行 程
自宅(8:50発)……本町通り……五条……桂川五条……桂川自転車道……背割堤公園……旧国道1号線……伏見大手筋……竹田街道……自宅(11:50着)自転車
Trek 7300 クロスバイク行程記録(trip record)_
走行時間(Elapsed Time) 2:13:36
走行距離(Trip Distance) 44.57km_
平均速度(Average Speed) 20.0km_
最高速度(Maximum Speed) 39.7km身体がなまってはいけないので、年末の29日、午前中サイクリングトレーニングに出かけた。サイクリングウエアーの上も買った。タイツはパールイズミだが、上はゴールドウインにした。ゴアテックスだと通気がいいのと雨も防ぐので、そのタイプのものにした。
五条通を西へ向かい、桂川まで出ると愛宕さんの麓に低い雲がかかっていた。美しい光景であった。
自転車道を通って八幡へ向かったが、途中左折しないで直進し、何度も引っ返すことになった。背割り公園の桜の木は竹箒のような枝を残し、青空を掃こうとしているかのようだった。
2008年さようなら。


























*English Education
*Nakai's Family Haiku
*Emotional Intelligence
*Sense of Wonder
*Haikuist Club
*Nakai Tomo's Works
*Expression
*Eight Commandments for Father with value
*A Short Letter to Mother on her birthday
*Graduation Comemorative Anthology
*Previous Haiku 2001
*Previous Haiku 2002
*Previous Haiku 2003
*Previous Haiku 2004
*Memories in 2005
*Meorories in 2006
*Meorories in 2007
イタリア旅行記
運転教習日記
Tomo's Letter
嵐山・広沢の池・仁和寺・出町・鴨川ロードサイクリング 行程_
自宅(8:50発)……本町通り……五条……桂川五条……桂川自転車道……嵐山……嵯峨野めぐり(野宮神社・落柿舎・二尊院・化野念仏寺・平野屋)……清滝トンネル手前……広沢の池……金閣寺前……加茂川……出町……三条自転車店……自宅(11:50着)自転車
Trek 7300 クロスバイク行程記録(trip record)_
走行時間(Elapsed Time) 1:55:01 _
走行距離(Trip Distance) 34.43km_
平均速度(Average Speed) 17.8km_
最高速度(Maximum Speed) 52.2kmおしりのところにスポンジが入っているサイクリング用_タイツを買った。これは良さそうだと思ったので、すぐに試してみたくなり、今日は近場で試着走行を行った。ジャージと異なり、向かい風の抵抗が少ないのがすぐに分かった。なるほど、サイクリングする人たちがこれをはいているのは納得。まだ、上着の方を買う余裕がないので、しばらく我慢だが、これも買わなければならないだろう。風の抵抗が少ないのが何よりだ。
さて、コースとしては本町通りを五条まで北上し、左折西へ桂川に出るまで走る。桂川の橋を渡りきって左に桂川自転車道へ入る道がある。そこからは前方に愛宕山を見ながら北上する。しばらくすると自転車道の嵐山終点に出る。嵐山ライトアップ花灯路が夜(12月12日(金)〜21日(日))に行われている。至る所に大きな手作りの行灯が並んでいる。嵯峨中学生制作した露地行灯と京都嵯峨芸術大学協力の下に制作された大型竹行灯が中之島公園に設置されていた。渡月橋を渡り美空ひばり座を越え、野宮神社へ向かう道で左折、竹橋の中を越えていく。落柿舎の前を通り過ぎる。落柿舎は、芭蕉十哲の一人として名高い向井去来の閑居跡である。庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくしたのが名前の由来だそうだ。二尊院の前を越え、化野念仏寺の前を越え、平野屋に至る。ここらあたりは、町並みが保存され昔からの家並みを楽しむことができる。平野屋を越え、清滝トンネルの手前で清滝道をUターンする。ここからは下り道、一気に時速52kmで下る。自転車のような軽い車両で、時速50kmの速度で走るのは多少こわい、しかし、気分は爽快である。
きぬがけの道で左折し広沢の池に向かう。先日テレビ放送もあったが、鯉漁のため水抜きをしていた。干上がった池が目の前にあった。宇多野を越え、仁和寺に向かう。この寺は実に大きい。広々とした境内である。山門の仁王像がこちらをしっかりと見ている。数枚写真を撮った。そのまま市道衣笠宇多野線を東に向かって直進、立命館大学衣笠キャンパスの前を通り、金閣寺前へ、そこから西大路、北大路通りと入り加茂川まで進む。加茂川に出て、加茂街道を南進、出町柳に出る。そこで、いつものように「ふたば」に寄って、豆餅を購入。
京阪鴨東線を南進し、三条の自転車店に向かう。一ヶ月のギア点検、ブレーキのワイヤー点検をしてもらう。異常なし。次は2〜3ヶ月後にということであった。チューブを一本買った。
そのまま、京阪鴨東線(川端通り)を南進し自宅到着。
天気もよく、タイツの感触もよく、気持ちのいい走行であった。距離は短いが結構景色なども楽しめた。自転車のロックの鍵を忘れて出たので、駐輪してお寺の見学はできなかった。馬鹿でした。タイヤ用のロックしか使えなかった。
次回、どこに行こうか、わくわくしている。
![]()
愛宕山 遠景 近景 嵐山 中ノ島公園 ![]()
路地行灯 渡月橋 ![]()
嵯峨野 竹林 野菜畑(遠くに比叡山が見える) ![]()
二尊院 古民家 ![]()
つたや ![]()
平野屋 広沢の池 ![]()
![]()
仁和寺山門 仁王像 ![]()
加茂川 大文字山 ふたば
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今年も、あと数週間、
よくがんばったと思う人もいれば、
不十分であったと思う人もいることだろう。がんばったと思う人でも、
もしかしたら、
そのがんばりというものは、
ただ「想う」だけだったのかもしれない。
自分が、がんばったと思っていても、
実際は何かの行動を伴っていない場合がないだろうか。たしかに、
それなりの努力をしても
相手があることなどは、
うまくいかないときもある。うまくいかなかったことに無力感を抱いて、
そのはけ口のない空虚な思いが、
誤ったエネルギーとなって、
他人(ひと)のせいにしていないだろうか。木枯らしになって
ぷんぷんと怒って、
街角を吹き荒れるよりか、
街に流れるクリスマスソングを
町はずれにまで
いや、遠い田舎の一軒家にも届けるような
風になろうではないか。
家族のぬくもりを
今年一年無事に過ごせたよろこびを
温かな歌にして届けようではないか。
木津川ロードサイクリング 行程
自宅(7:55発)……伏見稲荷(本町通り)……鴨川自転車道……桂川合流・京川橋……八幡背割公園(8:45着)……木津川自転車道……流れ橋・上津谷橋(9:10着)休憩(9:25発)……山城大橋(9:45着)……国道24号線……旧道(寺田-伊勢田)……宇治橋(10:30着休憩茶団子11:10発)……京都宇治線7号……中書島観月橋……24号線……墨染……竹田街道・本町通り……自宅(11:50着)
自転車
Trek 7300 クロスバイク
行程記録(trip record)
走行時間(Elapsed Time) 3:00:19
走行距離(Trip Distance) 55.33km
平均速度(Average Speed) 18.4km
最高速度(Maximum Speed) 38.1km
3度目のサイクリング。前日、天気予報を調べると快晴であった。木津川サイクリングロードを走ることを念頭に地図のコースを検討しておいた。
朝は、6時40分に起きたので、出発は7時55分になった。朝から冷え込んでいる。1枚多い目に着ていく。長時間サドルに座っていても大丈夫なようにと、タイツのおしりの部分にタオルを入れておいた。ボーナスが出ればサイクリング用のタイツを買わないといけない。今日は日曜の朝、車の通りが少ない、本町通りを南下し伏見稲荷参道で右折し鴨川の自転車道に向かう。ラグビーの名門伏高の前を通って鴨川に出た。寒さで耳が痛い。ここからは自転車と歩行者以外は通らない道、気持ちよくスピードを出せる。朝の鴨川、釣りをしている人がいた。太陽がまだ低い。京川橋で桂川と合流、ここからは桂川・木津川サイクリングロードを走る。途中、道の修復工事のため迂回、畑に中を走る。霜で畑のキャベツやネギが凍っているようだ。やがてサイクリングロードに出てさらに南下。朝日が少し高くなる。土手の道、土手の下には走行中の自転車と自分の影が同じスピードで走る。自転車に乗りながら思わず写真を撮った。
ほどなく、桜で有名な背割公園に着いてトイレ休憩。ここで木津川と合流。橋を渡って木津川サイクリングロードに出る。京阪電車が鉄橋を通り過ぎてゆく。幾人かのサイクリンググループに出くわす。母と子どもの二人連れもいた。木津川を上ってゆく。運動量を多くしないとジョギングと同じような効果がないと考え、できるだけフルスピードで走る。
やがて、前方に流れ橋が見えてきた。時代劇の撮影でよく使われるこの橋。子どもが小さい頃、バーベキューをしにきたものだ。橋のたもとまで行く。朝日に橋がくっきり。気持ちいい。自転車で橋を渡ってくる人もいる。アングルを色々考えて写真を撮った。もちろん愛車もかっこよく写した。
そのまま木津川の上流をめざした。9時45分、赤いアーチがかわいらしい山城大橋に出た。バックパックに入れたと思っていた地図を見ようとしたが入っていない。朝、慌ただしく忘れてしまっていた。本当はもう少しまで行って玉水橋を渡るか、または山城大橋を越える、山城大橋から宇治田原…天瀬へ向かい宇治に入ろうと考えていたのだが、地図を携帯せず、道に不安であったので、橋を割ってすぐの24号線を通って宇治に向かうことにした。
24号線は車の往来が多い。途中から旧街道に入ってそこを走った。道幅はそう広くないが、そう車は通らないので、走りやすい。伊勢田まで来て右折し宇治市内へ向かった。丘を越え宇治市内を一望できる高台に出た。そこから感覚的に宇治橋をめざした。宇治橋に着いた。あと一時間ほどで戻ると自宅へ電話する。宇治橋たもとの駿河屋で茶団子と抹茶の水無月を買った。平等院を宇治川の土手からのぞき見て、少し休憩してから帰路についた。あとはまっすぐ走るだけ。観月橋で24号線に出て、御香宮神社の横を通り墨染に出て、竹田街道に入った。稲荷の手前から車が渋滞していた。伏見稲荷の例祭に車で来る人が多く、駐車場待ちであった。これでは生活道路として使っている人は困る。ずいぶんと動かず大変だ。自転車は渋滞している車の列をすいすいと通り抜けて、東福寺へ出て、自宅に戻った。宇治でゆっくりしたので11時半帰宅予定が11時50分になった。
今回は緩やかなのぼりか平坦な道が多く、多少楽であった。そう言えば、15年ほど前息子が小学校のころ、二人でこのサイクリングロードを通り奈良へ自転車で行った。マウンテンバイクもどきの自転車でよく行ったものだ。今回、平均速度も18km、クロスバイク初心者としてはまずまず。ロードバイクのように細いタイヤと計量の自転車でないと時速30kmを維持して走るのは辛い。今回は走行距離55km、いつか100kmの走行距離に挑戦しよう。
仕事がたまっているので、サイクリングにだけ時間を使っているわけにいかないが、フィットネスを兼ね、リフレッシュできる。ジョギングは距離が短いが、サイクリングは50km移動することができる。これは実に爽快である。
鴨川自転車道路 ![]()
凍てついているキャベツ 凍てついているねぎ ![]()
朝日の影が長く伸びる ![]()
背割公園を過ぎて木津川に 流れ橋 ![]()
![]()
流れ橋上の愛車 ![]()
この橋は大雨になると木津川の水量が増え、橋板が流される



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どうしても越えられないと思える壁が
立ちはだかるときもある。
そんなときは、
君の身体の中に宿る「人間の力」を信じよう。
フルセイルで戦う君に、
僕は、
追い風となって吹いていこう。南琵琶湖ロードサイクリング 行程
自宅(7:12発)……東山越え……追分……逢坂山越え……近江大橋(8:18着)……さざなみ街道……道の駅草津(9:00着)休憩(9:38発)……琵琶湖大橋(10:18着)……びわこ大橋米プラザ道の駅休憩食事・走行距離41.40km(10:55発)……浮御堂(11:10着)見学(11:22発)……唐崎神社・唐崎の夜雨(11:10着11:22発)……浜大津(12:37発)……小関越え……(パンク)……四宮まで徒歩……自転車店でパンク修理(13:39-13:58修理完了)……三条大橋(14:16着)……鴨川沿い……自宅(14:32着)自転車 Trek 7300 クロスバイク
行程記録(trip record)
走行時間(Elapsed Time) 4:41:14 (パンクのため下車・徒歩含む)
走行距離(Trip Distance) 73.0km
平均速度(Average Speed) 15.6km (パンクによる徒歩をのぞくと18.0km)
最高速度(Maximum Speed) 41.6km
自転車購入後、2度目のサイクリングに出かけた。今回は近江大橋-琵琶湖大橋を渡って大津-草津-守山-堅田-坂本-唐崎-浜大津と南琵琶湖を回るコースを考えた。
自宅から馬町の渋谷街道を上って、東山トンネル沿いの自転車・人用のトンネルを越え、山科に出る。1号線をしばらく走り、35号線で左折、追分から大谷、逢坂山を越える。1号線をそのまま進み、膳所で左折し、近江大橋へ向かう。
湖岸に出ると、グループや単独サイクリングの何組かサイクリニストに出会った。明らかにフィットネス・サイクリングと思われる、同じ年頃の男性にも出会った。近江大橋からの琵琶湖の眺めは気持ちのいいものであった。比叡山や比良山が見える。橋の正面左手には近江富士が見える。橋を渡りきると、そこには大きなイオンのショッピング・モールが連なっていた。何とも巨大だ。モールを越して左折し、さざなみ街道へと出た。
車道の横に自転車歩行者用の道があり安全のためにそこを走った。ロードバイクのサイクリニストは車道を30km以上の速さで走り抜けていく。こちらはややゆっくりと走る。やがて巨大なプロペラが見えてきた。UNEP国際環境技術センターの風力発電機である。その向かいに、「道の駅草津」があり、そこで休憩した。近隣の農家の野菜などが売られており、勢いで、赤カブ、トマト、ネギ、満願寺唐辛子、キノコ、雑穀米、ミカンを買ってしまった。これがかなり重たく、背中のリュックが急にいっぱいに。車で今回は来ていない。しまったとおもった。この重さが後のサイクリングに響いた。後半は腰が痛くなり、また足が重くてスピードにのれなかった。
「道の駅草津」を出て、北上を続けると琵琶湖大橋が見えた。風が強く、向かい風の中、橋を渡った。橋を渡ってから、湖岸にある「琵琶湖大橋米プラザ道の駅」に向かった。朝食はトースト一枚とヨーグルト・バナナで済ませていたので、10時半で少し早い時刻であったが休憩をかねて食事をした。シジミご飯定食を食べた。少し元気が出たところで、浮御堂へ向かった。拝観料は300円、琵琶湖に突き出たお堂をくるりと回った。琵琶湖の湖面は日の光が跳ね返り幻想的でもあった。シルエットに浮かぶ釣り船がゆったりとした時間の流れに漂っているように思えた。
次に唐崎の松に向かった。琵琶湖大橋を過ぎてからの向かい風が冷たくなり、太ももも冷えてきた。用意していた登山用レインウエアーのゴアテックスのズボンをジャージの上から履いた。唐崎神社は湖岸にあった。わずかであるが観光客が来ていた。そのまま、浜大津まで向かって、三井寺の力餅の老舗でお土産に力餅を買った。8kgほどはあると思われるお土産の野菜などのリュックがかなり重くなった。腰が痛くなり出しており、こんなに買ってしまって自分でも馬鹿だなと思った。
2回目のサイクリングで、先回の時(43km)よりかなり上回る距離を走っていたので、疲れがきていた。もう一踏ん張りと小関越えに向かった。案の定、峠から500mほど下にある老人ホームの所まではのぼりきったが、後が続かず、荷物が重く、下車して自転車を押さざるを得なかった。峠に着き、細い路面の少しがたがたの道を一気に駆け下りた。後輪のブレーキをかけると後輪が横にスリップする。前輪のブレーキを併せてうまくかけないと、横転する。
無事に降りたのは良かったが、前輪の異常に気がついた。なんとパンクしていた。せっかくの下り坂、あとは一気にと思っていたのだが。三条の自転車店までは遠すぎる。30分ほど押して歩き四宮に出て、通りの家具屋のおばさんに、最寄りの自転車店を尋ねた。幸いそう遠くないところにあった。自転車屋に着くと、そこのご主人が今出かけたばかりと、修理はすぐにできない。幸いすぐに帰ってきてもらってパンクの修理をしてもらった。一カ所穴がいていた。原因は何かガラスのような破片が運悪くタイヤの溝にはまり込みそれが急坂を下っていくときの圧力で食い込んだのかそのためにパンクを引き起こしたようだ。勉強になった。パンクの修理器具を持っていなかった。これも用意しなければならないと思った。
修理が済んで、三条通を京都市内に向かって、峠を上っていった。峠付近で突然の雨、かなりきつく降ってきた。上下とも登山用のカッパを着ていたので、そのまま走った。蹴上げを越え、神宮前あたりで雨はやんだ。三条大橋に出て、いつものように鴨川沿いの自転車歩行者道に降りて走った。
自宅に戻ると2時30分過ぎ、予定より時間がかかってしまった。すぐに自転車を洗って整備した。今回は、多少疲れた。
次はどこにしようか。ジョギングも水泳も所用でできていないので、こちらもコンスタントにこなしていかないとダメである。73km、次回は100kmに挑戦か。
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近江大橋 浜 ![]()
えり 近江富士 ![]()
草津道の駅 烏丸半島 蓮池 ![]()
琵琶湖大橋 ![]()
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浮御堂 ![]()
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本当に辛いことを乗り越えるには、
冬の厳しさが必要ではないだろうか。
寒風身をさらして
きりきりする思いの中から
真っ赤な炎を身体の中に燃やしてこそ、
逆境に打ち勝ち、
道が開けるのではないか。
冬の命の
透明感は、
太陽の光を浴びると
ダイアモンドのように輝く。
心を透明にして北風に向かって歩こう
それがきっと君を強くするはずだ。隠棲の里・大原ロードサイクリング 源平の合戦で敗れた平家の落武者たちが静かに暮らした地、大原。クロスバイクを購入し、久しぶりのロードサイクリングに出かけた。朝少し肌寒かったので着込んでいったが、すぐに暑くなり二枚脱いだ。花園橋から大原まではほぼ登りの道である。ケーブル八瀬あたりの紅葉も見頃であった。少しして脇道(旧大原街道)にそれていくと信号を渡って、高野川沿いに小学校があった。八瀬のかまぶろ温泉の趣ある建物があった。和風サウナは専念の伝統を持つといわれる。しばらくして、大原朝市に着いた。近くの農家の方が野菜などを直売している。漬け物、野菜、餅、赤飯、おはぎ、ヨモギまんじゅう、豚汁、地元のかしわ(鶏肉)、鮎の塩焼き、鯖寿司などが売られていた。車で買いに来る人が多い。駐車場は8時くらいでもいっぱい。鯖寿司とおはぎ、キムチなどを買った。
そこから三千院へ向かった。急に観光客でいっぱいになった。三千院付近から大勢の紅葉狩りの人、三千院は拝観料700円。中はまた、大勢の人。ところてんの突き出しのように、経路を順に回る。苔の中にある地蔵がいつもながらかわいい様相であった。写真を撮る人だかりであった。ほとんどの人が、コンパクトカメラか一眼レフのいいカメラを持って、バチバチ写真を撮っていた。皆が熱心なアマチュアカメラマン。すごいことです。三千院への参道脇に棚田がある。のんびりとした大原の風景がそこにはあった。それから寂光院へ向かった。聖徳太子による創建と言われ建礼門院ゆかりの尼寺である。観光客は三千院ほどではなかった。コースとしてすべて回ったので帰路に赴いた。修学院で曼殊院にも立ち寄った。ここは大勢の観光客で賑わっていた。紅葉も盛りであった。修学院駅近くの王府(ワンフー)という長崎チャンポンの店で昼食にちゃんぽんを食べた。フロントの変速ギアが1段にするとからからなっていたので、帰りに自転車屋によって調整してもらった。自宅に戻ると12:50であった。楽しいサイクリングであった。自分の体力・脚力で遠くまで出かけることは、自分への信頼につながるようである。まだまだ元気だと。
何よりも景色が良ければ、すぐに立ち止まって、気の済むまで見ていられるのもいい。
スポーツバイクはスピードも快感である。もちろん登りの坂道を登り切るのも充実感がある。
ただし、今回の走行時間が3時間、走行距離は44km。考えてみると、マラソン選手はすごい。
ほぼ同じくらいの距離を2時間少しで走るのだから、驚異的だ。クロスバイク購入後の初サイクリングであった。
次回はどこへ行こうかと思うだけでわくわくしてくる。
コース
自宅(7:00)…七条大橋(鴨川遊歩道)…出町柳…高野川沿い367号線…花園橋…八瀬かま風呂…野村の別れ(大原朝市8:30)…三千院(9:30)…寂光院(10:20)…野村の別れ…修学院(11:00)…曼殊院(11:30)…出町柳…三条アルチメイトファクトリー(自転車店/自転車変速ギア調整)…七条大橋…自宅(12:50)
自転車 Trek 7300 クロスバイク
行程記録(trip record)
走行時間(Elapsed Time) 3:01:06
走行距離(Trip Distance) 43.93km
平均速度(Average Speed) 14.5km
最高速度(Maximum Speed) 39.5km



















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つつむのが空気 |
振り返って、
今の学生生活はどうであろう。
慣れてしまった「空気」の中で、
新しい一歩を踏み出すことをためらったり、
思いつかなかったりしていることはないだろうか。
「勇気」は「空気」と同じくらい大切なもの、
個性的・独創的な考えには「勇気」がいる。
新しいアイデアが求められる今の時代、
失敗してもいいから、
何かをやってみる姿勢こそ価値がある。
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「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」

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自転車で自宅から滋賀県三井寺までサイクリングを楽しんだ。 往復24kmほどだが、東山と小関越えと峠を二つ越す。ままチャリ菜ので、多少時間はかかった。紅葉には少し早い三井寺であった。名物ののそばを食べ、浜大津に出て三井寺力餅をお土産に帰って、戻って来た。いい運動になった。

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京都から1号線、161号線(湖西道路)を通って、2時間かけてドライブした。
京都府と滋賀県の境からの湖西道路が込んでいて、思ったより時間がかかった。目当ては、ピックランドの栗ひろいと高原散策であった。何年か前に、マキノ高原から赤坂山へのハイキングに言ったことがあったが、今回は少し遅く自宅を出たので、登らなかった。
好天に恵まれ、ピックランドでは子どもづれの家族で賑わっていた。栗ひろい、芋掘りなどを楽しんでいた。わたしたち年寄り夫婦も、はずかしながら、栗ひろいを楽しんだ。最初は、虫のつい庭内物と、まだ緑のいがのものを振り落としたりして割って取っていたが、小粒であったりしてうまく行かなかった。結局茶色のいがで地面に落ちているものの中から、むくのついていないものを選んで集める方が大きいものがあることが分かった。一時間弱、楽しんだ。
それから、マキノ高原に行って、食事後、ゲレンデの高原を散策した。風は秋のにおいと涼しさを運んでいた。高原に吹く風はとっても気持ちがよかった。赤とんぼがその風を楽しむかのように飛び交っていた。群れているようでひとりなんだと赤とんぼを観て思った。生き物のそれぞれの生き方に胸を打つものがあった。「ゆうやけこやけのあかとんぼ・・・」子どもの頃の豊かな感受性を忘れてはいけないと思った。
散策後、サラサ温泉につかってさっぱりとして帰路に着いた。
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マキノピックランド 6号栗園 ![]()
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マキノ高原




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ふるさとの秋風が吹く木立で、
少年は少女に笛を吹いて聞かせた。
月影に笛の音が
一層清らかに流れて、
森の神様も聞き惚れたことでしょう。
少年のあふれ出る自分への気持ちが
少女に伝わった。
少女のあふれる気持ちは泪となって
こぼれ落ちた。
だが、この初々しい恋は実らなかった。
十年の歳月が流れ、
少女は人妻となり、そして母になった。
歳月は人の気持ちを根こそぎ奪い取っていくことがある。
変わらぬ思い持つ少年の笛の音に
もはや応えることはできない。
ただふるさとが
その思いを、笛の音を聞き続けていてくれる。秋は人恋しくなる季節である。
街で暮らす人々には、
やさしいふるさとがあるだろうか。
実る稲田を吹き抜ける風のにおいがあるだろうか。
しっとりとした落ち葉を踏みしめた時に感じる
あの柔らかな感触はあるだろうか。
つらいことがあっても皆で笑い合った
温かさはあるだろうか。
こころざしを果たして帰りたいと思うふるさとがあるだろうか。今こうして学びにひとときを過ごすこの学舎が
君のふるさとであるように、
私は一生懸命、笛を吹きたいと思う。







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夏の日々が過ぎ行くのも早いものである。


まちがいなのだ。 ![]()

















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台所リフォーム/Rmodeling KitchenBefore Remodeling ![]()
20年以上使って来た台所/食器棚 ごくろうさんでした In Remodeling ![]()
天井も壁もすべてとっぱらって ![]()
床下も砂を入れなおし ![]()
ガス管はビニールのパイプに、温水の管はピンク、水道水は青のビニール管 断熱材を壁に貼り ![]()
1cm少しあるコンパネでかべを、天井と火を使う部分の壁は防熱素材の板を After Remodeling ![]()
完成しました。食洗器もあります。ダクトもあります。 見違える程、きれいになりました。 台所がきれいなことは本当にいいですね。








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教え子の訃報に遥かな想いを巡らしていたら、吉野弘の"I was born" を見つけた。
すると、狂気の病巣が広がり始めたかのような、考えられないような凶暴な事件が起こった。人の生きざまの違いに、無念が蘇る。人は何のために生きているのだろう。後戻りできない程、世界が凝縮する中で、理性が狂気に変わり、感性が鈍っているかのようである。
もう一度、自分の誕生に思いを馳せて、生きる意味を確かめたい。生まれたのではなく、I was bornという存在の意味を確かめたいと思う。
I was born吉野 弘
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄(もや)の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。 物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。その時僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳をふと 諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
--やっぱり I was bornなんだね--
父は怪訴そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
--I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね--
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
--蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね--
僕は父を見た。父は続けた。
--友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の臆を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは--。父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
--ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体--。
山 芋
大関松三郎しんくしてほった土の底から
大きな山芋をほじくりだす
でてくる でてくる
でっこい山芋
でこでこと太った指のあいだに
しっかりと 土をにぎって
どっしりと 重たい山芋
おお こうやって もってみると
どれもこれも みんな百姓の手だ土だらけで まっくろけ
ふしくれだって ひげもくじや
ぶきようでも ちからのいっぱいこもった手
これは まちがいない百姓の手だ
つぁつぁの手 そっくりの山芋だ
おれの手も こんなになるのかなあ
つぁつぁの手=父親の手
この詩言葉カード「アクロス・ザ・ユニバース」で、
これまで二度、
大関松三郎の詩を紹介した。
第5号「雑草」、第6号「夕日」である。三木卓『詩の玉手箱』によると、
松三郎は、昭和の初め、
新潟の農家の三男として生まれた。
小学校に入ると、自分の生活に根ざした詩や作文を書き出し、
土の香りのするエネルギッシュな作品は大いに注目された。
松三郎は、戦前昭和の時代を、
こどもながら両親と一緒に土にまみれ、
農業生産者の一人としてけなげに生きた。
仕事は戦後『山芋』という一冊の詩集にまとまった。
松三郎は、戦後日本の詩壇の担い手になっていたかもしれない。
しかしながら、
昭和十九年(1944年)、
彼は二十歳になる前に戦死した。短い生涯をけなげに生き、
自分の楽しみを見つけた松三郎に対し、
深い悲しみと同時に
尊敬の念が湧き起こる。一日、一日精いっぱい働き、
目の前にあることを
体いっぱいで感じ取って生きた彼の生き様に、
自分も日々を
精いっぱい生きたいと思う。
H君を偲んで 教え子のH君が不慮の事故に遭った。遠くインドネシアに単身赴任し、プラントの建設に従事していた。突然の訃報がクラス仲間から入って来た。転落によるものだった。41歳の若さで旅立ったH君を偲んで、仲間から来た想いのいくつかを載せることにした。H君の冥福を祈って。
第一報
今、Hの奥さんから電話があって、事故で亡くなったそうです。(インドネシアに出張中とのこと)。明日(29日)夜7時からお通夜、翌日お葬式。場所は守口市の難宗寺(守口市竜田通1-5-2。)だそうです。まだ、誰にも連絡してません。(連絡先がすぐにわからなくて)ハンドボール部だった人にも伝えてあげたいけど知ってるかな?取り急ぎ、ご連絡しました。*M
先生、こんばんは!Mです。おきょうちゃんからも先ほどメールをもらい衝撃を受けていたところです。私は明日もあさっても仕事があり月末なんで時間的に難しいのですが、なんとかして行けそうでしたらお通夜の方に顔を出します。では取り急ぎ返信でした。ご連絡ありがとうございました。
*U
先生、おはようございます。Uです。
ご連絡ありがとうございました。まさかと驚きました。詳しくはまだ何もわからないようですが、ご家族のことを思えば言葉もありません。ご冥福をお祈りします。
*O
今日のお通夜に参列します。
事故の詳細がわからないですが、
お子さんがいるようなので、ご家族の悲しみも深いと思います。H君を悼んで
今夕、お通夜に参列した。T、I、H、O、S君らとM、F、Nさんらがかけつけてくれていた。
一般の方を含め非常に多くの参列者がおられた。インドネシアという異国の工事現場完成点検での転落死。
転落してしまったとき、おそらく覚悟をしただろう25mの数秒間、彼はきっと家族のことを思ったとことだろう。その数秒間はきっと黄金の輝きを放ったことであったろう。H君には二人のお嬢さんがいる。「どんな悲しみにもそれにふさわしい深い幸せがきっとある」
In any deep-seated suffering or sadness,
there is, without a doubt,
a happiness that is a worthy counter. (羅漢)
偶然か、同日この言葉がメルマガから送られてきた。私もそう思いたい。彼からの今年の年賀状には、
昨年2月から12月29日まで、カタールに出張しておりました。今年は少し日本で仕事ができそうです。(手書きで)「同窓会に行けずすいません。3年6組のみんなは元気ですね。私は早く今の会社で役に立てるようがんばっています」とあった。
4年ほど前在職していたS高校卒業式の式辞の中で次の一節を話した。
皆さん、人間には寿命があります。ひっくり返すことのできない、一度限りの砂時計のようです。砂の量や砂粒の大きさ、砂が落ちる穴の大きさは、人によって異なるようです。運命は遺伝子に書かれているのかもしれません。しかし、遺伝子だけでは分かりきらないのが人生です。「生きている」ってことは、素晴らしいことです。命はその人そのものです。
今日の皆さんの門出に、本来なら、「激動する社会に生きていくために、生きる力を身につけ、これからは大人としての責任を担うように」と、人生の目標を達成するための方法や心構えについて話すことが、「はなむけの言葉」なのかもしれません。しかしながら、私が、今日、皆さんに伝えたかったことは、諏訪中央病院にいた母や家族が抱いていたこころです。「生きていてよかった」「共に感じてくれる人がいる」「ああ、ありがたい、しあわせだ」「生まれてきてよかった」という命を慈しむ気持ちです。
物が豊かになり、生活感や価値観が多様化し、一律に「これがいい」と言えない時代の中、皆さんは、これから先、どの道を行くのか、何をするのか、選択しつづけていかなければなりません。選択を迫られる度に、迷いながらも一つ選び、その結果、たいした成就感もなく、何かしら後悔しながら過ごしていくことが多いかもしれません。それゆえ、自分の価値観の基準をどこに据えるのか、自分の生き方の基本姿勢をどう形成するのかがとても大切なことになると思います。
人間は何一つ持たないで生まれてきます。誰かの助けがないと生きていけません。母親はその最初の人です。命を授かった赤ん坊は、生きていくうちに、様々なものを身につけ、手に入れ、豊かになっていきます。人間として何が真に豊かなことなのでしょう。人には寿命があります。自分の一生にピリオドを打つときが必ずやってきます。その時もまた何も持たないのです。ですから、力があるとかないとか、男であるとか女であるとか、時代にうまく対応できるとかできないとかということよりも、「生まれてきてよかった」と感謝の思いを持てることが一番豊かなことではないかと思います。
お腹が空いたとき、懐かしいメロディを思い出したとき、誰かと手をつないだとき、木漏れ日がまぶしいと思ったとき、自分のことを心配してくれる人がそばにいたとき--そんなとき、生きていると感じ、幸せだと思う。それが、生き方の基本姿勢ではないかと思うのです。
人の痛みを感じ、人の絆やありがたさを大切に、命を輝かせ、あるがままに生きてほしいと思います。今日、お通夜からの帰りの電車の中で、この一節がぐるぐると頭の中によみがえった。
彼を悼んで皆さんにメールを送ります。*O
Oです。メール有難うございました。
突然の悲しい知らせに、ただただ驚き、ショックを受けています。
遺されたご家族のことを思うと胸が締め付けられる思いです。記憶の中のH君は、いつも笑顔で、そういえば怒った顔を一度も見た覚えはありません。
あの笑顔を二人のお嬢さんにも振りまいていたんでしょうね。本来なら、今日か明日、彼に会いに行きたかったのですが、どうしても都合がつきませんでした。
何人かと相談し、会いに行けない人たちを含めた旧3年6組同級生一同の名前で、
明日、弔電を送ることにしました。また、先生からご提案頂いた7月の同窓会時のH君へのメッセージ作成は、大賛成です。
少しでも、廣川君の奥さんを元気付けることが出来ればいいなと思います。*T
先生、パリのTです。H君の一報、遠くの地からお悔やみ申し上げます。
昨日は家で蝋燭を灯しましたが、
明日には教会に行ってH君が出来るだけ天国で安らげるようお祈りしてこようと思います。
家族から離れた場所で事故死とは本当に無念だったと思います。
昔から涙もろかったのですが、この年になると更に…で、
また実家が守口のせいか、お通夜にも行けないのがつらいです。
誰もが明日何が起こるか分かりません。今健康で、生きていられることが有難い、
みんなが健康で暮らしていることを有難いと感じたいです。*O
Hの出張先です。
大きな仕事をしていたのですね。やはり女の子が二人いたのですか。つらいですね。
プロジェクト情報 2005/03/09 タングーLNGプラント建設プロジェクトを受注
N株式会社は、米国KBR社、Nインドネシア法人のペルタフェニッキエンジニアリング社とコンソーシアムを形成し、BPおよび共同出資者がインドネシア共和国パプア州で進めているタングーLNGプラント建設プロジェクトを受注しましたので、お知らせします。プロジェクトの詳細は下記の通りです。
1. 契約先 : BPベラウ社(BPインドネシア法人/BP Berau, Ltd.)
2. タングーLNGプロジェクト事業者出資構成:
BP 37.16%、中国海洋石油総公司(CNOOC) 16.96%、MIベラウ B.V.(三菱商事株式会社、国際石油開発株式会社) 16.30%、日石ベラウ石油開発株式会社(新日本石油開発株式会社、石油公団) 12.23%、ケージーベラウ/ケージーウィリアガール社(兼松株式会社、海外石油開発株式会社、石油公団) 10%、エルエヌジージャパン株式会社(双日株式会社、住友商事株式会社) 7.35%
3. 建設場所 : インドネシア共和国 パプア州ビンツニ地区
(Teluk Bintuni, Papua, Republic of Indonesia)
(首都ジャカルタの東約3,200km)
4. 契約内容 : 年産760万トン(380万トン×2系列)のLNGプラント、ユーティリティ、オフサイト、インフラストラクチャーなどに係る設計、機材調達、建設および試運転役務
5. 契約形式 : ランプサム契約
6. 受注金額: 約2,000億円(うち当社分は約1,000億円)
7. 納期: 2008年後半
8. プロジェクトの概要 :
インドネシアは世界第6位の天然ガス生産国であり、タングーガスフィールドの確認埋蔵量は、14.4TCF(14.4兆立方フィート)にのぼります。本ガス開発プロジェクトの実現は、BPのLNG戦略の大きな柱となるだけでなく、インドネシアの経済発展に大きく寄与するものであり、また、インドネシアがLNG供給のリーダーとしての地位を強固にするための重要プロジェクトと位置付けられます。*F
昨夜は、ご多忙の中、ご参列頂き、有難うございました。
また、心に沁みる贈る言葉も有難うございました・・。
私も、先生と同じく、H君の転落の数秒間の事をずっと考えて辛くなっていましたが、少しは救われました・・。
*K
おはようございます。H君のこと、本当に驚きました。残された方々はさぞ心残りでしょう。心からお悔やみ申し上げます。
今年二月に夫の父が亡くなり、つい三週前に息子の同級生のお父さん、私より三つ下の方が亡くなり…と続いたので人事ではないようでした。先生のメールの贈る言葉にしみじみ感じ入りました。
*H
先生、こんばんは。Hです。
今日、H君のお葬式に参列してきました。
H君とは、小、中、高校と同じでした。特にN高校にはM四中から男子が4人しか行けなかったので、彼とは不思議な親近感がありました。
私の母が数か月前に彼のお母さんと会った時、彼が厄年なので一緒に神社にお参りをしたという話をしてらっしゃったと聞きました。
私の母も非常にショックを受けていました。
今日は彼の笑顔を思い出してばかりで涙が止まりませんでした。
もう一度会いたいと思っても会えないんですね。
残念でなりません。* M
今でも信じられません。あの、いつも、にこにこ穏やかに笑っていたH君が…あまりにも突然で、あまりにも早すぎる…。残されたご家族の気持ちを思うと、何ともやりきれない気持ちになります。でもそれ以上に、そのご家族を残して逝ってしまったH君の事を思うと…
何もできない私ですが、生かされている事に改めて感謝し、H君の分も、『今を精一杯生きる!』そう思いました。
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休日に知人と大文字山ハイキングを楽しんだ。蹴上げから東山トレイルを歩くルートで大文字山頂を目指した。五百数十メートルの低山であるので気軽にハイキングを楽しめる。好天気で家族連れなど大勢のハイカーに出会った。新緑にウグイスが気持ちよく鳴いていた。銀閣寺は修復中であった。床も屋根もすべて取り払って本格的な修復であった。自宅からの走行歩数20489歩、消費カロリー579kcalであった。
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「なんのために
あたしたちは大人になるの?
大人になれば
自分で何かを選べるようになるの?
大切だと思う人を失うことなく、
いきたいと思う方向に、
まっすぐ足を踏み出せるの?」角田光代『対岸の彼女』にあることばである。
新生活も二週間が経った。
学生時代に二十歳を迎える君たち、
本学のキャンパスライフの中で日に日に大人になっていく。大人になるって何だろう。
国語辞典には、「一人前大きくなった人」とある。
「おとなしい」は「おとなように静かにしている感じ」とある。
英語のadultの原義は「成長した」とある。
次のような例文が辞書にあった。
“You're an adult; act like one,” my father said to me.
(「大人なんだから、らしくしなくてはだめだよ」と父は私を叱った)
一人前と言われても何のことかわからない。
静かにしていることが大人なのだろうか。「花」の詩のように、自分の中に宮殿をつくり、道をつくり、
牧場をつくり、きよらかな町をつくることだろうか。
世の中をしっかりと見ることができる自分の世界を築きあげることだろうか。
思う方向に進むだけでなく、
思う方向に心の町をつくっていくことが大切なのかもしれない。
今、目の前で拡がっていること、
一つ一つをよく見て、聞いて、感じて、考えて、
君の世界を築いてもらいたいと思う。

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風見鶏
何気なく交わした約束が 心の道を照らすよ
あの日始まった物語の鍵となり どんな扉も開けてくれたてっぺんが見えないほど高い フェンスの向こう側へと
夢だけ先に放り投げてよじ登り 祈りの陽を見つめてたいつの日も 向い風を捜す 風見鶏のように
真っ直ぐ時代と立ち向かい 生きてゆきたい
逃げ出さないように 流されないように
心に 深く深く 突き立てた 風見鶏泣きながら君がくれた手紙 財布の隅においてある
懐かしい声をなぞるような丸文字に 何度力を借りただろう譲れない想いを滲ませた 涙 乾かぬ道に
刻む足跡もやがて消えゆく そこに咲かせてゆこう 微笑みの花




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自宅から自転車で、鴨川・桂川とサイクリング道路を走り、八幡の背割堤公園へ出かけた。 9:30に出発ー14:30帰宅の往復4時間程のサイクリングであった。 背割堤地区は八幡市の北辺に位置し、府道・京都守口線(旧国道1号)の御幸橋の下流、木津川、宇治川、を分ける細長い堤防である。この堤は明治の始め、木津川の付け替え工事に伴ってできた淀川右岸堤防の一部であった。明治30年から宇治川の改修に始まり、日露戦争による中断があったものの、明治43年に完成し、現在の姿となって「背割堤」と呼ばれるようになった。
背割堤は、昭和50年代初めまで松並み木で、別名「山城の橋立」とも呼ばれ、時代劇で馬が疾走する背景などにも使われた。その松並み木も害虫被害に遭って枯れる木が多くなり、昭和53年3月、当時の建設省によってソメイヨシノ249本のほか、ハナミズキ52本が植えられた。
今年は植樹され、30年の月日が経つ。子どもの頃、プールがなく、木津川に二つの水泳場があった。一つは近鉄沿線の木津川水泳場と京阪沿線のこの八幡水泳場である。木津川の川床は砂で、水辺にはいわゆる川浜茶屋などがあり、当時は、子ども連れの家族やカップルなどで大いに賑わった。今では川で泳ぐことはなくなった。





馬頭琴を奏でる音楽家、岡林立哉さん。北緯48度のモンゴルに惹かれて馬頭琴奏者になったそうだ。
花見客は聞き惚れ、小銭を置いていった。私は「北緯48度 天の底」という彼の自主製作CDを買った。
ゆったりとした音調で、低い音色であった。2弦でフレットに弦を押さえるのでなく、下から挟むように
押し上げて音階をとっていた。「ウイーン」という口調で唄も披露していた。興味深いものであった。

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「病気になって知る「弱さ」の存在…。この事実は受け入れ難いことだろうが、人間には欠かせないものである。つまり「弱さ」の存在がひととのつながりを生み出し、そこで生まれる「微笑み」は過去と未来をつなぐ架け橋となるのだ。「生きる」とは、命の期間ではなく、世代を超えたつながりの言葉である。
(正嗣さんのことば)
大阪城 桜蘭







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埼玉県川口市にあるNHKアーカイブスで開かれていた「微笑みの絵画展」へ最終日の23日に行ってきた。「110人の微笑みの肖像画」をはじめ、正嗣さん油彩画、双子の弟・範章さんの油彩画を含めた40点あまりの作品が展示されていた。
平成18年10月16日に最初に放送されたプレミアム10「この世界で僕たちが生きてること」は、芸術祭優秀賞や国際エミー賞招待作品にあいついで選ばれたNHKテレビのドキュメンタリー番組である。アーカイブスとして先日2月末に再々放送が流された。この番組の主人公は、画家の河合正嗣さんである。双子の画家、河合正嗣(まさし)さん、範章(のりあき)さんは、難病、筋ジストロフィーとともに生きてきたが、弟、範章さんは、すばらしい油絵を描き上げた直後に、眠るように息をひきとった。23歳だった。同じように病気が進行していた兄、正嗣さんは、声を失うかわりに気管切開手術を選択し、一日でも長く、絵を描き続ける道を選んだ。
そうして正嗣さんが描き始めたのが「ほほ笑み」の絵だ。手術をした病院でモデルを募集、命を支えてくれた医師や看護師、そして入院している患者たちの笑顔を、一人一人時間をかけて丹念に描いていく。目標は、110人。「1(ひと)10(と)人(ひと)」、人と人がつながる、という意味をこめている。ほとんど体の自由がきかず、わずかな指の力で鉛筆を持ち描きあげていく題材が「微笑み」ということに感動を覚え、この目でその微笑みを観てみたい、鉛筆使いを観てみたいと思った。The meaning of lifeというテーマのReadingを教えている学生にも河合さんの言葉の意味を考えさせたいと思った。
番組の中で、微かな声で語った正嗣さんの言葉には強い衝撃を受けた。自分では身体をほとんど動かすことはできない正嗣さんは、おそらく日中のほとんどをベッドの上で過ごし、なぜ生きているのか、生きなければいけないのか、その意味を嫌がおうでも考えていると思う。それゆえ、「生きる」ということに対して、雑念のない透き通った言葉が生まれてくる。そしてそれは同時に非常に重い言葉である。
番組での正嗣さんのことば、展示会場にあった正嗣さんのことば、
なんでこんなにつらいのにがんばって生きなきゃいけないの?機械を入れて無理に寿命を長くする必要はないじゃないか。(その反面)まだ自分はやらなくてはならない事があるから、死ぬにも死ねない。僕は自殺するにも、人の力を借りないで自分じゃ自殺もできないんだわ。
死ぬこともつらいけど、生きていくこともそれに匹敵するものだと意識してしまう。自分より先にいった弟に対して「先にいきやがって」と、「ねたみ」というか、「先にいって楽になりやがって」という気持ちを持ってしまうことも事実で。そういう気持ちを抱いている自分が、周りの人をやさしい気持ちにさせる絵が、心を落ち着かせるような絵が描けるのかと考えると、それもおかしな話だと思って。周りの人に対して、自分はウソをついてる、そんな感覚を感じてしまう。
弟・範章さんのお葬式で思ったこと(ナレーション):
自分にはまだ画家としてやり残した仕事がある。葬儀のとき驚いたのは、この静かな村の道を600人もの参列者がうめつくしたことだった。僕たち兄弟をこんなに大勢の人たちが見守ってくれていたんだ。そう思うと体が震える感じがした。そのとき気づいた。範章はいってしまたけど、この世界で僕は1人じゃない。今取り掛かかっている油絵の100号作品について:
2001年9月11日、アメリカの同時多発テロが起きてから、すごく人の動きというものに対して違和感をもっていて、なぜか、世界貿易センタービルの煙が上がる向こうの空が、すごくきれいに感じたんです。それを正直、こういうときにそれをきれいと思う自分が理解できなかった。
普段あたりまえだと思っている生活が、絶対的なものじゃないということを、あの事件は証明している気がする。人は誰でもそうだけど、優しい部分と悪の部分は絶対あると思うんですよ。そう考えた時に、その「悪」の部分が何なのか、現実をしっかり受け止めて、逃げるんじゃなくちゃんとそれを受け止めて、それは人間が起こしたことだということを、ちゃんと受けとめて。本当に苦しかったら苦しいといえばいい。楽しければ楽しいといえばいい。それが本当に人間のあるべき姿だと思いますよ。それぞれの人にとって、世の中全部に満足してる人って絶対いないと思うんです。だけど、僕は、「とりあえずできることだけはやろうじゃん」って気持ちがあれば、今を生きる人たちも、今後を生きてゆく人たちも、たぶん本当の意味で幸せになる事ができると思うから。
展示会場にて
病気になって知る「弱さ」の存在…。この事実は受け入れ難いことだろうが、人間には欠かせないものである。つまり「弱さ」の存在がひととのつながりを生み出し、そこで生まれる「微笑み」は過去と未来をつなぐ架け橋となるのだ。「生きる」とは、命の期間ではなく、世代を超えたつながりの言葉である。
微笑みが描かれた線画のシンプルな表現が「生きる」喜びを伝えようとしていた。自分は、目の前の出来事に左右され、「本当の幸せとは何か」を考えずに生きている。哲学者のように毎日、そのことを考えられないかもしれない。でも、美しく桜が咲いているのを観た時、通りを過ぎる人の微笑みを見た時、春風が私の体を吹き抜けていった時、そうした時に正嗣さんのことばを思い出し、生きていることに感謝するとともに、自分の明日を考えてみたいと思う。担当しているReadingの授業でも正嗣さんのことばを紹介し、これからの時代を生きる学生にthe meaning of lifeを考える一つの視点を提供したいと思う。
筋ジストロフィーと闘いながら絵を描き続けている河合正嗣さんのブログは、
http://ameblo.jp/kawaimasashi/ http://yaplog.jp/artist_masashi/
中京テレビ http://plus1.ctv.co.jp/webdoc/2005/1012/01.html




三條大橋付近の鴨川 川べりにカップルが座りだした
泣けてくる(ウルフルズ) 作曲:トータス松本
どんなに気持ちが小さくなっても 夢みていたい
胸の中 光が見えなくなっても 夢みていたいそれぞれの目の前の それぞれの景色を 信じて歩ければ
なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる
なにげない言葉が うれしい帰り道なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる
明日もがんばろうぜって 笑って歩き出すどんなに気持ちに迷いがあっても 忘れない
胸の中 僕を奮い立たせてくれる 熱い想いはればれとした気分で 思い思いの世界を もとめて歩ければ
なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる
言えないひとことが せつない帰り道(くり返し)
凹んでも疲れても 明日がやってくる
何からはじめようか どれくらいがんばろうかなんだか泣けてくる おもわず泣けてくる
うれしい言葉が せつないひとことがまた一つ歳を重ねた。ところで、
高齢者が多い社会を「高齢化社会」、「高齢社会」、「超高齢社会」と三つに分類すると聞いた。調べてみると、次のように分類されていた。
全人口に対する65歳以上の人口(高齢化率)で次のように分類される。
・高齢化社会=高齢化率 7%〜14%
・高齢社会=高齢化率 14%〜21%
・超高齢社会=高齢化率 21%〜
国連が「高齢者は65歳以上」というように定義したことから、 全人口に対する65歳以上の人口比を高齢化率というようになった。 国連の定義として高齢化率が7%を超えると高齢化社会、
高齢化率が14%を超えると高齢社会と呼ぶようになり、それが一般的に広がっていった。
ちなみに、「高齢化社会」「高齢社会」「超高齢社会」はそれぞれ、aging society, aged society, super aged societyという。
日本では1970年(昭和45年)に高齢化率が7%を超えて高齢化社会に、 1994年(平成6年)に高齢化率が14%を超え高齢社会になり、 2007年(平成19年)には高齢化率が21%を超えて超高齢社会となった。
日本の高齢化率の推移
・1950年(昭和25年)=4.9%
・1955年(昭和30年)=5.3%
・1960年(昭和35年)=5.7%
・1965年(昭和40年)=6.3%
・1970年(昭和45年)=7.1%
・1975年(昭和50年)=7.9%
・1980年(昭和55年)=9.1%
・1985年(昭和60年)=10.3%
・1990年(平成2年)=12.0%
・1995年(平成7年)=14.5%
・2000年(平成12年)=17.3%
・2005年(平成17年)=19.9%
・2010年(平成22年)=22.5%
・2015年(平成27年)=26.0%
・2020年(平成32年)=27.8%
・2025年(平成37年)=28.7%
・2030年(平成42年)=29.6%
・2035年(平成47年)=30.9%
・2040年(平成52年)=33.2%
・2045年(平成57年)=34.7%
・2050年(平成62年)=35.7%参考:http://www.office-onoduka.com/siru_nenkinseikatu/sn0712.html
日本人の5人に1人が65歳以上なのだ。これからの人生とどう向き合うかだ。月末に新車が来ることを心待ちにしているのは、まだ若いっていうことかな。竹内マリアの唄に「人生の扉」がある。
人生の扉
竹内 まりや
春がまた来るたび ひとつ年を重ね
目に映る景色も 少ししずつ変わるよ
陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 越えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよI say it’s fun to be 20.
You say it’s great to be 30.
And they say it’s lovely to be 40.
But I feel it’s nice to be 50.満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 見ることになるだろう
ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよI say it’s fine to be 60.
You say it’s all right to be 70.
And they say it’s still good to be 80.
But I’ll maybe live over 90.君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わいますように
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさI say it’s sad to get weak.
You say it’s hard to get older.
And they say that life has no meaning
But I still believe it’s worth living.
But I still believe it’s worth living.








春模様茶わん 泉涌寺窯元

新車の購入
新車を買うことにした。3月は決算期なので値引きが期待できるとのことで決断した。購入から8年以上経った中古のオペル、ビータを2年前に買い取り、これまで乗ってきたのだが、私も運転免許を昨年の暮れに取得したことなので新車を買うことにした。新車購入に対しては、同僚から、「あなたは免許取り立てなんだから、ぶつけるに決まっている。中古を買ったほうがいい。しっかり乗り馴れてから新車を買った方がいい」と貴重なアドバイスを受けていたが、ゴールド免許の妻や運転暦2年の息子はやはり新車がほしいということで、思いきって新車を購入することにした。私も乗るなら新車のほうが気持ちがいいと思った。知り合いからは、「いい歳しているんやから、トヨタならプリウスくらいには乗らなあかんで。燃費のいい、地球環境に優しい車でないとあかんで。」という助言もいただいていたが、妻と二人で乗るのが中心なので、やはりコンパクトカーでいいと考えた。
トヨタのヴイッツかホンダのフィットか、ディーラーに何度か足を運んだ。ホンダのディーラーは理路整然とビシバシ説明してくる。分かりやすく否の打所がない説明で、カスタマーとしては「ハイ」としか返事のしようがなかった。トヨタのディーラーは、決して段取りよい説明ではなく、もっと細かな説明をしてくれてもいいのにと思う程であった。ただ、いつも優しい笑顔をしていた。
性能はフィットが勝っているように思えた。フィットなら1300cc(100馬力)でねらいとする使用目的に十分である。ヴィッツなら1500cc(110馬力)で馬力がだいたい同じくらいになり勝負になると思われた。(友人からは乗るなら1800cc位の馬力の車がいいと言われていたが。)ホンダは1300ccのLタイプで見積もりをとった。性能差を補うためヴィッツは1500ccで内装をよくし「I'llアイル」タイプで見積もりをとった。カーナビ、ETCなどの備品やメインテナンス、車体ガードコーティングなどのオプションをつけた見積もりでは両車に総額で37万円の差があったが、下取りや値引きを考慮した最終価格では、両車の違いが5万円ほどになった。トヨタはセール期間とフィットへの対抗心が強いのか、車の下取りも10万円とホンダの1万2千円を大きく上回った。メーカー/販売店オプション込みの車体自体の値引きがホンダは3万円強、トヨタは粘って話すと24万円ほど(後で店長に叱られたと言っていたが)になった。フィットはよほど売れているのだろう。安くしなくても売れるから、強気なのか。客であるにもかかわらず、責められている気がした。本来なら、「もっと勉強してくれへん。儲かっているんやから、あまり設けることを第一にしたら客に逃げられるで」と言おうと思ったが、そこは堪えて、「フィットは売れ筋ですから、値引きは少ないのですね。車の雑誌では10万円引きもあるとあったけど」と担当者のカスタマーに対する姿勢を確かめるために、わざと控えめに話した。しかしながら担当者は店長に伺いをたてることもなく、これが精一杯と応えた。それではと去ろうとすると、後付けで「もう2万円ほどは何とかなります」と言われた。都合、5万円強の値引きであった。車の雑誌に書かれている標準的なフィットの値引き額であった。フィットの担当者は、私が候補の一つと考えている競合車のことを聞いても、フィットの性能に自信があるのか、2度目の来客に対して勝負をかけて来なかった。
たしかに、インターネットでの両車比較記事や、車の雑誌記事でもフィットのほうが評価は高かった。でも、結果としてヴィッツを選んだ。ヴィッツのボディカラーに妻は惹かれていたこともある。好みは何ものにも優先するといえる。1500ccで内装のいい方ということがトヨタ選択の要因の一つであったが、その場で決断した最大の要因はディーラー担当者がいつもニコニコしながら、時に困った顔をしながらも大きく値引きしてくれたからであった。コンパクトカーごときであるが、私にはそれなりの大金で、当初から経済的で性能のよいもので納得のいく方を選ぶつもりであった。心はフィットに傾いたり、ヴィッツに傾いたり、毎日、気が変わったりしていた。商売の上で値引いただけのことであると思われるが、最終的には、担当者の人柄が大きく影響するものだと実感した。
学生を教える時もそうなんだろうなと思った。文系科目を教える場合は、いつも理路整然と授業内容を述べているだけでは、いくら正論であっても学生は息がつまるのだろう。期待する教育効果が生まれないことが多い。教員の人柄は学生の学習意欲を左右することがある。ちょっと引くところを入れながら、いつも明るく分かりやすい説明をすると、学生は授業に食い付いてくる。
教えるもの自身の魅力を高めること、それが何よりである。知的魅力、コミュニケーションの魅力など、しっかり身につけることが教育には必要だと実感した。
ライフ
「人生」と言ったらば、なにか私ごときがと思ってしまう。人生を「ライフ」と言ってみる。闇雲に横文字にするのは好きではないが、肩の荷がおりた気がする。立派な生き方も理想のあり方も、そこにはなくていい。「ライフ」が時に生活とか暮らしということを意味するからだろうか。何の変哲もない日々の暮らしの繰り返しがある。小鳥がさえずり、朝の光が差し込み、足音が聞こえ、新聞が届けられる。歯みがきコップの水が光に輝き、心がゆれる。そんなふうに始まるそんな暮らしのただの積み重ねが、人生を作っている。この日々の暮らしの一段一段を、大切に上り下りすいとる。それだけで自分の人生が愛おしくなってくる。藤川幸之助、『やわらかなまっすぐ』より
唐代の僧、雲門文偃のことばである。毎日いいことがあるわけでなく、また、毎日よくないことがあるわけでもない。嬉しい時も落ち込む時もある。しかしながら、毎日をいい日、よくない日と考えるのでなく、一日一日を人生のかけがえのない時間としてとらえ、今この一瞬を大切にいつも新鮮な気持ちで真摯に生きれば来る日は好日になるということである。
末の娘が2週間ほど我が家に戻って来ていた。茶の間で大学のこと、アルバイトのこと、友だちのことなどよく話し、母親にべったりとくっついていた。久しぶりの我が家にこころが落ち着いたことであろう。友だちと遊んだり、ゆっくり寝ていたり、ピアノを弾きまくったり、買い物に出かけたりするなど毎日を充実して楽しんでいた。日日是好日であったろう。
イタリア旅行を思い出し、夕食にイタリアンを食べに行った。そのまえにジャンカラに行き、ゆず、コブクロの唄を歌いまくっていた。母親と唄のデュエット。のびのびと歌う姿は、健康の太陽エネルギーが光と熱となって地球に降り注ぐようであった。
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その娘も3月になり、大学の下宿へ戻った。戻るなりバイトに行き、明かりのついていない部屋に帰宅して、五条で買った「昼下がりの三年坂」という紅茶を独り飲んでふるさとを思い出しながらくつろいだようである。親は寂しく思うが、子はそれよりも楽しい明日が待っているようである。明日を心待ちにする気持ちを忘れてしまえば、日日是好日はやってこないだろう。明日に夢見る気持ちは美しいものである。




教え子からのメールより 12月29日は、あれから京橋で3年4組の同窓生と合流しました。
遅くまで飲んでいて、
環状線で天王寺を乗り過ぎし、今宮で折り返しました。
あやうく終電に乗り遅れるところでした。
今年の7月20日は、
ユニバーサルシティ内のバイキングレストランで行ないます。
USJ入園にお金がかかるので、
繰越金を取り崩して、同窓会の会費は抑えようと思います。******* プチ同窓会報告、また素敵な年賀メールを送って頂き、有難うございました。
先生のお子様が、素直な表現で親に対する感謝の気持ちを表している手紙を見て、私も感動しました。 本当に素敵なお嬢さんですね。
先生の影響?から、私もディズニーランドが大好きで、
東京にも何度か行きましたが、
パリにもご存知かと思いますがユーロディズニーがあり、
26日に友人の子供を連れて行ってきました。
ただ、パリ郊外でかなり寒く、一日氷点下で遊んだ結果、
今風邪を引いております。
毎年、クリスマスイブは主人のお兄さん家族と過ごすのですが、
今年のメニューも豪華でした(以下、メニュー詳細です);
前菜1_生のフォワグラで作ったパテ、ホオズキ、ピレネー産玉葱のマリネ
前菜2_白ブダン、きゅうりのソテー
主菜_3日間いろんな香辛料でマリネした生後6ヶ月以下の猪の肉、セロリのピュレ、
赤キャベツのリンゴ煮
チーズの盛り合わせ
デザート_栗スポンジの周りをたっぷりのホイップクリープで飾った雪景色風栗ケーキ
マロングラッセ飾り
一年の最大イベント、クリスマスも終わり、
2007年もあと4時間弱となりました。
来年の同窓会は是非参加したいと思っておりますので、
その時お会いできるのを今から楽しみにしております。******* 先月40歳になって、初めて(?)自分の人生を少し振り返ってみたら、 いろいろなことがありましたが、 昨年よりN高校の同窓会をきっかけに、こうして高校時代の仲間が集い、 先生と一緒に楽しい時間を過ごすことができる環境にある自分は幸せだと思いました。 N高校の伝統も嬉しいですが、 やはり、3年6組の心の絆の強さが一番ですね。 これからも皆で盛り上げて行ってほしいです。 私もできるだけ参加します! ******* お勧めの馬場俊英をYouTubeで見ました!
よかったです!!次の同窓会では、カラオケで熱唱しましょう!
いつも元気を頂いて、ありがとうございます。
私は、この頂いた元気を私の周りに、注いでいきたいです。******* いろいろ、ご心配お掛けし、スミマセン・・。
子供に教えられ、勇気を貰いつつも、私の生き方を模索して行きます。
でも、正直、40過ぎのおばさんにきちっと叱って下さる方は他に見当たりません。
どうか、道に迷いそうになった時は、また渇を入れてくださいませ。
有難うございました。******* 京都も綺麗に雪化粧したのですね!! まるで『水墨画』のようでノ!美しい京都の雪景色を拝むことができ、感激です
ありがとうございます?
今年は暖冬かと思ったら、いやはや例年になく寒さが厳しいですね
こちら温暖な愛媛も松山はちらほら雪が、少し郊外では積雪している所もありました
もうすぐ(2/13〜15)私の家の近くの神社でお祭りがあります「椿祭り」というそのお祭りは「春を呼ぶ椿さん」と地元の人は言っていて、 そのお祭りの時期が、一年で一番寒く、 それが終わると暖かくなると言われています。 ということは、来週辺りから暖かくなるハズなのですが、どうなんでしょう? でも実の所私は寒いの苦手ですが、 冬の澄んだ空気ツンとした寒さノ嫌いではないです。 でも少しは暖かくなって欲しいかな 先生、高山の方にも行かれたんですね。HP拝見しました! 先生のそのフットワークの軽さ、私も見習いたい所です!!
では、風邪などひかれませんようにノ!先生もお元気で!!
PS.馬場俊英さんノ知っていましたが、先生に教えてもらうまで、じっくり聴いた事ありませんでした。歌の歌詞に共感しました。元気をもらいました
*******
Everybody needs to be needed
Everybody wants to be wanted
'Cause everybody knows that we are all alone
Let me give my gratitude to you
For always being there and smile for me
Many many thanks to you, the best friend of mine
「竹内まりや」の唄を思い出しました。










出張で北陸へ行った。何十年かぶりに金沢に立ち寄った。駅前もすっかり変わっていた。 大きなトラスト構造の建物や櫓(やぐら)のような建造物がそびえていた。
35年程前、学生の頃、富山新湊まで往復1週間の自転車一人旅(テントと緊急食料をもって)をしたことがある。自転車は大学生協で買ったばかりであったが、3段の変速ギアでオフロード用でなく、坂を登るのは大変であった。北陸トンネルの上にあたる峠路でパンクした。通りがかりの車の人に親切にも車で村の自転車やさんまで運んでもらった。感激した。
当時旅立つ前に、母から「新潟から南下し静岡に出て東海道を帰ってくるくらいの旅をしてこい」と言われていたが、道中いろんなことがあって、途中で断念、北陸往復の旅となった。
自転車で旅をすることは青春としてかっこよいと思っていたのだろうか。自分の脚力で移動する、そのエネルギーを確かめたかったのだろうか。何か吹っ切りたかったのだろうか。とにかく出かけることだと思い立ったのだろう。小さな冒険者でありたいと願って。ただ、自転車を漕いでいる時は、何も考えていなかった気がする。ひたすらペダルを踏んだ。道中はサドルでお尻がいたくて仕方がない状況であった。
そんな時、国道を走っているとたまに自転車ツーリストにすれ違うことがあった。二人連れのツーリストやグループのツーリストが多かったように思う。自転車ツーリストに出会うとお互いVサインでエールを送りあった。「どこまで?」『富山、どこまで?』、「京都」と短な会話だけで十分だった。自転車ツーリストに出会うと勇気が湧いて来た。同じようにがんばっているやるらがいるんだ。
あの時、バイクのツーリストには絶対にあいさつしなかった。人間とエンジンの動力の違いは、そのまま自分の旅への誇りを持たせていた。「おれは自分の力で旅しているのだ、彼等は運転しているだけだ」と。ジョンデンバーの「Sunshine on my Shoulder」を口づさみながら峠を越えたりしたことを今でも覚えている。暑い夏の日のことであった。
その時、金沢の兼六園へ立ち寄った。当時は無料で入れた。自転車を入り口付近でとめ、半丸太のベンチに横になるとそのまましばらくそこで寝こんでしまった。よほど疲れていたのだろうか。
今、あの兼六園は静かであった。年配の旅の夫婦がシャッターポイントを決めては二人寄り添うように並んで、セルフタイマーで写真を撮っていた。寄り添う夫婦に冬の合間の暖かな日ざしが照っていた。私のこころも温かくなった。
ひさしぶりに訪ねた金沢であった。







ロフトに眠っていたベータービデオテープを、大学のLRセンターでDVDにコピーしてもらった。ベータのビデオコーダーが自宅からは姿を消している。20年以上前のビデオテープで、やはり劣化していてノイズ画面であったが、その分、時の経過を感じさせるものであった。写っていたのは、担当していたクラスの遠足、鉢高原合宿、球技大会、修学旅行、文化祭などであった。あの時の生徒がそのままいきいきと写っていた。8ミリからビデオの時代に移った当時、肩に大きな撮影機を抱えてがんばっていた。アフレコには当時流行っていた青春歌をいれていた。その一つが中村雅俊主演のドラマ「われら青春」の主題歌「帰らざる日のために」であった。映像から流れてくるその歌に、当時の溢れるような気持ちが蘇った。音楽テープはもう手許にはなかったので、CDショップに行き東芝EMI「フォーク歌年鑑 '74」にその歌を見つけ、早速購入して何度も聞いてしまった。
生まれて来たのは なぜさ
教えてぼくらは 誰さ
遠い雲に 聞いてみても
何も言わない
だからさがすんだ 君と
でかい青空の下で
この若さを すべて賭けて いい何かを
愛する人がいるなら
求めるものがあるなら
なんにも怖くはないさ
そいつが青春
涙は心の汗だ
たっぷり流してみようよ
見えない壁をのり越えながら
生きてることって 何さ
走ってゆくのは どこさ
風は寒く 笑いながら
頬を打つだけ
だからさがすんだ 君と
荒れ果てた土の 上に
この力を すべてこめた 足あとを
愛する人がいるなら
求めるものがあるなら
なんにも怖くはないさ
そいつが青 春
燃えてる夢をいのちを
残らず使ってみようよ
二度と戻らない今日のために熱い気持ちに溢れていたなあ、 あの頃は。今もそれは変わらない。今年は学生に、馬場俊英のスタートラインを聞かせたか。「涙はこころの汗」か、明日のジョーが最後、リンクのコーナーで真っ白になって満足そうな笑みを見せていたなあ。「Tuesdays with Morrie」のモーリーはA Teacher to the Lastを墓碑名にしてほしいと言っていた。いろんなことを考えた。

映画の広告案内には、
「日中戦争が泥沼化しつつある頃。野上家では、ドイツ文学者の夫・滋と妻・佳代、そしてしっかり者の長女・初子と天真爛漫な次女・照美の4人が貧しくも明るく暮らしていた。お互いを「父べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」と呼び合う仲睦まじい家族だったが、昭和15年2月、滋が治安維持法違反で検挙されてから苦難の日々が始まった。そんな折、滋の教え子・山崎徹が訪ねてくる。それ以降、徹は一家の手助けをするのだった…。」
「時代劇三部作」に続く名匠・山田洋次監督の新作は、長年にわたり黒澤明監督のスクリプターとして活躍してきた野上照代さんが執筆した自叙伝「父へのレクイエム」の映画化。これまで山田監督が常々描いてきた「家族」というテーマの集大成といえる作品に仕上がっている。日本が戦争に向かって突き進んでいた暗い時代を背景に、どんな困難を目の前にしても、常に娘たちに精一杯の愛情を注ぐ母であり、獄中の夫を尊敬し信じ続ける妻を吉永小百合が演じ、新境地を拓いている。細部にまで行き届いた時代考証の緻密さ、昭和初期の街並みを完璧に再現したオープンセットなど、見どころは豊富だ。
とあった。
2時間少しの長い目の映画であった。あのメッセージを、当時の人々の思いの機微を伝えるには必要な長さであろう。映画館内はシニアの夫婦が多かった。先の戦争のことは60年以上経ち、確かに現代日本人のこころから消え去っているように思える。
私自身も、ひさしぶりに幼き頃のことを思い出した。戦争に行った父や20歳の若さで戦死したおじさんのこと、「遺族の家」という青いアルミ版を玄関の柱に打ち付けていたこと、床の間には戦死したそのおじさん(父の弟)の遺影がずっとかかげてあったこと。朝、昼、晩の食事の前には必ずそのおじさんの遺影の前に座って一言こころの中で感謝の気持ちを述べるように母にしつけられていたこと。そして自分の名前は、父が弟のことを思いやり、私の中に弟が蘇ることを願い、そのおじさんの名前の一字をもらったこと。若くして亡くなったっそのおじさんのためにも、一生懸命生きることを自分の使命のように思っていたこと。
直接、体験した戦争ではないが、円山公園や大谷廟には戦争で片手や片足をなくしたりした傷痍軍人が、通り過ぎる人々の施しを受けるため自分の未来を呆然と見つめるかのようにじっと立っていたり座っていたりしていた姿はしっかりと脳裏に焼き付いている。
映画の中の子ども役の照べえの演技は、演技とは思えぬ子どもそのものの微笑みたくなる感情表現であった。確かに「家族」を描いていたのだろう。日常の様子を淡々と描写する中に、違和感なく溶け込んだ。上記の論評に、吉永小百合は役どころの新境地を拓いたとあるが、そうじゃないだろうと思う。彼女が元から持っているものを出しただけだ。中学生の頃からのさゆりすとには、同意できない表現である。
「家族」の大切さがこの映画のテーマだそうだが、先の戦争のことをもう一度しっかり思い出して、今を生きてほしいということが一番のメッセージじゃなかったかと私には思える。おそらく、先の戦争のことを一次間接的に知らない若い人たちには、「家族」がテーマであろう。でも、私にとっては、書生のようなやさしい山崎青年が魚雷攻撃を受けて海に沈むシーンが、20歳で東シナ海の藻くずとなった弘重おじさんとぴったりと重なり、締め付けられるような思いがし、泪が溢れ出た。日頃、盆と正月に墓参りをするだけで、それ以外の時は頭の中でほとんど消えていたおじさんのことが頭いっぱいにひろがり、今一度、「おじさん、おれはおじさんがよくやったといってくれるような人生を送って来ただろうか」と問いかける思いに駆られた。「おじさん、おじさんの3倍近くの年齢になったよ。自分のできることで、今の自分の仕事を精一杯がんばるよ」と三條大橋から冬の鴨川の水の流れを見ながらこころの中で思った。
節分が過ぎると、また新しい春である。


















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