癒しのリアリズム・おばあちゃんのファンタジー
-『西の魔女が死んだ』考−
鈴木宏枝

季刊ぱろる 5 特集:そうだったのか!?子どもの本
 1996年12月20日 パロル舎 所収

 この小論文は、<子どもと老人>という視点から、 梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を読み解こうとする試みである。同書は、95年度の日本児童文学者協会新人賞などの各賞を受賞した新しい作品だ。比較的単純なストーリーの中に映し出された生と死の陰影や、 <生きにくいタイプの子>であった主人公まいが<西の魔女>であるおばあちゃんとの触れ合いによって成熟していく軌跡を、あたたかな筆致で描いた作品として高く評価されている(『日本児童文学』一九九五年七月号)。 例えば、年とった人を老醜をさらけ出すボケ老人として描き、彼(女)を取り巻く人々の視点から生きることの根源を見せるという方法がある。そういう老人は<子どもに帰ったように>なって、一般社会とは異なる時間を生き始めている。そこから、人の一生が円環的な時間の流れであるという観点を用いれば、 老人と子どもとが近しい存在であるという考えを妥当に導くことができるだろう(本田和子『子どもの領野から』)。また、痴呆症になった老人を家族が介護することの大変さや喜び、福祉の実情といったテーマを「子どもの目線で」描いた作品も少なくなく、推薦図書として並ぶものも多い。
 それでは、人が老いていくにつれて社会から外れていく情景を描くこととは対照的に、「やさしく愛にあふれたおばあちゃん」 像を見せることは、 今や手段としてあまりにも当たり前すぎて真に深い意味は持てないのだろうか。例えば柏葉幸子氏の『エバリーン夫人のふしぎな肖像』(講談社文庫)や、手島佑介氏の『かぎばあさん』シリーズ。ファンタジックな手法の中に独特の優しいリアリズムを持つ何人ものおばあさん主人公たちは、パワフルで愛情に満ちている。彼女たちは、文学批評世界では逆にマイノリティに過ぎないのだろうか。
 リアリズム作品としての『西の魔女が死んだ』は読者に感動を与える。 私は、その点を大切にしたい。 読者が作品のリアリズムに共感するところに感動はあるだろう。 ならば、この作品のリアリズムは何なのだろうか。 また<西の魔女>であるおばあちゃんは、どのような人間像を見せているのだろうか。これらを検討しながら、<子どもと老人>という問いに、結びつけていきたい。

  現実の世界と魔女の世界

 この作品は、学校に体も心もなじめない中学生の主人公まいが、英国人であるおばあちゃんとの田舎暮らしの中で癒されていく過程を描いている。読者は、まいの持つ不適応の悩みを自分のものとして感じつつ、同時体験的におばあちゃんとかかわりあっていき、その最後の愛にまいと共に感動する。
 最初に、この作品世界を便宜上二つに分けてみる。一つは、まいが外れてしまった中学校社会を含む現実世界である。人々は、それぞれの悩みを抱えながら学校や会社に行っている。これは、周囲の人々とルールによって生活する世間という共同体と言えるだろう。もう一つは、おばあちゃんが明らかにした魔女の側の世界である。普通の人と違う能力や、とぎすまされた精神世界。その力はあくまで個人に属するものであり、魔女を自覚する者は、自分の責任でそれをコントロールしなければならない。
 まいは登校拒否になって挫折したわけではない。立ち止まって生きる意味を考え、自分の中もいるこの魔女をどう生かしていくかを知るチャンスを与えられたといってよいだろう。まいは、力というものは秘められ、そのふしぎさに克たなければならないと教えられる。一人の精神世界は、のぞきこむほどに自分自身を失ってさまよってしまう危険性を併せ持ち、他者とのふれあいの中で成熟していくタイプのものではないのだ。
 大きく言って、この二つの世界が作品の軸であり、二者の均衡がまい自身だということが分かる。
 私は、前者は「生」の世界、後者は「死」の世界だと考えた。むろんまいの繊細な魂のことだけを考えれば、学校や会社は「死」の世界、おばあちゃんの家は「生」の世界である。だが、結局まいが自己成長を遂げていくことになるのは、より多くの人々と様々な関係を結んでいかなければならない複雑な現実の方である。まいはおばあちゃんと一カ月余りの蜜月を過ごした後に、社会生活の中に戻っていく。そこでは、自分と他者の間に(そして自分自身とも)折り合いをつけ、新しい学校を選び、ショウコという友達も得た。
 魔女修行の場としてのおばあちゃんの家は言わば天国だった。ここでは魔女修行イコール精神訓練であり、まいにとっては、事実上身体の機能快とも同義である。二人だけの甘い天国だからこそ、まいは、ゲンジさんという生々しい現実が見えることに過剰に敏感になりもする。まいの反応は、想像力によって調和している落ち着いた心の状態が、嫌なものまで受け止めすぎてしまう鋭い感受性に負けてしまっているものだ。ゲンジさんへの憎しみに震えるまいの姿はいかにもバランスを崩したものに見える。だが、まいはパラダイスの中でバランスを取り戻した後には、パラダイスの外で生きるべき一人の女の子なのである。
 他人や世間との関係に悩む一方で、まいは死そのものついても思いを巡らせ続けている。父親がまいに話した「死」とは一人の人間の存在があっけなくかき消えることで、その跡には何も残らないのだという印象をまいに与え、まいはそれに怯えていた。
 だが、おばあちゃんに語られるとき、死は決して否定的過ぎる意味を持たない。死とは突然遠くから訪うてきて人間をさらう恐ろしいものではなく、たった今生きる場所と時間をぴったり支えている世界そのもののことである。生は常に死を内包しており、死を自覚することで生は深まる。このような生と死との感覚をおばあちゃんは既にごく優しく受け入れており、まいにもそれを伝えるべく見守る。年を重ね豊かな哲学を内に育んできたおばあちゃんだからこそ、現実の彼岸に静かな死の世界があって魂が安らげるのだと語り、まいの不安を柔らかく溶かすことができた。 おばあちゃんは、まいにほんとうに生きるということはどういうことなのかを伝えようとしたのである。

  甘えることの豊かさ

 第二に重要なのは、田舎での生活の中で、おばあちゃんとまいとが一人の人間どうしとして対等に一カ月を過ごしたことだ。そこには、 二人で手を携えて同じ目的のために歩んでいくというような強さは感じられない。むしろ、男女や親子の間にあるような、ある意味で断ち切られることが前提である関係とは異質の、ゆだねて満たされる喜びと甘い構図とが透けて見える。まいとおばあちゃんは個として在りつつ、そこに「依存」を許す、少なくともまいにとっては新しい関係を築けたのではないか。
 「依存」という言葉は否定的なニュアンスが大きいが、語源をたどればdependあってのindependent であり、人間本来の在り方は、誰かに何かに頼って甘えて生きていくことだということが分かる。おばあちゃんと孫の関係は、葛藤を乗り越えていかなければならない母親や父親との関係とはある種別世界の、甘美な依存を含んでいる。依存することを知らずに、自律した生活を送ることはできない。依存あっての自立は、死あっての生、魔女の世界を知りつつの現実世界と同じ意味を持つ。 まいの成長は、この考えを自分のものとしていく過程に無理なく並行している。おばあちゃんが示した「依存」は、わがままや自己中心性に対してではなく、バランスと関係の中に生き、自分の感受性を生かすために精神力と体力を身につけようとするまいを支えるものだった。

  普遍的なおばあちゃん

 第三に、「西の魔女が死んだ」は、どのような老人像を示したのだろうか?私が考える「生」や「死」は決して断定的なものではない。むしろ肉体と魂の相対化のような意味合いを持つ。死について知っている人間は、生き強く健やかになるだろう。おばあちゃんは、まいの何倍もの年月を、魔女と現実との折り合いをつけながら生きてきた。おばあちゃんが個人として存在すると同時に、既に他者のために生きることが自分のために生きることになるような老境の人物であるゆえに、その言葉はしみ入るように説得力があるのである。 おばあちゃんのまいへの最後のメッセージは、ママもまだ与えることのできない愛情そのものである。おばあちゃんは母親としてはうまくいかなかった面も持つ。役割と相手が変化したときに、行為と自己が一致したというのも一つの考えだろう。まいの訪れはおばあちゃん自身にも新たな変化を与え得たのかもしれない。相互作用こそが、異なる時間を生きてきた者どうしが理解しあうキーワードである。そして、このようなヒューマニズムを提示できるとき、<西の魔女>おばあちゃんはまた、あらゆる読者のおばあちゃん的な存在になり得ているのではないか。
 さて、私は、この作品ではママもおばあちゃんも名前も持っていないことに気づいた。
 このことは、最初に『西の魔女が死んだ』を読んだときに私が思い出した、 ブラッドベリの『歌おう、 感電するほどの喜びを!』(ハヤカワ文庫)という短編に関係する。 この話は、母親を亡くした家族に、決して壊れないままに子どもたちに愛情を注ぎ、母親の役割を果たすことのできる、「おばあちゃんアンドロイド」がやってくるというものである。 何があっても子どもたちを見守り続けるアンドロイドのおばあちゃん。一方、肉体が滅びた後、違った形でその存在をとどめたまいのおばあちゃん。死はおばあちゃんを昇華し、まいと母親に<それぞれの後悔>をも与えつつ、永遠に生きる言葉を遺す。この二人のおばあちゃんには、「おばあちゃん」機能そのものの本質があるように思う。そして、アンドロイドのおばあちゃんもまた、名前を持っていなかった。一つの家庭での役割を終えた後、壊れない故に、次の子どもたちのところに向かっていく。
 <西の魔女>は、まいだけのおばあちゃんでありながら、私たちのおばあちゃんでもあるように感じる。多くの人々が思い描くおばあちゃんという機能を理想形にしたものが、『西の魔女が死んだ』を含むいくつかの創作にはあるのではないだろうか。
 子どもの数は減少している。急いで大人になっていく子どもも多い。一方で、年とった人は隔離されがちだ。老人と向かい合うことのできる子どもたちもまた少なくなってきているだろう。このような事態にある現在、 まいのおばあちゃんは、 等しく、寂しい読者のおばあちゃんになるのではないだろうか。 私たちが問題にするのは、あくまで子どもの文学である。現代の子どもが、そして大人もこのような物語を必要としているからこそ『西の魔女が死んだ』は生まれたのだろう。
 三世代同居が再び増えたきた現在、祖父母と住む子どもは一時期よりは多いという意見もあるかもしれない。だが、子どもは子どもの世界の中だけで既に忙殺されており、老人と子どもは、実際問題本当に受け入れあってはいないのではないか。本田氏は『子どもの領野から』で、子どもと老人が<手を携えて、遠くに行ってしまったのかもしれない>(p.一六二)と述べて、効率化を図っていく社会の周縁にいる二者が「共に」相手に自己を見いだしていることを考察しているが、現実はやはり、老人と子どもの距離は遠くなりつつあると思う。むしろ、周縁にいるという立場は同じでも、ばらばらに遠くに行かざるを得ないようにも見える。
<子どもと老人>という命題に対し、子どもと老人の組み合わせの数だけのアプローチがあるだろう。その中で、『西の魔女が死んだ』は、「受け入れる」存在としての普遍的おばあちゃん像を描いた。このことはひとつの必然だったと考える。

老いの現実を越えて

 もちろん、温かさを描く以外にも老人について目を向けるべきものが多くあることは否定しない。死や老化が理想のすぐ真裏にあることも分かる。事実、おばあちゃんは、まいと別れてからの二年間ですっかり老いてしまった。おばあちゃんが年をとり、思うままに自立したカントリーライフを営めなくなっていく様をまいは見ていない。私たちも見ていない。見せつけられるのは、既に死んでしまったおばあちゃんの痩せた肉体が横たわってるところだ。人生の終焉に人間がいかに弱く醜くなっていくのかという過程を、作者はあえて見せなかった。だからこそ、まいと過ごした日々のおばあちゃんの甘さは余計にせつなく感じられる。
 だが、この選択こそが作者の視線と言えるものであり、彼女が巨大な現実の中から物語として拾い上げたものを、私たちはひとつのリアリズムとしてとらえることができるのだろう。
 この作品の持つリアリズムは、読者に希望を与えている。作家のベクトルが生きる方向に向かっている。また、まいはおばあちゃんの家という別世界に必然性をもって訪れ、そこで生きることに関わる智恵を得て、再び学校や両親のいる家庭へと戻っていった。<行きて帰りし>という意味でも、このリアリズム作品はすぐれてファンタジーなのではないかと思う。そして、私たちは<老人>という主題に対し、様々なリアリスティックな問題提議と同時に、このような癒しのファンタジーも必要としているのではないだろうか。

おわりに


 この小論文では老人というより、「おばあちゃん」についての言及になってしまった。だが、男・女を通り過ぎ「おばあちゃん」という方法で老人を語ることで、老いが持ち得るものをあるひとつの側面から眺めることができるだろう。
 まいはこれから不器用に、しかし豊かに現実の社会を生きていこうとしている。おばあちゃんとまいは、魔女の血を受け継ぎ、魔女の世界を知っている。おばあちゃんはまいの先達だ。そこには、血のつながりと同じくらいに、同志とも言えるような「魔女」を抱えて生きる個人と個人のつながりも見ることができる。『西の魔女が死んだ』は、おばあちゃんと孫という老人−子ども関係でなければ、この愛情深い絆が示せないことを踏まえた上で、老人−子ども以上の関係を示し得たのではないだろうか。

【参考文献】

©Hiroe Suzuki 2000
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