"Welcome to Hot Soup for the Soul"

"Hot Soup for the Soul"

a kind of refreshment to those who are exhausted in heart.


 

あくしゅ   武鹿 悦子   

あくしゅは  てと ての でんわ

ことばが つたわる

こころが つながる

あくしゅは  てと ての でんわ

きれたあとまで

あたたかい

+++++

2011年も残すはわずか。

大きく変わると書いて「大変」

そんな年だった。

「絆」という言葉が今年の漢字に選ばれた。

こころところがつながる絆を大切にしてゆきたい。

*********

師走 12月

明日   室生 犀星     

明日もまた遊ぼう!  

時間をまちがえずに来て遊ぼう!  

子どもは夕方になってそう言って別れた、  

わたしは遊び場所へ行って見たが  

いい草のかおりもしなければ  

楽しそうに見えないところだ。  

むしろ寒い風が吹いているくらいだ。  

それだのにかれらは明日もまた遊ぼう!  

此処へ集まるのだと誓って別れて行った

若い皆さんが、 明日のことを考えて

力を出し切らないことはよくないと思う。

今日のうちに、 今日の力を使い果たすことで、

明日を迎えることができる。

明日は明日でまた力が湧くものだ。

新たなる力を生み出すには、

日々全力を尽くすことだ。

そうすることで、 新しいエネルギーが生まれ、

あなた自身も新しく生まれ変わることができる。

自分を信じること、 今日を充分楽しむことから、

明日への約束が生まれる。

でも、何かが欠けているようで不安に思うことがある。

全てを持ち合わせていることはあるのだろうか。

今の自分に何かが足りないことは当たり前のこと、

経験もいるだろう、 今日や知識も必要だろう。

周りの環境も必要だろう

全てが整うのを待つのではなく、

今ある自分の全力を尽くすことが大切だと思う。

「勇気」を持ってぶつかることだ。

十二月もあと数週間、

積み残しがないようにしっかりと残りの日々頑張ろうではないか。

 

 

大原 朝市

自転車で久しぶりに大原へ行った。

夏の米原・醒ヶ井〜京都以来のサイクリングであった。

しばらくは忙しくて出かける間が無かった。

走行距離40.4km、 平均時速20.8km、 2時間弱で戻ってきた。

大原までと静原へ向かう時が上り坂ではあったが、マラソン選手はスゴイと思う。

マラソンランナーは42kmを2時間7〜8分で走るのだから。

大原に着く途中と静原に向かうときは雨で、

自転車も路面の水をタイヤで巻き上げ砂だらけになった。

朝市では野菜などが新鮮で安い。冬至の風呂用にゆずを買って帰った。

やさしさ

佐々木美智子

 

いのちの奥の奥の

奥ぶかいところに

とろけるような

やさしさが湧いている

そのことを知ったので

こんな醜いわたくしでも

安心して

歩いてゆけます

山の木々は、 落葉を迎えている。

散りゆく前に真っ赤になったり、 黄色になったり、

色を変えて 葉が散って行く。

今年を精いっぱいに生きた証なのだろう。

命のいとおしさを感じる。

「僕は才能とか、そんなようなものはないです。

何にも他人に自慢できるものを持ってないから、

できることと言ったら、

自分に正直に生きることぐらいしかない。それぐらいしかない。

だから誓ったんですよ。

これからの人生で嘘はつかない。

真っ当に生きて、

できれば関わった人たちはみんな幸せになってもらって、

僕と知り合って良かったって思ってもらって、

そして、いつか天国で皆に会ったときに、

しっかり生きてきたよって言おうと思って」

少路幸也『カウハウス』の一節である。

あるがままに、素直に精いっぱい生きていくことができれば、

それは本当に素晴らしいことである。

先日、結婚三十二周年を迎えた。

散り積もった落ち葉を糧に

また新しい緑の葉でいっぱいにしたいと思う。

 

結婚記念日(満32年)+妻の誕生日

11月25日が32nd Wedding Anniversaryであった。

29日が妻の誕生日なので、私からは両日併せてのプレゼント渡した。

最近ジョギングを始めているので、赤のランニング用のウインドブレーカーとボーダーのセーター、

あとオリーブ石けんなどのソープ類を渡した。

私はランニング用のタイツを買ってもらった。京都マラソン(3.11)に申し込んでいたので。

ただ、買ってもらった翌日マラソンの出場の結果が、抽選か何かにより落選とメール連絡が来た。がくっときた。

翌日、悔し紛れにそれをはいて東福寺へジョギングに出かけた。

妻も週に1〜2度、赤のブレーカーを愛用してくジョギングを続けている。

 

結婚記念日には真っ赤な薔薇の花と小さなケーキを買って帰った。

その日は家で、二人だけの食事であったが、

前日に買っておいた赤ワインと妻の手料理でお祝いをした。

何年か前に次女も連れて行ったイタリアベネチアで買ったワイングラスは思い出の土産である。

それで飲む赤ワインは格別であった。

こうして、

お互い健康であることが何よりだ。

29日は誕生日 長女はランニングウエアーを贈っていた。

私はふたたびケーキを買って帰った。

中国在住の息子夫婦から枯れない真っ白の薔薇のが送られてきた。

妻は大喜びだった。

息子夫婦からはカードもついていた。

「誕生日おめでとう。もう結構な年だから余り無理しないように身体に注意してください。また2月に帰るかと思います。」

「お母さんの誕生日、こちらから全力で祝います!!また、会える日を楽しみにしています」

息子のメッセージには笑ってしまった。

また1年経った。

*********

2011 紅葉

東福寺 通天橋

  

泉涌寺 来迎院

15番今熊野観音

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   空をかついで  

石垣 りん    

肩は  

首の付け根から  

なだらかにのびて。  

肩は  地平線のように  

つながって。  

人はみんなで  

空をかついで  

きのうからきょうへと。  

子どもよ  

おまえのその肩に  

おとなたちは  

きょうからあしたを移しかえる  

この重たさを  

この輝きと暗やみを  

あまりにちいさいその肩に。  

少しずつ。

少しずつ。

この先、 私はどう生きていけばよいのだろうか、と

日々積み重なってくるように感じる課題を背負って、

思うことはないだろうか。

だれに尋ねても、

図書館からいくら本を借りて読んでみても、

周りの友人とどれだけ話し合ったりしたとしても、

思うような回答は得られない。

結局、 自分で考えて、

自分で行動を起こすしか他に道はない。

明日という日は、 つかむことができない。

常に一日前にある。

ただ、前を向いて歩くことだけがすべてなのだろうか。

京都新聞に掲載されていた小学生の俳句に、

「小鳥くる よそ見してたら 当てられた」 があった。

確かに授業中のよそ見はいけないが、

いつもダメというものではないと、

この句を読むと感じる。

素敵なよそ見もあるのだと。

それどころか、 前向きと思って進んでいると思っていても、

実は、その方向が後ろ向きだったということもある。

ようは自分をしっかりつかんでおくことが一番大切なことだろう。

*****

杉吾兵衛

 

 

 

 

枚方 杉にある農園カフェテラス「杉吾兵衛」に出かけた。車で1時間ほどのところにある。

昔、すももを食べる会で訪ねた農園であった。

今はかなり整備されてカフェテラスまである。

農園弁当2000円はこの農園で取れた有機野菜を中心にした料理である。

炊き込みごはんはおしかった。びっくりしたもので、柿の天ぷらを食べた。

食事のあと農園散策をして帰った。いい気分転換になった。

******

おかあさんのたからもの 《愛知県岡崎市立生平小学校 1年 杉山晴彦》    

せんせい あのね  

おかあさんのたからものはね

ぼくだって

おかあさんのたからものは

ぜったい ゆびわだと

おもって いたけど

ゆびわは 2ばんめだった

ぼく  たからものになっちゃってこまるよ

たからものって  はめたり つめたり

かけたりするものなのに

でも  なんか

いいきぶん

ぼくは

そとへでて はしりまわったよ

 

「人はみな、誰にも理解されない絵を心の中に持っているのではないか」 と、山本周五郎の『樅の木は残った』にある。

日々の生活の中で、 私のことなんか分かってもらえないと 思ったことはないだろうか。

自分自身が心に秘めた、自分自身の思いは、 なかなか口には出せないものだ。

だから、 家族であっても自分以外のものが、 何を思っているのか分からないこともある。

親しい友達でも、 本当のところは分からないと思っている。

思うようにならないことも多い。

でも、そんなとき、 たとえばこう思っていないだろうか、

「お腹が空いたから何かを食べたい」を 「お腹が空いたから何か作ってよ」と。

「何かを食べたい」は自分の感情であるが、

「何かを作って」は他の人に願うことである。

そこのところを、同じように思い込んで、 無意識に相手にも期待する。

で、通じないと、「分かってもらえない」と決めつけてしまう。

しかしながら、 身近な人はあなたが思い込んでいるより、

分かってくれているかもしれない。

あなたが分かってあげられる人になればきっといい気分になると思う。

 

***********

 

141年間ありがとう 一橋小学校整地

 

  

 

 

 

 

我が母校の小学校がすっかり整地された。子どもたち3人も通った小学校。私が学んだあの教室もなくなった。時が経つとはこういうことだ。何とも言えない。桜の木も全て無くなった。

やがて、小中一貫校として新しい校舎が建つ。これからの子どもたちの学舎がまた100年200年と時を経るのだろう。

空を巡る風となって200年後この地を訪れてみたい。


English Education
Nakai's Family Haiku
Emotional Intelligence
Sense of Wonder
Haikuist Club
Nakai Tomo's Works
Expression
Eight Commandments for Father with value
A Short Letter to Mother on her birthday
Graduation Comemorative Anthology
Previous Haiku 2001
Previous Haiku 2002
Previous Haiku 2003
Previous Haiku 2004
Memories in 2005
Meorories in 2006
Meorories in 2007
イタリア旅行記
運転教習日記
Tomo's Letter
*Memories in 2008
Memories in 2009
Memories in 2010

 

空色の花           金子みすゞ  

青いお空の色してる

小さい花よ、よくお聴き。

むかし、ここらに黒い瞳の、

かわいい女の子があって、

さっき私のしてたよに、

いつもお空をみていたの。

一日青ぞら映るので、

お瞳はいつか、空いろの、

小さな花になっちゃって、

いまもお空をみているの。

花よ、わたしのお噺が、

もしもちがっていないなら、

おまえはえらい博士より、

ほんとの空を知っていよ。

いつも私が空をみて、

たくさん、たくさん、考えて、

ひとつもほんとは知らぬこと、

みんなみていよ、知っていよ。

えらいお花はだまって、

ぢっとお空をみつめてる。

空に染まった青い瞳で、 いまも、飽きずにみつめてる

 

秋、たけなわである。 澄み切った秋の空を見ていると、 心が軽くなる気がする。 自分が小さくも思える。 同時に、幼き頃、同じように空を眺めていたことを思いだす。 歳を重ねて、 人生を振り返ってみることが多くなった。 あの頃の未来に自分は今いるのかなと思う。 そうであればいいのだが。 これから独り立ちの人生を迎えようとするあなたたち、 あの青い空の向こうに 未来のあなたがいる。 それは、 今のあなたとは全く違っているかもしれない。 はたまた、 野にある秋の草花が 時を違えず咲くように あなたの芯が少し太くなるだけで変わらないかもしれない。 まだまだ知らないことがいっぱいあるあなたたち、 空の広さと深さを知るだけでなく、 あなた自身をしっかり見つめることが 大切だということを忘れないで欲しい。 あなたの未来を語る話が 決して終わることのない、いつまでも続く話であって欲しい。

 

日本の秋

先日、妻が友人と毎年恒例の信州のウオーキングに出かけた。

林檎やわさび漬けのお土産とともに信州の秋の写真を持って帰ってきた。

山に自生しているあけびはとても甘くて美味しかったらしい。

外皮を持って返っていた。紫色した小さな包みのような実であった。

日本の秋は美しいと思う。

色とりどりに人知れず一年の思いを表現しているかのようである。

来るべき冬にエネルギーの消費を抑え、寒さから身を守る生命活動であるのだ。

その営みの懸命さと見事さに心打たれる。

一枚として同じ色ではない葉がそれぞれに散って行く日が来るまで、

美しくあれと思う。

妻がどんな俳句を考えているのか楽しみである。

夏の終わりに行った石見銀山の俳句が

カルチャーセンターの俳句会で先生に褒められたと子どものように喜んでいた。

私もいい俳句だと思う。

「銀山に精錬所跡とかげ這ふ」

「坑道に涼しき風よ時流れ」

どちらも秀句だと思う。

「とかげ這ふ」が妙味、この俳句の命だと思う。

「涼しき風時流れ」もうまい表現だと思う。

当時の人も今訪れる人にも同じように吹く涼風だが、でも同じはない風に時の流れがある。

時の流れのように涼風が吹くというのも妻ながらうまく言ったなあと思う。

もう一つ京都の町の情景で、

「格子窓夏帽の子をコマ送り」

も心地よい俳句だと思う。

妻のことをちょっと褒めて、「腕あげたなあ」と言ってやると、

「そやろー」と喜んでいた。

今回の信州の俳句が楽しみである。

ある日ある時     黒田 三郎  

秋の空が美しいという

ただそれだけで

何かしらいいことがありそうな気がする

そんなときはないか

空高く噴き上げては

むなしく地に落ちる噴水の水も

わびしく梢をはなれる一枚の落葉さえ

何かしら喜びに踊っているように見える

そんなときが

平凡な日常の中に、 本当はいろんな出逢いが紛れ込んでいる。

人は、ただそれに気づかないことが多い。

しかしながら、 ふと、足下に舞い落ちてきた落ち葉に 風の冷たさを感じ、

過ぎし夏の日々のことを思うことがある。

ちょっとした出会いが輝きを放つのは、 やはり時が経ってからのことだろうか。

いつも見ている景色でも、

その時の気持ちによって 様々な表情を見せる。

それに気づいてこそ美しさがわかる。

毎日、洪水のように様々な情報がインプットされる。

それがそのまま、アウトプットにつながるものではない。

まず「気づき」がないと いくらインプットされても水道の垂れ流しのようなものである。

「気づき」のあと、それを「理解する」ことで、

心深くに残る内在化(インテーク)の段階となる。

いわゆる消化である。

消化するには これまで自分の体験などを通して得た知恵という消化液が必要だ。

そして、摂取された思いや考え方が、

あなたの言葉となってあなた自身を表現するのだ。

一日の出会いに感謝して。

 

昨日はどこにもありません   三好達治  

昨日はどこにもありません

あちらの箪笥のひき出しにも

こちらの机の引き出しにも

昨日はどこにもありません

それは昨日の写真でしょうか

そこにあなたの立っている

そこにあなたの笑っている

それは昨日の写真でしょうか

いいえ  昨日はありません

今日を打つのは今日の時計

昨日の時計はありません

今日を打つのは今日の時計

 

これまでのことを思い出しては、 以前はもっと楽だったのにとか、 もっと楽しかったのにと思っても仕方が無いことだろう。 昨日がどこにも見えないように、 明日もどこにも見えない。 見えるのは今だけである。 今が本当に大切なのだ。 答えという捜し物をしても、 全てに答えがあるものでもない。 また、人生においては、 何が「正解」であるかは、 そんなに簡単にわかるものではない。 ある人にとって「正解」の生き方でも、 他の人にとってはまったく正解でないこともある。 ただ、答えを求める方向は、 求める場所としてふさわしいところで さがす必要がある。 あなたの答えを求める場所は、 今あなたがいるところでしかない。 だから、 今を精いっぱい生きることしかないのだ。 それは、「勝つ」ことでも「負ける」ことでもない。 今、苦境であっても、いつか順境になる。 その逆もあり得る。 人生をトータルに見ればほどほどになっているのではないだろうか。 人生全うできればすべてよし。

 

 

出発              黒田三郎  

どこか遠くのほうから見ていたい  

感動している自分を  

感動して我を忘れてとんでゆく自分を  

どこか遠くのほうから見ていたい  

息を切らしてしまってはいけない  

よそ見をしてはいけない  

心ひそかにそう念じながら  

どこか遠くのほうから見ていたい  

あおいじつにあおい  

その遠くの空の彼方へ  

今はそれだけが私の仕事だ  

荒々しく私は私を投げつける  

紋白蝶のように軽々と行ってしまうようにと  

眼をとじながら私は私を投げつける  

足元に落ちて高雅な陶器のように砕けないようにと  

 

毎日の積み重ねが大切である。 確かにこれは真実であろう。

しかし、これだけでいいのだろうか。

アップルの創始者のスティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。

彼は既存の世界の破壊と新たな世界の創造を行った。

ウオークマンは博物館の展示品となり、 iPodが日常になった。

英国の地下鉄Tubeの車内では ビジネスマンがiPad2で新聞を読んでいる。

人はここと思うとき、 これまでの常識を超えてジャンプすることが必要だ。

これまでにとらわれていたら、 現状維持で終わる可能性が高い。

人生は短いようで長い。

これまでどおりの生活でという発想は 時には必要であるが、

人生の山場を登るときには、 これまでと異なる発想転換を持って突き進むことが求められる。

自分を投げつけるように、 新しいこと、新しいやり方を試してみることだ。

部分的にちょこっと変えるのではなく、一新する気概が要る。

それで壊れてしまってはいけないが、 後戻りしても、あなたの未来は拓かれない。

ジョブズは言った、 「Stay hungry,Stay foolish」

貪欲に愚直に突き進むエネルギーを持とうではないか。

ふるさとの

三木露風

 

ふるさとの

小野の木立に

笛の音の

うるむ月夜や。

少女子(おとめご)は

熱きこころに

そをば聞き

涙を流しき。

十年(とおせ)経ぬ、

おなじ心に

君泣くや

母となりても

******

中国から息子が国慶節の関係で半年ぶりに一時帰国した。 帰国したと言ってもほとんど我が家にはいない。

息子の嫁は少し日をおいて帰国、 友人と会ったりして忙しく我が家にはしばらく来ない。

そんな中、山口に一人暮らしている末娘が、 兄の一時帰国に併せ夜行バスで帰ってきた。

我が家には一泊だけのステイ。

土曜日に泊まり、日曜日の夜行バスで山口に戻り、その足で出勤。

それでも、 一年以上会っていない兄らに会いたいと思ったのか、故郷が懐かしいのか戻ってきた。

息子は妹のそのけなげな気持ちに気がついただろうか。

子どもは成長していく。 やがて親から離れていく。 それが当たり前なのだろう。

親という責任から解放されることはほっとすることだが、 何か人生の終盤にさしかかったと思う。

これからは妻ともう一度二人だけの人生を送ることになる。

お互いいたわり合いながら生きていきたいものである。

週に一度ジョギングをしているが、 道を走る度に、まだ走れると自分を鼓舞している。

今日、日曜日の朝、いつもとコースを変え鴨川沿いをジョギングをしていると、

一日だけ実家に戻っていた娘が早朝ジョギングをしていて、 偶然その戻りに、四条の鴨川沿いでばったり出くわした。

道がどこかでつながっているように、 娘と自分もつながっているんだなあと思った。

子どもらがいつか時を経て父・母となり故郷を思うとき、

親が精いっぱい生きていたことをわずかでいいから思い出して欲しい。

教職Field Study 英国事前調査訪問記 (完)

2011年9月9日〜19日

 9日から19日まで、9泊10日でイギリスに出かけた。来年度実施予定の教職Field Studyの下見で、ヨークにある中学校を訪問し、来年度、本学の学生の授業見学等の許可の交渉をするためと、訪問地の選定、訪問地での体験・観察リサーチ学習の内容を考えるためのものであった。毎日、忙しく動き回った一人で行動していたので、相当気疲れをしたのか、帰国後、時差ボケと重なり3日間はぼっとしたまま、毎日が眠く朝10時を過ぎても起きられない状態が続いた。

 今回の訪問を覚えているうちに日ごとにまとめていきたいと思うが、業務が山積しており、なかなかそこまで時間がとれない。これから少しづつまとめていこうと思う。

9日  

 早朝5:30 自宅発、5:50京都駅発の空港バスで大阪伊丹空港へ、6:45着 7:50伊丹発成田へ、乗り継ぎで11:50発ヒースローに同日3:30頃到着  

 ヒース路空港では入国審査に長蛇の列、なかなか進まなかった。後で気づいたことだが、9.11の10周年でテロの警戒が厳しく、イスラム系の入国者はかなりの時間をかけた審査を行っていたようだ。  

 やっとの事で入国、預けた荷物のピックアップを一番橋端で受け取る。空港出口に向かうとおびただしい迎え人でごった返していた。パディントンへ向かうエクスプレスの乗り場をさがす。インフォーメーション・デスクで尋ね、プラットフォームへ向かう。自動券売機でパディントンまでの切符を購入。はじめてポンドを使う。乗車25分くらいで着くらしいが片道18ポンド少しと高い。50ポンド紙幣を入れて購入しようとすると機械が受け付けない。 £50notes OKとあるのに。そこで20ポンド紙幣でようやく切符を購入。 電車に乗り込んだ。改札はない。乗車中、車掌が切符の点検(inspection)に来る。あと駅について出札するときに、切符を自動改札に入れることになる。

 夕方5時半くらいにパディントン駅に着いた。ホテル近隣の地図を頭にたたき込んでおいたとはいえ、初めての駅。不安である。駅から出るとかなり多くの人が道路の両脇でたばこを吸っている。たばこの煙とともに異様な感じがした。気持ちが悪くさっと抜け出た。2ブロック目を左に曲がってホテルに着いた。またこのホテルが狭かった。宿泊室の通路は人が一人通れるほど、それも通路の途中に何度も火災のさいの防火ドアがある。いくつものドアを越して階段を上りようやく自室に着いた。3階の215号室であった。角の部屋であったが、非常に狭い。これで一泊1万2000円するなんてロンドンは相当なところであると思った。駅に近いこととWifiが自由に使えるということだけをインターネットで見て選んだだのだが、何もかも分からないまま旅程等を組んだので仕方が無いと思った。次回はこういうことは無いようにすると思った。

 相当疲れていたが、着替えて、ホテルの周りの道や店など地理的な状況の確認と、明日から乗るtube地下鉄のオイスターカード(日本のイコカ・カードのようなもの)を買いにパディントン駅地下鉄改札へ行った。観光案内書では3£のカードのデポジットとあったが、駅員に5ポンドだと言われた。3ポンドじゃないのと尋ねたが、5ポンドだと言われた。領収書にも5ポンドと打たれていた。25£と併せて30ポンドの支払い。50ポンド紙幣を渡すと、何かにかざしてホンモノかどうか検査していた。6500円くらいの紙幣を確認していることに驚いた。偽札が横行しているのかなと思った。おそらくカードの国だから、キャッシュで大きなお金は払わないのだろうと思った。帰りに駅で見かけたコンビニで夕食にサンドイッチとビールを買い、ホテルに戻った。フロントでWi-Fiのパスワードを訊き部屋でゆっくりした。日本時間では深夜過ぎて3時頃である。疲れたのですぐに横になった。

 

全日空 NH201便                機内食は今ひとつ(単なる食事)

 

  Heathrow Expressの車内           Paddington駅 国鉄が分割民営化 ホーム内に自転車置き場 

10日

 ヨークで暮らしているイギリス人夫妻と子どもがロンドンを案内してくれることになっていた。思っていたより、ロンドンは暑かった。

 大英博物館のグラスコートに10:30分に待ち合わせていた。時間があるので、ピカデリーサーカスへ立ち寄って行くことにした。ホテルから駅へ向かう時に気づいた。ゴミ箱が道路横にある。Litter boxという。真ん中に小さな穴がある。何だろうと思っていると、たばこの火を消して、そこへ吸い殻を入れ込むものであった。イギリスでは公共の場所では禁煙となっていると聞いていたが、それは屋根のある部分や部屋でのこと。道路は公共の場所であっても、喫煙は構わないらしい。喫煙人口は日本より多いと思った。

 さて、いわゆるtube地下鉄、Undergroundと言う。Subwayは英国では地下道を意味する。大英博物館はホルボーン駅が近い。ただ乗り換えが必要。そこでまずはBakerloo lineでピカデリーサーカスへ向かった。ホームは煉瓦造りもあり、その古さを偲ばせる。ただ、やたらと深いところを走っている。地上から相当地下に潜ったところにある。幕末の頃にこのtubeが作られ出したというから驚きだ。ただ、そのせいか、車内が狭い、がっしりとした外国人には手狭なスペースに思えた。大阪の地下鉄でも長堀を走っている地下鉄は狭い。それがもう一つ天井が円くなっている感じであった。ピカデリーサーカスで地上に出て、エロスの像を見る。2日後のone day bus tourの集合場所の確認、最終日のミュージカル観劇のQueen's Theaterの場所の確認と済ませ、Holborn駅へ向かう。

 ホルボーン駅で地上に出て、どちらの方向を向いているのか分からず、当初迷った。やがて自分の位置が確認でき、旧に緑が多くなったところの奥に大英博物館はあった。イギリスのナショナルギャラリーは入館無料である。これも驚くべきことである。中に入るとglass courtと言われる場所。天井が幾何学的な鉄骨とガラスで出来ている壮大な場所であった。天気は曇り中は少し暗かった。10時にオープンである。フードコートでジュースを飲んで一服。やがて知人夫妻と子どもたちがやって来た。京都に遊びに来て依頼2年ぶりの再開であった。娘さんのEllaはびっくりするほど大きくなっていて、もう子どもの面影がなかった。ハリーポッターのハーマオイニーが最新作ですごく成長していたのと同じである。息子さんのTomは未だあどけなさを残していた。再会の挨拶をして、中の案内を頼んだ。  ここは1日がかりでも見切れないほどの展示物があった。驚くことに写真撮影はOKである。中には展示物がそのまま置いてある。これでは人が触ったりするのではないかと心配した。すると、そこに、「目の不自由な人は触れて感じてください」と英文掲示があった。なるほどと感心した。ロゼッタ・ストーンを見て、エジプトの彫刻、ミイラ、猫の像やいくつかの彫刻を見て日本展示室も観に行った。どのようなものがどのように展示されているか知るのもいいじゃないかと知人に言われたからである。入室者はエジプトに展示室より勿論少なかった。入ったところに仏像があった。それから伊勢物語の絵画などふるいものが展示してあった。武者の甲冑や刀剣もあった。それから近代の富国強兵のときの様子や近現代の天皇の肖像もあった。海外の人がこれをどのように感じているのだろうかと思った。 昼前になったので、知人の奥さんが作ってきてくれたパンを食べることになった。 入館して右奥に地下への階段が有り、そこにlunch roomと言う表示があった。学校で生徒が見学に来たときに使う部屋らしい。ほとんど誰もいなかった。展示室の人の多さとは考えられない空間であった。パプリカの細切りや日本のポテトチップスのようなもの、いろいろと用意してくれていた。楽しく昼食を済ませ、ここからウオーキングが始まった。

 市内はtubeで移動するものだと思い込んでいたがそうではなかった。ここからコベント・ガーデン、ナショナルアートギャラリー、トラファルガー広場、ビックベン、国会議事堂、テムズ川、ウエストミンスター、シティ、バッキンガム宮殿へとずっと歩いて回った。どこを歩いているのか分からないまま、ただ付いて回った。コベント・ガーデンでは大道芸人(street performer)がいろんな芸を見せていた。ゆっくり見たい気もあったが、日本式にさっと回っていった。 ナショナルアートギャラリーに入る。個々も勿論無料である。びっくりするくらいの絵画が所狭しと展示されている。その量の多さに圧倒される。威圧感があるくらいであった。ただ、その絵画もガラスなどで防護されているものでなく、そのまま見ることが出来るものがほとんどであった。ゴッホのひまわりやターナーの水彩画、マネ、モネの印象画などたっぷり。ただ、知人の子どもたちは関心が無く、退屈そうにしていた。

 それから首相官邸や省庁のあるところを通って、ビッグベンの前に出た。これがビッグベンかと思った。時計盤の周りなどが金箔で少し驚いた。思っていたイメージは黒っぽく古さを醸し出していると考えていたあらであった。金箔がやけに輝いていた、曇り空で写真を撮ったが、バックがさえない感じであった。国会議事堂と続いていた。清教徒革命だったか、クロムウエルの像もあった。それからウエストミンスターに、非常に大きな教会である。ここで例のロイヤル結婚式があったのだ。

 そこからバッキンガム宮殿へとパーク内を歩いていった。曇り空のためか、思っていたほど荘厳な感じがしなかった。イギリス国旗が掲げられていた。知人の娘さんが言うには、女王在の時は掲げられ、不在の時は掲げられないとのこと。真偽は分からないがそうなのかも知れない。たくさんの観光客。様々な言語が飛び交っている。チャールズ皇太子が暮らしている建物も見学して、パーク内で休憩。ちょっと疲れた。

 30分ほど休憩して、夕食を食べるためコベントガーデンへまた歩いて向かった。途中のピザレストランに入って食事した。知人におごってもらった。ヘルシーなピザであった。 その後、キングズクロス駅へ行って、ブリットレイルパスの手続きと翌日のリバプール往復の座席指定、ヨークへの電車の座席指定の手続きを行った。横に知人の奥さんが付いてくれていたので、安心して手続きを済ませることが出来た。座席指定はブリットレイルパスを持っているものはfreeであった。 そこで、知人と別れた。Kings cross駅からYorkへの電車が出ている。

 私は明朝、Euston駅からリバプールへ行くつもりだったので、駅の確認をするために歩いて駅を探した。ホーム内にFish & Tipsを打っていたのでtake awayで持って帰ることにした。パディントンへ戻る地下鉄の駅も確認し、そこから戻った。戻ると8時前であった。今日も一日疲れた。フィッシュだけを帰りに買ったビールと共に食した。明日が早いので、自宅へメールを打つとすぐに寝た。

 

ゴミ箱 吸い殻入れの穴                    鶏冠がスピードガンでスピード違反を取り締まっている

 

レンタサイクル 至る所に有り、どこへ戻してもよい 時間制でコインを入れて取り出す   Tube

  ホームまではかなり地下に潜る

 

大英博物館

 

                              ロゼッタストーン

 

 

 

コベントガーデン               犬の格好

 はしご芸

 

ビッグベン                   ウエストミンスター

 

バッキンガム宮殿

11日  

 London Euston 8:15発の列車でリバプールへ3時間ほどかけて行くことにしていた。日本でインターネットを通じて、magical mystery tour12時発のバウチャーを購入していた。11時9分に予定ではリバプールに着く予定であった。  ホテルのコンチネンタル・ブレックファーストは朝7時からである。イングリッシュ・ブレックファーストはソーセージなどあっておかずが豊富であるが、私は朝食がコンチネンタル・ブレックファーストの宿泊費用であった。それでも、ハムとチーズ、レタス、パン、果物とヨーグルトはある。それにオレンジジュースとグレープフルーツジュース、コーヒー。まあこれで十分である。自宅ではトーストとバナナヨーグルトしか食べていないのだから、自宅にいるより豊富である。7時少し前に朝食を食べに食堂へ行き、そのまま出かけた。

 パディントンからサークルライン(地下鉄)に乗り、Euston(地下鉄)駅で降り、少し離れたところに民営化されたBritish railwayの駅がある。長時間乗るので、トイレを済ませておこうと思った。イギリスは公衆トイレが博物館など建物に入ればあるが、そう多くない。駅にある場合、30ペンス、コインを入れてトイレに入るところが多い。掃除夫が大概いて、常に清掃をしている。10ペンス3枚か、20ペンスと10ペンスコインを用意しておかなければならない。

 昼食は、現地で取っている時間がないかもしれないと考え、ロールパンにハムとか入っているものを2本買った。ホームがどこであるかは電光掲示板で示される。事前にインターネットで調べて、その時点でのホーム番号はわかっているが、いつ変更になるかわからない。イギリスの駅の電光掲示板は、右側から左側に列車ごとの案内コラムがあって、発車時刻が間近なものが一番左に掲示され、発車すると消えていく。右から左へ電光掲示され列車案内が移っていくか、下から上へと電光掲示が移るかのどちらかである。大概電光掲示板前には大勢の人が見守っている。ホームの案内は10分前くらいに出される。すると乗客は堰を切ったようにホームへ移動する。長距離列車の場合、座席予約を取ってないと座れないときがある。空いている席を目指してさっと移動する人もいる。

 さて、リバプール行きの列車の電光掲示は途中までon timeとあったが,左端に掲示が来てもホームの電光掲示がつかない。どうしたのだろうと思っていると発車2分前にその掲示が消えてしまった。びっくりした。これには同じ列車に乗ろうとしていた人たちがびっくりした。インフォメーションに駆け寄る人が多かった。私もその一人。で、構内放送を聞き逃したが、電車の到着が遅れている、10分ほどで掲示するとあった。すると再び電光掲示され,出発時間の変更も記されていた。(あとで分かったのだがコンピュータで自動的に流れていって消えたので、マニュアルで打ち込んで掲示したらしかった)大慌てでそのホームへ向かった。私の座席はB26であった。まずこの意味がわからなかった。駅員に聞いてもB−26だと言われるだけで見当も付かない。Bは前から2両目の意味か?26という列なのか,ボックスなのか。果たしてホームに行ってわかった。列車番号はアルファベット表示である。日本での1号車といい数字感覚に慣れていて見当が付かなかったのだ。また日本では3−A,B,C,Dと座席は指定される。イギリスではすべての席が一つずつ数字表示であった。わかると何でもない。おもしろいことにところどころの座席は4人囲みの真ん中にテーブルのある席もある。何とか自分の席を見つけた。

 たまたま、隣の窓側の席の乗客がインド系かパキスタン系かのイギリス人であった。この若者とその後1時間くらいおしゃべりをしていろんなことを教えてもらった。楽し出会いであった。まず座席のテーブルは,インターネットができるwifiに近い,パソコンが使えるコンセントもあるとのこと。ブッキングの時に指定してとることもあるとのことだった。列車はアルファベットで区別される。そして列車の中にはQuiet Coachがあって、そこではおしゃべりや携帯はしてはいけない、読書などをしてしずかに過ごす車両があるとのことを聞いた。Quiet Coach: If you choose a seat in this coach you are asked to not use your mobile phone, use electrical equipment in silent mode, ensure music cannot be heard by other passengers, and generally to keep noise levels to a minimum. である。 民営化された会社にもよるが、座席が指定されているかどうか見るのは、窓の上のところに小さな液晶画面にB23 availableと表示があればそこは予約されていない席で誰でも座れる。Not available (Paddington − Liverpool)は座席が指定されていることを表すと聞いて納得。ただ、会社によっては、席のところに小さなカードがはさんであり、〜駅から~駅まで指定と書かれている。  いろんな話をしたが、田舎で1年中暮らしている人もいるが、郊外に住んでいて収穫の時の3ヶ月ほど田舎暮らしをする人もいるとのこと。また、(干し草)農園や牧場には電気が通ってなく、ランプでの生活、ガスはgas cylinder(ガスボンベ)を持って行っている人もいるらしい。聞いて驚いた。

 学校のことも聞いた。専門的な職業スキルをつけて卒業するものも多いとのことだった。その方はリバプールの一つ前で下りることになっていた。疲れからか、少し寝入った。するとその人が到着予定と言っていた時間を超えていて、未だ乗っていた。どうしたのと聞くと、電車20分遅れているとのこと。これには私もおどろいた。出発時の10分の遅れを取り戻すようなアナウンスが車内で会ったので大丈夫と思っていたのだ。彼はクルー駅で別の電列車に乗り換え予定であったが、間に合わないと言っていた。しかしながら、別れ際、固い握手を何度もして別れを惜しんだ。

 Magical mystery tourには港の集合場所に12時10分前までに来ることとなっていた。25分ほど遅れていた。焦った。当初は駅から少し速く歩けば行けるだろうと思っていた。しかし到着が11時35分になった。焦った。駅を出て、方向も分からない。すぐにタクシーをさがした。ドライバーに窓越しに行き先を告げ、場所の地図を見せ、OKと言ってもらって乗車。事情を告げ、急いでいってくれと頼む。”OK, I’ll do my best.”と言って、急いでくれ、また集合場所を付近で尋ねたりしてくれた。ありがとうなど片言の日本語を話したのは、日本からやはりビートルズの思い出をたどる人が多いということだった。

 何とか間に合った。ほとんどの乗客は各国からでカナダ、フランス、ドイツ、アメリカ、オーストラリア、そして日本人が二人いた。ガイドの名前がポール、ジョークと思ったが本名とのこと、陽気な喋りで楽しませてくれた。ジョンの育ったところは、小野ヨーコが買い取って、ナショナルトラストに寄付したとか。通常歴史的なものを保存するのがナショナルトラストだが、20世紀の民家を保存するようになったのだと話していた。ペニーレーンにもストロベリーフィールドにも行った。ポールの家も。みんな小さな家であった。ここからあの音楽が生まれたのかと思った。ポールとジョンが出会った教会の向かいは墓地で、そこには二人は知らなかったらしいが、墓碑銘にEleanor Rigbyとある墓もあるとか。へーそうなんだと思ってしまった。最後にカーバンクラブなどを尋ねた。駆け出し時代ここで歌っていたのかと思った。ジョンの立像もあった。予約した列車にまで少し時間があったので、リバプール駅周辺をうろちょろした。駅でカフェラテを飲んで、帰路に就いた。

  Eustonに戻ると7時を回っていた。構内のフードコートで、フィッシュアンドチップスをtake away (take outはアメリカ英語)した。Circle lineの地下鉄に乗って、Paddingtonまで行き、途中ビールを買ってホテルに戻った。8時くらいになっていた。ポテトは量が多く、かなり残した。ストレベリーフィールドの写真を妻にメールで送った。ビートルズは青春まっただ中。あのメロディは生きる夢を与えてくれた。列車お遅れで危ういこともあったが、ビートルズの原点をこの目で見たと言う思いが充実感としてあった。シャワーを浴びて、明日の予定を確認して寝た。

 

リバプール行きの列車 たいがい長距離はディーゼル車     ペニーレーン

 

マジカル・ミステリー・ツアー・バス           ストロベリーフィールド ゲートのみ残る

 

ジョンが耳おばさんと暮らした家(ナショナルトラスト)   ポールの家

 

                            マシューストリート ジョン

 

カーバン・クラブ

 

ビートルズショップ(品数は豊富でなかった)        エレナー・リグビー

12日

  朝8:15ピカデリーサーカス三越前集合のCotswolds one day bus tourに参加した。学生にイギリスの田舎の風景を見せることになれば,事前に知っておきたいと思っていたので,訪問を考えていた。Britrailpass8日間を買っているので、列車で行くことを考えいろいろ調べたが、Cotswoldsは地域で一カ所ではなく、また、最寄りの駅がなくバスでそれぞれ野村へ向かうことになることがわかった。すると1日で戻ることは不可能であるとわかった。それなら,バスツアーでと日本で申し込んでいた。

 10数名の一団で日本人ばかりであった。最初にBurfordという街道筋の街 、light stoneというのか平たい石を積み上げ作られた家である。屋根もその石を薄くしたものを敷き詰めていた。素朴な感じがした。観光客が多いのか、アンティークや小物など小さな店が並んでいた。ラベンダーの石けんなど日本より安く売っていた。そこでウールのネクタイを一本買った。14ポンド(日本円で1800円ほど)と非常に手頃であった。

 村の周りの農村は、羊の放牧、牧畜、干し草づくりが主で、小麦や野菜などは作っていない。土地が野菜作りに向いていないということであった。野菜はイギリス南部で生産されているとのことであった。

 次にBurton-on-the Waterへ向かった。ここはやや広い村の街で町の中にウインドラディッシュという小さな流れcreek があった。昼食は各自で、私は小さなパブで魚料理を頼んだつもりだったが、Cod and fishが出て来た。まあいいかと一人食事を済ませ、散策に出かけた。個性的なショップが並ぶ街である。The Model Village(モデル・ヴィレッジ)と行って、ボートンオンザウオーターの街を9分の一のサイズに縮小した建物が並んでいる。建物の内部まで精巧に作られており、興味深かった。建物に埋め込まれた小さな郵便ポストがかわいくて、写真を撮っていると、集配の方が話しかけてくれ、「この前これを盗られたと、アメリカ人が持って帰った」と言っていた。へえっと思った。いくらかわいいからと言って持って帰るかと。

 それから三つの目の村、Stow-on-the-Woldに行った。アンティークショップが並んでいた。ここでクロッティド・クリームたっぷりのスコーンと紅茶をいただいた。947年創業1000有余年に及ぶギネスものの旅籠(イン)もあった。  ロンドンとは異なり、素朴で、質素な町並みは落ち着いた雰囲気であった。世界からの観光客も多いが、多くは年配の夫婦で、人生の最後を二人で楽しんでいるという雰囲気であった。若者は観光に来ない気がした。歩き疲れてベンチで休んでいると、老アメリカ人夫婦が近づいてきて、ベンチをシェアした。それがきっかけで奥さんと楽しく話した。その夫婦は日本の大震災のこと尋ねてくれた。最近その後のことをテレビでも見なくなったけど大丈夫と訊いてくれた。うれしかった。こんなところで日本のことを気にかけて話してくれる人がいることに率直にうれしく思った。原発の後の処理が大変なんだと話した。20分ほど楽しく話した。こちらが一人なので相手も話しやすいのだろう。

 そうして一日が終わり、ロンドンに戻った。夕方の6時過ぎくらいであった。この日は、インターネットのTripadvisorで調べておいた口コミ評判のよかったオーガニックレストランへ行った。Coreという名前のレストランであった。ビーフシチューのようなものを頼んだ。それからアルパイン・ビール・ジョッキを。格別にうまかった。よく冷えていた。シチューも日本的な味で美味しくいただいた。また来ようと思った。

  ホテルへの帰り道Tesco Expressに寄った。水と牛乳を買った。Tescoは中堅のスーパーである。Waitroseが一つランク上のスーパーである。町中には、Tesco Metroもあり、これは町中の人のための品揃え、Expressは野菜なども置いてある。Tesco Extraは郊外にあり、日本のイオンモールのような大規模店となる。面白いものである。どこの店にも、警備員が立っている。

  Metroなど賑やかなところのレジは、セルフである。自分でレジの機械の前で、バーコードをかざして合計を出しfinishを押してあと現金かクレジットカードを差し込んでピンナンバーを打つかのどちらかで支払うようになっている。わりと多くの小売店で見かけた。田舎の方ではレジ台に人がいる方が多かった。  今日も一に過ぎ、明日はオックスフォードとストラトフォードアポンエイボンに行く予定である。

 

Burford

  Model Village

13日

 昨日と同様に、ピカデリーサーカスの三越前に8:15集合。そこから、観光ツアー・バスターミナルまで向かった。様々な方面に向かうターミナル、世界中からきた観光客が列をなしてそれぞれの方面を示すプラカードに並んでいる。ちょっと滑稽と思えるほど大勢の人がいた。ヨーロッパは共同体なので、国内旅行的に人が旅をするのだろう。海外旅行は裕福な人の楽しみという感覚はここでは無い。今回のツアーは英語ガイドと日本語ガイドの共同バスであった。日本人はバスの後方に固められて座らされ、後は前方にと言いうことであった。日本人ガイドからヘッドセットを渡された。説明もなく渡すものだから、英語を聞くから要らないと言った。年配のガイドさんは怪訝な顔をして要らないのと訊く。要らないと言った。そして前方の方の席へ移った。

 しばらくして分かったことは、ガイドが二人いるのでマイクでスピーカーを使うとどちらかの団体が分からない。ヘッドセットを通訳器と思ったのがまちがいであった。それぞれのガイドがマイク付きのヘッドセットをして説明をすると、お互いの団体のガイドの説明が邪魔をされずにヘッドセットを通じて聞くことができるというものであった。英語ガイドの声は生で聞くには小さい声で聞きづらかった。すルと、日本人ガイドが英語ガイドのヘッドセットを借りてくれた。それで、英語ガイドをずっと聞くことが出来た。日本人ガイドには気の悪いことであったが。英語でどう説明するだろうかということに興味があったことと、学生を連れて来たときに、英語ガイドのツアーで大丈夫かどうか確かめたいと思っていた。英語ガイドの英語は非常に分かりやすいものであった。前方乗客が話している言語はスペイン語や他の言語であった。英語を母語としないが英語が分かる人たちなので、そのレベルに合わせているのかとも思った。うちの学生でも大丈夫と思った。

 最初に、日本でいう高速道路のサービスエリアに入った。トイレ休憩のためである。ゲーム機コーナーの部屋などあるのが日本とは異なると感じた。Waitroseも入っていた。  まずは、オックスフォードに向かった。あのハリーポッターの映画の食堂の場面に使われたChrist Church Collegeに到着。入場料を払う。夏季休業で授業はやっていない。そこにも大勢の世界からの観光客がやって来る。言語がフランス語、ドイツ語、スペイン語と様々言語でお互いしゃべっている。様々の言語のガイドの声が同時に聞こえるというのも面白い現象であった。食堂は確かに古めかしく、映画の通りと思ったが、映画よりやや狭く感じた。壁には肖像画がずらりと並んでいた。

 オックスフォードは古めかしい建物ばかりであった。それでも町のここかしこに(CCTV)Closed-circuit Televisionが設置されていた。いわゆる防犯監視カメラである。イギリスは、世界の中でも最も防犯カメラが設置されている国であり、約250万台の防犯カメラが街頭に設置され、市民1人につき、1日に300回以上防犯カメラに撮影されると言われている。だれがその映像をチェックしているのだろうと思った。そのイギリスにおいても、内務省の調査によれば、防犯カメラはほとんど効果がなく、むしろ街灯を設置することの方が効果があるという結果が出ていると言われているそうだ。  しばらく歩いていると、雨が降り出した。確かにイギリスの天気は変わりやすい。山がないので、山にぶつかって降る雨でないので、一時降ったと思えばまたすぐに止むことが多い。オックスフォードを見学してから、Stratford-upon-Avonに向かった。

 最初にAnne Hathawayの家に着いた。これは町の外れにあり、落ち着いた場所で、家の周りにも果樹園などがあって、林檎が実っていた。ラズベリーもあり、もいで食べた。Anneの家はよく保存されていた。召使いや食事夫などが寝泊まりした部屋もあった。シェークスピアには年上の妻であった。  シェークスピアの生家に行く前に昼食を食べた。狭いところへ日本人、外国人グループも押し込まれ食事をした。シェークスピアの生家は古いままであるが、周りの通りは観光客目当ての小さなショップがずらりと並んでいた。イギリス土産を売っているところもあるが、日用品的なものから服飾、皮革製品など様々な商店が並んでいた。シェークスピアの生家はよく残したものだと思う。木の柱を多く使って石灰の壁である。イギリスで良く見る煉瓦造りの家ではなかった。ここで生まれたのかと思うと不思議な気がした。

 しばらく、町を自由散策してロンドンに戻った。ロンドン市内は夕刻非常に混んでいるので、Gloucester Road駅付近で降ろされた。Circle lineの駅なのでPaddingtonへの帰りは楽であった。夕食はまた、あのレストランへ行きサーモンを食した。

  

オックスフォード クライストチャーチ ハリーポッターの食事のシーンの部屋

 

オックスフォード

 

道中の田園風景                     アン・ハサウエイの家

 

アン・ハサウエイの家を背に(一人旅で初めての自分を撮った)  シェークスピア生家

 

                            シェークスピアの生家の前のショウウインドーはクリスマス 生家が反射して映っている

 

14日

 この日は、明日、Manor Christ of England Schoolを訪問するため、Yorkの知人宅に泊めていただくので、夕刻5時にKing’s Cross駅から列車でYorkに向かうことになっていた。3時過ぎまで、ロンドン市街を歩いて回ることにしていた。まず、未だ訪ねていないTower of Londonに行って、あとテムズ川沿いを歩いてLondon Eyeに向かう計画を立てた。

 Paddington駅からCircle Lineを使ってTower Hill駅に向かった。Circle Lineはいわゆる環状線である。路線図を見ていると南回りの方が地図的に近そうだと思い込んでいたら、駅の数から言うと反対の北回りの方が早いということがPaddingtonの駅の案内でわかった。それでそちらのホームから乗ったのだが、その電車は隣の駅のEdgware Road駅が終着駅のcircle lineであった。それから先に行くには、ホームを変えなければならなかった。しばらくそれに気づくのに時間がかかった。無事Tower Hillにいく電車に乗り込んだ。車内ではIPadで新聞を読んでいるサラリーマンが何人かいた。Tower Hill駅に着いて、外に出るとTower of Londonが目についた。前は広場のようになっていて、運動している人がいた。Tower of Londonは19ポンド近くの入場料ですごく高いと思った。入り口付近まで行くと、テムズ川にTower Bridgeが見えた。朝日を背にしていた。思わず写真を何枚も撮った。

 写真を撮り終えて、Tower of Londonに入った。Wall中を歩いたり鎧などが展示されている部屋を見学したりした。一番豪華な展示は、歴代王の冠や刀剣であった。金ぴかであった。まばゆい輝きであった。  Tower of London を出て、Tower Bridgeに向かった。Bridgeを歩いて渡って、対岸の散策のコースを歩いた。テムズ川沿いに散歩道が一部外れながらもテムズ川沿いに沿って延びていた。London Bridgeは普通の端である。マザーグースの歌にあるが。それからしばらくするとMillennium bridgeという歩行者ようの歩道橋がテムズ川に架かっていた。

 結構歩いて、London Eyeに着いた。日本でインターネットでバウチャーを買っていたので引き替えに行った。思っていたより空いていて、並ばなくても観覧券は買えたようであった。このLondon Eye2500円くらいしたと思うが、30分ほどかけて一回りする。てっぺんに行くとたしかに360度のパノラマで、ビッグベンや国会議事堂が小さく見えた。日常では見る角度でない、鳥になったような視界が広がっていた。気持ちよかった。

 London Eyeから橋を渡ってビッグベンの前で反対にテムズ川沿いに歩きBakerloo Lineの駅をめざした。Charing Cross駅と思っていたが、Embankment駅が目の前にあったのでそこからBaker Street駅をめざした。  Baker Street駅はあのシャーロックホームズ館のあるところである。行くとここには大勢の観光客がいた。日本人らしい観光客も見かけた。皆、ホームズファンであろう。家の長女も好きで、ここで土産を買っておかないといけないと思った。ホームズの格好をしたテディベアのぬいぐるみを娘に買って帰った。Deerstalkerといあの名探偵の帽子もしゃれで買った。今、自宅のピアノの上に飾ってある。

 2時半ごろになっていたので、Paddingtonのホテルに戻り、知人宅へ行く準備をした。フロントに二日後に戻るというと、部屋の荷物をbaggage roomに保管するから持って下りてこいというのだ。おどろいた。部屋は九日間とってあるから大丈夫であると思っていたのに。重い荷物を出かける前にフロントまで降ろした。あの部屋誰かに使わせるのかと思った。下着やシャツなどは引き出しに入れたままにしておいた。

 ま、何はともかくホテルを出て、King's Crossへ向かうためTubeに乗り込んだ。少し出発には早く着いた。トイレは女性用の有料トイレしかなかった。昼食を食べてないことを思い出し、駅の売店でサンドウィッチを買い、食べながら待ち時間を過ごした。10分前にプラットホムが掲示され、ホームに向かった。すると予約してあるG列車がない。あわてて通り過ぎようとした駅員に聞いた。H列車がGになっているのでそれに乗り込めということであった。確かに手書きで修正された予約席カードがつけられていた。

 列車は時間どおりに出発した。田園風景が続いた。私の横は誰も乗り込まなかった。おかげで、ゆったりとすることができた。途中大きな原発のような煙突が見えた。シャッターを切った。もし原発ならもしもの意ことがあったらどうするのかと思った。あとで、知人宅でそのことを話すと、原発はあるが、見たのは石炭利用の火力発電所ということであった。

 列車はYorkの手前で立ち止まった。10分近く何の車内アナウンスもない。ようやく動き出した。リバプールの25分遅れの列車の車内アナウンスは、Despise our delay and your inconvenience, we'd like all the passengers use our train and enjoy your trip.とかいっていたと思う。日本の鉄道網はスゴイと再確認した。

 駅に着くと、知人の奥さんと娘さんが駅まで迎えに来てくれていた。車で家に向かった。裕福な家でないと言っていたが、広さは日本の数倍であった。確かに調度品は質素であったが、あの広さはゆったりしている感じであった。ゲストルームに案内されそこを使わせてもらうことに。部屋にはトイレもシャワーも付いていた。

 家に入って、目についたものは、子どもの写真がそこかしこに貼ってあること。暖炉が二つあるということだった。イギリスの平均的な家なのだろうと思った。知人は苦労して手に入れた家で、修理して今のように心地よいものにしたと言っていた。ペンキも塗ったと。私の知人は双方の両親とも貧しい家庭だったそうだ。それでも勉強してこうして自分の家を持てるようになったと。母親が最後に遺産をくれてローンを返済することができて、本当に自分の家になったといっていた。彼らの友人はローンの借金を抱えて暮らしている想である。そのことを彼らは誇りに思っているようであった。

 私も同様のローン返済の経験があるので、その気持ちはよく分かった。スープや魚料理をいただいた。知人が仕事から戻り、リビングで遅くまで話した。

 翌日は学校訪問である。

 

Tower of London

 

Tower Bridge

Tower Bridge & Tower of London

London Eye

 

 

Baker Stereet Station    Sherlock Homes

Nuclear Power Plant? Charcoal Power plant!

15日  

疲れていたのかぐっすり眠り、目を覚ませば7時45分であった。階下で音がしたので通りの窓を開けると、知人の娘さんが登校するところであった。手を振って行ってらっしゃいと合図した。急いで、食堂へ下りていった。私だけが食事を済ましてなくもう仕分けなく思った。ホテルでは朝目がさめるのが早く寝不足だったのだろう。  朝食を済ませ、Manor Schoolへ車で送ってもらった。ちょっと緊張気味に校舎内に入った。受付で来訪の旨を告げ、待っているとMike Thunder氏が生徒二人を連れてやって来た。二人の生徒のうち一人は、知人の息子でTom、もう一人はNickという生徒であった。校長のブライアンにその時、出逢い、昼食を共にしながら話をするという約束をした。早速9時からの授業に入り、「数学」「理科」「英語」「社会」「リーダ養成パブリックスピーチ」のクラスを参観した。本学のField Studyの目的や授業に関しての報告は以下のとおりである。

 本学では、教職課程履修者でTOEIC 650点以上のスコアを取得している三年生(二年生)に夏季休業時の9月に以下の目的を持って教職Field Studyに連れて行く予定である。

Osaka Jogakuin University Teacher Training Curricula Course Students Field Study Abroad

For Promising Regular Teacher Certificate Purpose

This Field Study abroad aims to contribute to developing the Teacher Training Curricula Course students’ quality of teaching English with broader perspectives and richer knowledge on English education through the following activities;

・Visiting secondary schools to study how English and foreign languages are taught in class

・Observing how teachers teach their students;

 What techniques do they use?

 What are their teaching styles?

 What teaching instruments do they use?

 How are the students’ reaction or response?

・ Offering students of visiting schools OJC students’ presentation on what Japan is now; education, things Japanese, young Japanese people, social problems (the big earthquake) and so on.

・ Discussing what we need to think of to create better education

・ Visiting cultural institutions and sightseeing spots used as teaching materials in some English textbooks in Japan to collect resourceful information for teaching.

・ Observing daily things in the UK and list up somehow different things from our way of thinking

・ Making teaching materials with English messages and objects in town and experiences staying in the UK.

・ Collecting realia for teaching materials; pictures, coins, newspapers, free paper, rail schedule, kitchen tools, stationary, etc.

・ Watching a musical play to enjoy authentic English play

で、9月に10日間ほど、事前調査と交渉のため英国を訪問した。 訪問したManor SchoolはYorkにあるComprehensive SchoolでAge 11 − 16のSecondary Schoolである。知人の紹介を通じて1日授業見学やHeadmasterのMr. Brian Crosbyと話をさせていただいた。英国の学校評価機関Ofsted (Ofsted is the Office for Standards in Education, Children's Services and Skills. They report directly to Parliament and they are independent and impartial. They inspect and regulate services which care for children and young people, and those providing education and skills for learners of all ages.)が、このManor Schoolを2007年に評価しているが、Grade 1 (Outstanding)の評価で、そのコメントの一部は次のようなものである。

Manor School provides an excellent education and is an outstanding school. This will come as no surprise to parents. The vast majority of those who replied to the questionnaire indicated their whole-hearted support for the school and all that is achieved for their children. The comment, 'A school with a strong Christian ethos, a place where my child is very happy, keen to attend, can flourish and where it is "cool" to learn and succeed,' sums up the huge number of positive remarks made by parents. Historically, the majority of students start school with standards above those expected nationally and this is still the case with the current Year 7. From students' first days in the school, both teaching and support staff establish high expectations of what students can achieve, irrespective of background, ability or aspiration.

 日本では第三者を交えた学校協議会等の委員会形式で学校の評価を行うことはあるが、ここまで徹底してはいない。学校はかなり校長(headmaster)の裁量にゆだねられる。マネジメントは人事から施設計画、カリキュラムまで多岐に亘る。昼食時に話をした、Brianは非常にpassionateで夢を叶えたいと考え奮闘している管理職であった。彼の部屋にはdeputy headmasterとleader teachersの教員が隣接してあり、King’s men and womenを構成していた。他の教員は概ね教科ごとにまとまって常駐しているようであった。英国の学校では、supply teacherとcover teacherという仕組みがある。病気や諸事情で長期に休む教員の代わりをするのがsupply teacher、短期間や突然の休暇の教員の代わりに授業の面倒を見るのがcover teacher。このcover teacherは持ち時間の少ない教員がcover teacherとしても契約をして勤めている。日本では、該当教科の教員が休暇の教員の代わりを務めたり、教頭が勤めたりすることがあるが、英国ではそのシステムでなく、coverの分の手当をもらう教員を配置している。Cover teacherも大変である。私がたずねたManor Schoolでもダンスの教員がcover teacherで始業5分前に指示をもらって、教室に臨んでいた。これうまくいくのかなとおもうこともあった。

 参観したAge12の授業で数学と理科の問題や課題の一部を紹介する。

algebra数学

1 Ben and Lucy have the same number of sweets. Ben started with 3 packets of sweets and ate 11 sweets. Lucy started with 2 packets of sweets and ate 3 sweets. How many sweets are in one pocket?

2 I'm thinking of number when I multiply the number by 4, I get the same answer as adding 9 to the number. What number am I thinking of?

Science 理科 課題 The Doggy Barbecue

 At her birthday garden party, Chloe's dad cooked beef burgers on a barbecue for the guests. Everybody was very hungry and Chloe's dad cooked the burgers quickly. They were burn on the outside. After a couple of mouthfuls, a few guests complained that their burgers were cold in the middle, so Chloe's dad put them back on the barbecue to heat them through. A few hours later, some of the guests had bad stomach pains and a few vomited. The next day, many of the guests were sick and diarrhea.

Task: Use the information above to explain why the guests had food poisoning and the body's response to the infection. You can do this either by:

・ drawing a cartoon strip to show the stages of infection

・ writing an exciting story to show how the infection takes hold and is defeated. である。

説明として文章で書いても、図で説明してもよいと解答方法を生徒に任せ、よりcreativeでpersuasiveな回答を求める発表プロジェクトの感があった。 補足のポイントして、

Make sure you include:

1. How bacteria can enter the body.

2. Which barriers the bacteria must overcome when entering the body.

3. How the bacteria reproduce in the digestive system.

4. What the body can do to fight the infection.

5. How the body can prepare itself for a future infection from the same bacteria.

Food poisoning fact file:

・ Food poisoning can be caused by bacteria called Salmonella

・ A small number of the bacteria on meat can cause food poisoning. These bacteria enter the body and reproduce by dividing in the same way as cells in the body. Each bacterium can divide every 20 minutes.

・ When it enters the body, it reacts with chemicals in the digestive system and causes food poisoning. の解説を付記

Key wards: antibodies, bacterium (bacteria), food poisoning, illness, immune, infection, small intestine, stomach, stomach acid, white blood cells

Level Ladder

Level 5

・ Explained simply why the guests got food poisoning.

・ Described the body's defenses against the bacteria.

・ Explained why it takes a few hours before a person feels ill.

・ Described how the body fights the infection. Explained how food poisoning can be prevented.

Level 6

・ Explained why the guests got food poisoning.

・ Explained how some human body cells are specialised to stop bacteria entering it.

・ Explained, using diagrams, how the bacteria divide in the body.

・ Explained how the body responds to the infection.

・ Explained the body's response if it was infected by the same type of bacteria again.

Level  7

Followed the instructions for level 6, using detailed scientific knowledge and understanding, and also : ● Used numerical methods to estimate the number of bacteria that are in the body after a few hours. ●Made comparisons of the sizes of bacteria and human cells. とLevel ladder(評価のクライテリア)を示し、高レベルの課題回答への指針を示しているのが面白いと感じた。

 来年度は、Yorkにある別のHuntington Comprehensive Schoolにも訪ねる予定である。本学の学生とこの教職Field Studyを充実したものにしたいと願っている。

  さて、昼休みに食事を共にした、Brian Crosbyは報告に書いたように非常に活発な人であった。彼は生徒の名前をよく覚えていた。Learning supportというコースがあるが、日本でいう特殊教育である。校長はこのクラスの生徒の名前は全員覚えていて気軽の声をかけていた。またその中に”listener”というシールをつけた生徒がいた。その生徒は健常者で、昼休みなど休憩の時にLearning Supportの生徒の相手をするボランティアであることが分かった。”You are a good student.”と言うと、ブライアンが、”No, she is a brilliant student.”と言い直した。そうなんだとそうして褒めるんだと思った。私も、”You are fabulous student.”と言い直した。

 マイクに6時間目はいろんなクラスに案内してもらい、中でも音楽のクラスはユニークであった。彼は、私に、“I didn’t think Japanese people smile and laugh. Are you special?”と訊いた。驚いた。みんな笑うよと答えておいた。最後に知人の娘さんのEllaの授業を見学した。グループによるpublic speechであった。  来年もう一度くる旨の約束をして学校を後にした。ただ用意していたプレゼンを披露することは出来なかった。

 夕食を知人ととともに最後の夜を楽しんだ。暖炉に石炭をくべてくれ、雰囲気を作ってくれた。楽しいひとときであった。知人は、今は弁護士、家庭の問題などを扱っているそうだ。来年本学の生徒に講義をしてもいいとの快諾を得た。

 明日、ヨークを案内してもらって、ロンドンへ戻り最後の日を過ごす

 

Manor chool

 

職員室 自己点検表

 

生徒のプロジェクト                暖炉

 

息子さんよい行いをすると母親からポイントをもらう43ポイントたまればボールを買ってもらえる

16日  

今日は早く起きた。TomとEllaが7時45分には家を出て登校するので、7時前に起きて子どもたちと一緒に朝食を食べた。この時が今回の訪問の最後なので、時間を惜しむように話したりした。二人ともほんとうにいい子どもである。EllaはTomの髪の毛をといてやっていた。自分では未だ子どもでちゃんとしないから、いつもやってあげていると話してくれた。仲のいい二人である。  登校時はハグをして別れた。感謝の思いのハグであった。また来年と思った。

 知人の奥さんに、それからヨークのB&Bのreasonableなものを探してもらったりした。そして町へ出かけた。まず、ヨーク・ミンスターへ向かった。大きなゴシック建築のもので、何度か建て直されていた。最初の建物の跡などが地下に有りそれも見ることが出来た。歴史を感じるものであった。あたりまえだけど、イギリスにも教会は町々にある。地域の文化の中心でもあった。学校でもあった。内部の荘厳な雰囲気は人の心つかむに十分な美しさを備えていた。

 それから、York castle museumに行った。ここの展示はわかりやすく、現代の文化の変遷を家具、調理器具、掃除器具などで行っていたりして、様々な工夫があった。地下部分には昔の町の再現があり、タイムスリップした感じが味わえた。僕らが昭和の町並みを再現したラーメン街を歩くのと同じで、イギリスの年配の方にはたまらない郷愁があるのだろうと思う。

 60年代の展示があり、ビートルズが展示の大部分を占めていた。彼らは偉大であった。それから、地下牢(dungeon)の展示があった。というのも城の跡地に博物館は有り、城にあったホンモノの地下牢が展示されていた。そこで俳優が映像で囚人役になって語りけるという工夫の展示を行っていた。うまく作ってあると思った。

 そのあと、狭い通路のショッピング街のShambleに行った。小さなかわいいみせが並んでおり、うちの学生は歓声を上げるだろうと想像した。美味しいパン屋さんを紹介してくれて二つほどパンを買った。夕食と翌日の昼食になった。  昼過ぎに、知人が半休を取ってくれていて、合流したBetty’sというカフェレストランで食事した。最後のひとときであった。ありがたい友人である。A friend in need is a friend in deed.である。  列車に乗るまで時間があったので、National Railway Museumに寄った。日本の新幹線が展示してあった。車内では創業当時の映像も流されていた。新幹線車両はこだまのタイプで日本ではもう使われていないO型であった。

 そうこうしているうちに時間が来て、知人との別れの時間、席を予約していなかったので、さがすことになっていた。それも電車が遅れていたので、急遽遅れてきている早い目の列車に乗った。すごく混んでいて、availableの席を見つけるのに一苦労。おかげでちゃんと挨拶しないまま別れた。

 King's Cross駅に着くと7時過ぎ、疲れた。TubeにのってPaddingtonに向かった。駅でサンドイッチを買って夕食とした。出かけるには疲れすぎていた。

  

York Minster

 OLd Class room

York Castle Museum

 

Vacume cleaner                  The Beatles

 

 

Harry Potter Train

17日

 朝8:00Paddington発の列車に乗ってBathへ向かった。片道一時間半ほどの距離であった。この列車には座席にはクレジット払いで映画を見ることが出来るシートであった。見ることはなかったが。Bathの小さな駅に着くと、確かに町並みは感じが異なっていた。クリーム色の色調の建物が多い。煉瓦より平たい石で組み合わされた壁か、クリーム色のモルタルを塗っている感じであった。古めかしい感じがした。Roman Bathの見学が第一目的であった。12ポンドほどの入場料であったが、音声ガイド付きで展示にも工夫があり、ずいぶん楽しめた。風呂場は往時の優雅な雰囲気が残っていた。何間も写真を撮った。本来、浴槽はいくつにも分かれていた。その遺跡を見ることができた。ちょっとイギリス的ではない感じがした。

 次にその隣にあるBath Abbeyに行こうとした。するとRoman Bathの入り口には長い列が。一番乗りであったので私はさっと入ることが出来た。これほど人が集まるのかと思った。Minsterとabbeyの言葉の違いを詳しくは知らないがBath abbeyと呼んでいる」Westminster Abbeyはロンドンに、YorkにはYork Minsterが あった。この寺院(修道院)は入場料が志であった。二ポンドほど入り口で渡した。中はやはり壮大な感じであった。しばらくそこで座って瞑想した。昼くらいになっていたので、ホットドックを買って食べた。街は大勢の人でいっぱい。その時、不思議な集団がいた。昔ながらの洋装で街を練り歩いているのだ。列車に乗っているときにヘンな格好の人がいると思っていたが、こういう服装でこの街を歩く集団がいるのだ。そして普通に同じように買い物したりしているのだ。いや、世界は面白い。あと少し離れたところにあるクレセントの形をした建物の見学に行った。その時夕立が降ってきた。しばらくすると止んで、街は日の光を浴びてきらきら輝いていた。きれいな街だ。

 そのあと、磁石を見て方向を確認しながら駅に向かった。14:13の列車に乗る予定であった。といのも、Paddingtonに戻り、その日の夕方はmusical “Les Miserable”を観劇することになっていた。最後の夜を締めくくることにしていた。4時前にPaddington のホテルに戻り少し休憩して早めの食事をするためにいつものレストランへ出かけた。はじめてステーキを頼んだが、少し固かった。

 Oister cardにあと10ポンドほど加金した。Bakerloo Lineでピカデリーサーカスまで行った。入場まで時間があるのでFortnum Maison'sを探して、紅茶を買うことにしていた。現金は40ポンドほどしか残っていなかった。ここからは、クレジットでとお茶とビスケットを買った。結構な量になった。ミュージカルを見るのにと思ったが、いいかと買い込んだ。今晩荷物の整理をするので、その方が都合がよかったので。

 その後、Queen’s Theatreへ向かった。すると通りの向こうに虹が架かっていた。最後の版にふさわしい光景と思った。バウチャーをチケットに換え、来館した。中は小さな劇場であったが、すごく雰囲気のある劇場であった。席がびっちりで少し狭かった。パンフレットが写真のみが五ポンド、役者のことが書いてあるのが三ポンド結局両方買った。

 やがて、ミュージカルが始まる。役者によって英語が分かりにくいのがあったが、八割は理解できた。これなら学生を連れて来ても喜ぶだろうと思った。ジャンバルジャン役の俳優は声の通りもよく、わかりやすかった。印象的な場面では観客から大きな拍手が送られる。一体感がある観劇であった。教会の牧師さんが盗まれた燭台をジャンバルジャンに渡し、これは私があげようとしていたものだという台詞の歌は感動した。

 そのほか何人かの女優さんの声も歌もよかった。あのペテン師の飲み屋の夫婦もそれなりの存在感があった。最後劇が終わると皆総立ちで拍手、臨場感あるミュージカルで25年も続けてやっている。25 years oldを25years youngとしているところがにくい。

 時刻は10:30であった。ホテルに戻って、帰国の準備をと思い帰路を急いだ。

 荷物は多くなっていた。スーツケースが元々小さいものであった。2packagesを預けられるので一つスポーツバッグに本など重いものを入れた。カッターシャツの七枚、下着類すべて捨てることにした。当初からその予定でいた。それでも荷物は両方でぱんぱんであった。明日は昼過ぎまで市内を見学し、ホテルに戻り空港へ向かう。最後の夜であった

  

Roman Bath (往時の格好をした女性もサービスで座っている)

    Bath Abbey

Bath Abbey & Roman Bath ローマンバス見学には人が並んでいる左、中央には大道芸人のバイオリン弾きがバイオリンを奏でている

  

町中を古めかしい格好で歩く一団

月形の住居

  

Queen's Theatere 前に虹が出る          内部

18日

 ロンドン出発の日、朝荷物をフロントに預け、歩いて市内を回ることにした。まずハイドパークが近くナノで、是非行っておこうと思った。それと昔、教科書にハイドパークのSpeaker’s Cornerのことが書かれてあったことを思い出し、日曜日なので行ってみようと思った。ハイドパークは実に広い公園であった。幾人もの人がジョギングやサイクリングを楽しんでいた。緑が多い。日本にはこれほど大きい公園はないと思う。知人が日本にいたとき、彼はよく京都御苑に行ったそうだ。あの場所が一番落ち着いたそうだ。イギリス人には、パブリックスペースを活かす考え方があると思った。貧しい人たちも憩えるパブリックの場所を提供することがた大切という考え方があるように思えた。 Speaker's Cornerには誰もいなかった。

 そのままOxford StreetをMarble Archから歩いて、Bond Street, Oxford Circus駅あたりまで歩いた。ウインドウショッピングを楽しみながら。そこでRegent Streetに道をとりPiccadilly Circusをめざした。途中Apple Storeを発見。次いで、ハリーポッター・グッズを売っている店を発見。なんとあのmagic wandが一人ずつの名前が記されて置いてあった。こんなの誰が買うんだろうとも思った。効き目はないのに。そのままトラファルガースクエアーへ向かった。モーニングコーヒーを買って広場で休憩していると鷹が飛んできた。何と鷹匠のような人が広場でとばしているのだ。これには驚いた。

 広場にはロンドンオリンピックまであと何日という電光掲示板がある。それほど盛り上がっているようには思えなかった。でも大英博物館で買った本はOlympic Gamesのメダリストの言葉集であった。“The Little Book of Olympic Spirit” Iain Spragg & Adrian Clarke (編)  Carlton Books Ltd (2011/9/1) ロンドンオリンピックが来年開催される。それに併せて9月にこれまでにオリンピックで活躍した人の名言が185以上まとめてある。水泳で有名なMark Spitz は 'If you fail to prepare, you're prepared to fail'.と述べている。最後のページには、Gail Devers (American athlete Gold medalist)の言葉で、”Keep your dreams alive. Understand to achieve anything requires faith and belief in yourself, vision, hard work, determination, and dedication. Remember all things are possible for those who believe.”とあった。日本人のメダリストは二人掲載されていた。一人は台湾の方だと思う。Kite Son Japanese athlete (Berlin 1936) “The human body can do so much. Then the heart and soul must take over.”もう一人が、 藤本瞬 Japanese gymnast, Olympic gold medalist (Montreal 1976) “The pain shot through me like a knife. It brought tears to my eyes. But now I have a gold medal and the pain is gone.”

 近くにあるNational Art Museumで用を足してまた歩いた。近くの教会の鐘の音が高らかに鳴り響いていた。そのままコベント・ガーデンに向かった。途中映画館が有り、そこでは何と宮崎駿のアリエッティを上映していた。

 コベント・ガーデンでは、大道芸人が芸を見せ始めていた。またカフェでは生演奏が、独唱に誘われて見入っていると、その方のお母さんがドネーションとCDを売りに来た10ポンドでそのCDを買ってあげた。昼が近づいて賑やかになっていった。

 ふらふら歩いて地図を見ていると、イギリス人のおばあさんが、何か手伝いましょうかと言ってくれた。OK大丈夫と返事をするとさっとその人は去って言った。喋りたいと思ったけど残念。コベント・ガーデンで地下鉄に乗って戻ることにした。階段を使って下りたがとても深く、回転状の階段で目がまわりそうであった。 Paddington駅に着き少し遅い目の昼食にマクドナルドへ行った。味は日本とさほど変わらなかった。日本ほど、マクドナルドは多くないと思った。オープンサンドの店がたくさんあった。

 ホテルに戻り荷物を受け取り、空港へ向かった。少し時間が早く空港で待つことになった。その後、チェックインで荷物を預け出国審査へ、ここはいとも簡単であった。ロビーのパブでビールを飲んだ。少し買い物をしてゲートへ。飛行機に乗る前に、知人宅へ電話をして感謝の言葉を伝えた。

 ジェット機は11時間弱で成田に着き、その後、伊丹へ乗り継ぎ帰宅した。戻ると19日月曜の夜七時半であった。とても疲れた。帰りの方が時差ボケがひどく、2・3日ふらふらで体調崩した。

 来年度の下見と考え、行けるところはすべて見ておこうとした。一人旅なので気楽であるが味わいはなかった。やはり妻と道中やいやい言いながらも一緒に旅する方が楽しいと思った。

 

  

Hyde Park               店のショウウインドウ

  

カーナビー              アリエッティ                 ホームレス 何人となくロンドンで見かけた

  

ロンドンオリンピックまで            コベント・ガーデン

犬の格好のメイキャップ中

 

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山口・石見銀山・境港旅行 

2011年8月27〜30日

 先週土曜日から、一人山口で働いている娘が休みを取れたので、妻と二人で車で山口まで会いに行った。我が車、3年半で1万200kmしか走っていませんでしたが、昨夕、戻るとメーターは1万1600kmを超えていた。何と4日間で1400kmも走ったのかと驚いている次第。普段の生活では、1年で3500kmも走らない。昨年、信州に旅行、1昨年鳥取へ出かけたことが2大遠出だ。4日間でこれまでの平均1年間の40%分を走ったことになる。我が家にとってはスゴイ記録だ。

 娘は生活をエンジョイしていた。今の会社が業績悪化すればの想定もしており、それを踏まえて、お金を貯めて海外留学をして現地で今のような仕事をフリーですることも考えていると言っていた。社会の変化は我々が若い頃と全然違う。 ひとりでもたくましくだ。

 そういうことを考えていると、今日の朝日にCMコラム、樹木希林さんのゼクシーのCMの寸評に目が行った。 「やっぱりひとりがよろしい雑草。やっぱりひとりじゃさみしい雑草」というフレーズ が印象に残った。 仕事も一人の方が楽だと、思うこともある。でも一人でできることは知れている。今回も妻と二人で交代運転でした。一人では危ない。

旅程図

8月27日  緑ライン  7:15自宅発 〜 ザビエル記念堂 15:40着  

山口ザビエル記念聖堂  山口市小郡文化資料館(山頭火)  山口宇部空港  

 往路は、なかなか距離感があった。池田〜宝塚間で事故があって、30分以上の停滞、止まったり、クリープで走行するスピードが続いた。三木、福山、宮島SAで休憩を重ねた。福山SAの尾道ラーメンはただ辛いだけであった。この春、尾道の商店街で食べたラーメンはうまかったのに。

 宮島は暑かった。  

 山口到着後、ザビエル記念堂と小郡文化会館へ行った。小郡文化会館には山頭火の展示があった。

 娘が5日間の休暇のうち3日間を東京で大学時代の友達と遊び、残り1日半を我々と過ごすために羽田から戻ってくるのを迎えにいった。 いや疲れた一日であった。

8月28日 赤ライン  8:00発 〜 15:20着  

 秋吉台:カルスト展望台   金子みすゞ記念館  ショップ青海島  角島大橋  角島灯台  

 娘とともに、仙崎へ。途中、秋吉台を通った。車はほとんどなかったが、バイクツーリングはよく見かけた。イージーライダーのようであった。

 仙崎の金子みすゞ館は感慨深かった。彼女の詩は本当にみずみずしい感覚ですごいと思う。

 彼女の部屋の復元展示も興味を惹いた。展示はいろいろ工夫がしてあって楽しめた。『琅?集』という彼女が書き写した他の詩人の詩集を買った。CD朗読もなかなか味わい深い。

 ショップ青海島で食事を済ませて、角島大橋へ向かった。海上を伸びる橋は壮観であった。角島灯台まで行って、燈台にも登った。てっぺんは涼しかったが下りると灼熱の陽が照りつけていた。

8月29日 青ライン 7:20発 〜 17:10着  石見銀山世界遺産センター:大森、龍源寺間歩、大森代官所跡  松江城  

 世界遺産、石見銀山に立ち寄る計画を持っていた。パークアンドライドが推奨されているので、世界遺産センターで、車をおきバスで大森へ向かった。歩いて回ることにしたが、4km近くを歩くことになった。暑い一日で、汗みずくになった。ただし、龍源寺間歩はとても涼しく、汗で濡れているシャツが冷え込んで、相当涼しく感じた。見応えのある間歩であった。生野銀山とは異なる展示であった。2時間半と思ったより時間を使った。

 車の走行が少なく、わりとスピードを出して走行したので、何とか、松江城を見る時間の余裕が出来た。松江城は現存している天守閣が見応えがあった。小泉八雲記念館等は時間がなく断念した。そのまま皆生温泉の旅館に向かった。

8月30日 8:30発 〜 16:20 着  水木しげるロード:水木しげる会館  境港さかなセンター  魚山亭  

 水木しげるの境港は大きな漁港であった。街にモニュメントがいっぱいありかわいいものであった。街全てが鬼太郎一色であった。境港さかなセンターへ行って、サザエなどをかった。昼食には旅行誌に紹介されている港近くの魚山亭へ。たっぷりの海鮮丼、とても安くて美味しいものでした。昼食後帰路へ。

  楽しい4日間であった。

 

ザビエル記念堂

秋吉台

 

 

 

金子みすゞ記念館

 

角島大橋 いや絶景でした。

 

角島灯台  角島灯台から

 

 

石見銀山 龍源寺間歩 この間歩の中はとても涼しかった。

外は暑くて汗だくだった。

 

   

石見銀山は 大森地区等歩くと数キロになる。 2時間半ほどぶらぶらした。

 

松江城        松江城天守閣から宍道湖を望む

境港にあった日本地図 こういう向きのちずははじめて 環大陸日本である。

 

 

 

 

水木しげるロードモニュメント

  

鬼太郎 カフェラテ

 

鬼太郎下駄   鬼太郎パン

 

残暑見舞い 

 

 

お父さん、お母さん、

ともやでー!!

残暑 お見舞い申しあげますわ!!

富士山はめっちゃ良かった。今までで一番楽しい添乗やったわ−。なにより、10歳の子どもから80歳のおじいちゃんまで、いろんなお客さんがひたすらに頂上をめざして、一歩一歩足を前に進めていく姿にめっちゃ感動した!!だから個人で行くより、ツアーで行った方がいいと思う。こんな感動は一人では味わえんやろう。

8月は超多忙!!いつもおなじみのむちゃくちゃなスケジュールや!1日も家でゆっくり寝ている日はないでしょう。

英会話もやらなと思っても始められんわ。忙しいことを理由にしたらあかんな−。

富士登山とBBQ行ったので、色の黒さが尋常じゃない!まるで埴輪!!今度会ったらびっくりするでしょう!

山口来てくれるのを楽しみにしているわ−。

お守りをどうぞ!!

ぐちゃぐちゃの字ですんまへん。ねむたいねん。ほなね。

とも

 

娘が添乗の仕事で富士山登山を、山頂の神社のお守りを二つ送ってくれた。うれしいことである。日本で一番高いところのお守りである。

山形 山寺

全国英語教育学会の初日午前中、山寺に寄った。残り1日半はずっと発表を聞いていた。芭蕉の句で有名なので、尋ねて見たかった。しかし山形は交通の便が悪いところである。JRの本数も限られている。時間がゆっくり進むところであろう。そういうおっとりとしたところは貴重である。

羽前千歳駅 無人駅 サクランボ東根から仙台への乗り換え駅

 

  

閑かさや 岩にしみ入 蝉の声

 

芭蕉像     曾良像

 

写経堂        仁王門

 

 

1015段の石段を登ったところにある五大堂 そこからの景色

 

名物 力こんにゃく     だしそば

山寺

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大文字 2011

 

今年は、陸前高田の松をたいまつとして使う、使わないと京都市と保存会の対応が二転三転し、後味の悪い大文字となった。判断が軽すぎる。このようなことに明確な根拠と決断を示せなかった市長には、京都市政も役所任せなんだろうとがっかりした。

とはいえ、先祖の霊を送る火、東日本大震災で亡くなられた人々のご冥福を祈りたい。死者は1万5698人、行方不明者が4666人と2万人の方があの大震災で犠牲になっておられる。避難・退去者も8万7063人。未曾有の大災害である。その上、原発の放射能汚染が心配される。

心静かに見送りたい。

 

悲田院より

米原 醒ヶ井 〜 中山道 〜京都 サイクリング

平成23年8月14(日)

自転車走行時間:5時間58分

自転車走行距離:105.8km

輪行

東福寺駅6:22 京都駅:6:34 長浜行き 米原下車 7:46

サイクリング

米原―醒ヶ井―近江中山道(番場―鳥居本―高宮―愛知川)―安土―近江八幡―守山―琵琶湖大橋―雄琴―坂本―西大津―追分―三条―自宅

 近江中山道の宿場町である醒ヶ井の『梅花藻(バイカモ)』(梅の花に似た白い小花)を観に行こうと輪行を計画した。

 往路は輪行で朝早く出かけた。米原駅で自転車を組み立て8時頃、駅を出発、21号線(一部中山道)を通って醒ヶ井へ。観光案内所は未だ朝早かったのか閉まっていた。地蔵川をさがし、川に沿って歩く、清らかな水が堀に流れている。梅花藻が、所々に咲いている。白い花が可憐だ。その上にほとりに植えてあるサルスベリのピンクの花が落ちていて、緑の藻、白い花、サルスベリのピンクの花、何とも言えない色のコントラストであった。醒ヶ井宿は中山道は妻籠や馬籠ほどの佇まいは残してないが、街道筋で賑わったのだろうなと思えた。写真を撮り終え出発。 中山道は醒ヶ井から鳥居本あたりまでは、車の少ない街道であり、過ぎゆく景色に往時の繁栄が偲ばれた。このあたりの中山道は湖北サイクリングロードとなっていた。鳥居本宿では曲がり角に江戸時代から家屋があり、赤玉神教丸本舗の暖簾があった。きっと街道を旅する人が薬を買い求めたのであろうと思われた。このあたりでは車の往来も多くなり、車がすれ違うのはやや難しい道となっていた。ただ、趣のある昔の建物が多く、玄関も障子紙を貼った戸口が多く見られた。

  しばらくして、安土をめざした。11時前であったが、曇り空から快晴にかわり、暑くなってきた。じりじりと暑くなる。持参した冷水は空っぽとなり、コンビニで水を調達。安土町までの道のりが炎天下で、腕が焼け付くようであった。見ると潮が噴き出している。汗が乾いて塩の結晶が腕にできあがっていた。

 安土城跡は、以前訪ねたときよりかなり整備されていた。休憩所やトイレも完備、麓の石垣も発掘されたのか、広く整備されていた。そこから安土駅へ向かい南下して近江八幡へ。いつも立ち寄るクラブハリエと「わた与」で買い物、それからコンビニを探して、パンと水を買った。12時くらいであったが、余り食事をする気になれずサンドイッチ一つで済ました。

 当初は、ここからJRで帰れば楽なのでそうしようかと思っていたが、まだ12時だったので湖西へ出ようと思い、琵琶湖大橋をめざした。途中、湖岸に向日葵が一面に植えられているところへ向かった。本当に暑かったが、何とかたどり着いた。残念ながら向日葵は終わりの頃であった。首を皆垂れていて、枯れるのを待つところであった。ただ、種を削り取ってスマイルマークの顔にしている向日葵の花が面白かった。ここで、昔、京都市上京区に暮らしていて、今は退職に守山に引っ越しして暮らしている人に出会った。リタイアしてこういうところに住んでいるのかと思った。何もない暑いところである。京都の上京の方がいいのではないかと思ったが、人それぞれの生き方である。 このあたりでは、身体が熱く、また坂を登るときの疲れで、足の筋肉がつる状況であった。琵琶湖大橋を渡り、隣接する道の駅で休憩した。冷たいものをと、ソフトクリームが350円、高かった。甘さで喉がからからに、あとが大変だった。給水を完了し、くたくたであったが、出発した。

  ここからはいつものコース。雄琴、坂本と頑張って走る。唐崎あたりで、再び両足が痙攣状態。どうしようかと悩んだ。ここからJRに乗ろうか。いや、今夏、能登半島一周をやむなく断念して、こうして今日サイクリングに来たのに、このままリタイアしてたまるかと、もう少し先へと、大津京(西大津)へ向かった。そこから勢いで頑張ろうと、いつもの小関越えの峠を超えるのは止めて、追分の逢坂山へ向かった。緩やかだが長い坂である。登り切ってそのまま名神や五条・三条へ向かうジャンクションへ、そこから三条をめざす。ここからはずっと上り道、京都市内へ出る最後の坂、登り切ってそのまま三条大橋へ、そこから南下して戻った。

 七条・豊国神社あたりでもう暑さと疲れで身体がくたくた、足も元気が出ない。一踏ん張りし、ようやく自宅に到着、降車してバックパックをおろしたときに、腕に痛みが走り、火照りきった身体の疲れで、どてっと倒れる。このまま気を失うのではないかと思った。とにかく水をかぶろうと、玄関横の散水栓まで這って行き、蛇口をひねって散水、温い水が流れる、頭に腕に胸にひとしきり散水。腕の火照りが少し収まると意識が回復してきた。しばらく水を身体にかけ続けた。止水し、そのまま壁にもたれてボッと立っているところに長女が帰ってきた。「何しているの?」「疲れて暑くて水をそのまま浴びていた。106キロ炎天下走って、くたくた。」「それは頑張ったな」と淡々とした娘は家に入っていく。しばらくボッとしてから、自転車を洗い、書斎に格納、すぐにシャワーを浴びた。

  シャワーを浴びてその後、そのまま、上半身裸で畳の部屋でごろんとした。もう動けないくらい疲れていた。これじゃ、能登半島はダメかなと思った。大変なサイクリングだったが、自分ではよくやったと思っていた。ただ、夕食を食べているとき、「歳を考えや!年寄りはそこで無理をするから倒れるのや」と娘と妻からぼろくそに言われた。

 とにかく疲れで、食後、すぐに床に就いた。昨年の淡路島一周の時より日焼けした。でも炎天下ほぼ106キロメートル走ったことに「よくがんばったで賞」をあげたい。

 

 

中山道    醒ヶ井JR駅

 

醒ヶ井旧郵便局  地蔵川

梅花藻

 

 

 

中山道街道筋

 

安土

三上山望む

 

夏、湖西を望む

 

琵琶湖大橋より

真っ赤に灼けた左腕

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宇治川花火大会

  

  

  

 

滝尾神社 夏祭り

 

 

 

 

稲荷神社本宮祭

  

  

  

  

  

祇園祭り巡行

 

長刀鉾

 

函谷鉾

 

 

月鉾

 

菊水鉾 宵宵山の時に鉾にのぼった

蟷螂山 屋根上のカマキリがからくりで動く

 

放下鉾 (40年以上前、学生バイトでこの鉾を引っ張った。)

 

人気の船鉾

 

巡行河原町通

菊水鉾 鉾の上 宵宵山

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世界は自分の中にある。 ただ、それは自分の世界である。

一歩踏み出せば、 世界は外側にあることが分かる。

自分の中の距離はわかりやすいが、

他人(ひと)との距離はわかりにくい。

人それぞれ、気持ちのいい温度も異なるかもしれない。

あなたの言葉の強弱、雰囲気、人間関係は、

他の人にとって気持ちがいいものとは限らない。

だからこそ、 自分の世界から飛び出して、

広い世界と出会わなければならない。

大きな幸せをじっと待っていてもやって来ない。

むしろ、そのために数多くの小さな喜びを見失うこともある。

また、 時間が経つにつれ、幸せは新しくなる。

過ぎ去ったことばかり考えていて、

これから先の未来にも同じことを見つけようとしても

それは難しいことである。

確かに、 出逢いには、抵抗があったり、不安があったりして、

イライラしたり、不機嫌になったりすることもある。

でも、ぶつかってこそ、本当の幸せをつかむことができる。

さあ、この夏は三歩踏み出してみよう。

夏至は数週間前に過ぎて、 昼の時間は少しずつ短くなっているのだが、 日暮れはまだまだ遅く、7時くらいでも薄明るい。 一日に与えられた二十四時間、今日も昼の活動も十分であった。 昔、我が家には小学校5年生くらいまでテレビはなかった。 ゼンマイ式の柱時計が唯一、時を知らせる道具であった。 外で遊んでいると、やがて夕焼け空になる。 それが家に帰る自然時計であった。 日の明るさが春夏秋冬の時の経過を伝えてくれていた。 それは、体内時計とも一致していた。 町内の家の庭などから、七輪で魚を焼いている匂いがしてくる。 お腹が空いてくる。 ああ、今日一日楽しかったと思う。 また、明日。 夕食のあとは、家の中は暑いので、 玄関先においてある床机に寝転がる。 蚊取り線香の匂いが風に流れていく。 見上げる夜空には星が瞬く。 大きくなることを夢みていた。 今や、腕時計、携帯、パソコンなどデジタル化した時間が 身の回りを埋め尽くしている。 日が暮れても町は照明で深夜過ぎても明るい。 失った感覚は大きいのではないだろうか。

七夕の日が近づいてきた。

子どもの頃、 七夕伝説に広大な宇宙に美しい夢を見る思いがした。

笹の葉に願いを込めた短冊をつるして夜空を見上げたあの頃は、

ものはなかったけれど、 全てが美しく見えた頃であった。

夏が近づく夜空は、 自分の小さな存在に気づかせてくれると同時に、

宇宙の果てまで無限に広がる思いにも気づかせてくれた。

我が家の三人に子どもも、 長女は同居しているが、

長男は中国に勤務しており、

一番下の次女が社会人として山口で一人暮らしを始め、皆独立した。

共に過ごした日々は、 今では記憶の中にあるだけである。

レモン色の我が子を 遠く見つめながら、

美しい思い出に光を見る。

昔、夜空の星を見たときに心が弾んだように、

老いてもその気持ちを忘れずにいたい。

今日がまた新しい一日であると、 心弾ませ生きていこうと思う。

何十歳も若い君たちも、 いつか、レモン色の昔を思うことがあるだろう。

その色がさわやかで胸をキュンとさせるような 美しいものでありますように

 

 

あじさいまつり

あじさいにもいろいろな種類がある。人は「冷たい」「移り気」などと花言葉を生み出したが、雨に打たれながら、日に日に色を変え、静かに咲き誇る清楚な姿には心打たれるものがある。他の音が遮断され、紫陽花の色と雨音と会話をしているうちに、昔日のことが読みがえってくる。一つ一つの思い出が重なり合っている紫陽花の花のようで、一つ一つが重なって人生がつくりあげられているのだと思う。

紫陽花は、もともとは、「あずさい」と呼ばれていたとされている。「あず」は「集まる」、「さ」は真、「い」は「藍(藍色)」の省略形・・・つまり、「真の藍色が集まっている花」といったような意味合いとか。土壌のph(酸性・アルカリ性)によって、あらわれる花色が異なり、酸性が強いと青みがかり、アルカリ性が強いと赤みがかる。

紫陽花園ではそのどちらも見ることができる。

 

 

 

  

 

藤森神社にて

大切なことは言葉にならない。

言葉で説明できるくらいのことなら、

そうたいしたことではないのかもしれない。

言葉に出せず、

一人、梅雨の雨のように涙をこぼすこともあるだろう。

でもね、

言葉にならない雨の音を誰かが聞いているかもしれない。

誰かが君に傘を差しだしてくれるかもしれない。

「一つ傘で一緒に歩こう」と言ってくれる人がいるかもしれない。

言葉に出さなくても、

「あの子傘を持っていないんだ。気をつけて帰るのよ」と 思ってくれている人がいるかもしれない。

でも君自身は、

傘をささず、少し濡れて歩きたいと思っているかもしれない。

染み込む水を得て、草木が生長するように、

君もそうして成長するのかもしれない。

ただ、何かをしてくれる人を待つのでなく、

自分が傘を差し出してあげられる人になれればと思う。

誰かを心配する、 誰かを愛するということは、

自分の中の心を信ずることであり、

明日への希望の力を育てることでもある。

お日様の輝きも梅雨空も、同じ空の違った表情である。

辛いことも嬉しいこともみんなあるから 希望という力がいるのだ。

 

6月も半ばになり、 学生生活にも慣れたことと思う。

だけど、 思うようにはいかないことがあって、

焦っていることもある。

分かっているけど、

また今度と 延ばし延ばしにしていることがある。

自分に言い訳をして、

今日を過ごす。

そして、 本当の自分を隠して、

どう思われるかを気にしながら、

みんなと顔を合わせる。

もういいじゃない。

自分をしっかり見つめてみよう。

そこから出発だ。

くじけるのではない。

挫けると再び始動するのに相当時間がかかる。

そうでなく、 素直に、謙虚になるのだ。

そうすることで、

心が洗われ 勇気が甦る。

そして、本当の日が始まる。

眼に見える世界だけでなく、

眼に見えない力が 君を支えてくれるだろう。

 

 

未だに福島原発の放射能汚染が防止されず、

体育館などでの避難生活を続けておられる

被災者の皆さんの気持ちはいかばかりかと案ずる。

6月は梅雨の季節、長雨が稲の生長を促すのであるが、

今年は東日本の一部では田植えもできない状態である。

梅雨の雨が人々の心を冷たくぬらさないようにと願う。

あじさいが人知れず咲いている。

けなげに咲く花に雨の音がする。

ふと、昔を思い出すような音に、人恋しくなる。

 

  雨   八木重吉 詩稿「母の瞳」  

雨のおとがきこえる  

雨がふってゐたのだ    

あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう  

雨があがるようにしづかに死んでゆこう

 

早世の詩人、八木重吉の

つつましやかで静かな雨の音が語りかけるようなこの詩を読むと、 胸が熱くなる。

雨降りの日は、 家にいて、静かにこれまでを振り返ってみよう。

雨音がピアノになって 思い出を奏でるだろう。

 

 

玄関先においてある薔薇の鉢植え。見事に咲き誇っている。一所懸命に咲いている。

こんな時もあったのかな。ゆっくりしたいけれど、時間は前より早く過ぎていく。

*********

 未だに福島原発の放射能汚染が防止されず、体育館などでの避難生活を続けておられる被災者の皆さんの気持ちはいかばかりかと案ずる。6月は梅雨の季節、長雨が稲の生長を促すのであるが、今年は東日本の一部では田植えもできない状態である。梅雨の雨が人々の心を冷たくぬらさないようにと願う。

 あじさいが人知れず咲いている。けなげに咲く花に雨の音がする。ふと、昔を思い出すような音に、人恋しくなる。

  雨   八木重吉 詩稿「母の瞳」  

雨のおとがきこえる  

雨がふってゐたのだ    

あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう  

雨があがるようにしづかに死んでゆこう

 早世の詩人、八木重吉のつつましやかで静かな雨の音が語りかけるようなこの詩を読むと、胸が熱くなる。

 こんな時は寅さんの言葉が身に沁みる。

私、近頃よくこう思うの、 人生に後悔はつきものじゃないかしらって、 ああすればよかったなあという後悔と、 もう一つは どうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔……      第17作寅次郎夕焼け小焼け/志乃の言

 

「遠い旅の空でよ、辛い時、悲しい時、故郷の事を想ってよ、俺にゃあどんな時でも帰る所がある、優しく迎えてくれる人が待っている、それを心の張りにしていたのによ。そうか、 俺にゃあ帰る所もないんだねぇ・・・」 「おいちゃん、おばちゃんよぉ、毎度の事ながら、また笑い者になっちゃった。俺ぁ、旅に出るぜぃ。 また今度もよ、何一つ恩返しらしい事はしてやれなかったなぁ。その内必ず、必ずいい目みさして やるからよ。勘弁してくれよ・・・」    第4作 「新・男はつらいよ」

博の父:そう、あれはもう十年も昔のことだがね、私は信州の安曇野というところに旅をしたんだ。

寅:へぇ〜、先生も旅したことあるの?

博の父:ん…。バスに乗り遅れて田舎道を一人で歩いているうちに日が暮れちまってね。暗い夜道を心細く歩いていると

寅::(横から割り込んで)狐の話でしょ!ね!ベッピンに化けた狐が背中なんか叩いて、『旦那、振り向いてよ』なんて

博の父:いや、そんな話じゃないんだ。」

寅::…

博の父:ぽつん、と、一軒家の農家が建っているんだ。りんどうの花が庭いっぱいに咲いていてね、開けっ放した縁側から明かりのついた茶の間で家族が食事をしているのが見える。まだ食事にこない子供がいるんだろう、母親が大きな声でその子供の名前を呼ぶのが聞こえる。わたしゃね、今でもその情景をありありと思い出すことができる。庭一面に咲いたりんどうの花。明々と明かりのついた茶の間。賑やかに食事をする家族達。私はそのとき、それが、それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと、ふとそう思ったら急に涙が出てきちゃってね。人間は絶対に一人じゃ生きていけない。逆らっちゃいかん。人間は人間の運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと不幸な一生を送ることになる。分かるね、寅次郎君…分かるね…」

寅::へい、分かります。ようく分かります

 

「つまり、兄さんの言いたい事は、平凡な人間の営みの中にこそ、幸せがあるとでも言うのかなぁ。 言ってみれば、人間には人間の定められた生活があるという事じゃぁないですか?」

お互いに稼業はつれえやなあ。 まあ、こんなことはいつまで続くもんじゃねえよ。 今夜中にこの雨もカラッと上がって、明日はきっと気持ちのいい日本晴れだ。 お互いにくよくよしねえでがんばりましょう。 (第8作『男はつらいよ 寅次郎恋歌』

 

 東日本大震災の被災地から復興への希望の歌が生まれ、注目を集めている。宮城県若林区の八軒中学校の合唱部が震災直後から避難所で歌ってきた「あすという日が」という唱歌。「希望の唄」としてCD化される。7月より販売、収益金は義援金となる。

 中学生が被災者のためにできること考えて頑張っている。日本は、まだまだ素晴らしい人たちがいっぱいいる。是非買ってみたいCDである。

「あすという日が」     作詞:山本瓔子 作曲:八木澤教司

大空を見上げてごらん

あの枝を見上げてごらん

青空に手をのばす 細い枝

大きな木の実をささえてる

今生きていること

一生懸命に生きること

なんてなんて すばらしい

明日という日があるかぎり

幸せを信じて

明日という日があるかぎり

幸せを信じて

 

あの道をみつめてごらん

あの草をみつめてごらん

ふまれても なおのびる道の草

ふまれたあとから芽吹いてる

今生きていること

一生懸命に生きること

なんてなんて すばらしい

明日という日がくるかぎり

幸せを信じて

明日という日がくるかぎり

幸せを信じて

**************************

「風光る」季節から「風薫る」季節になった。

草緑や緑色があたりに一気に増えて、 時の新しい出発を感じる。

もうすぐ田植えも始まる。

一面に水が張られた田に緑の山と青い空が映る、 そして白い雲がゆったりと流れていく。

するとそこに一陣の風がやってきて 水面に小さなさざ波を立てて過ぎて行く。

ああ、なんと五月の心地よいことか。 今年もこうして元気でよかったと思う瞬間である。

新たなエネルギーの生まれる瞬間、

力がみなぎってくるこの季節に、 また新たなチャレンジをしてみよう。

自然が放出するこの地球規模の力を しっかりと身体全体で吸収しよう。

勇気が湧いてくる。

「いつかこうしよう」と思っていたこと、 少しずつでも始めよう。

若葉が芽吹いて、一日一日、大きくなっていくように。

あなたの希望のサイズがどんな大きさであれ、 それを胸に秘め生きている。

他の人から見れば小さなことでも、 あなたにとっては大きな夢、

少しずつでいいからあなたのペースで大きくしていこう。

5月の風があなたの希望を空へ向かわせてくれる。

 

藤森神社祭御輿

若かったとき、何でもできると思っていた。

何かに挑戦することが好きだった。

先日、自転車で石山寺へ行こうとして、

東山トンネルの峠まで登って、ギアを入れ替えたときフロント内側のギアの内側にチェーンが絡まり外すことができなくなった。

一旦自宅に押して戻り、三条の自転車屋が開店するのを待って、妻に車で自転車を運んでもらった。

妻は「自分の時間がとられた」と、むくれた。「自分の不始末は自分で何とかしろ」と。

ギア調整もしてもらって、20分後自転車は元に戻った。

が、しかし心は元に戻らなかった。

ちょっと情けない思いであった。

老後、人の世話になることは大変なことだ。

これからは生活をダウンサイズしていかないとダメなのだろう。

今日の日曜日、自宅にこもったまま、パソコンの前で仕事をしたり、本を読んだりちっとも出かけなかった。

でも、もう少し輝いていたい。自分の可能性を信じて出かけていきたい。

*******

金勝(こんぜ)アルプス・ハイキング (滋賀県)

5月3日憲法記念日、曇りであったが、妻と長女の3人で久しぶりの山歩きを楽しんだ。

滋賀県大津市上桐生(かみきりう)のキャンプ場駐車場まで車で行き、そこから落ヶ滝、北峯縦走線の尾根を歩いて天狗岩、耳岩、白石峯へ向かい、国見岩、狛坂磨崖仏を見て、出逢いからキャンプ場駐車場へ戻るコースをとった。

国道一号線、山科から追分に到るまでがやや混んでいた。名神に入る車列が長かった。

8時過ぎに自宅を出たが、渋滞の割に9時過ぎには上桐生に着いた。

金勝アルプスは花崗岩がごつごつとしている山である。そこに緑が生い茂っている。

小さな水の流れは大きな一枚岩の花崗岩に何千年もかかってつくったと思われる水の通りが丸く彫り込まれている。

時をかけた小さな水の流れの偉大な力である。

山は、新緑の喜びがいっぱいである。山ツツジが到るところで一斉に咲き出していて、ハイカーを和ましてくれる。

落ヶ滝、水量は多くはないが落差のある滝である。

北峯縦走線を歩きながら天狗岩をめざす。

今日はあいにく黄砂がひどく見えるはずのびわ湖が見えない。これだけは残念であった。

天狗岩を観る岩山で昼食をとった。

その後天狗岩まで一気に、そして天狗岩のてっぺんまで登る。上部は平たくなっているが、それでも立ち上がると、やや恐怖感がおこる。風がきついと吹き飛ばされて転落するだろう。また花崗岩は時を経るともろくなる。いつかまた何百年経つと岩山の形が変わっているかもしれない。

楽しい縦走であった。

駐車場について、野洲のほほえみの湯へ向かって、汗を流しさっぱりした。

と、思ったが妻は風呂上がりから寒気がし出していた。我慢強いのので何も言わず帰りは運転してくれていたが、夕食後、しんどいと寝込んだ。38度の熱、吐き気、鬼の霍乱のようで滅多に寝込まないのだが、疲れが出たのであろう。

連休もう一日養生してもらおう。

 

落ヶ滝

 

ぜんまい     やまつつじ

 

昼食場所から天狗岩を見る

左端:天狗岩  右端:鶏冠山 

 

天狗岩

摩崖仏

曼殊院のツツジ

見頃はもう少し先、曼殊院で座って庭を眺めていると、時というものの意味は何なんなのだろうかと思う。

ゆっくり静かに流れる時間、季節の移ろいが時間を大きく表し、昼夜の光が今の時間をゆっくりと刻む。

光のグラデーションというアナログこそが時間のつながりを意識させる。

デジタルのように1秒を区切って時間を見ることに意味はないようだ。

瞑想すれば、子どもの頃を思い浮かべ、はたまた江戸時代、平安時代まで思いは馳せていく。

そういう時間で、今の自分を見ることが必要なんだろうと思う。

 

*********

 

人は生まれてきたときのことは覚えていない。

何で生まれてきたのかもわからない。

ただ、両親に愛されて生まれてきたのだろう。

幼児の時代、少年・少女の時代、 思春期の時代、青年・乙女の時代

父・母の時代、 おじいさん・おばあさんの時代と時は移りゆく。

山田洋次監督の寅さん映画第39作「寅次郎物語」の一シーン、

満 男「人間は何のために生きてるのかな」

寅次郎「何て言うかな、ほら、あー生まれて来てよかったなって思うことが

何べんかあるだろう、そのために人間生きてんじゃねえのか」

人生、いつもいいことがあるわけではない。

でも、一瞬であったとしても、 心から嬉しいと思える日がある。

気負って生きてみたり、 悩んで生きてみたり、

がむしゃらに走ってみたりしながら、

ふと、これでよかったんだと思えたら、

それは本当に幸せなことだ。

きみが生まれた日、

雲のスクリーンには 君の豊かな人生がほんの一瞬だけど 写しだされていたのだ。 

****************

 

イチジクタルト

末娘がY旅行社の添乗研修・一人添乗を始めている。5月の連休明け少しまで自宅から研修や添乗勤務を行い、6月には新山口に赴任する。学生の一人暮らしでなく、社会人としての故郷離れた一人暮らしはやはり辛いだろうと、いつまで経っても親ばかでいる。

今週、初月給が出た。仕事から家に帰ると、キルフェボンのイチジクタルトがおいてあった。みんなで食べようと、姉と父母そして自分の分とを、その初月給で買ってきていたのだ。イチジクタルトを見ると涙が出そうであった。家族が好きなキルフェボンのタルトを買ってきていた。

二度とない社会人初月給である。思わず食べる前に写真を撮りたくなった。 この子の親でよかったと、普通とは逆のことを思った。

書店に行けば、曾野綾子さんの「老い」関係の本がよく売れている。「人生の終い仕度」「人生の整理術」など、ダウンサイズする人生がこれから待っている。 ああ、いい人生だったと思える日々をこれからはしっかり見つめていきたい。

クレー展で

不屈第3号

東日本大震災のときに思い出したことがある。 ずいぶん昔、 パールバックのThe Big Wave (Tsunami)を授業で読んだことだ。 日本人の達観した人生観を昨日のことのように思い出した。

『人は死に直面することでたくましくなるんじゃ。だから、わしらは死を恐れんのじゃ。死は珍しいことじゃないから恐れんのじゃ。ちょっとぐらい遅う死のうが、早う死のうが、大した違いはねえ。だがな、生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること、木や山や、そうじゃ、海でさえどれほど綺麗か分かること、仕事を楽しんですること、生きる為の糧を産み出すんじゃからな。そういう意味では、わしら日本人は幸せじゃ。わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ。わしらは、死を恐れたりはせん。それは、死があって生があると分かっておるからじゃ』  

“To live in the presence of death makes us brave and strong. That is why our people never fear death. We see it too often and we do not fear it. To die a little later or a little sooner does not matter. But to live bravely, to love life, to see how beautiful the trees are and… the mountains, yes, and even the sea, to enjoy work… because it produces food for life. In these things we Japanese are… a fortunate people.”

東北の被災者の皆さんの一日はどういう一日であろう。すっかり様相が変わった無残な姿の町、 自然はとてつもない自然現象を生み出したが、 また、何事もなかったように営みを続けている。一日過ごしたことが一歩進んだ状況であることを願う。 同時に、自分の今日一日が、 一歩進んだものであるようにがんばりたい。

 

放射能汚染懸念・半径三十キロ以内は退避」

「計画停電」

「漁港壊滅」

今の日本に溢れる言葉には元気がない。

この先どうなるのか不安である。

この国がとても小さくなりそうである。

この国に住む人間も何だか小さくなりそうである。

リスクに過敏になり極力回避を考えるようになる。

心から願っていることも、 引っ込めてしまうことにつながりそう。

だけど、 何らかの結果だけを求めて

今を生きているのではない。

今の一瞬一瞬が、とても大切なのだ。

本当は目をつぶってはいけないのだ。

目を大きく見開いて、しっかり見ることだ。

そうすることで、何をすればいいのかわかってくる。

どう動き出せばよいか。

新生活の一歩を 戸惑わないで、進めていこう。

目を見開いていれば、 よく見える、

見方も変わってくる。

分かることが君の不安を無くすことにつながる。

*******

kizuna 絆 桜前線が北上するように 絆は北へ延びる

ガンバレ東日本!

松山千春が言ったそうな、

「知恵がある奴は知恵を出そう。力がある奴は力を出そう。金がある奴は金を出そう。

『自分は何にも出せないよ』っていう奴は元気出せよ」

 

  

八坂五重塔

春 花が咲く サクラ咲く ガンバレ東日本!

 

 

 

泉涌寺 サクラ古木

ウルフルズ 「泣けてくる」

どんなに気持ちが小さくなっても 夢みていたい

胸の中 光が見えなくなっても 夢みていたい

それぞれの目の前の それぞれの景色を 信じて歩ければ

なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる

なにげない言葉が うれしい帰り道

なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる

明日もがんばろうぜって 笑って歩き出す

 

どんなに気持ちに迷いがあっても 忘れない

胸の中 僕を奮い立たせてくれる 熱い想い

はればれとした気分で 思い思いの世界を もとめて歩ければ

なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる

言えないひとことが せつない帰り道

なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる

明日もがんばろうぜって 笑って歩き出す

凹んで疲れても 明日がやってくる

何からはじめようか どれくらいがんばろうか

なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる

うれしい言葉が せつないひとことが

なんだか泣けてくる おもわず泣けてくる

明日もがんばろうぜって 笑って歩き出す

 

泉涌寺

 

      耳塚 サクラ

  

 

鴨川沿いのサクラ

 

鴨川河川補修パワーショベル横で魚を捕る水鳥

****

 

先日、個人的にはややショックなことが起こった。

夕刻から急に左目に鶯色の藻のようなものが山の形になって見える景色の中の前に現れ、

目をつむってもその模様が眼球に写った。

くも膜下の前兆ではないかと心配しながら早く床について、

翌朝起きると目の下に移ってやや小さくなっていたので

一過性化のものかと少し安心はしたが、

なんでそうなったのか不安でしたので、途中会議を早退して自宅近くの眼科医院に行った。

眼科に行く前にはまたもや大きく藻のような糸くずのようなものが浮かび上がり、覚悟をして行った。

眼科では左目に目薬を何度もさして瞳孔を開いたうえで眼球の検査してもらった。

結果、「飛蚊症(ひぶんしょう)」と診断された。

人によってその「浮遊物」はいろんな現れ方をするそうで、

黒点がいくつも現れる人、蚊が飛んでいるように現れる人、糸くずがもつれるように現れる人、たばこの煙のようなものが現れる人、

いろいろあるそうで、

私の場合は糸くずとたばこの煙のあいのこような藻ようなものであった。

生理的な原因と病的な原因によって起こるもので、病的な方は問題ですが、

そうでない場合は60歳になると老化でだれもがなるということであった。

水晶体の奥の硝子体に濁りが生まれることで生じる。

硝子体はゼリー状で眼球の動きで揺れ動く。

その際、老化した細胞の濁りが網膜に映るとのことだ。

歳を取ったら白髪が増えるのと一緒、それは辛抱するしかしようがないと言われた。細胞が死ぬのは生きている摂理であると。

そのうち動いていると濁りがくるりと回って光線の視野から抜けると、浮遊物が消える。

が、しかし、また回って表れるとのこと。

近視の場合にも起こりやすいようである。

蚊のようなものが飛ぶということで「飛蚊症8ひぶんしょう)」と言うらしい。

今までに感じたことがなかったものが急に現れとても煩わしい。

その原因が老化と言われてショックであった。

しまなみ海道サイクリングしたこの同じ肉体が加齢による衰えを見せ始めている。

原因が分かって安心と同時に非常に悲しいことである。

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しまなみ海道サイクリング旅行記

自転車全走行距離:152.5km

自転車走行時間:10時間

 

赤ライン:サイクリング   緑ライン:乗船

 

しまなみ海道サイクリング

 以前から春休みにと考え、そのために自転車も新調し、事前にいろいろと調べて旅行計画を立てたが、当日はあいにくの雨で、臨機応変に計画を変えざるを得なかった。

3月21日(月) 自転車横行距離:62.69km 走行時間:3時間42分 平均時速17km

 京都駅 6:40着 京都駅06:56のぞみ 95号5号車18番C席→福山08:13

 福山駅08:35山陽本線(糸崎行)→尾道駅08:54 

 一週間前から、インターネットで天気予報をチェックしていた。どうやら日曜日から雨らしい。東北関東大震災があったばかりで、自粛も考えたが、元気がないのは良くないと思い、決行することにした。前日のチェックでは降雨量が1ミリ未満であったので、雨は上がると信じて出かけた。

 新幹線では車両後部のスペースが空いていたので、うまく輪行袋を収納できた。だが、車窓から見ると雨が降り続けていた。祈るような気持ちであった。

 福山に着き、在来線に乗り換えるためホームでしばし列車を待った。かなり西まで来たけれど、雨はまだ降っていた。すると、その時、40歳代くらいのサラリーマンの男性が近づいてきて話しかけてきた。「どこに行くのかとか、サイクリングはよいとか、またしまなみ海道へ行くなら、大三島の「大山祗(おおやまずみ)神社」へ是非行くように」といわれた。「強力なパワースポットであるから」と。鞆の浦に行くなら「対潮楼」に行くとよいとか、わずか10分ほどであったが、楽しい会話であった。元気が出た。

 尾道に着くと、1ミリどころか、かなりの雨であった。とにかく自転車を組み立て、登山用のレインウエアを上下着た。午後からは雨がやむことを祈りつつ、サイクリングクーポンを買うために港の駐車場の受付に行った(尾道ではそこでしか売っていない)。受付のおじさんが、「この雨の中、行くのか?雨が降っていないときの1.5〜2倍の時間と体力が必要になるからサイクリングはきついよ。途中の島まで船で行って、そこから今治までサイクリングしたほうがいい。船はそこからでている。乗船待ち時間がかかっても、40分で瀬戸田港(生口島)まで行くから、時間的には十分楽になる」と話してくれた。「平山郁夫美術館には行きたいのやけど」と尋ねると、「そこは生口島にあるのだから、瀬戸田港から少し戻ればいけるよ」とアドバイスしてくれた。

京都駅                                 尾道電車内(休日で空いていた)

     


尾道駅前『瀬戸内クルージング』(10:10)→瀬戸田港(10:50)→平山郁夫美術館(800円)→しおまち商店街(昼食)→県道81号線→県道81号線→多々羅大橋渡橋

 少し迷った。全コース走らないと、横断したことにはならない。現在時刻は9時20分、生口島まで船に乗るかどうか、とりあえず波止場に行こうと自転車に乗るとペダルが「するっ」と空回り、雨で路面が濡れているのでタイヤも滑っていた。そこで覚悟した。これは危ない。船で生口島まで行こうと。明日、天気がよければ同じルートで走ればいいのだと気持ちを落ち着かせた。出航は10時10分であった。乗船料800円と自転車乗船料が150円だったように思う。しばらく待って、乗り込んだ。雨がやむ気配はなかった。船内から外を見ても窓ガラスに雨の水滴が付いてよく見えない。雲も低く垂れ込めていた。10時50分くらいに瀬戸田港に着いた。雨はまだ降っていた。

 平山郁夫美術館をめざした。自転車を駐車する場所も野天であった。仕方なくそこに駐輪して、美術館に入った。小さな美術館であったが、とても洗練されていて綺麗な美術館であった。シルクロードシリーズや仏教伝来の絵のことしか知らなかったが、昭和5年生まれの平山郁夫は小学校の頃から絵がとても上手であったことに驚いた。当たり前のことなのだが、本人の小学校からの絵が展示しているのはとてもユニークに思えた。2009年に亡くなられた平山郁夫の豊かな才能を改めて知った。印象深かった絵は、ラクダのキャラバン(「月明の砂漠」)などいろいろあった。子どもの頃何か不思議と思っていた唱歌「月の沙漠」を思わせた。アンコールワットの夜と朝焼けの絵もすばらしい。金箔を背景に陰影となった坊さんの求僧の絵(求法高僧東帰図)は秀逸である。金箔をキャンバスにして、あんなに金色が輝くの中での影の絵とは思っていなかった。感動した。光の中にうつむき加減に歩く僧の陰影は見事である。ショップで平山郁夫デザインのハンカチを子どもたちへの土産に買った。

 美術館を出て11時半、朝が早かったので早めの昼食をと思い、街道筋の商店街のような趣のある「しおまち商店街」でとることにして、寿司屋に入った。雨が降る中、自転車をぬれたままに、店に入った。しばし雨が上がるのを待つつもりもあった。残念ながら食後も、雨は降り続いていた。ここからは予定どおりのコースを行くことにした。生口島の海岸沿いを走るとやがて多々羅大橋が見えた。ちょっと感動した。橋を渡るには、まずその高さまで坂を登る必要があった。できるだけ登坂勾配が小さくなるようにと、くねくねと曲がった長い坂が続いた。周りにはレモンやいよかんなどの柑橘類の実がいっぱいであった。いよいよ渡橋、クーポン切符を放り込んで、渡る。最初なのでやたら感激して写真を撮った。自宅にも写メを送った。橋を渡ると雨がぽつりぽつりに変わってきた。

 

 

平山郁夫美術館

しおまち商店街

多々羅大橋渡橋→大山祗神社(13:18着)→国道317号線→大三島橋渡橋→国道317号線→道の駅伯方SCパーク→伯方・大島大橋渡橋→国道317号線→来島海峡第三大橋渡橋→来島海峡第二大橋渡橋→来島海峡第一大橋渡橋→来島海峡展望館→サンライズ糸山(16:50着)(泊)

 船で生口島まで渡ったので、時間的に余裕があったので当初予定していなかった大山祗(おおやまずみ)神社に行くことにした。ナビの指示どおりに行くと、途中右折しろといわれても地図が頭に入っていないので変だと思い、まっすぐ行くと案の定、間違った道でもう一度海岸ベリまで戻ったりした。途中、峠を越え、大山祗神社に着いた。自転車は泥水をはねて砂だらけになっていた。

 この大山祗神社はあとで分かったのだが、「日本総鎮守」で日本全土を守護しているという神社であった。今でこそ、しまなみ海道や道路があるが、昔は海路しかなく、近くの宮浦港が唯一の参道口であった。確かに宮浦港から神社までの参道はこれまでの賑やかさを思わせるような門前町として土産屋や旅籠(旅館)が立ち並んでいた。この一本南側に今は車が通る広い道ができている。鳥居をくぐり抜けると、広い境内の正面に樹齢2600年と伝えられる大楠が枝を広げていた。厳かな空気を醸し出していた。本殿へ参って、旅の安全を祈った。神社の人に、「どこがパワースポットと言われているのですか?」と尋ねると、ちょっと間を置いて、「大楠の木じゃないですか」と言われた。それほどスポットとしては知られていないのかと思った。ただ、家に戻って、本を読んでみると、この神社の裏手に奥の院があり、そこには真ん中が空洞になった天然記念物の大樹があるということ。生きている樹木が門の役割をしているため「生樹の御門」と言われているそうだ。そこだったかもしれない。

 お参りを済まし、大三島橋へ向かおうとした。ナビは宮浦港から右折し島の北側を回ように指示した。およその勘で左折でくるっと南側を回ればいいのじゃないかと思った。道路の標識は反対で戻るルートを示していた。同じ道を通りたくなかったが、地元の人に訊くと戻るのが一番最短であることが分かって、多々羅大橋まで同じ道を戻ることにして、多々羅大橋からはそのまま東側の海岸沿いに大三島橋まで向かった。

 ちょっとレインウエアがかさばってむせていた。雨は止んだので、ここでやっと脱いだ。娘が誕生日にくれたサイクリング用ウインドブレーカーを着た。大三島橋は小さな橋であった。渡ると伯方島である。しばらく走っていると、「道の駅伯方SCパーク」が見え、有名な塩ソフトクリームを寒いのに食することにした。ちょっと塩味でおいしかった。そこからは伯方・大島大橋が見えていた。この道の駅は海岸沿いにあり、砂のビーチが続いていた。きっと夏は海水浴客が多いのだろうなあと思った。また、橋を渡るためにくるくると坂を登ってこの橋を渡った。最初ほど橋を渡っても感動はしなくなった。ただ、眼下の海は潮の流れが速そうでくるくるしているようであった。橋を渡って、しばし海岸沿いを走る。川のように潮が流れていた。なるほど瀬戸内の魚は身が引き締まっておいしいはずだ。鯛がそうだ。潮の流れの急なところに棲んでいるのだから。しばらくすると、大島の真ん中を走ることになった。やや高低差のある峠を越し、来島海峡大橋が見えた。ループになった自転車道を大きく周りながら、橋の入り口に着いた。「うん!」とうなった。目の前に海と島が大きく広がっていた。この橋は、今治に向かって第一、第二、第三と続く全長4.1kmもある長い吊り橋で、「えひめ感動の地20選」の第一位の景勝地である。夕焼けがうっすらと島影をつくる。「日本三大急潮」の一つと数えられる来島(くるしま)海峡、潮のながれが海原に波紋をつくっていた。映画「ET」ではないが、空中を自転車で走っているような錯覚を覚えるほど、高くて長い橋であった。感動した。橋の中ではここが最高であった。美しさを惜しむように走った。途中で何度も写真を撮った。この歳で頑張ってよかったと心から思った。この気持ちを楽しみながら、やがて自転車はまた大きなループに着き、橋を下りた。そこには糸山公園展望台があり、橋を北に向かって左から見る光景がひろがっていた。

 すぐ近くのサンライズ糸山で一泊した。サイクリングセンターでもあり、素泊まり4200円と安い。市内までは自転車で30〜40分。ここからは右から橋を見る場所であった。自転車を簡単に拭いた。ここでは部屋まで自転車を持っていってよかった。盗難に遭うこともあるのだろう。高級自転車に乗る人が多いから、私の愛車trek7.9FXもバイクより高い私には夢の自転車である。やはり乗り心地はよい。部屋は3人部屋であったが、一人で泊まれた。ゆったり。夕食は「風のレストラン」でKAZEセット(2800円
●鉄鍋料理・真鯛と季節野菜の黒胡椒焼き

●パスタ(4種類の中からお好きなもの)
・本日のおすすめ パスタ
・農村漁村のあっさり和風パスタ、
●ミニサラダ
●カップスープ
●ライス
●シャーベット
●お好きなお飲み物(ソフトドリンク)を食した。ビールと地酒を飲み、食べ過ぎくらいお腹もいっぱいになった。結局、朝食も合わせると1万円弱の宿泊費であった。疲れからか8時過ぎには寝た。

 多々羅大橋

大楠

  本殿

来島大橋

 

糸山公園より来島大橋

サンライズ糸山から

 

 夕食

 

3月22日(火) 自転車走行距離:46.9km  自転車走行時間:3時間25分

  サンライズ糸山(7:30)→国道317号線→今治城→今治港8:30→芸予汽船快速船9:00→因島土生10:10 1700円+アルファ→因島水軍城→因島大橋渡橋→県道377号線→向島(富浜)110円→尾道駅前(昼食)→千光寺・千光寺公園→市内観光→佐藤旅館(16:45着) (泊)

 今日は雨が降らないことを祈っていた。やはり同じ道を帰るのは芸がないので、当初の予定どおり今治港から快速船で因島まで渡ることにした。ただ、問題はこの快速船、自転車を積んでくれるかどうかは、乗員の状況を勘案したり、村への郵便・生活物資の搬送上余裕があったりするときだけ乗せてくれるということで、待合室でやきもきしながら待っていた。待ち時間のあいだに、今治城の周りに行き写真を撮って戻ってきた。1時間近くは待った。幸い自転車も載せることができた。運賃は1700円プラス自転車が550円であった。少し高い気がした。

 しかしながら、早い時間に乗ることができれば、尾道で市内観光ができると考えていたのでよかった。出発時はやや晴れていて、海から来島海峡を見たりすることができて気持ちはよかった。因島土生(はぶ)港に10:10に着いた。ここから唯一今回渡らないことになった生口橋の橋下をめざした。写真を撮るとそのまま北上し、水軍城に向かうルートをとった。登りがつづいた。登り切ると今回一番怖かった場所となった。車がわりと多く通っていた。何と目の前にトンネル、対面走行で狭くて中がやや暗いトンネルであった。トンネルの入り口には「自転車の走行に注意」と看板が大きく張ってあった。これまでサイクリングをする中で初めてテールランプを点灯した。昼間しか乗らないのでランプをつけることはほぼない。またトンネルを通過する際は、歩道や自転車道のあるところを通過するよう心がけていた。覚悟をした。数台、車が行きすぎてからトンネルに入った。下り坂であった。途中から後ろか車が接近しないようにと、思いっきり漕いだ。道ががたがたで、ハンドルとられて転倒したら大変と思いながら走った。対面の車のヘッドライトが強かったりするとホワイトアウトになって前が見えないので危ない。対面車が一台だけで、無事通り抜けたときはほっとした。

 そのまま下り坂で、快調に飛ばしすぎて、水軍城入り口を見逃した。もう一度戻って水軍城に行った。村上水軍の展示があったが、ほとんど訪れる人がないようであった。この坂を登る方がものすごく大変だった。ここから2段になっているという因島大橋へ向かった。案の上、長いくねくねとした登りを登り切る橋の入り口に出た。上階は車が通り、その下の階を人、自転車、原付が通れるようになっている2階建ての橋であった。それが珍しいといえば珍しい橋である。すれ違いで二人のサイクリストにあっただけであった。ただ、周りの鉄骨や柵が目障りで海の景色を楽しむものではなかった。

 橋を過ぎて、向島の西側の海岸沿いを走りながら渡船乗り場をめざしていたが、途中で県道377号線をそのまま直進すべきところを右折して国道317号線に入った。番号の記憶まちがいであった。そのため峠を越していくルートになってしまった。自分がどこにいるのかナビでも分からなくなった。ナビは自動車用なので車が行く道を指示する。簡易の地図を見て確認していると、たまたまそこにおられたしまなみ高速道路の係員の人に位置を教えてもらい、現在位置とルートが分かった。やがて、渡船乗り場に着き尾道に戻った。13:10くらいであった。そのまま商店街向かい、昼ご飯に尾道ラーメンを食した。豚骨に魚の出汁を混ぜたスープで結構おいしかった。

 時間が早いけど旅館に行って荷物を置かせてもらったり自転車を置かせてもらったりして市内観光しようと思ったが、2時くらいに行った宿泊予定のその旅館は無人で誰も出てこられなかった。汗をかき、それが冷えてとても気持ちが悪かったので、仕方がなく駐車場で、上半身の着替えをした。また、曇りの寒い天候になっていた。それから、荷物を尾道駅のコインロッカーに預け、先日のNHKテレビの「家族に乾杯」に出ていた千光寺へ自転車で向かった。そこからは、朝の連続ドラマ「てっぱん」に写る景色も見ることができるだろうと思っていた。そこが何とスゴイ登りであった。登り切ってそのまま展望台下の千光寺近くまで自転車で行った。駐輪して千光寺へ向かう。途中、鶴瓶がこんこんと小さな石で大きな岩を叩いていた場所に出た。「てっぱん」の冒頭の踊りの部分もそこが写っている。千光寺は巨大な岩が多い寺であった。お寺からの尾道市内の眺望は気持ちの良いものであった。少しゆっくりして下山し、商店街をうろついた。昭和の雰囲気が残る商店街であった。中には昔の風呂屋の建物をそのまま使って土産物屋になっている店もあった。「大和湯」がもとの名前で、奥の壁は風呂屋のタイル地をそのまま使ってあった。商工会義所の建物では「てっぱん」のロケ写真の展示などをしていた。

 しばらくして海岸通りに出た。海岸は散策路のよう公園になっていて、下関の港や香港の海岸ベリのように綺麗にしてあった。急に太陽が出て温かくなったので、ベンチで少しのんびりと座っていた。すると、そこに面白い人が現れた。65歳くらいの男性が近づいてきて話しかけてきた。「ええ自転車でどこへ行ってたの?」「しまなみ海道を往復してきた。船も使いながら。雨がきつかったので辛かった」と話すと。「しまなみ海道サイクリングと言うけれど、もっとちゃんと説明しないとダメだ。誰でも簡単にいけるように宣伝しているが、実際は高低差があって、いい自転車で行くか、体力のある人でないとしんどい。この間も夫婦が汗みずくになってサイクリングしていた。また、夏にここをサイクリングしたら脱水症状になる。夏のサイクリングはダメ」といろいろ話してくれた。そのうち、「尾道は何でいいか、わかりますか?」と尋ねられた。「いや、海が近くの町やからですか」と答えると、「違う。ここは戦災にあっていないので、300年前のもの、100年前のもの、50年前のものぜんぶあるのや。古い家屋もあるから、奥行きがある町となっている。落ち着きがある。だから、ほっこりする。で、みんなが住みたいと思うのや。福山は戦災に合っているので、町が新しい。新しいビルばかりだから、落ち着かない町となっている。福山にはそうやから住みたいとは思わないのや」と答えられた。「なるほど、いい表現ですね。奥が深い、奥行きのある町。私も京都に住んでいるので、よく分かります」と言えば、「京都には尾道は負けるけれどな」と。そのあとも20分近く、いろんな話をしてくれた。「てっぱん」の撮影より「戦艦大和」の撮影時が一番観光客が来て、大変やったとか。何とセットは向かいの造船所に造ったらしい。いや、旅の出逢いの楽しい語らいであった。

 4時半くらいになっていたので、旅館へ行った。寅さんが泊まるような旅館であった。3階建ての木造旅館、壁は薄く、風呂も家族風呂をそのまま使う。トイレも共同。ただ、宿泊費が安い。朝食付きで4700円。文句は言えない。着くなり風呂に入りたいと言ったものだから、早速用意してくれたが、極めて温い風呂であった。それでも洗髪もし、ひげを剃ってさっぱりとして、5時半頃、町へ食事に出かけた。駅裏の「いっとく」という店がインターネットで面白い店と出ていたので、そこに行った。レトロな雰囲気でよかった。とんぺい焼き、もつ焼き、鉄板ふわふわタナゴ焼き、ゴボウの天ぷらを頼んだ。どれもおいしかった。鉄板で調理する兄ちゃんも地元の気さくな人で、会話が弾んだ。途中からは店の知り合いのようなお客さんとも話が弾み、東北の地震のことから尾道の将来のことまで本当に楽しく話しながら、食事をした。生ビール、冷酒2杯、焼酎一杯と一人での食事では飲まないほど、楽しく飲んだ。「今週で終わる「てっぱん」の最後に写っているかもしれんから見てや」とも、その話し相手となったお客さんが話してくれた。店をあとにするときにはカウンター越しにいたそのお客さんが握手を求めて、気をつけて頑張ってと言ってくれた。気持ちよかった。店を出ると、店員も一緒に出て挨拶してくれた。しばらく歩いて振り返ると、まだ店の外にいて見送ってくれていた。びっくりした。同時にとても温かさを感じた。

 ひとしきり商店街を歩いて、ほとんどシャッターが下りている中で空いていた本屋で尾道の今昔写真紹介を買ってから旅館に戻った。疲れていたので寝ようとしたが、壁が薄いので隣の声がよく聞こえる。夜中はいびきや、反対の隣のテレビの音がうるさくあまり寝られなかった。

 サンライズ糸山出発

今治から快速船海からの来島大橋

土生港

生口橋

 

因島大橋

尾道ラーメン

千光寺   尾道市街

千光寺

    

 いっとく

商店街

 
3月23日(水)  自転車走行距離:42.2km  自転車走行時間:2時間53分   平均時速:15km

佐藤旅館7:00→尾道駅前『渡船』→向島(富浜)110円→県道377号線→歌港乗船場(200円)→戸崎→鞆の浦・観光(昼食)→福山11:30 福山駅14:31のぞみ34号12号車1番C席→京都駅15:51

 結局余り眠れず、こちらも早朝5時から、荷物の整理をした。パンフレットとかをもらっていたり、商店街でままかりの干物などを買ったりしていたので、バックパックはきちきちで重かった。輪行袋やレインウエア上下はカサ高かった。自転車が重量でバーストしたらと心配になった。ここまで、無事来ているのにと。

 朝食は十分な量があった、鯖の焼き物、目玉焼き、ポテトサラダ等、味噌汁は極熱であった。食後、支払いを済まし、波止場に行った。そこで、サイクリングクーポンの売り場を探しているこれまた40歳代の人に出会った。売り場を教えてあげた。その人は折りたたみ自転車で来ているらしい。今日一日で往復するつもりらしい。7時過ぎなので元気な人なら時間的に可能かと思いながら、それでも折りたたみ自転車の車輪の大きさなども考えて、高低差がありますよとアドバイスを。あと、橋は「来島大橋」が最高に感動したと。「寒いので、途中で引っ返すかもしれない」と話していた。もう一つ問題は風である。私の場合、向かい風ではなかった。橋では強い風が吹く。風に注意というのもある。2年前の琵琶湖一周の向かい風は辛かった。今回、雨は降ったが、風にはやられなかった。その人は、クーポン売り場に向かっていった。

 向島まで渡る市民の足のフェリーに乗り、そこから東へ走り、歌フェリー乗り場まで行った。そこからは向かいの戸崎までいく。戸崎は目の前に見えている。このフェリーを使わないで尾道から東へ陸路をとって行くと距離が長くなり1時間はタイムロスになる。戸崎で下船して鞆の浦に向かった。頭にたたき込んでいたルートとは違う道をナビが指示し遠回りになった。が、何とか予定のルートに戻った。県道389号線にある常石というところでは、何キロも続く非常に長い造船所(TUNEISHI)があった。社宅もあり、この海沿いの町自体がこの造船所で成り立っているのではないかと思うくらい巨大で長い造船所であった。

 そこから鞆の浦に出るまでに一箇所きつい峠があった。チェーンが切れてもいけないと考え(言い訳)、最後の100mほどは押して歩いた。自転車が軽いので、急坂を押しても楽であった。峠のあたりにトンネルがあった。また、テールランプを点灯した。やがてなじみのある鞆の浦に出た。石灯籠の燈台のある波止場は無人で、いろは丸展示館も開いていなかった。結構早く着いた。9時なっていなかった。その時間帯は晴れて陽光が気持ちよく昔の鞆の浦港を目の前にベンチでしばらく飴を食べたり、お茶を飲んだりしてゆっくり過ごした。とても気持ちがよかった。静かな時間であった。9時を回ったので、高台の展示館に行った。鞆の浦は一度来たことのある小さな街なので、しばらくして福山に向かった。

 もう少しゆっくり出ても大丈夫であったが、何かあってはと思い早い目に出発していた。10時過ぎくらいであった。このままじゃ11時過ぎに福山に着くと思いながらもひた走った。予想したとおり早く着き、新幹線に乗るまでたっぷりと時間があった。荷物をコインロッカーに預け、民俗資料館で時間を過ごし、駅下のラーメン屋さんで昼を食べた。12時20分。あとたっぷり2時間はあった。構内の店には自転車をそのまま押しては入れないので輪行袋に収納し、担いでその駅構内の商店街にある書店へ向かった。本でも読んで時間を過ごそうと考えた。2冊文庫本を買い、そのあとスタバ形式のコーヒーショップで時間を過ごした。30分ほどして、今度は駅の待合で時間を過ごした。

 それから、予定の新幹線に乗り、京都に戻った。京都駅へ妻が車で迎えに来てくれたので、それにそのまま自転車を乗せて帰宅した。帰宅するとすぐに、前輪をはめ込み、自転車を水洗いしてぼろ切れで拭いたが、砂がだいぶいろんなところに付着していた。ペダルの車軸の周りが一番ひどく、回転させると、かすかにジャリと音がするようであった。自転車を書斎に収納し、身体が汗臭かったのですぐに風呂に入った。疲れていたので夕食後はすぐに寝た。

造船

鞆の浦  

 

   

 

福山駅

 1日経って、自転車を点検すると、後輪のタイヤにちいさな針のような穴を見つけた。おそるおそるゴム糊を塗り込むと小さくぷくっと膨らむ。微妙なパンクを起こしているようである。タイヤを押してもそれなりに圧があるので分からないような感じである。道中にパンクしないでよかったと思った。明日、サイクルストアに行って点検してもらわないといけない。

結果は7ミリくらいのピンの先のようなものが刺さっていて、チューブにも穴が空いていた。ただ、ラッキーだったのはそのピン先が垂直でなく横になって刺さっていたので高圧空気のチューブから微妙に空気が漏れていて気がつくほど空気抜けしなかったことだった。7気圧と十分に空気を入れておいたのが幸いであった。道中でなっていたら、大変だった。携帯の空気入れでは、間に合わせで十分な空気圧が入らないから、本当にラッキーだった。やはりパワースポットに行ったからかな。

 さて、今回のしまなみ海道、昨夏の淡路島一周と異なり、暑くはなかったが、反対に雨降りの中を走行するという無茶な旅になった部分があった。自転車もそのためのメンテナンスが必要だ。しかしながら、旅そのものは、美しい景色に感動したり、見ず知らずの人と話したりして楽しいものであった。しまなみの島の海は干潮満潮の差が東西でスゴイ潮流を産むということ、ほとんどの島に造船所があり、これが基幹産業であること、柑橘類の栽培が多いということなどは行って初めてわかるものであった。しまなみ海道を自転車で渡れる橋は全部で6つある。そのうち大橋と名が付いているものは4つである。4つの大橋と一つの橋は自転車で渡った。生口橋だけ通過しなかったが、十分しまなみ海道サイクリングは楽しんだ。春の陽気で晴れていたら満点をつけたいサイクリングであった。次はどこへ行こうか。密かに考えているのは能登半島一周である。金沢から時計回りに半島を一周するのもいいじゃないかと。その時は自転車をもっとコンパクトに後輪も外していく必要がある。

 今、東北関東大震災で今日をどう生きるか過ごしている人がいる。身代わりになることはできないが、それ故、元気が出る活動は続けたいと思う。

 

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寅さんの思い  想像することでつながる

今日3/19の朝日新聞の朝刊、個人的に大ファンである寅さんの思いを山田洋次監督が綴っていた。

東日本大震災で、大きな悲劇の中にいる人たちに、僕が何を伝えたらいいのか分かりません。家を失い寒風にさらされている人に、海に襲われて水の中で果てた人に、東京の家の中から何かを言うことなんて……とてもできませんよ。

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こんな時、寅さんなら何と言うだろう、どう行動するだろうーと考えます

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阪神大震災の後、神戸市の長田地区で映画を撮りました。焼け出された人たちから「寅さんに来てほしい」という声があがったのです。僕は、あんな無責任な男の映画を被災地で撮るなんて、とんでもないことだと思い、最初はお断りしました。でも、訪ねてきてくれた長田の人たちが、口々に、こうおっしゃるのです。「私たちが今ほしいのは、同情ではない。頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤でもありません。そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。だから寅さんに来てほしいのです」
寅さんのような男が、そばにいることが何かの慰めになるのならば。そう考え直して、撮影に向かいました。

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これはそうだろうと思う。

授業コミュニケーションというアンケートを昨年採った。
その中で、本学の学生で高かった項目に「共に悩んでみる」があった。

もちろん、わかりやすし説明、重点を整理した説明、図解などを取り入れた説明がかなり高い生徒が望む授業コミュニケーションであったが。

同情でもない、頑張れでもない中に、ひょっとして、生徒や学生の自律てきな学びに結びつくものがあるのかもしれない。

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天皇陛下がビデオで発表された国民へのメッセージ

(宮内庁発表の原文のまま)

 この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。

 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。

 自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。

 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。

 海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。

 被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。

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人生に寅さんを(5)

 あの3・11からもうすぐ一週間になる、宮城、岩手、福島、青森では地獄絵図のような日々が続いている。人命と家を根こそぎ奪っただけでなく、原発を破壊し放射の汚染の爪痕をあの大津波は残した。遠く関西にいると、テレビや新聞の報道で、被災した人々への思いを馳せるしかしかたがない。物資の行き届いていないところも、まだまだ沢山あって、見捨てられたのではないかと思っておられる方もいるだろう。

 僕らは何をすればいいのだ。今日、妻と郵便局へわずかだが日本赤十字宛に義援金を送った。妻は我が家にある防寒着などを取り出して整理している。クリーニングに出して、窓口ができればすぐに被災者の所へ送れる準備をしている。

 僕は自分HPに被災者への思いを綴っている。出かけた先々で、支援しようと伝えるつもりである。僕が編集しているnewsletterにもお見舞いを書いている。

 テレビの被災者の人がお互いに、全てを失ってもなお、「前向きに」「前を向いて」頑張ろうと話してられるの聞くと、胸が熱くなって涙が出てくる。ただただ、頑張って欲しいと思う。

 芸術家のみなさん、人間の尊厳をたたえて、東日本を励ます「詩」や「歌」を作って欲しい。「歌」で生きる感動を、生き抜く感動を伝えてください。

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「人間、額に汗して、油にまみれて、純真に暮らさなきゃいけねぇ。 そこに、早く気がつかなきゃいけねぇんだ」

上等上等、あったかい味噌汁さえありゃ充分よ。

あとはおしんこと海苔と鱈子(たらこ)一腹ね、

辛子のきいた納豆、これにはね、

生ネギをこまかく刻んでたっぷり入れてくれよ。

あとは塩こんぶに生玉子でもそえてくれりゃ、

もう何もいらねえよ、おばちゃん。

第5作望郷編

「確かに、食っていくって事は大変なんですよ、この世じゃ。でもね、人間は、生きるって事は、 それだけじゃ決してない。そうです、だからこそ、りつ子さんみたいな人が必要なんですよ。 つまり、芸術家がね。美しい音楽を聴いたり、素晴らしい絵を見て感動する為にだって、 僕達は生きてるんじゃないですかぁ。とにかく、もっともっと色んな事に、人間は喜びを感じて 生きてるはずですよ。兄さんが美しい人に恋をする。これは、兄さんが人間として生きている事の 証ですよ。そうでしょ、兄さん?」

第12作「私の寅さん」

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雨にも負けず、風にも、大地震にも、大津波にも負けず

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 巨大地震ニモ地震ノ大津波ニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ 家族ノ行方ヲ思イ 友ノコトヲ思イ シヅカニ考エテヰル

一日ニ米モナク 少シノ支援物資ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

困難窮状ニ立チ向カッテイル

高台ニ残ッタ松ノ林ノ蔭ノ 電気モ通ラヌ、水モ来ナイ建物ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ母ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニ助ケヲ待ッテイル人ガアレバ トンデ助ケニ行キ

余リノ惨事ニナミダヲナガシ コワレタ家ニオロオロアルキ

ミンナノ助ケガナケレバ 生キテイケズ

ソレデモ 歯ヲ食イシバッテ 生キテイクゾトガンバッテイル

サウイフモノニ 東北ノ被災者ハ今アル

南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩

頑張れ東日本!

神戸の鉄人28号

東北巨大地震に思う

今夕7時半、教員研修から自宅に戻って、テレビを見ていたら菅総理が国民へのメッセージを伝えた。

正直がっかりした。今こそ、日本のトップリーダーが日本国民全体に語りかけるにはあまりにも普通の話であった。

彼は演説というものが分かっていないように思えた。

今日の教員免許状更新講習で、私は参加の先生にディベートの話をした。
端的に伝えること、ポイントが明確であることが大切であると。

 

彼のメッセージは、今この時点、一国のリーダーが語りかけるのは現状報告ではない。

チャップリンの独裁者の演説のように心を動かすメッセージだ。
被災者になぜ彼は語りかけなかったのだろう。

「今、九死に一生を得てたえている被災者の皆さん、頑張ってください。
私たちは全力を尽くします。
寒くはないですか、食べるものに不自由されているでしょう。
家族の安否も心配なことでしょう。瓦礫のなかでどうしてよいか呆然とされていることでしょう。
皆さん、政府は日本国民全員と共にできるかぎりの支援をします。
辛抱してください。

国民の皆さん、東北地方の皆さんは今極限の困難状態におられます。
皆さん、被災者の方々へ思いを馳せてください。
日本国民一致してこの窮状に共に立ち向かってくれませんか」

と私なら、そう告げたい。

事務的報告をするものでない。

一国のリーダー、今こそ民主党起死回生のチャンスを彼自ら失った。

他の党の党首も、ごちゃごちゃ言う前に何をすべきか、ことばで示してほしい。
官僚がどうのこうのなんていう言葉をこの時期に言う政治家はやめて欲しい。

今日の朝日新聞の天声人語の方が遙かに、人の心の琴線うったえる。
今必要なのはそれではないか。

 テレビ画面を正視することができなかった。がれきと海水の混じり合った津波が、濁流のように家を、畑を、道路を呑(の)みこんでいく。走っている車に波がのしかかる。ああ、だれが乗っているのだ。お父さん?お母さん?兄さん姉さん?――だれかにつながる、かけがえのない命が呑まれていく▼マグニチュード8.8の猛烈な揺れ。被害はどれほど広がるのか。震源から遠い東京でも震度5強で揺れた。黒煙を上げるビルが職場の窓から間近に見える。この一文を書いている間にも、大地は不気味に揺れ続けている▼三陸地方は津波の常襲地とされる。過去の幾多の犠牲と引き換えにつくられた様々な手だても、自然の猛威に破られた。天変地異の脅威をあらためて思う。各地の爪痕の少しでも小さいことを、ただただ祈る▼日本列島はプレートのぶつかり合う上に乗る。その危うさを物理学者の寺田寅彦は「国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもの」とたとえた。「つり橋の鋼索が、あすにも断たれるかもしれない」と警鐘を鳴らした。その鋼索が、切れた▼気象庁によれば、東北沖から関東沖まで、数百キロにわたって断層が動いたようだ。点ではなく線である。予想される東海地震や東南海地震に匹敵する巨大地震が起きた。明治以来の観測史上国内最大という▼夜が明ければさらなる被害が確かめられよう。生命、財産、故郷の町並み。失われたものの大きさに打ちのめされる人たちとの絆を失うまい。こんなときにつなぐための手が、私たちの心にはある。

 

現状を見極められない今の政治家にこの国を預けている。

政治家が決めた教員免許状更新講習システムに、私は実効的な効果を見いだしていない。
だからこそ、私の研修参加者には、「こんな研修があるのだ。免許状がどうのこうのでなく、もう一度自分を見つめ直し明日からの授業に立ち向かおう、来てよかった」と思う研修をやりたいと願っている。

だから、全力で十分な準備をして、前線で働く教員の皆さんと共に歩んでいきたいと思う。

ミスチル、小田和正、ゆず、コブクロ、福山、ドリカム、etcの歌手の皆さんに、訴えたい。
今すぐ、東北巨大地震の被災者を励ます名曲を作ってくれ。
人々に明日への希望を歌で、勇気を与えて欲しい。
チャリティに国民が参加するだろう。

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人生に寅さんを(4)

 3月も中旬を迎える。雪が降っているところもあり、まだまだ寒い日が残る。でもこの日曜から春らしいひびになるとのこと。

 中国から3月末に帰国し、日本での勤務に戻る予定であった息子が突然会社の通知により半年延期になった。顧客の会社が規模を拡大しようとしているので、その対応のために残留を言い渡されたようだ。2月に一時帰国したときに、住む家を見つけ契約を済まし、親の方が引っ越し業者との見積もりを済ませ、帰国を待つばかりであった。息子夫婦と同居するわけでもないのだが、同じ京都にいれば安心という思いはあった。

 末娘も3月末から1ヶ月ほどの研修後に勤務地が決まる。京都か大阪ではないかと思われる。関東もありえるが。この娘、お姉ちゃんと相談し、二人でマンション借りて一緒に住もうと計画している。大学生活一人でいたものだから、親元にじっとしていることはない。その上、お姉ちゃんには家賃の3分の2を出してと交渉している始末。ちゃっかりしすぎだ。

 子どもが小さい頃は、家族5人で食事をした。いろんなことを話しながら食事を楽しみ、そのあと小一時間ほどしてりんご一人3切れほどを食べたりするデザートの時間があり、いつもそろって楽しんでいたものだ。英語の表現で使うused toだ。その時のことを綴ったものがある。もう15年以上も前のことである。

家族の一員

(一緒に暮らすことがとても大切なんだ、人生は年月ではなく思い出で刻まれるのだから)

 末娘(小学校1年生)が階下から2階の自室にいる姉(中学3年生)に大きな声を上げた。「お姉ちゃん、りんごやで。降りといで、一緒に食べよ。お姉ちゃんも家族の一員やろ」末娘の「家族の一員」という言葉に私は吹きそうになった。「意味が分かってその言葉使ってるんやろか」と思いながら、妻と先に降りていた息子と娘二人の家族で一人三切れほどのりんごを食べた。 

 わが家では食後1時間ほどして、果物やアイスキャンディなどを食べる習慣がある。たった10分ほどの時間だが、顔の表情からみんなの今日の一日が分かる家族の時間である。

Pieces of Apple

"Living together is very important, because life is measured by memories, not by years."

My second daughter (age 7) in a loud voice told her big sister (age 15) upstairs, "Big sister, apples! Why don't you come downstairs and enjoy eating apples together. You are a member of the family, aren't you?" I burst into a laugh because I wondered whether my little daughter UNDERSTOOD "a member of the family".

We enjoyed eating 3 pieces of apple EACH together.

In my home, we are ACCUSTOMED to enjoying some fruit or ice cream about one hour after dinner for about ten minutes. But we can know ourselves better BY looking at each other's face during THIS short time.

 そういえば昔、深草の小さな家で10年近く暮らしていた。あの頃、時々夏の夕刻、妻がバギーに子どもを乗せ、最寄りの深草の駅で私が仕事から帰宅するのを待っていてくれることがあった。改札を出て、子どもたちが駅でお父さんの帰り待ってくれたりするのに出くわすとうれしくてしかたがなかった。電車を見ながらも想像をつけて待っていてくれたんだと。だから、月に何度も途中でケーキを買って持って帰った。子どもたちが喜ぶだろうと思って。林檎だけがデザートでないように。

こうしたことも今は思い出になった。幸せな時間であった。

 今、自分を育ててくれた父母とはほとんど顔を合わせないように、自分の子どもも親から離れていく。役目が終わったんだろうなあ。家族という幸せの時間。

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博の父:そう、あれはもう十年も昔のことだがね、私は信州の安曇野というところに旅をしたんだ。

寅:へぇ〜、先生も旅したことあるの?

博の父:ん…。バスに乗り遅れて田舎道を一人で歩いているうちに日が暮れちまってね。暗い夜道を心細く歩いていると

寅::(横から割り込んで)狐の話でしょ!ね!ベッピンに化けた狐が背中なんか叩いて、『旦那、振り向いてよ』なんて

博の父:いや、そんな話じゃないんだ。」

寅::…

博の父:ぽつん、と、一軒家の農家が建っているんだ。りんどうの花が庭いっぱいに咲いていてね、開けっ放した縁側から明かりのついた茶の間で家族が食事をしているのが見える。まだ食事にこない子供がいるんだろう、母親が大きな声でその子供の名前を呼ぶのが聞こえる。わたしゃね、今でもその情景をありありと思い出すことができる。庭一面に咲いたりんどうの花。明々と明かりのついた茶の間。賑やかに食事をする家族達。私はそのとき、それが、それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと、ふとそう思ったら急に涙が出てきちゃってね。人間は絶対に一人じゃ生きていけない。逆らっちゃいかん。人間は人間の運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと不幸な一生を送ることになる。分かるね、寅次郎君…分かるね…」

寅::へい、分かります。ようく分かります

++++

「つまり、兄さんの言いたい事は、平凡な人間の営みの中にこそ、幸せがあるとでも言うのかなぁ。 言ってみれば、人間には人間の定められた生活があるという事じゃぁないですか?」

お互いに稼業はつれえやなあ。
まあ、こんなことはいつまで続くもんじゃねえよ。
今夜中にこの雨もカラッと上がって、明日はきっと気持ちのいい日本晴れだ。
お互いにくよくよしねえでがんばりましょう。

           第8作『男はつらいよ 寅次郎恋歌』

 

鉄人28号 新長田

東大寺修二会 お水取り 二月堂

東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が創始された。以来、平成23年(2011)は1260回を数える。

今年は二月堂前に着くのが遅かった。夕食を食べゆっくりしすぎて向かえば、7時10分前に二月堂へ登る参道へ。

すると地元の警察官が、すでに二月堂前は超満員でここから先へ進めません。左奥の第二拝観場へ移動してくださいと指示する。第二拝観場は何と遠くにスキマから見るような場所。しまったと思った。昨年は1時間前から待っていたのだ。明るいうちから待っていたので、目の前の場所を確保していた。今年は油断というより横着だった。

遠くに見えるたいまつはそれなり風情があったが、臨場感は全くなかった。20倍の望遠レンズでようやく撮った写真。昨年の写真と比べると迫力が全然違う。第二拝観場に膨らんだ人も遠景に高揚感はなかったようだ。

 

 

横着して直前に着こうとしたことがダメだった。せっかちなのでいつもは早く行くのに。いい戒めになった。

ところで、松尾芭蕉が詠んだ俳句に

  「水取りや籠(こもり)の僧の沓(くつ)の音」

  「水取りや氷の僧の沓(くつ)の音」

 野ざらし紀行 「二月堂に籠(こもり)て」に二つどちらが真作か議論を呼んでいる二句がある。「氷の僧」の出典は、「甲子吟行」(野ざらし紀行)と「芭蕉庵小文庫」(元禄9、1696年)。「甲子吟行」は芭蕉の真筆とされているし、いずれにもはっ きりと漢字で「氷の僧」と書かれている。「籠(こもり)の僧」の出典は、江戸中期の俳人、蝶夢の「芭蕉翁絵詞伝」(寛政5、1793年)と「芭蕉発句集」(安永3、1774年)で、いずれも芭蕉 (1644〜1694)没後100年ほど経過して書かれたもの。「氷の僧」では意味が通りにくいと考えた蝶夢が、「こもりの僧」と書き換えたのではないかとみられている。「大和路の芭蕉遺蹟」(増田晴天楼著、奈良新聞社)「氷の僧」ならば、 石畳に張った氷を踏みしめ参籠する練行衆の姿 を表現していることになる。

どちらにしろ、見た目の情景でなく、沓の音という響きに芭蕉の句の深さがある。スゴイと思う。

「春祈りたいまつ走る二月堂」という拙句では陳腐すぎて自分ながらいやになる。

「千年を春の火照らす二月堂」

「水取や祈る先に大松明」

「春告ぐ夜炎に浮かぶ二月堂」ちょっとましかな(笑)。

人生に寅さんを(3)

 来週の兵庫県の高校への特別授業や教員免許状更新講習やそれからあとの短大と4大の卒業式が終わって春休みになれば、しまなみ海道をサイクリングする一人旅を計画している。2泊3日、今治で一泊、尾道で一泊して戻る予定である。今回は京都から輪行で尾道、尾道から今治をサイクリング(80km)、帰路は船で今治港から因島へ、そこから尾道までまたサイクリング、最後に尾道から鞆の浦・福山とサイクリングして京都へ輪行で戻る。宿舎の手配もした。新幹線の切符も予約した。あとは自転車の整備。パンクしないように空気圧をしっかりしておく。幸いこれまで、サイクリング旅でパンクはない。段差のあるところを気をつけることもパンク予防。あとは走行のペース。背中に背負うザックも小さからず大きからずでないと疲れるだろう。最小限度の荷物の準備。輪行に詳しいO君が一緒だとこころ強いのだが、仕事が忙しい。

 こんなふうに、行くまではあれこれ考え不安がある。しかし、サイクリング旅行中は何も考えない。安全に快適にだけを考える。体力とペース配分。ヒルクライムの時のガッツとあきらめの判断。そしてあとは景色に同化して、風のようになりたいと思うだけ。孤独ということばが孤高ということばになる、それがサイクリングの旅である。研ぎ澄まされる自然の感覚に自分が清まる感じがする。

 だけど、電車で旅をすると、少し違う。余裕がある。思いはいろいろ巡る。車窓から見る田舎の景色に昔日の思いが甦る。畑や田んぼにぽつんと働く人を見ると、締め付けられる思いになる時がある。過ぎゆく景色が自分のこれまでの人生であるかのように、走馬燈を見るかのように、一人の世界に入っていくときがある。裕福でなかった我が家、子どもの頃、学校に通っていた頃、父母と旅に出かけたことがない。遠くてもびわ湖・木津川へ日帰りで出かけるだけであった。そして今、父母を旅に連れてやることもしてこなかった。そうであるのに、電車の旅の車窓に若かった頃の父母の懸命に働く姿が浮かぶ。自動車工場で組み立てをやっていた父、内職やパアートに出かけていた母。精いっぱいの生活をしていた頃の思い出が次々に浮かんでくる。

 人生の旅、どれだけ走ってきたのだろう。三分の二は過ぎた。残りの日々を大切にしたいと思う。何が大切か。やはり人を思う気持ちであろう。寅さんの生き方じゃないけど、人を愛する気持ちだろう。これまで受けてきた恩や愛にお礼をすることが残りの人生だと思う。感謝の気持ちで。恩返しの人生、返せない人もいるから恩送りの人生を送っていきたいと思う。

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言ってみりや、リリーも俺と同じ旅人よ。

見知らぬ土地を旅する間にゃ、

それは人には言えねえ苦労があるのよ……。

例えば、夜汽車の中、

いくらも乗っちゃいねえその客もみんな寝ちまって、

なぜか俺一人いつまでたっても眠れねえ……

真っ暗な窓ガラスにホッベタくっつけてじっと外を眺めているとよ、

遠くに灯りがポツンポツン……

あ−、あんな所にも人が暮らしているんだなあ……

汽笛がポーツ、ポーツ……ピーツ。

そんな時よ、そんな時、なんだかわけもなく悲しくなって、

涙がポロポロと出たりするのよ。

そういうことってあるだろう、おいちゃん。

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さくら:「お兄ちゃんはさ、カラーテレビもステレオも持っていないけど、そのかわり誰にもないすばらしい物を持ってるものね」

寅:「何だ、えっ? あっ、俺のカバン開けて見たのか」

さくら:「違うわよ、形のあるものじゃないわ」

寅:「なんだ、屁みたいなものか?」

さくら:「違うわよ、つまり、愛よ。人を愛する気持ちよ」

            第11作『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』

 

人生に寅さんを(2)

 昨日は4月のような陽気であった。三寒四温でやがて春を迎える。あちこちで梅便りが聞かれる。我が家の盆栽の梅も精いっぱいに咲いている。ああ、今年もまた春が来る、春を迎えられるという気持ちになる。

寅さんの映画の口上の一節を思い出す。旅を続ける寅さんが故郷を思いやる気持ちが痛いほど分かる。

芭蕉の『奥の細道』、漂白の思いを次のように述べている。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。」

月日の流れは、それ自体が永遠の旅人であり、一年一年の時の流れもまた、旅人なのだ。舟の上で生涯を過ごす船頭、毎日馬の轡を引いて歩みつづけ、老いを迎える馬子、そんな人たちには、日々が旅であり、旅が住処なのである。古人にも、多く旅の中で死んでいった者がある。私もまたいつの時からか、ちぎれ雲が風に吹かれて流れるように、自由な旅への憧れが、心にわき起こるようになった。

The moon and sun are eternal travelers. Even the years wander on. A lifetime in a boat, or in old age leading a tired horse into the years, every day is a journey, and the journey itself is home. From the earliest times there have always been some who perished along the road. Still I have always been drawn by windblown clouds into dreams of a lifetime of wandering.

 しかし、寅さんは違う。旅は終の住処ではない。本当は故郷に帰りたいのだ。でも帰れるような状況ではない。だから、踏ん張って生きていく。心にいつも故郷を忘れずに、いや、支えに生きているのだ。

 人によっては故郷は異なるかもしれない。

 父母が故郷の人もいるだろう。育った景色が故郷の人もいるだろう。

 私には、まだ道が舗装されていなかった頃、小学校の校舎やお正月の3日間の日々、クリスマスの夜など小学生の頃の想い出が心の故郷でもある。

 人生は旅である。楽しいとき、苦しいとき、辛いときもある旅に、いつも心の故郷を大切にしていたいと思う。

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「梅の花が咲いております。どこからともなく聞こえてくる谷川のせせらぎの音も、 何か春近きを思わせる今日この頃でございます。旅から旅へのしがない渡世のわたくし どもが、粋がってオーバーも着ずに歩いちゃおりますが、本当のところ、あの春を待ち わびて鳴く小鳥の様に、暖かい陽ざしのさす季節を恋焦がれているのでございます。 私の故郷にも、血を分けた妹と伯父夫婦が私の事を案じながら暮らしております。 毎年、春が近づくたびに、できる事なら暖っけぇチャンチャンコの一枚も買って帰って 喜ばしてやりたいと思うのでございますがね。それがなかなか、思うにまかせぬつらさで ございます。全くの話、銭があれば、銭さえあれば、私は今すぐにでも土産を買い込んで 故郷へ帰りたいのでございます。さようでございます、私の故郷と申しますのは、 東京、葛飾の柴又なのでございます」

「遠い旅の空でよ、辛い時、悲しい時、故郷の事を想ってよ、俺にゃあどんな時でも帰る所がある、優しく迎えてくれる人が待っている、それを心の張りにしていたのによ。そうか、 俺にゃあ帰る所もないんだねぇ・・・」

「おいちゃん、おばちゃんよぉ、毎度の事ながら、また笑い者になっちゃった。俺ぁ、旅に出るぜぃ。 また今度もよ、何一つ恩返しらしい事はしてやれなかったなぁ。その内必ず、必ずいい目みさして やるからよ。勘弁してくれよ・・・」

第4作 「新・男はつらいよ」昭和45年2月

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人生に寅さんを(1)

2月も半ばを過ぎた。去年は守山へ、比良山をバックにしたカンナノハナの写真を撮りに自転車で出かけたが、

今日は自宅で休んでいる。
風邪が完全には治りきらず、鼻がつまって仕方がない。歳を重ねると病気も治りにくい。

今年度もいろいろやってきたが、なかなか思うようには事は運ばない。

若いときのエネルギーと情熱をもってまっすぐ進もうしているのだけれど、
うまくいかないことが多い。一人で仕事することが増えた。
ときどき、なにやってんだろうと思うことがある。

3人の子どももこの4月でみな社会人、一つの時代が過ぎた。
気がついてみると、当たり前のことだけど昔過ごした同僚とも次第に疎遠になっていく。
あんなにともに過ごした時間があったのに。老いることは成長なのだろう。

ただ同じように成長するのではなく、春夏秋冬、人生にも四季があるのだろう。

夏のような成長期から秋の実り、そして成長が止まって行く冬が。
残りの人生をどう生きていくことが大切なのだろう。
生きてきた限り、ああよかったと思えるように過ごしたい。まだ頑張るぞって思って。

そんなとき、昔共に過ごした仲間が元気にしているとの便りやメールをもらうと元気が湧いてくる、勇気が生まれてくる。
なぜかその時の思いが甦り、さわやかな風となって通り過ぎていく。
よし頑張ろうと思う。

寅さんの映画が好きだった。家族のあたたかさ、人を思う優しさがとても好きだった。
時にはつらいこともあるだろう。
一緒に寅さんの台詞を味わってみよう。

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桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております……思い起こせば二十年前、つまらねぇことで親爺と大喧嘩、頭を血の出るほどブン殴られて、そのまんまプイッと家をおん出て、もう一生帰らねぇ覚悟でおりましたものの、花の咲く頃になると、きまって思い出すのは故郷のこと、……ガキの時分、鼻垂れ仲間を相手にあばれ回った水元公園や、江戸川の土手や、帝釈様の境内のことでございました。

風の便りに両親(ふたおや)も、秀才の兄貴も死んじまって、今はたった一人の妹だけが生きていることは知っておりましたが、どうしても帰る気になれず、今日の今日まで、こうしてご無沙汰に打ち過ぎてしまいましたが、今こうして江戸川の土手の上に立って、生まれ故郷を眺めておりますと、何やらこの胸の奥がポッポッと火照って来るような気がいたします。

そうです、私の故郷と申しますのは、東京葛飾の柴又でございます。

第1作男はつらいよ/冒頭の語り

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菫(すみれ)

国木田独歩

春の霞に誘はれて

おぼつかなくも咲きいでし

菫の花よ心あらば

ただよそながら告げよかし

汝(な)れがやさしき色めでて

摘みてかざして歸りしに

少女(おとめ)や今日も来たりなば

「君をば戀 ふる人あり」と。

こんな思いはずいぶん昔のことのように思える。

でも、街にはこんな思いの若者が今日を生きているんだろうな。

美しい日本、美しい心、いつまでも。

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小学校が生まれ変わる

四十八年ほど前に卒業した小学校の校舎が全面的に壊される。

昔、人口増で3校に広がっていた小学校が、

東山区の人口減を象徴するように、また3校が合併される。その上、中学校との一貫校になる。

141年間この地にあった。時代は大きく変わった。

小学校の校歌は今でも歌える。歌詞も記憶にある。

一橋小学校 校歌

日はさんさんと照りはえて

紫匂う山の辺に

永遠の真清水 涌く所

明るく強く共々に

一橋の子らは進みゆく

一橋の子らは進みゆく

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三十六の峰かすみ

星かげゆらぐ加茂の辺に

真白き花の咲く所

やさしく清く共々に

一橋の子らは進みゆく

一橋の子らは進みゆく

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明治時代の陸軍測量の地図を見れば、小学校から西側鴨川にかけては畑であった。

また、南は里山の森であった。東福寺やなどの境内がその中にあったのだ。

今は全て宅地。

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学校沿革史

・明治 2年(1869年)5月 現在の敷地の一部に校舎を建てる。

・明治 2年10月 2日 『下京第31番組小学校』として開校。 児童数 男子185名 女子167名 教師5名

・明治 5年 4月 『下京第31組』と改称。

・明治 6年 2月 伏見街道の「一の橋」にちなみ 『一橋小学校』と改名。

・明治 8年11月 土地約110平方メートルを買収し講堂(82.5平方メートル)を建てる。

・明治25年12月 『下京第31尋常小学校』と改称。

・明治41年 4月 『京都市一橋尋常小学校』と改称。修業年限が6年になる。

・大正11年 4月 「三橋校」(現 月輪小学校)が建設され児童413名が移る。

・大正12年  講堂兼雨天体操場が建つ。

・昭和 6年 9月 「一橋第三校」(現 今熊野小学校)が建設され児童585名が移る。

・昭和 9年 9月 室戸台風で大破した「南校舎」(9教室)をとりこわす。

・昭和11年  「北校舎」(10教室)建築。現在の北校舎の前身。

・昭和15年 8月 大谷中学校より現在の「運動場」を買収する。

・昭和16年 4月 『京都市立一橋国民学校』と改称。

・昭和19年 4月 放火により「中校舎」11教室を焼失する。

・昭和22年 4月 『京都市立一橋小学校』と改名し現在に至る。

・昭和30年 9月 鉄筋3階建ての現「南校舎」ができる。第3期工事。

・昭和31年11月 第2期工事として「音楽室・理科室」等ができる。

・昭和32年 9月 「給食調理室」ができる。

・昭和35年 3月 運動場北側に「教材園」ができる。

・昭和35年10月 「本館」鉄筋3階建ができる。

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私が在学しているときに瓦葺きの古い校舎が、すべて鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられた。

大正時代の講堂が学芸会や雨天体操場、一時そこに衛生室(保健室)もあった。

講堂裏には石炭置き場があり、日直は前日に石炭を石炭バケツに入れておくのが仕事だった。

新聞紙に割り木それでうまく火をつけて石炭を燃やしていた。

日直当番の時だけ、先生が給食の食パンを石炭ストーブの上部に置いてトーストにすることを許してくれた。

もっとも先生はいつもトーストにされていたが。

あらゆることに前向きに考え、大きくなろうと思っていた頃であった。

その校舎が今年、全てとり壊され、新しく生まれ変わろうとしている。

 

 

  

  

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息子夫婦が正月アンコールワットで撮った写真をもらった。

いい旅であったようだ。

カンボジア 夕焼け

アンコールワットの朝日

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“A heart is not judged by how much you love, but how much you are loved by others.”

「心の大きさとは君が愛するのではなく、どれだけ人から愛されるかで決まるんだ。」

オズの大魔王(フランク・モーガン) 『オズの魔法使』(39)

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『朝のリレー』

谷川俊太郎

カムチャッカの若者が

きりんの夢を見ているとき

メキシコの娘は

朝もやの中でバスを待っている

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節分・立春

今日は節分、 無風晴天の暖かい日和となった。 鬼おどりで有名な廬山寺へ出かけた。

境内はぎっしりの人、日ざしがこれまでと打って変わってとても温かであった。

立春は、冬と春の分かれる節分の翌日、

寒さがあけて春に入る日である。

今日は本当に春の到来を告げる日和であった。旧暦の正月である。

新春を感じる日である。

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立春に 教えし子らの 顔浮かべ

立春に電話有り「結婚します」と 知人告ぐ

 

廬山寺 鬼のお加持

赤鬼

青鬼

黒鬼

寺町三条 矢田寺

 

立春は間近であるけれど、日本列島は寒気の中。

猛暑に大寒、ちょっと両極端じゃないか

これから先どうなるのだろう

校 庭 で         小野十三郎  

わたしは  

未来という言葉が好きだ  

よく考えると  

あなたたちの一人一人に  

それがどんな意味をもつのか  

なかなかふくざつで  

かんたんには使えないけど  

あなたたちと別れる日が近づくと  

なぜか、さからいがたく  

未来という  そんな言葉が  

心の中からとび出してくるのだ。  

夢とか  倖せとかいう言葉では  

いいつくせないものがその未来という言葉にあるからだろう。  

いまうす陽がさしてる校庭には  

だれもいない  わずかに光をあつめて  

冬薔薇だけが咲きのこっている。  

いってみれば  未来とは  

かすかに風にゆれる  

この一輪の  白い花のようなものだ。  

ゆく雲のかげさえそこにうつっていて  

世界はかぎりなくしずかで  

かぎりなく美しい。  

しかしそこにあれば  

この庭にみちあふれていた  

あなたたちの  明るい笑い声がきこえる。  

わたしは  あなたたちのそばを  なんども通った  

そんな日があったことを  忘れない。

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これまで、いくつもの職場を経験してきた。

いろんな道を歩いてきたおかげで、 たくさんの人に会えた。

受け持った生徒や学生、

職場の同僚、 様々なプロジェクトで共に働いた人達、

学校訪問して出会った先生、

研究会・研修で共にした先生、

そうしたいくつもの出会いの中で、

咲くときは渾身の力で咲こう、

輝くときは命がけで輝こう、

人の一生は短いから と思って、

懸命に人生の風景を描いてきた。

きっといつも未来を描こうとしていたのだろう。

多くの人と共に時間を過ごし、

そして多くの人と別れてきた。

今年度も一年が過ぎて、 君たちとも 

お別れの時が来た。

夢みるような 君たちとの出会いの時間であった。

楽しかった。 幾年か経って、事をなしえたら、

想いは空を飛ぶ雲となって、

描いてきた景色とともに一緒に過ごした人達のことを思い出すであろう。

君たちの人生はこれからだ。

一つ成長した智恵と勇気で、

君たちの未来のキャンバスにさわやかな絵を描いてゆこう。

グッド・ラック!

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雪の日

   

グラウンドで遊ぶ小学生

 

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他人をうらやましく思うことがある。

友達をねたましく思うときがある。

自分はどうしてこうなんだろうと、

嘆いているときがある。

そんな思い込みにとりつかれてしまうと、

他の見方ができなくなって、

一層落ち込んでしまったりする。

人は弱い。

うまくいかないことを 何かのせいにしたりする。

親が悪い。 環境が悪い。 周りが悪い。 先生が悪い。 社会が悪い。

でも、本当にそうだろうか。

実は、十分に恵まれている。

目が見えるし、 自分で歩ける。

家族がいる家もある。

自分より上の生活をしている人、

自分よりちょっと頭のいい人、

そんな人達を見て不平、不満を言っても仕方がない。

壁を自分に作ってはいけない。

自分だけが持っている 自分の力、

自分の思い、

それがあれば乗り越えられる。

You are the captain of yourself.

愛宕参り

1月9日(日)お札をもらいに今年もまた愛宕山を登った。

年末からの雪で昔かわらけ投げをしていたところからは、

しっかり積もっており、アイスバーン状態であった。

冷凍室にいるような感じで吹き付ける風がとても冷たかった。

今回は、ぜんざいも作って昼食とした。

 

 

 

2011年 初サイクリング 大和郡山

Jan. 8, 2011

自宅発(7:20)…流れ橋着(8:30)…玉水橋着(8:50)…西木津駅着(9:20)…平城宮着(9:40)…薬師寺着(10:40)

…郡山城跡着(11:50)…三条大路5昼食後出発(13:30)…玉水橋着(14:30)…流れ橋着(15:00)…自宅着(16:30)

TREK 7.9FX

自転車走行時間:6時間15分

走行距離:110.92km

平均速度:17.7km

最大速度:44.6km

 日本列島が冷凍室にすっぽり収まったような、とても寒い一日であった。およそサイクリング日和ではない。出かけるときには、雪がちらついていた。慌てて登山用のレインウエアのズボンを重ねはいて出発した。上は、ヒートテックの肌着に分厚いジャージ、カシミヤのベスト、そしてサイクルウエア(冬用)を着ていたが、途中で腕が寒くて、やはり登山用のレインウエアを重ね着た。これで寒さ対策はOK。寒くはなかった。しかし、耳当てだけで帽子をかぶらなかったので、サイクルヘルメットのスキマからから寒風がびんびんと吹き付け、頭がキンキンと寒かった。手袋も2枚重ねていたが、しばらくは指が冷たくかじかんで仕方がなかった。  

 30分ほど乗っていると、次第に運動熱で身体が温まり、手の寒さは落ち着いてきた。こうなるとレインウエアを着ていると熱がこもって一層汗をかくので、脱いでバックパックにしまった。  

 空気がとても冷たく、冷気のため鼻に感覚がなくなるくらいであった。後ろを振り返ると、西山や北山、比叡山が白く雪化粧であった。とにかく寒い。軽い自転車なので、往路は元気よく30km前後のスピードで走った。寒気を切り裂いて走っている感じであった。 鋭いナイフで自分が寒気を切っているのか、寒気が自分を切っているのか、分からないような感覚であった。京都から木津までの自転車道での往路では5人くらいのサイクリストと出くわしたくらいであった。普通はこんな日には走らないだろうなと思った。ただこんな冷気の中を走ると何も考えず、ただペダルをこぐことだけを考えるだけであった。まるで、禅の修行をしているようであった。  

 自宅を出て、2時間20分で平城宮に着いた。大極殿宮内には自転車では入れないので、自転車を置いて、大極殿の中を見ようと思い広い宮内を歩いて建物近くまで行ったが「拝観できません」の札があり、中に入ることはできなかった。遷都1300年で賑わった平城宮も今日は閑散としており、観光客は数えるほどしかいなかった。地元のおじさんたちがジョギングや後ろ向き歩きの運動をしている普段の平城宮跡の様子であった。ひとり、30代後半くらいの女性旅行客がセルフタイマーで大極殿をバックに写真を撮っている姿がほほえましかった。この寒さの中一人旅をどのような思いでしているのだろうかと、テレビドラマ的に考えてしまった。

 さて、 ここに来るまで木津川沿いの簡易トイレで2回用を足した。水やお茶はほとんど飲んでいないのに、また用が足したくなった。本当に寒かった。遺構見学施設横で再度トイレ休憩をして、小さなポケット羊羹を食した。飴や羊羹などの糖分補給は必要である。身体の内側からエネルギーを燃やして温かくすることと、疲労回復を図らなければならない。寒さのためいつもより疲労度が高くなるのはどうしようもなかった。  

 そこから、奈良自転車道を通って唐招提寺・薬師寺へと向かって走った。秋篠川沿いのこの自転車道、昨年の春来たときより緑の道路塗装がきれいになっていた。 すぐに薬師寺に着いた。昨年、弟が前立腺ガンの手術を受けた時にお参りに来た。三蔵法師の「不東」のお守りを弟に買った。願いが成就するまでどんな困難があっても、決して東に戻ることはない。ひたすら西国のインドに向かうだけと不屈の精神を詠っているお守りであった。  

 腎臓透析を30年に亘って受けている弟が少しでも健康でいられますようにと薬師如来に念じた。今年は仏陀の足跡のストラップを買った。頑張る弟に薬師如来のご加護がありますように。

  薬師如来像はお正月なのか、扉が開いており伽藍の外からでもよく見えたので、外から写真を数枚とった。自宅にいても薬師如来を眺めることができる。こころを落ち着かせたいときに眺めたいと思う。  

 薬師寺近くの大池から二つの塔を見る写真スポットに向かった。場所がうろ覚えで行きすぎて、たまたま歩いていた人に尋ねて教えてもらい、戻ってやっとスポットにたどり着いた。池を通り過ぎる風は冷たかったが、高倍率のカメラを今回は持って来ていたので、先回よりは納得できるレイアウトとなる写真が撮れたと思う。

 それから、今日の最終目的地としていた、大和郡山へ向かった。今年度前期に教えていた学生が郡山高校の出身で、一度自転車で行くからと言っていたことを思いだしたので、郡山城跡を目的地としていた。寒くなければ、斑鳩の法隆寺まで行こうと考えていたが、今日の寒さは尋常ではなかった。郡山でも雪がちらつくような寒さであった。郡山城跡が見えたときに、また用を足したくてたまらない状態になった。お城の前の郡山ホールに駆け込んだ。

 郡山高校が隣接している郡山城跡は櫓を残すだけである。豊臣秀長の居城であった。あと昔の城下町の面影が残る紺屋町へ寄った。菊屋というかなり古そうな菓子屋や藍染めの紺屋の町並みを見て、引き返した。

 昼食は三条大路の外れにある王将で日替わりランチを食べた。餅入りのラーメンと半分サイズのチャーハンにエビのあんかけ、最後にコーピーがついて680円と良心的な価格であった。昼食をとりながら、迷った。あまりに寒いのでこのままJR奈良駅に向かってそこから輪行で京都へ戻ろうか(そのための輪行袋をバックパックに入れていた)、頑張って自宅まで自転車で戻ろうかと。奈良駅までは10分くらいであった。昼食は13時に店に入った。3時までに戻る楽な帰路をとるか、この寒さもう一踏ん張りするか。その時点での走行距離は62kmくらいであった。これじゃ運動にならないかと思い、寒い中を自転車で戻ることにした。

  平城宮跡を過ぎ、西木津あたりまでは快調に飛ばして走った。が、ここからが大変であった。自転車道は、北風。向かい風であった。真冬の冷たい風がそのあと八幡に着くまでずっと吹きつけてきた。寒さで鼻がつまる感じであった。いくら漕いでも風圧で思うように進まない。風の抵抗でどうしようもない。もう少しからだが小さければいいが、風を身体全体で受けている感じであった。それに冷たい北風である。平均時速15kmが関の山。自分に力が無いなと思った。背負っている荷物は、輪行袋トレインウエア上下、結果的に要らなかったものでこれも重たく感じた。風を一番受けている左腕が、寒さで左肩がこり出してだるくなったり痛くなったり、また、太ももも寒さで筋肉が急に痛み出したりした。まいった。堪えていると落ち着き、頑張って走らねばと思っていると、前方に送電線の鉄塔を修理(塗装?)している作業員お人達が見えた。相当高いところで作業をしていた。こんな風のきつい日、吹き飛ばされたら大変だと思った。目がくらむ高さであった。すごいなあと感動した。こちらも頑張ろうと思った。往路より少し長く時間がかかったが、なんとか八幡まできた。ここからは桂川・鴨川と土手の自転車道を走らず、旧1号線を帰ることにした。建物があるので直接吹きさらしにいることはない。向かい風はもう十分であった。 腰も冷えで痛くなり出したが無事自宅に着いた。4時半であった。

 とても疲れた。すぐに風呂を沸かし、入浴した。足が冷たくなりすぎていたので、お湯がびりびりと感じた。手の指も同様であった。 身体全体が疲れている。座って起き上がるにも腰にしっかり力を入れないと起き上がれない。今回はかなりきつい1日であった。が、研ぎ澄まされたこころを持つためのいい修行であった。

 疲れを和らげて、書斎でコンピュータを起ち上げ、メールを点検した。びっくりする知らせが入っていた。1年と2年の時にある科目を教えていた学生が病気のためこの正月2日に亡くなったという訃報であった。今年度3年になって秋学期から休学していたらしい。一生懸命なまじめで力のある学生であった。受け持っていたとき時折休んだり、1時間目の授業の時には遅刻をしたりしていたのは、そのせいであったのか、初めて知った。知っていれば、一言でも勇気づける言葉を送ってやることができたかもしれない。病気のことは知らなかったが、彼女とは明るくよく話をした。廊下ですれ違うときは私の名前を呼んでいつも声をかけてくれた。無念である。知らせによると、彼女の住まいは、何と大和郡山であった。きっと彼女が来て欲しいと呼んだのだと思う。この寒さの中走り通したこと、彼女の思いもあったのではと思う。とても短い人生を精いっぱい生きた彼女。こうして生きているだけですばらしいと思う。こころから冥福を祈る。今この自転車記を綴ってHPにアップしているこの時間、彼女のお別れが始まっている。参列せずに私は自宅でこの時間、彼女のことを思いながら過ごそうと思う。こうして健康でいられることに感謝して。

 

西山は雪景色            竹藪が凍っている

 

昇ったばかりの朝日に自転車の影が伸びる

  

京阪八幡の鉄橋

 

木津川自転車道

 

流れ橋              玉水橋

 

平城宮大極殿         女性旅行客が一人たたずむ

大極殿バックに仁王立ち

平城宮から東大寺を眺める

秋篠川 を集団で出かける園児

薬師寺

  

月光菩薩                   日光菩薩

薬師如来

 

東院             東塔

大池より眺める薬師寺

東大寺伽藍も左に見える

   

郡山城跡

 

城下町街   菓子老舗菊屋               紺屋

 

鉄塔で作業をする人達

何とこんなに高い鉄塔 下から三段目の赤い部分で作業をしている

帰路流れ橋に着きほっとしている

正月点描

 

 

清水寺

 

  

清水坂          産寧坂            二年坂

 

  

新年 あけまして おめでとうございます。

大晦日は朝から雪でした。近くの東福寺へ行き雪景色を写真に収めました。

夜は東福寺へ除夜の鐘をつきに行きました。今年は9番目。

今年も良き年でありますように。

女の子はいつも「何か」を求めている。

でもその「何か」が分からないので、 堂々めぐりをしている。

それでいて、「何か」足りないなと思っている。

新しい年が始まった。

今年は「何を」求めて前へ進んでいこうか。

希望・夢、 それは心の錨だ。

年齢を問わず、男であろうと女であろうと、

希望を必要としない人はいない。

ただ、希望のあるところには 必ず試練がある。

立ち向かう困難、 重ねる失敗、 仲間との絆、 思い描いたものとは少し違う結果、

それらがその人らしさをつくる。

大切なのは、 「何を」重視するかだ。

何もかもを追い求めることはできない。

力不足と思えば修正することも必要だ。

「何か」を切り捨てることも必要だ。

それでも、 夢や希望を持つことだ。

夢や希望で終わってもいいじゃないか。

人生それだけで豊かになる。

希望は、 人を成功に導く信仰であるから。