ファンタスティックとリアル
鈴木宏枝

季刊 ぱろる 8  これからどうする子どもの本
1997年12月25日  パロル舎 所収
 テレビをつけていたら、某お笑い番組の中で「冷やし中華はどこまで冷やし中華か」という遊びをやっていた。町のレストランで注文するとき、「冷やし中華」に似て非なる言葉を発し、それが「冷やし中華の注文」として認識されるかを試し、まったくかけ離れた言葉とのギャップを笑うものである。
 児童文学は、どこまで児童文学なのだろう?すでに子どもでない私たちが児童文学の作品を読むとき、そこにはどんなバイアスがかかってくるのか。私たちはどのように児童文学を読むのか。
 第一に、作品と作家とを結びつけて読む読み方がある。例えば、アメリカのヴァジニア・ハミルトンは、様々な問題を含んだ重厚で多層的な作品世界を提示している。作家の歴史観を知れば、その作品はさらに深く理解されるだろう。アフリカ系アメリカ人やネイティブアメリカンの、平行文化としての歴史や背景。白人文化に抑圧されてきた民族集団のサバイバルの物語は、そのまま現代社会を生きのびていく子どもたちの姿に重なる。
 また、「カニグズバーグの新刊が出たからぜひ読もう」と思うのも、「本来は大人の本の作家だけど、児童文学も書いている」という言い方も、作品と作家との強い関連を表していると言える。
 第二に、作品と読者とを結びつける考え方がある。作品は読まれることにより、それぞれの読者の中で再生される。作品の意味は、読みという行為のプロセスでつくられていくものであり、読者は作品を完成させる重要な「受け手」だ。それは批評にもあてはまることだろう。作品に対峙する「わたくし」がいて、その「わたくし」と作品との間に次の物語が生まれる。自分を語り、自分の読みを提示するという意味では、すべての読者は等しく批評家であり、批評は創作の性格も持ち得る。
 特に児童文学については、大人の読者と子どもの読者の読みの違いが顕著になることが多い。最近は、「内包された読者」という言葉を用いて、テキストの受け手としての第二の自己というべき読者モデルを設定して論じられたりもしている。
 子ども読者の読みにスポットを当てるとき、「子どもに喜ばれなければ良い児童文学ではない」「大人がどんなに良いと評する本でも、子どもに読まれなければ意味がない」という意見が出てくる。その場合、児童文学の児童という冠は、児童のため、という意味に特定される。だが、この冠を常に言葉通りに受ける必要はないのではないだろうか。
 大人読者である私たちは、子どもにしか喜ばれない本を問題にする機会があまりない。それらの本の良さは子ども読者が体験的に知っていることである。大人の私たちがその良さを理でもって述べる必要が感じられない場合もあるし、正直言ってどこがいいのか分からない作品もある。ただ、子ども感覚に合う作品、感情移入が容易ではっきりした性格を持つ登場人物が冒険したり活躍したりするプロットや、あるいは日常の感覚をはるかに飛び越えて展開されるナンセンスには、たしかにひとつのおもしろさが見出せるだろう。
 だが、子どもの読みだけを児童文学の価値判断の基準にしたり、子どもはどう読むのか、という問題だけに力点をおくことはためらわれる。子どもに分かるおもしろさと大人に分かるおもしろさ、そのどちらをも併せ持つ
 懐の深さが、「児童」文学、すなわち人間文学のおもしろさだからだ。相対的な関係性の中に生かされているという感覚や、子どもという社会の周縁のまなざしから見た世界。このまなざしや、大人の文学では表しきれない世界の半身が、「児童」という冠のもう一つの意味ではないだろうか。成長だけが児童文学の要件ではないけれど、他者や自分自身との出会いの中で生きのびていくことの意味を知ること、また、あらゆる想像の力を包含していっそうダイナミックに動く第二世界の豊かさ、その根底にある、「人生は捨てたもんじゃない」というメッセージ。これらは、文芸としての児童文学の持つ大きな魅力であり強さでもある。パターンを用いながら、子どもの世界と大人の世界をパラレルに具体的に描くことのできる児童文学。それを味わうことのできる大人読者の読みを過小評価する必要はないだろう。
 そこで、「子どものためのエンターテイメント」と「もうひとつの世界像を示す文芸」という二つの面のある児童文学作品は誰のものなのか?作家と作品との関係、読者と作品との関係を論じる前に、私は、当たり前のことだが、創られた作品世界が登場人物のものであることを考える。たとえその主人公が作者の分身であることが明らかに読み取れたとしてもやはり、その物語は作中のヒーローやヒロインにしか属さないものだ。例えば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、賢治と作品との深いつながりを考えたり、その多層性から児童文学という範疇を越えて子どもから大人まで様々に読まれるその読まれ方を研究されたりしている。銀河鉄道の雰囲気そのものを楽しむこともあるだろう。その中で私は、銀河鉄道がジョバンニのために用意され、彼が救われるために、こんなにも様々な出会いや風景を呼び寄せたことを考え、賢治のジョバンニへの優しさに感動するのだ。
 だから私は、ファンタジーとは何だろう、リアリズムとは何だろう、というとき、登場人物にとってのファンクションを考える。作品の登場人物は、作家や読者と等しく存在していると。
 たとえば、ヴァジニア・ハミルトンのリアリスティックフィクションには、当たり前のように超自然的な力が登場する。『マイ ゴースト アンクル』には幽霊のおじさんが登場して主人公のツリーとダブに家族の過去を見せる。『わたしはアリラ』の賢老人ジェームズは、アリラとテレパシーの感覚で会話をし、<すべてのものは環になっている>というインディアンの世界観を伝える。ハミルトン作品の超自然は、それぞれの主人公の物語に力を与える偉大な機能であり、表面上の不思議さは、全く問題ではないのである。
 だからこそ、具象としての別世界を創らなくても、日常に働きかける異なものとの出会いや変化も、ファンタスティックと言うこともまた可能なのだろう。後藤明生はゴーゴリの作品におけるペテルスブルグを考えながら、

ファンタジー(幻想的な世界)は、別にわれわれの生きている「日常」の外側に、別な世界としてある必要はない。「日常」の世界の事物(人間)と事物(人間)との関係、組合わせ、配列というものを一つの構造としてとらえ直してみれば、「日常」そのものがすなわちファンタジーなのだということなのである。「日常」そのものが、グロテスクであり、迷路であり、両目を開いたまま見ている悪夢であり、ワンダーランド(不思議の国)なのだということである。
『笑いの方法』p.265

と述べて、現実の中にこそあるファンタジーを強調している。
 従来のリアリズム/ファンタジーという分類は、必要なものではあっても、それだけで本質を語るのはむずかしい。全く新しい超自然と日常との融合は、これから非西欧文化圏の作品を中心にどんどん出てくるのではないだろうか。
 主人公のリアリスティックな生に様々にかかわっていく非日常の要素。それは超自然のものであっても、日常の中の奇跡的な共時性であっても、等しくファンタスティックなのだと思う。私は、ファンタジーという言葉の、ラベルではなく本質を考えたい。それは、読者にとっての「ファンタジー」「リアリズム」ではなく、主人公(たち)のための物語の中のファンタスティック、リアルということになるのではないだろうか。登場人物の現実世界を変化させ、成長させることのできるその大きな力は、ファンタスティックとしか言いようがなく、そのような出会いやふしぎを呼び寄せることができる子どもの心の真実、そしてそれを表現することのできる児童文学という形式は、やはりユニークだ。
 日本の作品では、梨木香歩の『裏庭』には、現実世界を支えるファンタスティックな世界が描かれ、様々なオブジェやモチーフが登場している。『裏庭』の裏庭(クオーツァス)は、登場人物らの影であり、深層意識の世界であり、イメージの宝庫だ。登場するモチーフは、ルーツを無化され、ポストモダニズム的に収斂されている。テナシやスナッフや、一つ目の竜。このような作品が、日本にオリジナルな児童文学の中に生まれてきたことの意味は大きい。日本の作家が今までに読んできた(児童)文学は、昇華され、作品の中で本歌取りされている。この連続性の最端にもうひとつの「日本らしさ」が立ち現れてきているのかもしれない。
  『裏庭』におけるひとつの世界の崩壊と再生。形を失うと共に、そこには新たな世界が生まれはじめるという認識は、東西の様々な作品に見られる。そして、ファンタスティックな世界の崩壊と再生は、リアルな世界に生きる人間(登場人物)の再生ともパラレルである。純という自分の半身に出会い、母の心音を聞かねばならなかった照美。愛されたかったさっちゃん。言わねばならない一言を抱え込んでいた徹夫。それぞれが生きていくために、たった今必要だった裏庭は、だからこそファンタスティックと言える。
 また、大人の本で言えば、井辻朱美の『遥かよりくる飛行船』は、生きることの喜びと愛に満ちた作品だ。古からの血と、いけにえにされてきた者たちの恨みを継ぐ主人公のアスナ。アスナを解放するネヴィル・リーデンブロックは、夢の地球という別世界から来た翼竜(アンハングエラ)だったが、アスナが最後に強く望んだことによって、地球での人間としての実体を得る。
古来から儀式のいけにえにされてきたハルビカらと同じ種族だったアスナの、祈りとゆるし。夢の地球では翼竜だったネヴィルが獲得した、人間という実体。ファンタスティックを必要とするリアリティと、リアリティを支えるファンタスティックは、ダイナミックに組成され、その大きな渦巻きが見事なハッピーエンドを迎えている。
 また、『遥かよりくる飛行船』の暖かさは、愛を放射しながら飛来する飛行船が実は生きものであり、アスナの時代の示準化石になっている、という大前提にあると言える。愛があったことがその時代の証しである、という仮説ほど、生きることを礼賛した考えはない。アスナは、ハルビカの深い苦しみと虚無を目の当たりにしてうちひしがれたとき、窓の外という至近距離にまで飛んで来てくれた飛行船の愛に心から安堵し、号泣する。
  『裏庭』の裏庭と、『遥かよりくる飛行船』の夢の地球は、登場人物の現実に対して豊かにエネルギーをおくることのできる別世界として、共通の機能を持っている。そしてこのような作品世界そのものは、二次的に読者の現実世界に対してもファンタスティックに機能していく。また、『裏庭』の根の国の餓鬼の瞳の哀しみをたたえた暗さと、『飛行船』のハルビカの口の中にあった深い虚無の暗さ、『裏庭』で橋の人柱にされてきたハシヒメと、すべての穢れやのろいを血の中に濃く受け継いできた<海から上がって来たもの>、など、作品の部分部分にも共通する点が見受けられる。<児童文学>から登場した梨木香歩の『裏庭』と、<大人向き>とされている井辻朱美の『遥かよりくる飛行船』は同じファンタジーを持ち、一方はその複雑なありようを未消化のまま、しかし本来ありうべき混沌として提出し、他方は、<この上ない恋愛小説>(後書き)に結実させている。だが、同じ年に発表された二作品は、九〇年代という時代との連関を持ち、リアルもファンタスティックも互いに多層的であり、複雑に関わりあっているという方向を示しているようである。
 子どもの文学に現れたファンタジーと、大人の文学から発信されたファンタジーが重なるとき、新たな可能性が見えてくる。リアルとファンタスティックを双方抱え込んで、主人公の世界観の変容が描かれる児童文学。その本質は様々な文芸の中に見出せるだろうし、力を失うことはないのではないか。

【参考文献】


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