
| 日隆聖人 大本山本興寺は、応永27年(1420)に日隆聖人によって創立された。 日隆聖人は、至徳2年(1385)10月14日に今の富山県射水郡大門町に桃井尚儀、益子の子として御生誕された。 日隆聖人は、幼少にして越中遠成寺に入り剃髪得度され、名を深円と改め、やがて京都妙顕寺に日存、日道両聖人を訪ね、第4世日霽上人の門に入り慶林坊日隆と名を改めた。 妙願寺に在って法華経の奥義を探求し、日蓮大聖人の教えを再興するために立ち上がられた。 寛正5年(1464)2月25日尼崎本興寺で入寂される。御年80歳。 大本山本興寺の草創 尼崎に本興寺が建立されたのは応永27年(1420)である。 京都で布教を続けられていた日隆聖人は、当時の堕落した法華信仰を糺し、日蓮大聖人の示された正統な法華信仰を復興するため、応永22年(1415)仏光寺通りに「本応寺」(後の本能寺)を創建し、本門八品上行所伝のお題目を人々に説き、誤った信仰を伝え妙本寺の月明を諌めたのである。これを怨んだ月明達は応永25年、本応寺を破却し、刺客を送って 日隆聖人の殺害をはかった。聖人はかろうじて難を逃れ、北河内の三井に留まり円海法師を破折し、本厳寺を創立、尼崎辰巳の浜に米屋次郎五郎を訪ね、ここに止宿し布教されていた。 摂津の管領細川満元公は尼崎琴の浦に館を設けていたが、この折、満元夫人が懐妊し、男子誕生を切望していた。京都から来た旅僧日隆聖人に男子誕生の祈願を願い、無事男子が生まれたのであった。満元公は 日隆聖人に感謝し、精舎の建立を願い出、若宮八幡宮の境内に本興寺が創立されたのである。聖人三十六才の時であった。 日隆聖人は本興寺を拠点に布教を展開、3年後の応永30年には、 日像聖人布教の聖地に日慶聖人が妙蓮寺を創立したが、教学の師である日存・日道両聖人とともに日慶聖人をたすけ、また、故郷越中へ布教し、 家老職であった桃井元成の邸を寺とし、元成寺を創立した。さらに『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』を著して、日蓮大聖人の正義再興を宣言し、永享5年(1433)六角大宮に如意王丸の寄進により、破却から18年目にして本応寺を再建、「本能寺」と称したのである。 教えを伝える「御聖教」 京都本能寺、尼崎本興寺を中心に日隆聖人は近畿・中国・四国と各地へ布教を続けられ、堺に顕本寺、南河内の加納に法華寺、敦賀に本勝寺、色ケ浜に本隆寺、兵庫に久遠寺、岡山新庄に本隆寺、牛窓に本蓮寺、四国宇多津に本妙寺を次々と創立、病人を救い、霊水を掘り、人々に法華経の功徳を語り信心を植え、「本因下種」のお題目こそ人間が菩薩の心に目覚め、国を救う教えとなることを説かれ歩まれたのであった。 日隆聖人はこのように布教者として偉大であるばかりでなく、教学者として、日蓮大聖人の教えを正しく伝えられた法華宗再興の導師であることを忘れてはならない。 その著述は三千余帖と称され、永享8年(1436)に著された「御書文段集」より、康正3年(1457)73才の折りの『開迹顕本三大部略大意抄』の著述まで、法華経の解釈、宗祖の教義、信心のあり方に至るまで、滅後末法の法華信仰について示されている。 ことに享徳3年(1454)には本興寺の境内に「勧学院」を創立し、後世に教えを残すべく人材の育成につとめ、比叡山の学僧であった日忠・日学上人、兵庫尻池時宗真光寺の日与上人、種子島律宗日典上人など が帰伏し、この勧学院で学んでいる。 本興寺に格護されている「御聖教」 本興寺には日隆聖人の御尊像を安置する「開山堂」がある。この堂は文正元年(1466)第六世日与上人の時に建てられたもので、最初「御文庫堂」と称され、日隆聖人の御尊像を中心にして多くの著述を周りに積んで、御尊像を拝んでいた。 日隆聖人の徳を慕う老若男女は日夜この御文庫堂に参ることで御開山にお会いできる法悦に浸り、御開山と密着してお題目をお唱えしていたのである。 時にはお腹が痛いとか、熱が下がらない時、御文庫堂に参り、聖人が著された書物の端を手でちぎり、指で丸めて食べると不思議によくなるといった具合であったが、これは御聖教保存にとっては危機であった。 そこで当山第二十八世日顕上人は、御聖教を永久保存しなければ日隆聖人の示された大切な教えが失われることを憂い、貞享元年(1684)から、三千冊以上の冊子となっている本を一つ一つ整理し、内容を照らし合わせ、修復をし、これらをほとんど全て巻子本(巻き物)にされたのである。この作業には約3年間が費やされ、貞享3年正月の頃に完成している。これ には勧学院の僧侶や学生が手伝い、講中の信徒が浄財を寄進して完成したことが記録に残っている。 「御聖教蔵」の建立 当山八十三世日量上人の代、安政元年(1854)、高松の松平頼該公は日量上人を高松に招き、三日間にわたり高松八品講の集会で説法を催した。これがご縁となって金百両のお布施を基金とし、また頼該公の寄進とあわせて御聖教蔵が完成、全ての御聖教がこの蔵に収められた。この蔵は夏も冬も一定の温度を保ち、湿度も適正で、平成2年に完成した宝物 殿の建設には大変参考になったとのことである。昭和56年、この蔵に摂氏二千度の高温にも耐えうる耐火金庫を作り、御聖教はこの耐火金庫に収められた。 もちろん門外不出で、蔵を開ける時は山務職員執事ほか一名が必ず立ち会う事になっている。毎年11月3日の「虫干し会」には全ての箱の樟脳を入れ替え、防虫にも万全を期している。 このようにして守られた御聖教ではあるが、太平洋戦争の折、本興寺から持ち出されたことがある。 尼崎は工場地帯で、いつ戦火が伽藍を焼き尽くすかわからない。私たちにとって法華宗の命とも言うべき御聖教を戦火から守るための一時避難であった。 リヤカー3台に御聖教を積み、兵庫県三木市の本長寺まで運んだ。長い距離をおそらく終日はかかったであろう。運ぶ人たちも只ただ無事を祈り、お題目を唱えながら歩き続けたとのことてある。これにたずさわった方々は今は皆他界されている。 マイクロフィルムに収めて保存と拝読 御聖教の研究も次第に進み、『法華宗本門弘経抄」『開迹顕本宗要集』等、また最近は『法華天台両宗勝劣抄』が刊本として出版されたが、 平成4年、当山百二十九世大平日晋上人の代にマイクロフィルムに収め られたことは、研究者に喜ばれている。今年に迎える開宗七百五十年 記念に出版される日隆聖人御所持の『法華経』もこのフィルムが活用された。 以上 出典「無上道」2001年4月号より(一部読みやすいように編集しました。) |
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| 重要文化財 開山堂、三光堂、方丈、 日蓮大聖人所持の太刀「数珠丸」、 日隆聖人御木像 |
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主な年中行事 1 月10日 番神会 2 月節分 節分会 2 月25日 門祖(日隆聖人)御開山会 4 月 8日 釈尊降誕会(花祭り) 11月 3日 宝物虫干し会 11月12日 宗祖(日蓮大聖人)御会式 毎月 12日(日蓮大聖人) 25日(日隆聖人) 本山講が午後2時から行われている。 |
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| 太鼓櫓 御講が始まるとき、まずここで太鼓が鳴る |