評論の窓

新聞などに掲載された駄文



目次   (* 印は無署名の記事)

以下は雑記。
トップページ「トピックス」の過去文など。

地理がないと こんなに困る!

「地理は確かに魅力があるし役に立つ。でもそればかり主張しても無意味だ」・・・私は2008年3月,日本地理学会のシンポジウム「未来を拓く地理教育―地理教育振興策の成果と課題」に参加したが,その場でも冒頭の思いを新たにした。なぜ地理の有用性を社会にアピールしても,科目「地理」の発展につながらないと考えるのか。それは,世界史にも日本史にも,地理と同様に魅力もあれば社会のニーズもあるからだ。世界史の専門家に世界史の魅力や社会での有用性は何かと問えば,われわれが地理のそれを語るのと同じように延々と語り続けることだろう。

ではどうしたらよいか。「地理を学習しない人が多いから今の社会でこんなに多くの問題が噴出してきている」ことを主張すればよい。集落地理を学んでいない多くの政官界人のために限界集落や奇妙な飛地合併などの問題が発生し市民に不利益が生じている。近隣諸国の地誌さえ十分に頭に入っていない財界人が多いから,日本はアジアでの地位を失いつつある。防災地理を知らない一般住民が常に自然災害の犠牲となる。自然と人間との相互依存関係が理解されていないから,乱開発による自然破壊がなくならない。その他多くの社会問題が,地理学習の不足を原因としているのだ。

地理は基礎学問と実学とを併せ持つ分野である。歴史学習にはないこの強みを活かさない手はない。

<2008年7月 古今書院発行「地理」 53-7号より>

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教育基本法改正案 国会に提出

与党の教育基本法改正案が4月28日、国会に提出された。6月18日までの国会会期をにらみながら審議がおこなわれている。前文と18条からなる改正案では、教育の目標とされた「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」との前文のうち、特に「我が国と郷土を愛する」の部分が議論の焦点となっている。いわゆる「愛国心」明記の是非である。

国を愛するという人の内心を法律で規定することに重大な問題があるのは確かだ。しかし、教育現場の立場から改正案を読むと、第十七条の「教育振興基本計画」の規定にも大きな問題があることが見えてくる。

第十七条では、「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針および講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」と記述される。政府(文部科学省)は教育に関する計画を独自に作ることができ、それを国会に事後報告するだけで施行することができるようになるということだ。教育振興の計画というものの、目指されているのは教育全般を文部科学省が規定することに他ならない。その規定は基本法の裏付けを持つという点で、強制力を持つことになる。

教育行政の役割は、現行法で「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」と明記されるように、あくまでも教育環境の整備に限られるべきだ。教育内容そのものを計画・実施するのは教育をおこなう者自身の役割であり、教育行政の役ではない。つまり改正案第十七条によると、従来の教育行政がその役割を大きく踏み出し、教育を全面的に支配しようとしていることがわかる。

このような教育の行政支配指向は「補則」にも現れている。現行法第十一条「この法律に掲げる諸条項を実施するため、必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない」との文言のうち、後半部が「必要な法令が制定されなければならない」と変更されている。学校教育は教師が生徒の実態に応じて動的に進めるものという教育の性質を考えれば、法令など最低限のものでよいという現行法の立場は理にかなう。改正案では、法令の制定が義務化されている。教師の自由にはさせず、法令ですべて制御しようという立場だ。 この法令主義は、改正案第十六条に端的に表現される。「教育は、・・・この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきもの」との新たな文言が導入された。

では、教育行政によってどのような教育内容が規定されようとしているのか。改正案の中間報告で示された「計画に盛り込むことが考えられる具体的な政策目標の例」によると、例えば「全国学力テストの実施」、「奉仕活動・体験活動の機会を充実し、小・中学校で全員が体験」など、明らかに条件整備の域を超え、教育行政が教育内容にまで深く関与するものがある。また「国際的な学力調査でのトップクラスを維持する」など、エリート中心の競争教育をあおりかねない内容もある。現在進んでいる行財政改革が教育計画にも取り入れられようとすれば、所得の格差が教育格差につながる恐れもある。

現行の教育基本法は、現行憲法に先だって制定された。いわば現行憲法の布石であった。つまり今回、教育基本法改正がおこなわれると、憲法改正の布石となりかねない。基本法改正が憲法改正に密接に関連していることも自覚し、今後の審議を注視していく必要がある。

<2006年5月 「茨城の教育」 946号より>

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つくる会歴史教科書問題を考える

教科書採択が終わる

今年8月、中学校で2006年度から使用される教科書の採択がおこなわれた。前回4年前の採択の時に議論を呼んだ扶桑社版『新しい歴史教科書』は、今回も検定に合格し、再び採択に臨んできた。この教科書のどこがどう問題なのか。いま改めてその内容を紹介し、問題点を明らかにしたい。

「新しい歴史教科書」とは

扶桑社版『新しい歴史教科書』は「新しい歴史教科書をつくる会」が作成した。「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、つくる会)とは、日本の侵略戦争を美化するという点で結びついた団体である。自由主義史観研究会(「自虐的」だとする近現代史教育を改革しようとするグループ)のメンバーらで構成されている。 つくる会教科書は2001年4月にはじめて文部科学省の検定に合格した。その年の採択では全国でわずか0.039%の採択率にとどまった。その採択率を10%にしようと、本年(2005年)8月の採択に際して、つくる会は各地でとりくみを強化した。採択結果は、都県立では東京都・愛媛県・滋賀県の3都県、市区町村立では全国583採択区のうち栃木県大田原市と東京都杉並区の2採択区のみとなった。私立の9校を合わせても、全国でわずか0.4%という結果に終わった。

では、実際につくる会教科書の記述内容を紹介していく。

神話を強調

「学習指導要領」の「歴史」の目標に「我が国の歴史に愛情を深め、国民としての自覚を育てる」という部分がある。つくる会教科書は、この部分を拡大解釈して、国家への忠誠心・愛国心を培うねらいが全編に貫かれている。その一例として、神話を多用することがある。神話を紹介し、日本は他国に例がない「天皇を中心とした神の国」であることを印象づけようとするのである。

天照大神の直系である神武天皇が日本の初代天皇となり、大和朝廷を作ったとする『日本書紀』の内容を紹介した上で次のように記述する。「中国ではしばしば革命がおこり、王朝が交代した。それに対し、天皇の地位は皇室の血すじにもとづいて、代々受けつがれてきた。……天皇にとってかわった者はいなかった。日本では、革命や王朝交代はおこらなかった。」【p.37】

最初は神話の世界の話だったのに、「天皇」がいつの間にか日本の統治者としての存在にすり替わっている。本文中にはその後もたびたび即位順の付いた天皇の系図が出てくるが、これにより生徒は、日本は神武天皇を初代天皇として代々受け継がれてきた万世一系の天皇が統治する国なのだ、と認識するだろう。教科書にある即位順の典拠とされた「皇統譜」には諸説あり、いまだその真偽が決着していない。それにもかかわらず、「皇統譜」を堂々と載せ、神話の世界と現在の天皇の存在を結びつけるのは大きな問題である。

武士道を美化

明治維新を、武士道と武士の自己犠牲の精神によって武士がみずから成し遂げた改革だとする。 「のちに幕末になって日本が外国の圧力にさらされたとき、武士が持っていた忠義の観念は、藩のわくをこえて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった。このような、公のために働くという理念が新しい時代を用意したともいえる。」【p.114】

「明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった。」【p.149】

明治維新は一般に、経済の発達により幕府の権力が衰退し、そこへ欧米列強の開国要求が強まる状況下で、支配権力の改革によって難局を乗り切ろうとする倒幕派武士が、民衆の運動も利用しつつ幕府を倒したと解される。つくる会教科書では、民衆に関する視点がない。

大日本帝国憲法(明治憲法)を絶賛

明治憲法の問題点にはまったく触れない。「祝砲が轟き、山車が練り歩き、仮装行列がくり出し、祝賀行事一色と化した」「天皇に政治的責任を負わせないこともうたわれた」「国民は法律の範囲内で各種の権利を保障され」【p.160】などと記述する。

 一般の民衆は、憲法の内容もほとんど知らずにいたのが実態である。天皇については、陸海軍の統帥権が憲法に明記されている傍らで、政治責任がないとの明らかな矛盾。国民の権利は、「法律の範囲内で認められた」のではなく、基本的人権さえ大きく制限されていたのが実際である。選挙権は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子だけで、総人口のわずか1.1%にすぎなかった事実からも、国民の権利が甚だ不十分であったことは明らかである。

教育勅語の都合よい意訳

教育勅語の一部要約を資料として掲載している。この中で、「国家や社会に危急のことがおこったときには、進んで公共のためにつくさなければならない」【p.161】と意訳する。

「危急のこと」とはまさしく「戦争」を意味し、「公共」とは「天皇」を意味することが明白な教育勅語を、無批判的に紹介している。教科書本文では「近代日本人の人格の背骨をなすもの」【p.161】とまで説明する。戦前の教育において、天皇のために喜んで命を捧げる国民を育成するための道具として使われた事実を抜きに、教育勅語を紹介することは誤りである。

日露戦争は自衛のため

 日露戦争は日本の防衛のためやむを得ず始め、その勝利はロシア植民地に希望を与えたと説く。 「日露戦争は、日本の生き残りをかけた戦争だった。日本はこれに勝利して、自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは、植民地にされていた民族に、独立への希望をあたえた。」【p.168】

 日露戦争は、清国内で起こった義和団事件後にロシア軍が満州に駐留したので、これに対抗するために日英同盟を結んだことで戦争の危機が迫ったとするのが一般的である。長引く戦況により日本の戦力は限界に達し、ロシアでも革命運動が起こったので、両国とも戦争継続が困難になったことが戦争終結の主因である。日本がロシアから賠償金を得られなかった事実からも、日本の全面的な勝利とは言えない。

南京大虐殺をなかったことに

「上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおき、これをきっかけに日中間の衝突が拡大した。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏するだろうと考え、12月、南京を占領した。」との本文の記述に続き、注釈として「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数など実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」【p.199】と記述する。

 南京大虐殺は、一般住民を多く殺害した日本軍の加害責任を学ぶことに学習の意義がある。つくる会教科書では大虐殺の視点が限りなく薄められている。東京書籍版の歴史教科書では、「女性や子どもを含む中国人を大量に殺害しました(南京事件)」と紹介し、注釈で「この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されました。」とある。つくる会教科書では、日本軍のおこなった行為を意図的に隠していると言わざるを得ない。

「大東亜戦争」はアジア解放のため!?

「アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が真珠湾攻撃よりも遅れたのは、卑劣な『だまし討ち』であると自国民に宣伝した。」【p.204】と、真珠湾奇襲攻撃を正当化する。「日本の将兵は敢闘精神を発揮してよく戦った。」【p.205】と、戦争に命をささげる国民を賛美。

さらに、日本はアジア諸国の救世主と説く。「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育んだ。東南アジアにおける日本軍の破竹の進撃は、現地の人々の協力があってこそ可能だった。」【p.206】と本文で記述し、「日本の南方進出は……アジア諸国で始まっていた独立の動きを早める一つのきっかけともなった。」【p.207】とまとめる。

コラムでは、マレーシア人独立運動家の「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に、歓呼の声をあげました。」という声を紹介し、さらにインドネシア人は「ひそかに日本の南進を待ちこがれた。……日本はオランダを追放してくれた解放軍だった。」と、都合のよい部分をことさら強調する。アジア諸国の反発を招く最大の要因がここにある。日本がアジアに行軍した目的は、当時は「アジア解放のため」と内外に喧伝されたが、実態は明らかに侵略と言ってよいものである。

なお、朝鮮に対する日本の優位性を印象づける点が他にもある。701年の大宝律令の部分で、「唐に朝貢していた新羅が、独自の律令を持たなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた。」【p.42】との記述がある。ここで新羅を出す必要性はまったくない。また太平洋戦争末期の部分では「徴兵や徴用が、朝鮮や台湾にも適用され」【p.208】との記述がある。強制徴用があたかも合法的に行われたかのような印象を与えるものだ。これらの記述が改まらない限り、アジア諸国との友好など望めないのは当然である。

つくる会教科書の目指すもの

では、なぜつくる会はこのような教科書を世に出そうとしているのか。

代表執筆者の藤岡信勝氏らの「自由主義史観」研究会は、日本の侵略戦争を美化しようという点で一部の政治家と結びつき、教科書から「従軍慰安婦」の記述を削れという運動を始めた。これは、日本の歴史上のマイナス面を隠すことで、子どもに愛国心を強制し、国家に奉仕しようとする人材を育てるという目的があった。愛国心や国家への奉仕の心を子どもたちに植えつける上で、歴史教育は重要と考えた。そこで出てきたのがつくる会による「新しい歴史教科書」なのである。

それと同時に、教育の理念を定めた教育基本法の条文も変えようとする動きも出てきている。この二つの動きは、密接に関連している。改悪教基法の理念を達成するために、その理念に沿った教科書を作り、全国の教育現場で使ってもらう。つくる会教科書は、いわば改悪教基法理念実現装置なのである。

つくる会教科書の広がりは、国家の危急の事態である。これを許すと、教育基本法だけでなく、憲法の改悪へと道を開いてしまう。

<2005年11月 「茨城の教育」 937号より>

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憲法改正論議の現状とゆくえ
自民党新憲法調査会案についての検討

自民党の新憲法起草委員会(委員長・森喜朗前首相)は2005 年8月1日、新憲法草案の条文案 を公表した。この条文案は「第1次案」とされており、今回は調整が間に合わなかった「前文」を含め、本年11 月までに正式な草案として仕上げられる予定である。

現行憲法の条文と、このほど出された条文案を比較し、どこがどのように変えられようとしているのかを検証しながら、条文案の問題点を指摘する。

構成は現行憲法を踏襲

条文案では第1章「天皇」から第10 章「最高法規」まで、条文の構成は現行憲法に沿っている。条文番号を便宜的に現行法にそろえたため、欠番もある奇妙なつくりになっている。第11 章「補則」は、憲法制定時の取り扱いに関する内容なので、役割を終えたとのことで削除された。

全体を通しての変更点は次のとおりである。
1 条文の順序の入れ替え(例えば、「摂政」を定めた第5条を第7条へ)
2 送りがなや読み方の変更(例えば「基く」→「基づく」、「行ふ」→「行う」など)
3 条文中の「これを」を削除(例えば、第19 条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」->「思想及び良心の自由は、侵してはならない」など)

以下、章をおって改正条文案をみてゆく。

第1章「天皇」

「天皇」は現行通り、「日本国の象徴」とされ、「元首」化は見送られた。内容的な大きな変更はない。自民党憲法調査会が2004 年11月にまとめた「憲法改正大綱原案の要旨」では「天皇は、日本国の元首で、日本国の歴史、伝統及び文化、国民統合の象徴として我が国の平和と繁栄及び国民の生活を願う存在で、地位は、主権の存する国民の総意に基づく」と明記されていたので、条文案ではだいぶ我を折った痕がみられる。多方面からの批判で、天皇元首化は見送らざるをえなかったのだろう。

第2章「安全保障」

改憲論議の本丸ともいえる部分なので、全文を引用する。

  第9条(安全保障と平和主義)
1 日本国民は、諸国民の公正と信義に対する信頼に基づき恒久の国際平和を実現するという平和主義の理念を崇高なものと認め、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する平和国家としての実績に係る国際的な信頼にこたえるため、この理念を将来にわたり堅持する。
2 前項の理念を踏まえ、国際紛争を解決する手段としては、戦争その他の武力の行使又は武力による威嚇を永久に行わないこととする。
3 日本国民は、第1項の理念に基づき、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調し て行われる活動に主体的かつ積極的に寄与するよう努めるものとする。

第9条の2(自衛軍)
1 侵略から我が国を防衛し、国家の平和及び独立並びに国民の安全を確保するため、自衛軍を保持する。
2 自衛軍は、自衛のために必要な限度での活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動並びに我が国の基本的な公共の秩序の維持のための活動を行うことができる。
3 自衛軍による活動は、我が国の法令並びに国際法規及び国際慣例を遵守して行わなければならない。
4 自衛軍の組織及び運営に関する事項は、法律で定める。

第9条の3(自衛軍の統制)
1 自衛軍は、内閣総理大臣の指揮監督に服する。
2 前条第2項に定める自衛軍の活動については、事前に、時宜によっては事後に、法律の定めるところにより、国会の承認を受けなければならない。
3 前条第2項に定めるもののほか、自衛軍の統制に関し必要な事項は、法律で定める。

以上である。念のため、現行の第9 条を引用する。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

改正条文案は、まず、第2章のタイトルを「戦争の放棄」から「安全保障」に書き換える。第9条1「戦争放棄」の文言を削り、「行わない」に書き換える。第9条2にあった「戦力不保持」、「交戦権の否認」を削除。これらの変更により、自衛軍は戦力であり、他国との戦争も辞さない姿勢が明確となった。

第9条の2を新設し(実質的には次の条に相当)、(1)「我が国を防衛」する「自衛軍」を保持、(2) 国際協調の活動(海外派兵)、「公共の秩序の維持」(治安出動)を行う、(3) 法令、国際法の遵守、(4) 自衛軍の組織、運営は法律で定める、と規定する。これらの変更は自衛隊が海外に派兵されている現状を追認したもので、戦争を放棄した現行憲法の平和主義を全面的に否定するものである。世界各地で起こる紛争や内戦が、「国際社会の安全」を脅かすものだとされれば、国会の承認を待たずただちに日本の軍を出動できる事態。これはまさしく軍事介入である。前条で武力の行使は永久に行わないとしている点と明らかに矛盾する。武力を持った軍を派遣することを「戦争」とか「武力による威嚇」と言わずに何と呼べるのか。何があっても武力を使わないとするのなら、派遣希望するNGO を支援するとか、あるいは外務省の官僚みずからが出向けばよい。また治安出動をおこなうという点で、国内でのデモ活動が公共の秩序の維持に反すると認定されると、ただちに軍が出動して鎮圧されることになる。

さらに第9条の3を新設し、自衛軍の指揮監督権を内閣総理大臣にあると規定する。軍の最高権力者を明示し、アメリカなど他国の軍隊と同じ仕組みの完成を画策している。現行の憲法解釈で、持ってはいるが行使はできないとされている「集団的自衛権」には触れていないが、起草委の舛添要一事務局次長は条文案の発表に際し、「自衛には個別も集団も含まれる。その議論は終わった」と述べており、憲法解釈で集団的自衛権行使も認められるとしている。

第3章「国民の権利及び義務」

第3章以下をみてゆく。(引用文中の下線部は条文案で新たに書き加えられた文言を示す。)
第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と規定。

現行憲法の「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と比べると、自由や権利の行使にずいぶんたくさん条件がついた。「公益や公の秩序」が個人の人権より優先するという考えに裏打ちされているためだ。人の集まりが国家をつくるという基本を倒錯するものである。第20 条(信教の自由)では「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教的活動をしてはならない」とし、国の宗教的活動の禁止は「社会的儀礼の範囲内にある場合」を除くとする。

戦没者遺族会への公費の補助金支出や靖国神社等への公費による玉串料等の支出などに対する相次ぐ訴訟を意識したものである。従来、憲法解釈をめぐって争われてきた事案について司法による決着を回避し、憲法の条文を変えることでこれらの支出を「社会的儀礼であるから違憲でない」としようとする乱暴な論理である。

第4章「国会」

 第63 条2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、職務の遂行上やむをえない事情がある場合を除き、出席しなければならない」という条文中の下線部が新たに加えられた。野党が出席を求めても、「職務」を盾に国会論戦から雲隠れできてしまう。

第5章「内閣」

 内容の大きな変更はない。

第6章「司法」

 第76 条2項「特別裁判所は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、設置することができない」と下線部の規定を加え、第76 条3項「軍事に関する裁判を行うため、法律の定めるところにより、下級裁判所として、軍事裁判所を設置する」を新設。

「自衛軍」が海外派兵先の国で現地の人を傷つけるなどした場合を想定。また軍の規律維持や逃亡兵の処刑など軍刑法的な裁判を念頭に置いたもの。軍の海外派兵には裁判となるような事態が伴うことを認めている。

第79 条4項「最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、やむを得ない事由により法律をもって行う場合であって、裁判官の職権行使の独立を害するおそれがないときを除き、減額することができない」とし、裁判官の給料を条件付きで減額もありうるとする。国務大臣や国会議員には給与減額を規定していないので、三権の中で司法だけを軽視することにもなり問題だ。

第7章「財政」

第83 条2項「財政の健全性の確保は、常に配慮されなければならない」を新たに規定。財政構造改革を進める現状を追認する内容。また予算案に関し第83 条2項で「当該会計年度開始前に前項の議決がなかったときは、内閣は、法律の定めるところにより、同項の議決を経るまでの間、必要な支出をすることができる」と新たに規定し、これにより予算審議の紛糾によって年度始めの公務員給与が遅配される事態は避けられる。しかし内閣の裁量で支出できるという観点で、内閣の権限強化になっていることを見逃せない。

第89 条「公金その他の公の財産は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出し、又はその利用に供してはならない」と変更。第20 条の場合と同様、自民党の都合に合わせた変更である。

第8章「地方自治」

 この章では、新たに自治体の自主財源の強化の項目を盛り込んだ。

第9章「改正」

第96 条「この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票において、その過半数の賛成を必要とする」とした。憲法改正の要件を、衆参各議院の三分の二以上の賛成から、過半数の賛成に緩和し、今後の改憲を容易にすることを狙っている。

第10 章「最高法規」

 内容の大きな変更はない。

<さいごに>

自民党が、条文化した改憲案を発表するのは今回が初めてとなる。前文については見送り、「国民の責務」などは、検討課題としている。2005 年11 月に公表する改憲草案に向けてこれから終盤の作業が続けられることとなる。全面的な改悪へのうごきが、急速に具体化しつつある。由々しき事態であり、容認すべきではない。

<2005年9月 「茨城の教育」 933号より>

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現在の教育基本法見直し論議
与党「教育基本法改正に関する協議会」中間報告の問題点

教育基本法(以下、「基本法」)見直しの流れは、教育改革国民会議による2000年12月の提言に始まった。この提言を受け、中央教育審議会が2003年3月に改正すべきとの答申をおこなった。その後、与党は「教育基本法改正に関する協議会」を結成し、2004年6月に「教育基本法に盛り込むべき項目と内容について(中間報告)」を公表した。

文部科学省は、基本法改正法案の条文作成作業を現在進めており、早ければ次の通常国会にも提出されることが予想されている。

そこで本稿では、協議会の出した中間報告の内容を検証し、基本法見直し論議の危険性を指摘したい。

中間報告の概要

「教育基本法改正に関する協議会」による中間報告(=>参考資料へ)は、基本法に盛り込むべき項目と内容についての検討結果が列挙されている。検討の前提として挙げられているのは、(1)改正法案は議員立法ではなく政府提出法案、(2)一部改正ではなく全部改正、(3)教育の具体的な内容については他の法令に委ねる、(4)簡潔明瞭で格調高い法律を目指す、の4点である。

現行法の11ヶ条から1ヶ条を削除し、新たに8ヶ条を付け加える形で提案されている。削除されたのは「男女共学」の条、付け加えられたのは「生涯学習社会への寄与」、「家庭・学校・地域の連携協力」、「家庭教育」、「大学教育」、「私立学校教育の振興」、「教員」、「幼児教育」、「教育振興基本計画」である。

この中で、特に問題となる点を五つ挙げる。

憲法との関係を否定

第一の問題点は、基本法と憲法とのつながりを切断しようとしている点。現行法の前文にある「憲法の精神に則り」の部分が、中間報告では削除されている。

教育の憲法と言われる基本法は、前文にもあるとおり日本国憲法の精神に則って制定された。これは、憲法施行と同じ日に出された文部省訓令の中で、「この法律は、日本国憲法と関連して教育上の基本原則を明示し、新憲法の精神を徹底するとともに、教育本来の目的の達成を期した」とあることからも明らかである。つまり、基本法は憲法と一体となって制定されたのである。

前文から「憲法の精神に則り」の部分を削除すれば、憲法との関係が明確ではなくなり、憲法のお墨付きを失うことにもなる。基本法の意義が低下する。

国家のための教育

第二の問題点は、個人の権利への言及をなくすことである。現行法での「個人の尊厳を重んじ」(前文)や、「個人の価値をたっとび」(第1条)という文言は、中間報告のどこにも現れない。代わりに現れるのは「公共の精神」という言葉である。一方で、現行法第1条に個人の価値を尊ぶことと同列で出てくる「正義」や「責任」は、しっかりと中間報告の中に現れる。

これらのことから見えてくるのは、個人の権利は二の次で、国につくす「国民」「公民」を作ることがまず大切、との意図である。つまり、教育は個人のためにあるのではなく、国家のためにあるとの考えが明確になっているのだ。国の正義のためには、個人の権利や命は犠牲になっても仕方ないとする考えがにじみ出ている。

国際社会の平和への寄与

第三の問題点は、「国際平和のためなら軍隊を派遣して戦争をしてもよい」という考えの容認につながることである。現行法第1条には「平和的な国家及び社会の形成者として」とあるが、これは日本が平和な国家であり続けることを宣言しているという点で意義がある。ところが、中間報告ではこの文言がなくなり、代わりに教育の目標として「国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養」が出てくる。

現在進行中のイラク戦争を例にして考える。イラク戦争の大義としていた「大量破壊兵器の存在」が否定された今、アメリカは「イラクは放っておけば世界平和のためによくないから攻撃したのだ」と論理をすり替えた。それに追従し、日本も「同盟国であるアメリカが『国際平和のための戦争』というのだから、必要な戦争なのだ。だから日本も『平和のため』に自衛隊を派遣するのは当然のこと」という理屈で海外派兵をおこなっている。

国際社会の平和を掲げながら、他方で国民の安全をないがしろにする。これでは本末転倒ではないか。自国の国民が犠牲になろうとも、国際平和の実現のためなら仕方ない――こう考える国民を育成することが教育の目標だとする。

日中戦争にしてもイラク戦争にしても、どんな侵略戦争も最初は「国際平和のため」と銘打って始められる。「平和のための戦争」などありえない。中間報告の行間から日本の行く末が垣間見られる。

愛国心

第四の問題点は、愛国心を盛り込んだ点である。中間報告の「教育の目標」に「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し」と明記された。ただし、与党間で調整がつかず、「郷土と国を大切にし」とする公明党案と併記する形となっている。

伝統文化を尊重することや、郷土愛・愛国心を持つことを否定はできない。しかし、「伝統文化を尊重し」「郷土と国を愛し」「郷土と国を大切にし」などと「心」を法律で規定することは危険だ。憲法が保障する思想・良心の自由にも抵触する。

中間報告では、付記として「『国を愛し』『国を大切にし』については、統治機構を愛するという意味ではない」と記述されている。本当にそうだとしたら、「日本を知り、日本の国土を大切にし」で十分ではないか。

教育行政への不当支配

第五の問題点は、教育行政への意見を排除しようとすることである。現行法第10条の「教育は、不当な支配に服することなく」を「教育行政は、不当な支配に服することなく」に変えている。

現行の条文を分かりやすく言い換えると、「教師は、教育行政からの不当な支配に服することなく」となる。この文が、「教育行政」が主語に変わることで、意味が正反対になる。「教育行政は、教師などからの不当な支配に服することなく」となるのだ。

つまり、国家がおこなう教育行政に対して意見や注文を付けることが、「不当な支配」とされることになる。当然ながら、教職員組合の活動も、PTA団体からの提言も、生徒から学校への要求でさえ弾圧されるおそれがある。

国家が教育内容を統制し、教育に直接介入する仕組みを作ろうとする考えに基づいていることが明白だ。

拙速な見直し論議

憲法の崇高な理念を共有する基本法を全面的に見直すことは、おのずと改憲へとつながっていく。改憲推進派は、基本法見直しが憲法「改正」のための外堀を埋める第一歩として働くと考えている。

教育の憲法である教育基本法を見直す必要性を説くのなら、少なくともその前提として、国民的な議論と総意が不可欠である。そのためには、まず現行法のものとでおこなわれてきた教育行政がどうだったのかについて、行政当局は評価をおこなうべきだ。現行法がかかげる理念を実現するための努力が、十分におこなわれてきたのか、我々はしっかり見きわめる必要がある。

いま教育基本法を見直す必要はまったくない。なぜなら、一連の基本法見直し論議は、現場からの要請で始まったものではないからだ。現場の教員は、現行法を変えても様々な教育課題を解決できるわけではないことを、身をもって知っている。

むしろ基本法の崇高な理念を活かし、発展させていくことが大切なのだ。そのために現場の教師は、自分の教育実践が国民全体に対し直接に責任を負って行われていることを自覚し、それに恥じない教育を目指して努力することが求められる。その教師の努力から発せられる切実な要請に応えることこそが、教育行政の役割に他ならない。教育行政の仕事は、そのような教師の教育活動を支援することであり、空虚な教育改革論議を先導することではない。本末転倒した現在の教育改革論議は、したがって無意味であり、危険ですらあると断じるほかない。

<2004年11月 「茨城の教育」 918号より>

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高校教育を空洞化させる大検改革

大学入学資格検定(以下、「大検」)の改革を審議していた中央教育審議会(鳥居泰彦会長)は、2004 年8月6 日、『大学入学資格検定の見直しについて〜社会において広く通用する「高等学校卒業程度認定試験」〜』を文部科学大臣に答申した。その内容と問題点を検証する。

大検の意義が低下

大検は、高等学校を卒業していないなど大学入学資格のない者に対し検定を行い、合格者に大学入学資格を付与するための試験である。2001 年度には約3万4千人が出願し、およそ1万6千人が合格している。大検制度は、経済的理由などにより高校に進学できなかった勤労青少年を対象に大学入学資格を付与することを目的に1951 年に発足した。大検は、勤労青少年に大学進学への途を開く制度として機能してきた。しかし近年になって、創設当時と比べて受検者の態様が大きく変化した。高校進学率の上昇に伴い勤労青少年の受検割合が年々低下する一方、高校中退者が年間約9〜 10 万人に達する状況のもとで大検の受検者の6割程度を高校中退者が占めるようになったのである。

このような状況の中で、「規制緩和」により2003 年9月から、高校卒業資格がなくても大学の個別審査により、高校卒業と同等以上の学力があると認められる者に、当該大学への入学資格を認めることが可能となった。これにより、大検の意義が薄れた。実際に、受検者は2002 年度以降、大幅に減少している(=>グラフ参照)

見直しの要点

今回の答申で注目すべきは、次の3点である。第一に、受験教科の削減と、必修教科の入れ替え。ペーパー試験のみでの評価になじまない実技教科を選択教科から削除するとともに、従来必修だった「家庭」をなくし、代わりに「英語」を必修とする。

第二に、試験の合格者に一律に大学入学資格を付与するという現行の大検の機能を維持しつつも、その合格者が各種職業資格や採用試験の受験資格などにおいて高校卒業者と同様に扱われるようにする。そのために新試験の名称を「高等学校卒業程度認定試験」とする。

第三に、受験対象者の拡大。全日制高校の生徒についても、定時制や通信制高校の生徒と同様に受験できるようにする。また全日制高校では、学校長の判断で新試験の合格科目を単位認定できるようにする。

受検のハードルをより低く

第一の観点である受験教科の削減については、正しい改革の方向と言える。大検受検者の6割を占める高校中退者が、大学進学へのステップとして大検を選択するとき、受験負担が大きいと道を閉ざされることにもなる。まして2003 年9月からは、大検合格が大学入学の絶対条件ではなくなり、大検の意義が薄れている。したがって、大検は必要最小限の必修科目のみでよいだろう。

新試験は実質的に「高校卒業資格」

第二の観点である、大検を高校卒業資格としようとすることには問題が多い。答申では「高等学校卒業程度の学力を認定する試験としての性格をより明確にし、その合格者が各種職業資格や採用試験の受験資格、採用後の処遇においてより広く高等学校卒業者と同様に扱われるようにする必要がある」とする。そのための具体的方策として、「地方自治体や企業等の職員の採用、処遇に関する規則等において、新試験の合格が「高等学校卒業程度と同等」と位置づけられるべきであり、そのためにも積極的な呼びかけが必要である」とする。

現行の大検の機能を維持すると謳ってはいるものの、実質的には新試験に高校卒業資格を付与することになる。答申ではさらに、「文部科学省は新試験に対する社会的認知度を検証するために、地方自治体や企業等に対して定期的な調査を実施すべきである」とまで述べている。新試験が高校卒業資格としてきちんと扱われているか、国が調査するというのだ。

高校卒業資格付与の問題点

新試験に高校卒業資格の意味を持たせると、いったい何が問題なのか。三つ考えられる。

一つ目は、高校教育の役割は、教科・科目の学習だけでなく、その他の様々な活動、生徒間や教員との交流など知・徳・体のバランスのとれた教育活動による人間形成であって、単に学力を測る試験のみで高校卒業資格を付与することとはとてもつり合わない。高校進学率が97%で、実質的に高校全入となっている現状では、「人格の完成」を目指す上で高校生活の果たす役割は決して小さくない。

二つ目は、仮に新試験で高等学校卒業資格を付与することとすると、高校生の卒業要件である74 単位を新試験でも課さざるをえなくなる。そうすると、30 〜 40 単位相当の教科・科目の検定である現行の大検と比べ、受験生に過大な負担を強いることとなる。高校卒業資格を付与するために、かえって中退者などが挑戦しづらい試験となる恐れがある。

三つ目は、憲法見直しから教育基本法見直し、そして『心のノート』導入へと続く、国家の「統治行為としての教育」への改革の流れが透けて見えることだ。新試験の名称を見てほしい。「高等学校卒業程度認定試験」となっており、学力という言葉が入っていない。「程度」という文字を抜きさえすれば、堂々たる「高等学校卒業認定試験」になる。これこそが、文部科学省が目指す真意ではないだろうか。

つまり、いずれは全国の高校生を対象として受験を必修にさせようという意図だ。実際、中教審の議論の中では、全国の高校在学生を対象に学習成果をはかる学力認定試験を実施し、その成果を高校の卒業要件や 大学入学の基礎資格とすることを目指すべきだ、という意見も出た。全国一律の高校卒業認定試験の導入は、国家の教育への介入の究極の姿といえる。

全日制の生徒も受験可

第三の観点である受験対象者の拡大についても、議論不足と言わざるをえない。

答申では、「近年、夜間の定時制高校においては昼間働いて夜学ぶという勤労青年の割合が著しく減少するなど制度創設当初とは生徒の実態に変化が生じている。このため、定時制高校も多部制や単位制の高校が設置されるなどしており、生徒の就学形態も多様化し、全日制の高校との違いがかなり小さくなっているケースも増えている」ので、「定時制、通信制、全日制全ての高等学校の在学生に新試験の受験資格を与えるべきである」とする。定時制も通信制も生徒の就学形態が変質してきて全日制と大差なくなったので、全日制の生徒にも定時制・通信制の生徒と同様に受験資格を与えることにしよう」というのは、論理矛盾も甚だしい。

全日制の生徒にも受験資格を与える改革は、試験の合格科目を高校の単位として認定することと一体となっている。確かに、不登校生徒や卒業単位数がわずかに足りない3年生などにとっては意義のある制度改革といえる。しかし、指導の困難な学校では、単位を認定するために教師によって必死の指導が行われており、それが生徒の退学防止、非行防止につながっている面があるのだが、制度改革が安易な中退が増加させる恐れもある。進学校では、単位未修得となった科目は大検で取ればいいという安易な発想を追認することにもなりかねない。高校教育の空洞化が進む恐れもあるのだ。現場の声が反映されていない中教審の議論は、問題があると言わざるをえない。

今回の答申を受け、文部科学省は2005 年度から新大検を実施する方針である。大検合格科目を単位認定するかどうかは各高校の判断となる。安易な運用に陥らないよう、今後各学校において注意深くチェックしていくことが大切だ。

<2004年10月 「茨城の教育」 915号より>

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「心のノート」を検証する

文部科学省は、学習指導要領に「学校における道徳教育は、……人間としての在り方生き方に関する教育を学校の教育活動全体を通じて行うことにより、その充実を図る」と記述した(高等学校学習指導要領〔平成11 年3 月29 日、文部省告示第58 号〕第1 章 総則、第1款)。 茨城県教育委員会は、今年度と来年度の2 年間にわたって、「高校生の心の教育推進事業」を実施している。県内全高校に「体験活動推進事業」の実施が指示されたほか、高校教育課が各高校から生徒を2 名ずつ招集して、「高校生リーダー研修会」を直接開催した。「研究指定校」におけるさまざまの活動もおこなわれている。教育行政当局による「道徳教育」への取り組みは、従来とは様相を異にする。

2002 年、全国の小学生・中学生全員に、文部科学省が作成した一冊の「ノート」が配布された。

(1)『心のノート』とは?

『心のノート』は、いま全国の小・中学生が手にしている冊子である。小学校1・2 年生用、3・4 年生用、5・6 年生用、および中学生用の4種類があり(=>図1参照)、児童・生徒は学年が上がるにつれて新しい冊子を学校で受け取ることになる。各冊子はそれぞれ78 ページ、96 ページ、112 ページ、128 ページであり、どれも表紙から中身までカラフルなイラストや写真で飾られた体裁となっている。2002 年度に全国の小学校と中学校を通して児童生徒に配布された。したがって、2003 年度の高校1年生は『心のノート』を1年間使用していたことになる。今後の高校入学生は、『心のノート』を使用した年数が2 年間、3 年間と次第に長くなっていく。そこで、『心のノート』とはどういうものなのか、何が書かれているのか、問題点はどこにあるのか、などについて検証していく。

(2)異例の配布

『心のノート』(以下、「ノート」)は「教科書」でもなく「副読本」でもない。「補助教材」との位置づけで文部科学省が作成した。したがって一般の教科書に必要とされる「検定」も経ていなければ、教育委員会の採択の手続きも経ていない。全国の教師にとっては、まさに選択の余地がなく学校現場に導入されたものである。

当時の文部科学大臣・遠山敦子氏は、2002 年4 月8 日に東京都内のある小学校にみずから出向き、「小学生になったばかりの1年生一人一人に、文部科学省が初めて作った道徳教育の教材『心のノート』をお渡し」してきたという(小泉内閣メールマガジン第44 号、2002 年4月25 日)。この件から考えても、省を挙げての強力な推進の実態がうかがえる。

(3)「道徳」の指導要領のビジュアル化 

ノートの構成はどうなっているか。各ノートはいずれも4章構成になっている。各章には3 〜 10 項目のテーマがある。この構成は、学習指導要領・道徳編の項目と完全に一致する。つまりノートは、道徳の学習指導要領に則って編集されたものと言える。道徳の授業で使用することを主眼として作成された教材そのものなのだ。

では学習指導要領をどのように具現化しているのか、いくつか例を挙げてみよう。中学校学習指導要領の「第3章 道徳」の「第2 内容」には次の四つの視点が記述されている。<1.主として自分自身に関すること>、<2.主として他の人とのかかわりに関すること>、<3.主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること>、<4.主として集団や社会とのかかわりに関すること>の四つである。これに基づいて中学生用のノートでは、<1.自分を見つめ伸ばして><2.思いやる心を><3.この地球に生まれて><4.社会に生きる一員として>となっている。

さらに各章の項目での例を挙げる。中学校学習指導要領「第3章 道徳」の4の (2) <法やきまりの意義を理解し、遵守するとともに、自他の権利を重んじ義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努力する>という項目が、ノートでは<縛られたくないのはみんな同じ>となり、また4の(4) <正義を重んじ、だれに対しても公正、公平にし、差別や偏見のない社会の実現に努める>という項目が、ノートでは<この学級に正義はあるか!>となって展開している。子どもにも分かりやすい言葉で言い換え、興味を引くようなタイトルになって指導要領に対応しているのだ。

(4)「国定教科書」による「国家教育」

これらのノートには教師用の手引書がある。これは、ノートを活用する際の教師用指導書である。ノートの配布と一体で全国の教師に配布された。指導書には<校長がリーダーシップを発揮して、学校としてどのように『心のノート』を活用していくのかについて協議し、学校経営計画や道徳教育の全体計画などに明記していく必要がある>と記されている。文部科学省が決めた学習指導要領を網羅的・体系的に教えるための教材を省自身がつくり、教師用指導書までセットにして全国の学校に強力に配布する。これはまさに「国定教科書」による「国家教育」と言えるのではないか。

確かに少年による凶悪事件が多発する昨今の社会背景の一つには、道徳の退廃があるのだろう。その状況を憂える声が大きいのも事実だ。したがって、指導書にある<道徳教育の重要性は従来にも増して広く認識され、その充実が強く求められている>との指摘にも納得できる。しかしそのような状況に対して、教師は、生徒一人一人の個に応じて適切な教育法を試行錯誤し、生きた教材を用いて生徒に向かうことがよりいっそう大切になるのではないだろうか。全国一律の「心の教育」用教材を配布したから道徳教育は万全だ、と認識するのは拙劣である。まして、その内容に問題点が多くあったなら危険でさえある。意図とは逆に道徳教育の混乱をもたらしてしまうことにもつながるからだ。その点でも、いま『心のノート』に書かれていることを知り、その内容を詳細に検証することは不可欠なのだ。

(5)ノートの性格

『心のノート』の体裁をみてみる。マンガのようなかわいらしいイラストや風景・人物の写真が多用され、その中にところどころ自分で書き込む欄が用意されている。例えば小学1・2 年生用のノートには「ともだちからもらった励ましの言葉を記録しておこう」などの語りかけに答える形式で記入する、あいさつが上手にできた月に色を塗っていく、<げんきカード>を作って交換しあう、などの形式がある。また<先生・家の人から>という教師・保護者記入欄もある。

いずれのノートでも、単に「あいさつをしよう」や「元気にすごそう」などの徳目推奨の羅列や文章を読むだけの形式にはなっていない。児童・生徒が親しみやすく、独自のノートを作り上げていけるよう工夫されたレイアウトとなっている。子どもがみずから学習し、子どもの心の記録となり、さらに学校と家庭との「心の架け橋」となる冊子としての性格が意図されている。

(6)「妖精」の意味

ではさっそく内容を検証していく。小学校1・2年生用の表紙を開けると(=>図2参照)、幻想的な森の風景がシルエットで描かれ、そこにふわふわとしたカラフルな玉が浮いている。これらの樹木や玉の中で遊ぶように、青い服にとんがり帽子をかぶった妖精たちが楽しげに浮かんでいる。下部には大きな空欄が作られており、<このノートになまえをつけてね>と促している。

この妖精たちは、最後にもう一度登場する。裏表紙の見返しページ(=>図3参照)には、樹木から虹に向かって整然と飛び立っていく妖精たちが描かれている。はじめに思い思いに遊んでいた妖精が最後には整然と秩序を作っている。この最初と最後の対比だけを考えても、ノートには子どもをがっちりとした秩序へと導く意図があると容易に想像できる。確かにそのような表面的な見方もできる。しかし、本論ではさらに踏み込んで考えてみたい。

(7)「こころ」の投影

『こころのノート』(1・2年生用)の最終ページには次の言葉が書いてある。<見ることもさわることもできない「こころ」。でもあなたがあなたの「こころ」についてかんがえたりかんじたりしたことがこのノートいっぱいにつまっています。これからもこのノートをずっと大じにもっていておもいだしたらいつでもひらいてみてください。あなたをげん気づけてくれる力がきっと見つかることとおもいます。かわい はやお(しんりがくしゃ)>  教師用手引き書には、このページの解説として<子どもは、このノートを終えるにあたって、このページの明日へと続く虹を眺めながら、そこに自分の心を乗せて、3年生の生活への意欲と期待を持つだろう。>と結んでいる。

「心」は見ることもさわることもできないとノートでは説明しておきながら、一方の手引き書では、虹を昇っていく妖精に子どもの心を乗せることを期待している。つまり、この妖精たちは子どもの心の動きを体現したものといえる。初めにノートに自分で名前をつけたことにより、妖精への心の乗り移りはさらに強固になっているはずである。

自分の心を投影したノート。それがあるとき突然、向こうから指示を出してきたとしたらどうだろうか。

(8)巧妙なマインド・コントロール

子どもは、ノートに自分の心を投影したまま3・4年生用のノートに移る。表紙を開くと広々とした海に広がる青空に浮かぶように、次の言葉が出迎える。<わたしにはある いまよりもっとよくなりたいという心が みんなのことを思いやるあたたかい心が どんなことにもくじけずに がんばりたいという心が そんなわたしの心を たしかめてみたい のばしていきたい>

ここに出てくる<わたし>とはいったい誰のことなのだろうか。文脈から考えると、このノートを手にしている子ども自身のことと推察できる。そうだとすると、自分の内面を投影して作られるはずのノートが、投影する前からすでに自分の気持ちを代弁していることになる。ここに巧妙なテクニックが埋め込まれている。つまり、子どもはありのままの自分でいることは認められず、ここに書かれた<わたし>と同一になることを要求される。この時点で子どもは、もはやありのままの<わたし>ではいられないのだ。

「無意識」の領域にあるはずの「こころ」を、ノートに疑似投影させられた<わたし>が乗っ取って、ある特定の方向へ導いていく。まさにこの「乗っ取り」が、ノートの最大の意図なのだ。かわいげなイラストタッチの中に不気味な底流が見える。

(9)強引な「カウンセリング」

そもそもこのノートは、ユング心理学に則っている。作成者座長の河合隼雄氏は、ユング心理学を日本に紹介した第一人者として知られる。ユング心理学とは、一言でいうと自分の意識の自由にならない領域にある「無意識」を意識化するプロセス。無意識と意識との統合を目指す心理学といえる。それを教育に持ち込んだのが「ユング・河合心理学」とも言われる河合隼雄のカウンセリング手法である。

これによると、子どもにある問題が起こったとき、その内面にある心の動きを自分で気づかせることによって問題を解決していこうとする。例えば人間関係で悩んでいる子どもは「どうして私のことをわかってくれないんだろう」と思い詰める。河合流カウンセリングでは、「どうして?」と疑問が起こるメカニズムを自分で気づかせることによって、悩みから抜け出す道筋を自分で見つけさせるのである。

このカウンセリング手法、それ自体が間違っているわけではない。むしろ「カウンセリング・マインド」などの造語とともに広く教育現場でも意識され、有用なものとして実践されているのが現実だろう。しかし、このノートでは特に悩みを意識していない子どもまで強引にカウンセリングの対象にしてしまっている。これが問題なのだ。教師は、目の前にいる児童生徒が今どんな道徳性を身につけようとしているのかを見極め、一人一人の成長の過程に応じて手だてを講じるのが大切なのであり、画一的なカウンセリングでは決して何も生まないことは明らかだ。

さらに、ノートを使ったカウンセリングには、より根本的な問題が隠されている。

(10)衆人環視で「そっと」本音?!

小学校3年生にもなると、子どもの心の中には他の人に知られたくない自我が芽生えてくる。それでもノートでは<そっと自分に聞いてみよう>というタイトルで子ども自身のことを書かせる。<自分のすきなところ>、<自分のなおしたいところ>、<むちゅうになっていること>、<いちばんだいじなもの>などである。これらは、自我の芽生えた子どもにとっては本音を書きにくいと感じるだろう。それを見越して、ノートでは<そっと>という言葉を多用し、本音を引き出そうとしている。

ところが、このノートは教室で使うことを期待されたものである。つまり他の子どもの目に触れることもあるだろう。また親や教師に見られることも初めから想定されている。そういう状況で、自分の本音を素直に書く子どもはどれくらいいるのだろう。

したがって、この部分では他の子や親や教師に見られても構わない少々よそ行きの「わたし」しかあからさまにならない。しかし、その「見られてもいいわたし」と「ありのままのわたし」との間にギャップがあることを、多くの子どもは認識できないままだろう。ここにギャップが存在したままだと、ノートの意図とは逆に、深刻な人格障害すら発生する可能性がある。しかし、その矛盾は解決されることなく、これ以後「見られてもいいわたし」が「わたし」としてノートの受け手にすり替わってしまう。

(11)教師は刑事か?

話をノートの内容に戻す。ノートに出てくる子どものイラストや写真は、ほとんどが笑顔である。しかし、1・2年生用にある<あかるい気もちで>過ごすことを勧める部分には、周りからにらまれて苦虫を噛み潰したような顔の子どもが出てくる場面がある(=>図4参照)

このページには<うそなんかつくもんか>というタイトルとともに、次のような本文が書いてある。<うそついちゃった。本とうはぼくがやぶったのにおとうとがやった、っていっちゃった。つくえの上のロボットが目を赤くした。ぬいぐるみのタロベーがくびをかくんとまげた。おとうとがおしゃぶりをおとして「フギャー」とないた。本とうのことをしっているみんながおこってぼくをにらんでいるみたい。もううそなんかつかないぞ。> 本文の横には6コママンガが描かれてある。その隣で別のキャラクターが<おもいきって「ごめんなさい」っていってごらん。きっとげん気がわいてくるよ!>と忠告することにより、マンガの5コマ目で母親に真実を告げて謝り、6コマ目で元気いっぱいになっている様子が描かれている。

「ウソをついても分かっているんだぞ」、「白状すればすっきりするぞ」という脅しで自白させる。子どもは、周囲からにらまれている中では決して素直になりはしない。脅されて自白しても、憎しみが残るだけである。ウソはだれでもつく。大切なのは、ウソをつかないことより、むしろそれを自分の意志で告白するまでの過程ではないか。信頼している親や教師に自ら心を打ち明けるまでの葛藤を経験することにより、子どもは一回り成長するものだ。うそが悪との強迫観念を植え付けるだけでは、問題は何も解決しない。

(12)暗い子は不道徳か

『こころのノート』1・2年生用で「ウソ」をつくことの嫌悪感と、それを正直に告白することの清涼感を教え込まれた子どもは、その次のページで気球の風船に色を塗ることを求められる(=>図5参照)。このページには<きょうはどんな一日だったかな。あかるい気もちでたのしくいっしょうけんめいにすごせた一日だったら気きゅうのふうせんに青いいろをぬろう。もうすこしだったなとおもう日にはきいろいいろをぬろう。>と書かれている。明るい気持ちで楽しく一生懸命に過ごす子どもの姿は、大人が期待する子ども像として妥当に思える。しかし、それが道徳的に優れているといえるだろうか。むしろ、様々な困難や苦しみにぶつかって暗く落ち込むことが時にあってこそ、子どもは健全に成長するのではないか。悩みを抱えて暗い気分で過ごす子どもが不道徳とは一面的すぎる。

「今日はもう少しだった」と思った子どもは素直に風船に黄色を塗るだろう。あまり黄色が多くなると、左のページにある黄色い大きな<ないしょのはこ>とだぶって見えるようになってしまう。文脈から考えて、この内緒の箱には、本を破いてしまったという内緒、それを弟のせいにしたという内緒が隠されている。いわば子どもには嫌悪感を抱かせる箱だ。気球がその箱と同じ色に染まっていくとしたら、子どもはいい気がしないだろう。実際、一度黄色に塗った風船を、先生に許可をもらって青色に塗り直す子どもがいるという。この事実からもわかるように、子どもにとっては自分の心に嘘をついてでも青色に塗るよう自然に導かれているのだ。しかも、嘘がいけないと教えられたすぐ後に。なぜ自分の好きな色でその日の気分を表現させないのか。

(13)「社会の役に立つ」人間の育成

ノートでは、人の役に立つことを繰り返し推奨している。<お年よりにはどんなことをするとよろこんでいただけるかな。><家族にやくに立てるといい気ぶん。>(1・2年生用)、<まわりの人の心を感じ取り、思いやりの心を行動にうつす>ことや<学級の役に立つ>(3・4年生用)ことを求める。いずれも、人の役に立つことは喜びにつながるのだから実行しよう、という文脈になっている。確かに人の役に立つ行動はいいことだ。しかしそれが「労働」に結びついたときには注意を要する。5・6年生用のノートでは<働くということは自分のためにだけではない>とし、<社会の役に立とう>と呼びかける。小学生でもできる労働として<社会へのほう仕やボランティア活動>が出てくる。さらに中学生用になると<いまのあなたが「働いた」と感じるのは(中略)だれかの役に立ったと感じたときではないだろうか>、<働くということは自分のためばかりではなく社会に奉仕し、そして貢献するということだ>と「労働=社会の役に立つこと」と断定される。全体では「働くことが社会の役に立ち、それがあなたの喜びにつながるのだから、奉仕作業やボランティア活動を通してしっかり働こう」という主旨になっている。

ここにはいくつか問題点がある。まず、「労働の喜びを得るために奉仕作業やボランティア活動をやりましょう」と説いている点だ。確かに、人から感謝されることの喜びがボランティア活動などの原動力になりうる。しかし、本来のボランティア活動とは、自分の喜びを得るために行うものではない。援助を求めている人が持つ問題点を共有し、交流しながら共に解決していくための援助活動でなくてはならない。それには自発的な意思が不可欠である。ボランティア活動の趣旨をはき違えている。さらに、「あなたの喜びは他人や社会の役に立つことだ」と説いている点。自我の確立していない子どもが、人の役に立つことにとらわれ、人から感謝されることだけを喜びとする思考に陥ってしまうと危険である。「人の役に立つ」から「社会の役に立つ」にいつのまにか拡大解釈させられ、その「社会」は「郷土」、さらには「国家」へと発展されていく可能性もあるからだ。

これらの問題点をかかえたこのノートは、社会・国家の役に立つ国民を育成しようとする布石の役割があると読みとれる。

(14)スポーツのルールと社会のルールは別次元

集団や社会とのかかわりを扱った部分では、「法律」や「ルール」についての扱い方に問題点が多い。この部分に関して、中学生用のノートでまず目に飛び込んでくるのは<縛られたくないのはみんな同じ>という大きなタイトルである。子どもの共感を誘い、心を乗っ取る手法がここでもあからさまである。しかもこのページには、NHKの人気番組「プロジェクトX 挑戦者たち」でも感動的に取り上げられた伏見工業高校ラグビー部の試合風景がクローズアップされている。生徒の心に効果的に訴えかける細工であろう。次に<でも・・・もしもきまりがなかったら・・・>と問題提起して次ページのタイトル<ルールとはなんのためにあるのだろう?>へと続く(=>図6参照)。ここでは<法やきまりは、スポーツのルールと同じこと。(中略)競技の中でルールはだれもが守るべきものとして定められ、もしこれに反する行為があったなら、失格となり、罰せられる。世の中に目を転じれば、法やきまりは、つまり社会のルール。スポーツのルールと同じことなのだ>とある。

スポーツのルールと社会のきまりを同じ次元で語るのは無理がある。体育の授業や部活動の中で「審判の判断は絶対であり抗議や反抗は許されないもの」と子どもは教わっている。社会のルールもそれと同様に、抗議や反抗が許されない絶対のものだろうか。スポーツのルールは、競技を成り立たせるために競技者の合意のもとで限られた時間に限り効力を持つものである。人間生活のあらゆる場面にまで影響を及ぼす法律とは、根本的に違う。 しかしここでは、「ルールを守ること」だけがいいことで道徳に合致すると教えている。<もしこれに反する行為があったなら、失格となり、罰せられる>ことをノートではイエローカードを掲げる審判の写真で印象づけている。この審判が、社会での絶対的存在の象徴だと言わんばかりだ。

社会のルールを変えることを請求する権利を国民は持っている。社会のルールには、時に基本的人権に反するものが存在することを、我々は戦争の反省から学んだはずだ。一方的に「ルールだから絶対に守れ」では、道徳教育とはほど遠い。仮に道徳を説くのであれば「ルールを守るのはお互いの基本的人権を尊重するため」という視点が不可欠だ。

(15)自分の権利主張は御法度?

右のページにはこう続く。<権利と義務って何だろう?>というタイトルの下に、<他人の権利の尊重>と<義務を果たすこと>を両手で天秤のように支えた中学生が立っている。ここでは、「義務を果たすこと」に対置されるのは「他人の権利の尊重」ではなく、「自分の権利の主張」の方が自然ではないだろうか。人間社会に生まれたからには、社会の義務を果たすことはもちろん大切だ。しかし同時に、侵すことのできない永久の権利(自然権)をも持ち合わせている。自分の権利をきちんと主張できずして、他人の権利を尊重することなどできない。しかも、学習指導要領の該当部分には<法やきまりの意義を理解し、遵守するとともに、自他の権利を重んじ義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努める>とある。つまり、本来は「他人の権利の尊重」ではなく「自他の権利の尊重」とするべきなのだ。それを意図的に<他人の>限定しているところに、このノートの恐ろしさがある。

(16)「義務」は権利主張の前提ではない

さらに、この中学生のイラストの横には<権利の正しい主張>と<社会生活の秩序と規律>という言葉がある。脈絡がわかりにくいが、つなげてみると「義務を果たした上で他人の権利を尊重し、自分の権利を正しく主張することによって、社会生活の秩序と規律を高めていこう」となるだろう。つまり、「義務を果たしてもいないのに自分の権利ばかり主張するのは間違っている」、「他人の権利は認めないのに自分の権利を押し通そうとすることは社会生活の秩序と規律を乱す」と読める。

この部分に関して教師用手引き書では、教師が生徒の受け止め方の例として参考とするための「生徒の声」欄がある。そこには<義務が土台にきて、権利があると思うので、義務を果たさない人は、権利を主張できないと思う>と記されている。参考とはいえ、手引き書に書かれたこの言葉は、「生徒に期待する声」と考えてよいだろう。この声は明らかに間違ったものだ。生活困窮のため納税の義務を果たせない人は、どんなささいな権利も主張してはだめなのか。解雇され勤労の義務を果たせない人は、何を言うことも許されないのか。子が不登校で教育を受けさせる義務を果たせていない親は、物言う権利がないのか。そんなことはあってはならない。

(17)「この学校が好き」

『心のノート』(中学生用)での最も大きな問題点は、「国を愛する心」を扱う部分である。愛国心を自然な流れで登場させるために、ノートでは工夫がなされている。その文脈でまず出てくるのが「自分の学校を愛する心」である。1ページすべてを使って〈この学校が好き〉と書かれた次のページにはこうある。〈チャイムが響く音、チョークが黒板をたたく音、放課後のグラウンドの喧噪。――ここは、私の学校。いま、この学校を見つめてみる。この学校の一員であることを考えてみる。全国には一万を超える中学校があるけれども私の学校は、いまいるこの学び舎。………〉

教師用指導書『「心のノート」活用のために』によると、この部分はノートの試作本のモニタリングで生徒に好評だったページだったとのこと。理屈ではなく、なんとなく学校を好きな生徒が多いことを表しているのかもしれない。しかし、そこにこそ危険が潜む。単にそれが自分の所属する学校だからという理由で愛校心が導かれているのだ。

チャイムやチョークの音などはどの学校でも日常の情景である。それに郷愁を覚えるのは当然だ。しかし、それらの日常の情景は、全国の〈一万を超える〉すべての学校で見られるものだ。「この」学校が好きな理由としては当てはまらない。生徒にとって自分の学校が好きと感じるのは、例えば「いい先生がいる」とか「部活を楽しくできる」とか「自由な精神がある」などの理由の方が普通ではないか。しかし、『心のノート』は、単に自分の属する学校だから誰もが好きなはず、好きでなくてはいけないというのだ。

(18)「ふるさと」はずっと変わらない?

愛校心を持つことが道徳的に優れていることを学んだ生徒は、次に自分のふるさとを愛する心の涵養へと導かれる。〈郷土をもっと好きになろう〉というタイトルのもと、〈ここにはいつもの風景いつもの音そしていつもの顔がある〉から〈ここが私のふるさと〉であると説かれる。しかし、日々変化していくのが自分のふるさとだと思っている子もいるだろう。ノートによると、それはふるさとではないらしい。そもそも昔ながらの情景があるから自分のふるさと、そのふるさとを好きになれというのでは、偏狭な懐古趣味にすぎない。それでは、自分のいる場所と、そこを支配しているルールに無批判的に従い、その集団そのものを好きになれといっているようなものだ。非論理的な自己愛が叫ばれた戦前の日本社会を思い起こさせる。このページには戦前に使われていた防火用水の写真まである。

(19)「日本は美しい国」のワナ

愛校心、郷土愛と続き、最後に愛国心に至る。〈我が国を愛しその発展を願う〉というタイトルのもと、次の本文がある。〈我が国には春夏秋冬がはっきりした自然があり、美しい風土がある。その、ひとつひとつの季節には私たちの心に響く景色があり音があり、色があり、風がある。ふるさとを愛する気持ちをひとまわり広げるとそれは日本を愛する気持ちにつながってくる。私たちが暮らすこの国を愛しその発展を願う気持ちは、ごく自然なこと。………〉(=>図7参照)

四季のある自然、美しい風土、心に響く景色。これらの外見的な美しさを持っている日本を愛するのはごく自然なことと断定する。しかし、これらの外見的な美しさを訴えるなら、郷土愛でも十分だったはずだ。わざわざ「国」に言及するのには、もちろん意図があるからだ。美しい自然のある日本を愛する気持ちが、本来は政治的な意味を持つ「国家」を愛する気持ちへとすり替えられる。

教師用指導書では、教師が期待する「生徒の声」の参考例として〈今の日本は暗いニュースが多い。でも美しい山、川、空を見るととても心が晴れやかになる。そのよさを大切にしていきたい。〉とある。この文からも、国家の政治性を忘れさせ、「美しい日本」をそのまま「国家」として認識させようとする意図が読みとれる。

(20)「狭くて排他的な自国賛美」

ノートの本文では次のように続く。〈でも、私たちはどれほどこの国のことを知っているのだろうか。いま、しっかりと日本を知り、優れた伝統や文化に対する認識を新たにしよう。この国のすばらしさが見え、そのよさを受け継いでいこうとするとき国際社会の一員として、地球人の一人として日本を愛することが、狭くて排他的な自国賛美であってはならない。この国を愛することが、世界を愛することにつながっていく。〉(傍点引用者) 〈優れた伝統や文化〉〈この国のすばらしさ〉〈そのよさ〉など、国を肯定する言葉が多用される。そして〈この国を愛することが、世界を愛することにつながっていく〉と、あくまで国を愛することを求められる。

「愛」は、その対象のいい面だけを見ていては決して生まれない。その短所も認識し、それを受け入れることによって自然に育っていくものだ。いい面だけを一方的に提示し、こんなに美しい自然、優美な伝統芸能がある日本なのだから、それを愛するのは当然だと説くのは甚だおかしい。〈日本を愛することが、狭くて排他的な自国賛美であってはならない〉と取って付けたような一文がある。しかし、「排他的な自国賛美」こそ、まさにこのノートの基本姿勢ではないだろうか。

(21)「美しい言葉、美しい四季」

教師用指導書には、留意点として〈世界中の人々が、同じようにそれぞれの自国を愛し、その発展を願っているということを押さえたい〉とある。これもまた強引な論理だ。日本国内でさえ、自国を愛することに論争があるのは周知のこと。まして世界には抑圧されている少数民族や、非合法化されている結社もたくさんある。そのような人々にとっては、国家とは抵抗の対象ではあっても、愛の対象などでは決してない。

さらに「自国の発展を願っている」という部分についても配慮がない。「国」は、個人が集まって構成しているものである。「国」の目的は、個人の人権の維持・発展をはかることである。「国」は個人の発展という目的のために設立・運営されるひとつの手段である。つまり、国の役割は個人の発展を援助することにあって、けっしてその逆ではない。個人が「国」の発展のための手段とされてはならない。したがって、個人が「国」の発展を願う気持ちを持つことは当然だとするノートの主張は、目的と手段を取り違えるものである。ここには、「国」による個人の支配の思想がある。これは、全体主義そのものだ。

右のページにある〈美しい言葉がある。美しい四季がある。そして………〉という未完成の文。続きを生徒に考えさせるとしたら、「………そして優れた伝統がある。だから私はこの国を愛している。」と書ければ文脈にぴったりだ。指導書を鵜呑みにして授業をすすめる教師だったら、満点の評価を与えるだろう。しかし、果たしてそのように書く中学生が、道徳教育が目指す「豊かな心」を持つ生徒像に合致するといえるだろうか。

(22)最後に

4 回にわたって、『心のノート』の問題点を検証してきた。ノートでは、しつけや従来のしきたりに従って行動することを生徒に求める論旨が目立った。確かに、「正しい道徳的価値」は存在する。しかし、教育現場では価値観の多様性は尊重されるべきものだ。「正しい道徳的価値」を教師が一方的に教えることは簡単だ。なぜそれをすべきでないのか。それは、多様な価値観を相互に批判しあうことを通して、生徒が自発的に正しい価値観を見いだすことが大切だからである。

生徒が自ら「正しい判断」をできるようになることが、生徒の心の成長につながるのである。この点については、『中学校学習指導要領解説 道徳編』でも「教師側からの一方的な道徳的価値の注入や押し付けではなく、自律的に考え、行動することのできる主体的な生徒の育成を目指さなくてはならない」(23 ページ)とされている。道徳教育は、ノートがそうしているように、既存の道徳規則を絶対化して常にこれに服従するよう導くものであってはならない。それでは、既存の社会に追従する人間を作るだけだ。指導要領の解説でもうたわれているように、「豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成を図る」ことこそ大切だ。全国一律で価値観の多様性の余地のない教材を使う道徳教育では、かえって子どもたちの道徳性が退廃しないか危惧する。

文部科学省の道徳教育は、『心のノート』発行以後、新たな段階に移行した。そのもとで、茨城県教育委員会は近年、さまざまの「心の教育」事業を推進している。しかし今まで見てきたように、生徒の心に響く真の道徳教育は、生徒と信頼関係を持っている現場の教師にしかできない。だからこそ、生徒が中学校までに使ってきた『心のノート』の問題点を知り、その上に立って道徳教育を進めていくことが、われわれ現場の教師にとって重要である。生徒との信頼関係に自負を持ち、堂々と道徳を語れる教師こそ、今の高校生は必要としている。

(おわり)

<2004年2〜6月 「茨城の教育」 905,907,909,911号より>

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つらさも今では
楽しい思い出に

マメだらけの足で最後の20キロを走り通したウオークラリー、朝から晩まで熱い授業を熱く受けた学習合宿、登山部のインターハイ出場をかけた予選で足がつりながらも地に這いかけ登った急斜面…。高校時代を思い出すと、なぜだかつらかった出来事が真っ先に思い浮かびます。でもさらに不思議なことには、それらが今では楽しかったことに変わっているのです。

卒業して十余年が経ちました。自分の経験を語れるほど大成してはいませんが、卒業後も常に新しいことに挑戦し続けていることだけは誇れます。信州や北海道の地で学び、海外にも研究活動のため滞在しました。新しいことにおそれず取り組めるのは、つらかった経験を一つ一つ乗り越えてこられた自信があるからです。つらさもいずれ楽しい思い出になるだけだと思えるからです。

その点で、高校時代につらさを経験できる環境があったことは幸いだったと思います。学校生活の中で生徒につらい思いをさせるのは、先生方にとってはなお苦渋のことだったのでしょう。それをあえて与えてくれた先生方には感謝せざるを得ません。自分も高校の教員となった今、生徒や保護者の反発をおそれ甘い環境しか提供できていない自分の弱さを省みさせられます。

そういえば私たちの学年では「3C」を合言葉にしていました。Concentration、Challenge spirit、Continueの3Cです。挑戦する目標を立て、それに向かって地道に努力する。これが私流の3Cの解釈です。目標は高ければ高いほどいい。その方がつらさをより一層味わえます。並木で培った3Cの精神を今の高校生にもこれからの高校生にも伝えていくつもりです。

 松本穂高(第6回卒業生)

<2003年10月 「並木高校創立20周年記念誌」より>

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教育基本法見直し議論を考える

(1)教育基本法見直し論議の現状

中央教育審議会(鳥居泰彦会長)は去る3月20日,遠山敦子文部科学大臣に,「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」を答申した。これは,現行の教育基本法を「改正」し,同時に「教育振興基本計画」を策定しようとするものである。

答申が提出されたいま,与党は「与党教育基本法に関する検討会」を組織して改正案の検討を重ねていくという。しかし,議論のボールは与党や文部科学省の側にあるのではなく,いまも国民の側にある。そこで,中央教育審議会の今回の答申についてより多くの人が知り,広範な国民的議論を進めてゆくことが大切だ。

この答申のどこが問題なのか,いま見直しを急ぐ真意は何なのか,そしてどうすれば教育はよくなっていくのかについて,3回連載で考えてみたい。各職場での議論の参考になれば幸いである。

(2)公聴会の実態

中央教育審議会(以下,中教審)は,最終答申提出に先立ち,昨年11月14日に中間報告を公表した。中間報告は「国民の皆様が教育への関心を一層高め,幅広い視点から活発な議論を展開」するための材料とすることが目的である。

中教審は国民からの意見を聴く機会の一環として,中間報告公表後の11月から12月にかけて東京,福岡,福島,京都,秋田の全国5カ所において「一日中央教育審議会(公聴会)」を開催した。公聴会では,あらかじめ決められた10名程度の意見発表者が登壇し,それぞれ8分間程度で意見を述べた。これらの意見発表者はどのようにして決められたのだろうか。

(3)これでは「お手盛り」公聴会

公聴会の日程とともに意見発表者募集要項が公表されたのは,中間報告の公表(11月14日)に先立つ10月17日である。つまり,まだ報告がまったくなされていない段階で早々に募集が開始されたことになる。さらに募集の締め切りは東京会場で11月20日であった。中間報告の公表後1週間で募集締め切りというのだ。これらのことは,「国民の皆様の御意見を幅広くお聴きする機会」(募集要項)との意義をみずから狭めていることにならないか。

さらに大きな疑問点がある。意見発表を希望する人は「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」の意見を800字以内で書いて送らなければならない。しかも「応募者が多数の場合は,お送りいただいた御意見をもとに選考」するという。主催者の意のままに意見発表者を人選できるのだ。ちなみに5会場での総応募者は305名だったのに対し,「選ばれた」発表者は46名であった。

仮に,改正に「賛成」の立場で意見を送って実際には「反対」の立場で意見を述べようとしても,「お送りいただきましたご意見の論旨に沿ってご発表いただきますようお願い」されてしまっている。主催者側はあらかじめ想定問答集まで作ることさえ可能なのである。これでは,国民の幅広い意見とは到底言えないことは明らかだ。

(4)「現状維持」と少々の「付け足し」のみ

では答申の中身を見ていこう。答申ではまず教育の現状と課題について解説している。教育の危機的な状況について,「青少年が夢や希望を持ちにくくなり,規範意識や道徳心,自律心を低下させている。いじめ,不登校,中途退学,学級崩壊などの深刻な問題が依然として存在しており,青少年による凶悪犯罪の増加も懸念されている。」という。その上で,その危機的状況を打破するために現行の教育基本法の定める普遍的な理念は大切にしつつ,今後重視すべき理念を明確化することが必要とする。

ここで注目すべきは,普遍的な理念はそのまま大切にし,今後重視すべき理念を新たに規定しようと宣言していることだ。現行法の理念は現在でも立派に通用するが,新たに追加したい項目があるからそれを書き加えよう,というのである。

実際,現在の教育基本法の条文に不都合な点や現状にそぐわない点はまったくない。その証拠に,答申でも「どこどこが悪いからこう直そう」という意見はない。新たに付け加える点を羅列しているにすぎないのである。

(5)現行法こそ「適当」

いくつか例を挙げていこう。まず前文については,「引き続き前文を置くことが適当」「現行法の前文に定める基本的な考え方については引き続き規定することが適当」となっている。第3条についても,「教育の機会均等の原則や奨学の規定については引き続き同様に規定することが適当」であり,さらに第4条の「義務教育」についても「引き続き同様に規定することが適当」と続く。

一方で新たに規定する項目についても例を挙げる。教育の基本理念について,「新たに規定する理念として,以下の事項について,その趣旨を前文あるいは各条文に分かりやすく簡潔に規定することが適当」として「個人の自己実現と個性・能力,創造性の涵養」など8項目を挙げている。また第6条の「学校教育」については,「学校の基本的な役割について(中略)簡潔に規定することが適当」とある。家庭教育については,「家庭の果たすべき役割や責任について新たに規定することが適当」とあり,丁寧にも「最小限の範囲で規定することが適当」との但し書きまでついている。

つまり,新たに付け加える場合でも「簡潔に」や「最小限の範囲で」とわざわざ断っているのである。なにがなんでも改正しよう,そのために付け加える点を作ろう,でもあまり大きく条文を変えてしまうと反発が大きくなりかねないからなるべく小さくしよう,という意図があるのかと勘ぐられても仕方ない表現である。

(6)「男女共学」は削除!?

ところで,答申の中で唯一「削除」の必要を述べた部分がある。第5条「男女共学」について,「現在では,男女共学の趣旨が広く浸透するとともに,性別による制度的な教育機会の差異もなくなっており,『男女の共学は認められなければならない』旨の規定は削除することが適当」となっている。

しかし,本当に「男女共学」の規定は不必要なのだろうか。男女共学がほぼ達成できたのだから規定はもう必要ないという論法では,平和な世の中が達成できたのだから戦争放棄の規定はもう必要ないという理屈と同じになってしまう。憲法で定める男女平等の考えを教育の場でも維持し発展させていくために,むしろなくてはならない規定のはずだ。

憲法の前文で「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と明文化されているのは,戦争を知らない世代に対して「以前日本でも悲惨な戦争があった」という事実を永久的に知らせるうえでたいへん有効である。同様に,「男女は,互いに敬重し,協力し合わなければならないものであって,教育上男女の共学は,認められなければならない」という教育基本法第5条は,「以前日本でも男女は平等でない時代があった」という事実を後世に伝える上でたいへん有効と考える。

短い条文一つが,近現代の日本社会の変遷を教科書以上に饒舌かつ端的に語っている。そのような価値を顧慮せずに「削除」とは少々乱暴にすぎないか。

第2回
(7)現行法改正で諸問題は解決しない!?

今回の答申では,教育基本法の条文見直しとならんで,「教育振興基本計画」策定に関する提言がもう一つの柱となっている。

注目したいのは,答申の「教育振興基本計画策定の必要性」の項に述べられている文言だ。「実効ある教育改革は,教育基本法の理念や原則の再構築とともに,具体的な教育制度の改善と施策の充実,さらに,教育に携わる者,教育を受ける者,国民一人一人の意識改革とがあいまって,初めて実現されるものである。」

一見もっともらしいことを述べているが,裏を返せば,具体的な制度や国民の意識を改革しない限り実効ある教育改革はできない,と言っていることになる。答申の概要を紹介したパンフレットでは,さらに踏み込んで「教育基本法を改正するだけで教育の課題が解決するわけではありません」とまで断言している。中教審はみずから,現行法を見直しても教育の課題が解決しないとが認めてしまっている。これでは,中教審での議論の実効性さえ疑われかねない。ではいったい何のための「改正」なのか。

(8)いま改正は「木を見て森を見ず」

教育は「国家百年の計」と言われるように,息の長い活動であるはずだ。10年や20年,まして数年ほどで成果のあらわれるたぐいのものではない。最近,ノーベル賞の連続受賞という明るい話題もあった。これは戦後の教育が,教育基本法の精神を汲んで民主的におこなわれてきた成果を示している。つまり,教育基本法に述べられた理念がいま成果となってあらわれつつあるのだ。

ここ数年程度というごく短期的な社会情勢の変化に合わせて「さっそく見直し」というのでは,あまりに性急すぎる。「木を見て森を見ず」と言わざるをえない。「教育の憲法」としての教育基本法に,こうした取扱いはふさわしくない。

(9)憲法と教育基本法は一体のもの

本来の「憲法」,すなわち日本国憲法に関してさえ見直しに向けた議論が始まっている。そこには,まず「教育の憲法」である教育基本法を改正して国民のアレルギーをやわらげたうえで,本命の憲法改正に着手しようという意図があることは明らかだ。なぜ教育基本法改正が憲法改正に結びつくのか。

周知のように,日本国憲法と教育基本法はほぼ時を同じくして公布,施行された。憲法の中で教育に関する事項だけ取り出してまとめられたのが教育基本法なのだ。その証拠を示そう。日本国憲法が施行されたまさにその日(1947〔昭和22〕年5月3日),当時の高橋誠一郎文部大臣が「教育基本法制定の要旨」という文部省訓令を公表した。その一部を抜粋する。

「さきに,憲法の画期的な改正が断行され,民主的で平和的な国家再建の基礎が確立せられたのであるが,この理想の実現は,根本において教育の力にまつべきものである。(中略)この法律は,日本国憲法と関連して教育上の基本原則を明示し,新憲法の精神を徹底するとともに,教育本来の目的の達成を期した。」要約すれば,憲法に述べられた理想は教育の力によって実現するので,その教育について基本原則をまとめた法律を制定して,憲法の助けとする,ということである。

この訓令から明らかなように,憲法と教育基本法はまさに一体のものとして公布された。したがって,教育基本法を改正することは,憲法を改正するのと同様の意味を持つことになる。少なくとも教育基本法を改正すれば,憲法改正もかなり容易になることは予想に難くない。

  (10)「教育者自身の自覚と努力」

先ほど引用した高橋誠一郎文部大臣の文章には,次のくだりもある。「この教育基本法を運用し,真にこれを活かすものは,教育者自身の自覚と努力である。」つまり,教育者自身に重い責任が負わされているのだ。かりに中教審答申がいうように,いじめ,不登校,中途退学,学級崩壊,少年による凶悪犯罪などの増加が事実だとしても,決して現在の教育基本法が悪いからではない。その崇高な理念を教育者自身が活かしきれていないからだろう。

答申は「教育改革」が必要だとうたっているが,まず実践すべきことは条文の見直しなどではなく,自覚なき教育者の意識を改革させることだ。第一線の現場に立つ教員がまったく参画していない中教審こそ,自覚なき教育者の集まりと言えないだろうか。日々変化する教育現場を知らずして教育改革を叫ぶなど,これ以上の自覚なき教育者がいるだろうか。

(11)「教育振興基本計画」とは何か

話を教育振興基本計画に戻そう。この計画は,中教審答申で「速やかに策定されることを期待する」と述べられるほど重要視されている。なぜ基本計画が必要なのか,答申から読みとってみたい。

多くの分野で,「○○基本法」と名のつく法律が制定されている。その中でも,この10年ほどのあいだに制定された「基本法」には,それに基づく「基本計画」が策定されている。例えば「環境基本法」における「環境基本計画」,「科学技術基本法」における「科学技術基本計画」などである。これらの計画には,施策の基本方針や目標,各種の具体的な施策,施策を推進するために必要な事項などが,総合的,体系的に盛り込まれている。

中教審答申は,「政府として,未来への先行投資である教育を重視するという明確なメッセージを国民に伝え,施策を国民に分かりやすく示すという説明責任を果たすためにも,教育の根本法である教育基本法に根拠を置いた,教育振興に関する基本計画を策定する必要がある」と述べている。

「教育振興基本計画」の策定は,その内容次第では意義があるかもしれない。各学校の実態に沿った教育活動を展開できるように,学校や教員に今まで以上に裁量権を持たせるための具体的な施策などが挙げられるなら,おおいに賛成できる。中教審答申ではまったく逆のことが述べられている。しかし,答申に挙げられた「基本計画」の内容については,のちほど改めて検討することとする。

(12)「基本計画」策定の根拠規定は必要ない

いま問題なのは,教育基本法に「基本計画」策定の根拠規定を置くことの当否である。

中教審答申は,「基本計画」を策定するためには教育基本法に条文を付け加えなければならないので,教育基本法を見直す必要があると言っている。これはまったく見当違いの論旨だ。例えば,学校教育法は,教育基本法に制定の根拠が置かれているだろうか。学校制度の基準を定めた学校教育法でさえ,教育基本法には明確な根拠はない。なぜ時限立法的な「基本計画」が,教育基本法にその根拠となる条文を必要とするのか。

教育基本法の「この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には,適当な法令が制定されなければならない」(第11条)という条文が,学校教育法の根拠だとするなら,この同じ条文を根拠として「基本計画」を策定してもなんら問題はないはずだ。中教審答申の論理は,教育基本法に手を加える口実を増やすための策としか思えない。

第3回
(13)これでは教育「侵攻」計画

「教育振興基本計画」を策定するための根拠を教育基本法に規定する場合,どういう条文となるだろうか。「科学技術基本法」など,他の「○○基本法」を参考に想定してみる。

第○条 政府は,教育の各分野にわたる具体の施策の総合的かつ体系的な推進を図るため,教育の振興に関する基本的な計画(以下「教育振興基本計画」という。)を定めなければならない。

2 教育振興基本計画は,次に掲げる事項について定めるものとする。
@総合的かつ長期的に講ずべき教育振興の促進に関する施策の大綱
A前号に掲げるもののほか,教育振興の促進に関する施策を総合的かつ計画的に推進するために必要な事項

3 内閣総理大臣は,中央教育審議会の意見を聴いて,教育振興基本計画の案を作成し,閣議の決定を求めなければならない。

4 内閣総理大臣は,前項の規定による閣議の決定があったときは,遅滞なく,教育振興基本計画を公表しなければならない。

この10年ほどの間に策定された各種基本法ではほぼ同様の様式になっているので,教育基本法に関してもこのような条文になると予測できる。

特に第3項が問題となる。「教育振興基本計画」は,実質的には中央教育審議会が文案を作成し,それを内閣で承認・決定するという流れになる。つまり基本計画の内容は,国会の審議を経ることなく,閣議決定されるだけで公表されしまうことになる。

今でさえ,中教審は文部科学省の言いなりの答申しかしていない。つまり中教審の答申は,ほぼ文部科学省やそれに影響を与えている政治家の意向と考えてよい。したがって,この条文が基本法に付け加えられると,文部科学官僚や一部の政治家の意向が,そのまま法的根拠を持って教育現場に強制されてしまう危険性があるのだ。

(14)「基本計画」は選別と競争を助長

教育振興基本計画では,「今後おおむね5年間に重点的に取り組むべき分野・施策を明確に」し,「できる限り数値化するなど,達成度の評価を容易にし,施策の検証に役立つよう留意する必要がある。」と述べている。

今まで数値化された教育目標で有益なものがあっただろうか。大学進学率,模擬試験の点数,いじめ・校内暴力の「半減」などの数値目標,さらには「愛国心」の点数化。

教師は,地域や学校の実態に応じて,また生徒の能力や家庭環境に応じて,生徒にとって最善の教育を試行錯誤する。それが正常な教育の姿のはずだ。全国一律に数値で測れるものを教育目標として導入することが害であることは言をまたない。

画一的な教育目標に基づき,生徒も教師も競争を強いられる。その競争に勝つ者だけが選別され,脱落していく者は見捨てられる。これがまさに,「基本計画」の中で述べられている「国家戦略として人材教育立国を目指す」ための具体的な方法である。国家が教育に直接介入して,「国を愛し国に有益な人材」を育成すること,それが教育振興基本計画策定の真意にほかならない。

(15)教育現場の声を反映させた計画を

教育に関する具体の計画を策定するという考え自体は非難されるべきものではない。むしろ教育を進める上で何らかの目標は必要だ。ただし,各学校や地域の実態に応じて柔軟に教育目標を設定できることを保障することが条件である。

答申では最後に「今後の審議において計画に盛り込むことが考えられる具体的な政策目標等の例」が列挙されている。この中の「信頼される学校教育の確立」の項に「教員の能力,実績を適切に評価するシステムの導入」と述べられた部分がある。

これがこのまま記載されると,指導力不足教員や不適格教員を認定する全国一律の基準が作られるおそれがある。ある学校では指導力を発揮できない教員でも,別の学校へ行けば十分に発揮できることは大いにありうる。また,「指導力不足教員」を認定する人物こそが「指導力不足教員」という可能性だってある。このように政策目標のひとつをとっても,全国一律のこのような基準がいかに教育現場にそぐわないものかがわかる。

画一的な基準を作るのではなく,教員が各学校の実態に応じて民主的に学校を運営するシステムを導入することこそ,信頼される学校教育の確立につながるのではないか。

(16)政治主導からの脱却を

そもそもいま進んでいる教育基本法見直し議論は,もともと教育現場からの要望ではじまったわけではない。憲法「改正」と絡んで政治主導で始まったことである。教育現場の実態は各家庭,各学校,各地域社会によって多様である。したがってトップダウン式の改革ではうまくいかないことは明らかだ。

現行法をどうしても見直す必要があるというのなら,まずおこなうべきは現行法のもとでおこなわれてきた半世紀にわたる日本の教育の成果を総括することだ。

答申では,なぜいま,教育は多くの課題を抱え危機的な状況に直面しているのか,その原因と責任の所在を明確にすることを避けている。これまでの教育政策や教育行政のありかたを問い直すことをせずに,その原因が「国民の倫理観・社会的使命感の喪失」,「少子高齢化による社会の活力低下」,さらに「経済の停滞」など「社会の変化」にあると決めつけている。またその責任が「家庭,教員,地域社会の教育力不足」にあると決めつけている。

教育の危機を叫びながらその原因や責任を検討しない。こんな乱暴な審議があるだろうか。

(17)「改正」案の提出断念に向けて

確かに,時代の変化に対応して教育改革を進めることは必要だ。しかし,改革の方向性を誤っていては元も子もない。

膨大な時間と労力と費用をかけて教育基本法見直しに向けての論議が進んでいるが,今までみてきたように現行法を変えても決して教育がよくなるわけではない。むしろ,「改正」にかけるエネルギーを,現行法の理念を具体化させる方向へ転換すべきだ。

いま,教育基本法見直し議論のボールは国民が持っている。しかし,国民的な議論が尽くされたとは言いがたい状況である。いまこそ,現場の教員が教育基本法の崇高な理念を改めてかみしめ,「見直し必要なし」との声を大きくしていくときではないだろうか。その大きなうねりが,教育基本法「改正」案の国会提出断念へとつながる。

仮に万が一,答申に沿った「改正」案が提出され,可決されてしまったとしても,現場からの反旗が上がるに遅すぎることはない。公布・施行された法律でも,徹底的な批判の声の積み重ねにより,事実上の骨抜きにすることも可能なのだ。

いずれにせよ,今の教育をいちばんよく知っているのは,第一線の現場で日々児童生徒と接している教師にほかならない。中教審に名を連ねる大学学長や会社取締役ではなく,まして文部科学官僚や政治家でもない。そのような現場の教師の意見をまったく反映させていない中教審答申は,魂の入っていない仏と同じだ。また,答申を受けての教育基本法見直し論議は,机上の空論に陥っているのは明らかだ。

見直し賛成・反対のいずれの立場にせよ,現場の教師の意見をとり入れてこれから議論を進めていくことが不可欠だ。

<2003年7〜9月 「茨城の教育」 894,895,897号より>

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北方領土運動は
返還後の姿示せ

一日のこの欄に、日ロ間の帰属未定地が四島にとどまらず全千島、南樺太まで含まれるとの主張があった。これは認識不足だ。1951年のサンフランシスコ平和条約を熟読してほしい。千島列島のうち江戸時代より日本人が居住していた国後島、択捉島のみ日本固有の領土であるという一貫性を失っては、ロシア側の態度を硬化させるだけだ。

北方領土返還運動で疑問に思うのは、返還後の青写真が見えてこないことだ。土地をどう活用し豊かな自然環境をどう守るのか、元島民はどのくらい帰還するのか。

このような議論が表出しないのは、豊かな漁場が欲しいだけだからかと勘ぐりたくなる。

返還運動を国民の共通認識として発展させるには、「その後」の姿をもっと提示していくことが不可欠と考える。四島一括、二島先行の手段いかんにかかわらず、漁場を得るためとのエゴが見え隠れする限り解決への道のりは遠いだろう。

 大学院生 松本穂高 (札幌市北区・27歳)

<2001年9月20日 北海道新聞「読者の声」より>

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森首相の言動は
子供にも悪影響

連日、森首相と番記者とのやりとりが紙面に載る。記者の質問に対して無言を押し通す態度は、国民をまったく愚ろうし、憤りを覚える。首相のこうした態度は、とりわけ子どもへの影響が心配される。

一国を指導する立場であるのに、そうした言動がまかり通るのが大人社会の本質だと理解する子供もいるだろう。現場で日々子供と向き合っている教師の努力もむなしくなる。

教育基本法では、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじる国民の育成こそ教育の目的とされる。この条文に照らすと、他人の質問を平然と無視し、職責を放棄した森首相の態度は、最も望ましくない人物像。まさか教育改革と称し、条文を変更しようと言い出すわけであるまい。

操り人形だから仕方ない、記者嫌いだから許せ、では済まない。首相という立場にいることで、その悪影響が社会に増殖することを認識すべきだ。

 大学院生 松本穂高 (札幌市北区・27歳)

<2001年4月7日 北海道新聞「読者の声」より>

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空港連絡列車に
手荷物置き場を

私は新千歳空港をよく利用します。たいてい大きな荷物を携えていますので、JRの快速エアポートを利用して行く場合には、置き場所に困ります。列車には、荷物専用スペースの設備がないからです。

車内がすいている時は座席近くまで持ち込むことも可能ですが、混雑している場合にはデッキに荷物を置かざるを得ません。さらに、途中駅で停車するたびに、乗降客の邪魔にならないように荷物を動かす必要があるので、私自身もデッキに立ち尽くさなければなりません。

私の知る欧州などの大空港では、そこに乗り入れる鉄道やバスには必ずトランクスペースが備えられています。新千歳と結ぶ空港バスも、羽田空港と結ぶモノレールも、その点の配慮がなされています。

快速エアポートは途中駅での乗降客も多いため、荷物置き場を作ると非効率的なのかもしれません。しかし、座席をわずかに減らすだけで設置可能なはずです。現状は、効率を追求するあまり、人への優しさが抜け落ちていると感ぜざるをえません。ご一考をお願いします。

 大学院生 松本穂高 (札幌市北区・26歳)

<2000年8月11日 北海道新聞「読者の声」より>

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〜第五集〜

"Where there's a will, there's a way!"
――この言葉を高校時代のある授業で聴いたことを覚えています。学年最後の授業、その先生はこの言葉とともに「君たちも常に心がけてください」との言を残し、授業は終わりました。そのときはこの言葉に込められた真意に、実感がわきませんでした。しかし今ではより深くかみしめられるようになり、その先生には陰ながらとても感謝しています。

私は高校時代、山登りや鉄道旅行などが好きでした。地図と時刻表が愛読書と自認し、暇さえあればどこかの山や知らない土地に出かけていました。そんな中で、ふと疑問に思う場面に出会うことが多々ありました。例を挙げるなら、車窓から見える奇妙な形の山に、なぜこのような形になったのだろうと思ったり、また山に登れば道ばたにある石を見て、どうしてこんなきれいな石がここにあるのだろう、などと思ったものです。しかし、そのような素朴な疑問に対し明快に答えてくれる教科書を、持ち合わせてはいませんでした。

疑問に思ったことはどうしても知りたい! そういう姿勢は、自分の好きなことに対し、とことん専念できたこの高校時代において培われたと思います。「自」を重んずる並木高校の校風のたまものと言えるでしょう。「知りたい」と思うこと、言い換えれば自分の知的好奇心を満たすこと、それは取りも直さず現在取り組んでいる研究活動への布石となりました。当初の疑問は、未だ解決されていません。それどころか、勉強や研究を進めるにつれ、疑問はさらに増す一方です。まるで底なしに沼にはまり込んでいくように。

そこで、末筆ながら質問させてください。あなたの素朴な疑問は何ですか? それは解決に向かっていますか? きっと単純な疑問ほど、解決への道のりは長いことでしょう。まだ自分にとっての疑問が見つからない方には、あなたの好きなことは何ですか? きっと何かあるはずです。学校の勉強でなくて構わないのです。その好きなことにとことん取り組んでみてください。その中で、ふと疑問に行き当たることが必ずあるでしょう。その疑問の解決を追求する過程こそ、自己実現への道に他なりません。

かくいう私も、底なし沼からはい上がるべく、疑問の解決に向け、地道に活動する毎日です。行く先も未だ見えない状況で、こんなことしていていいのだろうかと不安に陥ることもしばしばです。そんなときは思い出します。高校時代のある先生からもらった唯一の拠り所を。そう、「意志あるところに道は開ける」と信じて。

 松本 穂高 (第6回卒業生、現・北海道大学大学院生)

<2000年2月 並木高校図書館たよりNo.13 「青春群像」より>

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年金制度改正は
十分な議論必要

現在は60歳からの年金の受給開始を65歳に引き上げる年金制度改正関連法案が七日の衆議院本会議で可決された。政府・与党は参院では継続審議として今国会での成立を見送るものの、次期通常国会で成立を図るという。

公的年金は、仮に現状のまま進めば負担者と受給者のバランスが崩れ、いずれ制度自体が破綻することは目に見えている。したがって、何らかの形での負担増加はやむを得ないであろう。しかし、十分な議論を経ないまま改正されてしまうことには、危機感を覚える。

私の周りには、支払ったところで本当に受け取ることができるのか疑問だと、国民年金保険料を納めていない学生もいる。このような懸念を抱くことは、当然だ。受給開始年齢が引き上げられた後に受け取ることになる若い世代に、今までどれほどの相談があっただろうか。

年金制度改正には、他の保険事業とのプール制、税負担方式の導入などの選択肢もある。このような議論を省略し、数の力で採決に持ち込んでしまうことは許されない。今取り組むべきことは、若い世代も安心して支払うことができる年金制度を確立するために、国民的な議論を進めることではないだろうか。
 大学院生 松本穂高 (札幌市北区・25歳)

<1999年12月11日 北海道新聞「読者の声」より>

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わいろ性帯びる
企業献金禁止を

紆余曲折の末、自民党は来年1月から議員個人への企業・団体献金を禁止する方針を打ち出した。これは法律に明記してあることで、当然だと思う。

しかし、これで一件落着とは言えないようだ。というのは、自民党は従来通り企業・団体献金が議員個人へ渡るように抜け道をつくるという。具体的には、自民党の支部を小選挙区ごとに細分化し、その支部長を議員が務めるようにする。これによって、党支部への献金が、議員個人に渡る仕組みだ。

このような工作をしてまで企業・団体献金に固執する自民党の体質に、あきれるばかりだ。企業・団体献金は、多少なりともわいろ性を帯びているのは周知の事実だ。ならば即刻これを全面的に禁止するのが筋ではないだろうか。企業や団体から献金を受けないで活動している政党も現実に存在する。献金に頼らなければ政治活動が遂行できないという言い訳は、単なる甘えにほかならない。

世間ではリストラのあらしが吹き荒れている。政治家だけが安泰では納得できない。企業・団体献金の全面的な禁止を、早急にお願いしたい。

 大学院生 松本穂高 (札幌市北区・25歳)

<1999年11月17日 北海道新聞「読者の声」より>

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スノーモービル
無法に歯止めを

先日、大雪山を登山した折、信じがたい光景に出くわした。静寂の世界を切り裂くけたたましい騒音とともに、どこからともなく十数台のスノーモービルが現れたのである。

それらは純白の斜面を縦横無尽に走り回ったあげく、雪面からわずかに顔をのぞかせたハイマツの上までも、かまわずに通過していった。その跡を見ると、無残にもハイマツはへし折られ、目をそむけたくなるような状況であった。

大雪山の山頂域一帯は国立公園の特別保護地区に指定され、スノーモービル等の乗り入れ禁止区域となっている。夏には登山道をわずかに踏み外しただけで監視人が注意を促す拡声器の声が飛んでくるような、管理の行き届いた地域である。しかし、積雪期には、このような悪質な行為がまかり通る無法地帯となっているのである。

禁止区域にもかかわらずスノーモービルの乗り入れが見られる山域は大雪山に限ったことではないらしい。積雪の踏み固めによる植生への影響、騒音が野性動物へ与える影響、そしてハイマツなどの植生の直接的な破壊など、問題はたくさんある。

山の自然環境を守っていく上で今後、何らかの対策が必要であろう。
 大学院生 松本穂高 (札幌市北区・24歳)

<1998年5月8日 北海道新聞「読者の声」より>

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大学院での勉学 / 院生の声

君は、これから大学生として勉強をしていく中で、分からないことに出会うことが必ずある。その時、教科書や専門書などを開いてみる。もしそこに求めている答えを見つけることができなかった場合、君ならどうするだろうか。「専門書にも載っていないのだから、なおさら知りたい」。このように考えが向いたら、それは「研究」への第一歩だ。

私は山登りが好きである。学部生時代は、信州大学で山岳部員として登山に明け暮れる生活を送っていた。多くの山と接していく中で、次第にそこにあるさまざまな自然ついて興味を持つようになった。「この一風変わった地形はどうやってできたのだろうか」、「どうして高山には植物がまだらに生えているのだろう」などなど。そんな素朴な疑問に対する明確な答えは、専門書などの中にそう発見できるものではなかった。

疑問が増えていくにつれて、私は一段と山の自然に対して興味を持つようになり、それに関連することの勉強もするようになった。そして、さらに深く追究していくためには、大学院に進学して研究をするしかない!と思うようになった。そう決めてからは、目標を達成するために夢中で勉強できた。

そして今私は、自分の好きなことを勉強・研究できるという、とても充実した毎日を送っている。北大の当研究科を選んだのは、僕がやりたいと思っている研究に関連する先生方や先輩がいたこと、また研究室訪問をしたときに、先輩方がとても自由な雰囲気で研究活動をし、和気あいあいと院生生活を楽しんでいることが感じとれたこと、そして何よりも、実際に野外調査をしてみたいと思った大雪山が身近にあったことなどが理由である。大学院を終えたからといって、就職口が扉を開けて待っているということはない。逆に門が狭まる場合さえある。今私は、将来の進路についてはまったく考えていない。とにかく研究が好きだからやっているだけである。一つのことを一途にやっていれば、おのずと道は開けてくるという信念のもとで。
(地球環境科学研究科 修士課程2年 松本穂高)

<1998年2月 北大生協発行「北大生の生活」(98年度北大学部合格者全員に配布)より>

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積雪期調査に思う

私が学部生のとき、指導教官だったk先生と沢登りに行ったことがある。氷河地形があるのではないかと疑われている地域に、その証拠を見つけに行く目的が半分、単に遊びにという目的が半分であった。先生は50歳を過ぎており、ザイルを使うようなハードな山登りをするには、決して若いと言える年齢ではなかった。ところがいざ沢に入ってみると、先生の足取りは軽く、滝や急な草つき斜面のトラバースを難なく越えていった。かえって私の方が、先生のちょっとした動作から得ることが多かったのが実際である。聞けば、先生は学生時代に山岳部員として活躍していたとのことであった。

またあるとき、地形学を志すメンバーが集まり、巡検で登山をしたことがある。初秋のころのこと、2000mほどの山であった。登山中に天候が急変し、私たちは風雨にさらされることになった。メンバーの何人かは山登りがほとんど初めてであり、装備が貧弱だった。手袋や雨具すら持っていないことに、私は驚かざるを得なかった。登山の経験というのは、やはりいざというときに重要になってくるものだと実感した出来事であった。

聞くところによると、高山地域で調査する研究者の中には、登山技術の訓練の経験がほとんどないままに山に向かう人も見受けられるとのことである。無雪期だけの入山なら、それほど問題はないだろう。しかし積雪期の日本アルプスのように、きちんとした訓練を受けた人しか行くべきではない山域に、そのような訓練を受けていない研究者が安易に入山することは、どうかと思う。

最近では、冬季でも運行するリフトやロープウェーが山奥まで延びるようになった。それによって、厳冬期の日本アルプスでさえ、かなり身近な存在に感じられるようになった。しかし忘れていけないことは、どんなにアプローチが楽になろうともいったん山の中に入れば、山の環境の厳しさは昔から何も変わっていないということだ。冬山登山を経験している人なら知っているが、冬山では天候の急変によって山の表情がまったく変わる。熟達者でさえ、冷静な判断ができなくなったりするのだ。それに、もし天気がよかったとしても、積雪の斜面では常に雪崩の危険がつきまとう。ピッケルを用いた滑落停止技術や積雪の弱層テストの方法などは、最低限知っていなくてはいけないことだ。

そこで私は思う。冬山登山に必要な知識・技術がほとんどない人が、積雪期の高山にのぞむことがあってはいけない。ましてピッケル、アイゼンの使い方さえ分からないなどと言っている人では、無謀と言うほかない。山での事故は、多くの人に迷惑をかけ、また膨大な費用がかかることを考慮するべきだ。そして積雪期の高山にのぞもうと思う人は、しっかりした知識と技術を習得した上で、危険地域に立ち入るという自覚を持って出かけてほしい。

自分のフィールドの積雪期の様子を見ることは、研究により深みが増すという点で賛成できる。今まで登山技術に対する訓練を受けたことがない人は、一度受けておけば、k先生の例が示すようにその後の研究活動の可能性が大きく広がるということを視野に入れ、この際訓練を受けることをぜひご一考願いたい。
 松本 穂高(北海道大・院)

<1996年12月 寒冷地形談話会通信「山岳気象台」より>

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ゲーム機遊びも少年犯罪の一因

最近、若者による凶悪な犯罪が急増しているとのことであるが、それはなぜだろうか。よく家族との意志疎通が少なくなったからとか、家庭でのしつけがなっていないためなどと言われているが、私は、それだけではないように思う。

先日、ある商店の中で、小学生らしい子供が数人でゲーム機に向かっていた。一人が遊んでいるのをほかの子供がわきで見ているのだが、子供たちはゲームの中のキャラクターに向かって「死ね、死ね」「よし殺せ」などと皆で叫んでいるのである。私は背筋に寒いものを感じずにはおられなかった。

思うに、このようなゲームにのめり込んでしまう子供の中には、ゲームの中の世界と現実との区別にまひして、人の命の重さを軽視したり、あるいは理解できなかったりする子も出てくることだろう。ゲームの中のキャラクターとは違って、人の命は一度消えたらやり直しが利かないということを、このような子らにだれが教えればよいのか、あるいはこのようなゲームをなくせばよいのか、私には分からない。
 大学院生 松本 穂高(札幌市北区・22歳)

<1996年9月29日 北海道新聞「読者の声」より>

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白鳥の餌付けに疑問

先日、明科町にある犀川ダム湖、通称白鳥湖に行った。湖面には白鳥やカモが所狭しと泳いでおり、その多さに圧倒された。その数は餌付けの甲斐あって、年々増加しているという。確かに白鳥はきれいで、人の目を引き付ける。しかし白鳥を餌付けすることは、果たしていいことなのだろうか。

餌付けすることは、白鳥にとって「野性」を失うことになるだろう。餌を自分で取ることを忘れた白鳥たちは、北へ帰った後、きちんと生きていけるのか、私はいささか心配である。また見物客目当てに動物を餌付けすれば、地獄谷の猿の事例が示すように、悲惨な結果を招きかねないことが予想される。さらに見物客のために道路や駐車場を作り、また昨年7月の豪雨のあと、荒れたダム湖周辺は白鳥が飛来できるように河川改修を行った。これらは小さいことではあるが、自然を壊していることに他ならない。

そもそもダム湖であるということ自体、不安な面を持っている。もし豪雨などでダムの水門を開けなければならなくなった場合、白鳥たちはたちまちにしていなくなるだろう。そんなはかないものなのだ。きれいな白鳥をペットにするという人間の自己満足のためにその野性を失わせ、同時に自然を改変するという行為は許されるのか、私は疑問である。
 (松本市・22歳・学生)

<1996年2月9日 週刊まつもと>

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感動を奪った山中の戦闘機

この年末年始に私は10日間ほどの日程で北アルプスを登山した。初日から3日間の悪天の後、待ちに待った快晴の日がやってきた。真っ白に輝く山並みの中に、黒々とした岩肌を見せる尖峰(せんぽう)群が迫り、私の目を奪った。私たちはだれもいないりょう線をゆっくり登っていた。

その時である。私は突然のごう音に気が動転した。「雪崩だ」と一瞬思ったが、違った。自分の目の下をものすごいスピードで、一機の戦闘機が飛び抜けていくのが見えた。その後もその戦闘機は静寂を切り裂き、白い峰々の間を縦横無尽に飛び回り、5分ほどして去っていった。

あのすざまじいごう音が野性生物に影響を与えないはずがない。不安定な積雪の斜面では、雪崩を誘発することもあるだろう。こんなことが許されているのだろうかと、私は疑問に思った。

聞くところによると、夏にもこんなことはよくあるという。素晴らしい感動の時を一瞬にして奪った戦闘機を、このまま放置するわけにはいかないと思う。
 松本市 松本 穂高 (22=学生)

<1996年1月18日 信濃毎日新聞>(一部加筆・修正)

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切れ味鋭い批評に期待

私は信濃毎日新聞1面のコラム欄「斜面」をいつも読んでいる。身近な地域の話題から時節の自然のうつろい、政治や社会問題まで幅広く扱っていて、筆者の知識の豊かさと感受性の素晴らしさに感心させられている。

そんな折り、つい先日の21日付けの欄を読んでびっくりした。住専問題に対する政府の対応について、「冗談じゃない。金を借りた側が返せばいいじゃないか。貸した側が取り立てればいいじゃないか」と、いつにない厳しい口調で批判している。

確かに私もこの問題については、大きな疑問と怒りを抱いていた。そこにこの論調である。「筆者はいったいどんな方だろう」と思うと同時に、市民の考えを新聞という公器で代弁してくれる筆者に、とても親近感を覚えた。これからも市民の立場で、切れ味のいい批評をしてほしいと思う。
 (岡田・学生・21歳)

<1995年12月28日 まつもとタウン情報>

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ラジオのアナウンサー 言葉は慎重に

私はよくラジオを聴く。手を動かしながら、いろいろな音楽や情報を聴けるのがよい。特に地元のアナウンサーが司会をやっている番組などは好きである。

しかしそんな番組の中で、一つ気になることがある。アナウンサーの人がリスナーの人と電話でしゃべるような場面があるのだが、その時アナウンサーが「何年生ですか」と聞き、相手が「中学3年です」と答えると、「じゃあ受験生だね」と言う。聞き流してしまえば別に違和感のないことかもしれないが、私はアナウンサーのこのような発言には納得できないものがある。

もちろんそれは、みんなが高校に進学するわけではないからである。中学を卒業すれば、その後の進路は自分で決めていくものなのに、アナウンサーのこのような言葉は、その本人や今後中学を卒業する人たちに、「受験・進学は当然のこと」という意識を植えつけてしまってはいないだろうか。ひいては、学歴社会を助長するようなことになってはいないだろうか。もし同じような場面で、「じゃあ受験生なのかな」と、少し言葉を換えるだけで全然違うのにと思う。
 (松本市・21歳・学生)

<1995年12月1日 週刊まつもと>(一部加筆・修正)

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登山日程に余裕を
後絶たない冬山遭難

冬山登山での遭難事故が後を絶ちません。なぜ不幸は繰り返されるのでしょうか。

その大きな原因の一つに、日程の余裕のなさがあると思います。今年の初めに中央アルプス・千畳敷で起きた遭難事故も、冬山にしては異常な高温状態という悪条件の中にもかかわらず下山したのは、日程に余裕がなかったからと思われます。

私は現在、大学山岳部のリーダーを務めていますが、この冬も多くの登山計画が出されました。一つ一つの計画を吟味する段階で、雪崩や滑落などの起こりそうな危険箇所を挙げると同時に、予備日と行動予定日を同じ日数分くらい取るように指導しています。

阪神大震災により、自然の恐ろしさを改めて意識した人が多いことでしょう。人間は自然を征服することなどできません。登山者は自然に対する自分の無力さを知り、自然に謙虚に接する態度が必要だと思います。

私自身を含めて、冬山登山をする人は、どうか余裕をもった日程のもとで、安全第一を心掛けて行動してほしいと思います。事故さえなければ、登山は楽しく、素晴らしいものなのだから。
 長野市 松本穂高 (21=学生)

<1995年2月17日 信濃毎日新聞>(一部加筆・修正)

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インターハイから学んだこと

「なんてすばらしい登山だったのだろう。まだ、帰りたくない」――これが山を降りた直後の正直な気持ちです。

今年のインターハイ山岳競技は、「感動はいっしょうけんめいの熱い風」というスローガンのもと、静岡県の南アルプス・赤石山系で行われました。この大会に出場するために、僕たちはとても多くの犠牲を払い、努力をしましたが、実際この大会はそれらの犠牲や努力を無駄なものとはしませんでした。地元の方々の熱い歓迎、南アルプスの大自然、そしてその大自然の中で得た他県選手との友情は、これからの人生において大きな宝となることは間違いなく、決して忘れることはないでしょう。

我が校はインターハイ初出場だったので、周りからの上位入賞への期待もありましたが、僕たちは平素の登山スタイルで今大会に臨むことにしていました。また登山競技というのはあまり敵対意識を持たずに競技できる種目であることにより、全国の山仲間と知りあって情報などを交換できるのは、他の種目にはない良い点だと思います。実際、北は岩手から南は熊本まで、幅広い仲間と寝食を共にし、深い友情をはぐくむことができました。

また、今回は初の3千m級の鉱山での大会であったにもかかわらず、一パーティーのリタイアもないという快挙を遂げられたことは、役員の方々と選手が気持ちをひとつにして頑張った結果だと思い、大きな感動を覚えました。僕自身も高校の三年間に山に百日余り登った部活動の経験が十二分に活かされたと実感しました。

「登山の魅力は?」と問われたら、僕は「登山は人生によく似ているから」と答えるつもりです。それは登山には挫折と栄冠がつきものだからです。登っている時のつらさに負け、何度となくあきらめようとしたこともありましたが、今まで何とか乗り越えてきました。山頂に立ったときの成就感、満足感から得た自信は、これからの人生において、必ずや役に立つものと確信しています。

自然保護が叫ばれている今日、山を愛する者として自然と協和しながらこれからも登山を続けていきたいと思います。

<1992年2月 茨城県高等学校体育連盟会報第40号>

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雑記


エクアドルへの旅2009

赤道の国エクアドルに氷河が?!

南米エクアドルは「赤道」を意味する"equator"から名づけられた国。そんな熱帯の国に氷河を抱く山があるらしい。しかも一つ二つではない。5000m級の山が20近くもあり,どれも富士山に似た雄大で端正な火山体を示す。それらの山頂部はいずれも氷雪に覆われているというのだ。

半信半疑のままとりあえず行ってみることにした。「たび」のページへ。
(2009年1月)

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キリマンジャロ登山2008

氷河が消える?!

アフリカ最高峰のキリマンジャロはスワヒリ語で「輝く丘」。その山頂に輝くばかりの氷河が横たわり,氷河は山麓のコーヒー畑をうるおす。キリマンジャロを特徴づけるその氷河が,20年以内という近い将来に完全に消滅してしまうという。

そんな話を聞いて氷河ファンは黙っていられない。さっそく実態を調査しに出かけた。「たび」のページへ。
(2008年8月)

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マウントクック登山2007

南十字星輝く星の海に向かって宇宙空間を一歩一歩進む。そんな錯覚に陥るかのような登高。マウントクック(3754m)は氷河を頂く悠々とした山並みが続くニュージーランド・サザンアルプス山脈の中でひときは高く,急峻な氷壁に囲まれたすばらしい山。

年末年始にマウントクックに挑戦した。山頂アタック当日の出発はなんと深夜1時! 登山の記録は「たび」のページから。
(2008年1月)

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地理月報への連載スタート

地理月報という雑誌への連載がスタートしました。雑誌への連載寄稿は初めて。世界の自然地理を「なぜ」という疑問から出発して解説していくという論述です。スイスアルプス,スカンディナビア,ヒマラヤと執筆が終了し,マレー諸島,ロッキー,北海道と続ける予定です。

地理月報は二宮書店が全国の高校地理教員向けに発行している情報誌。1部150円と書いてあるから一般でも買えるのかも? 「研究業績」のページに掲載しましたので興味ある方はどうぞ。
(2007年5月)

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イタリア・スイス旅行2006

双子座を代表する星であるカストルとポルックス。そんな由来がある山とは知りませんでしたが、登ってきました。スイスとイタリアの国境にあるポルックス(4092m)という山。

そもそも今回の旅行は、マッターホルンを登ることが第一の目的。せっかくヨーロッパに行くのだから、ヨーロッパ最高峰モンブランも間近で見てみたい。自然のすばらしさだけでなく文化のかおりも感じにローマにも行ってみたい。・・・旅行欲はとどまること知らず。

ローマ・コロッセオ、バチカン・サンピエトロ大聖堂、ポンペイの遺跡、フランス・シャモニからのモンブラン、スイス・ツェルマットから4000m級の山々へ。旅行記を「たび」のページに載せました。
(2006年9月)

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久々の地理学会発表

学会発表を6年ぶりにしました。埼玉大学で開かれた日本地理学会です。内容は、乗鞍岳の斜面で土砂の移動について観測した結果の報告です。土砂の移動がいつ、どの深さで起こったのかを正確に観測できる器具(自作品)を使っているのがウリでした。

それにしても高校教員の身分では学会発表するも交通費どころか出張扱いにさえならないんですね。教育活動に研究活動は不必要だと言われているようで、なんか釈然としないものを感じます。ま、授業で研究のこと話すわけでもなし、当然受験にも関係なしなので仕方ないか。

で、そのひずみプローブという器具を改良するため検討中です。ひずみゲージなどの変位変換器を使って地中の滑りもクリープも捉えられる仕組み、どなたか名案を。
(2006年4月)

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放送大学で学んで

放送大学で1年間勉強し、無事16単位を取りました。やっと専修免許取得です。教職3年継続後で15単位以上取得すると専修免許が取れるという制度があるのです。まあ、取ったからといって給が上がるワケでもないのですが。

そもそも、せっかく大学院を出たのに専修は持っていませんでした。大学院は理科系で、指定教科は理科。つまり私の持っていた社会の一種免許は専修に更新されなかったのです。「地理」って大学によって文化系・理科系と位置づけが違うからこんなことになるのです。

とは言え、放送大学での勉強は有意義でした。「日本文化研究」「地域文化研究」「認知過程研究」「臨床心理学」など、知らないことをいろいろ学べ今後に役立ちそうです。1単位1万円もまあ安いというもの。
(2006年2月)

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自然の宝庫ボルネオ島

2005年のお正月に一週間ほどマレーシア・ボルネオ島のキナバル山に登ってきました。登山口は熱帯雨林、登るにつれて温帯林、森林限界、そして一面の岩肌を見せる高山帯へと刻々と変化していくようすが、とてもおもしろかったです。

またマレーシアの民族構成の多様性には驚かされました。それゆえ宗教には寛容な方とのことで、異なる宗教者の間でも結婚することさえあるそうです。ブミプトラ政策(マレー系住民優先政策)は旅行者の私には体感できませんでしたが、少数派の中国系住民が強い立場にいることは街ブラから何となく感じることができました。中国系の人は、本当に商才があって商売がうまいと思います。

「ルックイースト」政策のせいか、開発の風景が日本と類似している気がしました。高速道路のランプウエーやサービスエリアの作り方など、まったく同じです。

「たび」のページに旅行記をアップロードしました。
(2005年1月)

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一日中央教育審議会(公聴会)にて意見を発表しました。

以下、その概要を報告します。


  • 趣旨

中央教育審議会で、現在審議中の「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」、意見発表、質疑応答を通じて、国民の皆様のご意見を幅広く聴く。

  • 日時・会場

2002年12月8日(日曜日) 14時から16時

福島県郡山市ビックパレットふくしま

  • 出席者

中央教育審議会委員 鳥居泰彦会長はじめ計5名

文部科学事務次官 1名

意見発表者 8名

傍聴人 約200名

  • 次第
1.開会 中教審会長と事務次官の挨拶 いやが応でも緊張感が高まる。心臓バクバク...
2.中間報告の概要紹介 中教審会長が中間報告の内容を簡単に紹介 「法見直しは既定路線」との立場がありありと。「忌憚のないご意見を」とのことなので、遠慮なく
3.意見発表 大学院生、司書、中学校教員、会社役員、幼稚園長、元小中学校長、中学校教員、高等学校教員(=ワタシ) 皆さま、豊富な経験と教育に対する深い造詣をお持ちのようで、様々な視点から私見を披露していました。
4.委員と意見発表者との質疑応答 各委員が、名指しで意見を求めてくる 自分の考えの浅はかさが露呈。やはり付け焼き刃の知識だけでは、とっさに答えられなかった。しかし、どもりながらもなんとかクリア!
5.閉会   軽いヤジはあったものの無事終了! 重圧からの解放

 

  • 自分の意見発表(全文)

僭越ながら、教育基本法の見直しに反対する立場から意見を述べさせていただきます。

戦後、我が国の教育はすばらしい成果を収めてきました。 経済は急成長し、社会は全般的には良くなってきていると思います。 国民の多くが豊かさを実感できるようになってきておりますし、また女性がこれだけ社会進出できるようになったのも、社会が良くなっていることを裏付けていると思います。最近では、今日はちょうどその授賞式とのことですが、ノーベル賞の連続受賞という明るい話題もありました。 このようなことは、まさに、世界に誇れる我が国教育の成果であると言えるでしょう。 それを支えているのこそ、教育の憲法である現行の教育基本法です。

教育は「国家百年の計」と言われますように、息の長い活動であるはずです。 10年や20年、まして数年などで成果の表れる類のものではありません。つまり、現在は、現行の教育基本法の成果が現れつつある段階にある、といえるのではないでしょうか。今は、その成果を見守っていくことが大切だと考えます。 制定からわずか半世紀ほどしか経っていないのに、ここで改訂してしまうのは、あまりに性急に過ぎます。

そもそも、現行法の条文に悪い点、といいますか、現在の社会にまったく合っていないという点はありません。 明らかに教育の発展を阻害している条項があるというのなら、その部分を変更することは必要だと思いますが、今回はそうではないのです。ですから、そのような意味でも、今回の中間報告において見直しが必要だと指摘された意見というのは、「どこどこが悪いからこう直そう」というものではなく、新たに付け加える点を羅列しているにすぎないのです。

ここ数年からせいぜい10年程度というごく短期的な社会情勢の変化に合わせて、「はいさっそく見直し」というのでは、あまりに近視眼的でありまして、そのような流れは教育の根本理念を示した教育基本法としてはふさわしくないと思います。つまり、基本法を見直しても教育は何も変わらない、ということです。 社会の悪くなった部分だけを殊更に取り上げて、対症療法的に現行法を変更する。こういう姿勢は、まさに悩み多き成長期の青年にタガを締めてしまうようなものではないでしょうか。 それでも、なにがなんでも改訂するんだというのでは、なんとなく別の意図が隠されているように思えてしまいます。つまり、「見直しのための見直し」といいますか、いずれさらに大々的に見直していくための前例を作るための見直し、あるいは憲法の改定のための外堀を埋めるという目的があるのではないのか、というように疑ってしまうのです。

確かに、青少年の凶悪犯罪などの社会問題や、いじめ・不登校・中途退学・学級崩壊といった学校を取りまく諸問題は、いま深刻になりつつあるように思います。 私は現在高校で教鞭を執っているのですが、日常の教育活動におきましても、生徒の無気力さに愕然としたり、耳を疑うような事件の発生、ーーこれは学校の中でのことですがーーに出くわすことも多くあります。生徒が教員に敬語を使わないなどというのは、日常茶飯事のことです。 しかし、このような諸問題の原因がすべて学校にあると考えるのは間違いでしょう。 むしろ、より根本的な原因は、家庭での教育力が低下したことにあるのではないでしょうか。 そこで、例えば「家庭教育振興計画」といったものを新たに制定することを提案したいと思います。 この中には、保護者への教育機会を作ることや、学校・家庭・地域社会の連携・協力を進めることも明記するべきでしょう。 このような新たな計画を策定する場合でも、その根拠は現行法の条文の枠内で十分でありまして、基本法自体に何か付け加える必要はまったくありません。

もっとも、家庭教育の推進については、今回の中間報告で示された「教育振興基本計画」の中に位置づけられていますので、そういった形でもよいと思います。 したがって、この「教育振興基本計画」を策定することには、私は賛成の立場です。 この計画は、教育の短期的な目標を具体化するものなので、学校現場でも一つの明確な目標ができることとなり、教育の質が向上していくことにつながると思います。 しかし、それが策定される場合でも、従来行われてきたような単独での制定で何ら問題はないはずです。 つまり、この計画を策定するための根拠となる条文を、基本法にわざわざ新たに設けなくても、技術的には何の問題もないはずです。 そのような意味でも、やはり基本法自体を改訂する必要はまったくない、と考える次第です。

最後に、教育とはまさに「未来への先行投資」、「国家百年の計」です。 したがって、近視眼的にならず、100年先、あるいは200年先の世の中を見据えたより大きな視点に立って、もっと議論をしていくことが大切だと思います。また、中教審の委員の方々の肩書きを見てみますと、現職の教員が一人もいません。確かに教育基本法は学校教育だけを対象としたものではありませんが、それでも学校教育は大きなウエイトを占めているものです。ぜひ私を委員に、という訳ではありませんが(笑いが起こる)、今の状況では学校教育の現場の声が軽視されているように思うのです。ですから、教員の声をもっと取り入れ、またそのほかの方々の意見も聴きながら、国民的な議論をもっと進めていくことが大切ではないか、ということを強調しまして、私の意見発表を終わりにします。

 

  • 感想

とにかく緊張した。始まるだいぶ前から、まさに壇上にいる間まで、これだけ緊張状態が継続したことは初めてだ。血圧が上がって急性脳血管疾患にでもなってはしまいかと、本気で心配したものです。

意見発表は、原稿を準備してあったのでそれほど心配はなかった。実際に終えてみて、うまく真意が伝わったと思う。しかし、問題は質疑応答だ。委員の方に「教育振興基本計画については賛成だとのご意見でしたが、その内容についても賛成なのでしょうか?」と、名指しで質問された。しどろもどろに、「はい、大枠ではいいと思っています。」などと間をおき、さらに「ただ、重要性のウエイトですとか、あと部分的に、例えば不適格な教員に対する評価を厳格にするとかいった部分は問題があると思っています。また子どもを教師の指導に従わせるようにするというようなことも、これはこどもを中心に考えられたものではないので、そういった点でも部分的に問題があると思っています。ただ大枠としてはよいと思います。」などと訳の分からないことをだらだらとしゃべってしまった。やはり、付け焼き刃の知識しか持たずにあんな場に座ってしまってはだめだと痛感した。

とはいえ、未熟さは若さ故と許されるかも、という期待もある。さらに、なんでも「始めなくちゃ始まらない」。「恥をかいたら、その後にはそのぶん常識を身につけることができる」。こういった座右の銘を旨とし、好奇心に基づいてこれからも積極的に行動していきたい。

 

  • リンク

文部科学省

中央教育審議会 中間報告 「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」

 

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ノーベル賞白川博士 ぼくに直接語る!

記念すべき100周年目の2000年ノーベル賞。栄えあるその化学賞に筑波大学名誉教授の白川英樹博士が輝いたことは周知のとおり。その白川博士の講演会が去る2001年2月9日、札幌で開かれた。東京以外での講演は初めてという。北海道大学学術講演会「白川博士 大いに語る」。1700人の聴衆が聴き入った。

もちろん私も聴かせてもらった。講演では、ノーベル賞受賞を知ったときのエピソードや、導電性プラスチックについての簡単なご説明などを、ユーモアを交えてお話された。難しいことを一般の人にも分かるように易しくお話する真摯な姿に、感銘を受けた。

約1時間の講演の時間はあっという間に過ぎ去る。続いて会場から質問を受けつける時間が用意された。私は、「これぞまたとないビッグチャ〜ンス! 直接質問をぶつけられたら、一生の思い出になることまちがいないゾー!!」と、すかさず挙手、挙手、腕を回しての猛烈アピール。。

とは言え、壇上の人の表情すらおぼつかないほど後ろに座っていたため、自分が指名されることはほぼ絶望的となかばあきらめていた。ところが、質問者3人目の指名となり、司会者の理学部の先生は、なんと「では今度は後ろの方に座ってるかたから・・」ということで、はるばるこちらの方を指さしてくれているではないか!

もっとも、誰のことを指したのかは定かではなかった。なぜなら周りにも挙手している人がいたから。しかし、そこは少々強引な手段により、すなわち、すかさず立ち上がり、マイク運び係を手招きすることによって、あの白川博士に直接質問を投げうる光栄を得たのだ。

このような状況によって得られたやりとりを、下に記述してみることにする。しかし事は1700人もの前での独壇場、緊張しないほど器は大きくない。極度の緊張により、実のことを言うと博士のご返答はほとんど頭に入らなかった。そこで、2月19日付け北海道新聞に特集として掲載された記事を参考にした。ちなみにこの特集記事中には、質問者として私の写真が載っているではないか! いつの間に撮られたやらまったく記憶にないのも、大聴衆の前で一人マイクを握ってしゃべっているという初体験の緊張のためであろう。

(私) 北海道大学の大学院生の松本と申します。
先ほど白川先生のお話の中で、教育の方針についてのお話がございましたが、その中で、子供の自主性といいますか、個性を育てることが大切だとおっしゃられました。

まさにその自主性を育てるために、文部省は、現在は文部科学省ですが、学習指導要領の改訂によって授業時数を減らし、学習内容を削減しようという方向にあります。小中学校では平成14年度から、高校では15年度から新しい学習指導要領が施行され、学習内容が3割削減されると言われています。

そうしますと、明らかにこどもたちの知識の総量というものが減ると考えられるわけです。それはとりもなおさず科学の発展のためにはデメリットになるのではないかと考えます。この点の矛盾といいますか、ジレンマについて、どのようにお考えでしょうか。

(白川博士) 知識を増やすことと、独創性や創造性、好奇心をのばすこととは、本来は密接に関係するものなのでしょうが、実際はどうかなと思います。知識だけは増え、好奇心が伴わないというのが現状ではないでしょうか。教科書やテレビ、ビデオで得た知識はあるけど、まだまだ身に付いていない。

自分自身が野山に出てみるとか、文学作品を読むとか、そうしたことを通じて本当に身につくんだと思います。今は知識だけが詰め込まれていて、知識は豊富だけど、行動力がなかったり、やる気がなかったりする。ゆとりの時間をつくるために授業数を削減するということは、知識を授ける時間が減ると思われるかもしれませんが、押し込まれる知識量だけが問題ではないと思います。

あなたはどう思いますか?

(私) つねづね大学院生の仲間どおしで、話し合ってるんですよね。学習内容が削減されたら、科学の発展にとってマイナスではないかと、科学を志す者としては危機感があるんです。しかし今のお話を聞いて、知識だけではなくて考える力といいますか、そういうことがより大事なんだということが理解できました。ありがとうございました。

(司会者) いやー、エリート的なご質問でしたねえ。

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さっちゃんとのぞこう!修士論文(前編)

小学生のさっちゃんといっしょに、ほたかくんの修士論文をのぞいてみよう!
ほたかくん:さっちゃんは高ーい山に登ったことあるかな?

さっちゃん:うんあるよ。去年の夏に家族みんなで乗鞍岳に行ったんだ。

ほたかくん:どんな景色が広がっていたか、覚えてるかな?

さっちゃん:うーんとねぇ、木が生えてなくて、なんだかさびしい風景だった。

ほ:そうだよね、高ーい山は寒いから、木が生えられないんだ。それに、高くてさむーい山では、地面がおもしろい形をしていることがあるんだ。

さ:へー、どんな?

ほ:たとえば、地面が階段になっていたり、地面に六角形や直線とかの模様ができてたり。

さ:何だか不思議だわ。どうしてそんなことになってしまうの?

ほ:それはね、地面の石ころが動くからなんだ。

さ:石ころが動く!?どおして??

ほ:さっちゃんは霜柱って見たことあるかな?

さ:うん、冬のさむーい朝にうちの庭とかにたってるよ。さっちゃんね、それを踏ん付けてこわすの好きなの。だって、さくっと音をたてて倒れるから楽しいんだもん。

ほ:そうだよね。何をかくそう、このお兄さんも好きだったんだ。

さ:でも、どうしてきゅうに霜柱の話になったの?

ほ:それはね、じつはこの霜柱が石ころを動かすからなんだ。

さ:えっ?霜柱が?

ほ:そう。いいかい、霜柱が斜めに傾いた地面でできたと考えよう。下の図のいちばん左は、霜柱ができる前の状態。霜柱ができると、地面にある石ころはいっしょに持ち上げられるんだ。このとき、霜柱は地面に対して90゜にのびるんだ。

さっちゃん:90゜ってことは、垂直っていうことね。

ほたかくん:そう、よく知ってるね。そして暖かくなると、霜柱はひとりでに倒れるでしょう。このとき、霜柱は低い方に倒れるんだ。もちろん石ころもいっしょにほうり出される。するとどうだろう、いちばん右の図のように、石ころはもとの場所よりも下の方に移動するでしょう。

さ:わーほんとだー。こうやって石ころって動くんだ。

ほ:こういう動き方を、えらい研究者の人たちは「霜柱クリープ」と呼んでるんだ。でも霜柱は地面の表面だけじゃなくて、地面の下でも起こってる。これはほんとは霜柱じゃなくて「凍上」と呼んでるんだけどね。

さ:凍上って、なんだか聞いたことがあるわ。

ほ:さいきんは、凍上対策をした家が増えてるからね。さっちゃんのおうちもそうかもしれないよ。そして、この凍上で石ころが動くことを「フロストクリープ」と呼んでる。でも、石ころが動くのはこれだけじゃなくて、雨とかが降って地面がびしょびしょになると、自然に地面の石ころが流れ出してしまうことがあるんだ。これは、ちょっとむずかしいけど「ジェリフラクション」というんだ。

さ:なんだか今にもどろどろ流れ出しそうないいかたね。

ほ:ははっ、そうだね。それでぼくは、大雪山という山の上で、石ころが動いたかどうかを調べたんだ。

さ:それで、ほんとに石ころは動いたの?

ほ:うん、一年間ずっと1時間ごとに、地面の中や表面で石ころがいつ・どのくらい動いたかを観測したんだ。そしたら、地面の表面がいちばんたくさん石ころが動いたことがわかった。

さ:へー、じゃあそれは霜柱クリープで動いたのね。

ほ:そう言いたいところなんだけど、ジェリフラクションで動いたことも考えられるから、まずはジェリフラクションが起こったかどうかを明らかにしなくちゃいけない。

さ:どうやって明らかにしたの?

ほ:春に地面の中の水分の状態を調べたんだ。ジェリフラクションは水分がたくさんあるときに起こりやすいと言われてるから。でもこれはね、石の動きや温度のように自動的に観測することがむずかしいんだ。だからいままで世界中どこでも詳しく調べた人がいなかった。

さ:じゃあ、世界で初めてってわけね。すごーい!

ほ:まあね。45日間もずっと山の上でテントで泊まりながら、毎日かんそくを続けたんだ。頭はないけど体力には自信があるからできたのかな。

さ:身体が資本ってわけね。それで、いったい春の地面の中の水分の状態はどうなっていたの?

ほ:よく聞いてくれた。それが、とってもおもしろいことが分かったんだ。なにせこんなに詳しく調べたのは世界初!だからね。

(後編へつづく予定

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書 評

「聖職の碑(いしぶみ)」 新田次郎著

新田次郎は、山岳小説家だと言われることがあるそうだ。いったい誰がそのように呼ぶのかは知らないが、きっと何でも細分化して、分類しなくては気がすまない性格の人にちがいない。

私は、新田次郎が「山岳小説家」などと思ったことはない。人間の生をえがいた舞台が山だった、あるいは、山登りをする人物をえがいたのだと思うのみである。自分自身、山登りを趣味とする人間として、また気象に関心を持つ者として、新田次郎を新田次郎の作品を好まずにはいられない。

さて前置きが長くなった。今回は「聖職の碑」の書評を試みる。とは言え、ただの感想文にすぎないとも言えるが...

時は、明治から大正に移るころの時代。信州の学校現場では、「白樺派」の理想主義教育が流行し始めていた。理想主義教育、それは実践主義教育に対置させて考えられるもの。中箕輪尋常高等小学校長であった赤羽長重は、そのような流れが、無視できないほどの大きな存在になりつつあることに、不安と危惧を抱いていた。

そのような状況の中で、実践主義教育の象徴ともいえる学校行事、「集団登山」が行われた。箕輪は、東に赤石山脈、西に木曾山脈に囲まれ、まさに山の中の国である。修学旅行で山に登ろうという考えが生まれることは、ごく当然のことだったのだろう。

そして二年目の駒ヶ岳登山で、悲劇は起こった。37名の一行が、突如とした襲った台風の猛威に遭い、11名が死亡するという遭難だ。リーダーとして一行を引率していた赤羽校長自身も、駒ヶ岳の3000メートルの稜線で、力尽き、倒れた。前夜に風雨と戦いながら一睡もしていない身体には、いくら夏山とはいえ、体が吹き飛ばされるほどの風に吹かれ、横なぐりの雨にたたかれれば、たいていの人は力尽きることだろう。山登りをまったくやらない人にとっては、山での風雨のおそろしさなど、予想もつかないことだと思う。しかし、しょせん人間は、原自然のまっただなかに置かれれば、いかに無力な存在にすぎないことか。自然を自分たちの都合のいいように改変して、たてものという箱で外界と仕切られた空間をつくって、その中でやっと初めて生きていくことができるにすぎない。ふだん、人間のいる世界だけで暮らしている人は、自然にたいする人間の存在の小ささ、弱さに、思いをはせることなどあるのだろうか。

遭難の原因は、挙げればきりがない。そもそも最も安全なことは、山に行かないことなのだ。確かに、責任者としての赤羽校長にも、落ち度はあった。あてにしていた山小屋がどのような状態か、下見することを怠った。いざという時の統率力にも限界があった。世間の一般的な目は、そのような落ち度ばかりに注目し、赤羽校長を悪者にしてしまう。 一行が、あるはずの小屋が燃え残りの丸太だけになっている状況を目の当たりにしたとき、ハイマツや蓑などで即席に小屋を造るといういきる力を示したにもかかわらず。そして、子どもたちや教員らからも慕われていた赤羽校長が、自分も体を張って子供たちを守り、そして倒れたというのに、悪者になってしまう。

事故後、学校には白樺派の理想主義教育がさらに勢いを増し、その亜流の出現によってしだいに教育の荒廃が進む。中箕輪尋常高等小学校は、校長の座の引き受け手もいなくなり、冬でも窓にはガラスがないような状態になる。学校が、学校として機能しないような状況になって初めて、赤羽校長の存在の偉大さが、人々の意識に復活してくる。「当時はよかった」と回顧する人が出てくる。そしてしだいに赤羽校長の偉大な遺志を引き継ごうという風潮がわいてくる。しかし、そうなるまでには10年近い年月を待つしかなかった。

中箕輪尋常高等小学校の駒ヶ岳への集団登山は、事故から13年目に再開された。参加人数は年とともに次第に増え、また駒ヶ岳登山をする学校も増えた。もちろん、今でも駒ヶ岳登山は、箕輪の多くの中学校で行われている。赤羽校長の遺志が今なお、営々と受け継がれているとに、感動を覚えない人はいないだろう。駒ヶ岳の稜線上に事故の直後に建立された「遭難記念碑」は、毎年登ってくる中学生によって花束で飾られ、80年以上経った今でさえ、少しも風化していないのだそうだ。涙なくして、この部分は読めない。


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