宮沢敏文の里山ばなし(11)
2005年6月22日 木製ガードレールの独り言
長野県は、財政が厳しく、県議会議員10%、県職員・教員平均7%全国まれな給与カットも実施している。
 そんな現況の中で、貴重な県民の税金を使って、行政サービスを実施するのであるから、用途には細心の注意がはらわれなければならない。
 6月県議会に上高地、軽井沢等に木製ガードレール1億6800万が計上された。田中知事はテレビ等で盛んに自画自賛しているが、「県民にとってどれだけ必要なものか、実態はどうか」5月に安曇野豊科インター周辺と白馬地域を、6月に上高地を現地調査した。
 調査箇所いずれも、今まであるガードレールを抜いて、新たに設置しているのである。木製ガードレールは、普通のガードレールより3~4倍価格が高い上に、まだ十分使える施設(真新しいものもある)を壊して設置しているのである。
 上高地地区の調査結果は、崖が多く、落石や崩落が、随時起こっている場所を道路が走っている。当然、車が崖下の梓川に転落しないよう強靭なガードレールが求められる。現地では、すでにワイヤーロープ型の安全度が高いガードレールが設置され、自然の草ぐさにロープが隠れて、まさに自然と一体になっている箇所も多く確認できた。
『おとづれる人々の安全にも最善で、上高地の大自然と調和しているものをわざわざ費用をかけて撤去し、高価なものを知事の理念選考で、配備しなくてはならないのだろうか』という疑問を強くしながら、いっこうに改良が進まない長野県側の国道158号線を下ってきた。
 今の地方自冶体は、トップである知事、市町村長の意思で自冶体の方向が決まってしまう。しかし多くの理事者は、職員の調査や議会の提案とともに意思を決定している。しかし田中県政はべつである。多くの場で指摘を受けているが、先ず田中康夫氏が決め、その決定内容に従い、審議会のように決定プロセスが作り上げられるのである。
 他人の言うことを聞くどころか、「自分は正しい、田中康夫に異論を唱えるものは悪者」が田中哲学であることが見えてきた。
 チャーチルの『民主主義は最も悪い制度である。いままで存在した制度を除いては』の重さをひしひしと感ずるのである。
「濁り水 清き流れに 混ざりて 岩とぶつかり 魚を太やす」
「高く飛ぶ ひばりのさえずり 空に溶ける」    星辰
2005年6月11日 監査委員会の憂鬱

 チャーチルは「民主主義ほど悪い制度はない、今まで存在した政治制度を除いて」と民主主義について述べている。
 民主主義の意思の決定の原則は、一人でも多くの意思がその構成員の意思とされる。ゆわゆる多数決の原則である。
 ひとつの事を決定するため「決」をとる場合の前提は、合意の中で決定したルール(法律)を順守し、内容を正しく説明し、判断が間違わないようにすることである。この説明責任は、なかなか難しいテーマである。 
 例えば、平成の大合併が現在進行している。ほんの数%で合併がきまったケースもあれば、逆のケースもある。その町の財政状況や今後予想される出費(小中学校の建設など)それと国の制度の変更など、さまざまな要因を住民に正しく伝えることなく、感情や自分の考え方を押し付けるようなことは、理事者や職員、議員は戒めなければならない。あくまでもありのままを正しく伝えるところからスタートすべきである。
 長野県の議会運営委員会の基本精神は、全員合意であるが、歴代の委員長は、各会派の意見を重視し、また委員各位も相手の意見を尊重し、多数決の原則を意識しながら自分の主張との接点を探って「よりよき」を求めてきた。
 
 「田中知事の住所問題の一連の公金出費(審議会設置や裁判費用)は田中康夫氏個人の問題であり、税金で支払うことは認められない」と市民オンブツマンから返還請求があり、その取り扱いを審議していた長野県監査委員会では、4人の委員が、賛成反対に分かれて、結論が出ないでいるとの記者説明が、会を統括する代表監査委員からあったようである。その会見のなかで代表監査委員は、自分の考えのみを述べたとも聞いた。
 会の進行役は、大変であるが委員の意見をまとめ、プロセスと審議内容を正しく県民に説明するのが使命で、その立場のものが、自分の意見を記者会見し、後は各委員に尋ねてくれ、ではその委員会がスムーズに進むはずがない。
『和を持ってを尊ぶ』は日本人の精神だと思っている。
 今まで長野県政は、県・市町村とも「参加者の大人の合意」が重んじられてきた。限られた予算の中で、隣市町村同士が、譲り合うところと主張するところをあらゆるバランスを考え、取り扱いしてきた。
 しかし昨今、自分の立場がわからない公に勤めるものが多すぎるような気がする。残念である。
 「新緑に 異なるさえずり 重なり響く」星辰
2005年5月17日 白骨温泉の怒り

「昨年7月、田中知事が突然来訪し、衛生行政の指導的立場にある衛生部技監にビデオをとらせ、そのビデオを自ら『白骨温泉はまがいものの温泉だ』と全国放送させた行為以来、わたしたちは、すみやかに白色にこだわることを反省し、自然のままの姿に戻し、経営者・従業員の接客態度など全般を見直し万全を期している。にもかかわらず、訪れる客は前年度対比、50%を大幅に落ち込んでいる。これほどの影響があるとは、死活問題です」顔色がすぐれず、以前のような張りがない。
 山桜が深山の新緑の芽吹きの中に浮き上がる連休明けに沢渡からいっこうに改良されない県道を白骨温泉に伺った。
 昨年8月事件発生時に伺って以来であるが、連休明けはほとんど予約がないという。
 4月の後半復活した露天風呂の源泉を調査すると勢いよく、源泉が沸きあがり、湯量の豊富さがわかる。露天風呂のお客さんに尋ねると「いい温泉ですね、この肌に当たる体感が忘れられず東京からきたのですが、空いていて驚きました」湧き出る汗を拭きながら話された。
 最高権力者の自分よがりの行為によって、ここの人たちは、祖先が谷を削り、厳しい生活環境を工夫して、必死で築き上げた長い事業の歴史を、閉じなければならないところまで追い込まれている。
 自分を際立たせるために、テレビのレポーターまがいのことをする長野県の最高権力者。為政者ならその後のFlowができなければならない。県道改良も県費だけで進めてきたと聞いた。なぜ国補助事業に持ち込んで県財政が厳しいとき、国との共同事業を選択しないのだろうか。「奥地産業振興道路の改良版で対応されたら」と提案し、県の担当部に調査を依頼しておいたが、田中知事の信州独立国発想は限界に近づいている気がしてならない。
 もし自殺者でも出たものなら、知事の行為は、犯罪といえるだろう。
 『湯けむりの 絶えることなき 谷あいに 白き花結ぶ 石楠花の香り』 星辰
2005年5月8日 毘沙門天の花見酒

大正時代には4000名を超える村民が、養蚕を中心に生活し、強い絆で結ばれていた北アルプス展望の里、池田町広津地区は、歴史の薫り高く、村のあちらこちらで平安、鎌倉時代の仏像が静かに、現し世の喜悲をみつめているやさしい里である。
 村の中心には、長野県宝の毘沙門天が安置され、皐月の第一日曜日、心ある人たちが集まり、この村を守られる毘沙門天に感謝し、一年の無事を祈るお祭りが、八重桜が咲き誇る境内で開催される。
 この村は、昭和の大合併で3町村に分割合併し、今は、70戸の過疎の集落となってしまった。
 何とか元気出して、昔の賑わいを取り戻そうと、65歳を越えたいまでも村の若手の面々が、炭焼き、ハーブ栽培、さくらの里づくりと一生懸命である。とりわけ、昨年養蚕農家が絶えたのを惜しんで、急傾斜地の地滑りを防止してきた桑畑を守り、栄養が高く、カルシュウムなど牛乳の27倍も含む「桑」を加工し『桑茶』の商品化にもこぎつけた。
「天皇さまはお米を、皇后さまはお蚕さまを皇居で育てておられる。これが農耕民族であり、平和民族日本人の原点だ。桑は、広津の原点だ。なんとしても残す」と鼻息は荒い。

 一昨年から、家族を残し、独り中国ハルピン市から紡績工場に出稼ぎに来ておられる若いお母さんたちも、ふるさとの餃子や菓子を作って、集うようになり、ちょっとした国際交流の宴となった。法要後の宴が進むほどに、中国の若いお母さんの故郷を思う「北国の春」が合唱された。どことなくさびしいこの歌が、さくらの花びらとともに、独り暮らしや老人家庭の住む広津の谷に響いて流れた。

『目を閉じて さくらの間に 古えを聞く』星辰
2005年4月21日

 中国雲南省チベット地方の奥地シャングリラをおとづれたのは2002年夏だった。
 NPO日本雲南えんぎ協会が、初等教育の機会すらないこの地区の子供たちに会員が浄財を出し合って、小さな学校をプレゼントしたことがご縁で伺った。
 偽装流行に汚されていない純朴な子供たちに心洗われながら、ラマ教の総本山的寺院を訪ねた。
 長い階段を上って、若僧の修行と仏教社会の成り立ちを肌で感じながら、『間』の大切さを学ばせていただいた。
 ときの「間」は時間であり、ひとが「間」を持って人間となる。
『間』を考えるようになって以来、生き様が楽になった。
 昨夜の春の雪を溶かす雨の音を聞き、人の声に身を削る生活に追われる自分の姿に苦笑しながら、自然の四季の間をじっとかみしめる。
2005年4月11日 ちゃんめろ(ふきのとう)の香り

 平年より20日ほど雪解けの遅い新潟県県境の地、小谷村土谷の谷にいつもながらのあったかい老若男女の笑顔が集まった。
 この地では、秋の収穫を終わらせると男たちは、家族を残し、県内や近県にまで、日本酒づくりに出掛ける。そして春いつまでも残る雪の合い間から、黄緑黄色のふきのとうが顔を出し、苗代の準備のころまで家を空けるのである。「ふきのとう」は杜氏の里にとって遠く離れて暮らす一家の男が帰ってくる心待ちの象徴なのである。
 代々農地に恵まれないこの地に住むもの達は、厳しい自然を持ち前の忍耐と工夫する明日への心で切り開き、人と人との助け合いと自然との共生の中で生き抜いてきた。
 住む人があったかく純朴な接し方が心を熱くする。
 わたしのお付き合いも、もう10年を超えた。地すべりの多発地区で、平成7 年の梅雨災害では、生活環境はずたずたになった。 明治の代であろうか、歩いて2時間もかかる奥山から、手仕事で水路を引き、水田を作るという魂の村で、今も気よりがよく、大切にみんなで管理されておられるが、ともに泥だらけになりながら、復興に取り組んで以来、いつお伺いしても、親戚で迎えてくださる。
 4月9日、元気の出る話し合いの会に出掛けるとちゃんめろやらあさつきなど貴重な春の地産物で迎えてくださった。
 話は弾み午後7時にはじまった会は、もう一度「づく」出して土とにらめっこしようとなり、終始明るい雰囲気のなかで、真剣な会となった。
 高齢のため、杜氏をする方がほとんどいなくなり、出稼ぎで家を留守にする人たちが帰ってくる習慣はなくなってきた今、長い県会を終えてきたわたしを出稼ぎの慰労をしてくださるように、迎えてくださった。
 午後11時をまわっても帰る人がいなく、いつまでも笑顔が湧きあがっていた。
2005年4月3日 がん検診センター4月1日池田町にスタート

 「町の検診で、肺に数mmのガンが見つかり、早速手術を受け、元気になりました。老後は安曇野に永住し、地域集落の方々と仲良く暮らす喜びを感じていましたが、まさか命拾いするとは、もしあのまま都会ですんでいたら、巡回検診も受けなかっただろうし、このような検診ネットワークができていることが田園に暮らす喜びなんですね」畦の福寿草が心を和らげる弥生のある日曜日このお便りをいただいた。
 わたしが『がんの征圧』に力を入れていることを病院で知ってくださり、感謝と激励の思いで認めましたと結んであった。
 肺がんの世界的権威の信州大学名誉教授であられる曾根先生が安曇総合病院の院長として着任され4年が過ぎた。
 この間にがん検診は飛躍的に充実された。多くの患者さんが、早期発見で笑顔が戻り、患者の一人だった薄井功さんを中心に、ガンで亡くなる人を一人でも無くそうとがん検診をサポートする「ガンを征圧する会」が誕生した。
 そして今年4月より、新しく院長のなられた中川さんと富士見病院の井上院長、厚生連の滝沢理事長の肝いりで、中南信がん検診センターがスタートしたのである。
 わたしも、がん治療のレベルを上げることが大事だとあらゆる席で言い、汗を流し続けてきた。
 遠く家族と離れ、陽子線治療や国立がんセンターで治療を受けないでも、早期発見さえできれば、今住む地域で地域完結医療を受け、家族や友人とやすらぎと笑顔に囲まれて治療に専念できると信じるからである。
 どの分野でもそうであるが、優れた人とその精神は、後を歩く人材を育て、先進地域を創るのである。
 これらが育つ環境が醸成されて、始めて大きな成果が生まれるのであり、また継続的に設置されなければならないことは当然のことである。
 曽根先生は67歳になられた。明日から世界の学会で、合衆国へ出張されるとお聞きした。今後の先生の後姿に頭べを垂れながら、後に続くキラ星のかたがたの活躍を祈らずにはおられない。
 そしてこのキラ星が成果を挙げていただく環境を整備することは私どもに課せられた責務とまた肝に銘ずるのである。

2005年3月26日 住民主役の政治はそこの言葉で語ることから始まる

 長野県は、今年から「係をユニット」と改名することとなった。田中知事の発想だそうだが、「男女共同参画室をユマニティ」など一般住民が、わかりにくい改名が後を絶たない。
 お年寄りや若い人、ハンディを背負う人、全ての人にわかりやすい言葉で語るべきだと思う。
 田中康夫氏は、個人や国の名を出しながら説明する手法を用いるが、例を引く個人や国の政策に対して、全ての人が同じ認識で判断していない事例を、用いることがいいのだろうか。
 例えば、彼は一時、長野県政はスウェーデンを目標とすると主張したが、スウェーデンの県に当たる行政組織は、市町村との連携業務はなく、高校教育と医療分野しか担当していない。なにを目指すのか皆目理解できなかった。最近はこの主張の誤りにきずいたのか口に出さなくなったが。
 東京大学の大西名誉教授がよく言われるが、方言でもいい、その地域にずっと生きづく言葉で地方行政は、行われなければならないと思う。
2005年3月25日 なごり雪

 弥生のなごり雪は、春を知らせる暖かい淡雪なのに、別れの季節の寂しい雪でもある。
 長男の高校卒業の報告に、家内の母堂のお墓参りのため信濃町に伺った。生前、選挙や公務で留守がちな我が家の面倒をそれは細やかにみていただいた。手を合わせることなしに語れない人である。
 それとお彼岸には、家内と同じ信濃町出身で、昨年の暮れ岡崎市に住まわれる奥さんからの喪中はがきを受け取った中央大学出身の中村隆君のご実家へ、お年を重ねられたご母堂様のお許しを頂き、ご霊前に線香の一本もと心に決めていた。
 同じ師の下で大学浪人を経験し、ともに仕送りのない貧乏学生で、早朝3時におきて4年間ほとんど毎日新宿中村屋さんで,中華饅頭生産に汗した全てを分かち合った友である。
 昨年の3月 7日あっという間に、がんでお亡くなりになられたとお聞きした。涙が溢れてきて止まらなかった。さわやかなナイスガイで、歌うことが好きで、楽器もないのに調べをあわせて、よく歌ったものだ。 大学を卒業するとき、なにが原因であったかわからないが、彼が『なごり雪』を涙いっぱい溜めながら、歌ったことを思い出す。あれから30年が経つが、一度あっただけで互いの賀状を楽しみに無事を確認していた。
 不思議なものである。偶然にも、彼によく似たさわやかなご長女が、岡崎から国立大学合格の報告に来ておられた。悲しみを乗り越えて、希望をつかまれたことを話してくれた。お嬢さんに、なき友のなごり雪以降の30年間の「生き様」をみるようだ。
 熱い大学時代、歌を口ちづさみながら、逆風に挑んでいたさわやかな中村君がそこにいた。

2005年3月20日 温泉ソマリエ認定制度

 20年ぶりの大雪に驚く妙高高原にスキー客の入れ込み状況の調査に県議会総務委員会のごたごたの中を19日に伺った。
 白馬や栂池の雪に慣れているが、ここの雪の壁には驚かされた。3月最後の連休、スキー場の客は若者中心であるが少ない。
 昔のように夜行バスが、次々に押しかける時代は終わった。
「どう生き抜くか」それぞれのスキー場は知恵を絞っている。
『温泉ソマリエ認定制度』に興味を覚えた。 温泉の歴史、効能、楽しみ方、循環かどうかの施設説明など、赤倉温泉(妙高高原)をブランド化して付加価値を持たせていこうとする内容だ。この制度の生まれた経過や目的をお聞きしたが、温泉の特徴をもっとダイナミックにアピールしたほうがと思いながら、りっばな認定書を見つめていた。
 近年白馬も栂池もいい温泉が発掘された。 塩の道温泉、八方温泉、栂池・白馬乗鞍温泉など個性的で素晴らしい温泉であるがいまいち全国への知名度が低い。
 九州の湯布院は、駅に足湯のコーナーを作り、体感空間から宿へ客を引き込むことを含め、温泉地をアピールしていた。長野県の温泉認定のように、効能だけで誘客しょうとする手法だけでは、うまくまわらない。
 
 白銀の上を渡る風を、肌に感じながら、雪明りに浮かぶ峰の上の星を見つめる厳冬の露天風呂の爽快さはまた格別である。
 そして湯から出たとき、いただく自家製の氷のついた鼈甲色の野沢菜がなんともうまい。 ここが原点のはずであるが。

2005年3月12日 長野の名店暖簾をたたむ

 長野県の行政関係者にとって心安らぐ店だった高橋可津乃さん経営の小さなスナック居酒屋「可津乃」が3月末で店を閉じると聞き、85歳のいつも身奇麗なおばあちゃんの顔を見に伺った。
 卵焼きと昔懐かしいニシンの煮付けがおいしくて街の寄り合い所といった気軽さが人気だった。
 県議会議員になってから、よく仲間で激論を飛ばしながら、杯を上げたのもこの店のカウンターであった。
 本会議の質問や委員会で疲れているときなど、よく控え室へみたらし団子を差し入れてくださったり、早朝の6時ごろご苦労さまの電話で励ましてくださった。
 久しぶりの可津乃おばあちゃんは「もうだめ限界が来た。宮澤さん良くがんばっていい県議になったね、これからが本番。壊れた長野県をみんなで元に戻してね」と背中も曲がり立っているのも大変そうなのに目だけははっきりと話された。
 誰よりも長野県政をしっかり見つめてこられた気骨ある苦労人だ。戦後の混乱の中でお嬢さんを背中におぶりながら、人と人の絆を大切に、今日まで働き続けてこられた。
 「このごろの長野県庁はみんな目が死んでいる。知事が変わっただけで、他県より元気だった長野県組織がこんなに弱ってしまうとは、長野は景気が悪く、空きビルだらけで、店を閉めるところが多い。自分を捨て、県民を見つめられない知事ではだめ」このごろの口癖だった。
 寂しいことである。
 県政タイムスの中原社主のご母堂である。
2005年3月5日 指導者か独裁者か

 堤コクド前会長が保有株の虚偽記載、インサイダー取引等の疑いで逮捕された。 決断が早く、豪快で、私は一度もお会いしたことはないが、軽井沢や志賀の開発だけでなく、ウインタースポーツの重鎮で、冬季オリンピックなど長野県には、大きな影響力のあった人だけに、一つの時代の終わりと大きな父故堤康次郎氏の教えであった利益を求める企業家の原則である「一族の永遠の繁栄のための株扱いの教え」を守り通した賢い後継者のその手法が、時代の変化に対応できず終焉した。
 気になることは、絶対の権限者であった堤前会長の周りには、合法非合法を進言する環境がなく、真実と堤前会長の命令との間で苦しんでいた人が自殺までされたということである。さらに驚いたことは、自分を支え苦労してきた幹部の死を受けて、堤氏の最後の会見で、「事業の後継が、自社の中から生まれてきた。全ての責任は自分ひとりにある」と述べられ、自ら幕を引かれたことである。
 
 いま長野県議会で、言葉巧みな田中知事の情報操作や知事の個人判断による県職員への偏った情報・政策の押し付けなど、 県の情報管理のあり方、働きかけの実態を審議している。 
 県幹部職員が、田中知事の後援会の費用で田中知事から何回も飲食の接待を受け、知事の意とする方向へ結論を導こうとした事実などが明るみに出てきている。『独裁は情報管理から始まる』 驚くほど強い知事の権力。県職員の答弁は知事を守る内容で、おかしな部分がいくつも顔を出す。
 少し時間が経つとその偏った実態が必ず表面化すると思う。
 田中康夫個人が真ん中でなく、県政は国政以上に、あまでも「そこに住む人の日々の生活」が真ん中になくてはならない。
 多くの良識ある人々が田中氏から離れていっている。潮時を悟ってもらいたいと願うが。
2005年3月1日 SOの願い

 春の遅い白馬は真っ青に晴れ上がり、すがすがしく、世界から集ったアスリートのひたむきな息遣いが、雪の大地にこだまする。
 いつもそうであるが競技進行から駐車場整理まで大会を支えるスタッフの真昼の星の努力があってはじめてできるのだ。心からのお礼を申し上げながら、表彰式のプレゼンターを務めた。

  =2005/02/28突然のドラマ=
 笑顔いっぱいの喜びで両手を広げながら、わたしに抱きついてきた。不安と恐さで臨んだ競技前の緊張を乗り越え、見事にやりあげた喜びが痛いほど体から伝わってくる。突然のことなのに、よくがんばったご苦労さんと強く抱きしめ返していた。
 彼はこの長野で「勇気の翼」を確かに身につけたろう。
 同僚と体いっぱいに喜びを示しながら帰っていく背中に、天の恵み地の恵み人の恵みを祈りながら、もう一度「おめでとう」のことばを贈った。
               (白馬スノーハープ)


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