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季刊 ぱろる 6 特集:売れればエライ!? 1997年4月7日 パロル舎 所収 |
児童文学とは何だろう?という問いに対して、様々な人が様々なアプローチをしている。児童文学として提出された作品群に共通する時代性や社会性を発見することもあれば、いわゆる大人の文学の中に、児童文学「らしさ」を見いだすこともあるだろう。そのような児童文学性は、ひとつひとつの作品について真摯に批評することで見えてくるものであり、いずれもが、この大きな問いに対する回答になり得る。どれが正しい児童文学で、どれが間違った児童文学である、ということはない。
だから、児童文学という営みには、たくさんの面があるのだ。子どもの目の高さから、大人の論理で構築された世界に問いを投げかける作品。子どもを取り巻く状況を丹念に描くことによって、社会の諸問題を浮かび上がらせようと試みる作品。これらは、リアリズムとして分類されることが多いかもしれない。また、一人の子どもが生きる様子をたんねんに追いかけることによって、人間の成長や自己のありようなどを読者に気づかせる作品は、ファンタスティックに構築された世界を舞台にすることもあるだろう。
ここでは、大人の批評家にほとんど評価されてこなかった、子どものためのエンターテイメントを取り上げる。大人である私たちが、これをほとんど問題にしないことが多いのなら、そこにはなにか理由があるからなのではないだろうか。日本の『クレヨン王国の12カ月』とアメリカの『オズの魔法使い』を比べることによって見えてくるものを探りたい。
クレヨン王国とオズの国:相違点
『オズの魔法使い』は、創造性に富んだ、アメリカならではのファンタジーとして評価が高い。だがむしろこの作品は、その歴史的な意味によって評価されている部分が大きいのではないだろうか。
アメリカのファンタジーは、1960年代以降のハイ・ファンタジー群に魅力のあるものが多い。『オズ』は、出発点であったと同時に乗り越えられるべき作品であった、ということだろうか。ハイ・ファンタジーの重層的なanother worldに比べ、オズの国はいかにもつくりものの遊園地めいたにぎやかな世界である。しかし重要なのは、今生きている現実世界のすぐ近くに、このような別世界があるということを、ボームがアメリカの児童文学の中で最初に表したことの持つ意味なのだろう。
この、遊園地らしさというものは、日本のベストセラーである『クレヨン王国の12カ月』とその続編にも共通している。これらの作品は、いわば底の浅さが大きな魅力となり、子ども読者をひきつけ続けている一方で、その魅力の本質ゆえに、大人の批評家は評価すべき点を見いだせないのかもしれない。
この二作品について、まず、異なっている点を挙げたい。
第一に、クレヨン王国は、日常世界そのものに潜んでいるような非日常の内側に存在し、子どもが自分で空想できる世界の延長だ。つまり、子どもの側にぴったりと密着した上で、子どもが自分では文字化することのできないような空想世界を組み立て、提供しているのがクレヨン王国なのである。
子どもに聞くのはあんまりよくないんですが、あんまり不思議だったんで「『クレヨン王国』のどこがおもしろいの?」って聞いたら、2年生の女の子が「シルバー王妃が玉乗りをして、鼻の頭の上でグリンピースを38粒のせるのがおもしろい。」そうです。(笑い)もう私には、おもしろくないわ。自分はもう絶対に現役の小学校3年生にはなれないんだから、現役の言うことを聞いた方がいいですよ。
(赤木かん子『今どきの大人と子どもと本と』p.56)
『クレヨン王国の12カ月』では、作者自身が「子ども」感覚の中に生きている。「おもしろい」が、一回性の形で子どもたちに提供されている。つまり、子どもにとっての「おもしろい」というエピソードや情景描写の輪の連なりが『クレヨン王国の12カ月』という本になっているのではないか。
一回性というのは、子どもの読書の特徴である。子どもは、同じ本を何度でも読み返し、同じ箇所で笑ったり泣いたりする。読書がその場その場で新しい体験なのだ。だが大人になるほどに、私たちは、今までに積み重ねてきた読書体験をたえず現在にフィードバックしながら読書を楽しむようになる。作家の名前やその本が生まれた背景も問題にするようになってくる。それはよしあしの問題ではないのだが、少なくとも子どものためのエンターテイメントにおいて、作者の姿勢が、子どもの読書の一回性というところに密着しているなら、その作品が子ども読者に支持されるのは当然の結果と言えるかもしれない。
これに対し、オズの国は、そのきわめて人工的な成り立ちにもかかわらず、基本的には日常の生活が下敷きになっているものだ。たしかにオズの国にも、奇妙な住人や奇想天外な発明が登場し、読者を大いに楽しませている。だが、ドロシーたちの旅の様子そのものは、おおむね平坦で、多少起伏があってもどこまでもまっすぐだ。そして、まぶしいくらいに乾いたアメリカの道路を、私に思い起こさせる。クレヨン王国に、甘やかな「子ども」の湿り気のようなものがあるのに比べて、オズの国にはむしろアメリカ「青年」のさわやかな平面性のようなものが感じられてしまう。
それは、ひとつにはユカがいかにも小学校二年生なのに対して、ドロシーがすでに<アメリカンガール>になっているからだとも思われる。英文学者の佐藤宏子氏の術語である<アメリカンガール>というのは、一八七〇年代から二〇世紀初頭にかけてさまざまな形で文学に描かれた、アメリカ「らしい」女性像のことを指す。それは総体として言えば自由ではつらつとした女性像であり、重要な点として、独立心・自立心にあふれている。ドロシーは、「カンザスの家に帰る」という目的のために、たった今自分が何をなすべきかを考え、まさにしっかりと自立して行動する女性である。それに比べるとユカは考え深いけれどもやはり少女であり、「女性」らしさよりも「子ども」らしさが強い。ユカが行動を共にするシルバー王妃(マリねえさん)は、肉体的には大人の女性だが、目の前の事象に生きている子どもらしさを多分に残している。シルバー王妃もまた一回性のエピソードの中に生きる「子ども」なのだ。オズの国が、たくましく毅然とした意志をベースに成り立っているのに対し、クレヨン王国は、どこをとっても、目の前の「楽しい」を追いかける子どものものなのである。
第二に、次章で述べるように、『オズの魔法使い』も『クレヨン王国の12カ月』も共通の<旅>のプロットを持っている。だが、オズの国の旅が精神的なachievementを求めるプラス指向のものであるのに対して、クレヨン王国の旅はマイナスを克服してゆくものになっている。オズの物語がアメリカで国民的な愛読書となり得、大きなポピュラリティを獲得したのは、彼らの求めたものがアメリカ人の求めたものと一致していたからであろう。一方、クレヨン王国が結局は子どもだけのものにとどまってしまったのは、どこか求心的な核になる部分が弱かったためで、同じ遊園地でも「ムード」にとどまってしまったからなのかもしれない。
クレヨン王国とオズの国:類似点
以上のような相違点はあるが、この二つの作品は、大きな部分で類似していると思われる。
第一に、オズの国の住人もクレヨン王国の住人も、造形的で色彩感覚が豊かである。オズの国のエメラルドシティーの緑、毒々しいケシの花の赤、せとものの国の不透明な白、ドロシーたちを導くイエローブリックロードの黄色。一方で、クレヨン王国はその成り立ちからして、12の国すべてがそれぞれの色に染められていて当然である。一月の雪の町は白一色だし、二月の町の月旅行では黄色一色だ。
クレヨン王国の色彩感覚は、子どもの、ある種のステレオタイプの感覚にマッチしているのではないだろうか。大人の私たちが、モノをいくえにも解体して眺めなおすことができるのは、大人の獲得した歴史性のゆえである。ところが、『クレヨン王国の12カ月』の物語世界は、「一月の町は雪の白、二月の町は月の黄色、3月はお花畑で5月はこいのぼり」といった、「色のお約束」の範疇で展開されていて、それが子ども読者をひきつけている。元来、色というものは自然の中・生命の中にしかない。そして、その本質に少しでも似せるために染料や絵の具などがつくられてきたはずだ。しかし現代では、その「自然」を「人工」で計ることが当然とされてしまっているようにも思われる。その是非はさておいても、今の子どもが持っている、色に関するステレオタイプの部分にアプローチしたところに、クレヨン王国のひとつの仕掛けが見いだせるのではないか。また、オズの国ではその仕掛けは無意識的に行われていたのかもしれない。
第二に、双方ともユーモアを含んだ言葉遊びからのイメージが豊かである。例えば、『オズの魔法使い』では、エセ魔法使いだったオズが、カカシの藁の脳みそを取り出し、pins and needlesを詰めこむが、これは、<sharp>を「鋭く機転が利く」という意味に用いているからだと推測される。カカシはそもそも尖ったものが大の苦手だったのだから。一方で、クレヨン王国の三月の町では、ユカもシルバー王妃も、嘘つきの鷽(ウソ)によってひどい目に遭ってしまう。
いくえにもなっている言葉の「意味」を、空中高くほうり上げ、そこで遊ぶことによって、ナンセンスのユーモアが生まれる。それはこれらの作品においては、いっそう子どもに密着したものであり、子ども読者は作者の仕掛けをあたかも「大発見」したかのように楽しむのであろう。 第三に、『オズの魔法使い』も『クレヨンの12カ月』も、一見、少女の冒険ファンタジーという、子どもの近代的「小説」であるかのように見える。だが、実は両方ともフェアリーテイルの構造と様式という「物語」性を持ち合わせているのではないだろうか。前者では、知恵・愛情・勇気・ホームという見えざる宝物を希求する三人と二匹の旅であり、後者は、王妃が十二の欠点を克服し、ゴールデン王を捜し出すための旅に、ユカがまきこまれてゆく形になっている。
構造と様式というのは、マックス・リュティの術語だが、「大衆的」とさえ言われるたぐいの子どもの本は、すぐれてこのような伝統的なメルヒェンの方法を踏襲しているのではないだろうか。
メルヒェンのなかの重要なできごとがすべて「欠如−欠如の除去」 (L−LL)という根本的な図式に還元できることから、メルヒェンの明確性がいっそうはっきりしてくる。いや明確性ばかりでなく普遍性もくっきり浮かびあがってくるのである。−なぜなら欠如、加害、欠如要素とそれに対応する除去への努力や欲求は、メルヒェンという物語を支配しているばかりでなく、すべての生命そのもの を支配しているからである。人間も動物も植物も、自分がこうむった損害を償おうとし、自分が感じる欠如や損失を回復し、除去しようと試みる。その意味でメルヒェンは普遍的な人生のできごとを鋭くえがきだしてみせているのである。
(マックス・リュティ、『昔話 その美学と人間像』p.119.l.9-15)
クレヨン王国の旅は、伝統的な昔話のプロットに、子ども感覚のムードをあてはめたものである。また一方で、オズの国の旅は、昔話に出てくる婚姻や財宝という「宝」を、いかにもアメリカ的な知恵・愛・勇気・ホームにおきかえることによって、近代的な子どもへのまなざしを実現することになった。
カカシの知恵、樵のハート、ライオンの勇気は、単にオズが「形」という自信を与えただけで、もともと彼ら自身のうちに備わっていたものだった。だが、だからこそ彼らはオズの国を旅する必要があったのであり、ドロシーはむしろ彼らに呼び寄せられたのかもしれない。つまりボームは、昔話という伝統的な手法を用いつつ、近代的な意味での「宝」を提示し、さらにそれらが自らの内にあるということをメッセージとして織り込んだのだ。
冒険の目的が非日常の側にある世界に秩序をもたらすことにあり、王国が回復された後には人間の少女は現実の側に戻ってくることになる、ということが、二作品には共通している。エセ魔法使いのいなくなったオズの国には、カカシ・ライオン・樵が統治する新たな体制がととのい、クレヨン王国にはゴールデン王が戻って来て、秩序が回復された。
オズの国に<来たりて去る>ドロシーは、彼女自身<行きて帰りし>の旅を経験し、一段高くホームに向かう意志を確認できることになったのだろう。この意味で『オズの魔法使い』は、ファンタジーとしての近代性も同時に獲得することになり、指標的な作品と見なされるようになったのではないか。クレヨン王国では、その旅はユカに直接的に何かを獲得させるものではない。だが、「クレヨン王国」という別世界があることを知った経験はたしかにユカに大きく影響していると言える。
これらの作品は、人間の少女にとっては<行きて帰りし>の旅になっている。そしてその経験は、一人の人間としての少女の成長に何らかの形でかかわっている。そこに、伝統的なメルヒェンのもプロットをたどりつつ、それとは異なる近代性も見出だされ、物語という方法の中に、小説が入れ子に存在するという、共通性が見いだされるのではないか。 第四に、クレヨン王国もオズの国も、civilizeされていない国という意味で、子どものものである。ここには、ハイファンタジー的な深遠な哲学や世界観が示されることはない。重厚なハイファンタジーの国である『ゲド戦記』のアースシーとは異なり、オズの国もクレヨン王国も、おそらくは、その浅薄さが魅力の源泉なのである。抽象的にもなってしまう可能性のある数々のファンタスティックな王国の中で、純朴とも言えるほどのクレヨン王国やオズの国は、まさに遊びの空間であり、エンターテイメントに徹しようとするものだ。
クレヨン王国もオズの国も、その根本的な成り立ちからして、子どもが遊ぶ場所である。もしかしたら、こうした空間を大人が意図的につくってやっているという意味で、これらの作品はエンデの言う<特別居住区>になっているのかもしれない。エンデは児童文学のことを大人が用意してやった子どものためのスペースだと言っている。児童文学は、囲われることで生きのびてきた反面、「子どものもの」として数段低く扱われることになってしまったのである。
エンデは、その内部から物語を発信することで、「子どもの本」という囲いを取り払おうとしたのであり、彼の作品には大人が読み解く部分と子どもが楽しむ部分が共存している。だから、エンデの作品に<特別居住区>を感じるのは逆に難しい。この語の持つ意味は、やはり、オズやクレヨン王国のような大衆的な作品の中で生きてくるのではないだろうか。
「civilizeされていない」ことは、遊び手である子どものいきあたりばったりの空想の広がりにもつながってゆくものであり、より子どものイマジネーションに近いものである。だから、子どもはこの世界にひきつけられ、「これは自分のための本である」という感覚を持つことができる。そして、それこそがこのようなエンターテイメントの強さなのである。
児童文化としての文学
本田和子氏は『異文化としての子ども』の中で、祝祭としての縁日を取りあげ、それが「いかさま性」と子どもたちとの結縁のコスモロジーである、として考察した。そして、子どもが<その遊戯的虚構に最もよく共鳴し、そこに出現したあやかしの世界と直接的に交流し得る身体の持ち主>(p.78.l.9-10)であるということを述べている。
『クレヨン王国の12カ月』や『オズの魔法使い』といった作品は、この意味で身体的・遊戯的な文学であると言える。児童文学の持つ多面性のうち、最も目立ち、最も問題にされないのが、「子どもを相手にしたエンターテイメント」の部分である。この種のエンターテイメントは、児童文学の持つ、子どもの像から真実を浮かび上がらせる真摯な態度とは対極に位置しているようにすら見えるからだ。
たしかに、『クレヨン王国の12カ月』や『オズの魔法使い』は、ハイファンタジーの持つ深い哲学や、ファンタジー作品も持つべき人間のリアリティを内包していない、ということで大人の批評のメインストリームからは退けられがちである。けれども私たちは、こういうたくさんの大衆的な作品が、驚くほど長い間子どもを楽しませている、ということをもっときちんと受けとめるべきなのだろう。
本田氏はさらに、サーカスについて、このように述べている。
リングの上にあり得ぬはずの出来事が次々と出現するとき、日常の秩序は解体され、何が起こるか不明であるが、何事も起こり得るという、多義的で不確定な世界が成立する。こんな世界で最もみずみずしく本来の生を呼吸し始めるのが、子どもという異人種なのだ。
(本田、前掲、p.84.l.10-13)
サーカスや縁日のような「子どもだまし」の中にこそあるエンターテイメント。華やかで種も仕掛けもあるつくりものの、それでいてどこかひとをひきつける遊園地的空間が、文字の世界で展開されているのがクレヨン王国であり、オズの国なのである。それは、文学の持ち得る深さとは無縁のものかもしれないが、そこに遊ぶことで子どもはみずみずしくなる。そのような世界を、子どもは自分がいるべき場所として認識し、受け入れる。そして、その遊園地に、いかに子どもたちをいざなうかが、そのような作品を「設計」する作者の力量なのではないだろうか。この意味で、『クレヨン王国の12カ月』も『オズの魔法使い』も、文学というよりはむしろ、児童文化的な営みなのである。
だから、こういった遊園地的な作品に文学批評をそのまま持ち込もうとしてもそこに不協和音が生じるのは当然なのだろう。論じ手は、このような作品を無視してしまうし、書き手は高い文学性とは無縁であるところにこそ自負を持って、多くの子どもたちを「楽しませる」ことに没頭しているからだ。
私自身は、児童文学の持つ、小さい人たちからのリアリズムの視点を支持する。また、歴史性を内包する大人の読書が、子どもの一回性の読書と同じくらい豊かなものであることを信じたい。と同時に、クレヨン王国やオズの国のような遊園地が、子ども読者の遊び場として有効に機能し続けることもまた願うのである。
【引用・参考文献】
©Hiroe Suzuki 2000
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