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怒涛の進撃 ヨネミツさんの 最新作だ | ||||||||||
不快指数90パーセントの夏の日だった。 100人いれば、90人が不快、ということだ。昨夜は寝苦しくてなかなか寝つけなかったし、眠ったと思ったら、なまあたたかい湖に沈む夢を見て、飛び起きると、寝汗で枕もシーツもぐっしょり濡れていた。家中のクーラーの調子がこのところおかしいのだ。早いところ修理屋を呼べ、と女房に言っているのに、自分が人より綺麗だと知っている女房は「あなたのいない時間に男の人を家に上げるなんて」といっこうに修理屋を呼ぼうとしない。 それに、と女房は言う。エステに行く日と、テニスのサークルがある日は駄目だわ。 今も額からは汗が流れ、あごをつたい首に落ちて、着たばかりのワイシャツの襟にシミを作った。そんな朝に、女房は言ったのだ。 私より遅く起きてきて、シャワーを浴び、歯を磨いて、朝食としてトーストを食べようとしていた私に、 「あら、何よあなた!バターもジャムも塗らずに焼いただけのパンを食べるの?卵は冷蔵庫にあったはずよ、卵焼きくらい作れないの?」 そのセリフは私をカーッとさせた。 私はこれから1時間弱も車をとばして、最低8時間の労働に耐えなければいけないのだ。私が取引先に愛想笑いを作っている間、この女は、きっちり化粧をして、なじみになった近所のフレンチ・レストランで遅いブランチをとるのだろう。家にいたところで、洗濯物を洗濯機や乾燥機に放り込むだけで、あとはソファに寝転がりながら、リモコンでテレビショッピングのチャンネルからメロドラマのチャンネルへ替えたりするだけだろう。この女には向上心というものが無いのだ。どんな時代の女王様が、こんないい暮らしをしてたって言うんだ? 私はキッチンのイスから立ち上がり、女房をじろりと見下ろした。テレビでは、さっき不快指数を告げていた天気予報から「今日のあなたの運勢」に変わった。 「何よ?食べないの?だったらタローにあげてよ。さっきからずっと表で吠えてるじゃないの」 私は握りこぶしをかためた。 私より早く起きて朝食の準備をしようともせず(結婚してすぐにそうなった)、反省もせず、気遣いも無く、まだパジャマを着たままで目をテレビの「今日のあなたの運勢」に移したこの女…私の「女房」は、私を外でメシを欲しがってギャンギャン騒いでいる、あのバカ犬と同じだと思っているのだ。女房はリビングのソファにごろんと横になった。怒りのせいで空腹は消えていた。私は外へトーストを持って出た。「タロー」に投げてやると、キャンキャン吠えて喜んだ。「タロー」はいつも腹を空かしているようだ。いつも、一番いいドッグフードを買っているのに、女房はタローにメシをやってないのだろうか、…そうかもしれない、長くのばした爪に匂いがついて嫌だと言っていたから…。 ペットショップで小さくて一番かわいかった「タロー」、出会ったばかりの私の「女房」をふと思い出して、だがすぐに思考の外へ、その映画のような幸せな映像を追いやった。神様の作るクジなんて、ろくでもない。 善いことは悪くなり、悪いことは善くなるものだ…。ぶつぶつとその思いつきの言葉を繰り返し、私が食べるはずだったトーストをがつがつと食べているタローを見ていると、少し気分が落ち着いた。こいつはこれで、幸せなのだ。何も芸を仕込もうとは思わないが、毛並みの立派な犬だった。月に一度、トリミングに連れて行っているおかげだ。休みの日に公園まで散歩させると、品評会のような公園の中でも、タローより堂々としている犬はいなかった。 …少なくともこれまでの私の人生は、悪いことばかりでは無かった。他人に語ればうらやましがられる物語だ。 ミスコンで入賞するほどの美貌の妻を手に入れ、子供はいないが(妻が子供を生むのを嫌がった)、金をかけた家を建て、高級外車に乗り、大きな犬を飼い…家に入ろうとドアのノブに手をかけた時、ドアのチョウツガイがきしむ音がした。今度、オイルをさそう。 何となく、2階建ての我が家を見上げる。屋根の色はスカイ・ブルー、外壁はオフ・ホワイト、バルコニーもある。できあがった時は、妻と2人、家の前で抱き合い、キスをした。たった5年前のことだ。 不意に、…不意に私は、泣き出しそうになった。美しい妻、立派な犬、2人で暮らすには広すぎる家、1時間の通勤時間に見合う給料、8時間の、まわりには異例の昇進だとうらやまれる、笑いながらお茶を飲んだり、他人が作った書類にハンコを押すだけの、ままごとのような労働。大学時代つきあっていた、美しくはないが、明るく聡明で、お菓子作りが好きだった女の子のことを思い出した。きっともう今頃は、誰かに嫁いで、幸せな生活を送っているだろう。子供の2、3人もいるかもしれない。別れの最後の日、彼女は私との思い出のためにぽろぽろ涙をこぼした。 家を建て、女房の言う「高級住宅地」に越したせいで疎遠になった、若かった頃の友人たちを思い出した。学校の勉強は人並み以上にできても、たいてい家に金は無いという国立大学生の若者だった頃。皆、野心にあふれ、夢を持っていた。週末ごとに誰かの家に集まって、男たちは顔を輝かせて、将来の展望を語り合った。それらは、実現可能なことのように思えた。画期的なベンチャービジネス、株、特許、海外進出、政界入り…その、頭の中では成功するであろうどれもが、自分の手に入れば幸せだと思っていた。だが。 きっと私は、妻と犬と、家や車のローンのために働き、…避暑地の別荘やゴルフの会員権などというものを新しく目標にしたりしながら…よぼよぼのジジイになり、もしかしたら、死が訪れる、その直前まで…誰にもかえりみられることなく、生き続けるのではないか…。その考えが、胸を刺した。 それは、私の精神を平静に保っていられないほどの痛みだった。いっそのこと、と私は想った。ああ、いっそのこと。 突然の衝動だったが、その芽は、本当はいつも私の仲にあったような気がした。 パンをトースト用に切る時、パン切り包丁ではなく、普通の包丁を使った。包丁は、まだキッチンのテーブルの上で、にぶい光を放っているはずだ。 何も考えず、何も考えずに、パンを切った時のように、あの刃を、この体に突き立てるのだ。でなければ、目をつぶって、会社の屋上から身を躍らせるのだ。踏切で電車が来るのを待つのだ。海へ車ごと飛びこむのだ。方法はいくらでも思いついた。 だが私は黙って家の中に入り、妻に「行って来る」と言い、高級住宅地に建てたこの家から高級外車に乗って1時間車を走らせ、会社に着くだろう。 私には養わなければいけない美しい妻、…美しいだけの妻と、立派な犬、そして家があり、今のところ満足している会社での肩書きがあった。自らの手で自らの命を断ったとしても、他人には決して理由など見つけられないだろう。そしてたぶん誰かに説明などしても、わかってはもらえないだろう。きっと、見当違いななぐさめの言葉しか返ってこないに違いない。 若い自殺者はいい。 彼らは何もかもを手にする可能性を持ちながら、その未来を恐れて命を断つ。それは贅沢な死だ。惜しまれる未来を持つ者はいい。 老いた病人はいい。 死に際にはきっと自分の大勢の子供たちや孫たちにかこまれ、皆が手を握って名前を呼び、涙をこぼすだろう。老人の人生が長ければ長いだけ、老人の死は残された者たちの心に残る。 誰かが選んだ人生では無かった。すべて自分の、この手で選び取って来た道。 私は両手で顔を覆った。 照りつける太陽のせいではなく。 私は叫んでしまいたかった、 美しい後悔。 きっと私の人生の、これからのすべて。 (了) |
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