過去のおっさん
あの日のわしは何色?
2008/1/4~

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2008.1.4(金)

 新年、あけましておめでとうございます。

 年末に出ました幻堂出版、「カウントダウン」へ向けての最後のうちの1冊、青井英代『カンオケ探し』を、幻堂出版目録に追加いたしました。
 あと何冊「追加」できるのかな?

 お正月……っても最近は、スーパーは元旦からやってるし、凧上げしてる子どももいないし、「正月らしさ」ったらば、テレビの無内容とバカ騒ぎくらいにしか、感じられない昨今、ではありますが。

 お雑煮、てのは、今なお、各地によって違ってるようですね。
 うちのお母ンは、同じ神戸市内でも「播磨」側から「摂津」へ来た人なのだが、嫁いできた最初の正月に、実家で作ってたのと同じ「澄まし汁」の雑煮を作ったら、今は亡き祖父さんから、
 「どこの世界に澄ましの雑煮があるか!」
 と、厳しく難詰された……と、これは今も正月のたびに恨みがましく繰り返しているのだけど……

 あとから考えると、祖父さんの「世界」の方が「狭かったのだ」と、これまた何十年とお母ンは勝ち誇ったように繰り返しているのだけど……

 新婚夫婦の喧嘩のタネにも、よくなるようです。「お雑煮」。
 同じ町でも、隣同士で違ってたりも、するからね。

 雑煮もそうだが、「注連飾り」てのも、地方によって違う……てのを初めて知ったのは、学校出て、そのまま東京で就職してからだった。
 それまでは、意識して見たことはなかったのだが、就職して最初の年末、玄関に飾る注連飾りを買って来い、と命じられたのだった。

 「一番大きなものを」
 と言われてわしは、いつも神戸の実家の門に飾ってたような、相撲の「横綱」みたいな太い縄を横一文字に張った真ん中から、橙やらウラジロやらを吊るした「ゴンボ」と呼ばれていたものを買おう、と行ったのだ、駅前に。
 ところが、ない。
 あるのは、縄を小さく丸くまとめた下に、「だらだら」と長く昆布やら御幣やらを吊るしたのばっかで……

 「あ、あの……ゴンボ、ないですか?」
 と訊いても、売り場のおじさんは首をかしげるばかりで……

 仕方なく、中で一番「長い」のを買って……3500円くらいだっけか……会社に帰り、恐る恐る
 「あの……これしかなかったんですが……」
 と差し出すと、「これで、いいんだけど……」と、不思議そうに言われてしまったのであった。

 それから、正月に他所へ行くたび、注意して見るようになったんだけど、やはり、あれも各地各様、いろんな形式のものがあるのですね。

 全国画一化が言われて久しいが、こーゆー「違い」てのは、ずっと残してほしいものですね。はい。
 ……と言ってて気がついたが、うち、今年は……つーか「今年も」、注連飾り、飾ってなかったんだ。……ダメじゃん。


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2008.1.8(火)

【沿線転景】 ~湊川のいもり坂~

 左は、湊川商店街、今は「パークタウン」と名前が変わっているが、その突き当たりの坂道。
 この坂の上が「東山市場」で、今も神戸市民の台所だ。

 あたりの建物は、ほとんどが新しく建て代わってしまったが、この坂道だけは、その雰囲気が昔とあまり変わらない。

 昔、子どものころには、この坂をヒソカに「いもり坂」と呼んでいた。
 坂の途中に……今もあるのだが、漢方薬店があって、その店頭にぶら下がった「いもりの黒焼き」他、なにやらおどろおどろしげな「干し物」系が、子どもの目にはやたらと目に付き恐ろしく、少し「怖い」坂道でもあったのだ。

 親父が、川崎病院に入院してたころには、病院の帰りにこの坂を下りて買い物して帰ったりもした。

 この坂道は、元は土手から下の道へ下りる道だったそうだ。
 すなわち、坂の上はその昔「天井川」だった湊川で、この坂は、その土手から下りる道だったらしい。
 湊川が付け替えられ、元の川が湊川公園、そしてそこから続く「新開地本通り」になると、公園から降りてくる人目当てに、坂沿いに店ができた……そんな坂なのだった。

 今も「パークタウン」の中で営業を続ける、お好み焼きの「とみちゃん」は、かつてこの坂の下を、いま少し下った商店街の中にあって、わしがこどものころ、湊川で買い物というと、お袋の買い物の間、わしはよくそこへ預けられたのだった。
 大将が機嫌がいいと、たまに1枚「おごって」くれたりもして、わしは、それが楽しみでもあった。

 今はパークタウンの中で営業続ける「とみちゃん」だが、今もなお、昔ながらの営業方針崩さず、お好み焼きはうまいが、しかし、店に酒類は一切置いてなくて、「お飲み物」はサイダーとファンタ……だけなのであった。
 そんな「とみちゃん」は今も、昼間などもう夕方までは近所のおばちゃんでのべつ「ぎっちり」で、おっちゃんは、あのころのおっちゃんからは二代目……あるいは三代目に代わってると思うのだけど、やっぱりハゲ頭から汗を「ぽたぽた」と鉄板にたらしながら、一心不乱にお好み焼きを焼いている。

 湊川は、この「とみちゃん」だけでなくて、お好み焼き屋は滅法多く、またどこも滅法旨く、神戸の「お好み焼き集中エリア」でもあるのだ。

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2008.1.11(金)

【経堂物語】 ~経堂の夜はむらさきとタイムなのだった~

 経堂西通りの「むらさき」のナナメ向かいには、「タイム」というお店があった。
 70年代当時によくあった、昼は喫茶店、夜はパブ、てお店で、70年代当時としては結構「おしゃれ」な店だった。

 東北的演歌系のむらさき……実際、「むらさき」は、板さんはじめ、ほとんどが東北で、店ではズーズー弁が「標準語」だった……に対して、こちらは都会的ポップス系だったが、マスター同志が仲良くて、お互いに「店」としてもよく行き来があった。

 「タイム」のマスターはやり手で、この経堂の店だけじゃなくて、下北沢に「雑魚や」という居酒屋と、同じく下北沢に「おいてけ堀」というスパゲティ専門店を展開する事業家だった。
 そのころ、「スパゲティ専門店」てのは、とても珍しく、またここで出す「たらこスパ」「納豆スパ」なんかの「和風」スパゲティ(今はどこでも「当たり前」のメニューになってるけど、おそらく、このころにはここでしか出してなかったんじゃないかと思う)が受けて、居酒屋の「雑魚や」とともに、とても繁盛していた。

 「タイム」が、夜はパブとして居酒屋メニューも出そうとしたときや、下北沢の「雑魚や」「おいてけ堀」開店にあたっての、仕入れルートの開拓などについて、「タイム」のマスターは、「むらさき」からイロイロと教え受け、なにかと面倒を見てもらった……という縁もあったらしい。

 そんなわけで、「むらさき」の従業員は、営業時間中にそれぞれ約15分ほどもらえる休憩時間には、「タイム」のカウンターで、割引料金で飲ませてもらえるコーヒーでひと息をつく、てのが慣例になっていた。

 毎日行ってるうちに、「タイム」のマスターや従業員たちとも、かなり親しくなったんだけど、わしは、とても気楽そうにまた楽しそうに、「おしゃれ」なお客を相手にしてる彼らが、心底羨ましかった……
 わしも「こっちへ来れば良かった……」と、何度も思った。

 後年、結婚してまた経堂に住んだとき、なにげなく入った飲み屋が、その「タイム」の元従業員がやってる店だった、てことが何度かあって……店に入ると、「あれ!カンちゃんじゃない?」と、「むらさき」当時の呼び名で、カウンターの中から、今はその店の主人らしい人から呼びかけられ、わしもびっくりした。
 ……「タイム」人脈は、経堂にかなり広く残ってんだな、と実感したのだった。

 「タイム」のマスターは、離婚のごたごたで下北沢の店を元・奥さんに慰謝料として譲った……と聞いたあとは消息を聞かないが、経堂の街には、あれから30年以上経った今でも、「タイム」系の店が、まだ残ってると思う。


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2008.1.18(金)

 今週は、帰りが夜中の12時……て日が続き、火曜日の更新ができなかった。
 でも、その前日の月曜日には、ブログの「爆裂!!クソ日記 がんばれ、わしの括約筋」は更新してんのでした。えらいね。誰も誉めてくれないけど……

 ところで、毎月表紙にのっけてる写真をここに移すたび、過去の写真を再び全部見るのだけど、なんでか「線路」の写ってる写真が多いのに気がついた。
 今月もそうだ。

 この写真てのは、たとえば、歩いていてふと振りかえると、そこにとても「絵になる」光景が広がってたり、車で走ってるときに、なんだか「いい感じ」の風景に出会ったとき、車を停めて撮ってみたり、電車の中から見えた風景が気になって、わざわざ電車を降りて、そこまで引き返してみたり……して撮った写真が大半なのだけど、たいていは、パソで開いてみると、最初に思ったよりも全然つまらない景色だった……てのが大半……てのは、「写真のウデ」にも関係するのだろうけど、「狙って」撮った写真てのは、まずないのです。

 それが、改めて見てみると、やたらに「線路」の写りこんでる景色が多い……「なんでかな?」と考えてみたのだが……

 「電車から見えた」「用事を済ませて駅へ向かう途中で撮った」写真が多い、てのは、まず第一、かな?

 そいと、「線路のある風景」てモノに、やけにひかれるところがある、てのもあるな。
 風景の中に「線路」があると、なんでか落ちつけて、そいでもって不思議と「わくわく」もするのだ。
 「どこかと繋がっている」という、安心感なのか?

 皆さんは、そんなこと、ないですか?


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2008.1.22(火)

 更新は、UPが少し遅くなったけど、怒涛の読破録 先月これだけ読みました VOL.61 07年12月師走に読んだ本とか登った山とか新年の決意とか……の巻、であります。
 師走の読破人は、法螺さん、小牧さん、からす、立読師さん、えいみさん、なのだった。

【沿線転景】 ~ナメラの夢はいつ開く~

 左は、「三木上の丸」駅降りたところにある、三木市の「ナメラ商店街」の、その入り口なのだった。

 画面左手土手上に駅はあって、その土手の、線路を挟んだ向こう側を登っていくと、豊臣秀吉の兵糧攻めで滅ぼされた別所氏の居城だった三木城址がある。

 その秀吉に滅ぼされるまで、三木は播州一の繁栄を誇った城下町で、当時は三木が播磨の中心都市でもあったとか。

 その後、江戸期に至って、この地には金物産業が興り、主に百姓・大工金物を作り商って、再び商工地として繁栄し、この地場産業があったゆえか、「町」から市制への移行もかなり早い時期だったと記憶する。

 「ナメラ商店街」は、その三木一番の繁華を誇る商店街として、わしが子どものころには、周辺部から多くの人を集めて賑わっていた。
 わしは、お袋の実家が今の西区にあったので、やはり、なにかというと、この「ナメラ商店街」へ連れて行ってもらうことが多かったのだ。
 「ナメラ」は、ただ今の神戸市西区や北区の西北部、小野市、西脇市、加西市、稲美町や吉川町、さらに加古川市の一部からも、人を集める町では、あったのだ。

 上の写真は、何十年ぶりかで、タマタマここを通りかかったので、懐かしくて思わずふらふらとさ迷いこんだ際に撮ったのだが……
 いや、たまげた。
 かつて狭い通りに押し合いへし合いしてた人は影もなく、ただ風だけが、既に閉じた店が多いアーケード街の、そのシャッターをガタガタと鳴らして吹きすぎてゆくだけ……なのだった。

 子どものころに、よくここで買ってもらった「太鼓饅頭」を買っていこうと思ったのだが、ンな店はもう跡形もないのであった。
 商店街のハズレにあった、某大銀行の支店の、その古くて妙に立派な建物だけが、かつての繁華の痕跡を、わずかに忍ばせるだけ……になってたんである。

 ご多分に漏れず三木市もまた、近頃は「金物」よりも神戸のベッドタウンとして、旧市街地の外側に巨大な団地があちこち造成され、そこに住む「新住民」は、狭小な旧市街にある商店街など見向きもせず、国道沿いに建てられた巨大スーパーに車で買い物に行く……のが日常的な光景になっている。

 「商店街再生」は今、各地でいろいろと思案され、実行もされているようだが、「ナメラ」には、いまだそーゆー動きもないようだ。
 おそらく、このまま朽ち果てていくんだろな……

 と、若干の感傷もって上の写真を撮った……のだけど……
 でも、「ナメラ」てのは、一体、なんだ?どーゆー意味だ?


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2008.1.26(土)



【経堂物語】 経堂ファミリー

 経堂「むらさき」でバイトしてるころ、店が終わって皆で賄い食ってるところに、時々おばさんがやってきた。
 マスター以下の皆と、妙になれなれしく口をきく、このズーズー弁のおばさんは「誰?」と思って、板前のガンさんにそっと訊くと、「マスターの叔母さんだべ」と教えてくれた。

 聞けば、このおばさんは、やはり経堂の西通りで「紫苑」というスナックをやっていて、その叔母さんを頼って岩手から上京してきたマスターの兄が、近くに「パープル」という名のスナックを開店、やがて、板前でもあったこの兄が、その「パープル」の近くの空き店舗で居酒屋をやろうと思いつき、そこを店長としてまかせるのに、弟、つまりマスターを呼び寄せて、「むらさき」と言う名で開店させた……

 のが、経堂「むらさき」の前史なのであるらしかった。
 元が「紫苑」で、その後「パープル」「むらさき」と、全部「紫色」つながりのルーツ、なのであった。
 だから、当時の経堂西通りには、「むらさき」「紫苑」「パープル」と、江戸紫な名前の店が、仲良く3軒並んで建っていた。

 当時、「むらさき」は、主に沿線の学生の間で、「1000円あったら思いきり飲み食いできる店」として有名になりかけており、経堂の本店の他に、町田と吉祥寺に支店があった。

 後年、あちこちで目にするようになった「村さ来」という店は、最初「むらさこォ」と読むのだ、と思いこんでたこともあり、経堂にあった「むらさき」との関係なんて、思いつきもしなかったのだが、ある日、「急成長する居酒屋チェーン店の社長」として、テレビでインタビュー受けてる人をふと見て、たまげた。
 そこにいたのは、あの、経堂「むらさき」のマスターのお兄さん……当時実質の「店主」であった、その人だったのだ。


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2008.2.1(金)

 忙しかったのとパソコンの不調が重なって、なかなか更新ができなかった。
 のだが、なんとかトップページだけは更新したのです。

 パソコン……10年モノの98機は、既に瀕死だ。
 今日も、なんだか死にそうな音たてながら、なんとか立ちあがったが、とても不安定……

 おまけに、かなり雑で荒い使い方をしてきたしな……

 でも、死ぬな。
 死んだらあかん。

 頼むで、ほんまに……


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2008.2.10(月)

 パソコン98くんの機嫌が、ようやくおちついてくれた……ようだが、ちょっと気を許すと、カーソルが勝手に暴走すんので、押さえつけながらやってます。

 急いで報告。
 「爆裂!!クソ日記」、更新してます。はい。
 あ、待て……も少し待ってくれ……
 で、今日はこれだけ!

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2008.2.24(日)

 パソコン98くん開いて……立ちあがってくれるだけは、立ちあがるのだが……みると、なんだか機嫌がいいので、とにかくも日付だけでも更新……の雪の日曜日なのでした。

 ただいま、XPの方に移行する手立てを模索……と、また!またカーソルが……おっと、戻って来い……と、そんなこのごろなのでした。


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2008.2.26(火)

 ようやくに、XPの方からサイトの更新ができるようになったのでありました。
 で、その更新第1号は遅ればせながら、「怒涛の読破録 先月これだけ読みました」その1月の巻。
 読破人は、法螺さん、、小牧さん、じゃどさんにえいみさん、立読師さん、それにわし、なのだった。

 「98」のメビウスくんは、今やもはや「ご臨終」も近いみたいで、(「ぴりゅりゅ~~~ぴ~~~~っ!」という、不気味な音は立てながらも)立ち上がってはくれるのだが、ポインターも動くのだが、クリックしても、「うん」とも「すん」とも言わず、終了オプションのウィンドウも出せないので、いきなり電源を落としたり……そうこうしてると、思い出したように動いてくれたり……とゆー状態なのであった。

 思えば、長い付き合いであった。
 買ったのが……確かあれは1997年……だから11年か。
 わしが、初めて「パソコン」てものに触れた機械でもあった。
 以来、あちこちいろいろと付き合ってもいただいた。
 買ったその月に、コンクリの床に落として、筐体を割ったりもしたに関わらず、中身は壊れもせずにせっせと働いてくれた。

 どうか、安らかに眠っていただきたい、と思う今日この頃……って、待て。あの中には、このサイトの情報以外にも、なんか大事なモンが入ってたような気がするが……
 確かめたいが、再び立ち上がってくれるだろうか?

 もう少し、もう少しだけ、がんばってほしい。頼むわ、メビウスくん。


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2008.2.29(金)

 寒い寒い雪だ雪だ……とゆーてるうちに早やも3月を迎えようとしている今日この頃。

 と、もう3月なので、恒例のトップページの模様替えなのだった。
 今月の「風景」は、妙に明るい画面なのだが、なにを隠そう隠してもしようがないが、実は夏に……それも何年も前の夏に撮った写真なのであった。

 しかも、このトップページ……かどうかは忘れたが、ともかく、このサイトのどっかで使った写真の使いまわしなのである。
 更新を、別のパソでやるようになって、あらためてフォルダーの中を見てみたら、ウェブ上では削除してしまった写真やなんかが、「どっさり」と、こちらのフォルダーにはまだ残ってたのであった。

 山陽電車の高砂駅を降りた駅前の、その裏手に回ったらこんな路地があったのは、確かあれは4年ほど前か。
 この道は、元は「道」じゃなくて国鉄・高砂線の線路で、建物が皆、道に対して背中向けてんのは、そのせいです。
 
写真撮ったときには、とある建物の裏手に、そこの住人が作ったらしい、「植栽付き猫の団地」なども発見したのである。
(←)
 写真をクリックしていただけると、大きな画面が見られるが、トタンの壁の穴やら床下やら、即製の植木鉢の影やら、「お部屋」として置いてもらってるらしい箱の中やら……に何匹もの猫が昼寝してたんである。

 この「団地」のとこだけじゃなくて、この道沿いの建物すべて、とても不細工に「凸凹」していて、その「凸凹」がまた、猫がいかにも好みそうな凸凹加減で、そこに惹かれて写真も撮った、とゆーわけだったのです。

 いったいに、街だって人だって、「凸凹」してるほうが面白い。
 凸凹のない、のっぺりとした病院みたいな街には、行きたいとも思わないし増して住みたいとも思わない……のは、果たしてわしだけ……か?
 ちかごろ、どっこもかしこも、やたらと病院みたいにお清潔でノッペラボーでとても「つまらん!」と思うのに、そういう街ばっかりが増殖してる、てのは、やっぱ、それを求めるヒトビトがいる、てことなのか?

 上の写真をも一度見ていただきたい。
 そろって安普請だが、この建物群の背中には、なにやらドラマを感じやしないか?
 不揃いの壁の凸やら凹やらのひとつひとつに、人のイトナミてものが、感じられるではないか。

 ところが、昨年、高砂を訪れた際に、そういえばこんなとこがあったよな……と思い出してこの道を再訪してみたのだが……

 ずらりと並んでいた放置自転車の姿はどこにもなく、道はきれいなレンガ舗装の「遊歩道」に姿を変え、凸凹だった建物の背中もまた、見事なまでの「ノッペラボー」に「整備」されていたのであった。
 もちろん、雑然と置いてあった簡易植木鉢も、それから猫の姿も、どこにも見当たらなかったので、あった。

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2008.3.4(火)

 「爆裂!!クソ日記 がんばれ、わしの括約筋」、3/2の日曜日に更新してます。
 今回は、便所にまつわる我が国独自の風習に関しての、ある提言……なのだ。

【経堂物語】 ~水道道路~

 1975年当時、わしが住んだ経堂の下宿は、2階からの階段を降りたところに狭い靴脱ぎと玄関があり、そのドアを開けるとすぐに道路。
 これが、幅員5メートルほどの狭い通りなのだが、なんでかバス道になっていて、慌てて飛び出すと大変に危ない玄関であった。
 バスが通るたび、下宿全体が揺れた。

 すぐ近くにバス停もあって、このバス停の名前が「水道辻」というのだった。
 ちょうどバス道と直角に交差する、やはり狭い通り……バス道よりは広かったが、センターラインはない道だった……があって、この道の名が「水道道路」、そことの交差点にあるバス停だから「水道辻」。
 とてもわかりやすい。

 この水道道路、荒川と多摩川をつなぐ水道管が地下に埋設されていて、正確には「荒玉水道道路」というのだ、とは後で知った。
 この水道道路が、地図で見てみると実に「真っ直ぐ」なのだ。
 杉並の永福町あたりから南に降り、桜上水を経てわしの下宿の前を通り、環八をナナメに横切って小田急の線路にぶつかる……道路自体は、その前後にもあったんだろうが、この区間が、とにかく一直線に「真っ直ぐ」なのが、地図の上でやたらと目だってたんである。

 ふと、「真っ直ぐ」に歩いてみたくなって、下宿の前の交差点から、この道路を南にたどり始めたのは、下宿に住み始めて約3ヶ月がたった、ある夏の夕暮れだった。

 畑と家が点在するだけで、なんの変哲もない景色の中を、へろへろ歩いていった。
 ときおり車が行き過ぎた。
 約30分歩くと、小田急の線路に突き当たり、線路端を左にたどると祖師ヶ谷大蔵の駅前に出た。
 このころにはすっかり日暮れていて、駅前の小さな商店街の中に、ぽつんと黄色い灯をともした古本屋が目についた。
 なにげなく入って、目に付いた文庫本を1冊買った。坂口安吾の「白痴」。60円だった。

 帰りは電車に乗って、経堂に向かいながら、なんだか妙にすがすがしい充実感を覚えていたのだった。

 電車から街の明かり眺めて、今度は北に向かって、永福町まで歩いてみるか……などとも思ったのだが、それはついに果たしてない。


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2008.3.7(金)

【経堂物語】 ~よるのぎんぎつね~

 東京で暮らし始めて最初の年の、秋からその翌年早々まで、神田の居酒屋でバイトしていた。
 支給してくれる交通費で、「経堂-(新宿経由)-神田」なんて通勤定期も買ったりして、なんだかいっぱしの勤め人になったような気もした。
 大学には徒歩で通ってたので、東京で持つ初めての定期券でもあった。
 わしはまだ19歳で、東京へ来てからまだ何ヶ月かしか経ってなかったけど、もう何年も住んでるような気分にもなった。

 神田の店は、「鉄板串焼き」を名乗る店で、界隈のサラリーマン相手の、1、2階に客席のある、結構大きな店だった。
 5時の開店とともに、ネクタイのサラリーマンが、たいがい徒党を組んで押し寄せてきた。

 その夏に、信州のホテルの厨房で板場の下働きとして、住み込みでバイトしてた。
 そのホテルにいた和食と洋食の調理人たちは皆、ホテルの本社のある大阪から来ていて、それぞれに「ザ・板前」「ザ・コック」という、職人気質のカタマリのようなヒトビトだった(ぼやぼやしてると「おどりゃーっ!」の声とともに、マジで包丁が飛んできた)のだけど、神田のその店にいた「板前」さんたちは、とてもサラリーマンな調理師たちで、皆してとても事務的に串焼きを焼いていて、まずはそのギャップに戸惑った。。

 そんな彼らがつくる料理は、若造のわしが見ても実にまずそうで……実際食ってみたらば死ぬほどまずかったが……客はそれでも「わんさ」と押し寄せていた。
 「東京の食の世界はぬるい!」と、いまだ弱冠の二十歳にもならん小僧は思った……

 この店には、フロアの「お運びさん」として、昼間はOLとして働いている女の人たちが、夜のバイトとして多数来ていて、彼女たちからは、大人の女の裏面を、まざまざと見せ付けられもして、これは19歳の少年には結構刺激的だったのだけど……

 そんなサラリーマン板場が、サラリーマンたちにまずい料理と酒を、「おいおい……」と思うほどの「ぼった」値段で供する店は、夜の11時が閉店で、片付けに手間取れば、新宿からの小田急には、最終ギリギリということもままあるのだった。

 月曜から土曜まで毎日、既に快速はなく、すべて各駅停車になった中央線の赤い電車で帰った。
 新宿で乗り換えて、やはり各駅停車だけになった小田急で経堂に着くと、北口のすずらん通りを下宿まで、約15分歩いてたどる。

 経堂駅前には、今もそうだと思うのだけど、小田急の最終は経堂止まりで、そこから先の客をあてこんだタクシーが、毎夜、結構な数で屯してた。
 そのタクシーの列をすり抜けてすずらん通りに入ると、商店のほとんどは既にシャッターを下ろして人通りもなく森閑として、北風の吹きぬける通りを、ポケットに手を突っ込んで歩くのだった。

 きんきんと冷えて、月が鮮やかな夜……ばかりだったような気がしてたのだが、よく考えると、ンなわけないのだがね。
 駅前に出ていた屋台で、ときどきラーメンを食って帰った。
 真夜中に、人気のない商店街を歩いていると、「将来……」なんてことも、やけに真剣に考えたりもした。

 そのころ実は、漫画を描きたいと思っていて、ケント紙と墨汁なども下宿に買い込んであって、今のこの情景をなんとか「表現」できないか、とか考えたりもした。
 鈴木翁二の漫画のマネして、商店街の街灯にくくりつけてある造花を、えいや、と飛び上がってむしったりもしながら、「おっつきさん、こんばんは……」などと歌ってみたりもした、冬の夜なのだった。


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2008.3.11(火)

【経堂物語】 ~親父~

 こないだ、大阪は淀屋橋に所用があった。
 地下鉄の階段を上がってすぐの淀屋橋の、その橋の上に立つと、いつもそうなんだけど、なんだか妙な懐かしさにとらわれる。
 昔、親父が勤めていた会社がここにあって、まだ子どもだったわしは、日曜出勤する親父に連れられ……多いときにはそれこそ毎週のように、ここへ来ていたのだった。

 日曜出勤してた人は、親父の他にもたくさんいたけど、子連れで来てんのは、さすがに親父だけだった。
 親父が、いったいなンを考えて子どもを連れて会社に行ってたのか、ようわからんが、少なくとも「子煩悩」というのではなかった。会社に着くと、たいていわしは放っておかれたし……

 わしは、とにかく街の空気が吸えるのがうれしくて、「行くか?」と問われれば、いつものこのこついて行って、会社の入ってるビルの中を探検したり、中之島の公会堂あたりぶらついたりと、いつも一人遊びをしていたのだった。
 夜になって、眠い目をこすりながら、オフィスの隅の応接セットで開かれる即席営業会議の席に、座っていたこともあった。
 夜になり、帰りの地下鉄駅へ行く前に、橋の上から街の明かりを映す黒い川面を眺めるのが、好きだった。

 親父が退職してから、この会社は江坂の方へ引っ越したそうで、今はもう、その会社自体もあるのかどうか知らないが、当時この会社が入居してた住友生命ビルは、今も川に面して、昔のままで建っていて、隣にMIZUNOの本社があるのも変わらない。

 あのころ、親父はまだこの淀屋橋の会社に勤めていた。
 経堂に住み始めて……東京へ来てからおよそ一ヶ月経ったころ、いきなり、親父が下宿に現れた。
 出張のついでに寄った、と言いながら、狭い四畳半の部屋をきょろきょろと見回しながら、「大家さんにも、あいさつしとかんと、いかんしな……」と言うんであった。
 部屋をみつけて契約したのはわしだし、そのときにもう「あいさつ」は済ませてある……と、仕送りはもらってるとは言え、いっぱしに「自立」したつもりだったわしが抗弁すると、「そんなわけに、いくか。」と、強引に一階に住む大家のところへ案内させた。
 「ついでに寄った」と言いながら、おそらくは神戸から持ってきたんだろう、「ユーハイム」のクッキーの手土産まで、なぜか持参していた。

 親父はそれから、大学も見たいと言い出して、二人で歩いて大学まで行った。
 大学の建物を眺めながら、「ほう、ほう……」と言ってた親父が、いきなり振り向いて唐突に言った。
 「飯、食いに行こ。」
 小田急の駅の辺、結構賑やかやったやないか。なんか店もあるやろ。と、先に立ってすたすたと歩き出すのであった。

 経堂まで戻ると、「お、ここがええ、ここがええ、な。」と、炉端焼きの看板を指差して振り向くや、わしの返事も聞かずにさっさと入ってゆく。
 二階にある店の階段上がりながら、「お前、飲めるんやろ?」
 にやりと振り向いた。

 「まあ、飲め飲め」とビールを注いでくれ、自分もぐいぐいとグラス空けながら、あのころよくあったでかい「櫂」で、注文の焼き物差し出す店の人に、「えへへ、今日は、息子と飲んでまんね。これ、息子でんね。」と、何度も言うんで、閉口した……

 店を出ると、「おお、そうやった。母ちゃんに電話せんといかんのやった!」と、またいきなりに、道端の公衆電話に100円玉を放り込む。
 「……あ、ボクや、ボク、あ?ああ、元気しとるわ。……ああ、大家さんには、あいさつしといた……あは!あのな、今な、息子と、飲んできたんや!……あは!そう……」

 ひとしきり喋って、「母ちゃんが、替わってくれ、言うとる」と受話器を差し出した。
 「……あ、俺……」と受け取った受話器から、「あのな、お父さんにあんまり飲ませたら、あかんで。」という、お母ンの妙に醒めた声が聞えた……

 それから親父は、「元気でやれよ~~」と、改札から手を振りながら、ホテルへ帰って行ったのだった。

 今思うと、外で親父と二人酒を飲んだ、てのはあの時きりだった。
 親父が死んで5年が経つ。
 あのとき、もう少し嬉しそうにしといてやれば、「良かったかな?」と、今もときおり後悔する。


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2008.3.14(金)

【沿線転景】 ~五社~

 改札の前に暢気に猫が寝そべってんのは、五社駅である。

 以前、トップページに使用し、ただいまは「紅い灯からすの」の、2003年9月版に保存してある画像も、4年前にこの駅で撮ったものだ。

 写真で見ると……と実際に降り立ってみても、単線の線路に片側だけ、しかも木張りのプラットホーム、そのホームの先にはトンネル、あたりは緑また緑……と深山幽谷のタタズマイを漂わせる駅である。

 ところが、実はこの駅、ホームの先のトンネルの上には、神戸市・西宮市にまたがる大団地が控えていて、朝夕など、かなりな乗降客のある駅なのだった。
 こうやって、猫がのんびりしてられるのも、昼間の今のうち、だけなのであった。

 その昔、この線を使って通学してたころには、この駅のすぐ横、ホームから真下に見下ろせる位置に、広い庭をもった大きな木造の建物が、その庭の鬱蒼とした深い木々の間に、なかなかに堂々と建っていたのである。
 入り口に、ただ「五社寮」とだけ記されたその建物は、どう見ても「旅館」のようであったが、なんで、ンなとこに連れ込みでもなさそうな、「旅館」があるのか……とても不思議に思っていたのだ。

 上の写真を撮った日……てのは、去年の秋頃なのだけど、ふと、「あれはなんだったんだ?」と駅の真横のそこへ行ってみると……
 かつての「庭」は、相変わらず鬱蒼とそこにあったのだけど、何棟かあった建物は跡形もなく取り壊されていて、敷地は黄色いフェンスに囲まれていたのだ。
 図らずも、フェンスにあった張り紙で、そこが兵庫県の教職員組合の保養所だったことがわかった。

 そうだったのか。だから、派手な看板とかもなかったのだな……と一人納得してると、先ほどの猫が、フェンスの隙間から中に入っていって、どうやらこいつは、その跡地に住みついた野良猫の1匹であるらしく、よく見ると敷地の中には、階段の途中とか樹の上とか、もはや朽ちかけたあずまやの中……なんかに、何匹もの猫が、思い思いの格好でくつろいでいたのであった。


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2008.3.18(火)

 別冊さかむけ本通「怒涛の読破録 先月これだけ読みました」本日更新してます。
 今月は、小牧さん、立読師さん、法螺さん、えいみさん、そいとわしの読破した本その他モロモロ、だ。

 若松孝二の映画『実録・連合赤軍』が、ベルリン国際映画祭(だっけか?)でなんだか賞をもらったらしい。
 「ドイツ」の、しかも「ベルリン」で評価された、てのも、なんだか因縁めいている……っても、わしゃまだ見てないんだけどね。

 若松孝二は、70年代当時に、重信房子ら「赤軍派」との私的交流の中で、中東まで彼らを追って、当時のPFLPとの「共闘」をドキュメンタリー映画に仕立てた人だ。
 また、その映画の製作や公開に当たって、後に連合赤軍の「山岳ベース」での「総括」の犠牲となった遠山三枝子の献身的協力を得、それをきっかけとして彼女と親しくしていたこともあり、このテーマは「いつか撮らねば」とは、思っていたらしい。

 その若松孝二に、「いよいよ撮らねば」というきっかけを与えたのが、「突入せよ!あさま山荘」の公開、だったらしい。
 権力側からだけの、一方的な描き方しかしてないものに、「あの時代」と「あの事件」を代表させてしまっては「いかん!」という思いが、この映画の製作に踏み切らせたらしい。
 「突入せよ!」も、わしは見てはないんだけど、テレビのコマーシャル見ただけでも、やたらと「権力側」がヒロイックに描かれていて、わしも当時、なんだか強い違和感と不信を抱いたぞ、あの映画には。

 というわけで、機会があれば、ぜひ見たいと思っているのだった、「実録・連合赤軍」。

 しかし、「あの時代」を描いたものは、あまりに少ない。
 日本の戦後史の中でも、一番の「激動期」だったのに、「三丁目の夕日」ばかりでなく、もっと、あの時代が見直されても、いいんじゃないか、と思うんだけど、それをやってないのは、あの時代を「同時代」として生きて、その渦中に身を置いていた「団塊世代」の人たちの、怠慢以外のナニモノでもない、とも思うのだった。

 「団塊」人たちが、それをやらないんだったら、もちょっと下にはなるが、わしらが、「やらんとあかんやろ」、とも思う。少なくとも、わしらは、見てはきてるからね。

 全然関係ないのですが、「横浜国立大学」は「よこはまこくりつだいがく」と読むのだ、というのを連合赤軍の事件報道の中で初めて知った……のは、わしです。
 それまでは、「よこはまくにたちだいがく」だと思ってた……
 「国立音楽大学」てのもあるし……「国立(くにたち)大学」てのがあって、それの「横浜キャンパス」が、「そう呼ぶのだ」と……

 しかし、なんで「国立横浜大学」あるいは単に「横浜大学」ではなくて、「横浜国立」なのだ?いまだにナゾです。


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2008.3.21(金

 「爆裂!!クソ日記」、更新してます。
 今回は、またもや「小便」話だ。

 若松孝二の映画『実録・連合赤軍』のことを、前回トップで書いたところ、掲示板にみなみさんから、大阪での上映情報をいただいた。
 十三の「第七藝術劇場」にて、3/29から4/4まで、上映されるそうだ。
 行きたい……
 ただいまとっても貧乏にて、経済的にはかなり困難だが、行きたい……

 その掲示板でのみなみさんの書き込みや、マサローさんの書き込みで、ココロは一気に70年代まで退行した……わしなのだった。

 古本屋で、「少年マガジン」の、1970年2月1日号、てのを入手したせいでも、あるのだがね。
 「少年マガジン」の、1970年2月1日号、熱い!とにかく熱いです。
 70年代B級パワー炸裂!つーか、意味も無く熱気に溢れております。

 「1970年」てのは、今思うと日本では、「戦後復興」または「高度経済成長」の、その集大成の年、だったのですね。
 わしは、当時中学生だったけど、「70年代」という時代に突入した、てことが、メディアはじめあちこちで「エポック」として語られ、その「高揚感」てのは、そらもう「二十一世紀」に突入した時の、「比ではなかった」と記憶する。
 なんか、まったく未知の、「新時代」が、これから展開するのだ、と、皆確信していたもの。
 古本屋で買った「少年マガジン」もまた、その空気を、高揚感を、誌面のそこここに漂わせている。

 その前年から、NHKで「70年代われらの世界」というドキュメンタリーの番組をやっていて、これの主題歌が、「♪青い地球は誰のもの、丸い地球はだれのもの……」というもので、「地球」という概念でもって、わしらが生きている空間をとらえる……てことも、この年あたりから始まったんじゃないかな。

 ベトナム戦争はまだ続いていたし、「公害」問題が全国あちこちに発生し、インフレで物価はどんどん上がるわ……現実には明るい話題の方が少なかったのだけど、「70年代」と言うだけで、わしらの行く先には、なんだか明るい……底抜けに明るい未来が、開けているような錯覚も、起こさせてしまうような……そんなわしらの「70年代」なのだった。

 そーゆーわしらの「70年代」を、その「空気」を、伝えるものを作りたいと、これはカネガネ思ってはいるのだが……
 なかなか、これが……

 「70年代」はまた、「関西」が、ほんの一瞬ではあるが、「発信点」になった時代でも、あるのだ。


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2008.3.25(火)

 こうの史代の漫画「夕凪の街、桜の国」が映画化されたのは知ってたが、もう公開もされ、しかもDVDにまでなってるとは知らなかった……去年だったのか……
 いまだ映画は見てないけど、どんな風に出来上がってんのか、かなり気になる。

 戦闘シーンはま~~ったく出てこないけど、「原爆」投下されたシーンも出てこないが、しかも前半1/3の「夕凪の街」が「昭和30年」、後半2/3「櫻の国」は「現代」のお話ではあるけど、原作の漫画は、まぎれもなく「戦争漫画」だ。

 その前半部、主人公の「皆美」が、被爆後10年で発症した原爆症で亡くなる直前の独白……

 「嬉しい?」
 「十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て『やった!またひとり殺せた』と、ちゃんと思うてくれとる?」

 というのは、ものすごく強烈なメッセージだ。

 この漫画、既にヨーロッパとカナダでは翻訳版が出てるらしいけど、アメリカ人にこそ、読んでほしい漫画である。


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2008.3.28(金)

■さくら、さくら

 裏神戸のうちの辺りは未だ全然だけど、昨日、所用にて神戸から大阪、京都とめぐると、街中の気の早い樹などは、もう3分から5分咲きといったところもあった。

 写真は、その昨日……ではなくて、これは去年の京都・木屋町高瀬川の写真ではあるのだが……

 「櫻の森の満開の下」では人は気が狂う……と言ったのは坂口安吾で、「櫻の樹の下には死体が埋まっている」……のは……あれ、誰だっけ?「櫻の樹の下には地下鉄が走っている」と言ったのは、嵐山光三郎です。

 数ある花の中でも、ひとり櫻だけは特別扱いされて、毎日の天気予報でも開花予報や「前線」の進度が報告される……のは、おそらくは我が国固有なんだろうけど、ことさら「櫻」に人々が執着し、その開花の具合に一喜一憂……という状況は、いったいいつごろからなんでしょうね?

 我が国では、明治の以後、あちこちに建てられた陸軍兵舎のその庭の、新規の施設ゆえにがらんどうで殺風景なのを補う目的で、各地の兵舎に櫻が植えられたらしいが、その際に、成長の早いソメイヨシノが選ばれて、やがて櫻は無機質な兵舎を彩り、その後、学校や公会堂、鉄道の駅、等々、同じく新規の施設で殺風景だったところの敷地に、これをまねて櫻が植えられるようになった……がゆえに、今日では全国いたるところに櫻が氾濫するまでになった、理由であるらしい。

 しかし、いくら絢爛に咲き誇ろうが、その何千何万何十万何百万と咲いた花から、何千何万何十万何百万の実を落としても、その種は決して発芽することなく、ただ邪魔っけに掃いて捨てられるだけのソメイヨシノは、やっぱり少し哀しい。

 「恥ずかしげもなく」とか「あられもなく」とかと形容したくなるほどに、枝という枝に全裸をさらすかのごとき花たぶさを纏い、ゆっさゆっさと重そうに、川風に揺られているソメイの姿が、やや投げやりで憂鬱そうに見えるのも、そのせいかもしれない。


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2008.4.1(火)

 「爆裂!!クソ日記 がんばれ、わしの括約筋」更新してます。
 今回は「便所」という呼称についての一考察。

 さて、先日の日曜日、早起きして「朝8時半からの回だと早朝割引で800円!」という、十三は「第七藝術劇場」へ、若松孝二監督作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程~』見に行ってきました。

 想像以上にすごい映画で、想像以上のできばえでありました。
 3時間と少し、身じろぎもできず、画面を凝視してしまった。
 映画は、もう愚直なまでに素直に真っ直ぐに、「彼ら」とあの事件に向き合っておりました。
 直球一本勝負。変化球や遊び球一切なしで、ストレートだけでぐいぐい押してきます。

 これと較べると、同じ事件扱った「光の雨」は、観念と情緒に流れて……て、実際は見てないんだけど、多分「そうだろな」と思うが、きっとそうだ、原作が「立松和平」だし……

 実際、早朝にかかわらず、館内には結構人が詰め掛けてた(8時前に着いたら、もう行列ができてたし)んだけど、3時間という長丁場の間、会場は「寂として声なし」という状態だったもの。

 映画が始まる前、わしの後ろには、白髪白鬚小太りにベレー帽というおっさんが、若い女を連れていて、彼女に向かって映画のパンフを指し示しながら、
 「ぼくらのころにはね、そうそう、こうして、あちこちで大学封鎖があってね。そのころぼくもバリケードの中でね……」
 などと、得意げに話していたのだが、映画が終わるとおっさんは、むっつりと黙り込み、うつろな目で天井を眺めていたのであった。
 思わず、「自己批判せぇよ」と声かけそうになった……

 この映画は、見るべし!絶対に見るべし!
 ことに、わしより上の人たちと、それから10代20代の若い人には、是非ともに見てほしい映画だ、と思った雨の日曜日なのだった。


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2008.4.4(金)

■経堂物語 ~便所のジョージ~

 ジョージは、経堂「むらさき」の常連客だった。
 歳はあのころで……40から50くらいの間か、とび色の髪と青い目の、ひょろりと痩せて小柄な中年の白人だった。
 ジョージは、いつも一人で、たいていは開店と同時にやってきて、ビール1本と煮込み(都合¥340也)を注文すると、それで約2時間はねばるのだけど、周囲の客と話すわけでもなし、カウンターの隅でただ黙って陰気にビールをすすっているのが常だった。

 で、こいつが、いつも店が立て込んでくる時間になると、フロアで働くわしを、手を上げて呼ぶのだ。
 注文かと思って行くと、
 「便所、汚れてるぞ」
 ひと言、ぼそりと呟くのだった。

 便所掃除もまた、わしの仕事だったので、「なんもこの忙しいときに……」とは思いながらも、そのたび、掃除していた。
 店が混んでくるとたいてい、「便所……」と、わざわざ呼びつける。
 で、そのうちに、ジョージがわしに手を上げると、「あー、もう、わかった、わかった。便所やろ。」とうんざりしながら言うと、ニヤリと笑い、
 「違う。ビール、もう1本。」
 じつにむかつくおっさんだった。

 ジョージがいったいナニモノなのか、誰も知らなかった……っても、たいていの客なんてそうなんだけどね……が、ジョージは白人のくせに、て言い方も変だけど、「英語が喋れない」というのは、店に来たアメリカ人二人連れの客が、カウンターに一人でいたジョージに、同胞と思ったのか親しげになにやら話しかけたとき、面食らい泡食った様子で、慌てて手を手を振りながら「ノー・イングリッシュ」と言ったのでわかった。

 一度、昼間にこのジョージをみかけた。
 昼間、つーても午後の4時頃、銭湯帰りなのか、ジョージは洗面器かかえて、商店街を歩いていたのだった。
 声をかけようとしたのだけど、その痩せた後姿が妙に寂しそうで、声かけそびれてるうちに、ジョージは角を曲がって行ってしまった。

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2008.4.8(火)

 各地で桜が散り始めた、との知らせが届く今日この頃、うちのあたりはようやくに「五分咲き」くらいなのだった。
 そして、既に今月で「VOL.64」と」なる「怒涛の読破録」、更新してます。
 今月の読破人は、わしと立読師さん、法螺さん、小牧さん、えいみさん、といういつものメンバー。

 本日8日は、京都・嵯峨野の大学での、初授業なのでありました。
 100人以上という、予想外の大勢を前に、「最初だから」と、ろくに準備しないで行ったわしは、やや「冷や汗」ものでなんとか講義を終えてきた。

 これまでは、20~30人という少人数が相手だったので、準備してなくても、質疑応答「アドリブ走り」でもって授業を進められたのだけど、次からは、きちんと資料等準備しなくては……

 と反省しいしい、桂川沿いを、散り始めた桜眺めながら嵐山まで歩いて行ったのでありました。
 途中の神社の枝垂れ桜は、先週見たときには満開の花盛りだったのが、本日は最早や葉桜となっていたのでありました。

 教室でパソコンが使える、とのことで「パワーポイント」が、「いるかな?」と思っていたのだけど、なければないで、「なんとかなる」とのことも判明して、安堵。
 パソコン上の画面を、「そのまんま」プロジェクターで見せてたら、ついうっかり溜め込んでいた「便所」画像まで見せてしまったりもしたが……ウケたから、いいか。
 隣のフォルダーにあった「やばい」画像でなくて、良かった……


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2008.4.15(火)

 今、四方田犬彦の「ハイスクール1968」というのを読んでいる。
 あ、↑のリンクでは単行本が出てくるけど、わしが読んでんのは新潮文庫版ですが……

 こないだ十三まで見に行った映画の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」もそうなんだけど、1960年代末から70年代初め、て時代が、前々から妙に気になるので、そこらへんを描いたものを見つけると、とりあえず手にとってみるのです。
 だから坪内祐三の「1972」も読んだ。

 わし、一応同世代、と言えるんだけど、この時代はことに、3、4年の誤差が、すごく大きい。
 3年違うともう、同じ場所にいても、そこで体験すること、見聞きすることから価値観まで、「がらり」と変わってしまってる、てのがこの時代なのですね。
 1968年に四方田犬彦は15歳で東教大付属駒場の高校生……で、わしは兵庫県三田市の中学に通う12歳……あ、環境もずいぶん違うわ。

 その高校生活が語られるのだけど、当時の駒場には、ユニークな教師が、たくさんいたのですね。
 そのあたりはやはり、さすがのエリート校……なのだろうか?ちょっと羨ましかったりします。

 中学高校通じて、わしが教わった先生でユニーク……ったら、あまり思いつかないのだが……
 あ、高校時代の「現国」の先生は、京大出てたんだけど、かなり「偏向」してた。
 教科書に「ツルゲーネフ」が出てくると、「ここは、読まんでよろしい。こんなもん、文学と違う。ただの貴族の道楽じゃ。」と言い放ったあげくに、「そこの頁は破れ!」とまで言うた。
 センセ、若いときから小林多喜二や中野重治に、深く深く傾倒してたみたいだった。

 そのセンセの言うてることが「正しい」とは思わなかったが、好きな先生ではあった。
 教師は、ヘタに均整のとれた人よりも、たとえ極端にしろ独善にしろ偏向してるほうがステキだ。


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2008.4.18(金)

 今日は学校の日。
 前年度は土曜日だったのだけど、今年は金曜日なのだった。
 以前は、午後からの2コマだったのだけど、今年は1コマ増えて、だから終わるのが午後6時過ぎ。
 平日夕方の電車が「混む」てことを、久々に再確認させていただいた……

 自宅最寄り駅の改札を出ると、あたりはもうすっかり夜で、改札の前に、手に「コープ」の袋ぶら下げた小学生くらいの男の子が立っていた。
 男の子が、改札に向かって手を振ると、わしのすぐ後ろから改札に入ったサラリーマン風の男が手を振り返す。
 お母さんから買い物頼まれて出て、ついでに、ちょうど帰ってきたお父さんを迎えに来た……ところのようだ。

 改札を出たお父さん、開口一番、
 「今日は、誰や?」
 「安藤。」
 「お、そうか!もらい~!やな!」
 「うん!リードしてる!」
 「よっしゃ!走るぞ~!」
 「うん!」

 夕闇の街を、父子は笑いながら走って去っていったのでありました。
 いや、「ほのぼの」させていただきました。はい。

 阪神タイガース、開幕から快調に飛ばしておりますが、関西各地で、このような「ほのぼの」ドラマを生んでるんで、ございましょうね。

 よきかな、よきかな。
 うふふ……


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2008.4.22(火)

 おとといの20日(日)、大阪・桜川の「モンタージュ」というライブハウスで開催された「ザ・漫画家バンド大戦」という、ロックと歌と紙芝居のライブイベントへ、行ってきた。

 主催の三本美治さんはじめ、花くまゆうさくさん、掘道広さん、河井克夫さん、しまおまほさん等、主に「アックス」で描いてる作家さんたちのバンド演奏と紙芝居に加えて、「紙-1グランプリ」でお馴染みの関西代表・森元暢之さん、たらすなさんのコンビ、山井逆太郎さん、本町靭らも紙芝居で共演、さらに、歌では中村よおさんも参戦、というごった煮なんでもありのイベントなのだった。

 会場には、「アックス」の青林工藝舎の販売ブースに並んで、「幻堂出版」の販売ブースも設けられ、わしも、その「販売」のお手伝いに馳せ参じたのでした。

 「どうせ漫画家の余芸……」と、実は演奏には大して期待してなかったのだけど、いや、認識改めました。
 みんな、すごく「きちん」とバンドやってるじゃないですか……

 しかし、おっちゃんには、もはやロックの大音響は……ちょっと、しんどかったです……

 イベントは、「アックス10周年記念」てのも兼ねていたそうで、会場は、カルト系漫画ファンで埋め尽くされ、熱気で「むんむん」でございました。
 でも、見たとこみんな若いのだけど、「オタク」でない、こーゆー漫画ファン……てのはつまり「サブカル系」つーかそーゆー匂いの……、しかも若いファンが、こんなにもまだ生息してたとは……
 おっちゃん、少しうれしかったです。

 そーゆー客層だったせいか、幻堂出版物も、よく売れました。
 瞬く間に、主幹・なかの氏が明石から電車で担いできた本は、はけてしまったのでした。
 幻堂sの出版物が、あんなにも景気良く売れてゆく様……てのは、初めて見た、ような気がする……

 で、会場の様子をレポートしとこうと、カメラも持ってってたのだけど、「販売」が忙しくて、写真撮ってるヒマがなかった……のだった。
 「アックス」のNさんがこまめに写真撮ってたから、いずれ同誌かそのウェブに公開されると思うので、そちらで見ておくれ。


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2008.4.25(金)

■サリーアッコちゃんサマンサジニー

 『魔法使いサリー』というアニメと漫画のことを、ちょいと調べてみたのだった。
 原作は横山光輝。
 『伊賀の影丸』「鉄人28号」の横山光輝なんだけど、当時の少女漫画には、女性の作家が少なくて、男性作家の方が多かったのですね。

 と、そこまでは、まあ知ってたのだが、驚いたのは、このアニメ化のイキサツ。
 原作の漫画が掲載されてたのは『りぼん』なのだけど、そこに横山光輝が、当時テレビで絶大な人気を誇ってた『奥様は魔女』や「かわいい魔女ジニー』……予断ですが、わし、当時小学生で、この二つのアメリカ製TVドラマ、両方見てましたが、どっちかつーと、「ジニー」の方が「色っぽくて」好きだった……に触発されて、「魔法使いの少女」というキャラクターを描いたところが、連載第1回の掲載号が発売された直後に、編集部に「テレビでアニメ化したい」という話が持ち込まれた、らしいのだ。

 今なら、連載開始以前から、アニメ化を前提にスタートする、なんてあたり前だが、「メディアミクス」なんて概念がまだない当時、これはすごく「異例」の事態なのだった。

 連載第1回を見た、当時の東映テレビ部の幹部が、「これだ!」と直感して、すぐさま電話に飛びついた、らしい。

 テレビ局側には、「女の子がアニメをみるわけない」との反対も多かったそうなのだが、それをむりやりに押し切ってのアニメ化でもあったそうだ。

 そんなこんなで、日本初の「女の子向けTVアニメ」はスタートして、その後、現在まで続く「魔女っ子キャラ」の嚆矢となった……のが「サリーちゃん」なのだった。
 ちなみに、「サリー」終了後に放映されたのも、やはり「魔女っ子」ものの、『ひみつのアッコちゃん』なのでした。

 当時、このTVアニメの裏番組は、手塚治虫原作の『マグマ大使』で、うちでは弟がいつもそっちを見たがって、サリーちゃんの見たい妹とケンカになってたのだけど、わしも、どっちかつーと「サリーちゃん」の方が見たかったので、弟に「見せてやれよ。」と兄貴ぶって言いながら、ヒソカに楽しみにしてたのだった。
 わし、当時から「バトルもの」って、嫌いだったし……

 ところで、『魔法使いサリー』、原作漫画では『魔法使いサニー』(ゼッタイ、「ジニー」を意識したね)となってたのだけど、テレビ化にあたっては、「サニー」の商標持ってたソニーの許可が下りず、やむなく「サリー」となった……なんてこともあったようです。


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2008.4.29(火)

 四方田犬彦『ハイスクール1968』を、ようやく読み終えた。
 「1968年から1972年までの2年間が、「日本の戦後最大の激変期」という説には、深く深く納得できる。

 実際、1968年に高校生になった四方田さんと、その3年後の1971年に高校生になったわしらでは、その高校生活のありようが、まったく異なっていた……のは、実際だ。
 ……って、わしらの高校と四方田さんの高校では、「高校」それ自体も大きく違うのだけど……

 「現代詩手帖」「ガロ」「COM」「澁澤龍彦」「ゴダール」「鈴木清順」「寺山修司」「白土三平」等々、文中にちりばめられたそれらの単語を目にするたび、思わず立ち止まってしまい、本棚ひっくり返したりもしながら、だから、読了にずいぶんとかかってもしまった。

 で、ふと、わしが東京の大学を選んだのは、「なんでだっけ?」と思い出してみた。
 「そこしか受からなかったから」とは、ずっと思ってたんだけど、考えてみると当時わしは、地元・関西では到底「ムリ目」の大学ばっか受けて、東京ではバカ大ばかりを狙って受験していた……と思い至った。

 東京へ行きたかった……て言うよりか、家を出たかったのだな。
 で、ムリヤリに「そこしか受からない」状況を作り出してたのだと思う。

 確か、誰とも相談せず、東京の大学何校かに願書を出して、受験前日に「明日から東京へ受験に行くから交通費と宿泊費をくれ」と、親に言ったような気がする。
 で、中の1校だけに受かって、勝手に下宿を決めたがしかし、経済はすべて親掛かりにて東京での生活をスタートしたのであった。
 今となっては、すべて「事後承諾」のそれを許せるだけの経済力があった親に感謝、だな……


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2008.5.2(金)

 告知板にアップしたのは、京都・トランスポップの今月のイベント
 「ジム・ウードリング展覧会」なのだった。

 この4月から毎週1回、京都へ通ってんので、折を見てトランスポップにも、久しぶりにお邪魔してみようか、と思っている今日この頃なのでした。

 その京都行き、「大覚寺さん」の大学で講座を持つことになったので通ってんだが、これがなかなか面白い。
 以前から、大阪の専門学校でも講座を持っていて、こちらも今なお継続中なのだけど、専門学校では、技術論や「ノウハウ」に比重を置かざるを得なくて、時として窮屈にも感じていたのだ。
 それが、大学では「マンガ論」という概論の講座なので、自分なりの「漫画観」や「表現論」など語ってんのだけど、やってみるとこれが面白い。

 講義の準備のためにあれこれ調べていくうち、自分でも以外に思える結論みつけたりして、講義に使うだけではもったいないので、とりあえずこのサイトで、「マンガ論」のコンテンツなども構築してみようか、なんてことも考えております。

 これからやっていきたい、と思ってんのが、日本の漫画シーンの中での、「手塚治虫、無視していいよ」論。
 子どもの頃から、手塚治虫の漫画にある、いわゆる「手塚ヒューマニズム」てものに、なんだか胡散臭さを感じていたのだけど、あれこれ調べていくうち、それは「確証」になっていったのだ。

 手塚治虫は、決して「漫画の神様」なんかじゃない。
 とは、今ははっきりと言える。
 むしろ、日本の漫画とその表現にとって、「害」となった部分の方が大きいのじゃないか、とさえ思えてきた。

 それから、彼が「ガロ」に対抗して作った雑誌「COM」は、「ガロ」の世界観と、その「メディア」としての幅の広さには、遠く及びもつかなかったのは周知だけど、この「COM」、日本の「漫画」を、現在の「オタク文化」と呼ばれる、狭い世界に閉じ込めるきっかけのひとつだったんじゃないか……とも思えてきて、これから、それをじっくりと検証してやろう、とも思っているのだった。

 とは言え、手塚の「劇画」作品に関しては、わしも決して嫌いではない、のだがね。
 しかし、その手塚が、「ガロ」の白土三平『カムイ伝』の人気と評判に嫉妬し、「僕にも、それくらい描けます」と大見得きって、「COM」で連載した「火の鳥」は、はっきり言うて「クソ」です。はい。


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2008.5.6(火)

 タイガースの調子が、すこぶるに良い。
 本日(5/6)現在で貯金がなんと「13」!
 まだ一桁しか負けてないのは、12球団唯一、という快進撃である。
 例年調子を落とすGW期間中にも、危なげなく勝ち進んでこの成績。

 本塁打の数では「12球団中最低」にかかわらず、「得点」がリーグトップ、てことは、打線の繋がりが、いかによろしいか、てことなんだな。

 新井、平野、という新顔が入った打線が能く機能して、効率よく点をとってんだな。
 今年のタイガースは、実にうまい補強をしたもんだ。
 これで、昨年後半に活躍した林、桜井などが戻ってきたら……どうなってしまうのだ。「うはうは」ではないか。

 しかし……
 2位につけてるドラゴンズが、つかず離れず、ぴたりとついてきてんのが……

 なんだか「ヤ」な感じでも、あるのだよな……

 とまれ、今後とも、気をひきしめ、しっかりやっていただきたい。
 と、かように思う連休最終日、なのであった。


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2008.5.9(金)

 別冊さかむけ本通り「怒涛の読破録 先月これだけ読みました」そのVOL.65、08年4月の巻、更新しております。
 今回の読破人は、みなみさん(初登場!パチパチパチ)、立読師さん、小牧さん、法螺さん、えいみさんにわし、という構成でございます。

 で、本日は、ちょいとこれからやることもあるので、取り急ぎ更新のおしらせだけを……

 では、でわ。


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2008.5.13(火)

 本日火曜日は、京都の大学への出講日。
 週に一度、嵐山まで通うのは、なんだか遠足気分でヒソカに楽しみにもなっている今日この頃なのだった。
 帰りに時間があるときには、町家の建ち並ぶ路地から路地に散策してみたり、寺町新京極界隈の古本屋をひやかしたり、なんぞもやってます。

 先月の「風景」に掲げていた太秦あたりも、歩いてみるとなかなか気分の良い界隈です。

 大学から、桂川をはさんで対岸には、松尾大社の杜から嵐山まで連なる山が見えるのだけど、本日ふと見ると、その山肌のあちこちが、薄褐色の「カサブタ」みたくに「むりもり」と盛り上がっているではありませんか。
 一瞬「?」と思ったけど、山の大部分を占める照葉樹の、その若葉が芽吹いていたのですね。

 そのカサブタは、あちこちにかなりの広範にわたって出現していて、山肌が、まるで「全身火傷」を負ったような、ケロイド状を呈していたのだけど、植物の生命力というのは、時に暴力的にまで凄まじいな……としばらく呆けて眺めていたのでした。

 肝心の講義の方は、本日はちょっと疲れていて、舌はまわらないわ、おまけに途中でパソコンがフリーズしやがって、「あわわ」とへどもど言い訳しながら電源切って再投入したりしてると、まわらない舌と相まって、よけいにしどろもどろになるわ……で、散々だったのだがね……


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2008.5.16(金)

 4月からこちら、いろんなことに追われていて、コンテンツやブログの更新がままならない。
 法螺さんから4月のはじめにもらった「紙-1」の画像も、コンテンツにまとめようと思ってたら、いつのまにか5月も半ばになってしまった……
 「文藝からす」には、途中で止まったままの小説もあるし……

 かと言って、1日ずっと家にいればいたで、なんもしないで「だらだら」過ごしてたりも、するのだがね。

 今日は専門学校の方で、スタジオ・ジブリのアニメ「海がきこえる」を教材にして、これの人物設定やドラマを検証。
 わし、個人的には、ジブリ・アニメアニメでは、これと「トトロ」と「魔女の宅急便」の3本、この3本に、一番感情移入ができるのよね。
 「ナウシカ」とか「ラピュタ」はなァ……だいたいがわし、「ファンタジー」てのが、苦手なんです。

 で、「海がきこえる」なんだけど、1980年代、高知の中高一貫進学校での、青春恋愛ドラマ。
 「大人」と「子供」を行ったりきたりしながら揺れ動く高校生たちの心情てのが、とても丁寧に描かれてます。

 この中で、高校2年の3学期、3月に「修学旅行」というエピソードがあるんだけど、「高2の3学期に修学旅行なんて、変わったガッコやな……」と、ふと呟いたところが、「それが普通だ」との大合唱を受けてしまった。

 そうだったんですか……
 わしらの高校では、修学旅行は「高2の1学期・4月」だったのだが……そっちが「変わって」たのね……

 あらためて「世間の常識」てのを教えていただいた、本日でした。


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2008.5.20(火)

 京都・寺町通りの、漫画やゲームやフィギア扱う店の店先には、等身大の「ドラえもん」フィギアが置いてある。

 本日、そこを通りかかると、観光客らしい若いアメリカ人男女数人が、やや興奮した面持ちでそのドラえもんに駆け寄り、「ドラ!」「ドラエモン!」と口々に叫びながら、代わる代わるドラえもんと並んでは「記念撮影」に及んでいたのであった。

 アメリカ人にとっては、金閣寺よりも舞妓よりも、ドラえもんこそが「ニッポン」であるようだ。
 「記念撮影」終えた彼らは、その後嬉々として店内に消えていったのでありました。

 そういえば、かつてのTVアニメ「マッハGO!GO!GO!」を、ハリウッドでは「実写」版としてリメイクしたらしいな……なんて雑誌の記事を思い出しながら、やけに蒸し暑くなった京都の街を、実際生ビールでも「かっ」とやりたかったけど、我慢しながらレロレロ歩いていった、本日の昼下がりなのでありました。


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2008.5.24(土)

■経堂物語 ~月がとっても青いから~

 小田急経堂駅から徒歩15分、京王線桜上水からも徒歩15分という、世田谷船橋の下宿に住んで一ヶ月も経つと、東京暮らしにもだいぶ馴れてきた。

 新宿や渋谷や池袋などの盛り場もひととおり見て歩いて、池袋は遠いし新宿はどうにも騒がしくて、買い物や遊びに使うのなら「渋谷か下北沢だ」なんてことも決めた。
 文芸座とか並木座とか、安く映画を見に行く「名画座」の、おおよそのところも把握した。
 漫画を含めた、当時の「好み」の本を買うなら、渋谷の旭屋(旭屋が東京にもあったのは以外でありがたかった)か新宿の「模索舎」だな、てのもわかった。

 そんな5月のある夜。
 下高井戸東映で『京阪神殺しの軍団』を見たその夜だったと思うのだけど、部屋でインスタントラーメンの晩飯済ませて横になったらそのまま寝てしまい、真夜中に目覚めてしまったのだった。

 も一度寝付こうとしても寝付かれず、散歩に出ることにした。
 ぶらぶらと希望が丘団地まで歩いた。
 ショッピングセンターの酒屋の前に自動販売機があって、そこでなんとなく「トリス」のポケット瓶を買った。当時はまだ、真夜中でも自販機で酒が買えた。

 それまで、人に誘われて酒飲んだり、連れ立って飲みに行くことはあったけど、自分からススンで能動的に酒を買ったのは、思えばあれが「最初」でした。

 公園のベンチに座って、ポケット瓶を傾け、「ごくごく」とまるでコーラのようにウィスキーを飲んだ……ら、むせた。ゲホゲホむせた。
 だから残りは「ちびちび」と、なめるように飲みながら月を眺めては、「お、なんだか、オージみたいで、ええんとちゃう?」などと、当時かぶれていた鈴木翁二の漫画をきどって、「にやり」と笑ったり……

 翌日、目が覚めたらもう昼過ぎで、学校は自主休講に決めて、銀座の並木座まで映画を見に行った。
 わしは、19歳だった。


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2008.5.27(火)

 しかし、なぜなのだ?

 なぜJRは、わしが乗るたンびに遅れるのだ?
 こないだ……つーてももうだいぶ前だが、あんときは淀川の鉄橋の上で20分も停まりやがって、大阪から神戸まで1時間もかかったし……

 とゆーよーなことが度々なので、極力JRは使わないようにしていたのだ。
 が、本日学校終えて四条河原町へ出るつもりで乗ったバスで、またもや眠りこけ、目が覚めたらバスは終点の京都駅なのだった。

 地下鉄で四条烏丸まで戻って阪急に乗り換え……てのもなんだし、電車賃は倍ではあるが今日は神戸まで乗り換えなしのJRで帰るか……と思ったのが第一のマチガイ。

 新快速は混むので、急ぐわけでもなし、快速電車で座って帰ろう、と思ったのが、マチガイの第二であった。
 電車はすぐにやってきて、乗り込んだ……はいいが、これが京都を出てすぐにノロノロ運転に変わり、やがて駅と駅の間で停まってしまうではないか……

 「ああ……やっぱり……」
 どこぞのバカが線路に入って、「ただいま安全確認中……」とのアナウンスが……
 「そんなヤツ、轢き殺したったらえーのに……」
 とココロで毒づいてると、 隣の新快速の方の線路は問題ないらしく、のろのろ動いては停まるこっちの電車を、すいすい追い越していく。
 「ああ、あっちに乗れば良かった……」

 結局、途中で3本の新快速に追い越されながら、三宮まで1時間と40分ばかりかかった……

 まあ、おかげさんで持っていた『ものがたりゆんぼくん』(西原理恵子)上下2巻を車中で読み終えられたが……
 『ゆんぼくん』以前に5巻ものの単行本で読んではいたが、「ものがたり」部だけを抽出したこれを、あらためて読んでみると、これはものすごいドラマであるなあ……と、西原の天才に感服しながら、座り詰めで痛くなった尻をあげたのであった。


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2008.5.31(土)

 大学では、ただいまは「漫画の歴史」を、独断と偏見と偏向まじえて個人的に好みでない(手塚治虫とか……)のは一刀両断にしつつ、「前史」からはじめて戦後、そして60年代と進めてきて、先日ようやく「70年代」に到着。
 「手塚なんぞ読まんでえーから、白土三平読め~~~っ!つげ義春読め~~っ!」
 と叫んで、先般の授業を終えたのでありました。

 で、60年代にしろ70年代にしろ、今の学生さんたちには、コトバだけではその時代の雰囲気、てのはわからんだろう、と、「YOU TUBE」から、テキトーな映像を探し出してきて、その時代のフンイキてのを、まず見てもらってんのだった。
 「1960年代」とか「1970年代」てキーワードで検索すると、これが結構あるんだ。こんな風に。(←「リアルプレーヤー」で開くはずなんだけど……開かなかったらこちらで

 ↑こんな風に、映像にはたいてい、その時代の「音楽」が、バックに流れてんだけど……ちなみに「60年代」の映像には「フランシーヌの場合」が流れてた……その「歌」が、滅法ウケてしまうのでありました。上の「シモンズ」とか「戦争を知らない子供たち」や「赤色エレジー」が……
 わしらにとって「懐かしい」歌や音楽も、はじめて耳にする若い人たちには、滅法目新しく「面白い」モノに映るのね。

 「戦争を知らない子供たち」に対しては、「CD買いたいから、正確なタイトル教えて」と、授業の後で言ってきた学生が約3名。
 教えたけど……売ってんのかね……?

 なるほどPerfumeの「テクノ・ポップ」が今更にウケている理由が、わかったような気がした。

 で、次回は「80年代」で、さきほどまで、「80年代」らしい映像を探していたのだけど……
 「80年代だと、やっぱYMOとかサザンとか……か?洋モノでビリー・ジョエルなんかも……」
 などと、いつのまにか「昭和歌謡・ポップス大全集」を編集してんのであった……本末転倒……


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2008.6.4(水)

 久しぶりのコンテンツ更新は「怒涛の読破録 08年5月に読んだ本」なのだった。
 読破人は、みなみさん、法螺さん、じゃどさん、えいみさん、小牧さん、立読師さんと、どんじりにわしなのでした。

 電車から、白い花が咲いてるのが見えて、ふと思ったのだった。
 「卯の花」の「卯」てのは、つまり「卯月」だよな……と。
 その「卯月」てのは、陰暦であるから、新暦ではただいまの「5月」で、だから「卯の花が匂う垣根にホトトギス早やも来鳴きて……」と、卯月はすなわち「初夏」なのであるな、と……

 確かに、「卯の花」は4月じゃなくて5月に咲くもんな。「皐月晴れ」は「梅雨の晴れ間」のことだって言うしな。

 ちなみに、わしが子どもの頃、我が家の「雛人形」は4月に飾られ、「鯉幟」は6月に揚げておったっけ。
 「七夕」は、8月だった。
 「正月」は、さすがに1月1日だったが、しかしそれでも「旧正月」はしっかり残っていて、なにやら正月が2回あるような……そんなだっけか。

 岩井俊二に『四月物語』という、短いが佳品の映画があるのだけど、この中で松たか子演じる主人公が「楡野卯月」というのです。
 「四月物語、だから『卯月』で、なるほど、なるほど。」
 と思ったのだけど、ふと、陰暦の「卯月」は、今の「5月」だと気がついて、この主人公は「卯月」じゃなくて「弥生」ちゃんが良かったんじゃないか……などと……


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2008.6.7(土)

 映画『相棒』の出来が、すこぶるに良い。
 と小林信彦が手放しでほめていた。
 
 わしは見てないんだけど、小林信彦の「おもしろい」はけっこうアテになるので、おそらく良いできなんだろう。
 「日本映画にはきわめて稀な『バディ・ムーヴィー』の傑作」とも。

 なるほどな……
 思えば水谷豊という人は、『傷だらけの天使』という、バディ・ドラマでもって、まず最初にブレイクした俳優さんですもんね。

 ワタクシ的には、しかし日本映画、「バディ」は不得手だけど、「3人トリオ」となると、結構いいキャラクターたててくる……とは思うけど。

 で、「おお、そうじゃ、そうしよう」と、次の授業のテーマを「バディ・ドラマ」てことに、ドロナワ的に決定し、いろんな「バディ」を思いつく限りに列挙して……みたのだが……

 『真夜中のカウボーイ』、『俺たちに明日はない』、『明日に向かって撃て』、「イージーライダー』、『スケアクロウ』、『スティング』……

 おいおい、アメリカン・ニューシネマってヤツのほとんどが「バディ」ではないか……と今頃に気づいた、本日なのだった。
 あ、『フレンチコネクション』とか『狼たちの午後』なんかも、やっぱ「バディ」だよな……

 ニューシネマは「バディ・シネマ」だったのね。

 新しいとこでは、毛色は若干違うけど、『LEON』なんか、やっぱ「バディ」の傑作だと思うのだがな。


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2008.6.12(木)

 映画『LEON』は、やっぱ「バディ・ムーヴィー」でも、最高の「バディ」でありました。

 先週ここで、『相棒』とバディ・ムーヴィーに触れてから、もいっぺん、見直してみたのだった、『LEON』。
 ジャン・レノの「レオン」と、ナタリー・ポートマンの「マチルダ」、最強の「相棒」です。

 「敵役」では、ゲイリー・オールドマン演じる「スタンフィールド」の、政府の麻薬捜査官とは最初はわからんくらいのキレッぷりがいい。
 レオンに仕事を世話するマフィアの「トニー」も、とても胡散臭くていい味出してるし、この映画、それぞれのキャラクターが、とても綿密に丁寧に作りこまれている。

 が、やっぱり、映画『LEON』は、“純真無垢なテロリスト”レオンと、そのレオンを慕うマチルダ、この二人の「相棒」ぶりにつきる、と思うのだ。
 ことに「12歳」のマチルダ演じたナタリー・ポートマンは、撮影当時の実年齢は「13歳」と聞けば、かつてやはり13歳で、「12歳の娼婦」演じた『タクシードライバー』のジョディ・フォスターを彷彿するのだが……
 はっきり言うて、その演技と「美少女」ぶりでは、ジョディ・フォスターをはるかに越えておるね。

 でもこの映画、あらためて見てみると、全編にわたって「アメリカン・ニューシネマ」を思わせるカットやシーンが、とても多くて、ひょっとしてリュック・ベッソンの「ニューシネマへのオマージュ」なんじゃないかと思えてきた。

 ことにラストシーン、マチルダが、レオンの大切に育ててきた鉢植えを、大地に植えてやる……てシーンなんて、『真夜中のカウボーイ』や『スケアクロウ』でのラストシーンが、なんだか背後霊のように、その後ろに見えてしまった……のは、わしだけだろうか?


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2008.6.20(木)

■経堂物語 ~桜上水~

 東京で最初に住んだ下宿は、小田急・経堂駅から徒歩15分、だったのだけど、小田急の北を走る京王線、桜上水の駅から歩いても、やはり15分ほどだった。

 京王線と小田急は、同じ新宿を基点にして、鋭角の放射線描きながらそれぞれ西へ向かう路線で、新宿から頂角約30度で展開する二等辺三角形の、経堂-桜上水という「底辺」の真ん中あたりが下宿なのだった。

 大学は、この京王線の駅近くだったこともあり、当初はよく利用もしてたんだけど、経堂駅近辺の方が賑やかなのに気づいて後は、あまり行くことがなくなってしまった桜上水なのだった。

 「桜上水」……その名は妙に思わせぶりできれいなのに、駅とその周辺は、名前に反してやたらと殺風景なのだった。
 隣の下高井戸の方が、こちらには映画館などもあったし、よほど賑やかなのだった。

 駅の横手の踏み切り渡るとすぐ、道幅はあるのに首都高がその上空をふさいで昼なお暗い甲州街道に突き当たり、そこから先に進もうという気を萎えさせる街でもあった。

 最近、地図サイトを検索していたら、偶然その桜上水近辺が開いたのだけど、ここって、その甲州街道を渡った北側に、その名の謂われの「上水」があったのね……と、いまさらに気づいたのだった。

 ああ、あのときあそこで、もう一足先に進んでおったら……
 と思うことは、年を経るごと増えてゆく。

 桜上水の駅から、甲州街道とは反対、下宿に向かって「荒玉水道道路」を南へ歩いていた昼下がり……
 道沿いの畑には菜の花があったから春だな。
 どこかでラジオでも鳴ってんのか、「ビューティフル・サンデー」が聞こえてきたのだけど、そのときの気分とはまるで裏腹な歌だったから、心で「ちぇっ」と舌打ちくれて、ぼとぼと歩いて行った……あれは、いつごろだったっけね……?

 あのときのわしは、「ひと足」先に進んだのだろうか?


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2008.6.24(火)

■掘り出し物

 久々に、古本の「掘り出し物」に遭遇した。
 それは、「ブックオフ」の「100円均一」コーナーに、あったのだった。

 武田繁太郎『芦屋夫人』(東京文藝社・1973年刊)。発売当時の定価は550円で、B5判並装。

 武田繁太郎つー作家は、本日初めて知った……調べてみたらば、大正8年神戸生まれで昭和61年に66歳で亡くなっている。
 芥川賞の「候補」には何度かなって、新珠三千代主演のテレビドラマ「自由が丘夫人」なんてのもモノした人らしい。

 ……なんつーことは、はっきりゆーてどーでもいいのだ。
 「掘り出し物」つーのは、この本には、最初にこれを買ったであろう人の、「書き込み」があったのだ。
 しかも結構長い。

 本文が終了した巻末の裏見返し(……つーのか?)、奥付頁の手前のとこに、「読後感」と題した一文が、えらく達筆のペン字で書き込んであったのが、こいつを「即購入」した理由、なのですね。

 全文引用してしまおう。

 「読後感
 真紀子(注・小説の主人公)は終戦の年二十七歳であった。
 私より一つか二つ年下のこの女性は、私の神戸での舞台に生きていた人である。それだけにこの小説は私には身近に感じられた。
 道鏡(今東光)らと並んで戦後十大エロ小説と評価されている小説であるが、読んだのは初回。
 高知出張の帰途、高知駅の売店で見つけ、宇野に連絡線が着いたとき最後のページを繰っていた。
                          昭和四八年五月三十日」

 いいなあ、好きだなあ。
 こーゆー風に律儀にも、読んだ本の感想をその本の巻末に書き付けるの。

 「私の神戸での舞台」ということは、この人は、戦前から戦後にかけて神戸に住んでいたのですね。
 なんの仕事をしてはったんでしょうね?
 「高知出張」は、営業でしょうか?
 そのときには、すでに神戸を離れていて、遠い異郷で目にした「芦屋」の文字に思わず魅かれて、長い列車と船旅のつれづれに、これを買ったんでしょうか?
 帰りには、久々に神戸の街に途中下車したりも、したんでしょうか?

 古本の「書き込み」てやつは、こんな風にいろいろとその本の元の持ち主のこと想像させてくれて、わしゃ、とても好き。

 ではこれから、「戦後十大エロ小説」のひとつを、堪能させていただきます。


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2008.7.1(火)

■躑躅

 躑躅という字は、髑髏という字に妙に似ていて、漢字で書くと花の名だとはとても思えません。

 その躑躅が真っ赤に、真っ赤が溢れてこぼれるほどの真っ赤に咲いていて、なにげなくみやった窓の、四角の枠はその真っ赤でいっぱいで、わたしは心底たまげてしまった。

 わたしは、しばらく放心したように立ち尽くしてたのだと思う。
 部屋の中に呆然と立ち尽くしながら、ふと手の甲で目をこすってみたのは、わたしの目が、あの人の返り血でもって赤くかすんでいて、だからあんなにも真っ赤に、血のように真っ赤に燃えて見えるんじゃないかと思ったからなんだけど、いくら目をこすっても、躑躅の真っ赤は消えずに真っ赤なままなのだった。

 窓の外の躑躅から目をそらせて振り向くと、胸から躑躅の赤と同じ赤い血を、どくどくと流したあの人が、目を見開いたまま畳の上にひっくり返っていて、さてこれをどうしようかと、わたしの思案を現実に引き戻したのでした。

 結局わたしは、あの人はそのままにして、窓の雨戸だけを閉めて……躑躅の花が見えないようにして、それだけであの部屋を後にしたのですが、電車に乗ってこれからどうしようかと思案にくれてる間も、あの窓いっぱいの躑躅の赤は、目に焼きついて離れずに、ふと見あげると電車の窓すら、躑躅の真っ赤に染まってたりもしていたのでした。


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2008.7.5(土)

 別冊さかむけ本通り「怒涛の読破録 先月これだけ読みました」VOL.68 08年7月号、本日更新。
 今月の読破人は、みなみさん、法螺さん、小牧さん、えいみさん、立読師さん、それからわしでした。

 で、本日も勝って、ますます「孤高の一人旅」の様相を呈してきたタイガース……なのだが……

 たとえば、今のままのゲーム差、またはもっと開いてシーズンが終わったとしても、やっぱり、あれやるのか?クライマックスシリーズ。

 やるのはいいが、しかし、「出場資格」をですね、「順位」ではなくて、「ゲーム差」にした方が、よかないか?
 たとえば1位-2位-3位の、それぞれのゲーム差が「6ゲーム以内」で出場資格を得る、と。
 それ以上開いておれば、たとえ何位につけていようが出場資格はなし、て風に、しません?ねえ?


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2008.7.11(金)

 久しぶり、実に久しぶりに更新したのは「爆裂!!クソ日記 がんばれ、わしの括約筋」なのだった。
 今回は、「便所物件」の話題です。はい。
 画像も何枚かアップしました。

 ただいま、ブックオフで「100円」(しかも、文庫じゃなくて単行本が)にて求めた、小林信彦「イーストサイド・ワルツ」てのを読んでます。
 この著者にして「最初で最後」の恋愛小説、らしい。

 そーいえば、小林信彦の「恋愛小説」って、ないよな。

 56歳、中年の作家が、20代の若い女と「恋に落ちる」オハナシなのだけど、「小林信彦だな」と思ったのは、その主人公の作家は、「生まれも育ちも東京・山の手(南青山)」なのだけど、これが、この主人公の「中学以来の親友」である「下町両国育ちの商家の旦那」とともに、「熱烈なスワローズ・ファン」なのだった。

 これが「生まれついての巨人ファン」なんて言われたら途端に鼻白んでしまうけど、スワローズファンという、その「距離感」というかバランスというか、なんというかそのあたりが、とても小林信彦で、さらにまた「東京