「児童文学評論」 92号 2005年8月
『エンピツは魔法の杖 物語・詩・手紙…ニューヨークの子どもたちに「書くこと」を教えた作家の奇跡のような3年間』(サム・スウォープ/金利光訳、あすなろ書房、2004/2005.06)
副題の通り、子どもの本の作家であるサムさんが、「教師と作家の協同作業」という機関の依頼を受けて、ニューヨーク・クイーンズの公立小学校の3年生のクラスに入るところからドキュメントが始まる。
当初、10日間の予定だったクリエイティブ・ライティングのプログラムは、子どもたちとのふれあいにのめりこんでいったサムさんの意思で、ボランティアの形で3年間も続き、サムさんがそのクラスの子どもたちの卒業を見届けることでプログラムは終わる。そのかん、彼は、生徒の進路に心を砕き、校長に交渉して、使われていなかった小部屋を自分の職員室に整頓する。生徒の父母にも会い、生徒たちを自宅に招く。
サムさんは、子どもたちにメタファーを教え、協同作業でもって忍耐強く子どもの着想にストーリーラインを与え、宿題を出し、詩を学ぶ。1年目は「箱」、2年目は「島」、3年目は「木」というプロジェクトを考え、それに添って、ものを観察して書く方法やおはなしを広げていく方法を学ばせる。6年生の「ツリー・プロジェクト」は、子どもたちが、それぞれに木を養子にし、木に語りかける形で詩や散文を書くものだ。木の理科的な勉強をし、セントラルパークに出かけて観察したり葉っぱを拾ったりしながら、子どもたちはネイチャー・ライティングを試みる。
教室や公園での子どもたちの一瞬の情景を見逃さないのが作家の目であり、気乗りのしない子どもとコラボレーションして物語づくりに導いていくのは教師としての手腕だろう。その冷静さは裏を返せば楽しいユーモアにもつながる。
この本の何より読ませるところは、この3年間の「奇跡」がプロジェクトXのような成功譚になっていないことだ。授業の準備に没頭し計画を立てても、思うような反応を引き出せないこともある。すべての生徒に好かれたいという危険な誘惑に陥りそうになることもある。実際の担任の先生のキャラクターによって、授業の重みが変わってしまう試練の時もある。傷つく言葉を投げつけられることもあれば、子どもたちに飽きられることもある。宿題もやってこないことも日常茶飯事だ。3年生当初の28人のクラスは出身国が21カ国、母国語は11にもなり、移民の親世代は貧しくて子どもの勉強にまで心を砕くことができなかったり、英語を話せなかったりする。先生と親の仲立ちにすらなる子どもたちは、家族や暮らしの問題も抱え込み、それが暴力的に出る場合もある。作文に身が入らないことも多々ある。
宗教の教えと現実とのはざまで悩む子ども、両親の不仲に傷つく子ども。彼らに対して無力でもあるということを、サムさんは冷静にありのままにとらえている。
だけど、だからこそ、ことばと書くべき対象と書き手の心とが合致した幸福な瞬間には、子どもたちの書いた文章が読み手にしみじみ響くものになる。I
Am a Pencilという本書の原題は、クラスが4年生に進級したとき、ジェシカという賢い少女が「自分のメタファー」として書いた詩の一部である。「わたしはエンピツ/わたしの暮らしを/書くじゅんびができている」(p.149)。エンピツになった子どもたちが、少なくともその瞬間、創作・作文を通じて、自分と世界をつなぐという困難にとりくんだこと、3年間という線ではなく、その瞬間、瞬間の点がいかに珠玉のものでありえたかが、いくつかもの詩や作文から感じ取れる。
この3年間を通じて、悲喜あわせてすばらしい経験を得たのはサムさんの方だとサムさんは言う。だけど、誰か大人が少なくとも一生懸命自分に関わったことを、どこかで感じ取り、ツリー・プロジェクトの最後にできあがった「ツリー・ブック」を抱きしめられたことが、もちろん、子どもにとっても、そのときいつか、振り返ったときに何かの力になるだろう。
最後の方に一瞬だけ出てくる、バンド指導のミスター・フォルティとサムさんとの出会いから、子どもたちの生活が様々な要素がパッチワークされていることにも気づかされる。そのときのサムさんと同様、スジュンのもうひとつの顔を知れて、私も驚き、そして嬉しかった。
『しずかに流れるみどりの川』(ユベール・マンガレリ/田久保麻理訳、白水社、1999/2005.06)
読み終わると、「ああ、プリモ、きみって…」と語りかけたくなる。大人には単に無邪気と見える少年が、心の内で、どんなに父さんを愛し、心配し、父への責任すら感じているか。きっとプリモは、大きな目をした細身の少年で、落ち着いた鳶色の髪の毛と、少しぶかぶかの服を着ているのではないか…などと私の空想もふくらんでいく。
うすうすと大人の事情を察しつつ、草の中に作ったトンネルをひたすらに歩きながら、プリモは、考える、考える、考える。
『おわりの雪』で主人公の少年が、雪でまっしろの野原を歩きながら、犬のことやトビのことや死を考え続けたように、ここでも、一種「包まれた」空間で、プリモの空想の言葉は、表に出てくる話し言葉よりもはるかに饒舌だ。
「つるばらを売ってたくさんお金をもらったら、何を買うか」「父さんは、子どもだった頃、素手で何匹マスを取ったのだろう」。どの空想も、記憶の世界そのものと混交するかのように白い光の中でのみ輪郭を持つ。「しずかに流れるみどりの川」は、その象徴であり、入り江も支流も、プリモの中で、いつまでも澄んだ水、マスでいっぱいの豊かさな川でありつづけよと、私はねがう。
父さんは、プリモがこんなに聡明でまっすぐな少年に育ったことだけで、人生のすべてに感謝しているのだろう。父さんや暮らしを心配するプリモの子どもらしさと、そんな浮世のことより目の前の宝物に満足している父さんの、おとな的な部分との、普遍的な小さなズレが、この本をしみじみ幸福にしている。
『火星探検』(旭太郎作・大城のぼる画、中村書店/小学館、1940/2005.03)
戦前の名作漫画の、当時の装丁のままの復刻版。くすんだカラーに味がある。
火星探検の話というよりは、天文へのドラマを軸にした子ども(と父親)のおもしろくて楽しい日常の話である。天文学者の星野博士の息子のテン太郎と、友達の犬のピチくんと猫のニャン子。天文台に行って、お父さんから火星の話を聞いたり、家で幻燈を見せてもらったりする。火星への興味を読者もかきたてられながら、笑えるのは、たとえば、星野博士と同僚の月野博士との子どもっぽい掛け合い(とそれを見るテン太郎たち)や、テン太郎の見た奇想天外な夢に本気で「それは違う!」とむきになってしまう星野博士の姿である。
もちろん、火星探訪の場面もあり、科学的な教示もありで、ひとつのテーマをふくらませるおもしろさを感じ、当時からの日本の漫画の水準の高さに納得した。「学者の研究に無駄はない 研究さえして置けば他のことにも応用できる」(p.22)ニャン子に向かっての「天気の変わり目をちゃんと知るのは天文学者より偉いんだよ」(p.142)(いずれも旧字体)など、含蓄のある言葉もあり、とても楽しく読んだ。
『イヤー オブ ノーレイン―内戦のスーダンを生きのびて』(アリス・ミード/横手美紀訳、鈴木出版、2003/2005.01)
スーダンやエチオピアというと、干ばつやユニセフの支援などの報道を覚えている。当時、自分と同い年くらいの子どもへの激しいシンパシーの感覚も。
『イヤー オブ ノーレイン』では、干ばつだけでなく、南部と北部の内戦、部族間抗争、国境を越えた戦火や難民の問題など、事態はいよいよ複雑になっており、その中で、それでも生きていく子どもを描いている。「雨のない年」が3年も続き、やせ細った牛だけが頼みの綱である村に、赤十字からの援助物資が飛行機で落とされれば、政府軍の兵士も反乱軍の兵士もやってきてそれらを強奪し、少年は兵士にするため、少女は奴隷に売るために拉致していってしまう。
主人公はステファン少年。兵士の足音を聞いて、仲間と一緒に森に逃げ、帰ってみると母は殺され、姉の姿は見えず、家々は焼け落ちている。村から逃げるように、どこかを目指して歩き始めた3人は、渇きと恐怖と病気の危険に、歩いていても休んでいても、心落ち着くことはない。やがて、ステファンは、胸に手を当てて改めて考え、情報や想像に従うのではなく、本能的に自分がよいと思う方向に戻ろうと決意する。
途中での他の少年たちやおばさんたちや医師との出会いに、読者に希望を与えるべき児童文学のひとつの立場を思い出させられた。だが、これが1999年を描いた2003年の作品であるということや、政治的に内戦が終結した今、この物語よりひどい混乱状態と、醜い人間性どうしの衝突が起きているであろう現実も、喚起される。
『キリス=キリン 森の王 1』(ジム・グリムズリー/澤田澄江訳、中央公論新社、2000/2005.04)
同じ翻訳ファンタジーシリーズとして刊行されている『盗賊の危険な賭 エイナリン物語第一部』『闇の守り手1 ナイトランナーT』と同様、世界像がくっきり見え、登場人物がしっかり立っている作品である。主人公のジェセックスの回顧の語り形式。
青の女王の圧政下で民衆が苦しんでいる世界が舞台。女王に敵対する赤の王(森の王キリス=キリン)はアーセンの森の中に自分の領土を持ち、反撃の機会をねらっている。彼は、民衆の最後の希望の砦でもある。
平凡な農家の末子に生まれたジェセックスのところに、ある日、かつて狩の途中で森に消えた伯父が使者として現れる。キリス=キリンのところで儀式をサポートし、朝夕の歌を歌う「キヴィー」役として、ジェセックスが夢で予見されたのだ。
境遇が一転したジェセックスが知っていく森の暮らし、森の王キリス=キリンをはじめとする、一癖ある登場人物たちの造形、また、見習いとしての仕事以外にジェセックスがひそかに三人の魔女たちに招かれ、のめりこんでいく魔術師修行など、複数の線がからみあい、次刊以降の展開が楽しみである。
「魔術」の捉え方とその学びのリアリティがおもしろく、ジェセックスの成長と魔術の習得、そしてキリス=キリンが抱くアンビバレントな思いが三部作の見所になるだろう。少年の美声を思い描くのも、楽しい。
「児童文学評論」 84号 2004年12月
『チューリップ・タッチ』(アン・ファイン作 灰島かり訳 評論社 1996/2004.11)
暴力と絶望しかない家庭で育った少女チューリップの心の傷の深さと、それに由来する邪悪さを、8歳で転校してきてから彼女に「とりつかれてしまった」ナタリーの視点で描く。題の「チューリップ・タッチ」は、絶対的悪意のあるふるまいをするときのチューリップ流のやり方、程度の意味になるだろうか。
チューリップは、人の気持ちを傷つけ、トラブルをひきおこそうとたくらむとき、そして炎を見つめるときだけ目を輝かせる。炎は、あらゆるものを燃やし尽くす力、殺す力だ。それに惹かれるチューリップの内面は、真っ黒な中に浮かび上がる目玉によって表現され、その「自画像」が表紙絵になっている。
チューリップは、凝視され、監督され、通過される。チューリップの問題はチューリップだけに還元され、彼女に根本的に介入しようとする人間は登場しない。問題児ゆえに注意を引くが、その底知れぬ心の闇の深淵に分け入ろうとする者はいない。チューリップは据え置かれ、周囲の人々は彼女を通過していくだけである。チューリップは、裏切られた思いにいっそう悪意を募らせていくだけである。ナタリーもまた結果的にチューリップを通過した一人であるが、そのことによって、一生罪の意識を抱え込むことになった。
大人たちは、ナタリーが叫んでいるように、ナタリーをいつのまにかチューリップの専門家にしている。ナタリーの声に目を伏せ、自分の場を侵食されるのを拒む彼らの姿もまたリアルである。
読み終わった後にも、読者の頭の中にチューリップがとどまり続ける。出版当時に原書を読んだときも衝撃的だったが、8年経って、成人したはずのチューリップは、子ども時代とどう折り合いをつけただろうか。
(鈴木宏枝/bk1)
『おわりの雪』(ユベール・マンガレリ作 田久保麻理訳 白水社 2000/2004.11)
<父と子、死と記憶、季節のうつろい――メディシス賞受賞作家による胸にせまる小説/「トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。そう、ぼくは、その鳥がどうしてもほしかった」>というのが帯の文句である。トビというのは鳥のトビのこと。
雑多な品々を売るディ・ガッソの店で、鳥かごに入れられて売られていたトビを見てから、「ぼく」はそのトビが欲しくてしかたなくなり、毎日、アルバイトの帰りにブレシア通りに寄り道するようになった。
「ぼく」は、養老院で老人たちと一緒に散歩をするアルバイトをしていて、空いた時間には、養老院の管理人のボルグマンとコーヒーを飲むのが好きな少年である。老人たちにもらったお金の半分は母さんに渡す。3人暮らしのアパートでは、死期のせまった父親が一日中寝ている。
子ども時代の、本人にしかその重要さが分からない「細部」と、終わりゆく子ども時代の節目という「大局」が、同じしんとした白い静けさの中で語られる。その中で、「ぼく」の空想は、とても饒舌だ。
冬になってから「ぼく」は、老人との散歩とは別の「仕事」をして、トビを買うための大金を手に入れる。その「仕事」の、誰が悪いのでもないかなしさと、白く寒い雪原と、犬の足跡と、歩き続けたその足の痛みがとても印象的だった。
淡々とした物語は、語りと空想によってリズムを持つ。「ぼく」が空想を織り交ぜて作り上げたトビ捕りの物語は、病床の父親に語り聞かされ、父子の時間をつなぐ。
「仕事」だけでなく、発作時の父を見る怖さや、夜にそっと家を出て行く母の気配など、親の知らないところでいろいろなものに傷つきながらも、「ぼく」の大切なものは損なわれない。「仕事」で得たお金で「ぼく」が買ったトビは、ともしびのようにアパートで生命力を輝かせる。おそらく母が、厄介な雑事を引き受けているのだろうが、父子のおわりの日々が純化され、それをトビがつぶらな瞳で見続けていたことに、なんだか安堵してしまった。
あのころぼくが語った話は「ほんとうの話」の影とか、鏡像のようなものだった。つまり、「ほんとうの話」とよく_似たなにか_(傍点)だった、と。(p.18)
いまでもときどき考えることがある。あれはぼくが実際にしたことなのか、それともしたいと思っただけなのかと。どちらでもおなじことだ、そう思うのがぼくは好きだ。そして、そう思って満足する。(p.150-151)
(鈴木宏枝)
「児童文学評論」 82号 2004年10月
『アグリーガール』(ジョイス・キャロル・オーツ:著 神戸万知:訳 理論社 2002/2004.05)
原題は、Big Mouth & Ugly Girl。コラムや戯曲を書く「ビッグマウス(=大口たたき)」のマット・ドナヒーが、自分の通う高校の爆破予告をしたという嫌疑をかけられる場面から話がはじまる。容疑はやがて晴れるものの、<普通>の人気者だったマットが、周囲の悪意にはまりこんでいくのを読むのがつらかった。濡れ衣での逮捕のときよりも、訴訟を起こした後の周囲の反応の描かれ方に、なるほどと思う。リンチやパンプキン誘拐も、胸が痛くなった。男の子の誇りが傷つけられる痛みが感じられる。
アーシュラ(=アグリーガール/自称)に感情移入してみると、せつなくおもしろくじーんとなり、ラストも味わいがあった。友情が愛情に変わるのだけど、このくらいの年代のときって、「何より大事」の一途な気持ちが同性に向いたり異性に向いたりして、その相手と親友にも恋人にもなれるのだ。
アーシュラのような高校生がフィクションできちんと描かれていることがうれしい。現実には、こんなに強く冷静に、パッションを秘めて凛としていることはできないかもしれないけれど、そのモデルが本の中にいることは、10代の読者には大事なことではないか。強いアーシュラがリサに見せるちょっと複雑な妹思いの気持ちや、親への苛立ちとでも「求める」心、鋭さゆえの感受性の豊かさもよく描けていて、とても印象深い。 (鈴木宏枝)
『チョコレート・アンダーグラウンド』(アレックス・シアラー:著 金原瑞人:訳 求龍堂 2003/2004.06)
チョコレートという、ちょっぴり魅惑的でちょっぴり背徳的で、だけど人生のスパイスの<甘さ>をくれるものをモチーフに、自由と弾圧のアレゴリーを近未来的に描いている。
健全健康党が支配してしまった某国では、砂糖もチョコレートも健康に悪い甘味も禁止になってしまった。チョコレート大好きで反骨精神のあるハントリーとスマッジャーの二人組の少年は、仲良しの駄菓子屋のバビおばさん、古本屋のブレイズさんらと、チョコレートの密造と<地下チョコバー>というもぐりのチョコレート愛好の場をつくる。
笑いながらもどこか笑えないのは、イギリスの状況は肌では分からないが、今、日本でなんだか同じ空気があるように感じてしまうから。一方で、途中で、チョコレートがすごく食べたくなってしまって、久々にミニサイズのチョコを買ってしまう。
フランキー少年の事情と、彼が制服を着て少年団になったときにすごく「らしさ」を発揮することや、ハントリーのママが、くすねてきた隊員の制服を着たときに「ミニ・ヒトラーになった気分」と言う場面などから、制服がひとをつくることを思った。
どういう制服を着ると、チョコレートを禁止し、<健全健康>第一を信奉するようになるのか。その制服は、今、私にも、すぐ手の届くところにあり、時には着ることもあるかもしれない。制服によって簡単に体制側になりえてしまう怖さを感じてしまった。また、反抗することが、こんなにコミカルにではなくナチスがやったような死を意味するとき、私は本当に反骨精神が持てるだろうか。 (鈴木宏枝)
『真夜中の飛行』(リタ・マーフィー:作 三辺律子:訳 小峰書店 2000/2004.08)
訳者の後書きによると、作者は、「ハンセン家の女たちは、どんなに天気が悪くても、かならず夜に飛ぶ」という着想からこの物語を書いたという。今回、なんとなくこの後書きを先に見てから本文を読んだら、ちょっと予想と違っていた。魔女的なファンタジーではなく、少女のイニシエーションと家族の変容が、魔法や超現実の要素の出てこないリアリスティックな作品以上に鮮やかに描かれている。
ハンセン家は、屋敷で3代が一緒に暮らしているが、おばあさまの言い渡した「敷地内に男は住むべからず」の決まりどおり、男はいない。主人公のジョージア、母親のメイヴとその姉妹(ジョージアの叔母たち)のエヴァとスキ、おばあさまのマイラ。彼女たちを結ぶ血筋は「飛べる」家系であること。ファンタジーらしいのはこの一点だけなのだが、その「飛ぶ」感覚も、風の冷たさや飛翔の高揚感、方向を定めたり着地したりするときの緊張など、ものすごくリアルで、飛んだことがなくても、こんな感じなんだろうな、あるいは、こんな風に飛ぶひとっていそうだな、と思えてしまう。
おばあさまの力が圧倒的に強い屋敷の中で、ジョージアの16歳のイニシエーション(「単独飛行(ソロ)」をめぐり、母の世代とジョージアとが、おばあさまからいかに自由になるか。ジョージアにとっての特別な日は、家族みんなにとっても、特別な日になった。 長い間屋敷から離れていたカルメンの造形がいい(名前も示唆的である)。叔母たちそれぞれの優しさとあたたかさも、しっかり感じる(っていうか、家系図によると、私はもうこの世代なのだった…)。 (鈴木宏枝)
『影の国よ、さようなら』(ブライアン・シブリー:著 中尾セツ子:訳 すぐ書房 1985/1991.10)
C.S.ルイスと60を過ぎてから結婚したジョイを中心とした伝記で、とても読みやすい。ナルニア読本を読んだことや断片的な知識はあったけれど、ルイスの全体的な伝記は未読だったので、とても興味深かった。離婚歴のあるアメリカ人女性のジョイと、既に神学者、評論家、教授として地位を得ていたルイスの、老年になってからの出会い、その後、ジョイの体を蝕む病魔との闘いの中で、あらゆる障害を乗り越えてはぐくまれたすばらしい愛情に、人生の奇跡を見るよう。
母親が早世して抱えることになった心の傷、兄との生涯のきずな、学校時代、大学時代、無神論者からキリスト者へ改宗したときの心の悟りなど、基本的だけどだからこそおもしろいエピソードの数々である。
アスランは、私は、谷本誠剛先生がおっしゃるように(『児童文学事典』、東京書籍)文学的想像力そのものだと思うのだが、こういう周辺情報を先に読んでしまうと、やはりナルニアはアレゴリー以外の何物にも思えなくなってしまいそう。でも、私は児童文学研究者なので、やはり、ナルニアを描くためにルイスが「ファンタジー」の形式を用いたことや、少年時代に親しんだ北欧神話やギリシア神話の影響を受けた世界像などを考えたい。 それにしても、ジョイとの出会いと結婚、死別の経験ののちに、「影の国からまことの国へ」成仏を得心したルイスはすごい。しかし、死を思い、愛する者の死を受け入れる悲哀の作業は、つまりは普遍的なのだな、とも納得した。
(鈴木宏枝)
『英国レディになる方法』(岩田託子・川端有子 河出書房新社 2004.09)
表紙のスクラップブックの少年少女がなんともヴィクトリア朝期のイギリスである。
児童文学でもなじみの深いヴィクトリア朝時代のイギリス。児童文学とは切っても切れない「女性と子ども」の博物誌が見当たらないことをきっかけに、この一冊が作られた。カラーの写真、絵、図版が多く、華やかかつ実用的かつ学術的である。
著者二人がイギリスで実際に写真を撮り、美術館や博物館に取材し、オースティン、ブロンテ、ディケンズなどヴィクトリア朝時代の英文学、あるいは、キャロル、ピアス、ボストン、オールコットなどの児童文学の場面の引用をちりばめながら解説する。その時代を旅してきた人物のエッセイを読むような分かりやすさとユーモアがある。
chapter1 少女時代
chapter2 結婚式
chapter3 奥様家業
chapter4 子ども時代
chapter5 年中行事
chapter6 弔い
女性の半生を追う章立ての中で、少女時代なら、「サンプラー」や「コルセット」や「舞踏会」、奥様家業なら「ティー・タイム」や「家政の手引書」などの項目がある。以前、ゴッデンの『人形の家』を原典で読んでいたとき、「サンプラー」は刺繍関係の事典で、「ドール・ハウス」は工芸や人形関係の事典でそれぞれ実物の写真を探したことがある。本当は、これらは、同時代に並存していたものである。それを一度に紹介した本は、探してもなかなか見つからなかったので、その意味でも、貴重だろう。
今はアンティークな品々が実際に使われていた時代である。だが、当時の価値観や習俗は、21世紀の現代にも(日本にさえ)受け継がれていて、そのつながりが興味深い。インスタント食品は19世紀後半には既に家庭の主婦や料理人が便利に使っていたそうだ。――そういえば、20世紀初頭、赤毛のアンが「アビリルのあがない」を勝手に投稿されてショックを受けた話でも、ダイアナが応募したのはベーキングパウダーの懸賞小説だったが、これも、海を越えてやってきた当世の流行だったというわけだ。
イギリス文化を追う上でも、子どもと女性の生活史を追う上でも、もちろん、ただ楽しみのためにでも、おもしろい。
髪を編んでつくるアクセサリー(想念がこもっていそう…)や、かわいらしすぎるおまるや、嫁入り支度セットの「トルソー」の中身など、異なる時代の、それでいて今に通じる「もの」がたりである。 (鈴木宏枝)
「児童文学評論」 80号 2004年8月
『ホエール・トーク』(クリス・クラッチャー:作 金原瑞人&西田登:訳 青山出版社 2001/2004.03)
こんないい男っていないなーとドキドキしながら、水泳チームの成り行きにドキドキしながら、そして途中からは不吉な予感にドキドキしながら少しずつ読み進めた。作者の心には、タイトルの<クジラの会話>が強くあるのだろうが、そのような一種の理想的な比喩を出してこなくても、人間の語りだけでも十分読ませる。
日系とアフリカ系と北欧系の混血で、麻薬中毒だった母親のもとから幼児期に白人夫妻に引き取られたTJが主人公。幼少時のトラウマを克服するために、心理療法家のジョージアのところへ通っていた。現在の両親は、社会的立場も背負っている過去も違うが、軽薄な理想を唱えるよりも、現実を引き受け、1対1の人間同士としてTJに接する魅力的な二人である(特に養父の存在感は大きい)。
TJは、体格はいいし、スポーツ万能、成績優秀で、完璧。だが、わが道を行くタイプ+アフリカ系ということで、人種差別主義者の敵もいれば、スポーツバカの集うカーター高校のコーチ連に疎ましく思われることもある。
ひょんなことから、団体競技を避けてきたTJは、水泳チームを結成することになる。彼自身はオリンピックにも手が届くかという水中の猛者だが、集まった面々は、一癖も二癖もある連中ばかり。
TJは、チームの一員クリスのヒーローであり、アフリカ系の少女ハイディのヒーローであり、カーリーの素敵なボーイフレンドであり、そして今の養父の息子である。
水泳チームの仲間の、また、養父の背負う過去には、虐待や死や麻薬や差別がある。大人の身勝手な事情に翻弄された子ども達。深い傷とそれを語ることを軸に、交錯する物語を、それぞれが引き受けていかなくてはいけない。
スタジャンをめぐる攻防については、『チョコレート・ウォー』を思い出した。自由なようでいて意外にがちがちなところのあるアメリカの高校生活や、求められる「愛校心」の窮屈さ。そこにいかにノーというかについて、数十年を経て、アメリカの少年はどう変化したのだろう。
迫力があるのだけど、ある部分では静かで、ある部分ではくすくす笑ってしまうほどのユーモアに満ちている。上半期のベスト10。(鈴木宏枝/bk1)
『モギ―ちいさな焼きもの師』(リンダ・スー・パーク:著 片岡しのぶ:訳 あすなろ書房 2001/2003.11)
12世紀の韓国の、高麗青磁の名産地チュルポに住む少年モギとトゥルミじいさん。モギはみなしごで、同じく天涯孤独のじいさんと一緒に、幼児の頃から橋の下で、ゴミ捨て場からの収穫物と野草などを食べて暮している。だが、盗みと物乞いは決してしない。じいさんはモギを心から愛し、かわいがり、生きる知恵や「山を読む」すべを教え、おもしろく含蓄のある話をたくさん話して聞かせてくれる。
ひょんなことから、村で随一の陶芸家のミンの下働きになったモギ。たきぎ運びや粘土漉しなどの地味な重労働をこなしながら、親方ミンの手元をこっそりのぞき、いつか作ってみたい陶磁器を空想する。短気で職人気質で芸術家肌の気難しい親方に対して、奥さんは、おいしいお弁当を作って食べさせ、寒い冬には死んだ息子のために作った綿入れの服を着せてくれる。
チュルポの陶芸家はみな、宮廷御用達の焼き物師になるという、めったにないチャンスを夢見ている。あるとき、都から目利きのキム特別官が訪れるという噂が流れる。親方のミンももちろん、すばらしい作品をつくり、展示する。一方、人々の目をひいたのは、「象嵌」を焼き物に応用したカンの斬新な意匠だった……。
正しい生き方を示すじいさん、陶磁器一筋の親方、優しい奥さん、公正なキム氏など、モギをとりまく環境に悪意がないのがいい。モギがおそらくは天性の才能を、見習い修行の中で開花させていくすがすがしさと、すばらしい芸術品がひとの心を打つ真実とがたくみに組み合わさった、読後感のさわやかな、まっすぐに読者の心に響いてくる作品である。
いくつかのサイトで、後日談に出てくる「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」を見てみた。写真では細かいところまでわからないのが残念。だが、希代の陶芸家の子ども時代を想像するのに、この梅瓶から強いインスピレーションを得たことはよくわかる。(鈴木宏枝/bk1)
『ロラおばちゃんがやってきた』(フーリア・アルバレス:著 神戸万知:訳 講談社 2001/2004.03)
子どもの頃にドミニカからアメリカに来たパパとママが離婚し、ミゲルとフアニータの兄妹はママと一緒にヴァーモントで暮らすことになる。アーティストのパパはニューヨークで一人暮らし。
肌の色も様々でヒスパニック系がたくさんいたニューヨークに比べ、ヴァーモントでは「ネイティブアメリカン?」なんて聞かれるし、なかなか友だちもできないし、冬は灰色で寒い。
冷えたミゲルの心を溶かし、おいしい料理と独特の人なつっこさと明るい愛情表現で生活を一変させたのは、ママのふるさとドミニカからママを心配して来てくれた大叔母さんのロラおばちゃんだった。素材も香辛料も違うドミニカ料理も、スペイン語と英語との飛び交う会話も、ドミニカ流の人付き合いも、ミゲルとフアニータの生活の中で魔法のようにじんわりと効いていく。
まず、当然、ロラおばちゃんの造形がとてもよい。「じゅうたん製のバッグ」から次々にいろんなものが出てくるところや、オウム型のお菓子入れなど、訳者の神戸さんもおっしゃっているが、メアリー・ポピンズを彷彿とさせる。
同時に、自分は結婚せずに幼い頃のママの面倒をみ、今またミゲルとフアニータをケアして大好きなドミニカから遠く離れているおばちゃんの心の奥底も想像してしまう。そして、ミゲルもそれを想像するからこそ、おばちゃんに「大好き」といい、おばちゃんへの愛情を見せるのだろう。
ママとパパの離婚。いつしか友だちもでき、リトルリーグに入団したこと。いくつものビックリパーティ。ニューヨークとヴァーモントのどちらもがふるさとになっていく感覚。絶対に変わらないことなんてないから、逆に大切なものは心から取りこぼす心配はないこと、心の中に生き続け、変化していくことを感じ取っていき、だけど、今は
まだまだロラおばちゃんに一緒にいてほしいミゲルとフアニータの心の動きもていねいだ。何より、太陽のように明るいドミニカ文化がいいスパイスになっている。
アメリカ児童文学の中でも、ちょっと新しい、そしてどんどん出てほしいタイプの作品。(鈴木宏枝/bk1)
『家守綺譚』(梨木香歩:著 新潮社 2004.01)
明治時代を少し過ぎた頃が時代設定だろうか。場所は京都。疎水のほとり。大学卒業後に売れない物書きになった青年が、友人の父が引き払った後の家守を頼まれ、その家の手入れをしながら過ごしていく連作短編集。最初の筆致に夏目漱石を感じた。
その家に住んでいた友人は高堂。ボート部時代に湖で亡くなり、死体は上がってこなかった。彼の実家であるその家に、高堂青年もまた、掛け軸を道にしてしばしばおとのい、家守である綿貫と軽口をたたきあう。
綺譚の名の通り、ちょっと異界のものたちが日常生活の中でごく自然に家守の綿貫とふれあう。庭のサルスベリには好かれ、池に河童がいることもある。しかし、それがすべて「自然」。狸に化かされて狼狽することもあるが、そうでなければ飄々と「ふしぎ」を懐におさめていく綿貫である。かといって、必ずしもかっこいいキャラクターではなく、自分を客観的に見るたいそうユーモラスな目に思わず笑いがこぼれる場面もあった。
ストイックで、早世しながらも湖の姫のきっと御傍で心願成就なのだろう高堂、とぼけた和尚、不思議な味のある長虫屋、なんといっても、高堂が招き入れ、仲裁の名人かつ徳をよく積む犬のゴローなど脇役も名役ぞろい。
死後の世界への行きて帰りしは、大げさではないのにしんとした重みがあり、綿貫を現世につなぐ家のありかたと、すべてを見据えた高堂の視点がなんとも染み入ってきた。その俯瞰するまなざしは、多分に作者に通じる。(鈴木宏枝)
『村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩:著 角川書店 2004.04)
トルコのフリゲート艦が和歌山沖で座礁したさいに日本の警察や漁民が献身的な救助にあたってくれたことに感謝して、トルコ皇帝が日本の学者をひとり招聘してくれることになった、時代はたぶん明治。選ばれたのが考古学者の村田で、エフェンディというのは「学を修めた人」を敬するトルコ式の呼び方である。
とはいっても、村田はかちこちの学者ではなく、文献学オンリーだった当時の日本の考古学にあって、遺跡や古代の遺物との対話を楽しみ、現場を見ることを何にもまして喜びとするタイプである。ときに抜けていることもあり、ときに本当に人間らしく苦悩することもあり、好感のもてる明治のエリート。彼のトルコ滞在の間の話が、エピソードで次々に語られていく。
村田が滞在しているのは、ディクソン夫人というイギリス人女性が切り盛りする下宿で、他にドイツ人のオットー、ギリシア人のディミィトリス、料理人のムハンマドがいる。名脇役の鸚鵡、限られた人間語の語彙の中から、ひとの営みを熟知したような絶妙の合いの手を、(腹ただしいほどに的確に)下宿人たちの会話の中に、あるいは思索にふけるひとに叫ぶ。この鸚鵡が、村田の帰国後にディクソン夫人から来た手紙の中で、大戦の悲劇の中叫んだことが語られる場面では胸が打たれる。
この世ならざるものとの不思議な共存の感覚に、『家守綺譚』に通じる梨木さんらしさを思ったら、このような形で村田と綿貫と高堂が通じ合っていくところに、感動さえ覚えた。
ラテン語の引用句の的確さは、哲学を語ることばへの思いを感じる。『春になったら苺を摘みに』を彷彿とさせる夫人はいるが、しかし、englishnessではなく、やはり東西の交錯するトルコの土地柄や風土気候が感じられる書き方がいい。幸せな村田の学究時代が、トルコが大きく動く歴史のひとこまと重なっていく、そして、そこに、人間ひとりひとりの思いや行動があってこそその歴史が作られていくのだという確固とした視点がある。 とはいえ、(たしか、トルコはアタチュルクによって西欧化への大きな無血革命をした…ように記憶しているのだが)、時代の転換点の少し前に村田エフェンディが見たもの、血肉としたものは、歴史とか時代とか大風呂敷を広げる話ではなく、やはり、オットーとの、ディミィトリスとの、鸚鵡との、そして自分自身との対話という、ごく私的な物語の「織」であったのだろう。(鈴木宏枝)
『四国へGO! サンライズエクスプレス』(高森千穂:著 国土社 2003.11)
『レールの向こうへ』『ふたりでひとり旅』と、鉄道の旅と少年の成長を絡めた作品を書いてきた作者の3作目。鉄道や時刻表というモチーフが、よりバランスよく活かされている。
名字が同じ「大杉」で同じマンションに長く住んでいた親友の翼と翔。4年生になる前の春休みに翼が突然高知に引っ越してしまってから、いくら連絡をしても、翼から冴えない返事しか返ってこなくなった。気がかりでたまらない翔は一大決心をする。翼にもらった時刻表を読み、寝台特急「サンライズエクスプレス」で高知に行って自分たちと同じ「大杉」駅で再会しようと……。
「東京と高知、はなれているけど、ずっとレールでつながっているんだよ。」(p.13)
時刻表とにらめっこをしながら計画を立てること。旅支度をすること。初めての寝台特急に、一人旅、不安と興奮が交互にあらわれながらやりとげていく翔から翼への友情がすがすがしい。同時に、見知らぬ土地の子ども社会の中で、自分の立ち位置を模索していた翼にも共感できる。
離れている二人、つながっている二人、変わる関係を予期させながら、変わらないかもしれないものをありのままに大事にしたいという二人の意志そのものが尊重されている。 同世代の小学校中学年くらいの男の子に向くかもしれない。鉄道の旅や時刻表を読む楽しさを「読書」するというのはとてもおもしろいのではないか。綿密な数字できわめて精巧に組み立てられていながら、どこかファンタスティックな空想と楽しさも広がっていくからだ。(鈴木宏枝/bk1)
『英語圏の笑いとユーモアの児童文学』(児童文学における笑い・ユーモア・ナンセンス研究会:編 2004.03)
白百合女子大学の「児童文学における笑い・ユーモア・ナンセンス研究会」による英語圏児童文学作品の解題集。「愉快」「笑い」「ユーモア」が児童文学に不可欠の要素であることは、誰でも直感的にわかるが、その「笑い」の多様性や受け取る読者の側の心性などと掛け合わせると、研究の領域が広がり、あるいは深くなり、児童文学の本質のひとつを探る試みになりうる。
この解題集では、研究会のひとつの成果ということで、はじめにユーモア・笑い・ナンセンスのカテゴリーありきではなく、5人のメンバーが選んだ作品の中のそれらを個別的に探っている。アルバーグ、リア、ドクター・スース、A.A.ミルンらの王道から、パターソンや「マインド・スパイラル」シリーズなどひねったものまで、取り上げられ方も興味深い。どの作品を選択するかではなく、そこに様々な形で潜む笑いやユーモアやナンセンスを考えることで、やがて大きな芯が見えてくるのかもしれない。笑いに限らず、作品紹介として読むのもおもしろい。(鈴木宏枝)
『少年たちのアメリカ―思春期文学の帝国と<男>』(吉田純子:著 阿吽社 2004.02)
『アメリカ児童文学―家族探しの旅』(1992)では、孤児を軸にアメリカ児童文学の少女たちが論じられた。
本書では、アメリカの男らしさの神話、すなわち「地位と権威を認められ、それにふさわしい富とふるまいを身につけ、『女性的』なもの(生身の女性、いわゆる『女性的』属性、その他『男性的』なものから閉めだされたすべてのもの)に支配されず、かえって支配する、独立独歩型の男の属性」(pp.2-3)から、アメリカ児童文学の少年たちがいかにその形成に与したか、あるいはいかに不安を感じてそこから逃げようとしたり苦闘したりしてきたかを論じる。
第一章「オズの悩める男たち」(『オズの魔法使い』)
第二章「ぼくの母は猿でした」(『類猿人ターザン)』
第三章「影を殺した少年」(『ともだち』)
第四章「宇宙をかき乱す」(『チョコレート・ウォー』)
第五章「パワー・ゲームの喜び・哀しみ」(「ゲド戦記」)
第六章「チーズになった少年」(I Am the
Cheese)
第七章「アジア、女と和解する」(『もう一つの家族』)
第八章「スラムで生きる」(Scorpions)
第九章「『アメリカの物語』を脱ぎすてる」(Fallen
Angels)
個人的に特におもしろかったのは、男性性を何度も脱中心化し、時代と呼応して書き継がれてきたという「ゲド戦記」論である。ゲドが『影とのたたかい』で一体化した「影」はゲド自身のネガティブな側面であるだけでない。「古い『男らしさ』を体現する実の父親やヒスイの顔」であり、「彼らの顔に表される忌むべきものこそ、ゲドが自己イメージから排除し抑圧してきた影にほかならない」(p.131)という指摘と、同時代のホールデン少年の結末との比較は新鮮。「女性性を恐れていたゲドは、こうして、『母語』による物語の行為をつうじて、バランスのとれた男性性を再構築する」『こわれた腕輪』(p.135)、ゲドと共に旅をするアレンに新しいタイプの男性像の萌芽をみる『さいはての島へ』、女性的なものと和解し、男が作り上げてきた文明の埒外におかれた者たちの目から自らの男性性を再構築した『帰還』。『アースシーの風』では、個人レベルで自己矛盾を昇華してきたゲドが目にするのは、アメリカン・アダムたちが作り上げてきたものの解体と、いわば世界のリバイズである。おそらく、『ゲド戦記外伝』の個々の物語も、その延長・補完として考えられるだろう。フェミニズムの文脈ではよく読まれてきたゲド戦記を、そこからではむしろ一面化して考えがちな「男性性」によって見直すと、その時代時代の像や、アメリカが国家として抱える悩みや矛盾までも炙り出されてくる。
同様の、「男性性」からのアメリカ児童文学の各少年・青年たちの物語の読み解きは、この分野で<女性>がしばしば論じられるのに対して比較的少ないことからも、きわめて示唆に富んでいる。(鈴木宏枝)
『きむら式 童話の作り方』(木村裕一:著 講談社現代新書 2004.03)
自作をまないたに乗せながらのエッセー風な童話論。もとの童話を知っていても知らなくても、その創作過程を聞くだけでもひとつのものがたりだ。「童話の書き方」といいつつ、書き方のハウツーではない。他者を意識したとたん、持てる力が出せなくなるエピソードなど、人生や仕事全般にあてはまる文言がたくさんあり、様々なアクティビティに応用できる。作品を読んでいれば、もちろん、ガブとメイが作者でどんな位置にあるのか、たくさんのあのヒット作がどこから生まれたのか深くうなずいて知ることができる。まるで飲み会で秘密の話を聞いているよう(に感じさせる)おもしろさ。(鈴木宏枝)
「児童文学評論」 73号 2004年1月
『チボー家のジャック』マルタン・デュ・ガール 山内義雄訳 白水社(1946/1953・新装版2003)
解説によると、『チボー家の人々』全11巻(翻訳の白水社Uブックスでは全13巻)の中から、特に次男のジャックを中心とした部分を作者自身が選び出し、つなぎ部分を書き加えて、より年少の読者におくった本である。かといって簡約や抜粋ではなく、チボー家の次男ジャックにより近接して、彼の視点からの再構築という位置づけ。
実は『チボー家の人々』は未読である。一昨年、高野文子の漫画『黄色い本:ジャック・チボーという名の友人』で、私はジャックの姿を初めて見た。
『黄色い本』は、メリヤス工場に就職が決まっている女子高生実也子が、残り少ない高校生活の中で、学校図書館からハードカバーの5冊の『チボー家の人々』借り出して読んでいく作品である。自分の血肉となる読書といおうか、手先が器用で穏やかな実也子だが、読書している間は、ジャックと熱い議論を共有し、革命の心を感じている。静かな外側と熱い内面という本読み行為の深さ、見ていないようでちゃんと見守っている父親など、しみじみとおもしろい漫画である。
今回読んだ『チボー家のジャック』は、その高野文子が装丁し、「ジャック・チボーとは学校の図書室で出会った。その日から、彼は私の大切な友達になった。」という帯がついている。
『チボー家のジャック』は、やりどころのない不満を抱えたジャックの少年時代と友人を巻き込んでの家出から始まる。ブルジョワの家に生まれながら、内的不満を抱え、詩や文学に親しみつつ、やがて労働者の人間としての尊厳を求める運動や革命に傾倒していくジャック。情熱はあっても、正しく理解されなかったジャックの、壁にぶつかることだらけの少年時代の感性は、現代の私にも強く共感できる。
様々な道をゆきつ戻りつした後の1914年、反戦運動にすべてをかけようという計画が彼の気持ちを明るくする。「今や彼には、抵抗したり、選択したりする必要はなかった。なにをしようと考えてみる必要もなくなっていた。解放! 風をきっての飛行、空の高みにあっての空気、断然成功するにちがいないという確信、それらは、彼の血をさらにすみやかに、さらに強く脈打たせた。彼は、胸の奥に、心臓のはげしい、きわめて響きのいい鼓動を聞いていた。それは、彼の身のまわりのあらゆる空間をふるえおののかせているこのすばらしい凱歌にとって、まさに一種の人間的な伴奏、あるいは彼が身を挙げての共感といったように思われた……」(p.336)には、痛々しいほどの解放が感じられるのだが……。
また、社会的地位も名誉もお金もあるチボー氏の、父親としてのありかたは、最初は反発するけれども、その奥に様々な苦悩があることがしだいに分かってくる。私が個人的に感情移入したのはむしろアントワーヌである。道を踏み外さなかった、しかし、要所要所で自己凝視し、父親や弟に複雑な感情を抱く彼に近しいものを感じた。
『博士の愛した数式』 小川洋子 新潮社 2003.8
ベテラン家政婦の「わたし」(28歳)が通いで派遣されたのは、家政婦が今までに何人もくびになった「博士」の家。依頼人は「博士」の義姉である。数学の大権威だが、不幸な事故により1975年で記憶がとまり、現在の記憶も80分しかもたない「博士」。だが、数学と戯れているときの幸せな現在と、ふとのぞく厳粛な過去に、「わたし」にとって豊かな時間が広がっていく。博士が真理や数学を畏敬するのと同じ気持ちで、「わたし」とその息子「ルート」は博士を敬愛し、尊重する。
作品のおもしろさは、数字の奥深さと美しさを、真理にひざまずく気持ちで語る博士の言葉にある。博士の時計に刻まれた<228>と、「わたし」の誕生日<220>は、どんな運命的な結びつきがあるのか? 素数はどう美しいのか? 「わたし」の驚きは、そのまま読者の驚きに重なる。
それを踏まえて、数学以外のことには無力な博士が、心の底からいとおしんだ「わたし」の息子「ルート」がいい。頭のてっぺんが平らな10歳の彼に、初対面の博士は「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」(p.38)と言い、頭をなでる。「ルート」が、どんな恩寵を「博士」から受け、愛し愛されたか。本当に大切なもの/美しいことを知りえたこの幸福な子ども時代もまた、美しいと思う。
「児童文学評論」 72号 2003年12月
『英語圏の新しい児童文学 <クローディア>から<ハリー・ポッター>まで』(英語圏児童文学研究会編、彩流社、2003年2月)
1998年に発足した「英語圏児童文学研究会」の読書会の成果。
E・L・カニグズバーグ、パトリシア・マクラクラン、キット・ピアスン、マーガレット・マーヒー、シルヴィア・ウァフ、フィリップ・プルマン、J・K・ローリングと、英語圏児童文学の(主にメインストリームの)作家を個別に解説している。教科書的ではなく、コラムも含めむしろ読み物的で入りやすい。一方、「観賞のヒント」の詳説では、「ファンタジーの機能」「ユーモア」「書き換え」など文学的研究に裏打ちされた見方が提示されている。
カニグズバーグ(全体のおよそ四分の一を占め、かなり力が入れられている)やウァフのインタビュー、ピアスン来日時の写真、ライラのオックスフォード紹介など、作家・作品をより近く感じられる工夫もたくさん込められている。
『アナベル・ドールの冒険』(アン・M・マーティン/ローラ・ゴドウィン作、三原泉訳、偕成社、2000/2003)
100年前の古いドールハウスで暮らす人形のパーマー家。パパ・ドール、ママ・ドール、ドールおじさん、アナベルと弟のドビー。持ち主は、今はおばあちゃんになったキャサリンから孫のケイトに受け継がれている。もうひとつ、ケイトの妹ノラの誕生日の贈りものは、現代的なプラスチック製の人形の家とファンクラフト一家(パーマーもファンクラフトもメーカー名である)だった。ファンクラフト父さん、母さん、ティファニーと弟のベイリーと赤ちゃんのブリトニー。パーマー家に、100年目にして「お隣さん」がやってきた。
物語は、アナベル・ドールが、数十年間行方不明のサラおばさんを探す冒険を軸に進んでいく。ミニチュアの視点、そこに投影される人間性(この場合はアナベルの冒険心や友情への憧れ)、人形の生と人間の暮らしのギャップといった伝統的な部分もさることながら、素材も暮らし方も何もかも違うパーマー家とファンクラフト家の近所づきあいの芽生えが楽しい。セルズニックの挿絵に味があって、たとえばファンクラフト一家が両手を広げて親しみをあらわしている場面や、大きさも素材も全く違うアナベルとティファニーが並んだところなど、ついつい笑ってしまう。
『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ作、原田勝訳、徳間書店、1999/2003)
尊厳死を選ぼうとしているオランダ人のおばあさんヘールトラウが、第二次世界大戦中に経験した民間人としての戦争体験と許されざる恋愛――過去の物語。
オランダで客死した祖父ジェイコブの戦没者慰霊式典に参加するため、体を悪くした祖母セアラの代理でオランダに来たイギリス人少年ジェイコブ・トッド。彼がアムステルダム滞在中に経験する出会い――現在の物語。
二つの一人称が並列して語られていく重層的な長い物語の中に、様々な問題が想起される。重要なのは尊厳死や戦争や妊娠や同性愛など「問題」のパーツではなく、それらを含みこむ網の目の人間関係(あるいは場との関係)である――ちょうど、運河の町アムステルダムが、夜と昼、運河と道路、家とカフェ、様々な顔を持つように。
アムステルダムは、どことなく『ヤンネ、ぼくの友だち』を思わせ、私は実際に行ったことはないけれど、本の中に感じるヨーロッパの町らしさを感じた。英語を話すジェイムズは、オランダでは外国人であり、このアウトサイダー的な感覚がイギリス児童文学で新鮮である。
旅人として訪れたオランダで、対話の楽しさや「見かけどおりではない」町の魅力を感じたジェイムズは、ヘールトラウの物語を、これからどのように深く考えていくのだろう。
トンという少年が魅力的である。彼が作品のバランスをとっている。JBBYの「スペシャルトーク:書くこと・読むことの意味」(12/2)で来日されたチェンバーズさんも、「みんな、トンが好きと言うねえ」と笑っていらした。
『薔薇と野獣』(フランチェスカ・リア・ブロック作、金原瑞人・小川美紀訳、東京創元社、2000/2003)
「白雪姫」「青ひげ」「雪の女王」など、作者も国も異なるフェアリー・テイルを、リア・ブロックが語り直した9編。スノウが最終的に選ぶ7人の兄弟や、野獣だったときの野獣に美女が感じていた、本能的に親密な気持ちなど、<フリーク>におぼえる安堵感が印象的である。
『フラワー・ベイビー』(アン・ファイン作、墨川博子訳、評論社、1992/2003)
サイエンス・フェアのために、「児童発達」=「赤んぼうの世話など」=フラワー・ベイビー(flour
baby/赤ちゃんに模した小麦粉ぶくろ)を3週間ケアする、という課題に取り組むことになった落ちこぼれ組4−Cの男の子たち。フラワー・ベイビーを、実際の赤んぼうと同様、どこにでも連れていき、汚くならないように重さが変わらないように安全に大事に世話して、毎日3センテンス以上の日記を書くことが義務。
3週間のあいだにも、クラスはブーイングの嵐だ。その中で、ひょんな勘違いから、フラワー・ベイビーに夢中になったのは、サッカーが得意で腕っぷしも強いガキ大将のサイモン・マーティン(サイム)だった。サイムは、街中の赤ちゃんにまで関心がいくようになり、それと同時に、自分が生後6週間のときに家を出た父さんの経験を追想し、その像と自分の気持ちをじっくりとたどりはじめる。
といっても、できすぎた話ではない。人間くさい教師たちがおもしろく、脇役の秀才マーティン・サイモンはいい味を出している。フラワー・ベイビーに対する少年たちの心理に、大げさすぎない実感がある。
翻訳の文体が、アン・ファインの理知的なユーモアにあふれた筆致によく合っている。本当に<自由>になること。朗々と歌いながら歩く、最後の場面のサイムに、わたしも思わず敬意を払ってしまった。
「児童文学評論」 70号 2003年10月
ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日 キンバリー・ウィリス・ホルト作・河野万里子訳(1999/2003) 白水社
変わったことは何も起きない退屈な町テキサス州アントラー、1971年夏。淡々と描写の始まる冒頭から、読者は映画「スタンド・バイ・ミー」にも似た世界へ、ぐぐっと引き込まれていく。
「変わったこと」が初めて起きたその日、雲ひとつない夏の暑さの下、トレーラーでやってきたのは「世界一ふとった少年」とうたわれる体重292kgのザッカリー・ビーヴァーだった。一回の見学につき2ドル。決してまゆをひそめるような「見世物」ではなく、清潔にしたトレーラーの中でお菓子を食べ、不機嫌に見物客をねめつけるザッカリーの小憎らしさと傷ついた内面は、やがて明らかになっていく。
ザッカリーは、主人公のトビーやキャルと似た少年である。寂しさを抱えつつ虚勢を張っている3人は、同じところを持つからこそ不協和音が生じ、ぶつかりあったところから物語が生まれる。後から振り返ったとき、それ以前とそれ以後で決定的に変わってしまったあの「時」の輪郭を、トビーとキャルは、きっとザッカリーの巨体と共に、綿畑の真ん中に立つ写真と共に思い出すのだろう。
作中、トビーとキャルのいかにも男の子らしく乱暴で気ままで、そして互いに思いあっている友達関係は、決してお行儀のいいものではない。だからこそ、二人の終盤の関係はリアルでひたむきで、心を動かされる。物語の佳境、「くせえぞ、ここ」と荒々しくザッカリーのトレーラーを出て行くキャルが感じている痛みと、それを背後から見つめるトビーの胸の痛みと後悔。どん底の気持ちを抱えて、だけど、絶対というものはなく、壊れたら、そこから何かを始めるしかない、始めればいいと思えるまで。
トビーのものの見方は、この夏変わった。アントラーに住む周囲の大人たち、お母さんやお父さんの別な面の発見は、ダールの『ぼくらは世界一の名コンビ!』にも通じるけれども、それよりもう少し苦くて、きれいで、そのくせざらついているような。キャルは、そんなトビーの半歩だけ先を行って
いたのかもしれない。
私は同時代人ではないが、カーペンターズの名曲がリアルに流れる時代感覚もいい。ベトナム戦争に従軍しているキャルの兄ウェインは、作中、手紙とその不在によって、強い印象を与える。少年が少しだけ男に近づく夏。見守る大人、まっすぐにかかわる大人、偏見のないケイト(キャルの姉)など、脇を固める登場人物たちもそれぞれにいい味を出している。滑稽なところも不器用なところもかっこいいところもやさしいところも含めて、男の子っていいよね、と思ってしまうのは、私のロマンかもしれないけれど、でも、本当にしみじみおもしろかった。
「児童文学評論」 69号 2003年9月
『走れ、走って逃げろ』(ウーリー・オルレブ:作 母袋夏生:訳) 岩波書店 2001/2003
イスラエルのヨラム・フリードマン氏が語った子ども時代の経験をもとにして、オルレブが書いた物語。実話であることの意味はそれ以上でも以下でもない。
主人公のスルリックは9歳で、ブオニェの町でパン屋を営んでいた一家の末っ子だが、時局の悪化で、ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められて1年半になる。ある日、家族と別れて迷子になり、ゲットーを脱出して森に逃げ込む。孤児集団、農家や屋敷、森の中など、ユダヤ人狩の嵐の中で、ロシア軍に解放されるまでの狂気の数年間を、彼はどう生きのびたのだろうか。
「スルリック、お前は生き残らなくちゃいけない。キリスト教徒としてどうふるまえばいいか教えてくれる人を見つけて、十字の切り方やお祈りをおぼえるんだ。十字の切り方を知っているか? いつも貧しい人たちのところに行くんだよ。・・・・・・犬は水の中じゃ鼻がきかない。自分の名を忘れるんだ。
さあ、なんて名前だ? ユレク・スタニャク。だけど、父さんや母さんを忘れても、ユダヤ人だということは忘れるな」(p.105)
極限下で出会った父親の最後の教えから、スルリックはユレクになり、家族の顔も、ユダヤ人であることも忘れて、生きのびていく。
被害者であるユダヤ人とナチス・ドイツ占領下のポーランド、という単純な図式ではない。パルチザンになった家族を持つ女性。密告者。ユレク(スルリック)の聡明さに感心してかばってくれるドイツ人兵士。役に立つかどうかだけで人を判断する農夫。複雑な力学の働く宗教と政治は、戦時下の異様さの中で時につながり、時に字義通りに機能する。
ユレク(スルリック)が出会った、それぞれの人物も印象深く、スルリック自身の道のり以上に、人(や動物)との有機的なつながりが浮かび上がってくる。(表紙絵がスルリックの後姿であることに注目した人がいることを、先日、林さかなさんから伺った。後姿を見送るということは、その人がスルリックに何らかの働きかけをしたあかしであり、読者は、その視点に巻き込まれる。スルリックの後姿は、これからのことではなく、今「走って逃げろ」と強く呼びかける共感の象徴でもある。)
『彼の名はヤン』『海辺の王国』などいくつかの作品も、当然思い出される。深刻な話のように思われるかもしれないが、その逃避行には、ユーモアや、性の目覚め、ちょっぴりの楽しみもあり、異常事態での身の処し方を本能的/経験的に知っていく数年間は意外に軽やかでもある。
ただ、「瞬間瞬間を、一時間一時間を生きていた。朝から夜までを生き」(p.71)るユレク(スルリック)の実際の子ども時代と、最後に、家族の消息を知って返還される、もうひとつの空白のスルリックの子ども時代が結ばれるとき、それまでの道のりは、再びにわかに重く感じなおされる。
『ブリット-マリはただいま幸せ』アストリッド・リンドグレーン 石井登志子訳 徳間書店 2003年7月31日
リンドグレーンが、『長くつ下のピッピ』を出版社に送って返事待ちをしている間に、別のコンクールのために書いて応募、2等賞を取って翌年出版されたという「幻のデビュー作」である。主人公のブリット-マリは考え深い15才。仲のいい5人家族で、ほどよい田舎に暮らしている。
家族の暖かさ、北欧の風物、少女の真摯な歩み、ボーイフレンドとの関係など、リンドグレーンらしさと初々しさの詰まった、本当に楽しい一作。後半になるにつれて、むしろリンドグレーンの声がより強く響き始める。
形式としては、ブリット-マリが、お下がりのタイプライターを駆使して、ストックホルムのペンフレンドのカイサに宛てて書く手紙文学である。『あしながおじさん』『アンの愛情』などの作品を思わせる軽やさとユーモア、前向きなティーンエイジの女の子の生活と未来への空想の、いい意味での地に足のついた感覚がある。どこか、他国の少女小説にも通じていく懐かしさは、古きよきかもしれないが、古びていない。
原題は<ブリット・マリは自分の心を軽くする>。これを「ただいま幸せ」にしたセンスも、きれいな装丁に合っている。
『ヘヴンアイズ』(デイヴィッド・アーモンド:作 金原瑞人:訳) 河出書房新社 2000/2003
身寄りのない子どもたちの施設「ホワイトゲート」で暮らすエリンとジャニュアリー、「この子をよろしく」と腕に入れ墨されたマウスは、ある晩、戸板でいかだを作り、脱走をはかって川を下っていった(脱走じたいは、施設でもよくあることである)。
施設からわずかしか離れていないブラック・ミドゥンという泥地帯にはまり込み、にっちもさっちもいかなくなって、いかだから何とかはいあがってみると、そこは廃墟となった印刷工場だった。
彼らは、そこで手に水かきのある不思議な少女「ヘヴンアイズ」と泥から様々なものを掘り出してためこみ記録をつける、威圧感のある「グランパ」というおじさんに出会う。
別世界なようでいて、目に見える対岸にはサイクリングをしている人もいるし、その「スキマ」の混沌具合が、とてもアーモンドらしい一作。物語の符号性や、何よりも、アーモンドにしか見えない世界観のあらわれ、汚臭のする泥や腐ったものの中にきらめくsomethingへのまなざしはさすがである。
ドイツ、アイルランド、デンマークなどでは、2000年前の炭化した人間の死体が発見されている。そのミイラは泥炭地に埋まっていたため、腐らずにリアルに残っているという。アーモンドが、博物館でその「彼」の死体を実際に見たかどうかは不明だが、何かのインスピレーションにはなったのではないだろうか。
掘り起こされるもの、地中にあるもの、その背後にある崇高性などは、当然、『肩胛骨は翼のなごり』や『闇の底のシルキー』にも通じていく。古典的なゴシックホラーにより子どもの文学に、逆に新鮮な光が当てられている。
『ファンタジービジネスのしかけかた:あのハリー・ポッターがなぜ売れた』 野上暁+グループM3 講談社+α新書 2003年7月20日
ハリー・ポッターシリーズは、なぜこんなにヒットしたか? 作者ローリングの「物語」と、翻訳の版権を取った松岡祐子氏の「物語」とが、作品の質とは無縁のところでマスコミから流布されたこと、周到に練られた手作り風の宣伝が成功したこと、天声人語で二度も紹介されたことなど、ビジネスとしての成功例として取り上げるところから始まる。 私も、ハリ・ポタについては、いくつかのことを考えつつ、文学ではなくサブ・カルチャーの土壌に乗せられることの指摘や、それを深めて「恥じらいもないほどの多様なミクスチュア」(p.131)という視点での明快な読み解きは新鮮だった。
イギリスでも、批判の一方で「だって子どもが読んでいるじゃない」と印籠を見せられれば口をつぐんでしまうことなどの共通点もある。英米での反応を紹介した第二章が、個人的には特におもしろかった。
最近、子どもの文学は、「子どもが読む本」(子どもの文化の中の活字メディア)と、「子どもの文学ならではの特質を備えている本」(特有の書かれ方があって、読者を問わない。大人が読む本との境界も曖昧)とにゆるやかに分離しているように見受けられる。 ハリ・ポタは、ひとつの面から見れば、子どもの文化の枠組みの中で成功した活字作品であり、それを仕掛けたビジネスの手腕が大きい。その力を認めつつ、その「成果」に目がくらむのではなく、「子どもの文学」を考える上での自分の評価軸を再認識したいということも、改めて思った。
「児童文学評論」 66号 2003年6月
『クララは歩かなくてはいけないの? 少女小説にみる死と障害と治癒』 ロイス・キース 藤田真利子訳 明石書店 2003年4月
副題のとおり、『若草物語』『すてきなケティ』『ハイジ』『少女ポリアンナ』など、少女小説・家庭小説を中心とした子どもの文学を、身体的な障害の点から論じている。目次は、次の通り。
第一章:罰と憐れみ;障害、病、治癒のイメージとその提示
第二章:『ジェイン・エア』と『若草物語』の臨終場面;生きていくには善良すぎる
第三章:『すてきなケティ』スーザン・クーリッジ;申し分のないよい子になること
第四章:『ハイジ』のクララと『秘密の花園』のコリン;奇跡的治癒
第五章:『少女ポリアンナ』と『ポリアンナの青春』;障害、階級、ジェンダーの研究 第六章:『リバーハウスの虹』エセル・ターナー;混乱、挑戦、死
第七章:作家が次にしたこと;二十世紀後半の障害者の描写
原題のTake Up Thy Bed and Walk(「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」)という新約聖書のイエズスの言葉には、きれいに治癒されるべき、克服されるべき欠点としての身体的障害、という見方が強くあらわれている。そして、西欧文化の体制内で形成されてきた少女小説には、その見方がたしかに引き継がれ、障害・死・治癒が、現実の病理の妥当性とは関係なく、象徴的に扱われている。
『すてきなケティ』では、脊髄損傷の麻痺は、主人公ケティの克服されるべき性格上の欠点(やんちゃ、癇癪など)と結びつく。言いつけを守らずにブランコに乗ったせいで事故に遭い、背骨を傷めたケティは、思春期に数年間も忍耐強くベッドに横たわり、家政を仕切ることを学ぶ。共同体が求める家庭の天使としての役割を果たして、女性らしい気遣いができるようになると、障害も取り除かれる。
『若草物語』の病弱なベスが、たくましく野心家の姉ジョーの支えとなったように、「障害者でない登場人物が成長し学ぶための十分な余地を残しておくために、(彼女たちは)控えめでいなくてはならない」(p.78)場合もある。その控えめさゆえに、彼女たちは、死ななければならないこともある。
『ハイジ』では、車椅子は、都会で寂しく暮らす少女クララの檻である。アルムの山々の自然や善良な子ハイジと触れ合うことにより、枷である車椅子は谷底へ打ち捨てられ、クララは依存状態を克服して「立ち上がる」。ここで、自然が、障害を治癒する場としてロマンティックに機能しているという論も、うなずける。
英米の19世紀の少女小説は、研究分野でもおなじみで、ジェンダー論、おとぎ話、フェミニズムなど様々なな論点から読み解かれてきたが、身体的障害からの読み直しは、新鮮だった。回復と治癒が、現実の身体的障害のありようや治癒可能性、医学的論拠とはまったく無縁に、比ゆとして用いられていること。また、精神性と身体性を表裏一体に結びつける子どもの文学の手法の一つの面が、本書では明らかにされている。
現代の作品を取り上げた七章は、さらに発展した研究になっていくと思う。20世紀後半の物語では、身体的な障害を持つ人物が、主にアウトサイダーや脇役として登場する。主人公になる場合は、19世紀の少女小説のように必ずしも劇的な治癒があるわけではないが、それでも、そのハンディキャップをいかに自己の中に統合し、ワンランクアップするかに主眼が置かれるようである。
キースは、エスニック・マイノリティ(特にアフリカ系アメリカ人)とハンディキャップを持つ人とを類比して考え、その「側」にある声をどう届けるか、という点での共通性を見出している。出自やハンディキャップなど、マイノリティの諸要素を同列に論じていくことは、それ自体が、主流にある側の傲慢になりかねないため、この意見に対しては、私は懐疑的である。
もうひとつ、ここでは取り上げられていない『ぼくはレース場の持ち主だ!』(ライトソン)や『奇跡の子』(ディック・キング=スミス)などで、逆に、障害をもつ子どものイノセンスや善良性をすくいあげられていることには、それ自体に、新たな意味を持たせる(=差別化する)という点で、従来と同じまなざしが、実は脈々と受け継がれているのではないかということも、直観的に感じる。
子どもの文学を、障害に限らず、主流でない側の描き方を見直すことで再読する試みは、これからも広がっていくはずであり、その方法の参考にするのにも実用的な一冊である。
『日本児童文学史の諸相 試論・解題稿』 宮崎芳彦監修 日本児童文学史研究プロジェクト
白百合女子大学児童文化研究センター 2003年4月
4年間にわたるプロジェクトによって、時系列・社会派作品の正典だけに傾くことのない、新たな「児童文学史」の構築が試みられた。7人の執筆者が、各分野を担当。「児童文学研究史」「少女小説史研究」「幼年文学史研究」「現代絵本史研究」「大正期童謡史研究」「現代児童演劇史研究」「現代読者論史研究」の七項目から、多面的に、子どもの文学・文化史が捉えられている。
それぞれの章では、必ずしも児童文学研究領域内で出されたものではない論文・資料も丹念に収集して、全体像を概説した上で、重要論文・文献に解題をつけ、内容や意義を分かりやすく読み解いて示している。幼年文学のように、重要とされながら、なかなか手がつけられてこなかった分野や、また、読者論のように英米児童文学研究ともつながって発展していく分野など、「立て方」じたいがひとつの方法として新鮮な日本児童文学史研究である。
書物、雑誌、紀要などから幅広く収集され、解題をつけられている論文を分類し、重要度を見抜く目は、複数のメンバーの中で鍛えられたものであると思うし、その多面性がまた、正典一本だけで形作られるのではない、子どもの文学/子どもの文学研究の領域とつながる。
とても刺激的な分厚さ。さらに、プロジェクトは続くようで、今後も楽しみである。
「児童文学評論」 63号 2003年3月
『くまのプーさん 英国文学の想像力』 安達まみ 光文社新書 2002年11月
『ぼくたちがとてもちいさかったころ』(1924)『くまのプーさん』(1926)『さあぼくたちは6歳』(1927)『プー横丁にたった家』(1928)を取り上げ、丁寧に掘り下げた研究書。
作家ミルンの生い立ちを丹念に追うことから始まり、英文学から見た側面や、息子クリストファーの複雑な思い(クリストファー自身が、”プーさんのクリストファー”であることを憎んでいたというのは、よく知られた事実である)など、正攻法で多角的に迫っている。
ミルンの英語にあるリズムや韻などの技法や、卓越した軽みのおもしろさなど、今まで色々なところで見聞きしてきた情報をまとめて、分かりやすく道筋をつけてもらえた。プーさんだけではなく、前後の詩集とのかかわりからも論じられ、作品同士の相乗作用や、ひとつの作品が生まれる過程でのエピソードもとても興味深く、英文学から読み解くプーさんになっている。
ミルン自身が「キャノン(正典)」や正統性に縛られて、プーさんシリーズの作者である自分を受け入れきることができず、次々に手を出したその後の文学では、逆に、プーさんの「絶妙な軽さ」を表現できなかったという指摘(p.245)。 プーさんにすべてを奪われ、父に子ども時代を利用されたという意識から抜け切れなかったクリストファーが、やっと父から離れたところで自分の道を得て立てた話(p.260)。
また、プーさんが生まれる前に、『ぼくたちがとてもちいさかったころ』に登場する小さなくまのぬいぐるみがあった。そのおもちゃのテディが、命を吹き込まれる瞬間と、元のモノに戻る瞬間の反転とが鮮やかに捉えられていると解説される詩「テディ・ベア」(p.51)もおもしろい。
原文に忠実に、「コブタ」ではなく「ピグレット」、「トラー」ではなく「ティガー」という表記になっているのだが、ついついディズニーが浮かんできてしまい、悔しかった。なんだか間抜けな声をした赤シャツのクマと、ミルンの『クマのプーさん』は、可笑しさも、住んでいる世界の成り立ちも、登場人物どうしの関係も、まったく性質が違うものなのに。(鈴木宏枝)
『絵本のためのBOOK END ブックエンド創刊号』 発行・絵本学会 発売・フィルムアート社 2002年12月
絵本学会の機関誌だが、普通の書店でも手に入る。プレ創刊号につづく創刊号。巻頭の3本の記事が、やはり読み応えがある。
神宮輝夫氏の<新しい絵本の可能性>は、「ナンセンスとユーモア」という子どもの文学のキーワードを用いながら、絵本について楽しく語っている。ナンセンスな文学は「心の柔軟さ、思考の多様さ」を刺激するものであるという指摘(p.18)。
石井直人氏と澤田精一氏の対談<90年代で絵本は変わった>は、「作り手自身が、絵本というメディアの可能性を狭めていないか?」というハテナから広がっていく。子どもの文学の作品だけでなく、批評の側も、成長物語を崩していくのだという石井氏の論から、絵本の読み解き方の今後も、(私たち自身で)考えていきたい。
竹迫祐子氏の<新しい絵本表現を追って>は、「質の良さの循環」を願っている。「絵本の方が絵本を取り巻く社会より少し先に行った」という意見は、なるほど。だから、絵本はおもしろい。
絵本と絵本を取り巻く全体的な世界のおもしろさ、絵本を好きな人を増やしていくために、現場で関わる人がチャレンジしていきたい様々の提案など、優しくも説得力のあるお話である。
書評もいい。特に、『児童文学最終講義』を読む、最首悟氏。(鈴木宏枝)
『L文学完全読本』斎藤美奈子編著 マガジンハウス 2002年12月
20代から30代の女性がよく読む気分の本をL文学としてまとめ、巷で人気の本の数々を、気持ちよく拾い上げている。女性作家が書いて、女性が支持し、多分に少女時代の読書体験と密接に絡んでくるリアリスティックな小説やエッセイが、「L文学」。私自身も、年齢でいえば読者層にすっぽり入ってしまうことになる。
個人的に、『赤毛のアン』をはじめとする少女小説も、もはやブランドである山田詠美や江國香織も、恋愛や結婚、出産の本音エッセイも好きなのだが、林真理子は読んだことがないし、中高時代にはコバルトにはまることもなかった。アナタが好きなのはL文学よ、といわれてしまうと、天邪鬼になってしまう部分もある。
とはいえ、これは、L<文学>というより、本もノベライゼーションも漫画もひっくるめたL<ブックス>のようなカテゴライズである。一応の大枠ではあるけれども、「ワタシ文学」の総体がL文学とすると、そのゆるやかさはしたたかな力でもあり、作品の性格ではなく読者が選択することによって生まれていく文学がある、という主張には共感する。
そこからいえば、女性が書いて女性が読んで女性が元気になる、斎藤美奈子の文芸批評も、ひとつのL文学なのである。
これは、子どもの文学にも、当然通じていく。ひとつには、子どもが選んでいく本、その重なり合っていく総体が、子どもの文学である、という考え方。子どもの文学とされている本が、(L)文学でもあるという越境性は、よく見られることであるし、ここに挙げられたL文学の多くを、おもしろく読むティーンエイジャー(やはり、女の子が多いだろうか?)はいるだろう。
カテゴリーとして文学/子どもの文学に限らず、ひとりの子どもの本棚のバリエーションの分だけ「子どもの文学」は存在するのだという指摘は、『子ども性のしるし』(ホリンデイル/柏書房/2002年)にもあった。そこには、本の側ではなく、読者の側の重きをおいた視点がある。
もうひとつは、子どもの文学らしさについて。
子どもが読み、子どもが励まされる作品が子どもの文学であるという宣言だってできるだろう。ゲームの中にも、漫画の中にも、映像の中にも、たとえば、今、よく歌われている『世界に一つだけの花』(槙原敬之作詞・作曲)のような歌の中にも、語られる言葉がある。そして、「世界を生きやすくする助けとなる力」という、子どもの文学のひとつの性格が含まれている。
そんな風に援用してみたい。(鈴木宏枝)
「児童文学評論」 60号 2002年12月
『子どもと大人が出会う場所-本のなかの「子ども性」を探る-』 ピーター・ホリンデイル著 猪熊葉子監訳 柏書房 2002年9月
「子ども性」という言葉を軸に子どもの文学を考える批評書であるが、ホリンデイルの子ども性には、大人中心社会における他者性や逸脱性などの意味はなく、きわめて柔軟に用いられているので、混乱しないようにしたい。
ここでいう子ども性とは、子ども観や、子ども時代/子どもについての見方が総合されたものである。子どもは、メディアや本や社会生活から、「子どもとは〜である」という子ども観を、それぞれに構築している。同様に、大人も、様々な社会通念や自分の経験から、自分なりの子ども観を構築している。
子どもの子ども性、大人の子ども性は、主観・メディア・環境・周囲の価値観によって左右される複雑な構築物であり、個々人によって異なる。
映画・テレビ・本などのフィクションにも、子ども性はある。作り手の意識、作り手が過ごしてきた子ども時代の思い出、社会状況の価値判断。子ども性を構築する諸要素は無限にあるのだ。
現代の子ども性を子どもたちがとらえ得るために、子どもの文学は現代のさまざまなイメージを含むように、最善を尽くさなければならない。
(p.246)
フィクションの子ども性と、読者/視聴者の子ども性が触れあうところに相互作用が起きる。子ども性は、フィクション―受け手、作家―読み手、大人―子ども、などの間でやりとりされながら変動していくものであり、この「可変性」が、ホリンデイルの独創性になるだろう。
また、ホリンデイルは、子どもの文学が「自伝」であるという。子ども読者と大人の作家の間には、時間的なギャップがあるけれども、それを踏まえてなお、大人の作家は、子どもの文学を書く。それは、自分の本当の経験を語るだけでなく、生きられなかった別の人生を再構築するという意味での「自伝」を書くためなのである。
子どもたちは、欲しいもの、必要なものを物語(ストーリー)から取るのだ。そうしながら、架空の経験を通して、彼ら自身のなかで生きられなかった子ども時代の欠落感(ポケット)を満たし得るのである。
(p.170)
子どもをめぐる様々な物語に触れるとき、私たちのポケットも満たされ、フィクションの子ども性との相互交流が起きて、子ども性は、さらに活性化される。
そして、そのような自伝としての子どもの文学の持つ大きな意味とは、子ども時代の「エピファニー(喜びの啓示)」(=意味ある瞬間・その人にしかわからないような、子ども時代から大人時代への区切り)をきらめかせ、描き出すことができるという点だと指摘される。挙げられているのは、ピアスの「アヒルもぐり」(『真夜中のパーティー』)や、ランサムの『海へ出るつもりじゃなかった』だが、日常/非日常の様々に「そのような瞬間」があること、子どもの文学はそれを切り取ることができる形式であるという意見は、たやすく心に入ってくる。
「子どもである」と「大人である」の間にある「大人になる」時を捕らえる子どもの文学という考え方も示唆的である。重要なのは成長ではなく、啓示の瞬間だ。ホリンデイルは、子ども時代と大人時代が一人の人間の中で共存しあっている長い時期としての「青春期」に着目しているのだが、青春期の文学は、まさにエピファニーをとらえようとするものであり、作品の幅も、幼年童話から海洋小説まで幅広く考えられる。
本書には、「子ども」という人間のもつ本来の複雑さを示した上で、様々な連想も誘い、子どもの文学に限らない示唆がある。また、この本のどこかに、それまでの児童文学観が少しでも変わるような「エピファニー」の一行があれば、全体を読んで理解するにまさる出会いになるのではないか。
物語を好み、ファンタジーを楽しむことは、「想像することを通して知る」ことの一部であり、テクストのなかで「作家」「大人の読者」「子どもの読者」が出会える場所を作り出す。同じように、子ども時代の意義について共通の認識をもっていることも、三者の出会う場所を作り出す。子ども時代へのさまざまな関心は、子どもの文学のなかで出会うのだ。(p.80)
私は訳者のひとりとして本書に関わったけれども、研究書を一度読んで内容を理解するというよりも、ふと読み直すたびに違う箇所が目にとまる。それは、詩集を読む経験にも似ているかもしれない。 (鈴木宏枝)
『日本子ども史』 森山茂樹・中江和恵 平凡社 2002年5月
時代時代の子どもの生活をたどっていくことで、縄文時代から現代までを概観しなおした労作である。記録に残る子どもの生活を、統計や文学作品などからも拾い上げ、「大きな歴史」ではなく、個々人の「小さな歴史」を積み重ねて、時代・事象を見直すニューヒストリシズムの視点に立っている。その意味で、「大きな歴史」の区切りとなる○○時代という枠が決定的にならず、過去の時代に自在に親近感が持てるのが楽しい。
土偶から『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子・草志社)まで、子どもが内在する史料は数多いし、そこにある「子どもの生活」は、たどるだけでも魅力的である。また、「現代」は、「明治」や「昭和」ではなく、60年代頃からの高度成長の時代以降の均質的かつ劇的な変化以降であるというのは、直感的に理解できる。 子どもの暮らしの変化が「なぜ」そうなっていったのかという点は、より綿密な研究書にあたることにしても、史料じたいのもつおもしろさは、私のような一般読者にも刺激的だった。また、子どもに向ける庶民のベビー・フレンドリーなまなざしや、妊娠・出産・幼児の生死についての感情は、興味深くかつ共感できる。
長い長い時間をたどった後、著者は、現在、子どもが子ども時代を過ごす空間があまりに狭く絶対的なもの(たとえば学校)になっていることを危惧し、「大人たちのすべてが、子どもとともに過ごすその時間の中で、子どもに、少しずつでも生きていくための心の糧を与えることができるならば、大人冥利に尽きる」(p.327)と結んでいる。子どもの文学もまた、大きな部分では同じ立脚点にあるのだと思う。心の糧&エンターテイメントとしての子どもの文学を考えるのもよし、外からの視点から改めて子どもの文学を見直してみるのもよし。
(鈴木宏枝)
『黄色い目の魚』佐藤多佳子 新潮社 2002年10月
新潮文庫の『新潮現代童話館』(1992)は、子どもの文学が単純に好きだった大学時代に読んで、じつにおもしろかった。その1巻の最初に収められていた「黄色い目の魚」が、時間を経て、よりふくらみのある長編に。たぶん、私の今年のベスト5に入る。本気で寸暇を惜しんで没頭できる本と出会えるのは、幸せなことだ。
しなやかな感受性をもちながら、とんがって、へこんで、苦しんで、負けない村田みのりの物語。心の底から好きなことを、不器用にでこぼことぶつかりながら自分のものにしていく木島悟の物語。二つの声は重なり合い、響きあい、同級生や家族も巻き込みながら展開していく。そして結果的に、青春を形作る。
悟の妹の玲美が抱える物語も、傍流だが強烈で、彼女にこそ幸あれと強く思ってしまった。
佐藤多佳子は、語りのおもしろさや、複数の視点や、質感のある表現など、作法(さくほう)の巧みさを言われることが多い。だけど、実際は、外的な巧みさ以上に、人間の心の内面をより深く掘り下げていくことでエンターテイメントを生む作家だと思う。表面ではなく、その底にある心の凝視。そして、その求心力には、愛とかひたむきさとか絆などを信じられるという観方があり、子どもの文学の特質と呼応している。
絵を描くこと、見ること、スポーツ、仲間関係、家族関係などの外的な積み重ねが、感覚豊かに、読み手の想像力を刺激してリアリティを生む一方で、一人称で語られる子どもたちの心の中は、わがことのように迫ってくる。行方知れずだった父親と過ごした最初で最後の一晩。最悪のことを告白した後の後悔。大好きな叔父さんから飛び立つときの不安感。かっこ悪くて一生懸命で、たった一言をしぼりだすまでに心の中であわ立つ大きな渦も小さな渦もすべて抱き取った、すてきな恋愛児童文学?である。 (鈴木宏枝)
「児童文学評論」 57号 2002年9月
『海辺のカフカ』 (村上春樹 新潮社 2002年9月)
無力を痛感するゆえに、自分を鍛え、強くあろうと努力している15歳の僕。ひとつの区切りである誕生日に、自分が「損なわれ、奪われていた」家を捨て、二度と戻らない旅に出る。母に捨てられたことによる自己否定と新たな再生の経験、父のかけた呪いからの解放、他者との対話の中に自己を見出していく手順などの物語の縦糸は、子どもの文学ととても親しい。
また、細い流れが幾筋も集まり、符号が重なって、複層的な物語が響いていく作法、「カラスと呼ばれる少年」が語る心の声、彼岸と此岸のあわいの世界の通過と帰還も、子どもの文学というカテゴリに含まれる多くの物語と通じ合うのではないか。
作品は、符号しあいながらも混沌として、私たちが今生きている現実そのもののようにいろいろなものを飲み込んでいる。ラストで、私の心には「希望」という言葉が自然に浮かび、この物語が子どもの文学が元来持ち合わせているものと呼応しているようで、わくわくした。この作品も、子どもの文学も、私たちが生きている世界にコミットしようとする、真摯さを持つ。
本流の渦の中で静かに大胆に役割を果たしていく人々が印象的である。子ども時代、おそらくは暴力の内側に閉じ込められていたという点で僕とリンクしていくナカタさんの中にある無限。ユーモラスな星野青年の背中には、グッド・ラックと言わずにはいられない。すばらしい援け手である大島さんにも奥行きが感じられて、様々に想像をめぐらせてしまう。 道をともにし、あるいは互いにその存在すら知らずにひそやかに成された大事件。15歳の少年の、抱え続けてきた傷を越えた新たな出発は、こんなにも大きな歯車をひとまわりさせるだけの価値があるという見方もまた、私の好きな文学の立脚点に近い。
もちろん、村上春樹の他の作品とも二重三重に呼応しているし、音楽や哲学や古典の引用も贅沢である。(鈴木宏枝)