような意味で、作者の若い荒削さはあるだろう。 だが、それを越えて、これはやはり本当の新しさを持ったテキストなのだと思えるし、また何かが変わりつつある作品は確かに生まれ始めているのではないだろうか。『宇宙のみなしご』の強引なラストが、それでも「これから」を感じさせるように、新しいリアリズムの「これから」もまた、ここに見えかくれしている。声高に問題意識を主張するのではなく、本来のストーリーテリングの形で、子ども、あるいは物語を受け入れる柔らかな心を持つ読者に向けて語りをする、ということ。また、リアリズムの持つ心の琴線に直接触れる力が、文学に求められる癒しの力とともに必要とされはじめてきたこと。
 かつての日本の児童文学では、離婚や登校拒否といった社会派的な内容をそのまま「社会派」にしてしまい、その真のメッセージをくみ取ることが少なかったのではないだろうか。また、目新しい設定だけに溺れてしまった作品もあるのではないか。現在、1990年代も半ばという時代にあって、きわもののリアリズムが淘汰され、その上で児童文学の守備範囲が深化してきているのではないかと考えられる。
 <空は完璧さ。完璧であるために、いつだって変わり続ける。>とリチャード=バックは言った。児童文学も文学であるために、また子どもというはてなと非合理の存在を根本的に抱え込む文学であるために、変わり続けていく。そして、変わり続けることが本来の在り様なのではないだろうか。

【参考文献】


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